このブログを検索

2021年5月17日月曜日

土の探求―左官技術のトランス・ナショナル 「御所西の町家」  進撃の建築家 開拓者たち 第12回 開拓者14 森田一弥(前編)

 進撃の建築家 開拓者たち 第12回 開拓者14 森田一弥(前編) 左官と土のトランス・ナショナルーポッドとヴォールト 「CONCRETEpod」『建築ジャーナル』 20178(『進撃の建築家たち』所収)



開拓者たち第12回 開拓者14 森田一弥前編                   建J  201708

 

 土の探求―左官技術のトランス・ナショナル

「御所西の町家」

布野修司

 

森田一弥(図⓪)は京都市左京区に事務所を構えている。左京区といっても広く,静市(しずいちいち)(しず)原町(はらちょう)かなりの山奥である。周辺には長閑(のどか)な農村風景が拡がる(図①a)。しかし,その眼はグローバルに開かれており,仕事も世界を股にかけて拡がりつつある。自宅兼用で所員に比して事務所スペースがやや狭そうであったが,ごく最近隣接する農家を買うことができたという。インターンで来ている外国人も所員も都心からバイクで通ってくる(図①b)。街なかに出掛けるのに車があれば大きな支障はない。情報社会だから国際的コミュニケーションも問題はない。



連載第2回(渡辺菊真(開拓者01))で触れたけれど,森田一弥は,僕が京都大学で最初に出会った学生の一人である。母校の准教授になった(2015年)平田晃久など黄金の世代の一人である。当時,布野研究室の院生の枠は2名で,ストレートで入ってきたのは森田とアルファヴィルの山本麻子である。森田一弥は,しかし,院に入ると同時に休学してしまう。学部学生の頃は休みを見つけては渓流でカヌーをしていたというし,最初からどこか独立独行の雰囲気があった。休学して世界漫遊するというから,もう少し建築を知ってからの方がいいと内心思ったけれど,折角行くんだから,郵便ポストでマンホールの蓋でもいいから,何か決めて写真を撮ってきなさい,といったことを覚えている。大学で教えられるのは日本建築史と西洋建築史だけだからアジアの建築を見たかったと振り返るけれど,ギター片手に歩いていて,結婚することになるパートナーと出会ったのはエジプトのルクソ-ルだという。あと,学生時代について記憶にあるのは,コンペで実施が決まった加子母木匠塾の作品(宿泊所)である。真黒に塗られた木造キューブで様々な開口部が仕組まれている(図②ab)。才能あるな!とその時思った。




滋賀県立大学に非常勤で来てもらっていたので時々は会って,犬上川での投網の鮎獲りを楽しんだ。今度,初めて事務所を訪ねた。そして,何回かに分けて,「ラトナカフェ」「法然院の家」「紫竹の町家」「篁」「Shelf-pod」「御所西の町家」を見せてもらった。

 

 左官修業

修士論文は,チベットのラサについて書いた[1]。チベットは,今調査ができる状況にないが,当時も容易に訪れることができる場所ではなかった。僕もポタラ宮だけは見たいと思いながら今日に至るまで行ったことがない。修論も,従って,単独調査がもとになっている。円環状の巡礼路をもつラサは都市構造として極めて興味深い都市であり,その後,研究室では,柳沢究(現京都大学准教授)が同様の円環構造をもつインドのヴァーラナシをターゲットにすることになる。

ドクターコースへの進学を考えていたのであるが,いくつかの事情がそれを許さなかった[2]。それで意を決したのか,もともとそのつもりだったのか,「しっくい浅原」で左官の修業を始める。1997年から6年間,金閣寺をはじめとする国宝,文化財級の建築の補修に関わるのである。僕が「アーキテクト・ビルダー」という理念を引き摺り続けているせいもあるかもしれない,時折,布野研究室から職人を目指す学生が出る。東洋大の一期生本村晃には触れたが(本連載0520171月号),田中文男大棟梁の真木建設に潜り込んだ竹村雅行(日本建築専門学校)もそうである。

しかし,何故,左官だったのか。左官の仕事がますます少なくなっていくことはわかっていたはずである。壁を塗る技術の取得には見るからに年期が要りそうである。鏝板に左官素材を受けて捏ね鏝で垂直の壁に貼り付けていく一連の動作は芸である。その職人芸に魅せられたからというわけではないだろう。また,「鏝絵」,漆喰彫刻に興味を持ったということでもないだろう[3]

塚本由晴との共著『京都土壁案内』(学芸出版社,2012年)(図③)を読むと,もともとは,京都の文化財の修復現場で働きたかったのだという。伝手を頼って模索するなかで「しっくい浅原」の親方,浅原雄三さんを紹介された。浅原さんは出身の三重県で左官修業した後に上京し,文化財の現場でさらに腕を磨いて京都を拠点に独立(1990年)したというが,森田が入門した当時の「しっくい浅原」は,全国から腕利きの職人たちが入れ替わり立ち替わり出入りし腕を競う,左官界の梁山泊となっていた。

そして,自分が練って運んだ土の材料が美しい壁に仕上げられて行く腕利き職人たちの仕事を毎日目の当たりにして,「自然素材を自分の身体で思うがままに操るすべを身につけた人間の格好良さと,そうしたプロセスを経て出来上がる建築の魅力に心底惚れ込んでしまった」のであった[4]


 

 京都土壁文化

森田一弥が,左官職人そのものになろうとしたのではないことははっきりしている。左官職人をしながら,渡辺豊和が主宰する「春秋塾」という建築塾に渡辺菊真と一緒に通っていたのを知っている。それに一級建築士の資格を取るとすぐさま事務所を立ち上げている(2000年,森田一弥建築工房。2008年,森田一弥建築設計事務所と改称)。また,事務所を登録する一方,柳沢究(代表世話役),山田脇太らとともに神楽岡工作公司[5]というグループを結成している(2000年)。独立した個人のネットワークが仕事の基礎になることが意識されていたと思う。さらに,「誇大妄想建築展」と題する建築ドローイングの個展(2001年,日本イタリア会館(京都))を開いている(図④)


もちろん,建築家として自立していくうえで左官修業が大きな財産になったことは言うまでもない。浅原さんの仕事が文化財の修復を主にしてきたことが大きい。京都の水準の高い伝統建築,いわば日本建築の粋を現場で徹底的に見る機会を得るのである。『京都土壁案内』には,左官修業で培った眼が随所に示されている。取り上げられているのは,「法界寺阿弥陀堂」「妙喜庵待庵」「三十三間堂」「東本願寺」「大徳寺」「渉成園」「角屋」「京都御苑拾翠亭」「京都御所」「下御霊神社」「一力」「長楽館」,京都に15年住んだ僕ならずとも,京都を訪れる誰もが足を運ぶ建築である。土壁にも,「蛍壁」「ぱらり壁」「大津磨き」「引きずり壁」「ベンガラ壁」「なまこ壁」「太閤塀」「築地塀」「瓦塀」など実に豊かな世界があることを改めて思う。そして,京都では,聚楽土,稲荷山黄土,九条土,桃山土,浅葱土,錆土などと呼ばれる個性豊かな土が採れた。聚楽土は聚楽第付近,錆土は東山,後は南区から伏見区にかけての一帯の土である[6]。歴史的な建物を解体する場合にはそうした土が出るから,それを集めて使うこともあるという。

 

 繭Mayu=ポッド

最初の仕事は「mayu」(2000年)である。そして,内装の仕事「BAR たかはし」(2001年),「ラトナカフェRATNA CAFÉ」(2002年)が続く。「繭」は,京都に典型的な「ウナギの寝床」状の敷地に大正末期に建てられた京町家をカフェ・店舗に改装した。柱,梁以外ほとんど使い物にならず,解体された町家や修復中の寺院などから古建具や古土,古瓦等を寄せ集めてそれらを最大限利用した。若手職人や建築を学ぶ学生など多くの人が参加した設計施工(デザインビルド)というかセルフビルドの建築である。「繭」は「JCD(日本商環境デザイン協会)デザイン賞 新人賞」(2001年)を受賞する。ラッキーであった。そして,マンション内の茶室「寿庵」(2004)など次第に仕事が舞い込むようになる。町家のリノヴェーション,内装は,その後も仕事の一貫するベースとなる。左官修業時代に培った職人さんたちのネットワークがその仕事を支えているのだと思う。

何故「繭」という作品名だったのだろうか。繭Cocoonとは,幼虫を保護する覆い,膜のことである。やがて孵化していく幼虫に自らを重ねたのであろうか,あるいは絹糸となる蚕をイメージしたのであろうか。森田は,一方で,「ポッドpod」と呼ぶ「コンクリート・ポッドConcrete Pod(2005)など一連の作品をつくり始める。ポッドpodとは,種,豆のサヤ(long thin case),格納庫(long narrow container),魚とり籠などとあるが,繭のような細長い卵形の薄膜容器のことである。予め意識していたのであろうか。

 

ブリコラージュ

「繭」では,伝統的京町家の部品,部材をかき集めた。古材や古建具,古土などをかき集めて再生させた。ブリコラージュの手法である。「ラトナカフェ」(図⑤ab)は,繭」と合わせて日本建築士会連合会賞奨励賞を受賞する。何度かお邪魔させてもらったけれど,傑作だと思う。金属製の階段とブリッジ,そして障子の赤が効いている。完成度は高い。



町家(店舗併用住宅)のリノヴェーションであるが,ここでも,当初の材料と技術を前提に再生するために廃棄された建具,照明器具,板材,壁土などを可能な限り集めている。既存部分には,可能な限り,建物が建てられた当時と同じ材料,技術を用いようとしている。しかし,伝統的な町家の復元修復を目指すのでも,伝統的日本建築の素材のみに拘るわけではない。鉄製の階段やデッキはむしろ意識的に用いられている。腰板には亜鉛塗鉄板が用いられ,床に焼成煉瓦が用いられるように,新たに設けた箇所,階段,ブリッジ,撤去した床などには全く新たな工業材料を用いている。左官についても,新旧の技術を使い分けている。コラージュというより,対比的手法というべきか。ポイントで工業材料を用いるところは,数寄屋と言えば数寄屋で,新興数寄屋風である。

森田が,方法として,現場でのブリコラージュを意識していたことは,自ら「コラージュハウス」(2004)と呼ぶ改修増築の作品を手掛けていることが示している。「現在の京都で見慣れたガラスやタイル,コンクリートブロックやガルバリウム鋼板,昔ながらのスギ板や土壁など新旧の素材,空間,技術をコラージュ絵画のように組み合わせて,現代にふさわしい快適で変化に富んだ空間を実現したいと考えた」。

 

建築の履歴―素材・工法の記憶

方法としてのコラージュあるいはブリコラージュ,新旧の対比といった手法は,その後,必ずしも一貫して追求されてきたようには見えない。町家のリノヴェーションの仕事としては,「大津磨き」など培った左官技術を期待される作品もある。本人は,「御所西の町家」(2013年)で,新たな方向が見えてきたという。

「御所西の町家」(図⑥abcd)を「建築が本来内蔵するはずの豊かな時間性を,再び建築に取り戻すための小さな試み」といい,「既存の空間が経てきた時間だけでなく,建築を構成する各種の「形式」や「工法」のもつ「時間=歴史」にも着目し,未来だけでなく過去に向けてそれぞれを変化させることで,単なる素材の新旧の対比だけでなく,より多元的な時間を感じられる空間が立ち現れることを目指した。」という。繭」「ラトナカフェ」の段階で考えていたのは,その建物が建てられた時代と現代との対比である。しかし,その建築を成り立たせた「形式」や「工法」については,さらにその歴史を遡行し,それを表現するのだという。どういうことか。






荒壁のままの箇所がある。どころか,「大直し塗り」「中塗り」など,本来は下地の層をそのまま見せている箇所がある。すなわち,工程がわかる仕掛けになっている。残した既存の壁の部分は,中塗り壁の上に一部大津壁が塗られているが,黒ずんで古く見える。塗られた時期は古いが,工法的には新しい。大津壁を剥がすと中塗りが現れるが,この剥がして塗り直す(補修する)というのは最近の手法である。古い壁を撤去し,断熱材を充填して,竹小舞を編み,荒壁を塗った「荒壁」は,あちこちがひび割れしていて,町家成立以前の壁の表情である。新しいけれど,工法的には最も古い。コンクリートや板の間を撤去して設けられた土間は,土を固めただけの原始的なタタキである。にがりと石灰と砂利を混ぜた三和土(たたき)よりも工法的には古く,土間の起源ともいえる土間だ。外トイレの天井には,原始的な漆喰の一種である「ぱらり壁」を塗った。京町家の木部は,ベンガラと松煙を混ぜた顔料で塗装されるのが基本であるが,新しくした柱梁は,塗装なしとした。新旧の対比に工程の前後,二重の対比関係を意図した。トイレと庭の垣根の杉皮は,杉が建材になる工程を可視化した。森田は,「土壁のレイヤー状になった工程と同時に工法の歴史的な進化の過程も可視化させる」のだという。

俄かには理解できなかったが,とにかく,時間のコラージュ,というかモンタージュである。素材と工法の新旧の時間が重層する。不思議な雰囲気であるが,土,木の自然素材がベースだからパッチワークのようには見えない。森田は,「この空間で過ごす時間が,建築の長い歴史の追体験のようなものに感じられたら嬉しく思う」という。

「法然院の家」(2017年)(図⑦ab)のように,修理,塗装を繰り返してきた建築物の歴史,居住者の生活史を刻んだその痕跡を残しながら改修する方法が模索されている。





マイノリティ・インターナショナル

左官修業を始めて,左官技術が驚くくらいに原始的で普遍的であることを強く感じたという。土塀のための日干し煉瓦をつくったのであるが,学生の時にアジア,アフリカを旅しながらみた民家の構法と大差ないのである。森田には「Tadelakt-flower」(2009)と呼ぶ,鳥の巣箱の試作(図⑧)があるけれど,タデラクトというのは,モロッコ産漆喰のことだという。事務所が軌道に乗る間もなく,スペインに渡ったのも[7]左官技術はイタリア,スペインが最も伝統があるからである。左官材料,左官技術への拘りは徹底している。タデラクトの存在を知ったのも,さらにカタロニア・ヴォールトに惹きつけられたのも,家族を伴う2度のヨーロッパ修業においてである。カタラン・ヴォールトについては早速自宅に小さな小屋をつくった。「紫竹の町家」(2016)の入口階段(図⑨)には密かに使われている。あくなき土の可能性への追求は留まることを知らないのである。



「マイノリティ・インターナショナル」と森田はいう[8]。最初耳にした時にはピントこなかったのであるが,こういうことらしい。鉄とガラスとコンクリートの近代建築のインターナショナリズムはマジョリティである。しかし,ローカルであっても,その地域で伝統的に培われてきた建築技術の中にインターナショナルに通用する技術がある。左官の技術がまさにそうである。どこでも利用可能ではないかもしれないけれど汎用性は高い。左官の技術は今ではマイノリティかもしれないけれど,少なくともトランス・ナショナルな技術である。自然生態に大きく拘束されるにせよ,木や竹など生物材料にしても,その利用方法には地域を超えた共通性がある,というのである。

学生時代の世界放浪については冒頭に振れたが,根っからのコスモポリタンなのかもしれない。ネパールの診療所づくり,マドゥライ(インド)のエコハウス・プロジェクト,中国,フィリピンのプロジェクト,今のところ大きく進展したプロジェクトはないけれど,フットワークよく世界を飛び回り続けている。




[1] 森田一弥(1997)『チベット・ラサの都市形成史に関する研究』修士論文(京都大学)

[2] 僕は助教授で博士後期課程の指導資格がない,ということがあった。赴任した当時は,助手の採用については助教授でも権限があったけれど,いつのまにか教授絶対権力制が敷かれた。修論発表会は,落とす,落とさないといった品のないバトルであった。就職の決まった学生が一年棒にふるといった異常事態も少なくなかった。この時期の京都大学建築学教室の雰囲気は思い出したくもないレヴェルの低さであった。

[3] 左官と言えば,石山修武の「伊豆の長八記念館」(1984年)を思い出す。コルゲート・パイプによる「幻庵」(1975年)によって鮮烈デビューした後,続いて「菅平の家」のようなコルゲートのシリーズを展開する一方,木造のジオデシック・ドーム(「渥美二連ドーム」(1976年)「卵形ドーム」(1981年))をつくるなど実に多様な活動を展開するのであるが,オーソドックスな建築家として認められることになるのが吉田五十八賞を受賞する「伊豆の長八記念館」である。これは身近にいたからよく覚えていて『建築少年たちの夢』(第五章「セルフビルドの世界 石山修武」一建築トリックスター 石山修武の軌跡)にも書いたけれど,石山修武が自ら仕掛けたものである。ほぼ一年かけて構想をまとめ,全国の左官が読む『左官教室』(特集「伊豆長八読本」)に発表,時の松崎町の依田敬一町長が乗ったのが経緯である。その後の実に見事なまちづくりへの連続展開は『職人共和国だよりー伊豆松崎町の冒険』(晶文社,1984)にまとめられている通りである。

[4] 左官の仕事のうち,鏝を持って壁を塗る作業はほんの一部である。第一,入門しても数年は現場で鏝を持つことはないのだという。現場の養生・掃除,材料の準備・配給,道具洗い,「一服」(休憩)のお茶・菓子の準備が見習いの仕事という。現場のセッティング,段取りを徹底して学ぶのである。壁塗りについては,見て盗む,仕事の後に練習するんだという。2,3年すると,ようやく人目に付きにくい押入れの中や庇の隙間を塗ってみるのが許される。「一服」の時に年配の職人さんの話を聞くのは,実に貴重で,「至福の時間」だったという。

[5] 樋貝憲治(造園),門藤芳樹(構造設計),水谷 (庭師),井上大藏(建築保存・修復),鈴木健太郎(数寄屋大工),奥村彰浩(建築設計・ガラス屋),久住鴻輔(左官),佐野健介(庭師),戸田 直美(家具デザイン・製作)他。神楽岡工作公司(カグラオカ・コウサク・コウジ)は,設計者,研究者,職人など異なる職能の人々が集まり,協働することでより高いレヴェルの創作活動を行う場として2001年春に設立されました。活動拠点は京都吉田山山麓の古町家。名称は所在地名である「神楽岡(吉田山)」にちなんでいます。 神楽岡工作公司は,通常の「設計事務所」や「デザイン事務所」「工務店」とは異なり,独立して仕事をもった個人の集まる,一種のネットワークです。 月一回の神楽岡会(スライド会)を中心に,京都で活動するものづくりに関わる様々な人々の発信・交流の場となることをめざします。さらに実際の設計・施工,プロジェクトに取り組む中で,既成の職能や流通の枠を越えた柔軟な創作活動を展開するために,様々な人とチームを組んでいきます。神楽岡工作公司はそのような結節点でありたいと思います。

[6] 鴨川沿いに堆積した土の特色に地質学的な理由があるのではないかと,ネットで「九条土」を引いたら岩崎建築研究室,岩崎泰のブログ(http://blog.livedoor.jp/iwasakiyasushi/archives/51708900.html)の説明が出てきた。岩崎泰も京都大学布野研究室出身である。卒業後,数寄屋に特化した設計事務所に就職,そして独立して今や数寄屋建築の第一人者だと森田,魚谷の両君も何かとお世話になっているという。

[7] バルセロナのエンリク・ミラージェス&ベネデッタ・タグリアブエ事務所Enric Miralles Benedetta Tagliabue Arquitetes(ポーラ美術振興財団 若手芸術家在外研修員20072008),カタルニア工科大学バルセロナ建築学 客員研究員(文化庁 若手芸術家海外研修員2011-2012)。

[8] 森田一弥「マイノリティ・インターナショナル」『雑口罵乱』④(2010

2021年5月16日日曜日

  建築まちづくりの最前線―運動としての建築 「OM TERRACE」藤村龍至

 進撃の建築家 開拓者たち 第11回 開拓者13 藤村龍至 建築まちづくりの最前線ー運動としての建築 「OM TERRACE」『建築ジャーナル』 2017年7月(『進撃の建築家たち』所収)


開拓者たち第12回 開拓者14 藤村龍至                     建J  201708

 

  建築まちづくりの最前線―運動としての建築

OM TERRACE

布野修司

 

藤村龍至(図⓪)に初めて会ったのは、滋賀県立大学の学生組織「談話室」の講演会(2010526日)においてである。その「グーグル的建築家像を目指して 批判的工学主義の可能性」は、実に筋立てのしっかりした講演であった。振り返って検めて(あらためて)知ったのであるが、前年4つの展覧会[1]を主催、驚異的な来場者を動員、風雲児として日の出の勢いの最中(さなか)であった。


東京工業大学社会工学科を卒業、大学院では建築学専攻(塚本由晴研究室)に進学、博士課程在籍中に事務所を設立して、設計活動を開始している。僕らの時代には、ごく一般的なパターンである。大手組織への就職は建築家への道とは考えられてはいなかった。著名建築家のアトリエに就職するか、博士課程に籍を置きながら実務経験なしに設計を始めるか、どちらかであった[2]

藤村龍至は2010年に東洋大学の専任講師となる。34歳。僕は1978年、28歳で講師になった。川越キャンパス開設50周年(2011年)に、東洋大OBということで、原(広司)さんとともにシンポジウム[3]に招かれた。東洋大の後輩ということで何となくシンパシーがある。20164月、招かれて東京芸術大学の准教授となる。40歳。審査論文を1本も書かずに42歳で京都大学の助教授になったわが身を振り返って思うに、前途遼遠かつロング・ロング・ウェイ・トゥー・ゴーである。

 

 「社会建築」をめざして

 理論家である。「批判的工学主義」あるいは「ソーシャル・アーキテクチャ」をうたう。それを支える設計方法論「超線形プロセス論」の展開がある。また、それを担う新たな職能への展望がある。さらに時代の流れを読み、世界の建築戦線をわかりやすく整理する批評家としてのセンスがある。そして、フリーペーパー『ROUNDABOUT JOURNAL』、ウエブマガジン『ART and ARCHITECTUREREVIW』を企画発行するエディターでもある。キュレーターでもあり、オルガナイザーであり、アジテーターでもある。 東浩紀(『思想地図』、ゲンロンカフェ)に鍛えられたというが、この社会、政治、国家へのアクティブな姿勢は、それこそ藤村のいう「1995年以後」の世代には珍しいのではないか。「建築と社会」でも「社会の中の建築」でもない。「社会」を「建築」する構えである[4]

 

 「表層派」vs「深層派」

 「批判的工学主義」とは、「工学主義」[5]を否定する「反工学主義」ではなく、「工学主義」を新しい社会の原理として受け入れ、分析的、戦略的に再構成する新しい「(建築)運動」である。藤村のいう「工学主義」とは、誰が設計しても同じような、画一的、標準的な建築になる、という意味である[6]。見えない権力(制度)が、建築のありかたやそれと関わるわれわれのふるまいを膨大なデータをもとに工学的な手法やトゥールによってコントロールしつつあるという新たな状況認識がある。

アジアのイスラーム都市の迷路を歩き回りながら、相隣関係のルールやワクフ(寄進)制度がモハッラ(近隣コミュニティ)の空間構成を規定していることを発見(理解)したのであるが、こういう条件でシミュレーションしたらイスラーム街区のかたちそっくりですよと卒論生に指摘されて愕然としたことがある。無数の居住者の居住の歴史が500年もの間重ね合わせられて出来上がった都市組織のかたちが一瞬のうちにそれなりに再現できてしまう。「批判的工学主義」とは、使えるデータはしかるべき「工学的」メディア、トゥールを駆使して利用しろということであろう。

面白いのは、「工学主義」vs「反工学主義」を「深層派」「組織設計事務所」「ゼネコン設計部」vs「表層派」「アトリエ事務所」のディコトミーとしていることである[7]。「反工学主義」とレッテルを張られた「アトリエ事務所」は怒りそうであるが、巨大プロジェクトにおいて、アトリエ派のスターアーキテクトたちが単なる「意匠デザイナー」として位置づけられる事態がこの間進行してきたことは否定しようがない。設計施工の分離を前提としてきた建築家の存在基盤は大きく揺らぎ、「デザインビルド」がむしろ一般化する状況にもある。注目すべきは、「批判的工学主義」という主張が全く新たな「第三」の建築組織のあり方の主張と結びついていることである。先の講演会で1,000人の組織を目指す!と宣言、学生たちの眼を丸くさせた。石山修武がかつて「ゼネコンを一つぐらいぶっ潰す」と言っていたことを想い出すが、その意気やよしと思った。

 

 超線形設計プロセス論

 そして関心の的となるのが、「批判的工学主義」の設計方法「超線形設計プロセス論」である。模型をつくりまくる、そして、ジャンプしない、枝分かれしない、後戻りしない。材料がもったいないのではないかと思えるほど膨大な数の模型がつくられているのに圧倒される。CADBIMなどを駆使するというのでは必ずしもない。いささかプリミティブに思えるけれどわかりやすい。作品の設計プロセスが模型で立体的に示されるのであるから一般のクライアントにも理解しやすい。「SHOP(UTSUWA)」(2005)「BUILDING K」(2008)「東京郊外の家」(2009)といったこれまでの作品についても徹底して模型がつくられている(『プロトタイピング-模型とつぶやき』(LIXIL出版、2014))。

 「談話室」の講演でも、わかりやすいからであろう、この「超線形設計プロセス」なる方法についての質問が集中した。その時のやりとりは記録[8]されているから繰り返さないけれど、方法論に潜むクリティカルな問題は、1.与条件はどのように決定されるのか、誰が決定するのか、2.設計案(解答)は如何に一元化されるのか、全てのヴァリエーションをつくすことは可能か、3.決定プロセスをリニアに進めるのためのクライテリアの優先順位はどのように決定されるのか、プロセスは如何に収束するのか、4.フィードバックを認めず、ジャンプを認めないとすれば、フールプルーフ(チェックリスト)をクリアするだけの凡庸な建築にしかならないのではないか、5.設計プロセスに直接関与しない一般の人にはどのように評価されるのか、といったところである。

 藤村龍至は、磯崎新の「プロセス・プランニング論」とC.アレグザンダーの『形の合成に関するノート』を批判的に継承するのが「超線形設計プロセス論」という。実は、僕の卒業論文『構造・操作・過程―構造分析への試み―』(1972年)は、C.アレグザンダー論である。“Notes on the Synthesis of Form”を読んで、その核心であるコンピューター・プログラムHIDECS(Hierarchical Decomposition)を書いた[9]。だから、”Notes”の問題(使えない!)はプログラム・レヴェルでわかっている。しかし、設計プロセスを可能な限り論理化して、一般に開くという問題設定には大いに共感し、評価してきた。C.アレグザンダーをシンポジウムに招いて直接話したこともある[10]。むしろ興味を持ったのは“Notes”以後の展開である。 C.アレグザンダーは、“Notes”の決定論の致命的欠陥を知るが故にパターン・ランゲージ論(『パターン・ランゲージ』)に移行していったのであり、建築生産施工の問題を組み込むことが不可避であるが故に生産システム(『住宅の生産』)へ向かったのである[11]。設計プロセスを可能な限り論理化し、公に開いていく方法として僕が使えると思ったのは、「パターン」を「カスケード(滝)」表現したもの(計画決定の優先順位、パターンのウエイト、諸関係を提示、プロセスはオールタナティブ(枝分れ)を含む、ショートカットもありうる。)を開かれた場で作成し、それを用いた設計案を競う方法である。

 

 設計教育・まちづくり・合意形成

 いつか作品をみたいと思っていたのであるが、本誌西川直子編集長のアレンジで近作2つを一緒に見る機会を得た。「鶴ヶ島太陽光発電所環境教育施設」(2014年)(図①abc)と竣工間近の「OM TERRACE(大宮駅東口駅前おもてなし公共施設)」(2017年)(図②abcd)である。このふたつについては予めその背景を知る機会があった。東京新国立競技場のデザインビルドをテーマにしたフォーラムで、日本型建築ものづくりをめぐるインテグラル(擦り合わせ)型アーキテクチャvsモジュラー(組み合わせ)型アーキテクチャ)の対比(野城智也・安藤正雄他『建築ものづくり論』有斐閣、2015年)に絡めて、2つのプロジェクトの背景と方法を紹介してくれたのである(http://touron.aij.or.jp/2016/04/1827[13]。先に触れた「カスケード」というのは、モジュラー型に分類されると思う。藤村は、プログラミングの世界では「ウォーターフォール型」[14]から「アジャイル型」[15]へが流れとなっていて、「アジャイル・プログラミング」の考え方を建築設計に応用するという。「カスケード(滝)」は明らかに「ウォーターフォール(滝)」である。「超線形設計プロセス」に短期の反復フィードバックを組み込もうということであろうか。さらに議論する機会があればと思う。





 「鶴ヶ島太陽光発電所環境教育施設」(2014年)と「OM TERRACE(大宮駅東口駅前おもてなし公共施設)」(2017年)は、いずれも、大学(東洋大学、東京芸術大学)の設計教育プログラムを背景として実現した作品である。「設計のプロセスで段階ごとに模型をずっと保存していく」、「プロセスを並べて最終形とプロセスを等価に評価する」、「評価には全員が参加する」といった設計教育の基本方針には異議はない。CADソフトが設計教育を全面支配する中で、模型で徹底して考えること、そしてその評価を公開の場で行う意義は極めて大きい。設計教育に携わる教員たちにも共有され、実践されていると思う。ただ、藤村龍至のこの2つのプロジェクトのように課題を公共の場に開いて、実践的課題とする例は少ないのではないか。多くの大学で地域貢献が求められ(文部科学省のCOCCenter Of Community)施策)、多様な試みがなされつつあるが、大変な労力とネットワーク力が必要だからである。






そして、藤村流ワークショップの手法は、公共のまちづくりの手法として、すなわち、合意形成の手法としてなじみがいい。国、都道府県、市町村が設ける委員会において多用されるようになったワークショップを開いて多様な意見を集約する、ポスト・イットに書いて貼り、それを公開の場でまとめてみせるといった型にはまったやり方には限界がある[16]。形式的な合意形成として機能する場合がほとんどである(拙著『景観の作法 殺風景の日本』京都大学学術出版会、2015年)。藤村のアプローチにはそれを突破する可能性がある。大宮については、UDCO(アーバン・デザイン・センター・大宮)の設立にこぎつけた(図③abcd[17]




 

プロトタイプと作品―架構とディテール

2つの作品は小規模の作品であるが、いずれも、大きなまちづくりプログラム(「鶴ヶ島プロジェクト(2011-2015)」「大宮東口プロジェクト(2013-2016)」)の小さな第一歩である。「鶴ヶ島太陽光発電所環境教育施設」は、鶴ヶ島市内に工場をもっていた企業が太陽光発電所を建設するに際して、小さな小屋(展示室・教室)を環境教育用に設けたものである。「グッドデザイン賞」を受けたというが、卒のないー剝き出しのビニールコードとか、ファサードに邪魔なガードレールとか、停留所ともう少し一体的にデザインできなかったかとか、通りに剥き出しに置いたクーラーの室外機は一箇所にまとめたというけれど敷地の内部に向けて収めた方がよかったのではないかとか、気がつくところはあったがーインティメートな佳品である。庭の鉄のパーゴラのディテールに一番時間をかけたという。完全にエネルギー自律型の建築イメージを強調し表現する手はなかったかとも思うけれど、こうしたディテールへの拘りは楽しい。

OM TERRASS」は、トイレと駐輪場そして2階テラス(ポケットパーク)という小さな建築である。このプロジェクトについても、多数の模型がつくられていて、すぐ近くのアーバン・デザイン・センターでみることができる(図④ab)。ただ、そうオールタナティブがあるわけではない。大宮駅からの人の流れを2階のテラスへ導いて、溜まりをつくり、S字状に街へ降ろしていく、というのが骨格である。ここでも、鉄骨のディテールに眼が留まる。柱は、三寸五分の径の鋼管に拘ったという。建築の基本には、こうした架構のシステムとモデュラー・コーディネーション、そしてスケールとディテールの世界がある。

竣工間近の現場で、藤村龍至は「色」の決定を求められていた。公共建築と「色」については、苦い経験が何度かある。つい最近も壁の色が問題ではないかと議会でクレームがつきそうになった事件があった。「色」の選好はそれぞれであって、近代の色彩理論で説明しきれるものではない。また、投票で決定すればいいという話でもない。大抵は「色」に、あるいは(屋根の)「形」に、プロジェクトへの不満や批判が集約されて表現されるのであるが、「超線形設計プロセス」論を公共建築の設計やまちづくりの現場で展開しようとすればすぐさま問われるのは、結局、誰が、何を、どこまで決定するかということである。何がしか出来上がったものは誰の「作品」なのか。合意形成というのは、現実には容易くはない。

「色」については、基本的に設計者の判断(センス)にゆだねる、というのが僕の態度でである。『景観の作法 殺風景の日本』で詳述したが、原色を禁止するという国立公園の規定に対しては「神社の緑に朱赤の鳥居は似合うではないか」という。物議をかもした極彩色に彩られた住宅も日本の街並みのコンテクストにおいてはありうるという。一方、個の創造力や想像力に過度の期待はしない。建築の設計は、映画の製作と同様、それ以上に複雑な要素、情報を扱う。集団による作業が不可欠であり、必要なのは、集団的創造力であり、集団的想像力である。藤村龍至はそうした問題を実践的に解く最前線にいる。「地groundの建築」と「図figureの建築」を分けるというのも僕の持論であるが、『プロトタイピング』と題された「藤村龍至」「作品」?集を見ていて思ったのは、少なくとも、「型」として成立しうる「地の建築」の設計方法論として有力な一般化可能な方法である、ということである。

1,000人にするぞ!といっていた事務所はどうなの?と聞くと、40歳で丁度10人、予定通りです、という頼もしい答えであった。まちづくりで巻き込んだ参加者の人数を数え上げれば1000人は突破しているだろう。既に、ソーシャル・ムーブメントである。秋には「保育園」が竣工するという。本稿には、藤村の目指す社会、都市、地域をめぐる議論が抜けている。タイミングが会えば、次なる展開、「作品」を見て、まちづくりの方法をめぐってさらに議論ができればと思う。



[1] 「生成の時代」展(hiromiyoshii20098月),「ARCHITECT2.0」展(表参道ジャイル,20098月),「データ/プロセス/ローカリティ」展(日本建築学会建築文化週間,200910月),「ARCHITECTURE AFTER 1995」展(大阪,200911月)。

[2] 僕が在籍した吉武研究室には5歳年上の石井和紘(1944-2015)がいて,「直島小学校」(1970)の後,池辺陽研究室に在籍した難波和彦(1947-)と組んで「直島幼稚園」(1974),「54の窓」(1975)の設計を行っていた。僕も「直島幼稚園」「54の窓」は図面を引いている。これでも,博士課程在学中には,村野森建築事務所に勤めていた同級生の千葉政継と一緒に何軒か住宅を設計している。塚本研究室の後輩であるツバメ・アーキテクトの千葉元生君は,千葉政継の次男である。世の中狭い。

[3] 20111029日(土) 講演会,座談会,原 広司,武部 實,布野 修司,工藤 和美,藤村 龍至。

[4] 父は、ドイツ・ファシズム、ヒトラーの研究(『ヒトラーの青年時代』(刀水書房、2005年))で知られる津田塾大学名誉教授藤村瞬一(1928-2014)という。建築家になり損ねたヒトラーとナチズムに対する何らかの評価がその思想形成に関わるのであろうか。本連載第一回「闘う建築家」(20169月号)で1968年の帰趨が明らかにしたのは、現実を支配するパワー・ポリティックスである。学んだのは現実を動かす政治力学である」と書いた。僕らが「雛芥子」名で書いた「ベルリン・広場・モンタージュ」(『TAU04号, 19734月)は、ドイツ表現派の映画表現がファシズム体制にインヴォルブされていく過程に関する分析である。「カリガリ博士」S.クラカウアーの『カリガリからヒトラーまで』(みすず書房)が下敷きであった。僕らは、その後、「国家社会主義」をめぐって、戦前・戦後の連続・非連続の問題に関心を集中させていくのであるが、目指すべきは建築社会(建築計画)(学)ではなく、社会建築(社会計画)(学)ではないか、などと議論していたのである。

[5] 「工学主義」とは、藤村の定義によれば[5]、1.建築の形態はデータベース(法規、消費者の好み、コスト、技術的条件)に従って自動的に設計される、2.人々のふるまいは建築の形態によって即物的にコントロールされる、3.建築はデータベースと人々のふるまいの間に位置づけられる「主義」である(『批判的工学主義の建築 ソーシャル・アーキテクチャをめざして』(NTT出版、2014))。

[6] かつて宮内康が「今日の都市の風景は、建築基準法と都市計画法のほぼ正確な自己表現とみることができる」(「風景としての都市―東京一九七五年」『怨恨のユートピア 宮内康の居る場所』(れんが書房新社、2000年))といったことを思い出す。藤村は「データベース」というけれど、「法規、コスト、技術的条件」を無視して建築はなりたたない。僕らは「消費者の好み」も含めて「制度」といった(「制度と空間,建売住宅文化考」鈴木忠志編『見える家と見えない家』叢書「文化の現在」3,岩波書店,1981年)。

[7] 現実化を前提とするのであれば、工学としての建築技術を否定、無視しては成立しない。工業化の段階における「機能主義」「反機能主義」「批判的機能主義」という三区分もしっくりこない。「機能」を離れて、「建築」は成立しない。問題は「機能」をどう定義するか、「建築」における「機能主義」とは何かということになるが、「無用の用」もある。1920年代以降の工業化段階の「反機能主義」に「アーツ・アンド・クラフツ運動」を挙げるのは混乱の元である。また,ウィリアム・モリスによる「アーツ・アンド・クラフツ運動」は「反機能主義」の運動といえるだろうか。「機械」と「手工業(手技)の対比であれば,産業革命以降,今日に至るまで一貫するテーマである。「工業主義」「反工業主義」「批判的工業主義」というのであればわかる。しかしその場合、いわゆる「モダニズムの建築」は、その理念において「工業主義」を批判的に再構成するものであったと言えるのか、また、「機能主義(工業主義)」はそのまま「工学主義」に接続しているのではないか、近代主義(モダニズム)と反近代主義(ポストモダニズム)、批判的近代主義(近代建築批判)といったほうがわかりやすいのではないか等々、議論は残る

[8] 「グーグル的建築家像を目指して 批判的工学主義の可能性」『雑口罵乱』⑤(2010年)。

[9] 一般化すれば「グラフ」を解くプログラムであるが、まだパンチ・カードの時代である。徹夜でプログラムを書いて、朝、カードの束をコンピューターに突っ込み、夕方、Errorとプリントアウトされた紙が一枚アウトプットされるといった日々をありありと思い出す。

[10] 国際シンポジウム:環境のグランドデザイン,基調講演C.アレグザンダ-,原広司・市川浩・布野修司(司会),1991226

[11] 藤村龍至は,C.アレグザンダーが「盈進学園東野高校」設計施工のプロセスにフィードバック・ループを前提にしたから失敗したとするのであるが,問題は施工段階を組み込んでいなかったからであって(ゼネコンがリスクを吸収するしかなかった),「超線形設計プロセス」論も同じ問題を孕んでいる。

[12]  「デザインビルドとは?:新国立競技場問題の基層」『建築討論』2016年夏(4-6月)(コーディネーター:布野修司 パネリスト:斎藤公男,安藤正雄,藤村龍至 平成282917時~20時:A-Forum(東京お茶の水)。

[13]  「デザインビルドとは?:新国立競技場問題の基層」『建築討論』2016年夏(4-6月)(コーディネーター:布野修司 パネリスト:斎藤公男,安藤正雄,藤村龍至 平成282917時~20時:A-Forum(東京お茶の水)。

[14] ウォーターフォール型とは,システムの開発を「基本計画」「外部設計」「内部設計」「プログラム設計」「プログラミング」「テスト」という工程に分けて順に段階を経て行う方法をいう。 前の工程には戻らないのが前提。

[15] アジャイルとは『すばやい』『俊敏な』という意味で,反復 (イテレーション) と呼ばれる短い開発期間単位を採用し,リスクを最小化しようとする開発手法の一つという。

[16] 藤村が卒業した東京工業大学工学部・社会工学科(社会理工学研究科・社会工学専攻)は、数理経済学、最適化理論、環境モデル解析といった数理モデル研究の一線の研究者が顔をそろえる一方、原科幸彦先生をはじめとする合意形成をテーマとする学の系譜がある。ややこしい系譜の詳細は不明であるが、藤村龍至もその系譜を何らかの形で引き継いでいるのだと思う。その系譜につらなった哲学者である桑子敏雄先生とは、松江の大橋川改修をめぐる委員会(斐伊川水系大橋川周辺まちづくり事業(国土交通省・島根県・松江市)で随分つきあった(20052010年)。そして、桑子流風景論の展開には随分と刺激をうけた。

[17] 手前味噌ながら、京都CDL(コミュニティ・デザイン・リーグ)、近江環人(コミュニティ・アーキテクト)地域再生学講座の設立の初心もそうであった。すなわち、サステイナブルな仕組みの構築を目指した。しかし、諸般の事情がそれを許さなかった。というのは簡単であるが、要するに身体のハリカタが足りなかったのである。


布野修司 履歴 2025年1月1日

布野修司 20241101 履歴   住所 東京都小平市上水本町 6 ー 5 - 7 ー 103 本籍 島根県松江市東朝日町 236 ー 14   1949 年 8 月 10 日    島根県出雲市知井宮生まれ   学歴 196...