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2021年5月25日火曜日

 全てはコンテクストである―Σ(ネットワーク∩ネットワーク)へ 「マテリアルバンク」 403architecture[dajiba] ■彌田徹(開拓者18)■辻琢磨(開拓者19)■橋本健史(開拓者20)

 進撃の建築家 開拓者たち 第18回 403architecture[dajiba] 開拓者1819,20 403architecture[dajiba]  彌田徹開拓者18辻琢磨開拓者19橋本健史開拓者20201802月 全てはコンテクストであるーΣ(ネットワーク∩ネットワーク)へ 「マテリアルバンク」『建築ジャーナル』 20182(『進撃の建築家たち』所収)


開拓者たち第18回 403architecture[dajiba] 開拓者181920           建J  201802

 全てはコンテクストである―Σ(ネットワーク∩ネットワーク)へ

「マテリアルバンク」

403architecture[dajiba]

彌田徹開拓者18辻琢磨開拓者19橋本健史開拓者20

 

布野修司

 

 403Architecture[dajiba](以下403),この横文字だけの集団名「ダジバ」の響きには,何か挑戦的な意味が込められていると思ったけれど,403Y-GSA(横浜国立大学大学院・建築都市スクール)の部屋の番号,dajibaは,すなわち,弥田徹(図⓪a)のda,辻琢磨(図⓪b)のji,橋本健史(図⓪c)のba(通称橋bashi)という[1]403号室を共有していた同級生6人が403Architectureというグループをつくったのが始まりで,「ヨコハマアパートメント」(西田司設計)の展覧会設営がきっかけとなり,最終的には「浜松建築会議」(20102011年)を契機として 403は設立された。




 辻琢磨くんに初めて会ったのは「談話室」(滋賀県立大学)の講演会である。「presentnessについてー独立後の800日間で私が学んできたこと」と題する講演は,学生時代から考え続けてきたことを真摯に振り返るものであった[2]403は、翌年、「富塚の天井(006)」(数字はプロジェクトNo.以下同様)で第30回吉岡賞(2014年)を受賞する。WEB版『建築討論』の作品小委員会(川井操主査)は403を最初に取り上げる(005号 ,20157月)[3]。その後も,「「縁」と新たな共同体[4]008号,2016年夏)「いま建築作品はどのように語られるか?」(012号,2017年夏)[5]などの議論の場辻くんとは会う機会があった。いつか実際に仕事を見てみたいと思ってきたけれど,丁度『建築で思考し、都市でつくる』(LIXIL)が上梓されたタイミングでその機会を得ることができた20171124日)

 

 Y-GSA3.11

 講演で,辻くんがしきりに使ったのは「実感」という言葉である[6]。学生時代は,自分が使っている言葉が客観的なのか主観的なのかわからず,設計の課題にうまく答えられなかった、展覧会のインスタレーションを自分たちで施工することによって職人仕事を「実感」し,「現在建築史研究会」[7]を通じて現在から建築の歴史を「実感」することによって,建築活動を始めることができた、という。その活動には大いにシンパシーをもった。「雛芥子」の学生時代も同じようだった[8]。さらに,東日本大震災に大きなインパクトを受けて活動を開始したというのにも共感をもった[9]。「雛芥子」には具体的に建築を学ぶ「三里塚」というフィールドがあった(本連載第1回)。

 Y-GSAは,「建築をつくることは未来をつくることである」をスローガンに掲げる。403は第2期生である。山本理顕以下,北山恒,飯田善彦,西沢立衛など錚々たる教授陣に,激しくアジられたことは想像に難くない。僕は,東洋大学で理顕さんと一緒に設計製図を担当したからよくわかる。橋本くんもまた設計課題に対して自分の考えを伝えることができなくて,その克服(理顕攻略)のためにY-GSAに進んだという[10]。理顕先生の言う「リアリティ」がわからない。だから,自分たちなりにリアリティを獲得するために「実際につくる」目的で403Architectureを立ち上げた,そして,活動を続ければ続けるほど,Y-GSAの教えを愚直に実践しているのが403ではないかと思うようになった、という。実に頼もしい。

 

 渥美マンション 

 新幹線浜松駅から403発祥(起源)の地である渥美マンション(図①ab)まで,歩いてあっという間であった。彌田徹くんには初めて会った。橋本くんは,現在は東京を拠点としている[11]。スタッフは,神戸芸術工科大学大学院出身の西田沙妃さんと浜松出身で滋賀育ちの武蔵野美術大学大学院新卒の出路優亮くんの2人。川井くんのパートナー美和絵里奈さんと滋賀県大の学生たち5人も彦根の「須越の架構(045)」(図②ab)の打ち合わせにやってきていて,事務所は一杯であった(渥美の個室(010)(図①c)。





 最新作「西の京の工場(050)」(図③)など1/20の模型を見せてもらった後,403ツアーに早速出掛けた[12]。処女作とされる,天井材を床材に転化した「渥美の床(002)」(図①d)の他,折り紙を格子の枠に挟み込んだ「渥美の扉(021)」(図①e),鍵屋ビル(図④a)の10cm各のタイルの面積を月100円で貸し出す仕組みを組み込んだ「鍵屋の敷地(022)」(図④b)、庇で光の微妙な移ろいを演出した「鍵屋の中庇(042)」(図④d))、ユニークな美容室の「三展の格子(004)」(図⑤a)、そして廃材を縦に並べて壁にした「頭陀寺の壁(004)」「(図⑥ab),そして、東貝塚の納戸(043)」(図⑦)で辻くんが熱心に棟梁と打合せをする姿が、特に印象に残った。



 403の仕事は,浜松の中心市街地(図⑨)から次第に周辺(磐田,名古屋,滋賀,京都)に,そしてさらに東京圏へ,海外(ヴェネツィア)へ拡がりつつある。日本神話所縁の地(出身の九州から出雲)を駆け抜けて東京へ,さらに世界へ飛び立っていった菊竹清訓の軌跡は鮮やかであった。あるいは,象設計集団が沖縄という辺境を出発点として,地域から中央を包囲する構えのもとに各地に象設計集団を配置し,最終的には台湾と帯広に拠点を移したことが思い浮かぶ。403の基本戦略は何か,その方法に一貫するものとは何か,実に興味深い。

 





  Projects 50

 見学を終えた後, 15(/50)プロジェクト見ましたと辻くんがいうので,一瞬キョトンとした。天井の野縁材をカットして床に敷き詰めた「渥美の床」、そして「渥美の扉」などは,通常は,建築空間を構成する要素,部位,部品である。鍵屋ビルの各プロジェクトにしても,店舗や事務所のリノヴェーションである。「今之裏の門」(032)図⑧)は一個の家具(ジャイアント・ファーニチャー)である。ナンバリングと言えば,戦後,標準住居を拒否して,延々と,個別の条件,個別の家族に対して個別の住宅設計で答えるNo.住宅をつくり続けた池辺陽が思い浮かぶが、403の場合、依頼された仕事が単位である。新築の住宅,一物件の改修,一部屋まるごと改修する仕事が来ないという現実が背景にある。多くの若い建築家も同様であろう。403は,その状況を逆手に取って,建築という行為の根源を問い直そうとする。そして,コンヴェンショナルな建築のつくられ方への疑問を「実感」する。そして、事務所,学校,病院,図書館といった,建築計画学的な施設=制度(建築類型)に対する批判をはっきり意識するに至っている。

 知り合いの知り合いは知合いというネットワークに依拠し,顔の見える連帯の中で仕事をしていく可能性,新たな建築都市のプログラムを発見する可能性に期待している,と辻くんはいう。「ヴェネツィアの橋(031)」にしてもアプローチは同じである。考えてみれば,建築はもともと数多くの職人さんたちの仕事から成り立っている。一個の家具であれ,「建築家」の仕事である。403は,そうした原=建築行為(仕事)をプロジェクトと呼んでいるのである。一枚の扉にも創意工夫を試み,ディテールに意を匠む。ひとつひとつのプロジェクトに知とエネルギーと議論を積み重ねながら,403は「建築家」としての力を蓄えてきたように思う。少なくとも,素材やディテール,工法や構造など建築の基本を,身体を介して学んできた。「オーディナリーな」建築設計も依頼されつつある。どんなアプローチがなされていくのか楽しみである。

 




 マテリアルの流動

 「全てはコンテストである」「マテリアルの流動」「パラレルな可能性」の3つが403のキーコンセプトである(辻琢磨)。「全てはコンテクストである」とは,建築にとって,あらゆる地域資源,すなわち,人材,空間,素材等々がコンテクストとなるという意味である。言葉を替えれば,あらゆるものを「マテリアル」として扱うことができるということである(橋本健史)[13]。「パラレルな可能性」は、いささか分かりにくいが,「あるものが別のものになるかもしれないという可能性」である(辻琢磨)。3.11直後の「マテリアルバンク」の提案,すなわち,廃屋のような空き物件を,市民が廃材や使われなくなった資材を持ち寄って,マテリアルのストック場兼工房のようなスペースにする提案がその建築イメージである。新浜松駅近くの今や広大な空地となったその敷地がその提案「パラレル・マテリアル・スケープ」(001)の場所であった。403の原=プロジェクトである(図⓪扉)。




 403の仕事が単なるリノヴェーションでないことははっきりしている。天井材を床材に使う発想は,素材を適材適所に使う,というのとは違う。また,単純な廃品利用,材料のリサイクルでもない。「マテリアルの流動」とは,マテリアルにまつわる人やその記憶も含めての諸関係のネットワークの流動である。「頭陀寺の壁」はひとつのモデルである。家具職人でもある日内地譲さんに建築指導を受けたというが,彼は,カフェとともに古い家具,道具,食器,照明器具などを販売するAPARTMENT FURNITUREを経営しながら,リノヴェーションの仕事も請負う。ネットオークションの時代になって,クライアントが見えなくなったというのが克服すべき課題を暗示する。

 「頭陀寺の壁」を見て瞬時に思い出した小屋がある。海岸に流れ着いた木切れ





を縦に並べて壁にした小さな家である[14](図⑩)。廃材を寄せ集めて作られるセルフビルドによる「バラック」は、何故か[われわれ]を惹きつける。橋本健史は,セルフビルドは「マテリアル」[15]が全て地続きで関連していることを理解するための「リサーチ」として機能したというが,単なる「リサーチ」には留まらない。直接自らの身体を使って建てることによって、生きること、そして考えることの意味を確認させられるのである。永遠の建築をめぐるA.ヒトラー(A.シュペアー)の廃墟価値の理論をめぐって考えたことがある
[16]そこで次のように書いた。「バラックは,いってみれば建築の死体である。いったん,死亡宣告を受けて,バラバラに解体された建造物の断片を寄せ集めてそれは作られる。重要なのは,それが死体置き場としての廃墟ではないことである。どんなにみすぼらしいものであろうと,そこでは死体の断片は生き返っているのである。そこには明らかには再生への契機がある。‥・もちろん,安易な再生の神話を飛翔させてはならない。産業廃棄物のリサイクルといった再生であれば,至るところで行われている。そうした産業的な循環から,最も遠いところで,「建築」の再生は夢みなければならない。」。

 「マテリアルバンク」というのは,そうした再生の場所の構想ではないか。

 




 6つのタグ-

 6年間の50のプロジェクトを振りかえる(フィードバックする)著書は『建築で思考し,都市でつくる』(2017)と題する。全文英訳されており,海外への情報伝達も意識されているけれど,何故かタイトルが訳されていない。403のいう建築,あるいは建築的思考とは何か。「全てが建築である」(H.ホライン)というのであればそれでいい。橋本健史は H.ホラインのこの宣言!?に触れている[17]。ただ,「建築は全てである」と入れ替えるのがよい[18],という。センスのいいアフォリズムの反転である。しかし,「建築」は、と主語にすれば,その定義が問われる。「建築で思考し」というと,具体的に50のプロジェクトがどう「建築で思考し」たかが問われる。コンヴェンショナルな建築概念を前提とすれば,403は建てない建築家であるとか,403はひとつの建築全体に関わることを放棄しているとか,403のプロジェクトは,基礎や構造をもたず,壁や柱,天井や梁といった既存の躯体に寄生しているとか、評されることになる(市川紘司)。

 彼らは,これまでの仕事を平板に体系化すること,すなわち,単純な階層的なカテゴリーに分類することを拒否し,50のプロジェクトを,それぞれが内包する「思考」あるいは「活動」の共通性に着目して,「材料転用」「既存応用」「慣習ずれ」「新旧混成」「等価空間」「単位反復」という6つの「建築行為」(手法,操作)にタグづけしてみせる。これまで蓄積されてきた建築的手法と照らしても理解しやすい。橋本健史は,それぞれのタグ項目について,歴史的な建築を振りかえってみせる(「都市からの学びを歴史に見る」)。彼らのいうプロジェクトが無数に重層することによって都市は生きていく。そのプロジェクトは,都市のコンテストから学び出されたものであるから,長い時間のスパンでみれば,ひとつの部屋,ひとつのビル,そしてひとつの街区が更新されていく原理あるいは遺伝子のようなものになる筈である[19]

 彌田徹は,プロジェクトとタグを基本的には事後に結びつけている,あらかじめあるプロジェクトとタグを関連づけてハンドリングするようでは,タグは何らかの指針を与えてくれるどころか,思考の足枷になるからである,という(「行き来する思考と実践のかたち」)。

 正解だと思う[20]

  

 403Assemble

 403は,浜松を拠点としている。地方から中央メディアへ発信する姿勢がその出発点にあった[21]。辻琢磨は「僕が浜松から学んだこと」[22]を冷静に振り返っている。

 403の活動に対して,地域で仕事をする意味,その根拠,また可能性ついての議論が展開される[23]。京都コミュニティ・デザインリーグや近江環人(コミュニティ・アーキテクト)地域再生講座を仕掛けてきた僕もそれなりに考え続けてきている。必ずしも確たる展望をみいだしているわけではないけれど,403の行方には大いに興味がある。仕事が次第に各地に拡がりつつある403の今後の展望について,辻くんにそれとなく,海外で仕事をする戦略はないかなどと聞いてみた。何も考えていない,ネットワーク(縁)に従って仕事していくだけだ,という答えであったが,その答えを鵜呑みにしたわけではない。

 403は,この6年,各自の収入を合わせて3分してきたという。このあり方自体,興味深い設計組織の形態である。しかし,今年,3人それぞれ個人事務所を設立した。「建築事務所」「建築企画事務所」「建築設計事務所」という名称の違いが興味深いが,おそらく403は次の展開を考えている,少なくとも予感しているのである。

 僕が403の未来に関連して,最も興味を持つのは,辻琢磨とAssembleのアミカ・ダールAmica Dallとの交信である(「建築と都市が続いていくために」)。Assembleについては初めて知った。少し前から考え出しているのだけれど,圧倒的なグローバリゼーションの支配力と偏狭なナショナリズムやリージョナリズムを突破するひとつの方法は,地域を拠点とする濃密なネットワークを、境界を越えて結びつけるネットワークが必要なのではないか、と思うからである。ネットワークを数次階層を遡れば、地球上の全ての人と知り合える、そうした時代だからである。


403architecture[dajiba]

 

2011年に彌田徹,辻琢磨,橋本健史によって設立。静岡県浜松市を拠点として活動している。建築作品に《海老塚の段差》《富塚の天井》《代々木の見込》ほか。書籍として『建築で思考し,都市でつくる/Feedback』(LIXIL出版)。第30回吉岡賞,ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展日本館で審査員特別表彰。

 

彌田徹(やだ とおる) 1985年大分県生まれ。2008 横浜国立大学建設学科建築学コース卒業。2011年筑波大学大学院芸術専攻貝島研究室修了。2011403architecture[dajiba]設立。2014年名城大学非常勤講師。2017年彌田徹建築事務所設立。

 

辻 琢磨(つじ たくま) 1986年静岡県生まれ。2008年横浜国立大学建設学科建築学コース卒業。2010年横浜国立大学大学院建築都市スクールY-GSA 修了。2010Urban Nouveau*勤務。2011年〜メディアプロジェクト・アンテナ企画運営。2011403architecture[dajiba]設立。2013年横浜国立大学非常勤教員。2014年〜名城大学非常勤講師。2014年名城大学非常勤講師。2017年辻琢磨建築企画事務所設立。滋賀県立大学,大阪市立大学,武蔵野美術大学非常勤講師

 

橋本 健史(はしもと たけし) 1984年兵庫県生まれ。2005年国立明石工業高等専門学校建築学科卒業。2008年横浜国立大学建設学科建築学コース卒業。2010年横浜国立大学大学院建築都市スクールY-GSA 修了。2011403architecture[dajiba]設立。2014年〜名城大学非常勤講師。2017年橋本健史建築設計事務所設立。名城大学非常勤講師。

 



[1] 象設計集団はもともとTHO(象→Zoo(動物園)(T(富田玲子)H(樋口裕康)O(大竹康一))であったことを思い出す。

[2] 2013718日。講演とやり取りは『雑口罵乱』⑧(Danwashitsu20156月)に収録されている。

[4] 司会:能作文徳:メンバー:仲俊治(仲建築設計スタジオ),常山未央(mnm),伊藤暁(伊藤暁建築設計事務所),辻琢磨(403architecture [dajiba]):オブザーバー:布野修司,吉本憲生:記録:川井操,撮影:和田隆介。『建築討論』008号,2016年夏。http://touron.aij.or.jp/2016/05/1960

[5] 司会:川井操/登壇者:石榑督和,市川紘司,川井操,川勝真一,辻琢磨,能作文徳,水谷晃啓,吉本憲生,和田隆介/コメンテーター:布野修司/編集:和田隆介。『建築討論』012号,2017年夏。http://touron.aij.or.jp/2017/06/4156

[6] 横浜国立大学の学部時代の同級生の建築評論家市川紘司は,辻くんが,いつのころか「実感」という言葉を使いだしたことを覚えている,という(「よそもの」としての建築(『建築討論』05号))。

[7] 建築生産,建築パース,脱地域主義の建築,建築雑誌にみる史観史,建築家の全能性と不能性,コンペの社会的変遷,建築家によるワークショップ評価委員会,建築家の作品に見るサクセスストーリーという8つをテーマにしたという。

[8] 小泉和子さん(家具道具室内史学会会長)の依頼で「日本の箪笥展」の会場設計をして自ら施行したし,同時代建築研究会や講演会などを開催しながら考えたのである(布野修司インタビュー 戦後日本と世界の往還http://d.hatena.ne.jp/a_aoi+shuji_funo_interviews/

[9] 拙著『建築少年たちの夢』(彰国社,2011年)のあとがきに次のように書いた。「二〇一一年三月一一日,一四時四六分,東日本大震災が日本を襲った。…日本の戦後建築の歴史を,日本を代表する建築家の足跡を軸に,自らの個人史にも引きつけながら辿ろうとしたのが本書である。後は,続く世代に期待したい,新たな建築の未来を「建築少年たちの夢」にかけたい,というのが本書に込めた思いであった。この国難ともいうべき日本の危機を前にして,敗戦後まもなくの廃墟の光景がまず浮かんだ。振り出しに戻った,という感情にも襲われた。…エネルギー,資源,産業,ありとあらゆる局面で日本を見直し,再生させていく,世界に誇れる建築と都市が新たに創造されなければならない。そのために必要なのが「建築少年たちの夢」である。建築を学ぶものはすべてが日本再生のまちづくりに取り組もう。そして,現場で深く考えよう。そこに建築の未来を見出そう。次の世代として,世界をまたにかける建築家が生まれるとしたらその中からである。それは夢などでは決してない。」。

[10] UNICORN(円錐会.2001年に発足した横浜国立大学建築学教室の設計・意匠系有志OBを中心とするメンバーで構成されたOB会。)SUPPORT interview#034 403architecture[dajiba] 2015-01-02 http://unicorn-support.info/。明石高専から学士入学した橋本くんの場合,建築の基礎は既にある程度身につけてきていたと思う。京都大学でも滋賀県立大学でも明石高専出身の学生と出会ったけれど,総じて優秀であった。

[11] 彌田くんは,筑波大の貝島桃代研究室出身という。貝島さんの卒業論文を指導した経緯など話そうかと思ったけれど,夕刻からの商店街の会合の準備で忙しそうだった。翌日,名古屋で丹羽哲矢くん(Clablab)に会った。403のことを話すと,名城大学の非常勤仲間で,橋本くんたちはよく知っている,という。夕刻,急に思いたって名古屋周辺在住の布野研究室出身の連中に声をかけてもらったら,辻くんを「談話室」によんだ井上悠紀さん(大建設計),川井操くんの同級生の中川雄輔くん(日建設計),岐阜で大工修業をしている梅谷敬三くん,カバン職人になったという田中孝宣くん(革鞄工房HERZ),そして名城大学から京都大学の准教授になった柳沢究くんが次々に集合,403をめぐって議論の花が咲いた。世の中は狭いといえば狭い。

[12] 渥美マンションを出発して,鍵屋ビル,三展ビルと市内を歩いた後,車で郊外の家具屋さんの物置小屋(頭陀寺の壁(004))へ,さらに磐田に車を走らせて,建設中の納屋を住居に改造するプロジェクト,辻くんが棟梁と細部の収まりを詰めるのを待って,すっかり日が落ちた中,美容院の待合室(今之浦の門(032)図⑧)を覗いて,みんなで餃子定食―浜松はいまや宇都宮と競う餃子の街だ―を堪能,渥美マンションに戻って,楽しく歓談(コンパ)という行程であった。

[13] 橋本健史「野生から観測へ」『新建築 住宅特集』201411月。

[14]  J. Wanpler All their own People and their Places They Build”(『群居』2号「特集 セルフ・ビルドの世界」(1983年7月))。

[15] 廃材や余剰材といった物質的な材料だけではなく,構法的な知恵,慣習的な空間構成,標準的な仕様,あるいは個別的な周辺の状況や,もう少し広域的な構造,もしくはいわゆる建築設計・施工に一般的には関係しない人材など,ありとあらゆるもの」(橋本健史前掲エッセイ)。

[16] 「廃墟とバラックー建築の死と再生」(布野修司建築論集Ⅰ『廃墟とバラックー建築のアジアー』(1998)所収。

[17] 「あらゆる事象に建築的なるものを見出し,建築概念を霧散させた,とても強力で,抗し難い魅力の言葉です」という。

[18]「解体に次ぐ解体の後での微細な差異を競い合うのではなく,かといって「建築」の自己批判にための懺悔としてでもなく,もちろん資本の海をただ乗りこなすのでもなく,前向きに「建築」と向き合うためには」というのが前文である。

[19] 都市組織論では,ただ漠然と,家具,壁・床・天井,部屋・・・といったヒエラルキカルな構造を遺伝子,細胞・・・といった生体組織の構成に準えるにとどまってきたのであるが,403のプロジェクトはそれを大きく肉づけしてくれる。

[20] 稀代の建築理論家である磯崎新も,その理論化は事後的であった。アプリオリに頭で考えだされたものではない。実践を振りかえる中で生み出されたからこそ,僕らは「実感」をもって読んだのである。

[21] 2010年に,藤村龍至,山崎亨,家成俊勝らを呼んで「社会に接続せよ」というテーマでシンポジウムを行い,静岡文化芸術大学の学生たちと一緒に中心市街地の空き室の量を徹底して調べた。また,2011年には「メディアプロジェクト・アンテナ」という「現在から都市や町を実感する」教育実践のなかで土地建物の所有関係を徹底的に調べた。都市そして建築へアプローチする上で,徹底的にそのコンテクストを調べるのは基本であり,[われわれ]の都市組織研究の基本でもある。

[22] 五十嵐太郎編『地方で建築を仕事にする』学芸出版社,2016年。

[23]「「限定」がひらく複合性―403architecture[dajiba]の作品―」(WEB版『建築討論』005号)は,東京を拠点とするツバメアーキテクツと浜松を拠点とする403の差異,東京と地方,マジョリティとマイノリティをめぐって議論を展開している。

2021年5月24日月曜日

 進撃の建築家 開拓者たち 第17回 平田晃久(後編) 箱とツリーー新たな都市構成理論へ「Treeness House」『建築ジャーナル』 20181(『進撃の建築家たち』所収)


開拓者たち第17回 開拓者17 平田晃久後編                   建J  201801




 箱とツリー―新たな都市構成理論へ

Tree-ness House

布野修司

 

 

 平田晃久(図⓪)は、「生命論的建築」の3つの柱として、「生命概念の拡張」「脱人間中心主義」「「かたち」と「はたらき」の再発見」の3つを挙げる(学位請求論文『生命論的建築の研究―<からまりしろ>の概念をとおして』(2016年)第2章)。「生命概念の拡張」とは、人工物としてつくられる建築を生命あるものとしてとらえる、ということである。「脱人間中心主義」とは、人間もまた生命をもつものの一員として生命圏を構成するのであって特権的に自然界を支配する存在ではない、ということである。「建築にその姿をとらせている働きは、生きている人間の集団の働きが複合することによって生まれている」「建築は、生命体のようには更新されないように見えるかもしれない。しかし観察のタイムスパンを1000年のような長期に設定すれば、建築や都市もまた絶えず更新し変わり続ける動的な存在であることが見えてくるであろう。」と平田はいう。



 全く異議はない。わが意を得たり、という感がある。アジアのフィールドを歩き出してもう40年になる。フィールドワークによって明らかにしようとしてきたのは、人類が長い年月をかけて築き上げてきた都市や集落のかたちであり、その空間構成の仕組み、その組織原理である。目指してきたのは、無数の人生が積み重なってつくりあげられる都市建築のあり方に学ぶことである。

 ただ、「建築」は、本質的に「自然」ではないし「生命」でもない。平田自身も論文の冒頭で「建築は生きものではないし、一般的な意味での自然物でもない。建築はむしろ、ある意味で最も典型的な人工物だといえる」と言う。だから、「人工物を自然と区別しているのは人間の意識に過ぎない」「自然と人工を連続的に捉える考えに可能性がある」といって、ノンシャランに出発するわけにはいかないだろう。「傷つけて癒す」(『楓』、1998年)というエッセイを書いたことがあるけれど、「建築」することは、自然を傷つけることを本質とする。産業革命以降、建築生産の工業化によって、地域の生態系と建築との関係が切り離されて以降、自然と人工との連続的関係が失われてきたことが問題の本質である。しかしもちろん、一個の建築の設計によって、そうした大問題を一挙に解けるわけではない。論の中心は「かたち」の「はたらき」である。「かたち」の理論の中に問題の本質を胚胎しうるかどうかである。

 

 都市組織研究

 僕らの続けてきたフィールドワークを、いつのころからか「都市組織研究」と呼ぶようになった。オリジナルではない。「都市組織 urban tissues, urban fabric」とは,都市を建築物の集合体と考え,集合の単位となる建築の一定の型を明らかにする建築類型学(ティポロジア・エディリツィア)で用いられる概念である[1]。また,さらに建築物をいくつかの要素(部屋,建築部品,・・・)あるいはいくつかのシステム(躯体,内装,設備・・・)からなるものと考え,建築から都市まで一貫して構成するN.J.ハブラーケン[2]らの建築都市構成理論において用いられている。

 都市をひとつの(あるいは複数の)組織体と見なすのが「都市組織」論であり一般的に言えば,国家有機体説,社会有機体説のように,都市を有機体に喩え,遺伝子,細胞,臓器,血管,骨など様々な生体組織からなっているとみる。ただ都市計画・建築学の場合,第一にそのフィジカルな基盤(インフラストラクチャー)としての空間の配列(編成)を問題とし,その配列(編成)を規定する諸要因を明らかにする構えをとる。「都市組織」という時,コミュニティ組織のような社会集団の編成がその規定要因として意識されている。集団内の諸関係,さらに集団と集団の関係によって規定される空間の配列,編成を問題とするのである。

 出発点となるのは、都市住居の型である。戦後日本のプロトタイプとなった「51C」(公営住宅1951C型モデル)を設計した研究室(東京大学吉武研究室)を出自とする筆者の性というべきか。アジアを歩き始めて以降、一貫して考え続けてきたのは、地形(じがた)に規定されて成立する建築(住居)類型であり、それが集合することによって形成される街区の形態である[3]

 

  種として幾何学―「植物」を「育てる」ように設計する

 平田の建築理論に対する以上のような関心は、いささか我田引水がすぎるかもしれない。しかし、「Tree-ness house」をみてまず考えるのは以上の脈絡である。「生命論的建築」の手がかりとして一般的に考えられるのは、生命ある自然、有機体、具体的には植物(あるいは動物)である。近代建築を支える基本理念としての機能主義についても、機械的機能主義に対して有機的機能主義が対置されてきた。また、建築のメタボリズム(グループ)は、建築に「新陳代謝」という動的な概念を導入してきた。そして、現在、バイオミミクリーあるいはバイオミメティックスが関心を集める。平田は、「生命論的建築」という概念をメタファーとして用いるのではないと予めいう。そして、ピーター・アイゼンマンやザハ・ハディドのCADを用いたバイオモルフィックな形態操作とは異なるという。ただ、メタボリズムについては、その考え方を部分的に発展的に引き継ぐが、「同時に全くそれとは異なる有機的な世界観に基づく」という。どういうことか。

 平田は、<からまりしろ>という概念(第3章)を定義した上で、まず、「単体的原理1」として、「「植物」を「育てる」ように設計する建築」(第4章)について論ずる。そこで最初に検討するのが「からまりを誘発する幾何学」である。前号(前編)で触れたように、平田は、「太田美術館・図書館」で既にその乗り超えの方向を示唆するが、「ひだ」にしろ、「ひも」にしろ、「ねじれ」にしろ、「たね」にしろ、平田が拠り所とする概念が産み出されるのは、幾何学の検討による。

 その幾何学を追いかけるのは手に余るが、検討されるのは、限られた拡がりの中で「ひだPleats」の表面積を最大にする「ひだの原理」(図①)、限られた拡がりの中で「ひもString」の長さを最大化する「ひもの原理」?、内外を隔てる境界を「ねじれTwist」を発生させる「「結び目」の幾何学」(図②)、ひとつの点に集まる角度の合計が360度を超える同形の三角形の組み合わせでできる「「ハイプレーン」の幾何学」などであり、それらを用いる幾何学を「種としての幾何学Geometry as the Seed」という。そして、そうした幾何学を 遺伝子のように扱い、植物を「育てるBreed」のように建築を設計できるという。

 


 流れの中でつくられる形

 いくつかのインスタレーション作品とともに、「gallery.sora」(2007)「Architecture Farm」(2008)「Coil」(2011)といったプロジェクトに即して、平田はその設計過程を説明する。近代建築が理念化する均質空間とそれを支える直交座標系の構造システムを超える幾何学の検討はそれ自体興味深いといっていい。新たな空間を生成するヒントが得られる可能性はある。グリッドという概念は、必ずしも、直交座標系に限定されるわけではない。一般的には、多様体や2次元表面を一連の小さなセル(細胞)で充填し,セル単位に識別子を付け,インデックスに利用するひとつのシステムがグリッドである[4]ただ、それが空間全体を覆うシステムとして、ひとつのアルゴリズムに限定されるかどうかが問題である。平田の建築理論のポイントは、幾何学を用いて「育てる」ということである。

 平田は、「単体的原理2」としてさらに「環境とからみ合う建築」(第5章)を検討する。「かたち」の原理としては、「流れの中でつくられる形」が検討される。具体的には、音、熱、光、空気(風)の流れ、人の流れ、地形などと建築の関係が議論される。「釜石復興公営住宅」(2013)や「Long House」(2011)といったプロジェクトに即して説明されることもあってわかりやすい。そして、こうした環境シミュレーションは、既に実際に用いられているものでもある。

 「単体的原理1」が「かたち」の自律的な生成原理に関るとすれば、「単体的原理2」は、「かたち」と外部環境の関係の原理に関わる。しかし、建築は、その2つの原理で成立するわけではない。そこで問うのが「<からまりしろ>の複合的原理」(第6章)であり、そこで扱われるのが「Tree-ness House」(20092017)「Tree-ness City」(2009)「Nakayama Project」(20132017)「Taipei Complex」(2011)「Taipei Complex2」(2015)といった一連の集合住宅・複合建築プロジェクトである。

 

 Tree-ness House

 「Tree-ness House」(図③abcdef)は、その計画から8年近くの時を経て竣工に至った、5階建ての貸しギャラリーと住居の複合建築である。建築類型としては、一般的に言えば、ショップハウス(店舗併用住宅)である。日本に限らず、アジアの諸都市で最も一般的にみられる都市型住宅の形式である。

 この建築を、幹や枝や葉からなる一本の樹木のように設計する。その全体は、A1:ひだに絡む植物,A2:ひだ状の開口,A3:ボックスの積層の3つの組み合わせ[[A1/A2/A3]によって構成される(図③ab)。まず、高さの異なる単純なコンクリートな箱を箱と箱の間の隙間の空間を考慮しながら、また、壁を上下でそろえるなど荷重の伝達を考慮しながら積み重ねる(A3)。そして、箱状の空間に開口をひだ状の出窓のように設ける(A2)。さらに、このひだ状の開口に植物を絡ませる(A1)。





 わかりやすいと言えばわかりやすい。植物の種類はそれぞれの場所の日照条件や内部の要請に適合するように選ばれる。建物全体が一つの空中(立体)庭園となる都市型住居のプロトタイプである。「GAZEBO(雑居ビルの上の住居)」(山本理顕、1986年)を想起した。数層の中庭式住宅であるが、箱の高さの組み合わせで床レヴェルはスキップできる。平田は、A.ロースの「ラウム・プラン」を意識した、という。

 









 Tree-ness City

 「Tree-ness House」を単位とする都市モデルとして提案されたのが、青山病院跡地(東京)を敷地とした架空プロジェクトの構想「Tree-ness City」(2009)(図④ab)である。伊東豊雄を座長とする研究会の成果として『20XX年の建築原理』(伊東豊雄・平田晃久・藤本壮介・佐藤淳著、INAX出版、2009年)にまとめられているが、目的は明快である。「大手ディベロッパーによって行われている再開発手法は、建築の高層化によって地上に緑地や公共用地を生み出そうとするL.コルビュジェの『300万人の現代都市』(1922)あるいは『ヴォアザン計画Plan Voisin』(1925)をモデルとするが、低層住宅群をもっと連続しながら立ち上がる高層建築はないか、巨大な垂直な箱ではなく、十分な光や風や水が内部まで浸透していくようなひだの多い建築はないか、密集し、混沌としながらも複雑で自然環境と深くかかわる濃密な生命体のような高層建築を描くことはできないか」ということである。



 都市あるいは街区への展開として、「Tree-ness House」を単位として、あるいは箱を単位として、その集合システムを提案するという構えが取られているわけではない。都市的規模の単体建築としての提案である。地権者の権利関係を前提にモデル化するのはあまりに複雑という理由からである。全体として、「Tree-ness House」と同様な手法が取られている。すなわち、Volumeを増殖させて樹形をつくり(1)、樹状のVolumeの間にVoidを形成させ(2)、Volumeに開口を設ける(3)という3つのOperationによって構成される。

 「Taipei Complex2」(2015)(図⑤ab)では、ラーメン構造のフレームに諸要素を埋め込んでいく手法が提案される。そして、最近竣工した台湾の「Nakayama Project」(20132017)(図⑥abc)では、集合住宅(マンション)という形式として具体的な実現をみた。




 

 アジアの都市を歩き始めて40年、この23年、かつて調査した街区を再び歩き始めたのだけれど、つくづく思うのは、全ての都市がどんどん似てくる、ということである。人工環境化がますます進行し、熱帯地域にアイスリンクやスキー場がつくられる。大都市には同じような超高層ビルが林立する。そして、居住地は、単純な箱を積み重ねるだけの高層住宅に代わりつつある。考え続けてきたのは、それぞれの都市に固有な都市型住宅の型であり、街区のかたちである。平田の「Tree-ness House」そして「Tree-ness City」の構想は、ひとつの大きなヒントを与えてくれている。今後の展開を、期待を込めて見守りたい。







[1] イタリアの建築家サヴェリオ・ムラトーリ(191073)が創始したとされるが,地形(じがた)(敷地の形)に従って規定される建築類型の歴史的変化をもとに都市の形成過程を明らかにする方法として注目されてきた。建築物(住居)の集合からなる「街区(イゾラートisolato)」を単位として,「地区(セットーレsettore)」が構成され,その集合が「都市(チッタcitta)」となる段階構成を考えるのである。

[2] N.J.ハブラーケンN. John Habraken,オランダの建築家,建築理論家。1928年インドネシア,バンドン生れ。デルフト工科大学(1948-1955)卒業。アイントホーフェン工科大学を経てMIT教授1975-89。オープン・ビルディング・システムの提唱で知られる。

[3] 念頭においてきたのは、1960年代の都市構成理論、メタボリズム・グループの設計方法論、磯崎新のプロセス・プランニング論、原広司の有効体理論、BE論、C.アレグザンダーの「都市はツリーではない」論・パターン・ランゲージ論、とりわけ、大谷幸夫のUrbanics試論である。

[4] 地球全体の表面を覆うようなグリッドはグローバル・グリッドと呼ばれる。要するに,グリッドとは世界を覆う空間システムのことである。すなわち,グリッドについて考えることは世界を覆う空間システムを考えることになる。正方形または矩形のグリッドは,直交座標(緯度と経度)との変換が容易であるためよく使われてきたのである。一般にこれらのグリッドは2種類に分類できる。1つは経線と緯線に沿って分割するもの(等角)で,各領域の面積は等しくない(高緯度ほど面積が小さくなる)。もう1つは面積が一定になるようにするもので(等積),一辺の長さが等しいが,緯度や経度の変化は等しくない。

布野修司 履歴 2025年1月1日

布野修司 20241101 履歴   住所 東京都小平市上水本町 6 ー 5 - 7 ー 103 本籍 島根県松江市東朝日町 236 ー 14   1949 年 8 月 10 日    島根県出雲市知井宮生まれ   学歴 196...