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2023年2月28日火曜日

2002年3月 建築雑誌が届かない  投稿歓迎  中国建築学会へ 『建築雑誌』編集長日誌 2001年4月25日~2003年5月31日

 『建築雑誌』編集長日誌                          布野修司

 

20023

 建築雑誌が届かない

 投稿歓迎

 中国建築学会へ

 

200231

夕刻より川端会。川端会とは京都大学の建築系教室の親睦会。23ケ月に一度、川端通りの店に集う。特に議題があるわけではないが、時々の懸案事項が話題になる。この日の話題は「外部評価」。人事も絡むこの話題については書きたいことが山ほどあるが、筋が違うのでここでは書かない。各大学、色々問題はある。

石田、大崎両幹事ももちろん川端会のメンバーで、京都大学の『Traverse・・新建築学研究』もこの川端会が母胎になって発足した。話は当然、『建築雑誌』に及ぶ。というかミニ編集会議となった。高田光雄、古阪秀三、竹山聖先生などが加わる。

高田先生、カラー化について「なんで金をかけるんだ」とおっしゃる。金はかかっていないと、紙質を含めた制作費について説明する。身近にいてこうだから、随分誤解されているだろうなあ、と思う。

古阪先生は1月号の執筆者で、投稿について、小特集を組んで対応しろとおっしゃる。そんな誌面の余裕はない、数頁であればとれる、時間はあげるから、日本の建設産業をめぐって是非議論を、投稿があったら考えると、一応とりなす。

 

200234

 学会賞委員会で上京。上京の友は、『聖徳太子』『法華経入門』『ことわざの知恵』、いずれも岩波新書だ。『ことわざの知恵』は、岩波辞典編集部編で、時田昌瑞著『岩波ことわざ辞典』の余録というか、宣伝のような本で、さらっと読める。へぇ~ということわざも少なくない。気に入ったのを少々。「下戸の建てたる蔵もなし」、飲んべえの言い種だ。「人を呪わば穴二つ」、これはおっかない。「死馬の骨を買う」、こういう戦術をとりたいものだ。「三つ叱って五つ褒め七つ教えて子は育つ」、長年教師やっているけれど、なかなかこうはいかない。

学会賞委員会の前に、小野寺さん、片寄せさんとは、まず、この間届いた投稿掲載についての意見を集約。投稿について、掲載する方針を確認。締め切りの問題があるので、37日までの執筆者の応答を待って12日の編集委員会で決定することとする。

その他、特に、9月号「建築年報」特集について下打ち合わせをする。特に担当と言うこともないので僕がなんとなく責任を自覚した次第。一応以下のようなフレームでどうかということになる。問題は新たに設ける研究レビューの頁数とフレームである。そして、年表をどうするか。まずは、大崎幹事と相談することにする。

 

『建築雑誌』9月号 「特集:建築年報2002」構成案

○会長インタビュー 学会 回顧と展望                         (4p)

○視 点  建築界 回顧                                (2p)

○デザイン界総括座談会                                (8p)     

○建築界の動向と展望(2p×8本)                        (計16p)

○研究レビュー(5p×5系)                              (計25p)

 【構 造 系】(担当委員:○○○○)510人の執筆者に依頼する。

  ・構  造     5

 【計 画 系】(担当委員:○○○○)

  ・歴史意匠       1

  ・都市計画        1

  ・建築計画        1

   ・農村計画        1

  ・(文教施設)    1

 【環 境 系】(担当委員:○○○○)510人の執筆者に依頼する。

  ・環境工学       

  ・(地球環境)

 【生 産 系】(担当委員:○○○○)510人の執筆者に依頼する。

  ・材料施工       3

  ・建築経済        2

 【学際総合系】(担当委員:○○○○)510人の執筆者に依頼する。

  ・防  火        1

  ・海  洋         1

  ・情報システム技術  1

  ・建築教育       1

  ・(災害)

  ・(建築法制)

○調査研究委員会活動報告                               (計14p)

  上記16委員会 (1/2p×16) 

  特別研究委員会(1/2p×12

   →原則として委員長執筆

○支部活動報告/支部研究助成金による研究                                      (計9p)

  支部長執筆

9支部(1p×9)                         

○建築年表2001                                 (計6p)

                                        総計84ページ

 

年表については半減するので、青井委員にフレームを検討してもらうことにした。

その他、6月号の巻頭鼎談に大文さんこと田中文男・大棟梁がいい返事をくれないという。担当の藤田委員が大弱り。「6月号の鼎談についてご報告します.坂本先生・渡辺先生からはご内諾及び候補の日程を頂くことができました.しかし,田中棟梁には「もう年だから,勘弁してくれと布野先生に言ってください」といわれてしまいました.しつこくお願いしたのですが,私ではやはり到底太刀打ちできませんでした.布野先生からお願いしていただけませんでしょうか?」

しょうがないなあと電話する。大文(だいふみ)さんに出てもらったら、といったのは僕だから責任はある。しかし、も捕まらず。今日、明日と出張だという。

 

帰りの新幹線で真っ青になる。たまたま、1月号と2月号を読み比べていて、会告(論文集目次)の欄に全く同じ頁があるのに気がついた。あわてて編集部に電話。20:00過ぎていたけれど二人ともいつもの残業である。取り返しはつかないけれど、原因究明、再発防止の対策はとらねばならない。

 

200235

小野寺さんより原因についてメールが入る。印刷屋さんのベテランの担当オペレーターが、データをスキャンしていながら、1月号との差し替えを忘れてしまったことがそもそもの原因だという。「しかしながら、それに気づかなかった事務局は全く気が弛んでいるとしか言われようがありません。お恥ずかしい限りです。申し訳ありませんでした。」と小野寺さんは恐縮しきりである。

 

投稿文について、以下の編集長見解をしたためて編集部に送る。

 

編集委員長より。

1月号特集「建築業界に未来はあるか」について、以上のようなご批判を頂いた。いささか一方的な言い方もあって編集委員会での完全な合意は得られなかったのであるが、編集委員長の責任で、特集の議論のさらなる展開を願って掲載することにさせて頂いた。委員長の見解は以下の通りである。

 ①読まれることを第一の目標とする編集委員会としては真摯な批判として歓迎したい。

 ②特集の内容について「詐欺」とまで言われるのは心外である。明るい未来が書かれていない、展望がない、というのが批判の全体を貫くトーンである。しかし、建築業界に未来があるか、というタイトルは反語的であって、読みようによっては、未来はない、ともなるし、未来はある、ともなる、ということである。編集委員会としては、特集主旨を繰り返すしかないであろう。「・・・・その先にある未来は、いくらデータを精緻に積み上げても確定的に描ききるものではない。・・・建築業に未来があるとすれば、過去・現在を見つめたうえで、この建築界をどうしたいかという我々の構想のなかにある。今回の特集を通して、読者の方々は是非その構想を膨らませ、相互に議論を喚起していただき、豊富な未来像を描く契機となれば幸いである。」

 ③逆説的ではあるが、じっくり読んで各原稿にそれぞれコメントいただけたということは、否定的にではあれ、多少とも考える素材を提供できたと編集委員会としては大いに特集を評価したい。
 ④執筆者からは、充分な反論のスペースと時間が欲しい、投稿者の意見が正しいと誤解される、批判としてあたらないといった意見、希望も寄せられたが、反論が寄せられた段階で対処したい。

 ⑤いずれにせよ、建築業の未来をめぐってさらなる幅広い議論の展開を期待したいと思う。また、「建築市場・建築産業の現状と将来展望」特別調査委員会には明るい未来への展望を期待したいと思う。

 

 編集委員各位のメールによるコメントは省略するが、次回編集委員会では了解を得ることが出来ると確信。

 

200236

 なんと、留守番電話に大文さんの声。「おーい布野、千萬樹にいるからすぐ出てこ~い」。続いて大将からも二度ばかり。「大文さん、お待ちですよ~。」

 出張というのは京都であった。4日、5日と京都にいらっしゃっていたのだ。僕は東京だから行き違いであった。

 慌てて電話。ようやく話すことができた。すれ違いを謝る。編集長の顔を潰さないで下さい、と泣きつく。とにかく、大文さんに出て来て欲しい、と訴える。

 「長年のつきあいじゃないですか」と、一応了解いただく。

 京都には、仕事の関係で南禅寺を見にいらっしゃったのだという。いくつになっても勉強熱心である。

 大文さんには布野研究室の竹村君を預かってもらった。修士卒の親方見習いである。いまは、ものつくり大学にいる。大文さんとは、特にここ10年親しくしていただいている。木造の行方について是非一言ほしい。

 

 トム委員がForeign Eyesで外国とやりとりするメールも結構大変だ。テーマは、Japanese Built t Environment なのに、自分の作品解説だけ送ってきたりする。英文メールに混じってライデン大学のナス先生からうれしい知らせ。

 

This is to inform you that LIT Verlag at Berlin, Germany, has agreed to publish our book The Indonesian Town Revisited. I am very glad that this young active and already well-known publisher will host our book. I hope that the final stage of making a copy-ready volume will not take too much time. I plan to finish this before the summer holiday. Yours sincerely, Peter Nas

 

書いた論文が本になって出るという。これまでも、外国で出版したことはある。“Bauen mit Eigensinn Japanische Architecture Individualism and Idiosyncrasy, Petruschat Verlag, Berlin,1996がそうだ。また、『日本当代百名建築師作品選』(布野修司+京都大学亜州都市建築研究会,中国建築工業出版社,北京,1997年)もある。いずれも、日本の建築家の作品を紹介する本だ。後者は、中国国家出版局優秀科技図書賞受賞 (1998年)を受けた。さらに、『建築.まちなみ景観の創造』(建築・まちなみ研究会編(座長布野修司)、技報堂出版,19941月)は韓国語訳がある( 技文堂,ソウル,19982月) 。つい最近も、『建築計画教科書』(建築計画教科書研究会編,彰国社, 1989年)を韓国で翻訳したいという。しかし, 英文論文集となると初めてである。なんとなくうれしい。論文タイトルは、‘Spatial Formation in Cakranegara, Lombok’である。

 

200237

 菊岡さん、斉藤さんから、投稿文についてのコメントが届く。一応格好はつきそうである。

 

 本特集のなかで過去を主題として言及したのは私だけであろうかと思います。

「建築業界に未来はあるか」という特集に際して、業界の歴史に関する記事も加えようという編集委員会の見識を私は支持したいと思います(概してこのような特集では過去=歴史については排除されるのが通例です)。産業の通ってきた道を振り返ることが現在および未来について考える際の“即効薬”になるとは思いませんが、人間の遺伝子や育った環境ほかが現在の人格・行動に影響を及ぼしているのと同様、現在と未来を考える上で、建設産業史について考えることは必要なことと私は思います。「歴史は鏡」というフレーズもあります。今回、文章+年表というかたちで建設業政策の過去から現在までを拾い上げたのは、読者各位に歴史の事実から「思考の滋養素」を汲みとっていただきたいと思ったからにほかなりません。そのための素材提供が目的でした(建設業界はある部分、過去を振り返ることなく、いや捨てて、前へ前へと進んできた観がある産業です)。なお今回、編集委員会から私に与えられた依頼文の一部を拙稿の冒頭に記しておきました。それは、「明治から今日に至るまで、建築業に対する産業政策をパースペクティブに提示していただく…」というものであったことを付記したいと思います。(菊岡倶也)

 

  「建築業界に未来はあるのか」という問いに対し、未来がある、あるいは未来を創れる、と考えるからこそ、未来を見出すことができるような要素について描こうとし、テーマの選択を行った。

 未来を描くためには、現状認識を的確に行い、歴史あるいは事例に学ぶという姿勢が必要と考える。その観点から、今回は建築ストラテジー、特に英国における建設産業ストラテジーを中心に議論し、その中から日本の建築産業へと反映できる要素を抽出している。その中に未来を創造するためのストラテジーとして①発注者中心の建設産業政策の導入、②明確な数値目標の設定、③官民パートナーシップの拡大、④ベストクライアントとしての発注者改革、⑤建設産業の情報開示の推進が必要不可欠と提言している。

 しかし、これでは未来を描いていないという批判に明確に応えていない。本論を進めるうえで、特に考慮した背景が批判の回答になるかもしれない。

 発注者という立場で最近感じるのは、本来日本の建築業界が持ちえてきた、あいまいな建設過程における中間領域的な技術が失われつつあるのではないか、また、建築業界に必須の伝統的な技術が失われつつあるのではないか、というのがある。これまでは、すべての建築技術者には、少なくとも、己の技術を建築の部分で実現する部分と全体の建築として昇華させるマネジメント能力を持っていた、と思う。アルビン・トフラーは、第一の波では生産と消費が渾然一体化した手仕事の時代であり、人間の能力が尊ばれる時代であったのに対し、現在の建築業界の置かれている第二の波である「工業化社会」においては、規格化、専門化、同時化、集中化、極大化、中央集権化が進んだ結果、非人間的な原則が人間を支配するようになったと述べている。これを建築業界における品質の概念として見れば、個々の材料や組み立て技術は高度化されてきたものの、建物全体としての技術者同志の調整や統制が遅れ、過去の建物よりも品質として劣化しているものが頻繁に見られる。この主要な要因は、専門分化により各自の境界が明確になり、従来、建築業界に携わる誰かが行っていた境界領域間のあいまいな作業の補正をしなくなったためであると考える。それゆえ、だれかが境界間の隙間を埋めなくてはならないが、過去においてはそれが設計者であったり、施工者であったり、専門工事業者であったりしていたものが、現在は誰もいない。その結果が品質に現れている。

このままで第三の波に突入することはできない。生産と消費が再度融合されてゆく第三の波の時代は、第一の波の時代に似たプロシューマ-(生産=消費者)の登場や、都市の分散化、個人の多様化が図られると予測している。それゆえ、これまでの技術の再認識を行うことと、技術にマーケティングやマネジメントといった建設サービスのソフト部分を付加することにより、多様な発注者が望む「もの」を作ることが建築業界において確立され、多様性の時代に合致した建築産業となることが望まれている。この意味において、建築産業のサービス産業への脱皮は不可欠であり、その変化は、単に発注者の利益となるだけでなく、われわれ建築業界に利益をもたらすものと確信している。より良い未来の建築業界の創造が期待される次第である。(斉藤隆司)。

 

建設通信新聞に「『建築雑誌』を刷新」掲載。


200238

 午前中、Traverse3号の企画で巽和夫先生インタビュー。高田、古阪、大崎、布野で、大学入学から現在まで一気に聞く。もちろん、時間は足りない。またの機会をということになった。

 研究室では、京都CDL(コミュニティ・デザイン・リーグ)の第3回大会の準備が始まっている。

 

 5月号が原稿入校中。8月号インド特集修正案が新居さんから送られてきた。山根、青井委員も加わって検討中だ。小特集で24pしかないのがつくづく残念である。

 

建築雑誌8月号インド亜大陸建築小特集(企画案3)                  

                                          新居照和

目次構成(トピックは仮題、仮ページ数、敬称略)

1)原初を考える ( 4)

「水の建築・山の建築・大地の建築」    新居照和/ヴァサンティ・メノン・新居

全体を関係付けるテーマとなるように表現する。インド建築空間を並置しながら、思想としての人と自然との関係や、多様性の構造を論じたい。

2)未来へのまなざし:論考を含めたメイル・インタビュー形式 (6)

今日のインドが面する深刻な課題を、国境を超えた普遍的課題とし、かつ読者自らの建築のあり方を見つめ直す機会になるように位置付ける。ドーシから提示された下記の論考をもとに、ドーシの長年の試みと、時間を超えた様々な具体的事例に触れながらインタビューを行う。

「インド及び開発途上地域の都市開発の未来」

 Future of Urban Development in India and other parts of the Developing World

                   バルクリシュナ・ドーシ(内諾・印)+ドーシの研究所

(編集者側からのインタビューとしては、建築教育、若い世代の建築的試みや問題意識、危なく見える最近のインドの状況、都市の再生と創生、アフガニスタンとテロ、多数を占める非西洋世界の課題などの問いかけを考えている。質問事項の御提案をお願いします。)

3)各論120世紀の巨匠から (5)

ル・コルビュジエとルイス・カーンがインドと関わる中で、どのような出合いがあり、彼等の仕事にどのような可能性が託されるようになったのか、インド人建築家の実体験と役割を通して語る。

①「ル・コルビュジエのインドの仕事」       バルクリシュナ・ドーシ(内諾・印)

(ル・コルビュジエのもとで修行し、カーンを含めて巨匠のインドの仕事の生き証人。インドの代表的建築家であると同時に建築教育の礎を担った。これまでの発表内容に加えて新しい内容を期待する。)

②「インド亜大陸におけるルイス・カーンの仕事」 アナント・ラジェ(内諾・印)

(カーンのもと、チーフとしてインド経営大学に従事し、カーンの死後引き続き設計を担当する。バングラデシュ国政センターを含めてカーンの意図や頑張りが語れる生き証人。インドの代表的建築家の一人で、深い建築理解を感じさせる教育者でもある。)

4)各論2:古典建築から (7)

研究者として、インド建築と向き合い没頭する中で、そこまで突き動かされたのは何なのかを感じさせ、そこから何を発しているのかを語る。

①「アフガニスタンの仏教遺跡バーミアン」(2)         西川幸治(内諾)

  ガンダーラの復元

②「ヒンドゥー建築とインド・イスラーム建築」(3)

             ジョージ・ミッチェル(内諾・英)/スネハル・シャー(内諾・印)

 ヒンドゥーとイスラームの建築空間構造について、最新の調査没頭した建築をヒンドゥーとイスラーム建築から二例上げる。今日のインド亜大陸の成り立ちとその独特さをつくる背景に言及しつつ、入門的解説となることを目指す。

ヒンドゥー建築の選択肢として、「タンジャウール(南インド)ヒンドゥー寺院複合建築」があげられる。(編集者の意識としては、ヒンドゥーとイスラームの対立と言う捉え方が、いかに誤解されているものか理解される手がかりにもなることを期待したい。)

③「インド建築−発想の転換」(2)              飯塚キヨ(内諾)

自己の人生観、建築教育観、社会観を変えた、あるいは影響を与えたインド建築を一つ選んで頂き、インド建築の問いかけを具体的に論じる。

5)資料 (2) 

はやわかり・建築で見るインド亜大陸の地域と歴史               山根 周

はやわかり・建築学会誌に見るインド亜大陸への眼差し             青井哲人

特集にあたって

1) ビジュアル半分、文章半分、共に建築のすばらしさがにじみ出て、国際的にも共感できるものでありたい。グラフィックデザイナーの力を存分にお借りしたい。文章は、わかりやすい言葉で、執筆者の豊富な経験を反映した生きた文章になることをお願いしたい。

2)要約文等を含めて、バイリンガルの工夫ができるかどうか検討したい。

例えば、インターネットで英文を公開することによって、雑誌の特集は全て日本語で納まり、その分の誌面をビジュアルにさける。

3)山根委員、青井委員に翻訳、注釈コラムを含めて、絶大なる協力をお願いしたい。

 

200239

 1月号の特集への応答は7日を締め切りとしたのであるが、執筆者のひとり嘉納先生から投稿文掲載反対の連絡があった。いささか困った。「1月号に対して、そのような感じ方をする人もいると言うことが判り、参考になります」とあったし、編集委員会の大勢も掲載の方向であったから、掲載の意向を嘉納先生に伝えた。掲載については編集委員会マターであり、編集権はある。

 

2002311

 嘉納先生から重ねて掲載反対のメール。「編集長として、「各執筆者の原稿を面白おかしく批判している部分もあり、その批判が妥当ではない部分もあるが敢えて原稿のまま掲載した」と記載して欲しいと重ねてお願いします」ということであったので、「了解しました」、と返事する。
 小野寺さんから、「英文論文集、今年はこの3月の刊行ですが、来年は11月に繰り上がることになりまし
た。1500号特集がずれて2月号になってしまいます。今年は大会が例年より1カ月早い開催ですので、12月号を大会報告号(小特集)とし、2月号は通常特集としたうえ1500号記念号に充てることを提案いたします。」と連絡あり。

 会員諸氏は、英文論文集、作品選集、総合論文集などが『建築雑誌』の号数に組み入れられているのをご存じだろうか。

 

2002312

 第9回編集委員会で上京。会議の前に、2月号がまだ京都に届いていないことを斉藤事務局長に報告。宅配業者に問題があるのではないか、検討をお願いする。特に今回は評議員、代議員の選挙が絡んでいたので問い合わせがいくつかあったという。

 

議題は以下の通り。メインは8月号の「インド特集」。いつも時間切れになるのでまず連載の確認。続いて、投稿論文の扱い、経過について説明、了承を得る

 北澤先生が初めて出席。「田園都市」100年ということもあり、都市計画、農村計画分野で特集を組む、その企画をお願いする。かなり意見が出たのは、野口委員提案の「建築の寿命」特集。面白くなりそうである。

 英文論文集が繰り上がったせいで、1500号が小特集の月になる。12月号を小特集とし、「光の環境」を当てる。2月号を1500号記念号とすること決定。

 

9回 編集委員会 議題

1.前回議論の確認 …………………………………………………………(資料1

2.特集企画について ………………………………………………………(資料2

  【進行の確認】

    7月号「シックハウスから健康住宅へ-室内空気汚染問題の今」

                         →岩下委員・羽山委員

  【企画の審議】……………………………………………………………(資料2

  ・8月号「インド亜大陸建築」               →新居委員

  ・9月号「建築年報2002」               →布野委員長

  ・10月号「光の環境」                   →石田幹事

  ・11月号「建築の寿命」                  →野口委員

  ・12月号を小特集とし、2月号を1500号記念号とする案について

3.連載について ……………………………………………………………(資料3

   8月号までの執筆者確定

  ・技術ノート「特許」について

  ・foreign eyes の候補者

   →(小野田委員より)オハイオ州立大のキプニス教授、UCLAのベン・レフェ

    ルゾ教授がお勧めです。ノースカロライナ州立大のサノフ教授というコネク

    ションもあります。

41月号に対する投稿について …………………………………………(資料4

5.検討事項

  ・特集記事の要約について

  ・「本会記事」委員会報告、支部活動報告の削減案について ………(資料5

 

  いつもの懇親会。北澤先生も参加で話題盛り上がる。そこへ、斉藤事務局長、嘉納先生のメールのコピーを持参。ご存じですか、とおっしゃるから、知っています、先ほどの編集委員会で掲載は決定しました、と答える。

 

2002313

理事会。校務で出席できず。初めての欠席である。京都に帰って、嘉納先生が仙田会長にも掲載反対の意見を送られたことを知る。いささか心外。

中国建築学会から、第4回アジア建築交流シンポジウムについての連絡がやっと来る。担当の栗原いずみさんからメールが入った。

アジア建築交流委員会の委員長として、シンポジウムへの参加は今年第一番の仕事である。

第一回は、日本建築学会の百周年を記念して行われた。その後、線香花火に終わりそうな流れであったが、尾島俊雄会長の時に第二回が神戸で1998年に実現した。神戸では実行委員会の副委員長を務めた。委員長は神戸大学の重村力先生である。その神戸シンポジウムで、日本建築学会、中国建築学会、大韓建築学会の3学会が以後持ち回りでシンポジウムを開催することに合意、協定が結ばれた。その協定に基づいて、2000年に韓国建築学会が済州島で開催、2002年は中国で開催するというのが経緯である。

アジア建築交流委員長になって、インドネシア(20013月)、マレーシア・タイ(20019月)へ視察団を送った-というか、自ら団長をかって出て行った。いずれも、建築雑誌に報告(20016月号、20021月号)があるので参照されたい-のであるが、2002年の中国大会への参加要請がひとつの目的であった。一方で、中国建築学会とは連絡をとり続けた。研究室出身の孫躍新君が北京で活躍していて太いパイプになっていて頼もしい。

開催場所として決まったのウルムチであった。孫君はニヤ遺跡の発掘にも関わり、新疆ウイグル地区には特に詳しい。会議後のツアーも組んでもらった。

しかし、911日(WTC)で状況ががらっと変わった。

ウルムチはイスラームに関わりが深く、開催地として相応しくないと中国建築学会が判断したのである。代替の開催地が決まらないまま年が明け、中国が正月休(2月)に入った。埒があかないと、中国行き決定したばかりの連絡であった。

場所は重慶である。

担当の学会事務局の栗原さんがすばやく手配してくれた。彼女の回転の速さにはいつも感心する。まず委員会メンバーに知らせなければ、と思う前に以下の文章が出来ていた。

 

アジア建築交流委員会委員各位
 拝啓 時下ますますご清祥のこととお慶び申し上げます。
 中国建築学会から「第4回アジアの建築交流国際シンポジウム」のANNOUNCEMENT AND CALL FOR PAPERSが届きましたのでお知らせいたします。開催地は重慶,開催期間は,917日~19日(16日夜にWelcome Reception)です。
 
委員の皆様におかれましては,シンポジウムにぜひご参加くださいますようお願いいたします。また,シンポジウムの参加ならびに論文の投稿等については,当委員会委員以外の関係各位へも,ぜひともお声がけ(メール転送等)下さいますようお願いいたします。建築雑誌では3月号と4月号の情報ネットワークでの掲載を予定しております。また,ホームページ上でも案内を予定しております。
 
また,4月に当委員会の開催を予定しております。日時等詳細決定次第追ってご連絡させていただきますので,お差し繰りご出席くださいますようお願いいたします。    委員長 布 野 修 司

 

建築雑誌への掲載もあっという間である。

 

 

  Announcement of the Forth International Symposium on Architectural Interchange in Asia

4回アジアの建築交流国際シンポジウム開催のお知らせ

アジアの建築交流を目的に本会設立100周年記念事業の一環として開催した第1回シンポジウムの目的を引継ぎ,

中国・韓国・日本の3学会共催で1998年から開催,共にアジアの建築の学術・技術・芸術の向上をめざします。

開催日:2002917日~19

開催地:中国 重慶

  催:中国建築学会・大韓建築学会・日本建築学会

シンポジウムにあわせ20029月にシンポジウム参加公式訪問団を派遣-北京,西安,上海,他都市を巡るツアーも企画いたします。

詳細はホームページおよび4月号建築雑誌会告でお知らせします。

Call for papers

You are cordially invited to contribute papers to the ISAIA. Please be informed on the following instructions for preparing the manuscript.

---- The deadline for submission of paper is July 15, 2002. Please send your paper in one printed copy with a disk to the symposium secretariat by registered airmail or EMS.

---- The official language for the paper and presentation is English.

---- The length of the paper is recommended in 4 pages of A4 size. The maximum length of paper should be limited within 6 pages. Figures and tables can be inserted into the lines of paper, or placed at the rear of the paper.

---- All papers will be reviewed and selected by the Scientific Committee of ISAIA. The selected papers will be published in the proceedings and part of selected papers will be presented at the symposium. The authors will be informed before August 20th, 2002.

---- All measurements should use the metric system.

---- Typing instructions: The manuscript should be arranged as follows (1) Title of the Paper (2) Name of the Author (3) Affiliation of the Author (4) Abstract of the Paper, maximum 300 words (5) Main Text Including Figures and Tables (6) References. Please use plain white A4 paper and leave 25mm margin on top and bottom, leave 20mm margin on left and right sides; the full type area is 170mmX245mm.

 

中国建築学会は、基調講演者、招待参加者、組織委員会メンバーについての回答を求めているけれど頭が回らない。今日、明日は国立大学の後期試験である。

 

2002314

 仙田会長は、嘉納先生の意見を企画運営委員会で採り上げられたらしい。企画運営委員会の議事録が送られてきた。締め切りもとっくにすぎているのに、あせる。上旬に出すのが目標である。しかし、編集委員会は相対的に独立しているとはいえ、企画運営委員会の意見には従わざるを得ない。結論は以下であった。

 

結論

企画運営委員会として、前述の参考意見も付して布野編集委員会委員長には

①編集委員会の議論喚起の方針を支持する。掲載有無の判断も編集委員会に委ねられる。

②本件については、投稿の指摘内容について個別評価はできないので、今後の議論に期

 待する。

③そのためにも表現のあまりに軽い部分、適切でない部分については編集委員会として

 修正の注文を出していただく。 

 旨、要請することになった。

 

正式に伝えられたわけではないが、小野寺さんから連絡があったから動かざるを得ない。

早急に投稿者の林俊雄さんに③についてお願いする。

 以後、一日メールのやりとり。後期試験の真っ最中である。紆余曲折はあったが手を入れていただくことになった。まずはほっとする。

 

 しかし、自宅に2月号が届いたのが今日だ。遅すぎる。宅配便の仕組みを見直すよう重ねて事務局にお願いする。 

 

2002318

 投稿文の最終校正。

2002319

 日韓建設工業新聞 編集長インタビュー記事掲載。

 

 

2002320

 長年の友人、インドネシア、ジャカルタのウィスヌ・アルジョ氏が国際交流基金の招きで夫人と共に来室。二週間前に大変な有名人が布野先生に会いたいと言っています、と言うから誰かと思ったらウィスヌという。

 今はジャカルタの美術センターのセンター長である。夫人は中央政府の役人である。今回は「建築遺産の保存活用」を主にテーマにして招待されたという。久々旧交を温めることが出来た。23日の土曜、我が家で研究室の卒業パーティーをやるから、是非来るようにと誘う。

 

 『日韓建設工業新聞』の、建築雑誌についての編集長インタビューの記事が届いた。以下が全文である。記事を書いた神子久忠さんにメールで送ってもらった。実に好意的でうれしい。と同時に身が引き締まる。

 

 日本建築学会の会誌『建築雑誌』の新編集長に布野修司氏(京都大学助教授)が就任した。発行部数約36000部。混迷する建築界にあって、学術・技術・芸術を統括する建築学会の役割はますます大きいが、その影響力を最大限発揮できるのが会誌である。「これだけの部数の雑誌編集長をやるチャンスなどめったにないので、ぜひやりたかった」というだけあって思いは熱い。編集長としての最初の仕事が20021月号である。テーマは「建築業界に未来はあるか」。中身の濃い渾身(こんしん)のテーマである。布野オリエンテーションである。「建築界、建築業界は未曾有(みぞう)の転換期を迎えていて、構造改革なくしてこれからの展望はありえない。だから、これから2年間はこのテーマが主軸となる」。そのための編集委員も布野組閣でそろえた。刺激的な雑誌が動き出した。

 編集員会はジャンルをこえた議論の場に

 布野氏の就任は016月である。雑誌発行の準備期間もあって、半年前に半年後の企画をつくることになっているからである。その成果の第一号が021月号である。巻頭に新編集長のメッセージ、「ラディカルに考える」が掲載されている。

 「学会の方針をわかりやすく会員に伝えるのが第一の使命」だが、同時に打ち出したのが「編集委員会を刺激的で楽しい議論の場にする。それを通じて新たなネットワークを構築し、毎号の作業をストックしてそれぞれの業績にする」というものである。

 「会誌だから学会の方針と離れてはありえないが、相対的には独立していることが必要。そのためにも積極的な活動を続けたい。編集委員は各分野の精鋭を集めたので、ジャンルをこえた議論をしてもらっている。ジャンルの違う人がお互いに議論し刺激しあうことが大事で、こうした場を経験できることはそう多くはない。議論を通して各テーマをあげてくる。企画責任者はいるが、全員参加が目標である」

 「学会には緊急かつ重要課題を検討する特別委員会が設置されているが、それは2年間の時限だから、その間、結論が出るまでなにもやらないわけにはいかない。雑誌はマンスリーだから、その機能を果たさなくてはならない。可能な限り風呂敷を広げ、議論のための材料を出していきたい。建築界、建築業界が転機だけに、本質にかかわる問題をつねに深く考えていきたい」

 少しでも多くの人に読んでほしい

 「36000人すべてが会誌を読んでいるとは思えないので、まず読んでもらうこと。そのために誌面を刷新した。装幀やアートディレクションに鈴木一誌さんに再登場願った。とりわけ挑戦的なのは表紙で、毎号、特集の内容を表すインパクトある図や表を掲載している。

 会員外からは建築家で、評論家でもあり小説家でもある松山巌さんに編集委員に入ってもらった。わからない文章は載せない、ということで全体を見てもらっている。また執筆者には、〈初めに〉〈終わりに〉という紋切り型の書き方をやめてもらいたいと思っている。ささいなことだが、本質的な議論を展開するには大事なことだし、専門ということで閉じてほしくないからである。

 そして、よりビジュアルにするために特集および連載はカラーにした。無駄なコストは徹底的に省き、雑誌のスリム化にも挑戦している。紙質も再生紙にしたし、さらに大豆インクを使っている」

 なんとも面白い「編集長日誌」はホームページで

 布野編集長となって話題を呼んでいるもう一つが「編集長日誌」である。いつだれにあって、なにを話し考えているかを、〈公〉だけでなく〈私〉も含んでドキュメントしていて、なんとも面白い。

 「ホンネでなにを考え、やろうとしているのかを少しでも知ってほしいし、それはアナウンスすべきだと思ったからである。ホームページでいつでも見られるので、ぜひアクセスしてほしい。私の動きも編集委員会の動きもわかる。インターネット機能も試してみたい。学会はその機能をどう評価するかを模索中だが、たとえば雑誌の約半分を占めている会告などの〈情報ネットワーク〉欄の大部分はインターネットに切り替えてもいいのではないかと考えている」

 無難な建築ジャーナリズムにも切り込む

 編集長の任期は2年。24冊つくることになる。なんでこんな公共空間になるのか、京都議定書は建築をどう変えるか、といった刺激的なテーマがすでに決まっている。

 「無難な書き手をそろえない、意見の違うものも載せる、反論もおおいにけっこう。既存の建築ジャーナリズムは、それなりの持ち場があるが全体的に活気がない。昔は若手が執筆する場があったが、いまそれがない。それなら『建築雑誌』が仕掛けてやろうという気持ちがある。たとえば2月号は大学院生たちが実質的にまとめているが、そうした場を提供していきたい。

 それに年3月号は創刊1500号となるから、なにかイベントをやりたいが、そんなこともあわせて、可能な限り大きな歴史的パースペクティブをもって各テーマをとらえていきたい」

 「編集長日誌」のホームページは、http://news-sv.aij.or.jp/jabs/1/sub5-1.htm(了)

 

2002326

 アジア建築交流委員会の委員長として中国建築学会との事前打ち合わせのために中国へ。午後、関空から上海へ。

同行は研究室のモハン・パントさんと研究室出身で神戸大学の重村研究室のトウ・イ君。二人ともこの三月、めでたく学位を取得、昨日、学位記をそれぞれ京都大学と神戸大学で授与されたばかりだ。パントさんはネパール出身で、上海の同済大学で修士をとり、シドニー大学の博士課程に学んだが、様々な経緯と縁があって出会った。カトマンドゥ盆地のティミという町を主対象にした学位論文は極めて高水準の論文である。

精華大学出身のトウ君も経緯があって日本に来ることになり、不思議な縁でと出会った。北京の朝陽門地区のフィールド調査をもとに修士論文を書いた後、これまた様々な事情と経緯で、神戸大学の博士課程(重村研究室)に入学することになった。北京の街割りについて『乾隆京城全図』(1750年)を徹底的に分析した学位論文を書いた。わずか三年での学位取得については、重村先生の献身的指導があった。北京オリンピックに向かって大きく再開発されようとする北京にとって貴重な論文である。中国の建築学会でも既に注目を集めはじめている。

パントさんは、母国語の他、ヒンディ語、中国語、英語、日本語がべらべらの語学の天才である。最初の寄港地を上海にしたのは、中国建築学会副理事長で、上海建築学会理事長、中国科学院院士でもある同済大学の鄭先生に合う主目的の他、パントさんの母校への報告もと思ったからである。

上海につくと念願の外灘(バンド)の和平飯店に宿泊。まずは二人の博士誕生に乾杯であった。

テキスト ボックス: 上海:外灘

 

 

2002328

 上海は、おそろしく元気なまちだ。超高層が林立する様は壮観である。昨日は、まず、上海城市規画展示館で上海の都市計画の現況について情報収集。2010年の上海博覧会には6カ国からの提案があり、日本からRIAが参加している。その後、いささか遠出であるが、周庄へ。江南の水都の雰囲気を味わう。情けないことに和平飯店は一日限りで宿替え。予約で満杯なのだという。上海書城のすぐ近くの上海大都市酒店。部屋の眼下に里弄住宅というか、石窟門形式の住宅がびっしり並んでいる。超高層が林立する谷間に低層の居住区がまだまだ点々と存在している。

 まず、同済大学へ。鄭先生と歓談。鄭先生が中国側を代表して基調講演を行う、というのは決定済みだという。鄭先生は、フランス建築科学院院士でもあり、イタリアで勉強されたこともあって欧米には強い。昨日も午後、我々と入れ違いに、上海城市規画展示館へフランスの代表団を案内したという。

 鄭先生と第4回アジア建築交流シンポジウムについて簡単に意見交換。台湾の参加は組織として難しい、個人としての参加なら問題ないなど的確な判断をもらう。エクスカーションで三峡下りはどうか、と奨めて下さる。重慶から23日で武漢、さらに上海まで来たらとおっしゃる。

パントさんは10年振りの母校に懐かしそう。学位論文を恩師に届ける。

鄭先生が上海のニュースポットとして「新天地」をみろという。「新天地」とは、19世紀半ばに建設された住宅地を現代的に再生させたプロジェクトである。第一回中国共産党大会が行われた煉瓦造の建物がスターバックスになっている、そんな興味深いプロジェクトであった。

 

テキスト ボックス: 上海:歴史的地区:新天地(下)

 

テキスト ボックス: 上海の光と影:          都心に残る里弄(石窟門)住宅群(右)

 

 

 

 

2002330

 昨日、上海から北京に移動。孫躍新君の出迎えを受け、旧交を温めた。

 午前中、7年振りの中国歴史博物館、故宮。3年前に来たときは、外務省の文化事業の講演が目的だったから、故宮に寄る時間はなかった。

 午後2時より、羅頸君の事務所で日中交流のためのミーティング。僕の中国訪問に合わせて企画したということであったが、急遽何かしゃべってくれ、といわれて大慌て。羅頸君は、布野研究室に入りたかったのであるがうまくいかなかった。その後経緯はあるが、いまや40人のスタッフを抱える事務所を経営する、日本からみると大建築家である。孫君と仲がいい。

 困ったけれど、ノートパソコンには様々データがある。三年前しゃべったレジメもあるから、なんとかなる、と昨晩レジュメをつくる。題して「最新日本建築界動向」。孫君が映像が欲しい、というから、急遽、学会賞、作品選賞の作品をダウンロード、最近の日本建築の動向をしゃべることにする。便利な時代になったものである。

 驚いたことに30人もの人が集まった。なかなか面白いネットワークである。

 中国建築装飾協会。羅君は内装のデザイン・ビルドを手掛けており、声をかけたのだという。

 中国房地産業協会。日本で言えば不動産業界である。今や元気がみなぎるディベロッパーの諸君である。


 旧知の京都大学で学位をとった白林君(北京交通大学教授)、東大の藤森研出身の呉耀東君(精華大学副教授)の他、伊東豊雄事務所に4年いて、今、北京大学建築学研究中心で仕事を始めた文部科学省派遣研究員の松原弘典君、大成建設を定年前にやめて中国電子工程設計院の顧問を務める高梨正雄氏にも初めて合った。あと、重慶に拠点を置く出版社『A+D』社から三人参加、第4回ISAIAに全面協力したいとおっしゃる。さらに、カリフォルニアから王受之先生。『世界現代建築』という著書を寄贈下さった。また、香港からも建築家の参加があった。

 以上のようなメンバーだから、話は建築業界の全般にわたった。建築雑誌一月号の特集を紹介すると彼我の違いをめぐって活発な議論になった。

開発に当たって、土地の収得の問題、文化財の出土の問題など共通の問題も多い。開発しても下手なものをつくったらすぐ再開発されてしまう、歴史に残るものをつくりたい、というのがディベロッパーの大勢。

とにかく、デザインより、日本の開発、再開発プロジェクトのプロセスと仕組みが知りたいということであった。中国では設計者が施工に口が出せない、という事情など初めて知った。政府と業界団体の関係なども興味がある。中国建築装飾協会は日本の同種の団体と是非交流したいという。

 とにかく議論は終わらない。3時間を超える長丁場となった。

今後組織を立ち上げて恒常的に情報交換しようということになった。

 

 

明日はホリデイ。これまた7年振りになるが、万里の長城と明の十三陵を見に遠出をしようと思う。居庸間関で西夏文字をデジカメに収めたい。

 

住宅の生と死・・・住宅は何年の寿命を持たねばならないのか,雑木林の世界86,199609

  住宅の生と死・・・住宅は何年の寿命を持たねばならないのか,雑木林の世界86,199609

雑木林の世界86

住宅の生と死・・・住宅は何年の寿命を持たねばならないのか


布野修司


 京都グランドヴィジョン研究会という、京都の二一世紀を考える研究会が発足して(六月)、かなりのペースで議論を始め出している(いずれまとめて報告したい思う)。八月の初旬、その研究会で報告を求められ、「京町家再生不可能論」を述べた。趣旨は、法規の壁が大きいということである(雑木林の世界54 町家再生のための防火手法 九四年二月号参照)。いくら京都の伝統的な町家の景観を維持しようとしても京町家再生は事実上不可能であるということを問題提起としたかったのである。

 その時、いささか虚をつかれる質問を受けた。「しかし、なんで再生しないといけないのか」という論の前提に関わる素朴な疑問が出されたのである。木造の町家に住みたくない、建てようと思っても建てれない、時代と共に変わっていくのは仕方がないのではないかという住み手としての素朴な意見が一般的なように思えた。また、スクラップ・アンド・ビルドは、日本の住文化の伝統だ、という耳になじんだ意見も当然のように出された。メンバーは、関西で京都に縁のある文化人、学識経験者である。循環型都市システム、社会資本の充実といった議論を鋭く展開する先生方である。しかし、こと住宅になると別の感覚が働くらしい。

 住宅供給のシステムに関して、バブル崩壊以後、また地球環境問題の顕在化以後、僕らは、なんとなくフロー型からストック型への構造転換を必然的だと考え始めているのであるが、その構造転換を身近な住宅のあり方に即して考えることは一般的にはなじみがないらしいのである(僕らももっと広く議論をすべき、ということだ)。

 しかし、その時の質問にも正直に答えざるを得なかったのであるが、ストック型になるべきかどうか、というのは日本の経済、産業界の編成の問題である。住宅建設戸数が減っていけば、住宅産業界は飯の食い上げなのである。

 確かに建設投資がGNPの二割を占めるような国は先進諸国にはない。住宅を三〇年でスクラップ・アンド・ビルドしている国はない。しかし、住宅が一〇〇年の耐用年限を持つようになると、住宅生産に関わる人員は三分の一でいい。あるいは、住宅の価格を三倍にする必要がある。単純な算数だけれど、そういう構造が果たして変わるのか。その全体構造の帰趨を議論しなければ、日本の住宅生産がストック型に転換しうるかどうかは不明なのである。

 一方、「中高層ハウジング研究会」でも、ストック型住宅供給システムを前提として議論を続けている。具体的なプロジェクトも少しづつ動き出しているのだが、共通にテーマになっているのが、スケルトンーインフィルークラディングの三系統供給システム、あるいはオープン・ハウジング・システムである。

 スケルトンの寿命が長くなるとすれば、維持管理に関わる産業あるいはインフィル産業へ住宅産業界がシフトしていくのは必然である。インフィル産業界が新たに育ってこなければならない。しかし、一体、スケルトンは何年持てばいいのか、インフィルは何年でリサイクルするのか。そもそも、模様替えして住み続ける住み方が日本に定着するのか。オープン。ハウジングというのは、果たして、ほんとに目指すべき方向なのか。

 というようなことを少しじっくり考えてみようと思い始めているのだが、タイミング良く、野城智成先生(武蔵工業大学)から「既存建物再生事情・イギリス編」(『Re』N0.103 財団法人 建築保全センター)を送って頂いた。ストック型社会のモデルとしてイギリスの事情が紹介されているのである。イギリスの研究者の論文の他、岩下繁昭、菊地成朋、黒野弘靖氏ら、イギリスへの留学経験のある研究者の論文も収められている。

 興味深いのが、「住宅は何年の寿命を持たねばならないか? イングランドにおける住宅の年齢および推定寿命に関する考察」と題されたジェイムズ・ミークル、ジョン・コンノートンという世界最大の建築積算事務所の両取締役による論文である。イギリスの人口は日本の約半分で比較しやすいのであるが、年平均の住宅供給(ストック増加)数は、一九八五年から九〇年の五年で一九万一〇〇〇である。三〇年前の一九六一年から六五年平均で二八万四一〇〇〇である。日本は一九六〇年で新設着工戸数は約六〇万戸であったから、人口規模を比較するとほぼ同じ建設数だったとみていい。その後、イギリスの着工戸数は減少して年間二〇万戸程度になったということは、日本に置き換えると年間四〇万戸体制である。果たして、三〇年後、日本はイギリスの道を辿っているのであろうか。

 面白いのは、この論文のトーンが、もっとストックを更新すべきだ、という主張にあることである。新築建設戸数が現状である(二〇万戸)とすれば、全住宅ストック数を更新するには百年かかる。実際には人口増があり、一〇〇〇年の間住宅は持たないといけない、という推計も示されている。それはオーバーとして、実質年間五万戸~一〇万戸のストックを更新していくとすれば二〇〇年~四〇〇年住宅は耐えねばならない。それではストックが良好に保てない、というニュアンスが強いのである。

 果たして、日本はどうすればいいか。先の『Re』の冒頭には、LCC(ライフ・サイクル・コスト)が日本に導入されて四半世紀になるけれど一向に普及しないという記事がある。LCCといっても、一〇〇年後になると予測不可能なことが多すぎる。住宅を建てる人にとっては自分が生きていない後のことまで考慮することはなかなか難しい。その方が安いといっても、長期的な視点は個人的には持ちにくいのである。住宅産業は林業に近くなると言えるであろうか。次世代を考えたサイクルが必要とされるのである。

 人の一生(ライフ)のスケールで考えた方が分かりやすい、という主張にも根拠がある、と思う。問題は、誰にとってメリットがあるのか、ローコストであるのかである。

 大きな枠組みとして共有できそうなのが、「地球環境問題」という枠組みなのであるが、果たして、住宅産業界でどのような供給システムがベストと言えるのか。LCCは、どのような前提で計算しうるのか。社会的合理性、日常的合理性のレヴェルで、住宅は何年の寿命を持てばいいのか。大きな理論が必要とされていると思う。


2023年2月27日月曜日

東南アジアのニュータウン、雑木林の世界84,199608

 東南アジアのニュータウン、雑木林の世界84,199608

雑木林の世界84

東南アジアのニュータウンー日本の衛星都市

 

布野修司

 

 国際交流基金アジアセンターの要請で、インドネシア科学院(社会科学人文系)の国際会議(ワークショップ)「都市コミュニティの社会経済的問題:東南アジアの衛星都市(ニュータウン)の計画と開発」に出席してきた(1996年6月23日~30日)。丸一週間の間、ジャカルタに滞在しながら、オランダ、フランス、オーストラリア、シンガポール、タイ、フィリピン、そしてインドネシアの参加者と東南アジアの都市、ニュータウンをめぐって議論した。考えさせられることの実に多いワークショップであった。

 

●「ポスモ」の森とカンポン

 ジャカルタは、今、急速に変わりつつある。シンガポール、バンコクに続いて、びっくりするような現代都市に生まれ変わりつつある。目抜き通りには、ポストモダン風(ポスモ)の高層ビルが林立する。最近の超高層ビルは、すべてミラーグラスのカーテンウオールで頂部だけデザインされ(帝冠様式!あるいはニューヨーク・アールデコ!)、新しいジャカルタの都市景観を生み出している。

 その建築家はほとんどがアメリカ、イタリアなどの外国人だが、日本の設計事務所、ゼネコンもその新たな都市景観の創出に関わっている。

 一方、ホテルの窓の外を見れば、僕にとっては見慣れたカンポンの風景が拡がる。都心に聳える超高層の森と地面に張り付くカンポンの家々は実に対比的である。

 そして、ジャカルタのど真ん中、かってのクマヨラン空港の跡地で、今、ニュータウン開発が行われつつある。そして、郊外に様々なニュータウンが建設されつつある。強烈な印象を受けたのは、そのいずれとも日本は無縁ではないということである。

 

 ●日本の援助と都市開発

 会議では、二日目、第Ⅲセッション「東南アジアの都市計画」において、「地域の生態バランスに基づく自律的都市コミュニティ」と題して、たどたどしくしゃべった。阪神大震災の経験と日本のニュータウンの歴史と問題点を指摘した上で、カンポン型コミュニティモデルの重要性を力説したのである。手前味噌であるが、反応はかなりのものであった。少なくとも、多くの社会科学者やプランナーたちが僕の関心をそのまま受けとめて議論してくれた。しかし、問題は簡単ではなかった。

 矢のように次々と質問が飛んできた。地震で日本はどう変わったのか、東京についてはどう考えているのか。そして、最もシビアなのが日本が援助する都市開発のケースであった。

 クマヨラン空港のニュータウン・プロジェクトについて、「何故、日本の専門家チームのレポートはカンポンをクリアランスしろと書いたのか」というのである。また、「同じく日本の専門家の関わったクボン・カチャンの団地開発のケースをどう思うか」というのである。

 クボン・カチャンというのは、ジャカルタの中心地区、日本大使館のすぐ裏にあるカンポンで、クリアランスが行われ、倉庫のような団地が建った件である。これについては、当事者であった横堀肇氏の真摯な総括がある。ジャカルタで大きな議論になり、日本でも僕らが議論したのであるが、どれだけ知られているであろうか[i]1。

 

 ●ニュータウン・イン・タウン

 クマヨランのニュータウン・プロジェクトは、「都市の中の都市(タウン・イン・タウン)」計画として、また、既存のカンポンをクリアランスしないで、様々な社会政策と合わせて住宅供給を行う点で興味深いものであった。

 現場に参加者全員で見に行った。僕自身は二度目であった。最初の時はまだ建設当初でデザインの拙さだけが目についたのであるが、印象は一変した。実に生き生きと空間が使われている。一方で高級住宅がならび、日本の企業がそれを買い占めている一方で、カンポンのためのユニークな実験が行われていることは記憶されていい、と思った。

 

●日本のサテライトタウン

 次の日、郊外型のニュータウンを見に行った。民間開発のニュータウンで、そう目新しいところがあるわけではない。しかし、眼から火の出るような思いをさせられた。

 日本と韓国の投資によるニュータウンで、名の通った日本の大企業の工場が並んでいたからである。参加者のなかからすかさず野次が飛んだ。「FUNO、これは日本のサテライト・タウンなのかい」。

 「直接、僕は関わっているわけではないのだよ」というのは簡単である。それぞれ同じような構造の中で生きているのである。しかし、そんなことは分かった上で、お前は何をしているんだという、そういう問いが共有されている。

 日本産業の空洞化の最先端がジャカルタのニュータウンにある。そして、それは様々な軋轢を生んでいる。

 インドネシアのニュータウン開発にあたっては「1:3:6」規則がある。住宅供給を高所得者層1:中所得者層3:低所得者層6にするというルールである。低所得者層向けの住宅はRSS(ルーマー・サガット・スデルハナ 簡易住宅)という。18㎡~36㎡のワンルームと60㎡の敷地の最小限住居である。ところがRSSはどこにも建設されていない。日本の工場で働く労働者はどこに住むのか。周辺のカンポンである。カンポンの人たちはRSSにも入ることはできないのである。

 ワークショップ参加者の視線を痛く感じるのは、余程の鈍感でなければ当然ではないか。安価な労働力を求めて生産拠点を移し、社会各層の格差を拡大する資本の論理の体現者が日本人なのである。雇用機会を与えるというのは全くの口実である。日本の企業などなくてもきちんと自律的に生活してきた地域が破壊されてしまう。ワークショップの議論は、インドネシアのニュータウン開発をめぐる問題が中心であったが、集中砲火を浴びているのは専ら日本なのである。言葉の不如意を理由に場を繕うのは実につらいことであった。






 


[i]1 拙著、『カンポンの世界』、パルコ出版、一九九一年

 


2023年2月26日日曜日

木匠塾:第六回インターユニヴァーシティー・サマースクール、雑木林の世界85,199609

木匠塾:第六回インターユニヴァーシティー・サマースクール、雑木林の世界85,199609

 雑木林の世界85

木匠塾:第六回インターユニヴァーシティー・サマースクール

 

布野修司

 

 「職人大学構想」が急ピッチで展開しはじめた。KGS(財団法人 国際技能振興財団 本部 東京都墨田区両国二-一六-五 あつまビル5F                 )が設立されて半年になるのであるが、その活動が徐々に軌道に乗りだしているのがひしひしと伝わってくる感じである。

 七月二四日には、KGSの「ぴらみっど匠のひろば」(                )が滋賀県八日市市に設立され、そのオープニング・パーティーが一五〇〇人の参加者を集めて華々しく開かれた。驚くべきエネルギーである。

 アカデミーセンターに、ハウジングセンター、ぴらみっどイベントホールに巨大な実試験センター。すぐにでも使える立派な施設群である。もちろん、半年やそこらでこれほど立派な施設ができるわけはない。財団副会長であり、SSF(サイト・スペシャルズ・フォーラム)副理事長、小野辰雄日綜産業社長が私財を財団に提供する形をとったのである。その意気込みには頭が下がる。

 職人パスポートも創られた。年会費四八〇〇円で、教育(一日五〇〇〇円の助成)、施設(「ぴらみっど匠のひろば」の利用)、サービス(国内外ホテル、リクレーション施設利用割引)、クレジットカード(キャッシング・サービス)、安心保障(傷害保険、生命保険への自動加入)、仕事(斡旋、仲介)、登録(職人工芸士名鑑への登録)など七つの特典がある。数の強さ、集まることの力が生かされる仕組みである。

 自民党を中心にした国会議員の諸先生の意気込みもすごい。職人大学設立促進議員連盟が一五〇名もの議員を要して結成され、この九月にはマイスター制度の視察に一〇人もの国会議員がヨーロッパへ出かけることになっている。「ぴらみっど匠のひろば」のオープニングには、八日市出身と言うことで、武村正義新党さきがけ代表も見えた。ドイツに留学経験があるということで、マイスター制度には随分造詣が深そうであった。

 さて、一方、どういう大学にするかも具体化しなければならない。理念は固まりつつあるのであるが、具体的な組織固めを始めなければならないのである。また、職人大学の理念がすんなりと既存の制度の枠内に収まるかどうかは予断を許されない。様々な紆余曲折が予想されるところである。

 「ぴらみっど匠のひろば」をどう使うかも大きなテーマである。とりあえず、ピーター・ラウ(建築家 ヴァージニア州立工科大学副教授)氏が、アメリカの大学の学生を日本に招いて木造の建築技術を学ぶプログラムを決定したのであるが、急いで全体計画を立てる必要がある。一週間程度の短期学習を積み重ねて、やがて恒常化していく必要がある。もっと重要なのは、地域との連携である。地域の優れた職人さんたちの技を学ぶ場を設定したいと考えている。また、木匠塾との連携も大いに追求したいと思っている。

 今年の木匠塾のインターユニヴァーシティー・サマースクール(第六回)は、去年に引き続いて、高根村と加子母村の二カ所で、七月三〇日~八月一〇日の間、開かれた。二カ所になり期間も長くなったのは、参加人数が多くなり、それぞれのグループ毎に独自のプロジェクトが展開され始めたからである。

 東西の学生が出会うメリットが失われることが危惧されるが、今年に限っては全く問題はなかったように見える。各大学の幹事が密に連絡を取り合い、見事な連携を見せたからである。学部大学院と二年三年木匠塾へ来てくれる学生が上下を繋げてくれるのも大きい。

 高根村の「日本一かがり火まつり」(毎年八月の第一土曜日 今年一〇回目)は魅力的である。今年は、京都造形大学と大阪芸術大学が屋台を出した。また、東洋大学、千葉大学、芝浦工業大学の東京組も、その日高山見学などを組み入れて、かがり火まつりの会場に集結してきた。翌日は、加子母村での懇親スポーツ大会で、翌々日のプレカット工場等の見学が共通プログラムである。

 加子母村では、高根村と同じように営林署の二棟の製品事業所の改装が今年は開始された。宿泊施設として使うためである。製品事業所のある渡合地区はすばらしいキャンプ場として整備されつつあるのであるが、電気の設備がない。自家発電装置が必要なのであるが、電気のない自然の中で暮らす経験も木匠塾の第一歩である。

 前にも記したことがあるのであるが、まず問題となるのが虫である。今年は蛾の類の虫の異常発生とかで、夜はたまらない。油断していると口の中に飛び込んできたりする。初めて木匠塾に来るとびっくりするのであるがすぐなれる。また、魚釣りをしたことのない学生が多いのに驚く。それだけ日本から自然が失われているというべきか。嬉々として魚釣りに興じる学生の顔を見ると、複雑な心境になる。とにかく、自然に触れるのは貴重な経験なのである。

 京都大学グループは、三年がかりの登り釜を完成させた。去年は素焼き止まりであったが、今年は釉薬を塗って素晴らしい焼き上がりとなった作品ができた。釜の構造も補強し、ほぼ恒久的に使えるようになった。素人がつくった釜でも一応使えるのが確認できたのは大収穫である。

 もうひとつのプロジェクトは、斜面への露台の建設である。清水の舞台、懸け造りとはとてもいかない。丸太を番線で緊結するプリミティブな手法だ。番線とシノの扱い方は、ロープ結びと並ぶ木匠塾の入門講座である。

 他のグループのプロジェクトは完成を見ていないからその全容はわからない。京都造形大学は、昨年の原始入母屋造りを山の斜面に向かって増築していく構えで、草刈り機をつかっての地業に余念がなかった。大阪芸術大学は、念願の風呂をつくるということで準備ができていた。継続的に、ものが出来ていくのは楽しいことである。

 バンガローの設計組立は、来年になりそうであるが、東洋大グループは、昨年のゲルを改良して移動住居として立派に使っていた。創意工夫もものをつくる源泉である。

 職人大学構想は大反響である。方々の自治体から誘致したいとの声がある。しかし、そんなに簡単なことではないということは、木匠塾の経験からもわかる。とりあえず、条件の整うところから、やっていくしかない。走りながら考えるのみである。

 

2023年2月25日土曜日

日本のカンポン、雑木林の世界83,199607

 日本のカンポン、雑木林の世界83,199607

雑木林の世界83 

日本のカンポン

布野修司

 

 不思議なつながりから、大阪の西成地区のまちづくりのお手伝いをすることになった。西成地区と言えば、全国でも有数の「寄せ場」釜ケ崎がある。まちづくりの対象地区は、その西、西浜地区を中心とする日本でも有数の被差別部落(全国最大の都市部落)だった地区である。「大阪市総合計画21」にもとづいて西成地区のまちづくりが本格的に開始されることになったのである。

 同和地区のまちづくりについては、東洋大学の内田雄造先生とそのグループが多くの実績を挙げている。東洋大学時代に、その側にいて、色々教えを乞うたのであるが、同和地区のまちづくりについては、お手伝いする機会はなかった。今回も真っ先に相談するところなのであるが、関西のことでもあり、まずははじめてみようというところである。いささか心許ないけれど、後ろに内田先生がいると思うと心強い。いろいろと教えて頂くことになるであろう。

 まずは二日にわたって地区内を歩いた。とにかく地区を知らなければ話にならないであろう。まちづくりの方針もフィールドの中からいろいろと得ることができるのである。

 歩き出すとすぐにわくわくしてきた。まちの雰囲気がインドネシアのカンポン(都市内集落)に似ているのである。僕が親しいスラバヤのカンポンは平屋が主体で、もちろん、佇まいは異なるのであるが、ぎっしりと建て詰まり、路地の細さや曲がり方が似ているのである。

 いろいろな店が町中に点在しているのも似ているし、人が多くて活気のあるのもいい。そして、コミュニティがしっかりしているのがわかる。解放同盟の組織、町会や民生委員の区割り図が方々に掲げられている。そして、街区の中には地蔵堂が点々とある。

 調査は、いわゆるデザイン・サーヴェイである。まず歩いて、建築形式(階数、構造、建築類型など)、施設分布、井戸や地蔵堂などの分布、植木や看板・消火栓・自販機など外部空間を地図上にプロットしていくのである。インドネシアでもインドでも台湾でも同じように調査をするのであるが、まちを身体で理解するには歩き回るにしくはない。今回は述べ四〇人ほどが参加したであろうか。調査をもとにいろいろと気づいたことを議論するのが調査の醍醐味である。

 地区の歴史は、『焼土の街からー西成の部落解放運動史』(部落解放同盟西成支部編 一九九三年)にまとめられている。また、その歴史については、『大正/大阪/スラム』(杉原薫・玉井金五編 新評論 一九八六年)の「第三章 都市部落住民の労働=生活過程ー西浜地区を中心にー」が詳しい分析を行っている。後者の本は、以前書評したことがあったのであるが、再読することになった。もちろん、読むべき文献は「都市部落の生成と展開ー摂津渡辺村の史的構造ー」(中西義雄 『部落問題研究』4号 一九五九年)など数多い。地区を知るには文献研究も不可欠である。

 しかし一方で、早急にまちづくりの方針を定めなければならない。いくつかの具体的なプロジェクトは動きだそうとしているのである。まず、大きなテーマとなるのは住環境整備である。反射的に思ったのは、地区のコミュニティの構造を大きく崩さずに再開発することができないか、ということである。

  地区を歩いていると、改良住宅に建て替えられた地区が何故か寂しく活気がない。一階など有刺鉄線で囲われたりして、閉鎖的である。既存の活気ある街区がそうなるのは大問題である。

 既にカンポンで考えたことだ。共用空間を最大限に取り、店などを組み込んだ都市型住居をここでも実現すべきだ。単身の老人も多いことからケア付きのコレクティブ・ハウジングも考えられてよい。

 また、道路が拡幅されて街が分断されるという問題がある。そこには街の核となる施設が必要ではないか。芸人が育った街であり、若い芸人の登竜門となるような演芸場をつくったらどうだという話が出だしている。また、職人が多いのだから、職人大学もいいんじゃないか。皮革産業を基盤としてきたことから「靴の博物館」の構想もある。

 もちろん、施設計画だけではない。ソフトな仕組みを含めて日本で最先端のまちづくりをしようという意気込みが解放同盟に満ちている。同和地区のまちづくりが先進的なのはまちづくりの主体がしっかりしているからである。

 解放同盟は、大阪市に対する一〇〇項目の具体的要求をまとめつつある。街づくり政策、住宅政策、道路・交通・環境政策、教育・保育政策、福祉・健康政策、産業・労働政策、人権・啓発政策に分けられているが、その全体構想は壮大である。というより、まちづくりは総合的なアプローチが不可欠であり、個々の要求項目をどう相互関連のもとに総合的に実現するかが問われるのである。

 西成地区まちづくり委員会の育成と法人化、街づくり会館の建設、ボランティア活動支援センターの設置等々、まちづくり運動の拠点となることが目指されている。

 また、地区内はすべてバリアフリーとする、そうした障害者にやさしいまちづくりをめざすことが目指されている。

  さらに、マルティメディア利用など、最先端の技術をビルトインしたまちづくりが目指されている。

 要するに、日本一のまちづくりが目標なのである。日本一遅れていたが故に、それは可能なのだ


2023年2月24日金曜日

明日の都市デザインへ,雑木林の世界82,住宅と木材,199606

 明日の都市デザインへ,雑木林の世界82,住宅と木材,199606


雑木林の世界82

明日の都市デザインへ

布野修司

 

 (財)国際技能振興財団(KGS)の設立総決起大会(四月六日)は大盛会であった。現職大臣四名と元首相、国会議員が秘書の代理も合わせると三十有余名、住専問題で大変な国会の最中にも関わらずの出席であった。職人一二〇〇名の大集会というのは、大袈裟に言えば戦後、否、近代日本の歴史になかったことではないか。職人大学の実現に向けての動きもさらに加速されることになる。

 KGSには評議員で参加することになったのであるが、SSF(サイト・スペシャルズ・フォーラム)は全面的にKGSを支えて行くことになる。

 KGSの最初の仕事はスクーリングである。茨城で六月二日から一週間の予定だ。茨城は、ハウジングアカデミーで親しい土地柄である。第一回のスクーリングが茨城となるのも何かの因縁であろう。

 茨城ハウジングアカデミーも参加してきた木匠塾は、SSF、KGSの動きと連動しながら今年も準備中である。加子母村(岐阜県)にウエイトを移しながら、また、学生の自主性にウエイトを移しながら、新たな展開が期待される。バンガローの建設など実習プログラムに村は全面協力の姿勢である。

 

 去る四月二四日、「明日の都市デザインへ」と題した三和総合研究所(大阪)の「都市デザインフォーラム」に参加する機会があった。『明日の都市デザインへーーー美しいまちづくりへの実践的提案』という報告書がまとまり、コメントして欲しいということで出かけたのである。

 「都市デザインへの提案~アーバン・アーキテクト制をめぐって~」ということで、景観問題について、昨年の全国景観会議(一九九五年九月 金沢)の際の基調講演とそうかわらない話でお茶を濁したにすぎないのであるが、報告書そのものはなかなかに刺激的であった。というのも、その報告書の中には全国の景観行政、都市デザイン行政の様々な取り組みが集められているからである。理念や条例やマニュアルよりも様々な試行錯誤が興味深いのである。

 例えば、景観資源に関する調査として、「校歌に歌われる山、川」を調べたり、言葉のアクセントの分布を明らかにした例がある(栃木県)。市街地における湧水の分布を調べたり(八王子市)、海からの景観把握を試みたり(下関市)、必ずしもマニュアルに従ってワンパターンというわけではないのである。

 景観行政は、あるいは景観問題へのアプローチはまずデザイン・サーベイからというのは持論である。「タウン・ウオッチング」でも「路上観察」でも、身近な環境を見つめ直すことが全ての出発点であり得る。

 先の報告書は、実践的都市デザインの提案として、一連のプロセスを提示している。

 『建築・街並み景観の創造』(技法堂)をまとめた段階では極めて素朴であった。具体的内容は著書に譲りたいけれど、「景観形成の指針ー基本原則」として、地域性の原則、地区毎の固有性、景観のダイナミズム、景観のレヴェルと次元、地球環境と景観、中間領域の共有といったことを考え、景観形成のための戦略として、合意形成、ディテールから、公共建築の問題、景観基金制度などを検討してきたにすぎない。しかし、報告書は豊富な事例とともに大きなフレームを提示してくれている。大助かりである。実践的提案の部分を具体的に紹介しよう。

 全体のプロセスは、意識醸成→企画・計画→実践→評価→という螺旋状のプロセスとして想定されている。各プロセスのポイントは以下のように整理される。

 

Ⅰ 意識醸成         

  ①デザイン・サーベイの実施

 ②行政主導のコンセンサスづくり:住民参加型都市デザインの誘導

 ③キーパーソンの発掘と育成

 ④戦略的情報発信

Ⅱ 企画・計画           

  ①コンテクストを生かしたデザイン計画

 ②インセンティブの付与

 ③すぐれたデザインを誘発する発注方式

 ④デザイン誘導しやすい事業手法

Ⅲ 実践       

  ①デザインをコーディネートする「人」:アーバン・アーキテクト制度

 ②デザインと意志決定のオープンシステム

 ③行政のイニシアチブとデザイン誘導

 ④建築と環境のコラボレーション

 ⑤地域特性やデザインの目的に合致した「アート構築物」のデザイン

 ⑥技術の伝承とクラフトマンシップの再認識

 ⑦工業製品の活用と「固有性」への対応

Ⅳ 効果           

  ①評価

 

 こうして項目だけ並べても伝わらないのであるが、それぞれに具体的な事例をもとにしたアイディアの提案があるわけである。実践的提案を唱うそれなりの自負がそこにはある。このシナリオ通りに都市デザイン行政あるいは景観行政が動いて行けば日本の都市(まち)づくりは面白い展開をしていく可能性がある。少なくとも様々なヒントがある。

 ただ、最終的に問題になるのはこのシステムを動かしていく仕組みである。上で言う、「人」の問題である。あるいは、行政と住民との関係の問題である。都市デザインに関わる意志決定システムをどう具体化するかである。

 地方自治の仕組み全体に関わるが故にその仕組みの提案は用意ではない。しかし、報告書は面白い海外の事例をあげている。

 シュバービッシュ・ハル市には、二人の副市長がいて一人は建築市長なのだという。また、ミュンヘン市にはアーバン・デザイン・コミッティーがあって、デザインの調整を行っているという。構成メンバーは、フリーの建築家四人、都市計画課職員三人、建築遺産課職員一人、州の建築遺産課職員一人の八人で三年毎にメンバーを入れ替えていく。権威主義的なメンバーは排除されるのだという。

 日本の風土の中でアーバン・アーキテクト制はなかなか動かない。しかし、百の議論よりひとつの事例は変わらない指針である。

 






2023年2月23日木曜日

書評・解説 西山夘三 『これからのすまい』、相模書房、一九四八年

 西山夘三 『これからのすまい』、相模書房、一九四八年

布野修司

 食寝分離、起居様式、住宅生産の工業化、土地の公有化、家事労働の合理化 


 浜口隆一の『ヒューマニズムの建築』(雄鳥社、一九四七年)とともに戦後建築の指針を示した書として著名。建築家によって貪るように読まれたという。

 戦後まもなく、建築家にとって全面的に主題になったのが、住宅復興である。日本の建築家たちは様々な回路で住宅問題に取り組むが、とりわけ勢力を注いだのは、新たな住宅像の確立というテーマであった。数多くの小住宅コンペが催され多くの若い建築家が参加したのであった。

 敗戦後まもなくの建築家の意識をきわめてストレートな形でうかがうことができるのが浜ロミホの『日本住宅の封建性』(相模書房、一九五○年二月)である。そこには、「床の間追放論」や「玄関という名前をやめよう」といったきわめてセンセーショナルな主張が展開されている。また、家事や育児のために過重な負担を背負ってきた婦人の解放の主張と結びついた、台所の生活空間としてのとらえ直しの主張に大きなウェイトが置かれている。その主張はきわめてヴィヴィドに戦後まもなくの状況を伝えてくれる。また、少し遅れて、池辺陽の『すまい』(岩波書店、一九五四年)がある。

 そうした戦後復興の混乱と昂揚の中で、住宅と都市に関して、その方向性を最も包括的なパースペクティブの下に提出したのが西山夘三である。『これからのすまい』の冒頭には簡潔に「新日本の住宅建設に必要な十原則」が記されている。

 一、ふるいいやしいスマイ観念をあらためて、文明国の人民にふさわしい高い住宅理想をうちたてる。

 二、国民経済の発展に対応する国民住居の標準をうちたて、在来の低い住宅水準を高めて行く。

 三、地方的、階級的に乱雑不合理な昔のスマイ様式を、働く人民の合理的なスマイ様式に統一してゆくo

 四、居住者の職業や家族の構成に応じた住宅を与えるため、住宅は公営を原則として住宅の配分を合理化する。

 五、生活基地を、細胞となる住戸から、組、町(部落)、住区(村)、都市という、それぞれの性格に応じた協同施設をもつ集団の段階的な構成にととのえて行く。

 六、生活基地の合理的な建設をするため、都市の土地制度を根本的に改革する。

 七、住宅の量の不足と低い住居水準を解決するため、住宅産業の位置を高めて完全雇傭体制の恒久的な一環とする。

 八、住宅生産を封建的親方制度と手工業的技術から解放して合理化工業化する。住宅は定型化され、その中に入る生活用具や家具も、それをつくる建築材料や部品も規格化される。

 九、住宅の構造は国産資源とにらみ合わせて我国の気候風土に適合した形の、新しい燃えない堅ろうな構造にかえて行く。

 十、狭い国土を活用するため、特に都市では集約的な高い居住密度の得られる複層集団的な住居形式にかえて行く。

 住宅生産の合理化・工業化、建築材料や部品の規格化(八)にしても、高い居住密度の得られる複層集団的な住居形式(九)にしても原則のいくつかは、戦後の過程において具体化されていった。もちろん、西山が終局的にイメージしていた住居や都市のあり方は、その十原則を貫くものであり、そうした意味では、それぞれが擬似的に現実化していったといった方がいい。住宅は公営を原則とする(四)、あるいは、都市の土地制度を根本的に改革する(六)、生活基地を細胞となる住戸から都市まで段階的な構成にととのえてゆく(五)、といった間題はほとんど手つかずだからである。その結呆、わが国の気候風土に適合した形の新しい住宅(九)が生み出されたかどうかは疑間だからである。

 敗戦後まもなく書かれた建築家による住宅論のなかで、また、戦前戦中の蓄積を踏まえた、きわめて其体的かつ現実的な方向性を提示する点で、本書はきわ立っている。西山がそこでとりあげている間題は、イスザ(椅子座)とユカザ(床面座)の間題、衣服様式と関連した二重生活の間題、家生活と私生活の関係の間題、間仕切と室の独立性の間題、非能率的家事労働の合理化、機械化、そして生活の共同化の間題、新しい家具と設備の採用の間題、国民住居標準の設定の間題などである。それぞれの間題について、実にきめこまかな鋭い眼が往がれている。例えば、起居様式(椅子座と床面座の間題)について、彼は、三つの改革の方向を提示しながら、「最も素朴で一見ブザマに見え又調和の失われている様に感じられる」第三のゆき方、すなわち、学生の下宿屋の起居様式、ユカザ生活を基調とし、とりあえず、起居、家内作業に必要な程度のごく少ない支持家具を導入しつつ、歪められた[ユカザ生活」を改善してゆくやり方を選ぽうとするのである。「少数の洋風生活心酔者、急進的な生活様式改革の主張者、建築家の試験的な住宅などにみられる、二重生活の完全な清算」による洋風椅子座生活、および、藤井厚二に代表される折衷的な住宅は、国民的住まい様式の改革過程としての現実性において否定されている。そこで、やがて完成さるべき起居様式として想定されているは椅子座様式である。そうした意味で、「二重生活の弊害の一端を最も明白に表現」する、また住の非能率的な側面を拡大する祈衷的な様式は、一層低い評価しかあたえられていない。西山もまたア・プリオリに、住宅の合理化、近代化の方向性を前提としていたことは確かである。しかし、彼にはしたたかに現実を見つめ、その矛盾を引き受けようとする姿勢があったといえようo

 西山のリアリズムに根ざした提案の多くは、きわめて日本的な解決の方向であった。少なくとも、いまふり返ればきわめて状況的であったといいうるであろう。しかし、その提案が現実の過程において担った実践的な意味はけっして過少評価することはできないだろう。その最も代表的なな食寝分離、隔離就寝の主張は、戦後における日本の住宅のあり方を大きく決定する役割を担ったのである。それは、やがて2DKさらに(nLDK)という平面形式をもった住宅を生み、戸建住宅にも取り入れられて、DK(ダィニング・キッチン)というきわめて日本的な空間を日本中に定着させることにつながっていったのであった。

   

◎西山夘三全著作(単行本)リスト

 四三 住宅問題、相模書房

 四四 国民住居論攷、伊藤書店

 四七 これからのすまいー住様式の話、相模書房

 四八 建築史ノート、相模書房

 四九 明日の住居、京都府出版協同組合

 五二 日本の住宅問題、岩波新書

 五六 現代の建築、岩波新書

 六五 住み方の記、文芸春秋

 六七 西山夘三著作集1住宅計画、勁草書房

  六八 西山夘三著作集2住居論、勁草書房

  六八 西山夘三著作集3地域空間論、勁草書房

  六九 西山夘三著作集4建築論、勁草書房

 七三 都市の構想、岩波書店

 七四 すまいの思想、創元社

 七五 町づくりの思想、創元社

 七五 日本のすまいⅠ、勁草書房

 七六 日本の住まいⅡ、勁草書房

 七八 住み方の記、増補新版、筑摩書房

 八〇 日本の住まいⅢ、勁草書房

 八一 すまいー西山夘三・住宅セミナー、学芸出版社

 八一 ああ楼台の花に酔う、彰国社

 八一 建築学入門ー生活空間の探求(上)、勁草書房

 八一 戦争と住宅ー生活空間の探求(下)、勁草書房

 八九 住まい考今学ー現代日本住宅史、彰国社

 九〇 まちづくりの構想、都市文化社

 九〇 歴史的環境とまちづくり、都市文化社

 九二 大正の中学生、彰国社

 九三 京都の景観・私の遺言、かもがわ出版

 九六 科学者の社会的責任(早川和男)、大月書店

 九七 都市とすまい、東方出版

 九七 安治川物語、日本経済評論社

2023年2月21日火曜日

台湾紀行,雑木林の世界81,住宅と木材,199605

 台湾紀行,雑木林の世界81,住宅と木材,199605


雑木林の世界82

台湾紀行

布野修司

 

 中央研究院台湾史研究所と台湾大学建築輿城郷研究所での特別講義に招かれて台湾に行って来た(三月一六日~二六日)。折しも、台湾は総統選(二三日投票日)の渦中にあった。わずか十日ほどの滞在であったけれど、つぶさに総統選の様子を見聞きすることになった。

 中央研究院での講義は、中央研究院が今後東南アジア研究を展開する上で色々示唆を受けたいということで、「東南亜都市與建築之最新研究動向」と題して、具体的には、バタビア、スラバヤ、チャクラヌガラという三つの都市の歴史について話した。知られるように、オランダは、バタビア建設に取りかかった一七世紀前半、平行して、台湾でゼーランジャ城、プロビンシャ城の建設を行っている。その都市計画の比較は興味深いテーマだと思ったのである。オランダ研究の専門家から鋭い指摘を頂いたり、随分刺激的であった。また、文献も随分整理されつつあることを知った。

 台湾大学建築輿城郷研究所では、「東南亜伝統民居」と題して、多くのスライドを使って様々な比較の視点について議論した。前日、九族文化村に出かけて、アミ、ヤミ、ブノンなどの九族の民家をじっくりみてきた。ブノン族などの石造りの家は、東南アジアの他の地域ではちょっと見かけないものだ。講義は、台湾の伝統的民家をオーストロネシア世界全体から見るとどうなるかを考えるのが主眼になった。

 講義ということでは、台湾工業技術学院でも行うことになった。大学院時代の同僚で、今や台湾の都市計画学会の重鎮である黄世孟教授(台湾大学)のお弟子さんで日本への留学経験のある李威儀先生に頼まれたのである。幸いこうゆうこともあろうかともう一本用意していたので、「東南亜集合住宅」と題して様々なハウジング・プロジェクトを紹介することにした。

 後は、研究室の闕銘宗君と田中禎彦君と台湾発祥の地、  (ばんか)地区を歩き回った。廟について論文を書こうとしている闕銘宗君を手伝おうというのである。調査は、基本的にはインドネシアのカンポンでやったのと同じである。建築の類型を見分けながら、各種施設をベースマップの上にプロットしていくのである。調査は常に様々な発見があり、疲れるけれど楽しい。また、実際に見聞きしながら文献を読むとよく頭に入る。

 中国の軍事演習でミサイルが飛び交うなど政治的緊張が予想されたが、市民はいたって平静であった。選挙戦はお祭り騒ぎで、人々はむしろ楽しんでいる雰囲気すらある。各党の集会にも顔を出してみたが、家族連れも多く、旗や帽子、警笛など様々な選挙グッズが売られ、各種屋台も並んで縁日の趣もあった。

 各党の主張の背後には、複雑な台湾社会の歴史があるが、それぞれの主張はわかりやすい。大学や研究所でも、タクシーの運転手さんも、はっきりとどの候補を支持するか意見を述べるのも印象的であった。

 台湾には、司馬遼太郎の『台湾紀行』(朝日新聞社)を携えて行った。李登輝総統との対談を含むその著作は選挙戦でも話題にされる程、台湾という国家を深く問うものである。司馬遼太郎が存命であれば、総統選について必ず何らかの鋭いコメントをしたであろうと思う。例によって、台湾に関するほとんど全ての文献に眼を通した上での力作である。

 司馬遼太郎の『台湾紀行』には、楊逸詠夫妻が登場する。楊逸詠先生(台湾文化大学)も、黄世孟先生と同じ頃東大の内田祥哉研究室に在籍されていていわば同級生である。楊夫人は、台湾きっての日本語通訳で司馬遼太郎の台湾紀行のために白羽の矢が当たったのだという。一晩、御夫妻と会って旧交を温めることができた。

 投票日は、午後四時の締切りと同時にその場で開票が行われた。「二号 李登輝一票」などと読み上げる声とともに「正」の字が書かれていく。我らの調査地区である  は下町で、台湾独立を主張する民進党の支持者が強いと言われていたのであるが、李登輝の中国国民党とは確かにデッドヒートであった。開票の様子を住民たちが取り囲んで見る。臨場感満点である。日本の選挙文化との違いを否応なく感じさせられたのであった。

 ところで、こうして民主化の速度をはやめてきた台湾で、「社区総体営造」あるいは「社区主義」、「社区意識」、「社区文化」、「社区運動」という言葉が聞かれるようになったことは前に触れた(雑木林の世界  )。繰り返せば、「社区」とは地区、コミュニティのことだ。そして、「社区総体営造」とはまちづくりのことだ。「経営大台湾 要従小区作起」(偉大な台湾を経営しようとしたら、小さな社区から始めねばならぬ)というのがスローガンとなりつつあるのである。

 「社区総体営造」を仕掛けているのは、行政院の文化建設委員会であるが、幸い、その中心人物である陳其南氏、台北市でモデル的な運動を展開中の陳亮全氏(台湾大学)に、黄蘭翔氏(中央研究院)とともに会い議論することができた。

 「社区総体営造」を進めるときは社区から始めなければならない。しかも、自発的、自主的でなければならない。何故、「社区総体営造」なのかに関して陳其南氏に詳しく聞いた。基本的に移民社会をベースとする台湾では、漢民族の家族主義が強いこともあって、コミュニティ意識が希薄である。まちづくりを考える上では、どうしてもその主体となるコミュニティの育成が不可欠であるという認識が出発点にあるのである。

 清朝に遡って、伝統的なコミュニティのシステムはもちろんある。村廟を中心にした伝統的な組織システムは、現在でも農村部では生きている。しかし、それに選挙で首長を選ぶシステムが重層する形で設けられており、コミュニティに求心力がない。中国国民党の党のシステムも戦後持ち込まれた。

 十日の間、  地区に泊まって時間があれば地区を歩き回ったのであるが、里、そしてその下位単位である隣は、ほとんど意識されていないのである。かってコミュニティの核であった廟がここそこにあるけれど、まとまりは失われつつある。

 こうした地区で「社区総体営造」はどのように展開できるのか。台湾の友人たちとともに考え始めたところだ。

 






2023年2月19日日曜日

職人大学設立へ向けて・・・SSFの現在,雑木林の世界80,住宅と木材,199604

 職人大学設立へ向けて・・・SSFの現在,雑木林の世界80,住宅と木材,199604


雑木林の世界80

職人大学設立へ向けて・・・SSFの現在

 

布野修司

 

 職人大学の設立を目指し、現場専門技能家(サイト・スペシャリスト)の社会的地位の向上を願うサイト・スペシャルズ・フォーラム(SSF)の結成とそのスクーリングなどの活動については本欄でも何回か紹介してきた(雑木林の世界        )。その結成は一九九〇年一一月。もう六年目に入る。ようやく、具体化への道筋が見えかかってきたような気がしてきた。以下にSSFの現在を報告したい。

 「住専問題」で波乱が予想された通常国会の冒頭であった。見るともなく見ていた参議院での総括質問のTV中継で「職人大学」という言葉が耳に飛び込んできた。村上正邦議員の質問に、橋本首相が「職人大学については興味をもって勉強させて頂きます」と答弁したのである。いささか驚いた。今まで興味もなかった急に国会が身近に感じられたのも変な話であるが、橋本首相の国会答弁は、SSFの活動がこの間大きな広がりを見せつつあるひとつの証左である。

 産業空洞化がますます進行する中で、日本はどうなるのか。日本の産業を担ってきた中小企業、そしてその中小企業を支えてきた極めてすぐれた技能者をどう考えるのか。その育成がなければ、日本の産業そのものが駄目になるではないか。そのために職人大学の設立など是非必要ではないか。

 簡単に言えば、村上議員の質問は以上のようであった。もちろん、膨大な質問の一部であるが、日本の産業構造、教育問題、社会の編成に関わる問題として「職人大学」というキーワードが出された印象である。考えて見れば誰にも反対できない指摘であろう。「興味をもって勉強させていただきます」というのは当然の答弁であった。

 SSFのこの間の活動は、スクーリングを主体としてきた。佐渡に始まり、宮崎の綾町、柏崎、神奈川県藤野町、群馬県月夜野町と五回を数え、茨城県水戸で六回目を準備中だ。現場の職長さんクラスに集まってもらって、体験交流を行う。そうした参加者の中から将来のプロフェッサー(マイスター)を見出したい。そうしたねらいで、SSF理事企業と地域の理解ある人々の熱意によって運営されてきている。

 大学をつくるということが、如何に大変なのかは、大学にいるからよくわかる。そして、大学で教員をしながら大学をつくろうとすることには矛盾がある。シンポジウムなどでいつも槍玉に挙げられるのであるが、何故、今いる大学でそれができないのか、それこそ大きな問題である。

 言い訳の連続で答えざるを得ないのであるが、国立大がであろうと私立大学であろうと、職人を育てる教育をしていないことは事実である。それを認めた上で、現場を大事にする、机上の勉強ではなく、身体を動かしながら勉強するそんな大学はどうやったらつくれるか、それが素朴な出発点である。

 居直って言えば、偏差値社会の全体が問題であり、職人大学をつくることなど一朝一夕でできるわけはない。少しづつ何かできないかとお手伝いしてきたのである。

 本音を言えば、スクーリングを続けていくこと、それが職人大学そのものへの近道であり、もしかすると職人大学そのものなのだ、という気がないわけではない。

 可能であれば、文部省だとか労働省だとか建設省だとか、既存の制度的枠組みとは異なる、自前の大学をつくりたい、というのがSSFの初心である。できたら、自前の資格をつくり、高給を保証したい、それがSSFの夢である。

  しかし、そうした夢だけでは現実は動かない。また、この問題はひとりSSFだけの問題ではないのである。日本型マイスター制度を実現するとなると、それこそ国会を巻き込んだ議論が必要である。

 この間、水面下では様々な紆余曲折があった。五五年体制崩壊と言われるリストラクチャリングの過程における政界、業界の混乱に翻弄され続けてきたといってもいい。

 SSFの結成当時、バブル全盛で、職人(不足)問題が大きくクローズアップされていた。SSFを支えるサブコン(専門工事業)にも勢いがあった。しかし、バブルが弾けるといささか余裕が無くなってくる。職人問題などどこかへ行きそうである。SSF参加企業のみなさんにはほんとに頭が下がる思いがする。後継者育成を社会的なシステムとして考えるコモンセンスがSSFにはある。

 筆を滑らせれば、「住専問題」などとんでもないことである。紙切れ一枚で、何千億を動かすセンスのいいかげんさには呆れるばかりである。現場でこつこつと物をつくる人々をないがしろにするのは心底許せないことである。

 大手ゼネコンにもこの際言いたいことがある。ゼネコンは一貫してSSFに対して冷たい。ゼネコン汚職の顕在化でゼネコンの体質は厳しく問われたけれど、重層下請構造は揺らがないようにみえる。ゼネコンのトップが数次にわたる下請けの構造に胡座をかいて、職人問題、職人大学問題に眼を瞑ることは許されないことである。末端の職人問題については、それぞれの企業内の問題として関心を向けないゼネコンは身勝手すぎるのではないか。SSFの会議では、しばしばゼネコン批判が飛び出す。

 そうした中で、SSFとKSD(全国中小企業団体連合会)との出会いがあった。SSFは、建設関連の専門技能家を主体とする、それも現場作業を主とする現場専門技能家を主とする集まりであるけれど、KSDは全産業分野をカヴァーする。職人大学も全産業分野をカヴァーすべく、その構想は必然的に拡大することになったのである。

 全産業分野をカヴァーするなどとてもSSFには手に余る。しかし、KSDには全国中小企業八〇万社を組織する大変なパワーを誇る。

 SSFには、マイスター制度や職人大学構想に関する既に五年を超える様々なノウハウの蓄積がある。KSDのお手伝いは充分可能であるし、まず、最初は建設関連の職人大学を設立しようということになった。

 その後、様々な動きを経て、財団設立が認可され、その設立大会(一九九六年四月六日)が行われようとしているのが現在である。もちろん、SSFと財団の前途に予断は許されない。ねばり強い運動が要求されているのはこれまで通りであろう。

 


2023年2月18日土曜日

都市の記憶・風景の復旧,雑木林の世界78,住宅と木材,199602

 都市の記憶・風景の復旧,雑木林の世界78,住宅と木材,199602

雑木林の世界78 

都市(まち)の記憶 風景の復旧:阪神淡路大震災に学ぶ(2)

布野修司

 

 阪神淡路大震災から一年が経過した。

 大震災をめぐっては、多くの議論がなされてきた。僕自身、被災度調査以降、A市のHS地区の復興計画に巻き込まれながら、そうした議論に加わってきた。参加したシンポジウムもかなりになる。

 そうした中で印象に残るのが、「都市(まち)の記憶 風景の復旧」と題した建築フォーラム(AF)主催のシンポジウムである(一九九五年九月八日 新梅田スカイビル)。磯崎新、原広司、木村俊彦、渡辺豊和をパネラーに、コーディネーターを務めた。千人近くの聴衆を集めた大シンポジウムであった。全記録は、『建築思潮』第4号(学芸出版社)に掲載されているからそれに譲りたい。

 印象に残っている第一は、磯崎新の「まず、全てをもとに戻せ」という発言である。震災復興で何かができるのであれば、震災が来なくてもできるはずである。震災だからこの際できなかったことをという発想には大きな問題があるという指摘である。

 見るところ、大震災によって、都市計画の大きなフレームは変わったわけではない。特別な予算措置がなされるわけでもない。それにも関わらず復興計画に特別な何かを求めるのはおかしいという指摘である。それより、即復旧せよ、というのである。同感であった。

 第二に印象的だったのは、原広司の「都市の問題は住宅の問題だ」という指摘である。基幹構造に多重システムがない等の都市の構造の弱点は、個々の住宅の構造に自律性がないせいである、という。要するに、都市と住宅の構造的欠陥が大震災で露わになったのである。これまた、同感であった。

 A市のHS地区のこの間の復興計画立案の過程を見ていても、上の二つの指摘は鋭いと思う。阪神大震災によって何が変わったかといっても、そうすぐ変わるわけがない。火事場泥棒宜しくうまくやろうといってもそうはいかない。結局、何も本質的なことは動いていない、というのが実感である。

 A市は激震地から離れているけれど、かなり被害を受けた地区がある。震災復興計画として決定された地区は五地区あり、HS地区は、そのひとつである。「文化住宅」の密集地区で、   世帯ある。

 住民のグループから以来を受け、ヴォランティアとして、地区住民の主体性を尊重しながら、できることを援助しようというスタンスで関わっているであるが、この間の経緯は呆然とすることの連続である。特に、行政の傲慢とも見える対応はあきれるほどだ。そうでなくても世代や収入、地区へのこだわりを異にする人々が一致して事業に当たることは容易ではない。権利関係の調整は難しいし、時間もかかる。行政と住民との間で、また住民相互の間で様々な葛藤が生まれ、軋轢が露呈する。剥き出しのエゴがぶつかりあう。まとめるのは至難のわざである。

 ただ、HS地区はそれ以前である。それなりのプロセスにおいて復興計画を研究室でつくったのであるが、ワークショップが開けない。行政当局は邪魔者扱いで、支援グループを排除するのを都市計画決定の条件にする。とんでもない話である。予め線を引いて、要するに案をつくって、住民に認めるか認めないか、という態度である。そういう傲慢かつ頑なな態度で住民がまとまるわけがない。住民組織も疑心暗鬼で四分五裂である。

 「疲れた、もう止めた」、懸命に阪神・淡路大震災の復興計画に取り組む建築家、都市計画プランナーから苦渋の本音が漏れ出しているのはよくわかる。行政当局のやりかたにも相当問題がある。A市にはT地区のように区画整理事業をスムーズに進めている地区もあるから一概に言えないのであるが、一般に住民参加といっても、そういう仕組みもないし、トレーニングもしていないのである。

 自然の力、地区の自律性の必要、重層的な都市構造の大切さ、公園や小学校や病院など公共施設空間の重要性、ヴォランティアの役割、・・・・大震災の教訓について数多くのことがこの一年語られてきた。しかし、大震災の教訓が復興計画に如何に生かされようとしているのか、大いに疑問が湧いてくる。関東大震災後も、戦災復興の時にも、そして、今度の大震災の後も、日本の都市計画は同じようなことを繰り返すだけではないのか。要するに、何も変わらないのではないか。それ以前に何も動いていないのである。

 阪神・淡路大震災によって一体何が変わったのか。大震災がローカルな地震であったことは間違いない。国民総生産に対する被害総額を考えても、関東大震災の方がはるかにウエイトが高かった。震災後二ヶ月経つと、特にオウム真理教の事件が露になって、被災地以外では大震災は忘れ去られたように見える。大震災の最大の教訓は、もしかすると、震災の体験は必ずしも蓄積されないということではないのか、と思えるほどだ。

  しかしもちろん、その都市や建築のあり方について与えた意味は決して小さくない。というより、日本のまちづくりや建築のあり方に根源的な疑問を投げかけたという意味で衝撃的であった。日本の都市のどこにも遍在する問題を地震の一揺れが一瞬のうちに露呈させたのである。そうした意味では、大震災のつきつける基本的な問題は、被災地であろうと被災地でなかろうと関係ない。震災の教訓をどう生かしていくのかは、日本のまちづくりにとって大きなテーマであり続けている。

 今度の大震災がつきつけたのは都市の死というテーマである。そして、その再生というテーマである。被災直後の街の光景にみたのは滅亡する都市のイメージと逞しく再生しようとする都市のイメージの二つである。都市が死ぬことがあるという発見、というにはあまりにも圧倒的な事実は、より原理的に受けとめられなければならないはずである。

 現代都市の死、廃墟を見てしまったからには、これまでとは異なった都市の姿が見えたのでなければならない。復興計画は、当然、これまでにない都市のあり方へと結びついていかねばならない。そこで、都市の歴史、都市の記憶をどう考えるは大きなテーマである。何を復旧すべきか、何を復興すべきか、何を再生すべきか、必然的には都市の固有性、歴史性をどう考えるかが問われるのである。ただそれは、震災があろうとなかろうと常に問われている問題である。都市の歴史的、文化的コンテクストをどう読むか、どう表現するかは、日常的テーマといっていいのである。

 


2023年2月17日金曜日

社区総体営造-台湾の町にいま何が起こっているか,雑木林の世界79,住宅と木材,199603

社区総体営造-台湾の町にいま何が起こっているか,雑木林の世界79,住宅と木材,199603 

雑木林の世界79

社区総体営造・・・台湾の町にいま何が起こっているか

布野修司

 

 毎月第三金曜日はアジア都市建築研究会の日である。昨年四月に準備会(山根周 「ラホールの都市空間構成」)を開いて、この一月の会で七回目になる。小さな会だけれど、研究室を越えた、また大学を超えた集まりに育ちつつある。各回の講師とテーマを列挙すれば以下のようだ。

 第一回 宇高雄志 「マレーシアにみた多民族居住の魅力」(一九九五年五月)

 第二回 齋木崇人 「台湾・台中の住居集落」(六月)

 第三回 韓三建 「韓国における都市空間の変容」(七月)

 第四回 沢畑亨 「ひさし・植え込み・水」(一〇月)

 第五回 牧紀男・山本直彦 「ロンボク島の都市集落住居とコスモロジー」(一一月)

 第六回 青井哲人 「「東洋建築」の発見・・伊東忠太をめぐって」(一二月)

 第七回 黄蘭翔 「台湾の「社区総体営造」」(一九九六年一月)

 ここでは最新の会の内容を紹介してみよう。

 台湾の「社区総体営造」とは何か。なかなかに興味津々の内容であった。

 講師の黄蘭翔先生は、昨年まで研究室で一緒であったのであるが、逢甲大学の副教授を経て、現在は台湾中央研究院台湾史研究所の研究員である。都市史、都市計画史の専門であるが、台湾へ帰国してびっくりしたというのが「社区総体営造」である。

 「社区」とは地区、コミュニティのことだ。社区という言葉は必ずしも伝統的なものではない。行政の組織ということであれば保甲制度がある。そして、「社区総体営造」とは平たく言うとまちづくりのことだ。台湾ではいま「社区主義」、「社区意識」、「社区文化」、「社区運動」という言葉が聞かれるようになったという。「経営大台湾、建立新中原」(偉大な台湾を経営しよう、新しい中国の中心を創り出そう)「経営大台湾 要従小区作起」(偉大な台湾を経営しようとしたら、小さな社区から始めねばならぬ)というのがスローガンとなっているという。

 「社区総体営造」を進めるときは社区から始めなければならない。しかも、自発的、自主的でなければならない。行政機関の役割は考え方の普及、各社区の経験交流、技術の提供、部分的な経費の支援のみである。最初のきっかけとしてモデル事業を行うこともある。

 社区毎に中、長期の推進計画が立てられる。社区の役割は住民のコンセンサスを得て、詳細の完備した地区の設計計画を立て、同時に資金の調達計画、経営管理計画を立てることが期待される。

 「社区総体営造」の目的は、単なる物理的な環境の整備ではなく、社区のメンバーの参加意識の養成であり、住民生活の美意識を高めることである。「社区総体営造」は社区をつくり出すのみではなく、新しい社会をつくり出し、新しい文化をつくり出し、新しい人をつくり出すことである。

 「社区総体営造」を推進しているのは行政院文化建設委員会(略して文建会)である。権限が全く違うから比較にならないけれど、日本でいうと文化庁のような機関である。「社区総体営造」政策が開始されてまだ三年なのであるがすごい盛り上がりである。

 具体的に何をするかというと、次のようなことが挙げられる。

●民族的イヴェントの開発

●文化的建造物がもつ特徴の活用

●街並みの景観整備

●地場産業の文化的新興

●特有の演芸イヴェントの推進

●地方の歴史や人物を展示する郷土館の建設

●生活空間の美化計画

●国際小型イヴェントの主催

 それぞれの社区は独自の特性を生かしてまずひとつの項目を推進し、徐々に他の項目に広げていくことが期待されている。現在、一二項目のプロジェクトが推奨プロジェクトとしてまとめられている。

 黄蘭翔先生は、「社区総体営造」の背景と文建会の施策の概要を説明した後、三つの事例をスライドを交えて報告してくれた。

 台中理想国、嘉義新港、宣蘭玉田の三地区の例であるが、それぞれ多様な展開の例であった。政策展開としては三年ということであるが、それ以前からいろいろなまちづくりの試みが自発的に起こっていたのである。

 理想国というのは、その名を目指して造られた民間ディベロッパーの計画住宅地であったが、総戸数二〇〇〇戸のうち入居率が三〇パーセントというありさまでスラム化していた。その団地をリニューアルする試みが供給業者の主導のもとにこの十年展開されてきた。ペンキでファサードを塗り直す「芸術街坊」をつくることから、警備体制を整えたり、市場を改装してショッピング・センターをつくったり、幼稚園などの公共施設の整備したり、生き生きとした街に再生していく様がスライドからも伝わってきた。

 嘉義新港の場合は、陳錦煌というお医者さんがリーダーである。苦学して台湾大学付属病院の医師となった陳氏が帰郷し、医療活動をしながらまちづくりに取り組むのである。具体的には「新港文教基金」が設立され、息長い文化芸術イヴェントが展開されている。

 宣蘭玉田のケースは、文建会主導によるモデルケースである。きっかけは全国文芸祭であったという。全国的な文芸祭を行うに当たり、まず地区を見つめる作業が行われた。具体的には、フィールド・ワークによる地方史の編纂や環境調査である。そしてその過程で、社区の文化を産業化する方法が模索された。そして、文芸祭に当たっては様々なアイディアが出され、実効に移された。お年寄りの伝統技能を用いて竹の東屋が建設されたりしたのである。 

 詳細には紹介しきれないけれど、台湾の新たなまちづくりはおよそ以上のようだ。誤解を恐れずに言えば、HOPE計画あるいは村おこし、町おこしの台湾版である。事実、「社区総体営造」の立案者は日本の事例に学んだのだという。CBD(コミュニティ・ベースト・ディベロップメント)の理念が基本に置かれているのは間違いない。 

 「建立新故郷」、「終身学習」を理念とする「社区総体営造」が施策として展開される背景には、台湾の置かれている内外の関係があるであろう。しかし、その方法には相互に学ぶべき多くのことがあるというのが直感である。 




2023年2月16日木曜日