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2026年3月22日日曜日

カンポンとルスン―都市アーバン村落ヴィレッジの成立根拠ー、『都市美』3号、特集:国家と住宅 空間への権利、202310

 『都市美』第3号 国家と住宅 空間への権利 





カンポンとルスン都市(アーバン)村落(ヴィレッジ)成立根拠

布野修司

 

 カンポンkampungとは,マレー(マレーシア・インドネシア)語で,「ムラ(村)」を意味する。カンポンガンkampunganと言えば,イナカモン(田舎者)というニュアンスである。行政村はデサdesaといい-マレーシアでは行政村もカンポン-,カンポンは専ら都市の住宅地のことをいう。英語のアーバン・ヴィレッジurban village(都市村落)がぴったりくる。ルスンrusunとは,ルーマー・ススンrumah susunの略語で,ルーマーは「住まい」、ススンは「積み重なる」,直訳すれば「積層住宅」,要するに集合住宅のことである。

アーバン・ヴィレッジという居住地の存在はインドネシアに限らない。フィリピンではバロン・バロンbarong barong[i],南米ではバリオbarrios[ii]あるいはファヴェーラfavela[iii],北アフリカではビドンヴィルbidonvilles[iv],トルコではゲジェコンドゥgedzekondu[v],インドではバスティーbustee[vi]など各国それぞれに呼ばれる[vii]。中国では「城中村」である。

20世紀後半以降,爆発的な人口増加によって,世界中の発展途上国の大都市に大量に出現したのがアーバン・ヴィレッジである。19世紀初頭に約10億人であった世界人口は,1900年には16億人,1950年には25億人,1975年には40億人に達した。そして2000年には60億人を超え,今や80億人に達しようとしている。農村部から大量に流入してきた人々は,ありとあらゆる場所-公有地や宗教施設,所有のはっきりしない河川敷,鉄道沿線,運河や小川沿いなど-を占拠して棲みついた。スクォッターsquatter・スラムslum(あるいはセトゥルメントsettlement)と呼ばれる。スクォットとはしゃがみ込むことであるが,日本語には不法占拠者と訳される。イリガール(不法)であれなんであれ,都市への大量な移住を強いる,過大都市化,工業化なき都市化による大きな社会変動がグローバルに引き起こされてきたのである。高密度で、不衛生で、生存のためにぎりぎりの条件にあるアーバン・ヴィレッジの出現に対応するために、1回国際連合人間居住会議(UrbanⅠ)がバンクーバーで開かれ,UNハビタットUN-Habitat(国際連合人間居住計画)の設立が決定されたのは1976年である(正式発足は1978年)。住居は基本的人権であり,それを実現するのは政府の責任であるというのがバンクーバー宣言[viii]であった。

本稿では, インドネシアのカンポンに焦点を当てて,この半世紀に及ぶ「人間居住」のグローバル歴史を振りかえってみたい。カンポンは決してスコッター・スラムではない。急激な都市化の流れの中でも,ジャワの村落共同体デサの伝統を引き継ぐかのように,相互扶助活動を支える共同体(コミュニティ)組織を維持してきたのがカンポンである。そして,カンポンという言葉が英語のコンパウンドcompoundの語源であるという有力な説がある[ix]。住居の集合体を意味する英語には,ホームステッドhomestead,そしてセトゥルメント, さらにコンパウンドなどがある[x]。コンパウンドには2つの意味があるが,第1義は,他動詞の「混ぜ合わせる,混合する」,形容詞の「合成,混成の,複合の,混合のcomposite,複雑な,複式の」,第2義は,「囲われた場所」で,強制収容所もコンパウンドである。すなわち,カンポンについて考えることは,世界中のコンパウンドについて考えることでもある[xi]

 

バラックの海

 アジアの街を初めて歩いたのは19791月である。ジャカルタのホテルに着いて荷も解かずにいきなりコタ(旧バタヴィア中心)のグロドック地区を歩き回って,活気に満ちた生活感溢れる光景になんとも言えない感動を覚えた[xii]。当時,マニラにしても,バンコクにしても,俯瞰すればバラックの海のようであった。ジャカルタの赤瓦の家並みは緑に映えて,工業製品でホワイトノイズ(白色騒音)化した東京に比べると実に美しかった。このどこまでも広がる赤い海の家並みの下にあるのがカンポンの世界であった[xiii]

カンポンの活気ある生活風景に触れて想起したのは,日本の戦後まもなくの大都市の光景である。戦後生まれなので実際は知る由もないが,木村伊兵衛や原弘らの『東京・1954年秋 Tokyo Fall of 1945』(文化社,1946),その写真記録集に文章を添えた中島健蔵の回想録などが頭に浮かんだのである。『戦後建築論ノート』(1981)のために,戦後まもなくの資料を集めていたのである。


「アジアの諸都市を覆っているスクォッターたちの小屋の海は,戦後まもなくの日本の諸都市の状況を映しているといえるのではないか。…戦後まもなくのバラックや壕舎は生存のためのぎりぎりの条件のもとで選び取られた表現であったといいうるだろう。それは,建てることと生きることがまったく同一であり得た位相を想起させるが故に,スクォッターたちの小屋とともに,われわれを魅きつける。」(第二章 呪縛の構図-戦後建築の零地点一廃墟の光芒『戦後建築論ノート』)

しかし、日本の戦後まもなくの創意工夫の多様な住宅[xiv]は,あくまで仮の住まいであった。日本の戦後住宅のモデルとなったのは,51Cという公営住宅の1951年のC型(12坪≒40㎡)という住宅形式である。51Cは2DKといわれ,ダイニング・キッチンDKを一般化することになるが,日本では,北海道から沖縄まで,2DK とその拡大型nLDKという画一的な住戸形式で覆われることになる。ルーマー・カンポンは,果たして日本と同じような道を辿るのか,,51Cを提案した研究室を出自とする筆者には必然の問いであった。そして,別の解答がある!というのが直観である。以降,インドネシアに毎年のように通うことになった。


共生の原理-アーバン・インヴォリューション

 カンポンはスラムではない,最初のインドネシア調査(1979)で出会ったJ.シラス[xv]は,口を酸っぱくして言った。インドネシア第2の東ジャワの州都スラバヤに毎年のように通うことになったのはJ.シラスに出会ったことが決定的であった。彼は,その後,「人間居住」問題に取り組むインドネシアを代表する建築家として国際的に知られる存在になる。

スラムはスランバーslumber(まどろむ)に由来するが,先進諸国の大都市が産業革命に伴う都市化によってその内部に抱え込んだスラムと産業基盤を持たないままに過大都市化し都市を覆いつくすアーバン・ヴィレッジとは異なる。スラムがしばしば家族解体や犯罪などの社会病理現象を生むのに対して,アーバン・ヴィレッジの共同体組織はむしろ強固で,それぞれの地域の伝統に根ざして多様である。それ故,カンポン,バロン・バロン,ファヴェーラなど固有の名前で呼ぶのである。スラバヤのカリ(運河)沿いのスクォッターたちを詳細に調べたが(図①a),同じ農村から移住してきた人々が一定の地区に集住し,緊密なコミュニティを形成するのがむしろ一般的である。

 カンポンという居住形態の特性についてまとめると[xvi],①多様性,②複合性,③全体性―生産と消費の結合,④高度サービス社会 屋台文化,⑤自立性 相互扶助システム,⑥固有性 伝統文化の保持,⑦権利関係の重層性をあげることができる。そして,カンポンの①~⑦の特性を支える基本原理を一言でいえば,インヴォリューションの原理である。C.ギアツのインヴォリューション・テーゼについては他に譲るが[xvii],外に向かって拡大進化(エヴォリューション)するのではなくて,限られた枠の中で内に向かって進化するのがインヴォリューション(内向進化)である。C.ギアツは,貧困の共有Shared Povertyというが,資源,エネルギー,地球環境の共有と言えばいい。カンポンにおいて,物売り,屋台によるサービスのシステムが成立したのは,雇用機会が極めて少ないからである。屋台文化は,仕事を細分化して分かち合う,まさにワークシェアリングの原理によって支えられているのである。




KIP(カンポン・インプルーブメント・プログラム)

インドネシアでは,日本占領(1942)以降,独立戦争(19451949),そして9.30事件(1965)を経てスカルノが失脚,スハルトが第2代大統領に就任して(1968)「新秩序」を確立するまで,都市基盤整備,都市計画,住宅供給など,住民の居住環境に関わる政策はほとんど行われなかった。スラバヤの人口は,20世紀の初頭約15万人,1920192000人,1930342000人,独立後,19611408000人,19711309000人,19801737000人とされる。戦前のスラバヤは,目抜き通りを市電が走るトロピカル・オランダと呼ばれるモダンな街並みを誇ったが,1960年代末には,人口30万人のインフラストラクチャーのままに150万人にも膨張したのである。

カンポン住民が自主的に道路の舗装や下水道を整備するカンポン改善活動への支援として,寄付金をもとにコンクリート・ブロックやコンクリート板を供給するプロジェクトをスラバヤ市が開始したのは1968年である。国歌インドネシア・ラヤを作曲したスラバヤ出身の音楽家に因んでW.R.スプラットマンSupratmanKIPと呼ばれる。KIPは,①歩車道の舗装と緑化,②下水道(排水溝)の設置,③水道の設置,④MCK(公共浴場Mandi・洗い場Cuci・トイレKakus),⑤ゴミ箱と廃棄物収集場の設置を主な内容とし,住宅の供給は含まれない。歩道と側溝の間に細長い土の部分を残し,そこに樹木を植えるのはPKK(婦人会,図②a)に委ねられた。水道は各戸に引かれるのではなく,水道栓が一定の間隔で設けられるだけである。立ち退きやハウスカットが必要な場合も補償はゼロ,代替地の手当てはカンポンの調整に委ねられた。住宅建設,増改築,改修は自力である。


スラバヤ,ジャカルタという自治体ベースで開始されたKIPは,国家的政策に引き上げられる。そして,国連など国際機関の関心を集め,世界銀行の融資が開始されるのは1974年である。まずジャカルタ(7476年),76年からはスラバヤにおいても行われた(7779年)。また,1980年からは(8083年),メダン,バンドン,スマランを加えて5都市において行われた。筆者が、インドネシアを最初に訪れたのは,まさにこうした時代であった。KIP1980年代を通じて行われ,各都市の市街地全域をほぼカヴァーすることになる(図③)

KIPが重要政策となったのは,他の施策に比してはるかに有効だったからである。最小限の手当であるKIPを住民たちが主体的に担い,ハウスカット(壁面後退)や移転に応じてきたのは,自らの環境の改善のために当然として, 住み続ける権利が法的に認められることに繋がったからである。加えて,改善活動への参加が一定の収入にもなった。KIPは,都市貧困層の生活要求に対する最も成功したアプローチの例として国際的に評価される。KIPを主導したJ.シラスは,スラバヤ市とともにイスラーム圏の建築活動を検証するアガ・カーン賞[xviii]UNハビタット(人間居住計画UN-Habitat)賞,日本の国際居住年IYSH賞など数々の賞を受賞することになった。直接的な住宅供給には莫大な資金が必要となるが,世銀にしてみれば,「安上がり」の援助であった。

 

建設の自由(Freedom to Build)ーコア・ハウジング

公共機関による直接的な住宅供給が行われなかったわけではない。東南アジア諸国では,当初同様に,西欧諸国に倣った公共住宅建設が試みられた。インドネシアでも1952年に人民住宅局Jawatan Perumahan Rakyatと開発金融財団(YKP)が設立されている。しかし,低価格(ローコスト)で,低所得者(ローインカム)向けの住宅供給は困難であった。圧倒的な量が必要であり、財源を割けないのである。公務員など一部の層のための住宅供給にとどまらざるを得なかった。そして,提案された住居形式が伝統的な生活様式と合わなかったことが問題であった。積み重なって住む経験は、それ以前にはほとんどなかった。スラバヤでも日本の集合住宅をモデルとしたという公営住宅が建設されたのであるが,上の階から水を外にぶちまけるなどうまく維持されず,20年経たないうちに建替えられてしまった(図④)。

一方、インフォーマル・グループによって広範に展開されたのが自力建設(セルフ・ビルドあるいはセルフ・ヘルプ・ハウジング)のプロジェクトである。東南アジアでは,マニラの「フリーダム・トゥー・ビルド」とバンコクの「ビルディング・トゥゲザー」が知られる。前者は,建設資材を市場価格以下で販売し,建設はそれこそ自由に居住者が自力あるいは相互扶助によって行う,後者は,コンクリート・ブロックを主要な構造材とする連棟のテラスハウスで,居住者は建設作業に参加することで分譲価格が安くなるというシステムである(図⑤ab)。こうしたセルヘルプ(あるいはミューチュアル・エイド)・ハウジングの理論的主導者となったのは,『建設の自由Freedom to Build』(1973)『人民によるハウジングHousing by People』(1977)を書いたJ.F.C.ターナーである。


J.F.C.ターナーのセルフヘルプ論については,住まいへの権利を住民自身の自助努力に押しつける二重の搾取であるといった議論が展開されたのであるが,公的な施策としてグローバルな採用されたのが,上下水道,電気など最小限のインフラ整備をした土地と一室程度のコアハウスを供給するサイツ・アンド・サーヴィス(宅地分譲)あるいはコア・ハウジングと呼ばれるプロジェクトである。一室あるいは骨組みだけを公的に供給し,内装,増改築などは住人に委ねる手法である。世界中で様々な形態のコアハウスが提案されたが,C.アレグザンダーの『パターン・ランゲージ』の共著者であるS.エンジェルがアジア工科大学にいた時に実施したプロジェクトは,短冊状に区分した敷地にコアハウスを建設するもので,スラバヤでJ.シラスたちが提案したのも同様のパターンである(図⑥)。

 

 

カンポン・ススン&スラバヤ・エコハウス

YKPを引き継ぐかたちでプルムナスPerumunas国立住宅開発公団)が設立されたのは1974年である。1970年代から1980年代にかけて,KIPを実施するのに精一杯の状況の中で,公的住宅の供給は限定的であった。しかし,1980年代後半になると,KIPを実施したカンポンの居住環境が再悪化しつつあることが問題となる。スラバヤで最初の臨地調査を行ったのはこのカンポンの再劣化が危惧され,次の段階の指針が求められる時期であった。カンポン・ハウジング・システムとして,基本的にはKIPを支えた,①総合的アプローチ,②主体としてのコミュニティ,③参加,④段階的アプローチ,⑤スモール・スケール・プロジェクト,⑥自力建設・相互扶助によるハウジング,⑦地域の生態系に基づくハウジング・システム,⑨プロセスとしてのハウジング,⑩多様性の許容といった基本理念を確認した上で,都市住居の新たな形式としてルスン・モデルを提案することになる。その理念を一言で言えば,カンポンの立体化(積層化)、カスンKasun(カンポン・ススン)である。

J.シラス率いるスラバヤ工科大学が設計計画し,建設されたのがルスン・ドゥパDupak1989),ルスン・ソンボSombo1990)(図⑦),ルスン・プンジャリンガンPenjaringan(1991)3つのルスンである。従前のカンポン居住者が入居するのが前提で、中廊下を広くコモンリビングとし,ダプールdapur(台所)とカマル・マンディkamar mandi(バス・トイレ)を集中させるプランは共通である。各階に礼拝室が設けられ,コモンリビングは作業場にもなり,集会スペースにもなる。外部から自由に出入りができ,上層階にも店(toko, warun)が開かれる。このコモンリビング形式のカスン・モデルは,西ジャワのタンゲランでも1カ所建設され,ジャカルタでも市営住宅のモデルとして採用されることになった。

 



そして,このカスン・モデルを前提とする次の段階のモデルとしてスラバヤ・エコハウス(図⑧)と呼ぶ環境共生住宅を建設する機会を得た。①クロス・ヴェンチレーションを考えた平面,煙突効果を利用した断面などポーラスな空間構成,②大屋根,ダブルルーフ,ココナッツの繊維を利用した断熱材などによる断熱・遮熱。廃熱,③ソーラーセル直結のポンプによる井水循環をもとにした輻射床冷房,④スケルトン・インフィル分離の躯体システムといった技術をもとにした実験住宅である。このコモンリビングによるカスン・モデル,そしてスラバヤ・エコハウスは,日本の51Cモデルに対するもうひとつの解答である。

 

カンポンの自治―RT & RW

カンポンのコミュニティ組織は,ルクン・タタンガrukun tetangga(エル・テーRT:隣組)そしてその集合ルクン・ワルガrukun warga(エル・ウェーRW:町内会)からなる。ルクンとは,調和,和合を意味し,ウルマットurmat(敬意)とともに,ジャワにおける家族のあり方,その生活様式を規定する,ジャワの社会組織を統合,維持する重要な価値概念である[xix]。タタンガは隣人,ワルガは住民である。






 RTRWが日本軍によって持ち込まれたこと,そして,日本では,太平洋戦争敗戦後,GHQによって解体された隣組・町内会システムが,インドネシアでは戦後も機能し続け,開発独裁を支える巨大な「集票マシーン」と化したことについては,「ポストメモリーとしての「大東亜共栄圏」―隣組と町内会―」『都市美』(第2号)で触れたが,RTRWが当初のまま住民組織として存続してきたわけではない。「隣保制度組織要綱」(19441月)が導入したのは,隣組tonarigumiRT)と字aza(カンポン)である。すなわち,隣組からなるカンポン(字)を,字長と隣組長をもって構成される字常会aza joukaiによって統治するというのが構想であった。そして,独立後,字はルクン・カンポンRK(エル・カー)と呼ばれるようになる。

しかし,RTRKは,統治機関として位置づけられたわけではない。政府の援助と保護を受け,政府を補助して,税の徴収,住民登録,転出入確認,人口・経済統計,政府指令伝達,社会福祉サービスなどの役割を担うのみで,身近な居住環境に関わることはカンポンの自治に委ねられてきた。カンポン共同体の伝統が日本統治期末期の1年に満たない経験のみに由来するわけではない。オランダ統治期にもカンポンの自治は基本的に認められてきたのである。オランダの村落(ドルプdorp)についての自治体法をもとにした原住民自治体条例Inlandsche Gemeente Ordonantie[xx]1906年)によって,デサが原住民自治体を意味する公用語となるが[xxi],自治体すなわちヘメーンテgemeente(ヘメーンシェプgemeenschep)は,ドイツ語ではゲマインデGemeinde(ゲマインシャフトGemeinshaft,すなわち,共同体である。デサの共同体的性格は,植民地支配によってむしろ強化されたと考えられる。大塚久雄の『共同体の基礎理論』は,全世界的な規模における単一の構成として現れる資本主義社会に対して,一つ一つの「共同体」がそれぞれ多かれ少なかれ独立した「局所的小宇宙」をなし,そうしたあまたの小宇宙の連結体として構成される世界を想定したのであるが,「局所的小宇宙le microcosme localisé」の例として,「ジャワの「デッサ」や旧ロシアの「ミール」が「共同体」と同時に「世界」を意味したことを思え」と,1ヵ所「デサ」に触れている[xxii]

1960年にRT/RWに関する地方行政法が施行されたが,この段階でも,RT/RKは,基本的に政府や政党からは独立した住民組織として認められてきた。RT/RKを国家の行政機構に組み込む動きが具体化し始めるのは,9.30事件(ゲシュタプGestapu)以降であり,RT/RKは次第に独立性を失っていくことになる。画期となるのは1979年の村落自治体法の制定で,そこで導入されたのがRWという新たな近隣単位であった。そして,1983年になって,インドネシア全域に対して,RT/RWに対する新たな規定が内務大臣決定(「規定」7号)が行われる。RT/RWは,国家の末端組織として組み込まれるのである。そして,この1983年以降,カンポンの居住環境についての施策展開はない。90年代におけるスラバヤの実験は,必ずしも,全国的な居住政策として取り上げられることはないのである。

 

グリーン・アンド・グリーン(Hijau dan BersihGreen and Clean)KIP

そうした中で、スラバヤ市が,自治体としてカンポンの改善に再び本格的に取り組むのは,1998年のスハルト退陣後である。J.シラスのリーダーシップが大きいが,総合的Comprehensive KIPをうたい,物理的環境の改善のみならず,職業訓練や協業組合による経済環境の整備,図書館やパソコン教室の設置など教育環境の改善も含めた施策を,自主財源を投じて展開するのである。そして,その施策はグリーン・アンド・クリーン(Hijau dan BersihKIPと呼ぶエコ・カンポン運動に結びついていく。リスマ市長の下で全カンポンで追及されているグリーン・アンド・クリーン KIPは,a:都市農園(アーバン・ファーミング), b:コンポスト,c: 水浄化システム,d:リサイクル,などを主要な内容としている(図⑨)。




2002年以降,スラバヤでは,バンバン・デウィ・ハルトノBambang Dwi Hartono200210),トゥリ・リスマハリーニTri Rismaharini2010201520162021)と闘争民主党DPIの市長が市政を担ってきた。とりわけ,リスマ市長は,20109月に就任すると,1.スマートシティライフの構築,2.人道的都市の表現,3.地域密着型経済の実現,4.環境に優しい活気のある都市をヴィジョンとして,積極的な施策を展開する。リスマ市長は,スラバヤ工科大学ITSの建築学科出身で,言わばJ.シラスの弟子である。

興味深いのは,31すべてのクチャマタン[xxiii]でさまざまなセミナーを実施し,取り組みに意欲的な市民を環境ファシリテーターとして各カンポンに配置し,プログラムの一環として,環境改善コンテストを開催するなど,カンポンの自主的な取り組みを推進してきたことである(図⑩)。市政改革や公園整備に力を入れ,東南アジア最大級とされるプロスティチュート・エリアとされるカンポン・ドリイDollyの閉鎖を宣言するなど,その辣腕ぶりに,市議会の反発を受けるなど必ずしも順風満帆ではなかったが,フォーチュン』誌(20153月)が,「世界の最も偉大な指導者50人」を挙げる中で,「直面している問題について正直に語り,市民を鼓舞する市長」としてリスマ市長を24位に選んだ。

 

自立するカンポン 

アーバン・ファーミング(都市農園)は,まさにアーバン・ヴィレッジ(都市村落)の起源を想い起させるが,スラバヤのカンポンは実に多彩な活動を展開しつつある。環境改善,資源の再利用,緑化とともに,カンポンの主要な課題は経済環境の改善である。リスマ市長の基本政策の第3は地域密着型経済の実現である。

『スラバヤーコスモスとしてのカンポン-』(布野修司(2021))では最後に「カンポン曼荼羅」(Space Formation Ⅳ)として18の取り組みを紹介しているが,その中に,超高層ビルも建つスラバヤの中心部に「カンポン・ラワスLawas(古村)運動」を開始したカンポンがある。伝統的な子供の遊び,伝統的な料理,かつてのカンポンの生活を体験する様々なプログラムはツーリストをターゲットにすることによってカンポンの収入を得るのも狙いにある。リスマ市長がプロスティチュート・エリアの閉鎖を宣言したカンポン・ドリイは,その後,意外な展開をみせている。地区の再開発とともに職業訓練が行われ,靴,バティック(ロウケツ染め),食料品,工芸品などの製造を開始,地区名を変えることを提案する市長に対して,住民たちは製造元にドリイの名を明記することを選択,軌道に乗りつつあるのである。

各カンポンが競うのは,小規模企業の協業による独自の特産品の製造である。BUMBina Usaha Mandiri独立開発事業)として融資が行われるが,中には,ロントンlontong(バナナの葉で包んだ米菓子),テンペtempe(大豆菓子)で大成功し,国内外から多くの視察団が訪れるカンポンがある。海に接する東部と北部には漁村や養魚地があり,東南部にはマングローブ林がある。植樹によってマングローブ林を保護しながら,食物,飲物,バティック製造などに利用する一方,エコ・ツーリズムの展開も計られている。また,西部には農業を営むそれこそカンポンがあるが,ディベロッパーが農地を提供,繁忙期の農作業には都心住民の労働力を利用する仕組みが作られたりしている。

 

後退するUNハビタット(UrbanⅢ)

スラバヤのカンポンは,依然として,都市共同体のひとつの生き生きしたあり方を示しているように思える。カンポンの多彩な相互扶助活動は,独裁的,専制的,一元的な管理システムには回収されないヴェクトルを示している。山本理顕の地域コミュニティ権確立の主張そしてLocal Republic Awardの創設も,リスマ市長のカンポン・コンクールに通底する試みである。それぞれのカンポンの自主的な取り組みを促し,地区や地域さらに国家を超えたネットワークに接合するその方向性を示そうとしたのが,2016年の3回国際連合人間居住会議UrbanⅢ(キト(エクアドル),101720日)の準備会合のスラバヤ開催であった。

しかし,世界資本主義の欲望には底知れぬものがある。

20016年夏、久々のスラバヤ調査を計画したところ,UrbanⅢの準備会合にインドネシア代表の顧問として参加するJ.シラスから,来るなら合わせて来い,と声をかけられた。リスマ市長の下でカンポンの多彩な活動が行われていることを知ったのはこの準備会合で企画されたエクスカーションに参加したからである。リスマ市長のリーダーシップは絶大で,スラバヤ市庁舎前でのオープニング・パーティは3000人規模の盛大なものであった。いくつかのセッションにオブザーバー参加して,否応なくUNハビタットの40年を振り返った。

バンクーバーでの第1回会議の後,UNハビタットは,20年毎に人間居住のあり方への指針を決議してきた。第2UrbanⅡの「イスタンブール宣言」(1996)は,「都市は,人々が,尊厳をともなった生活,健康,安全,幸福と希望を満たすための場所であるべきである」と「都市への権利」を確認したうえで,10億人を超える絶対的貧困生活者,社会的弱者層,不遇者と位置づけられた人々に公約する、とはっきり書いた。ジェンダーの平等も既にうたっており,人々の多様性を維持すべきとし、「先進工業国における非持続可能な消費と生産のパターン,構造と分配を含めた非持続可能な人口の変化,爆発的な人口集中への傾向に対して優先的な配慮,人々のホームレス化,貧困の増大,失業者問題,社会的差別,家庭崩壊,不適切な資源の利用,基本的なインフラや社会サービスの欠如,適切な計画の欠如,危険や暴力の増加,環境の悪化,そして災害への抵抗力の低下といった一連の問題にわれわれは包括的に取り組まなければならない」と格調高い。そして,居住環境を改善するために,国家間,国家,そしてローカルレベルでのパートナーシップを再確認するともしていた。しかし,第3UrbanⅢは,恐ろしく後退的であった。

キト宣言(ニュー・アーバン・アジェンダNUA)は,NUAには「都市への権利」の文言が含まれているが,都市プロセスに対する人々による制御をめぐって議論されてきた概念で,様々な当事者の利益が対立する場合に,誰が勝つかについて明確な意味はありません」とわざわざ記すのである。そして,「NUAは,公的資金と民間資金の両方を求め」,「 公的資金は,都市化による経済的利益から得られる可能性があり」,「特に不動産と住宅のための民間資金」をNUAは奨励します,というのである。「人間居住」の問題を市場原理,投資機関に委ねるといわんばかりなのである。国連の持続可能な開発目標SDGsは,第1に貧困の撲滅をうたうけれど,人間居住については随分と心もとない。グローバルな資本主義の展開こそが格差社会を拡大し続ける根源である。限られた資源,エネルギー,自然をいかに共有するか,その原理が今地球規模で求められているにも拘らず,「貧困」を生み出す根源のメカニズムにその解消を委ねるというのであれば,UNハビタットの初心は死んだといわざるをえない。無数のアーバン・ヴィレッジの重層的ネットワークの成立根拠は、「都市への権利」そのものである。

 

参考文献 

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[i] バロンという植物の繊維で織った布で作る民族衣装をいう。フィリピンで,一般的にコミュニティの基本単位は,南米同様,バリオbarrioである。また,タガログ語のバランガイbarangayが用いられる。

[ii] スペイン語のバリオbarrio(近隣)は、イベロアメリカ(ウルグアイ,アルゼンチン,キューバ,プエルトリコなど)で最小の行政単位として用いられる。その後,ブエノスアイレスのバリオ地区のような特別な低所得者居住地を意味するようになった。ただ,バリオ・セラドというと閉じたコミュニティ(ゲイティド・コミュニティ)を意味する。バリオ・デ・インヴァージョン(あるいはコムーナ) barrio de invasión or comuna 貧困地区をいう。 むしろ,アメリカ合衆国でバリオはスペイン人居住区をいい,スラム(barrio bajo)といったニュアンスをもつ。

[iii] ファヴェーラという名称は,ブラジル北東部サヴァンナ地域に生育する植物の名に由来する。19世紀末に反乱(カヌードス戦争)を鎮圧するために政府軍に参加し勝利した兵士が任務を解かれてリオデジャネイロに流入,郊外の土地を占拠し街を形成,モーロ・ダ・ファヴェーラMorro da Favelaと名付けたが,その後,自由黒人らが流入し,ファヴェーラは黒人を主としインディオ,メスティーソらも住む貧民街へと変わっていった。以降,ファヴェーラはスクオッター・セトゥルメントを意味するようになる。1940年代には住宅危機が起こり,都市部の貧民たちは郊外に無数のバラック街を築いた。また,1970年代に,ファヴェーラはリオデジャネイロ市の範囲を超えて都市圏の外縁部まで達した。

[iv] フランス語で,スラムの訳語貧民街。チュニジアで最初に使われたとされるが,アフリカでもさまざまな呼び方がある。ガボンではマパネMapaneまたはマティティmatiti,アンゴラでムセクMusseques,ケニアでキジジKijijiなど

[v] トルコ語のgece(夜)とkonmak(尋ねる)を合わせた言葉で「一夜建て」の意味。バラック街をいう。

[v] フランス語で,スラムの訳語。貧民街。チュニジアで最初に使われたとされるが,アフリカでもさまざまな呼び方がある。ガボンではマパネMapaneまたはマティティmatiti,アンゴラでムセクMusseques,ケニアでキジジKijijiなど

[vi] ヒンディ語で住居を意味する。

[vii] 過剰都市化による大量の「スラム」の発生は, 発展途上国共通の深刻な居住問題を生むが,その「スラム」は必ずしも西欧における「スラム」という概念で捉えられるわけではない。まず,現象的にその発生の規模において,すなわち,西欧の諸都市がその内部にそうした居住地区を囲い込んだのに対して,発展途上国の大都市では都市全体を覆うほどの規模であることにおいて異なっている。 そして「スラム」という概念においてしばしば指摘される家族解体や個人の疎外,近隣社会の崩壊などさまざまな病理現象が必ずしもみられないことも大きな特徴である。都市化の過程と構造が大きく異なるのである。

[viii] 一般原理として,1.人間の生活の質の向上は,すべての人間居住政策の最初で最も重要な目的である。この政策は,すべての人々の生活の質の迅速かつ継続的な改善を促進する必要がある。それは,食糧,避難所,きれいな水,雇用,健康,教育,訓練,人種,肌の色,性別,言語,宗教,イデオロギー,国家的または社会的起源に関する差別のない社会保障の基本的ニーズの充足から始まる。2.この目的を達成するために努力する際に​​は,最も恵まれない人々のニーズを優先しなければなならない,など計19項目が列挙される。

[ix] 椎野若菜「「コンパウンド」と「カンポン」―居住に関する人類学用語の歴史的考察―」(『社会人類学年報』262000年)は,サブタイトルが示唆するように,人類学者として「居住」に関する英語の語源を確認することを骨子としている。詳細は,Space Formation Ⅰ デサ 4 カンポンとコンパウンド」(布野修司,2021)。

[x] 移動性の高い場合はキャンプcampが用いられる。他には,エンクロージャーenclosure,クラスターcluster,ハムレットhamlet,ヴィレッジvillageがある。

[xi] 本稿の基になっているのは,『カンポンの世界』(パルコ出版,1991)と『スラバヤ 東南アジア都市の起源・形成・変容・転生―コスモスとしてのカンポン―』( 京都大学学術出版会,2021)である。両書の間には30年の時間の流れがある。本稿は, 本号特集テーマに合わせて住宅に焦点を当てて,カンポン共同体をさらに大きな歴史的過程に位置づける試みである。

[xii] そもそものきっかけは,「東洋における居住問題の理論的実証的研究」(19781982年)という東洋大学の磯村英一学長主導の国際研究プロジェクトであった。

[xiii] ジャカルタの赤い風景-第三世界の都市と建築」『日本読書新聞』, 19790409.

[xiv] 廃車に切妻の屋根をかけたバス住宅,木材が足りないので柱を省いた三角ハウス,川崎の工場の鉄管や釜をありあわせの新聞紙や木片,布などで塞いだ鉄管住宅,天幕住宅。空罐で屋根を吹いたブリキ職人の住宅,広告板や町名表示板を貼った住宅,賃貸の移動トロッコ住宅などである。このトロッコ住宅のような床屋さんの移動住宅(図①b)をスラバヤで実際に見た(「床屋さんのモビールハウス」布野修司編(1991)『見知らぬ町の見知らぬ住まい』)。

[xv] Johan Silas1936年サマリンダ(カリマンタン)生まれ。バンドン工科大学卒業。1965年スラバヤ工科大学講師,1992年教授,現在,スラバヤ工科大学榮譽教授。著書論文Silas, J. (1982)など多数。


[xvi] この要約は,布野修司(1987)『インドネシアにおける居住環境の変容とその整備手法に関する研究ーーーハウジング計画論に関する方法論的考察』(学位請求論文,東京大学,1987年)の結論部のエッセンスである。

[xvii] Cascade I インヴォリューション(布野修司(2021))。

[xviii] アガ・カーン賞の受賞について,審査員であった日本の建築家・丹下健三が反対したことについては「ポストメモリーとしての「大東亜共栄圏」―隣組と町内会―」(『都市美』第2号)で触れた。

[xix] ウルマット(敬意)を表す行動を要求している場面にふさわしいとみなされる感情として,ウェディwedi(恐れ),イシンisin(恥じらい),スンカンsungkan(礼儀)という3つがある。ルクンは,集団の内部でその集団の目的と手段について,少なくとも外面的行動の上で調和の状態,一致の状態になっていることを示している。相互の援助や協力そのものを指すのではなく,意見や感情の違いがあからさまにあらわれていなければルクンの状態である(ヒルドレッド・ギアツ(1980)。

[xx] 原住民自治体条例は,ものである。

[xxi] カンポンとジャワにおける伝統的村落デサとの関係をめぐっては,「Space Formation Ⅰ デサ」(布野修司(2021)『スラバヤ』)を参照。

[xxii] 大塚久雄(1955)「第二章 共同体と土地占取の諸形態 二 共同体」『共同体の基礎理論』。

[xxiii] スラバヤのカンポンは,1362RW9096RTからなるが,RWRTを最小単位として構成される次の単位がクルラハンKelurahan(連合町内会)であり,このクルラハンが412集まってクチャマタンKecamatanとなる。スラバヤは31のクチャマタンからなるが,その人口は,最低が約45000人,最大は約234000人,平均88270人である(2018年)。大きく東西南北中の5つの区に分けられるが,区の人口は約378000816000人である。スラバヤ市部の人口は320万人ほどであるが,周辺市を含めてグルバンクルタスシロGerbangkertasusilaGeresik, Bangkalan, Kertasana, Surabaya, Sidoarjo, Lamongan)と呼ばれるスラバヤ大都市圏は1500万人になる。誤解を恐れずに言えば,人口規模と構成は,およそ,東京都と同様とイメージしていい。




2026年3月20日金曜日

図書新聞 読書新聞 2023年上半期

 2023年度上半期読書アンケート

 

①土居義岳、空想の建築史、左右社。②石井翔太、恣意と必然の建築 大江宏の作品と思想、鹿島出版会。③本間利雄+自伝編集委員会、建築家・本間利雄 風土に根ざした建築を求めて、鹿島出版会。④戦後建築研究会、戦後空間史 都市・建築・人間、筑摩書房。⑤磯達雄・文 山田新治郎・写真、日本のブルータリズム建築、トゥー・ヴァージンズ。⑥青井哲人、ヨコとタテの建築論、慶応義塾大学出版会。⑦松村淳、愛されるコモンズをつくる 街場の建築家たちの挑戦、。

 コロナ禍がわれわれの拠って立つ足元を改めて問い、歴史を大きく振り返る時間を与えてくれたのであろう。陸続と新著が手元に届く。①はフランス建築史をベースとするヨーロッパ建築史の第一人者による建築論集。「古代ギリシアから現代までをひとつの同時代として」を副題とするように、その切口は常に現代に向けられている。②、③は日本の近代建築の歴史を生きた建築家の仕事を丹念に跡づける。戦後建築をリードした丹下健三の同級生であった大江宏はその裏の深みを生きた。磯崎新と同い年の本間利雄は山形を拠点として生きた。④~⑤は戦後建築に焦点を当てる。いずれも建築の歴史を振り返る著作である。⑥は④にも執筆するが(第一章 民衆・伝統・運動体-冷戦と復興、文学と建築、リアリズムとモダニズム)、理論家として知られる著者の東京芸術大学の講義をもとにした初の建築論である。⑦は「建築家の解体」を宣言した前著を受けて、街場の建築家への期待を綴る。

 ウクライナ戦争が世界史の転換を告げて予断を許さない。⑧坂内徳明、女帝と道化のロシア、京都大学学術出版会は、「ノヴゴロドは父、キエフは母、モスクワは心、ペテルブルグは頭」というロシアの歴史観、世界観を教えてくれる。

布野修司(建築批評)





 

 

 

2026年3月19日木曜日

「職人問題」顛末記                未発表 室内室外

 「職人問題」顛末記                未発表

                            布野修司

 

 ここ三年程参加してきた「イスラムの都市性」に関する研究会で一乗谷(朝倉氏遺跡 福井県)に行ってきた。何故、「イスラムの都市性」というテーマで一乗谷かと言われると困るのであるが、簡単にいうと、イスラム都市と比較するために、日本の原・城下町としての一乗谷と蓮如が建設しようとした原・寺内町としての吉崎御坊を考えてみようということである。世界を隈なく駆け巡り、古今東西の歴史に通じた何ともスケールの大きいフィールド派の碩学、応地(おうじ)利明(京都大学)隊長に率いられたわが班は好奇心旺盛になんでもみてみようというのが方針なのである。

 水野和雄(朝倉氏遺跡資料館)氏他の報告をうけたあと、最盛期、人口一万人は下らなかったとされる城下町の遺跡をつぶさに見て、様々なことを思った。なによりも感心したのは、二七八㌶もの地区を特別史跡に指定し、既に二五年もの間、発掘が続けられていることだ。二五年も経てば壊してしまう今日の都市のありようは、何千年たっても発掘に値しないことは明らかである。戦国時代、一五世紀の末から一六世紀の末まで、朝倉孝景が応仁の乱のころ居城を構え、五代目の朝倉義景が信長によって滅ぼされるまで、ほぼ百年にわたって栄えた町がそのまま埋もれてしまっている。はかないと言えばはかない。しかし、戦乱の中にもしたたかな生活はある。出土した茶器や陶磁器、文具や将棋の駒などの遊具をみると相当の文化の厚みが伝わってくる。優雅といえば、実に優雅である。

 人々の暮しぶりが実にリアルによくわかるのだが、眼をひいたのは、町を支えた職人たちの町屋である。瓶や様々な工具をみると、「かじし」や「ひものし」、「じゅずし」や「そめものし」など、「七十一番歌合」や「職人尽絵屏風」などに描かれたような、数々の職人の工房が軒を接して並んでいたさまが彷彿としてくる。石工や大工ももちろんいた。下水や井戸、地業の跡は、建築職人の存在抜きには考えられない。中世末期に至ると、職人たちの組織化が行われ、都市の形成がなされていく。その原初の形態がそこにはあった。

 職人といえば、山本夏彦大先生の「職人不足はだれのせい」(写真コラム 『週間新潮』 三月一日号)には、ほとほと参った。夏彦大先生の発言の影響力のすごさとファンの多さには今更のように驚かされる。三月号の本欄の拙文に大先生がちょっと言及されただけで、職人問題をめぐって小生の周辺で慌ただしくさまざまな出来事が巻き起こりだしたのだ。

 まず、建築界の大先輩たちが組織されてきた「建設同友会」から声がかかった。面白いことをいうらしいから、ちょっと呼んで話を聞いてみようという感じであった。飯でも食わせるから、気楽に雑談でいいからと言われて引き受けたのであるが、行ってみて青くなった。「建設同友会」というのは、もう三〇年も続いており、これまでの会のリストにある毎回のゲストは、政界、経済界、芸能界など各界の著名人ばかりなのである。長老たちは人が悪い。もうやけくそである。夢中でしゃべって、職人不足は大学の建築学科の教師が悪いと自己批判して、ひたすらすみません、というつもりだったのが、先輩たちも多少の責任があるんじゃないですか、などと口走ってしまった。悪い癖だ。いまでも冷汗がでるけれど後の祭りである。

 茨城県で職人学校をつくろうという話があって、少しづつお手伝いを始めていたのであるが、一気に加速がついた。しかし、進めれば進めるほど難しさがわかってくる。一方で、職業訓練校のような学校が閉鎖されつつあるのに、また新たに同じ様な学校をつくろうとしても駄目なのは最初からわかりきっている。学校という発想がそもそも貧しい。労働省や建設省、文部省の認定や指導で雁字搦めになって、どうも動きがとれない。

 何故、職人になり手がいないのかははっきりしている。どうすれば、職人のなり手が増えるのかも、はっきりしている。乱暴にいえば、将来がはっきり約束される、社会的に地位が高く、人々に尊敬され、高収入が得られる、そんな職業になればいいのである。日本全体でそんなことを考えるのは無理だから、というよりもとよりそんな発想を捨てて、ある地域で考えてみよう、というのだ。意外に可能性があるかもしれない、つい今日まで職人のそうした町場の世界は身近に生きていたのだからと、かなり具体的な計画を煮つめつつあるのだけれど、もとより一朝一夕で答えが出るわけはない。

 職人不足というけれど、一体、どういう職人が足りないのか、よくよくみてみる必要がある。職人不足を千載一遇の好機として、ぼろ儲けの企業も少なくないのだ。やっぱり、職人問題ということでひっぱり出された雑誌『施工』(彰国社)の三〇〇号記念の鼎談「これからの建設労働に何を期待するか」(一九九〇年一〇月号)で、建設労働については実に詳しい、筆宝(ひっぽう)康之(立正大学)、藤沢好一(芝浦工大)の両先生と話してみて、つくづくそう思う。ここ一年で、ある統計によれば建設労働者は二八万人も増えているのである。足りないといいながら、産業間シフトでこれだけ増える潜在力は日本にはまだあるのである。職人不足は、ある意味では、職人の地位や報酬を底上げするいい機会だと筆宝先生はおっしゃる。しかし、建築単価の上昇がリクルーターに食われて、職人の賃金が低く押さえられる、高労務費低賃金の構造がどうしようもなくある。問われているのは、一貫して建設業界の体質なのだ。

 総合建設業、いわゆるゼネコンは、必ずしも技術を保有するわけではない。自社で工場を持つより、いざ不景気となれば下請けを切り放す、そうした体質をもっている。近年は特に商社化しつつある。エンジニアリング・ブローカーともいう。先の鼎談では、ゼネコン=裸の王様論が話題になった。そうしたなかで、技術をもち、実際に建物を建設するのは、第一次下請け業者としての専門工事業、いわゆるサブコンである。そうした専門工事業のいくつかが集まって、職人問題を考えようという動きがある。これまた手伝いなさい、という声がかかった。

 中心となるのは、現場でたたき上げられた有力専門工事業の社長さんたちである。現場の人間がないがしろにされるのは我慢がならない、現場の専門家の社会的地位があがることであればなんでもしたいとおっしゃる。到底手に余る。しかし、後には引けない。何かお手伝いしなければと思い始めたところだ。

 まだ動きはじめたばかりで、海のものとも山のものともわからないのであるが、仮に、サイト・スペシャルズ・フォーラムというのを発足させることが決まった。サイト・スペシャリスト(現場専門技能家)というのは、もちろん、造語だ。横文字にすればイメージがあがるというわけではないのだが、現場監督、親方、職長などを含めた現場に責任をもつ技能家を育成する職人の殿堂(アカデミー)をつくりたいという、願いがとりあえずサイト・スペシャリストという名称に込められている。もちろん、そうした名称が社会化していくかどうかはこれからの問題である。

 秋田の能代には、再び行く羽目に陥った。七月号の本欄で書いた経緯からである。タイトルに続いたリード・コピーに「能代の人々の表情は暗かった」とあり、一瞬やばいと思ったのであるが、九月二三日の「木造建築研究フォーラム」の際にもう一度来い、いいたいことがある、というのだ。行ってみたら、俺のどこが暗いのか、と何人にも絡まれた。僕がタイトルつけたんじゃない、などという姑息な言い訳はきかない。『室内』の記事は、能代中に知れわたっているのである。もうフォーラムそっちのけで謝って飲み歩いた。能代のひとは底抜けに明るい。だけどしつこい。こう書いとけば、また行くことになるに違いない。

 そしてついにタイル職人のまねごとまでやってしまった。山谷労働者福祉会館は(仮称)は、全くもって奇跡的に完全に自力建設でまもなく完成の見込みなのであるが、躯体が打上がって、内装工事にかかって、タイル職人が足りないという。山田脩二さんの瓦を使ったという経緯もあって、研究室総出で瓦とタイルを貼ったのである。最初の日は全員筋肉痛である。しかし、今ではみんなそれぞれ一端のタイル職人気分である。現場の楽しさ、大事さが少しは実感できた。

 来年、高山で山車をつくる合同合宿も本決まりである。何故だろう、職人というとそわそわしてくる。道を間違えたのかもしれない。まあ、これからもなりそこねた職人の夢をたどたどしく追って行くことになるのであろう。

2026年3月18日水曜日

京都・デザイン・リーグ(仮称)構想

京都・デザイン・リーグ(仮称)構想

布野修司(京都大学)

 

 京都に移り住んで七年が過ぎた。来る早々設立された(一九九二年七月)京町家再生研究会のメンバーに当初から加えて頂き、いきなり「京町家再生のための防火手法」について考える機会を得た。その縁で、今も「水幕式散水装置」の検討会にも加えて頂いている。建都1200年には『建築文化』誌で特集「建都1200年の京都:日本の都市の伝統と未来」(一九九四年二月)を編む機会を与えられた。今、振り返ると「盲蛇に怖じず」だったけれど、多くの情報を得ることができ、京都を考える様々な視角を得た。さらに、一九九七年度に行われた「京都グランド・ヴィジョン」コンペでは審査員(専門部会)を勤めさせて頂き、その『作品集』刊行(一九九九年三月)のお手伝いもさせて頂いた。京都は日常的に一番身近な都市だから、そのあり方についてはそれなりに考えているつもりである。

 しかし、具体的にどういうアクションを起こせばいいのかについては未だにわからないというのが正直なところだ。様々な議論はあり、様々なグループのそれなりの活動はあるものの全体として取り組む仕組みがなかなか見えて来ないのである。「京都グランド・ヴィジョン」コンペにおける提案も、京都の抱える様々な問題を指摘し、目指すべき様々な方向を示している。しかし、誰がどう実行するのかということになるとわからない。極端に言うと、議論ばかりで何も変わらないのではないかという気さえしてくる。

 いくつか決定的な問題を指摘できる。まず、第一にステレオタイプ化された発想(問題の立て方)がある。思考の怠慢といってもいい。「京都の景観問題」というと、まず、建物の高さが問われる。あるいは、建設するかどうかが問題となる。しかし、どのような高さならいいのか、建設するならどうあるべきか、という方向に議論は進まない。そして、「事後?」議論は停止する。例えば、ポン・デ・ザール(3.5条大橋)の問題にしても、白紙撤回で決着が着いたように思われているけれど、都市計画審議会の決定は生きている。議論は停止したままだ。

 開発か保存か、観光かヴェンチャービジネスか、博物館都市へ、木造都市へ、京都をめぐる提案は二者択一の紋切り型のものがほとんどだ。提案のみがあって、具体化への過程が詰められることがない。

 第二に、「京都の景観問題」というと、極く限定された地区や建物しか問題とされない。ジャーナリスティックに問題されるのは、京都ホテルや京都駅のようなモニュメンタルな建築物だ。京都大学の建物が30mになっても問題にされないのは何故か。京都の問題というと山鉾町であり祇園である。議論はそうしたいくつかのハイライト地区に集中して、他は視野外に置かれるのが常だ。

 第三に、取組みに持続性がない。研究者やプランナーは、ある時期特定のテーマについて作業を行い、報告書を書き、論文を書くけれど、一貫して地区に関わることは希である。

 等々それなりに真剣に考えて、これしかないかな、と思うことが、以下にイメージを示す京都デザインリーグ(仮称)構想である。

  京都に拠点を置く大学・専門学校などの建築、都市計画、デザイン系の研究室が母胎となる。研究室は、それぞれ京都のある地区を担当する。地区はダブってもいいが、地区割会議によって可能な限り京都全域がカヴァーできることが望ましい。

 各研究室は、年に一日(春)、担当地区を歩き一定のフォーマット(写真、地図、ヴィデオ等々による地区カルテの作成)で記録する。そして、各研究室は、一日(秋)集い各地区について様々な問題(変化)を報告する。以上、年に最低二日、京都について共通の作業をしましょうというのが、提案だ。

 もちろん、各研究室は担当地区について様々なプロジェクト提案を行ってもいい。様々な関係ができれば実際の設計の仕事も来るかもしれない。それぞれに年一回の報告会で、提案内容を競えばいい。ただ、持続的に地区を記録するのはノルマだ。研究室を主体とするのは、持続性が期待できるからである。

 京都市立芸大、京都府大、京都工業繊維大学、京都大学、京都精華大学、京都造形大学、立命館大学、西安造形大学、・・・30研究室ぐらいの参加が見込めるであろうか。しかし、それでは全域をカヴァーするのはしんどい。でも全国の研究室が参加すれば、あるいは建築家が組織として参加すればわけないのである。京都・デザイン・リーグ構想は、タウン・アーキテクト制のシミュレーションでもある。

 

   

2026年3月17日火曜日

京都CDLに期待すること

京都CDLに期待すること

布野修司

 

 

 京都は、20018月末でちょうど10年になる。10年一昔である。それなりに京都のことはわかってきたような気がしないでもない。

しかし、信頼すべき京都人に言わせると、20年までは観光客と同じだ、という。20年までは仲間じゃない、ということかもしれない。京都人にはそんなところがある。しかし、三代住まなければ江戸っ子じゃないといったりするから、土地に馴染むには時間がかかるのはどこでも同じであろう。

しかし、何年住もうと京都がわかるとは限らない。また、観光客であれ、京都がわからない、ということもないだろう。京都CDLに期待するのは、とにかく、京都を知ろうということである。京都に対するステレオタイプ化したイメージを一旦捨てて、虚心坦懐に京都を見つめ直そう、ということである。

日本の古都、京都であっても、日々変化することがある。また、京都だって色んな場所がある。最低、それをきちんと書きとめよう。

多くの学生にとって、京都は数年住んで楽しく学ぶ町である。その新鮮な若い眼に期待しよう。10年、20年住むと逆に眼が曇るということもある。 

2026年3月16日月曜日

建築計画「学」―その可能性の中心―のためのメモ、日本建築学会、

 建築計画「学」―その可能性の中心―のためのメモ

布野修司(滋賀県立大学:建築計画委員会委員長)

 

0.   この懇談会でいう、「建築計画」とは一体何か? 「集落」とは何か? 「建築計画」は「集落」を超えることができるか、というテーマ設定は、何を問題にしようとするのか、タイトルだけから不明で、極めて奇異に思える。「建築計画学」あるいは「建築計画研究」が問題であって、「建築計画」一般が問題ではないのではないか? 「集落」と「建築計画」は、超えたり、超えられたりする関係なのか? 「集落」=「非計画」、「自然発生的」「?」という、問題の立て方は自明なのか?

1.   「住居集落」研究を問題にするのであれば、是非、『住居集落研究の方法と課題Ⅰ 異文化の理解をめぐって』(主査 布野修司,協議会資料, 建築計画委員会,1988)、『住居集落研究の方法と課題Ⅱ 異文化研究のプロブレマティーク』(主査 布野修司,協議会記録,建築計画委員会, 1989)を前提にして欲しい。また、この例にならって、議論を総括した論集をまとめて欲しい。この協議会では、「異文化」理解がキーとなっていたが、今日的なテーマ設定が必要だと思う(→8)。

2.   「建築計画学」をめぐっては、どういう回路(企画・設計・計画・施工)を想定して、議論するか、が問題である。あるいは、その回路の設定自体がテーマとなる。誤解を恐れずに言えば、公的な住宅供給、公共施設の設計計画(の回路)を前提として成立したのが、「建築計画学」である。「集落」ということで何が、どのような回路が、想定されているのか。

3.     「建築計画学」あるいは「建築計画学」「研究」については、一定の批判総括がなされてきている。「施設(系をフレームとする縦割り研究)」批判、「調査主義」批判、「研究のための研究(マンネリ化)」批判・・・などである。ここでは一体何を問題とするのか。

4.     「建築計画学」をめぐっては、端的に次のように考える。第一に、建築の企画・計画・設計・施工・維持・管理の全過程を対象とする広い視野がさらに必要である(学の総合性、広義の建築計画学)。第二に、地域社会との連携を基軸とした市民のための建築計画研究や活動がさらに活性化する必要がある(学の実践性)。第三に、建築計画学の固有の方法、体系がさらに追求検討される必要がある(学の固有性、体系性)。「建築計画学」の原点、初心、存立根拠を繰り返し問い続ける必要がある。

5.     「住居集落」研究については、2.でも突っ込んで議論しているが、今日われわれが臨地調査を行う「集落」をどう位置づけるのかがまず問題である。ここでいう「集落」とは一体どのようなものか。「非計画的」「自然発生的」という言葉から類推すると、ヴァナキュラーな世界がそのまま維持されてきたのが「集落」と規定されているように思えるが、果たしてそうか。相当程度古くから存続してきたと思われる「集落」が、150年ほど前に計画的に建設された移住集落であった、あるいは専ら観光目当ての農村集落もどきであった、といったことがある。また、「西欧化」「近代化」のインパクトが地域社会の「共同体」を解体するのではなく、逆に強化する場合がある。

6.     要するに、現代世界における「集落」も、産業社会の論理と無縁ではなく、大きな変容過程にあるのだとしたら、その規定について、もう少し慎重に設定すべきである。「集落」であれ、「都市」であれ、フィールドから組み立てるのが「建築計画学」の原点である。

7.     臨地調査→手法・空間構成原理の発見・抽出→空間の型の提案→設計→評価という、「建築計画学」の一連のプロセスと方法は、あらゆる対象に対して共通ではないか。プロトタイプかプロトコルか、という今年度の協議会テーマも、この一連の過程を前提にした議論である。現代社会のニーズを的確に把握することによって、新たな建築類型の提案、建設、評価といった社会実験が様々なレヴェルで展開されるべきだと考える。

8.     「集落」というキーワードによって何を問題にするのか。以上のようにもどかしいが、いささか踏み込んで勝手に思いこんで言えば、以下のようではないか。『世界住居誌』(布野修司編、昭和堂、2005年)をまとめてみて、つくづく思うのは、西欧列強が世界を再「発見」した時代になって、猶、地球上には太古の生活のままに生活してきた人々が存在し、さらについ最近までその伝統が生き続けて来たということである。逆に言うと、つい近年の変化がとてつもなく大きいということである。われわれは、その伝統を再度見直し、学ぶ必要があるのではないか。この点について、日本でも「民家研究」の歴史の流れにおいて主張されてきたし、グローバルにも、B.ルドフスキー、A.ラポポート、・・・P.オリバー・・・といった流れにおいて提起され続けて来ているところである。

9.     今日、「集落」というキーワードで直感されようとしているテーマは、建築と「自然」「環境」「生態」・・・との関係であろう。布野の場合、「地域の生態系に基づく住居(集落)システム」が、これまで一貫する関心である(『地域の生態系に基づく住居システムに関する研究()(主査 布野修司,全体統括・執筆,研究メンバー 安藤邦広 勝瀬義仁 浅井賢治 乾尚彦他) ,住宅建築研究所, 1981年。地域の生態系の基づく住居システムに関する研究()(主査 布野修司,全体統括・執筆,研究メンバー 安藤邦広 勝瀬義仁 浅井賢治 乾尚彦他),住宅総合研究財団,1991)。

10.『生きている住まいー東南アジア建築人類学』(ロクサーナ・ウオータソン著 ,布野修司(監訳)+アジア都市建築研究会,The Living House: An Anthropology of Architecture in South-East Asia,学芸出版社,1997)には、とりあげるべき、様々な視点が提出されている。これらの視点は、議論の対象になるのか(して欲しい)。

11.とは言え、以上のような関心に耐えうる「集落」が果たして、われわれ(日本人研究者)にとってあるのか、という問題がある。5.6.の指摘と相反する言い方であるが(5.6.の構えであれば、あらゆる「集落」は問題としうる)、目的テーマが9.10.だとすれば、ということである。もちろん、9.10.の研究関心に耐えうる「集落」は、アジアの各地にも数多く残されている。しかし、R.ウオータソンの眼の深度で各地域を「つぶす」のは容易ではない、と思う。日本に軸足を置いた場合の「集落研究」の戦略はもう少し練られて共有されるべきであろう。

12.この間、布野は、専ら「都市組織」研究に集中している。研究関心が移っていったということでは必ずしもなく、11.のような事情がある。また、都市の問題が現代社会において、特に発展途上地域において肥大化しつつあるという認識がある。また、都市組織と都市建築の型に関する研究は、建築計画研究の原点だと思っているからである。

              (7月18日 ニューデリーにて記す)

 

2026年3月15日日曜日

都市組織研究

 都市を遺伝子,細胞,臓器,血管,骨など様々な生体組織からなる有機体に喩えると,コミュニティ組織のような社会集団の編成と対応する、いくつかの要素(建材、部品、部屋・・・)あるいはいくつかのシステム(躯体,内装,設備・・・)からなる建築物とその集合による都市組織からなると考えられる。本研究では、ますます画一化しつつある現代都市の空間編成に対して、アジアの諸都市の都市組織の多様な空間構成を明らかにするものである。

 

The city is formed by urban tissues (urban fabrics), which are sets of buildings(houses, public facilities…) and open spaces(roads, rivers, …) supported by infrastructures as an organic body is consist of genes, cells, internal organs, blood vessels, bones and so on. This research clarifies the various space formation of urban tissues of Asian cities to reconsider the standardized urban formation of modernized cities in the world.

 

2026年3月14日土曜日

奥出雲おろち号、第7回しまね景観賞 優秀賞選評、島根県、1999

 奥出雲おろち号

  布野修司 

 出雲横田駅の近くの踏切で待った。紅葉の季節がほぼ終わりかけ、明日には運転がお終いになるという日で、雪も降り出しそうであった。

 やがてゆっくりと奥出雲おろち号が現れた。白とブルーに塗り分けられた車体は後ろの山の緑と紅葉によく映えて見えた。映えると言っても、自己主張をする映え方ではない。適度のスピードで通り過ぎるから、適度に刺激的である。このデザインが賞の対象だけれど、それよりこの企画自体が景観賞に値する。すなわち、景観を鑑賞する仕掛けがいい。

 このトロッコ列車の存在によって鉄道沿線の景観は常に意識されるだろう。旅客たちは奥出雲の自然を楽しむと同時に奧出雲の歴史と伝統を思う。他に同様のアイディアはあるにせよ、いつまでも続けて欲しいと思う。

 寒いから、トロッコ列車に乗っている人はいないのじゃないか、といささか心配であったけれど、やってきた奥出雲おろち号には紅葉を楽しむ少なからぬ客があった。

2026年3月13日金曜日

国民住宅と西山夘三の食寝分離論

 9.国民住宅と西山夘三の食寝分離論

 

  戦時下の住宅事情

  第2次世界大戦勃発前夜(1940年)、大政翼賛会が設立される。そして、国家総力戦体制へ向けての「新体制運動」が始まる。日中戦争が泥沼化する中で、日本国内は深刻な物不足に陥っていた。贅沢を慎み、生活を最低限まで切りつめることが強いられたが、それを美徳とする風潮が「新体制運動」を支えた。声高に提唱されたのが国民服であり、国民食であり、国民住宅であった。あらゆる物質生活を標準化することによって切りつめ、国民的統合を図ろうというのが「新体制運動」である。

 軍需産業の拡大とともに労働力が動員され、四大工業地域を中心とする都市部に人口が集中する。1939年には主要都市部の空き家率は1%を下回ったというi。住宅不足と労働者の不衛生な生活が深刻な問題となった。狭小な部屋での生活は、労働者の健康に大きな影響を及ぼす

 日々悪化していく住宅状況を背景に「国民住宅」構想は注目を集めた。1940年に国家による住宅供給機関として、同潤会を改組して設立された『住宅営団』も「国民住宅」への人々の期待を助長した。しかし、「国民住宅」建設という国家的プロジェクトに組み込まれた住宅政策は決して期待されたほど現実に即したものではなかった。衣食住ということで、国民服、国民食、国民住宅が発想されたのであるが、衣食と住は異なる。毎日着替える服や毎食異なる献立の替わりに、国民服を身につけ、国民食を口にするのと同様のレベルで国民住宅を考えることはできないのである。

 

 建築家の関心

 早川文夫(厚生省技師)による「国民住居の提唱」iiが建築界における国民住宅に対する態度を方向づけたといえる。

 「現在日本国民の大多数が住むべき家を仮に名付けて国民住居と呼ぶ。それは現存する家の単なる平均ではなく、かかる家にこそ住むべきであると云ふSollenを意味する」。

 つまり建築家として取り組むべきは、生活を最低限にまで切りつめて良しとする住宅ではなく、今後の住宅の目標を示すことである。以降、あるべき住宅像が様々に語られるのであるが、建築家の関心は必ずしも間取りにはない。

 「国民住宅」とはどうあるべきか。建築学会がまず提案しているiii。「戦時下の非常時であるから生活は簡素にすべき」という姿勢である。大邸宅を切りつめて小さくしていけば間取りは自ずと決定されるという。住宅の平面を構成する部屋は全て寝室に転用できるというのが結論であった。

 さらに学会案を下敷きにして、厚生省住宅規格協議会によって「住宅及其ノ敷地設計基準」が決定される。10㎡を単位として、30㎡「い」型から80㎡「へ」型まで6つの型が用意された。間取りというより、部屋を並べただけである。間取りより、量産のための規格化が建築家の頭を占めていたように見える。専ら、規格化はメートル単位か寸尺単位かといったことが議論されるのである。

 国民住宅設計コンペ(1941年)も現実の逼迫した住宅事情と結びつくものではなかった。「わが国将来の国民住宅の確立を期し、特にその意匠、構造、材料の上に画期的なる草案を求む」というのが募集趣旨ivである。敷地(130㎡指定)や建物規模の設定をみると募集側は必ずしも実現を考えていなかったように思える。審査員自身が審査所感として建築家の戸惑いが作品に現れていると言っている。このコンペの当選図案は、一見して奇妙である。そして中途半端である。木造に国際様式をはりつけただけなのである。

 

 「型」計画

 目前に迫る住宅難から出発した「国民住宅」は、戦時下の状況に眼をつむって理想を語るための道具のようであった。この名だけあって実が伴わない議論に、西山夘三は「食寝分離論」によって激しく反発する。戦争の有無に関わらず、一貫して庶民の住まい方に関心があった西山は、その膨大な調査をもとに、狭くても食事と就寝の部屋は別に確保されるべきであると主張する。そして同潤会が供給してきた中廊下型の間取りと比較しながら、少ない床面積でも食事室と寝室は別に確保できると強調する。

 住宅営団は設立すると同時に5年間で30万戸の住宅を供給すると宣言した。当時の全住宅数はおよそ1400万戸だった。住宅営団が国民の住居の全てをカヴァーすることが考えられていたわけではないが、かなりの目標である。量産化のための「国民住宅」の計画という課題に対しては、建築家にとって個々の住宅の設計を行う場合とは異なった方法が必要とされる。西山が提案したのが「型による解決」である。家族の人員構成に対応した寝室の確保が間取りを決定することが前提になった。この「型」計画は、住宅営団による住宅供給の柱になったばかりでなく、戦後日本の住宅を主導する。そして誰もが知るDK(ダイニング・キッチン)の爆発的普及へつながることになる。

 

i 西山夘三「戦争と住宅」1983

ii早川文夫「国民住宅の提唱」『建築雑誌』19409

iii 建築学会住宅問題委員会「庶民住宅の技術的研究」『建築雑誌』19411

iv 第15回建築展懸賞競技「国民住宅」『建築雑誌』19406

日本人とすまい6 間取り

 

 

2026年3月12日木曜日

百年計画/デザイン・コミッティー/京都の「めきき」、京都市

都市装置としての公共建築/設計システム論

百年計画/デザイン・コミッティー/京都の「めきき」

 

 都市は個々の建築行為の集積によって成り立っている。そうした意味で都市はそこに住む人々の集団的作品である。また、都市は一朝一夕に出来上がるわけではない。そうした意味で都市はそこで暮らしてきた人々の歴史的な作品である。

  それ故、自ら私有する空間(土地)だから自由にデザインすればいい、とはならない。好き勝手なデザインがとんでもない迷惑を近隣に及ぼすこともある。また、歴史的な作品である都市景観をたった一個の建築が台無しにすることがある。そこで必要なのがなにがしかのルールである。

 しかし、そのルールは、果たして法律や条令によって成文化しうるものであろうか。指針やマニュアルによって示されるものであろうか。はっきりしているのは、単に「高さ」や「色」や「形」が問題なのではないということである。一定の地区について一律「20メートル以下であればいい」「原色は駄目」「勾配屋根でなければならない」というのはおそろしく単純な発想である。建築のデザインというのはもう少し豊かで繊細である。個々の建築は個々の場所において固有の表現を求められている。

 究極的に問われているのは個々の場所における個々のデザインの当否である。はっきり言って「建築家」としての能力が問題だと思う。もちろん、専門家としての「建築家」が全てすぐれているとは限らない。また、誰だって「建築家」でありうる。そこで、とにかく必要なのは、議論の場ではないか、というのがかねてからの主張である。議論によって生み出されるものは結局凡庸なものにしかならない、とは必ずしも思わない。凡庸であれ、それはその議論の場の実力であり、最終的にひとつのデザインにまとめる「建築家」の能力の問題である。タウンアーキテクト制、デザイン・コミッティー制のように具体的な仕組みは色々考えられる。また、様々な萌芽的試みもある。指針やトゥールは使ってこそ意味があり、使い方こそが問題だということ、公共建築の場合特に、そのデザインの過程と持続的なシステムが問題であることを繰り返し強調したいと思う。

  

布野修司 履歴 2025年1月1日

布野修司 20241101 履歴   住所 東京都小平市上水本町 6 ー 5 - 7 ー 103 本籍 島根県松江市東朝日町 236 ー 14   1949 年 8 月 10 日    島根県出雲市知井宮生まれ   学歴 196...