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2021年5月4日火曜日

アジア・アフリカの大地から-土・石・木・竹・鉄 虹の学校「天翔ける箱舟」  渡辺菊真

進撃の建築家 開拓者たち 第2回 開拓者01 渡辺菊眞(前編)「アジア・アフリカの大地からー土・木・竹・鉄:「天翔ける箱舟」虹の学校」『建築ジャーナル』201610

 進撃の建築家 X人の開拓者たち-今つくる意味を問う:新たな建築家像を求めて 02

 


 アジア・アフリカの大地から-土・石・木・竹・鉄

虹の学校「天翔ける箱舟」     渡辺菊真

布野修司




渡辺菊真(図①)は1971年生まれである[1]1971年、僕は、「東大闘争」の渦中にあって、「雛芥子」の仲間と「建築とは何か」を問うていた(前号「進撃の建築家」01)。それから20年、渡辺菊真に出会った。それから四半世紀も傍にいてその活動を見てきた。「進撃の建築家」として最も気になる存在である。


高知建築文化大賞の審査委員会(布野修司・高橋晶子・渡辺菊真)で、最近も(2013年、2015年)会って親しく話す機会もあったが、最新作「宙地の間(そらちのま)」(奈良県生駒郡平群町)見せてもらうのを口実に出掛けてきた。D環境造形システム研究所のパートナーで構造担当の高橋俊也(1979~)[2]も来てくれ楽しい建築談議に花が咲いた(図②)。その軌跡は実に多彩であり、底知れぬパワーとエネルギーが迸(ほとばし)り始めている。


アジア・アフリカの大地に建ち上げられたプリミティブな建築群は、土(土嚢)、木、竹そして鉄(鋼管足場)という生の素材による建築の原型の持つ力強さを想い起させてくれる。その今のところの到達点である「虹の学校 天翔ける箱舟」(タイ、2012~)(図⓷)は実に傑作だと思う。数々の受賞がそれを示している[3]







 

鴨川フォリー

 渡辺菊真に最初に会ったのは19919月である。東洋大学から京都大学に移って(92日赴任)、2回生後期の設計演習をいきなり担当したのだけれど、その受講者であった。この時出会った京都大学建築学科の学生には、平田晃久(平田晃久建築設計事務所、京都大学准教授)、森田一弥(森田一弥建築設計事務所)、竹口健太郎・山本麻子(アルファヴィル)など、既に一線で活躍中の建築家たちがいる[4]

課題は「鴨川フォリー」。鴨川の遊歩道にフォリーを造れ、というただそれだけであるが、思いもかけない課題だったのか、刺激的だったらしい。随分面白い案が出てきた。中でも、変わった案を提出したのが渡辺菊真である。場所を読むのか、テンポラリーな架構を選択する案が一般的ななかで、菊真の案は分厚い壁体にドームを載せるマッシブな東屋であり、模型もスチレン・ペーパーを重ねて刳り貫き入念に鑢で滑らかに磨き上げたものだった。渡辺豊和の息子だなあ、血筋かなあ、となんとなく思った。

渡辺豊和については、『建築少年たちの夢』「第6章「建築の遺伝子」(2011)で書いたが、「相田建築ゼミナール」での出会い(1978)から、『群居』『建築思潮』の編集同人として長年つき合ってきた。一回りも違う、そして二回りも下のその息子と教師と学生として出会う、縁である。豊和さんは、僕の京大赴任を喜んでくれて、安藤忠雄、高松伸など関西の建築家を集めて歓迎パーティを賑々しく開いてくれた(19911018日、ホテル大阪ガーデンパレス)。豊和さんは京都造形大学の教授になって、早速、僕を大学院の非常勤に指名、10年近く一緒に講義を受け持つことになる。吉田キャンパスの布野研究室と豊和さんの研究室は歩いて行ける距離にあった。

ともあれ、菊真は、その縁に導かれるように大学院の布野研究室に進学する(1995年)。平田晃久もそうだけれど院試に一度失敗している[5]。一足先に布野研究室に入ったのが森田一弥であり、山本麻子であった。

修士論文を書いて、当然のように博士課程に進学する(1997年)。卒業設計は、東尋坊を敷地とするものであった。地形が喚起するものへの鋭い感性を産まれながら身につけている(図④)。森田一弥も山本麻子もそうであったが、修士論文を書くのは大変であった。エンジニア系の先生の批判が厳しく、指導教官も含めて、発表会は常にバトルであった。菊真の場合もテーマ・セッティングに苦労した。修士論文の題名は『京都における「余白」の発見と、その構成手法に関する考察1997である。京都という空間については、その後、今日に至るまで格闘することになる。京都についての論文がまとまり出すのは博士後期課程を満期退学するころである[6]


 

京都からアジア・アフリカへ

 僕らの時代は、博士課程に入ると大学院に席を置きながら設計活動を開始するのが常道であった。博士課程というと後には引けない。住宅設計を手掛かりに、建築家としてのデビューを夢見て修行する。しかし、今では、出来るだけ短期間(3年)で学位論文を書けとプレッシャーをかけられる。プロフェッサー・アーキテクトになるためには学位が求められるから、菊真の論文については、指導教官として、それなりに悩んだ。建築家としての思考は基本的に工学的な論文にはなじまない。しかし、これは僕の持論なのだけど、設計をロジカルにまとめていくことと、論文をまとめることは基本的には同じである。論文をまとめることは設計をロジカルに説明するトレーニングにはなる。問題はテーマである。

 菊真の場合、博士課程に入って、渡辺菊真個展「「風景」建築→建築」を開催する。竹山聖、鈴木隆之、大島哲蔵、布野修司、田中禎彦などが参加するシンポジウムが開かれた(199834日)。菊真としては、溢れ出る建築への思いを修士論文にまとめきれないフラストレーションがあったのだと思う。

 布野研究室は、その頃、アジアのフィールドを駆け回っていた[7]。渡辺菊真と唯一アジアのフィールドを共にしたのは、1999年のインド・イラン調査(720日~817日)である。とりわけ、想い出深いのは、二人だけで行ったコルカタ(カルカッタ)のチョウリンギー地区調査とバンダル・アッバースから小船で渡ったオルムズ島調査である。オルムズ島のポルトガル要塞(図⑤)の実測はとにかく暑かった。後にも先にも経験したことのない灼熱地獄である。チョウリンギー地区は歩きに歩いた。クルバンというホームレスの少年との交流は二人の共通の思い出である。


 設計演習や個展の作風を見ていて、ユーラシア・スケールの仕事が合うのではないか、コスモロジー派の渡辺豊和、毛綱毅曠、六角鬼丈の系譜が細くなりつつあるのが寂しくもあり、特にヒンドゥーのコスモロジーと建築の関係は菊真に相応しいテーマではないかと秘かに思っていた。本人も、おそらくそう考えていたのであろう。

 30才になって建築家としての活動を開始すると、国際的な難民支援、貧困者支援を展開するNGOグループとの出会いもあって、インド震災復興モデル住居2001)(図⑥) 、アフガニスタン(2004)、ヨルダン南シューナ地区コミュニティセンター20072009)(図⑦)、東アフリカ・エコビレッジプロジェクト20072011年)(図⑧)と、むしろフィールドは、アジア・アフリカに設定された。そして、その今のところの到達点が、タイ・ミャンマー国境の孤児院兼学校「虹の学校」(学舎「天翔る方舟」)(2013)である。





 

太陽の家

 2001年に京都大学院博士課程を満期退学すると、2007年にD環境造形システム研究所を立ち上げるまで、渡辺豊和建築工房に籍を置くことになるが、2002年から2003年にかけて、井山武司(19382014[8]の太陽建築研究所(山形県酒田市)に出向している。渡辺豊和の強い意向だったという。菊真本人によれば師事したのであり、その没後、太陽建築研究会を引継いでいる。70年代末から「太陽建築」(ソラキスSolachis)に取組んできたその軌跡は知る人ぞ知るである。パッシブ建築技術の開拓者という意味では恐るべき先駆者であり、丹下健三研究室出身というのには驚く。豊和さんと井山さんは昔から親しく[9]、僕も何度か酒席を共にしたことがある。アジアを歩き始めて(1979年)間もなく、井山さんがバリ島に建てたエコハウスを見に行っている。同じ山形出身の小玉祐一郎先生の指導でスラバヤ・エコハウスを建設した際にもお世話になった。渡辺菊真は、並行してアジア・アフリカの見知らぬ地域で、地域の生態系に基づく建築を目指して格闘することになるが、その基本は井山さんに仕込まれたことになる。デビュー作となる「角館の町家 」(秋田県仙北市)にも当然生かされることになる。その今のところの日本における到達点が「宙地の間」である。

アジア・アフリカの見知らぬ地域に出掛けることになったのには、もうひとつ土嚢建築との出会いがある。渡辺豊和建築工房に入った直後に、天理大学の井上昭夫教授の率いる国際参加プロジェクトへの参加要請があり、土嚢建築の開発拠点、N.ハリーリNader Khaliliに率いられるカルアース研究所Cal-EarthTHE CALIFORNIA INSTITUTE OF EARTH ART AND ARCHITECTURE(アメリカ、カリフォルニア州)に赴くのである。そして、すぐさま、インドへ、アフガニスタンへ、ヨルダンへ、そしてウガンダへ、土嚢建築を携えて出かけることになった。 

  

京都CDL

 長い京都大学での「修行」を終えるころ、京都コミュニティ・デザイン・リーグ(CDL)という運動体を立ち上げることになった。その構想については『裸の建築家―タウンアーキテクト論序説―』(2000)、活動の詳細は『京都げのむ』(0106)(図⑨)他に譲るが、建築家(集団)が地域の環境を日常的にウォッチングし、ケアしていく仕組みの構築が目的であった。今日次第に定着している言葉で言えば、「コミュニティ・アーキテクト」制のシミュレーションである。コミッショナーが広原盛明先生僕が事務局長となったが、運営は全て若い諸君に委ねた。運営委員長を務めたのが渡辺菊真であり、その補佐役として事務局に住み込んだのが高橋俊也である。


 「タウンアーキテクト」あるいは「コミュニティ・アーキテクト」という概念の提示は、新たな建築家像のあり方に関わっている。正直に言えば、こうした「まちづくり活動」に菊真は興味がないのではないか、むしろ、集団的な作業は合わないのではないかと思っていた。しかし、京都CDLの活動について渡辺菊真は実に熱心であった。とりわけ、むしろ、眼を開かされたのは、地区を徹底的に読んで具体的な建築型の提示を求めるワークショップ「ミテキテツクッテ」の執拗な開催である。

 「コミュニティ・アーキテクト」とは何者か、それは職能として成り立つのか、その武器は何か。広原盛明先生の京都市長選立候補そして落選(惜敗)によって京都CDLが終息を余儀なくされた後、僕は滋賀県立大学に異動することになる。「近江環人(コミュニティ・アーキテクト)」という人材育成プログラムを立ち上げるなかで考え続けてきたけれど、「コミュニティ・アーキテクト」とは、単なるコーディネーターでも、イネイブラーでも、アジテーターでもない。その中心的イメージとなるのは、やはり「建築家(アーキテクト)であり、地域に相応しい空間を提示していく能力を持った京都CDLにおける渡辺菊真のような姿である。

 

高知へ

 21世紀の初頭を疾風のごとく走り続けた菊真が高知の大学に呼ばれることになった(2006)。京都CDLが尻切れトンボのようになったので気になっていたのであるが、うまく、縁のネットワークが繋がった。高知と言えば、亡くなった内田雄造先生が同和地区の居住環境整備の拠点として設立した若竹まちづくり研究所の大谷英人さん(高知工科大学名誉教授)がいて東洋大学時代から縁があった。坂本龍馬記念館のコンペの時には多少のお手伝いをした。また、渡辺豊和さん、石山修武さん、大野勝彦さんとハウジング計画ユニオンHPU設立の頃から何度か通ったことがある。山本長水さん、細木さんとも若い頃からの知合いである。

 驚いたのは、赴任まもなく、菊真が、高知新聞への連載を始めたことである。



[1] 1971年 奈良県生まれ/1994年 京都大学工学部建築学第二学科卒業/1997年 京都大学院工学研究科生活空間学修士課程修了/2001年 同大学院博士課程満期退学/1998年~2006年 京都造形芸術大学非常勤講師/2001年~2006年 京都コミュニティデザインリーグ運営委員長/2001年~2007年 渡辺豊和建築工房勤務/2002年~2003年 太陽建築研究所(井山武司氏に師事)/2004年~2009年 大阪市立大学非常勤講師/2007年~D環境造形システム研究所 主宰/2009年~高知工科大学准教授

[2] 1979年栃木県宇都宮市生まれ/2002年 京都大学工学部建築学科卒業/2005年 京都大学院工学研究科生活空間学修士課程修了/2009年 滋賀県立大学院環境科学研究科環境計画学専攻博士課程修了/2007年~D環境造形システム研究所研究員/2014年 高橋俊也構造建築研究所設立

[3] Architecture Asia Awards FINALIST /2014年 AZ AWARD 2014 (Best Architecture Under 1,000) 最優秀賞/2014年 Blueprint Awards2014 優秀賞 /2014年 architectural review2014/2014年 designboom TOP 10 reader submissions of 2014 architecture /2014年 FAITH&FORM 2014International Awards Program/for Religious Art & Archtecture 優秀賞/2015年 Architizer A+Awards (Kindergartens category) Winner /2015年 World Architecture Community Awards 19th cycle

[4] 他に、妹島和世建築設計事務所(SANAA)を経て独立した桑田豪(桑田豪建築設計事務所)、久米建築設計事務所を経て独立した丹羽哲矢(Clublab)、黒川賢一(竹中工務店)、小平弥史(昭和設計)らがいる。

[5] 大学院の入試問題については、毎年問題にしてきたけれど、多分、日本で一番難しい問題であった。増田友也について述べよ、といった問題が出るのである。

[6] 渡辺菊眞,布野修司:「鳥辺野」(京都阿弥陀ケ峰山麓)の空間的特質に関する考察 A Consideration on Spatial Quality of Toribeno Area (Mountainside of MtAmidagamine) in Kyoto,日本建築学会計画系論文集,第543号,p18719420015月。魚谷繁礼,丹羽哲矢,渡辺菊真,布野修司:京都の都心部における大規模集合住宅の成立過程に関する考察Considerations on Formation Process of Large Scale Housing in Urban Area of Kyoto, 日本建築学会計画系論文集,第585号,pp879420054月。魚谷繁礼,丹羽哲矢,渡辺菊真,布野修司:京都都心部の街区類型とその特性に関する考察 Considerations on Block Typology and the Characteristics in Urban Area of Kyoto,日本建築学会計画系論文集,第598pp123128 200512月。高橋俊也,渡辺菊真,布野修司:京都における墓地の立地と市街地の変遷に関する考察, 日本建築学会計画系論文集,第619pp133139 20079. Considerations on Distribution of Cemetaries and Transformation of Urban Area in Kyoto J. Archit. Plann. AIJ No.617 pp133139 Sep 2007。高橋俊也,渡辺菊真,布野修司:「蓮台野」(京都市大文字山麓)の空間的特質に関する考察 Considerations on  Spatial Quality of RENDAINO Area (Hillside of  Mt. HIDARIDAIMONJI) in Kyoto日本建築学会計画系論文集,第74巻,第637号,pp.63564220093月。

[7] 大連調査 (山本麻子 修士論文)マドゥラ島調査:蔚山調査(山本直彦・三井所隆史・韓三建・青井哲人)、台北・萬華地区調査銘宗・田中禎彦)、ネパール・ハディガオン調査(黒川賢一修士論文)、アフマダバ-ド調査(沼田典久修士論文),ジャイプル調査(布野修司・山根周)など。

[8] 1961年、東京大学建築学科卒業、1963年、東京大学大学院修士課程建築学専攻、博士課程都市工学専攻、丹下研究室において、東京計画、東京オリンピック室内競技場、スコピエ市都市計画などに参加。1966年井山武司アトリエ開設。1976年酒田市大火復興専門員。1993年太陽建築研究所建設。建築フォーラム賞受賞(1999)、環境やまがた大賞受賞(2002)。太陽建築<ソラキス>を50棟設計。

[9] 東京大学の同級生に林泰義、近澤可也、宮内康がいる。

2021年5月3日月曜日

進撃の建築家 開拓者たち 第1回 序章 闘う建築家

 連載主旨 

新しい動き方をしている30代、40代、50代の建築家を取り上げる。一見、突然変異的、異端のX人だが、成長時代から成熟時代と大きく劇的に変化した日本社会では、20世紀的昭和型建築家職能はもはや通用しない。歴史の必然で生まれたミュータントと位置づける。特に311の原発事故後は、 拡大型成長的価値観の崩壊と反省という点で日本社会の歴史的分岐点となるであろう。そういう意味で第二の戦後建築が始まったとも言えそうだ。そこで、『戦後建築論ノート』の布野修司がこのX人、X作から何を読み取るか、見ものである。建築への絶望から建築を始めたという布野修司。計画学への問いかけ、建築史の検証、アジアへのまなざし、スラム・寄せ場・セルフビルドへの共感、タウンアーキテクト待望など、布野修司の自分語りも重ね合わせて16人の建築家像、建築家職能論を展開する。

編集長(西川直子)

進撃の建築家 開拓者たち 第1回 序章 「闘う建築家」『建築ジャーナル』2016 9

進撃の建築家 開拓者たち-今つくる意味を問う:新たな建築家像を求めて 01 


  闘う建築家

                  布野修司

 



進撃

 「進撃」と言えば進撃の巨人Attack on Titanである。巨人とそれに抗う人間たちの戦いを描いた諌山創の「劇画」[1]の単行本の発行部数は累計5000万部を突破したという。繁栄を築き上げた人類が、突如出現した天敵「巨人」により滅亡の淵に立たされ、巨大な三重の城壁の内側に生活圏を確保することで、辛うじて一部が生き残る、そして、約100年後、いつしか人類は巨人の脅威を忘れ、平和な日々の生活に埋没していた…というのが物語の発端である。漫画雑誌から遠ざかって既に久しく、手に取ってみる余裕はないが、これほどの読者を得ていることは、時代の核心を突いていることは間違いない。

『週刊少年マガジン』[2]は、僕らの学生時代は、100万部発行の大雑誌であった。『巨人の星』[3]『あしたのジョー』[4]などの連載が楽しみで毎週買って読んだ。「右手にジャーナル左手にマガジン」という謳い文句があった。ジャーナルとは『朝日ジャーナル』[5]、当時の学生の必読マガジンである。

そして、「進撃」と聞いてもうひとつ思い起こすのは、東大全共闘の季刊紙『進撃』(図①)である[6]。一体、「全共闘」は何に向かって「進撃」したのか。各大学全共闘の機関紙も、「反逆」「〇〇戦線」「戦砦」(日大全共闘)「ストラグル」(京大全共闘)「バリケード」(京都府立医大全共闘)「コンテスタシオン」(立命館大学全共闘)・・・と、まるで戦争である。確かに、しばしば繰り広げられた石礫と催涙弾が飛交う市街戦は「疑似的戦争」であった。学生たちは何に対して戦ったのか。

いま、若い建築家たちは何に対して「進撃」しようとしているのか?、何に向かって戦おうとするのか、「進んで」「撃つ」「闘う」べき「巨人」とは何か?「進撃の建築家」の作品と活動を取り上げながら、自らの半世紀の歴史を重ねてみたいと思う。


 

1968

大学に入学した1968年は激動の1年であった。

412日の入学式、雨が降っていたが安田講堂には入れなかった(図②)。講堂前には座り込む学生たちがいて、医学部学生処分への抗議の怒号が飛んでいた。620日全学1日ストライキ、626日文学部無期限ストライキ突入、そして72日に安田講堂占拠、5日に東大闘争全学共闘会議(全共闘)結成、同日教養学部も無期限ストライキに突入、以降、1年近く授業がなかった[7]。翌年の東京大学の入学試験は中止である。手元に資料が残されているが、第一学期の試験代わりのレポート問題集が提示されたのは1969年の517日付である。卒業も1ヵ月遅れた。講義で何かを教わった記憶は薄い。クラスの仲間[8]との自主ゼミで高木貞治(18751960)の『解析概論』を読んだ。あとは毎日のように映画を見た。大学は自分で学ぶ空間である、というのが原点である。


『進撃』を見ると[9]激動の1年の最終盤の出来事を思い出す[10]。羽仁五郎『都市の論理』、マルクーゼ『ユートピアの終焉』、竹内芳郎『文化と革命』…といった書籍広告が時代をヴィヴィッドに蘇らせる。とりわけ、1021日の国際反戦デーの新宿周辺の出来事(騒乱罪適用)、1122日の日大・東大闘争勝利全国総決起集会の東大本郷キャンパス安田講堂周辺の出来事は鮮明である。1968年から1970年にかけて、首都の街路は頻繁に「戦場」と化した。戦う学生としてその場にいたわけではない。あくまで「野次馬」としてである。ただ、現場で事態を見ておきたいという衝き動かされるような何かがあった。

出雲から上京した田舎者は、全くの「ノンポリnon political」であった[11]1日ストライキで授業参加を阻止する闘士に「我々は授業を受ける権利がある」などと食ってかかったぐらいである。しかし、様々な情報を得て議論を積み重ねる中で、「全共闘」の主張に理がある(造反有理)という判断にクラス全体も傾いて行った。何に怒ったのかと言えば、登録医制度に反対して無期限ストライキ(1968129日)に入った医学部でその場にいなかった学生が懲戒処分を受けたことにである(311日)。撃つべき「巨人」は、医学部当局、その非を認めない無責任な体制であった。これはひとり医学部の問題でも東大だけの問題でもなかった。日大では裏口入学謝礼金、使途不明金など不正経理問題などが、また、ほとんど全ての大学でマスプロ教育体制や授業料値上げ、教授支配の講座制、産学共同体制などが問題となった。加えて、ヴェトナム戦争、日米安保条約改定など国際情勢に関わる議論が交錯した。当時の言い方では、戦後民主主義体制なるものの全体、その無責任体制(虚妄)を問題としたのである。

そして、それは日本のみの問題ではなかった。パリの「五月革命」(1968510日)がその象徴である。発端は1966年のストラスブール大学学生の教授独占体制に対する民主化要求である[12]。その後運動は全国に波及、523日カルチエ・ラタンで大規模な街頭行動が展開され、10日の参加者約1000万人のゼネストに繋がる。世界中で問われたのは、第二次世界大戦後の世界秩序、東西の冷戦構造、それを支える旧態依然たる価値観、政治支配体制、そして大学の体制であった。

 1968年に拘り続けた建築家が磯崎新であり、宮内康(19371992)である。「私は年齢的には1960年世代だけど、建築家としての思考のしかたは1968年に属している」[13]という磯崎新については『建築少年たちの夢』「第9章「世界建築」の羅針盤」(2011)で詳述した。宮内康についても『怨恨のユートピア 宮内康の居る場所』(『怨恨のユートピア』刊行委員会、れんが書房新社、2000年)をまとめたが、このシリーズでも触れよう。

 1968年の帰趨が明らかにしたのは、現実を支配するパワー・ポリティックスである。学んだのは現実を動かす政治力学である。大学当局の事態収拾への対応、学生内部での秩序回復の動き、全て体制側の強い意志、巨大な権力の駆動である。磯崎新は、「社会変革のラディカリズムとデザインとの間に絶対的裂け目を見てしまった」といい、「デザインを放棄する、あるいは拒否することだけがラディカルな姿勢をたもつ唯一の方法ではないか」といった(『建築の解体』(1975))。宮内康は、裁判闘争を強いられながら「建築」に拘り続けて病魔に倒れることになった(『風景を撃て』(1976))。

 1968年、僕は、将来の自分の道として建築を選ぼうとは思っていなかった。東大闘争がなければ、理論物理を専攻したのではないかと今でも思う。建築を選んだのは、建築が現実のパワー・ポリティックスの中でしか自己を実現することはないことをそれなりに深く理解した上でのことである。

 

雛芥子

建築に進学を決めて出会ったのが「雛芥子」の面々(杉本俊多,千葉政継,戸部栄一,村松克己,久米大二郎,三宅理一,川端直志,布野修司・・・)である(図③)。駒場では、図学教室の樋口清1918~)[14]、広部達也(1932)[15]、横山正(1939~)[16]、野口徹(19411987[17]の各先生に建築に手ほどきを受けた。F.L.ライトに眼を開かれたことが大きい。また、丹下健三「アーバンデザイン」[18]、吉武泰水「建築計画」の講義を受けた。吉武先生の講義は今でも忘れない。建築を学び始めた学生に対する最初の講義のテーマが、東大闘争の発端になった医学部の東大病院北病棟の設計をめぐる問題(北病棟問題)であった。「使う人の立場にたって」というのが建築計画学の基本指針であるが、「1フロア1看護ユニットという従来のシステムに対して、2フロア1看護ユニットがより合理的である」としたら、労働強化につながると看護婦さんたちに大反対され座り込まれた、どう考える?というのである。これは建築計画の原点に関わる問題である。


しかし、圧倒的に建築を学んだのは雛芥子の仲間との自主ゼミでの議論である。原広司『建築に何が可能か』、メルロ・ポンティ『知覚の現象学』など読書会を続けた。また、講演会、シンポジウムなどを組織した(図④)。ゲーテ・インスティチュートにある表現主義映画を全部借りてきて見たり、佐藤信や津野海太郎などの演劇集団「黒テント」を呼んで安田講堂前でテント芝居(緑魔子、石橋蓮司出演)をプロデュースした。夜は、先輩たちに、日本の建築産業をめぐる問題について連続講義を受けた(図⑤)この頃の「雛芥子」の活動を記したのが,故坂手建剛編集長が創刊した『TAU[19]である(「<柩欠季>のための覚書」一九七三年一月)。続けて,「虚構・劇・都市」「ベルリン・広場・モンタージュ」といった原稿[20]を書いたのが僕の建築ジャーナリズム・デビューである。

 



三里塚

建築実習のフィールドとなったのは「三里塚」である。「三里塚」(成田市三里塚および芝山町)は、19667月新東京国際空港建設予定地として閣議決定される。すぐさま「三里塚芝山連合空港反対同盟」(代表:戸村一作)が結成され、「一坪共有地運動」、測量阻止活動など長期にわたる反対運動が展開されることになるが、全国の学生たちも「援農」というかたちで反対運動に参加することになる。そして、団結小屋と称する宿泊所とか、塹壕やトンネルの掘削など様々な建設活動が必要とされた。建築を学ぶ学生たちはそうした建設活動を支援する傭員として参加することになった。多くの教師も参加した。

民家の移築を手伝った。解体して、現地に運んで組立直す。番付のやりかたや継手仕口も理解した。自分で建てるセルフビルド(自力建設)を経験した。また、現場での創意工夫も学んだ。測量も学んだ。僕らは、建築を三里塚で実践的に学んだのである。そして、ハイライトとなったのが三里塚の鉄塔(岩山鉄塔1972312日竣工、1977年撤去)建設である(図⑥)






設計者、構造計算など全体の設計体制は今もって知らない。実に多くの若き建築家が参加していた。われわれに主として要請されたのは、ガセットプレートの原寸図の作製だった。鉄塔が角度を変えるところを担当、角度を出すのに四苦八苦したのを覚えている。建築を学び始めたばかりの学生が、高さ100mにも及ぶ鉄塔の自力建設に参加するなどという経験は最早ありえないのかもしれない。

 

幻視の建築イメージ

 ほんの23年の、めくるめくような体験の中で、強烈な建築の原イメージをみた

 ひとつは、バリケードである。あるいはトーチカである。 外部からの人の侵入を徹底して拒む建築、あらゆる攻撃に耐える建築である。

「空間」の使用、占有をめぐって争いが起こる場合、バリケードが築かれる。1968年以降1970年代初頭にかけて、バリケード建設は、日常茶飯事であった。街路を占拠して、一定の時間、空間を自由に使うためにバリケードは次々に造られた。また、一定期間拠点を確保するためには、より強固な備えが必要である。安田講堂籠城は、その意志の表現であった。何も、特別な建築ということではない。城塞建築はそのように建てられてきたのである。問題は、空間の所有、使用をめぐる諸対立が見えないかたちで処理されていることである。バリケードはその見えない壁を可視化するのである。

 もうひとつは、移動するテント劇場のような建築である。トラック2台で部材を運び、2台で天幕を引張って劇場空間にする黒テントの移動劇場図⑦)は実に刺激であった。移動テント劇場は、都市のいたるところを芝居小屋に変えるのである。バリケードは、有り合せの材料による素朴な建築であるけれど、テント劇場は実にスマートである。しかし、移動テント劇場は次第に見られなくなっていく。新宿の西口広場でのフォークゲリラの集会が「広場」ではなくて「通路」だからという理由で排除されたように、テント劇場もまた都市空間から締め出されていくのである。「雛芥子」が黒テントを張った安田講堂前広場は、今は花壇が設置され、何も起こりそうにない味気ない空間に替えられている。









 そしてもうひとつは、攻撃的な建築である。まさに三里塚の鉄塔のイメージである。人にやさしい、ヒューマンな建築をめざすと多くの建築家はいう。しかし、人を攻撃する、妨害する建築もありうるのではないか。というより、「人にやさしい、ヒューマンな建築」といいながら、人と人を切り分けているのではないか。そもそも、建築は自然を傷つけて成立する暴力的な行為ではないか。

 建築家は「獄舎づくり」といったのは長谷川堯である(『神殿か獄舎か』(1972))。それでも、「制度」への違反、「制度」への回収、そしてさらに違反、そうした闘いを持続しようとする建築家に出会いたいと思う。



[1] 『別冊少年マガジン』(講談社)200910月創刊号から連載。

[2] 『週刊少年サンデー』とも1959年創刊。

[3] 梶原一騎原作・川崎のぼる画、1966-1971

[4] 高森朝雄(梶原一騎)原作・ちばてつや画、1968-1973

[5] 1959年創刊~1992年終刊。

[6] 今でも手元にあるが、1968119日に創刊され、1970227日発行の第19号で終刊している。第4号と第5号の間に号外(1969121日)が出されているから全20号、号外は、1969119日の安田講堂陥落直後の号である。

[7] 明治大学の青井哲人(准教授)、石槫博和(助教)研究室のグループが僕の証言を時代の記録に残したいということで、先日、第1回(2016514日)ということで大学に入学した1968年から建築学科に進学する頃まで、そして第2回(2016620日)は建築を学び始めた以降についてのヒヤリングを受けた。何回続くかわからないけれど詳細はこの記録に委ねたい。

[8] 同じ年に入学したクラスは43S15Bという。昭和431968)年、理科一類(S1)、5B(ドイツ語5組)という記号で、65歳の定年を間近にしたころから同窓会が開催されるようになった。T大理事・副学長、P学会元会長、ITヴェンチャー企業社長…錚々たるクラスメイトがいる。専ら話すことは、東大闘争のことだ。

[9] 東大闘争については、山本義隆による『東大闘争資料集』全23巻('68'69を記録する会 編、'68'69を記録する会、1992年))がある。『進撃』他大学の「全共闘」機関紙も、Website全国学園闘争資料http://www.geocities.jp/meidai1970/gakuentousou.htmlで見ることが出来る。

[10] 記録集として、東大紛争文書研究会『東大紛争の記録』(日本評論社、19691月)以下、様々ある。島泰三『安田講堂1968-1969』(中公新書、2005年)は安田講堂攻防戦に焦点を絞る。

[11] 松江で「ノビノビ」とした高校生時代を過ごしていたけれど、ヴェトナム戦争反対、佐藤栄作首相の南ヴェトナム訪問阻止の第一次羽田闘争(1967108日)で京大一回生の山崎博昭君が虐殺されたこと、681月の佐世保での原子力空母エンタープライズ入稿阻止闘争で学生たちがヘルメットとゲバ棒で激しくデモする様子はテレビを通じて知っていた。上京するに当たって、「間違ってもヘルメット被ったり、ゲバ棒もったりするなよ」と言われた。「ヘルメット」や「ゲバ棒」は別世界のことであった。

[12] これがナンテールに波及、ヴェトナム戦争反対を唱える国民委員会5人の検挙(1968322日)に抗議する学生運動に発展、さらにソルボンヌ(パリ)大学の学生の自治と民主化の運動に火が付いた(H.ルフェーブル『『五月革命』論 突入―ナンテールから絶頂へ』筑摩書房、1969)。

[13] 「メタボリズムとの関係を聞かれるので,その頃を想い出してみた」(『反回想』(GA,二〇〇一)p.二〇「何だか性懲りもなく,一九六八年にもどってしまう」「第六章「歴史の落丁」がはじまった一九六八年の頃を想い出してみた」(『反回想』(GA,二〇〇一)p.一五三

[14] 『ライト、アールトへの旅』(建築資料研究社,1997,『フランク・ロイド・ライト』 天野太郎生田勉共編 (彰国社,1954年)など。

[15] 広部 達也磯田 『図学教室』(東京大学出版会、1976)、広部 武内 照子『デザインの図学』(文化出版局、1985)など。

[16] 『透視画法の眼 ルネサンス・イタリアと日本の空間』(相模書房 1977年)、『箱という劇場』(王国者、1989年)、『ヨーロッパの庭園 歴史・空間・意匠』(講談社 1989年)、『数寄屋逍遥 茶室と庭の古典案内』(彰国社、1996年)など。

[17] 『日本近世も都市と建築』(法政大学出版局、1992年)、『中世京都の町屋』(東京大学出版会、1987年)など。

[18] 丹下先生の講義は2回で後は渡辺定夫先生の代講であったが、ロストウの経済成長理論を下敷きにして「君たちは不幸です。建築はこれから衰退していきます」と言われたことを覚えている(都市工学に、未来はあるか?2015213日(金)18:3020:00会 場:日本建築学会 建築書店https://www.aij.or.jp/jpn/touron/5gou/touron6.html駒場の2年生向けの「アーバンデザイン」という講義でした。丹下先生が二回ほど講義されて、「あとは渡辺くんやれ」ということだったんじゃないかと思っていました。・・・丹下先生の講義はロストウ23の経済理論ですね。また、ギリシャ・ローマのアゴラ、フォーラムのスケールの話も覚えています。広島平和公園の話と思って聞きました。ロストウの経済理論は、成長理論というか、経済発展論ですね。経済発展には、離陸期があり、成長が続いて、衰退していく、ソフト・ランディングができるかどうかが問題だ、というような話でしたね。建築を学びはじめたばかりの学生に「日本の建築界はこれからダメになります」というんで、ずいぶん、ひどいことを言うなあと思ったことを覚えています。日本経済のその後の行方は大体当たってたんですけどね。・・・) 

[19] Trans Architecture & Urban.商店建築社が発行した建築月刊雑誌だが,四号で廃刊。近代建築の反省に伴って勃発した試行を過剰に展開した。創刊号に掲載の丹下批判「丹下健三と庁舎建築:レトリックの分析」は,七〇年代における丹下評価の先駆けとなった。(中村文美)

[20] 『都市と劇場・・・都市計画という幻想』(布野修司建築論集Ⅱ,彰国社,一九九八年六月)所収。

2021年5月2日日曜日

公共建築は実験しなければ意味がない 『建築雑誌』2018年2月号

 『建築雑誌』20182月号

話者:布野修司 聞き手:藤村龍至 石榑督和 中島弘貴

録音時間:5757秒 実質55分 収録日:2017124日 会場:建築会館



公共建築は実験しなければ意味がない

 

Q1 これまで関わってきた設計者選定について

 

布野 随分やりました。京都大学に着任した当初、続けて頼まれたのは出身の島根の市町村です。島根で二段階の公開ヒアリング方式で、「島根方式」と呼ばれるようになりますが、当時で、二次審査では参加量を各チームに100万円払いましたよ。下手なシンポジウムより面白いし、行政手間も少ないと、すぐ採用されましたよ。最初の事例は1993年の《加茂町文化ホール「ラメール」》です(設計:渡辺豊和、竣工:1994)。2005年に滋賀県立大学へ移って、最近は守山市や滋賀県で同じ方式で4つやりましたよ。

 

Q2 専門家としてどのように関わるべきか

 

布野 東大の鈴木成文研出身で、全国市長会の会長を務めていた森民夫・元長岡市長によれば、市町村レベルの行政には企画力がないと言いますA。したがって、専門家は、自分のいる場所や大学がある地域のいろんな委員会などに参加しているわけですから、公共建築の発注者である自治体とよい関係をつくり、相談があれば専門家の知見から計画全体を把握し、チェックしながら、要求水準書をつくる「コミュニティ・アーキテクト」であるべきだと思います。また、専門家による選定委員会は少なくとも竣工までは解散しない、建設委員会として存続することが大切です。例えば建設費の高騰による入札不調の時などに、選定者側も設計の内容についてフォローすべきなんです。

 

Q3 現在の設計者選定に関わる仕組みが抱える課題について

 

布野 選定委員会は基本的には発注者である行政が委員長を決めますが、委員の選定に口を出したことはありません。意見を求められた場合には、過半は建築の技術的なことがわかる人が良いと言ってきました。半数は建築のことがちゃんとわかって、的確な質問ができる建築の専門家で構成するのがよいと思います。

「島根方式」をやり出した頃、宮脇檀さんが一般市民による住民投票をはじめましたが、それには専門家としてずっと反対してきました。例えば敷地に利害関係があった場合、多数決では関係者の組織票や政治力によって決まってしまいます。やはり専門家が中立的な立場で決定すべきだと思います。判断材料はすべて公開し、議論の経緯や結果、評価を説明すべきです。審査委員も質問等でみずからの考えをオープンに示す必要があります。

 現在のプロポーザル方式は問題だと思います。手間を減らしたことはよいかもしれませんが、実績や一級建築士の人数だけでは決められるはずがありません。特定の敷地に対する提案を含めて審査すべきだと思っています。

 

●専門家である審査員は、新しい価値創出とそのリスクヘッジとの葛藤をどう考えればよいのでしょうか。――中島

 

布野 そもそも公共建築で標準解をつくるのであれば、わざわざコンペをやる必要がありません。例えば学校建築はこの先ずっと今のままの形式でよいのでしょうか。形骸化を防ぐためには、見たことのない形や、誰も経験したことがない技術を用いた実験が必要です。新しい建築の建設技術や計画方法についての経験を蓄積し、誰もが利用できるように可能性を開くのは公共建築の役割です。

 

●実験性を問題視して外部から攻撃する向きもあり、防衛策として客観評価の演出で武装するというケースも多そうですね。――藤村

 

布野 それは評価項目とそのバランスという、フレームそのものの問題です。センター試験のように統計が積み重ねられていれば信頼できますが、評価項目のほとんどが事務局である自治体職員が他の事例を参考にして何となく設定しているだけで、本気で考えられていません。

やはり公開審査で、応募者は隣にライバルがいるから勝手なことは言えないですし、審査委員側も能力を問われるという緊張感のある仕組みをつくっていく方がいい。そのためにも専門家にはまず自分が住んでいるところと大学のあるところで「コミュニティ・アーキテクト」になってもらいたいと思っています。

 

A 「発注者」の責任―プロジェクト運営の多様化と設計の質(『建築討論web014号、2017年) http://touron.aij.or.jp/2017/11/4504

 

2021年5月1日土曜日

アジアの都市組織の起源,形成,変容,転生に関する研究,科研費NEWS,2013年度Vol.3,文部科学省

 アジアの都市組織の起源,形成,変容,転生に関する研究,科研費NEWS2013年度Vol.3,文部科学省

アジアの都市組織の起源、形成、変容、転生に関する研究

 

布野 修司

 研究の背景

 都市を自治会や企業など様々な組織体から構成されるとするのが「都市組織(urban tissues)」という概念です。都市を有機体に喩え遺伝子細胞臓器血管骨など様々な生体組織からなると考えるのがわかりやすいと思います。建築学・都市計画学の分野では、その空間構成を問題にします。都市を建築物の集合体と考え集合の単位となる建築類型(住居、学校、病院など)とそれらで構成された街区(住宅地)のあり方を明らかにし、さらに、建築物をいくつかの要素(部屋、建築部品等)からなるものと考え建築部品から都市まで一貫して構成するシステム、その理論に最大の関心を払います。私たちの身近な生活環境をどう設計するかが建築学・都市計画学の使命だからです。

 磯村英一先生(当時東洋大学長)から「東洋における都市問題・居住問題の理論的・実証的研究」という課題を与えられて、京都大学東南アジア研究センターで東南アジア学の手ほどきを受けて以降、アジア各地を歩き出して35年になります。明治以降、日本の都市は、専ら西欧近代の都市をモデルとしてきましたが、研究を開始した1970年代末に直感していたのは、西欧近代が理想モデルとした都市のあり方についての懐疑でした。研究のモチベーションを支えているのは、アジア各地で出会う、それぞれの地域で育まれてきた実に活き活きとした「都市組織」のあり方なのです。


 研究の成果

 最初にインドネシア・スラバヤのカンポン(都市集落)についての臨地調査に基づいて、学位論文『インドネシアにおける居住環境の変容とその整備手法に関する研究』を書きました(日本建築学会賞受賞(1991))。西欧とは全く異なる「都市組織」のあり方と都市計画の手法を発見し、その後、「都市組織」モデルとして「スラバヤ・エコハウス」(図1)を設計建設する機会を得て、日本の住宅地設計のありかたについても大きな提起をなしえたと思っております。

 インドネシアを最初のフィールドとしたことで、さらなる研究展開に繋がります。ひとつは、「比較の手法によるイスラームの都市性の総合的研究」(研究代表者・板垣雄三)に加えて頂いたことです。もうひとつは、インドネシアの宗主国であったオランダと日本の関係を軸に、オランダ植民都市研究の機会を与えていただいたことです。それぞれ、『近代世界システムと植民都市』(日本都市計画学会論文賞受賞(2006年))(図2)、『ムガル都市--イスラーム都市の空間変容』(2008年)にまとめることができました。イスラームの「都市組織」のあり方には実に多くのことを学ぶことができます。

 植民都市研究を展開することで、はっきりと自覚されたのは、西欧の都市研究、都市計画史研究がアジアをほとんど視野にいれていないことです。

 今後の展望

 一連の研究によって、目指すべき方向は見えています。近代都市計画のパラダイムを超えて、それぞれの地域で自立的な個性あふれる「都市組織」をどう実現できるかが全世界で問われていると思っています。『グリッド都市―スペイン植民都市の起源,形成,変容,転生』(2013年)で明らかにしたのが、画一的な西欧の近代植民都市とは異なる「都市組織」のあり方の追求という課題です。

 アジアについては、『ムガル都市』とともに、『曼荼羅都市・・・ヒンドゥー都市の空間理念とその変容』(2006年)を上梓し、三部作の最後として『大元都市-「中国」都城の理念と空間構造,そしてその変遷』をまとめたところです(図3)。速やかに出版できればと考えています。

 目指すのは、世界都市史、世界都市計画史をアジアに軸足をおいてまとめることです。“Stupa & Swastika”(2007)など、世界への発信を試みてきていますが、日本における「都市組織」研究の質の高さと大きなフレームの切れ味をさらに強力に発信できればと思っています。もちろん、各地のユニークな「都市組織」に関する臨地調査を積み重ねていくことは地道に行っていきたいと思っています。

 関連する科研費

平成11-13年度 基盤研究(A)「植民都市空間の起源・変容・転成・保全に関する調査研究

平成14-17年度 基盤研究(B発展途上地域(湿潤熱帯)の大都市における居住地モデルの開発に関する研究

平成18-21年度 基盤研究(B)「アジア諸都市の都市組織と都市住宅のあり方に関する比較研究」

平成22-24年度 基盤研究(B)「中国都城の系譜とその空間構造の歴史的変容に関する研究」

平成25-27年度 基盤研究(B)「アジアの都市組織の起源,形成,変容,転生に関する総合的研究」