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2022年2月7日月曜日

カピス貝の街,おしまいの頁で,室内,199812

 12 カピス貝の街,おしまいの頁で,室内,199812

カピス貝の町

布野修司

 

 フィリピンでは散々であった。フィリピン航空のストライキで足がない。ヴィガンへの四〇〇キロは車をチャーターすることになった。高速道路などないから半日以上かかる。おまけに台風だ。マニラは水浸しである。洪水の中を走って、マニラを抜けるのに二時間もかかる。早朝出発したのに着いたのは深夜である。帰りには橋が流されていて、遠回りする始末だった。

 しかし、それにも関わらずかってのスペインの植民都市ヴィガンへ行ったのは最高であった。ハノイ、マラッカ、ジョージタウン(ペナン)・・・ヨーロッパ人が造った東南アジアの都市は随分見てきたけれど、こんな街が残されているとは全く知らなかった。ガイドブックに載っていないのが不思議である。世界遺産に登録されてもおかしくない。植民都市として世界文化遺産に登録された都市にスリランカのゴールがある。行ってみたけど、ヴィガンはまさるともおとらない。

 ヨーロッパ風の街並みの中で何よりも興味深いのが障子窓だ。格子の枠は日本より細かい正方形だ。フィリピンに流されたキリシタン大名が伝えたという説があるのも面白い。しかし、白く見えるのは紙ではなくて貝である。カピス貝と呼ばれる貝を薄く剥がして木の格子に挟んである。貝を通して室内に入ってくる光がなんとも優雅である。そのカピス貝の窓が連続した街並みをつくっている。

 ヴィガンではD.キングというすばらしい人にあった。ヴィガンのことは何でも知っている郷土史家である。歳は五〇代前半で若く、普段は食堂を経営しているただのおじさんに見えるけど、心底すごい。英語の本も書いているけれどスペイン語も自由自在である。なにより記憶力がすごい。一緒にヴィガンの町を歩くと喋りっぱなしである。この家は一七四〇年に建てられ、元々誰彼の所有でその後どうなって・・・とまるで生き字引だ。

 そのキング氏がいうには、この町が爆撃されなかったのは、ある日本軍人が八月一五日の撤退直前、広場に巨大な白旗を置いて、爆撃するなと米軍機に知らせたからだという。そして、その裏には、現地のメスチソ女性とその日本軍人との恋物語があったという。




『室内』おしまいの頁で199801199912

01百年後の京都,おしまいの頁で,室内,199801

02室内と屋外,おしまいの頁で,室内,199802

03英語帝国主義,おしまいの頁で,室内,199803

04 アンコ-ルワット,おしまいの頁で,室内,199804

05 ヤン・ファン・リ-ベック,おしまいの頁で,室内,199805

06 秦家,おしまいの頁で,室内,199806

07 木匠塾,おしまいの頁で,室内,199807

08建築家と保険,おしまいの頁で,室内,199808

09桟留,おしまいの頁で,室内,199809

10 インド・サラセン様式,おしまいの頁で,室内,199810

11 ヴィガン,おしまいの頁で,室内,199811

12カピス貝の街,おしまいの頁で,室内,199812

13ダム成金の家,おしまいの頁で,室内,199901

14 J.シラスのこと,おしまいの頁で,室内,199902

15 ジベタリアン,おしまいの頁で,室内,199903

16西成まちづくり大学,おしまいの頁で,室内,199904

17 スラバヤ・ヤマトホテル,おしまいの頁で,室内,199905

18京都デザインリ-グ構想,おしまいの頁で,室内,199906

19 ジャングル, おしまいの頁で,室内,19990

20 大工願望,おしまいの頁で,室内,199908

21日光,おしまいの頁で,室内,199909

22ヴァ-ラ-ナシ-,おしまいの頁で,室内,199910

23北京の変貌,おしまいの頁で,室内,199911

24群居,おしまいの頁で,室内,199912

2022年2月6日日曜日

ヴィガン,おしまいの頁で,室内,199811

11 ヴィガン,おしまいの頁で,室内,199811

ヴィガン

布野修司

 

 この夏スペインを訪れたのは、ヴィガンというフィリピンの町(北ルソンの南イロコスの州都)の存在を知ったからであった。実際ヴィガンを訪れて驚いた。煉瓦造の住宅が建ち並ぶ、一見ヨーロッパ風の、世界文化遺産に登録されようかという町なのである。

 フェルナンディナと呼ばれたこの町の名は、4歳にして死んだフェリペ二世の息子に因んでいる。そしてフィリピンという名がそもそもフェリペ二世に由来している。そんな興味に導かれてのスペイン行であった。

 マドリッドの北西、電車で一時間ほどの所にエル・エスコリアルという静かな町がある。フェリペ二世のつくった離宮がある。今年は没後丁度四〇〇年ということで大規模なフェリペ二世展が開かれていた。離宮は驚くべき建築である。スペイン・ルネッサンスを代表する建築であり、その威容を誇るが、異常なほど簡素である。要するに装飾的要素がほとんどない。窓など単に穿たれているだけだ。

 この几帳面な建築をデザインしたのはエレーラといい、トレドのアルカサル、セヴィリアのインディアス古文書館も彼の手になる。エレーラ様式と呼ばれるその美学を支持し、登用したのがフェリペ二世だ。エル・エスコリアルのプランはひとつのマンダラである。正方形の繰り返しの中に理想都市の理念が込められているようにも思える。そして、一九七三年、フェリペ二世は、植民都市の計画原理を示す勅令を出した。

 建築家には評判が悪い。全ての中南米の植民都市を画一的なグリッド・パターンにした原因と考えられているからだ。丁度フェリペ二世が王位を継いだ頃から征服(コンキスタ)は原則として禁止され、本格的な都市建設が開始される。スペイン的な生活様式がストレートに持ち込まれる契機となったのが勅令である。

 勅令が出されたその年(あるいは前年)、スペインはヴィガンに上陸、都市建設を開始する。ヴィガンにフェリペ二世の勅令は届いたに違いない。フェリペ二世の臭いを嗅ぎつけるのが今回の目的だ。しかし、別の臭いも充分嗅いだ。その中に、この町が爆撃を逃れたのは、日本の軍人のおかげであるという話がある。



 

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2022年2月5日土曜日

インド・サラセン様式,おしまいの頁で,室内,199810

10 インド・サラセン様式,おしまいの頁で,室内,199810

インド・サラセン様式

布野修司

  再びチェンナイ(マドラス)に戻ってきた。五週間の旅となるといささか長い。毎日が日曜日だが、異国の事物に刺激されて欲張ってつい見に行ったり、食べに行ったりするから休息日がない。疲れが身体の芯に蓄積される感じだ。ぜいたくというべきか。見知らぬ土地を見てその土地のことを学ぶのは無上の歓びである。問題は刺激が多すぎて脳味噌の許容量を情報が溢れてしまうことだ。

 チェンナイではジョージタウンの調査に手をつけた。英国がインドで最初にその拠点を置いたところだ。ヨーロッパ人たちは城壁内に住み、インド人たちは要塞の北に住んだ。それぞれホワイトタウン、ブラックタウンと呼ばれる。そのブラックタウンが今日のジョージタウンだ。

 実に賑やかな町である。日中から人通りが絶えない。眼鏡、自転車、工具、電器、鉄管、チューブ、ハードウエア・・・それぞれの通りに固まってある。インドのジャーティ制(職業分離)のせいか。

 ジョージタウンを歩き回っていて日本語の堪能な老人に会った。船乗りで日本に何度も行ったのだという。チェンナイは国際都市だ。彼によると、テルグ語、タミール語、ヒンディ語、ウルドゥ語、中国語が飛び交っているのだという。

 歩いていると植民地時代に建てられた独特の様式に気づく。インド・サラセン様式と呼ばれる英国人建築家によるコロニアル建築だ。西欧建築を基礎にしながら、イスラーム建築とヒンドゥー建築の要素が巧みに取り入れられている。ハイコート(最高裁判所)がその代表である。また、マドラス大学評議員会館もなかなかの迫力だ。列柱を並べたヴェランダを周囲に回すバンガロー形式が特徴であるが、細部に様々な要素が折衷されている。

 思えば、わが国の近代建築も英国の影響下に出発した。弱冠二五、六歳のJ.コンドルが先生である。彼はマドラス経由で日本に来たに違いない。彼の設計した鹿鳴館を思い出す。彼が当初日本建築に相応しいとイメージしたのはインド・サラセン様式なのである。伊東忠太の築地本願寺にもインドが濃厚に入り込んでいる。しかし何故か、コンドル・忠太以降、日本建築はインドもサラセンも無縁のものとしてきた。



 

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2022年2月4日金曜日

桟留,おしまいの頁で,室内,199809

 09桟留,おしまいの頁で,室内,199809

桟留(サントメ)

布野修司

 

 桟留とは江戸時代に流行った舶来の縞織物のことだ。唐桟(とうざん)縞ともいう。唐すなわち外国産ということだ。最も人気があったのが縦縞の桟留で、文化文政の「いき」な趣味を代表するとされる(九鬼周造『いきの構造』)。「奥島」ともいって当初は大奥で将軍家が愛好した。オランダの商館長が献上したのがきっかけである。やがて、武士層や富裕な町民層に広まっていったのであろう、浮世絵にも沢山描かれている。基本色は藍、白茶けた赤、白である。いかにも斬新なファッションに思えるではないか。

 何故、桟留かというと、今、南インドのマドラス(ボンベイがムンバイになったようにチェンナイと名を昨年変えた)に居ることと関係がある。桟留とはマドラスのことなのである。正確には現在のマドラスにあるサントメのことだ。驚くべきことに、その地名は聖トーマスから来ているという。説ではない事実である。早速、サントメ教会に行ってみた。何の変哲もない教会がそこにあった。しかし、南インドの一隅に聖者が祀られていて、奇蹟を起こすという話は一三世紀頃からくり返し西欧に伝わっていた。マルコ・ポーロも、現在のマドラス付近に聖トーマスの遺体が安置されていると書いているのである。キリストの十二使徒の一人、聖トーマスが何故南インドの地名に変身し、近世日本の「粋」文化を飾る木綿縞に転じたのかは、重松伸司著『マドラス物語』(中公新書)をお読み頂きたい。東西の交渉史は実にダイナミックで面白い。オランダは北へ三〇キロ程のプリカットを拠点にしていた。長崎(出島)ーバタヴィアープリカットというネットワークで桟留が日本に供給されていたのである。因みにキャラコというのもインドのカリカットから来ている。

 マドラスの属するタミル・ナドゥ州を中心に話されるタミル語が日本語の起源だという有力な説(大野晋)がある。マドラス大学には日本研究センターが設立されるほどだ。マドラスの各寺院には京都の祇園祭のような山車祭りがある。といった様々な興味でマドラスにやってきた。というと格好がいいのであるが、やってきて見聞きしてはじめてサントメのことを知ったというのが本当のところだ。



 

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2022年2月3日木曜日

木匠塾,おしまいの頁で,室内,199807

 07 木匠塾,おしまいの頁で,室内,199807

木匠塾

布野修司

 

 藤沢好一(芝浦工大)、安藤正雄(千葉大)の両先生と「木匠塾」(太田邦夫塾頭)なるものを始めて八年になる。第一回は、岐阜県の高根村、当初は「飛騨高山木匠塾」と称した。きっかけは「製品事業所(野麦峠)を買いませんか」という話であった。全国の営林局は伐採のために各地に製品事業所(宿泊所)を持っているけれど使わないものがある。もったいないから、再利用したらということだ。紆余曲折の末、一五〇坪ほどの宿舎を払い下げてもらって村に寄付した。

 「木匠塾」というけれど、大学の夏期合同合宿のようなものだ。集まってわいわいがやがや。森を見たり、家具工場を見学したり、まあ、半分遊びである。最近の学生は、虫が駄目である。また、汲み取り便所が駄目である。いかに、人工的な都会の無菌状態で育っているかがよくわかる。年に一度自然の中で暮らすのも意味あるだろうというのは確信である。

 そのうち、何か創ろう、という話になった。宿舎を直そう、という声も出てきた。いつの間にか八大学を超え、参加者はゆうに一〇〇人を超えるようになった。各大学でアイディアを出してそれを自分たちで造ることが中心になった。僕など「木匠塾」なのに登り釜(正確には蛇釜という)など造った。

  そうしているうちに、東美濃の加子母村(粥川村長)から声がかかった。「うちでもやりませんか」。東濃檜で知られ、産直住宅を手掛ける。伊勢神宮の神宮備林も著名。学生の自主性に任せる、という条件で、拠点が二カ所になった。

 学生たちは、大学対抗のコンペをやってバンガローを造った。また、バス停を直した。かなり大きな物見台も、村の大工さんと協同で作り出した。出来映えは結構すごい。何よりも学生たちが活き活きしている。

 そして、今年、渡辺豊和(京都造形大)さんの仲介で秋田県の角館(高橋町長)を拠点に「東北木匠塾」を始めることになった。去る五月一五日、八戸工大、東北芸術工大、東北工大、東北大、日大工学部などが集まって学生主体に計画を練った。熱気むんむんであった。さらに、奈良県川上村でも「木匠塾」(滋賀県立大学、大阪芸術大学など)が始まる。







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2022年2月2日水曜日

秦家,おしまいの頁で,室内,199806

 

06 秦家,おしまいの頁で,室内,199806

「秦家」

布野修司

 

 

 山本夏彦先生が戦後初めて京都にお見えになったと聞いて心底驚いた。そして一力へ行かれたと知って、さすがだ、と思った。僕なんか、京都に移住して七年目になるけど、一力など行ったことがない。一生住んでも縁がないだろう、と思うとなんとなく情けない。

 「夏彦先生、また、是非京都に来て下さい。お願いします。「一力」連れてって下さい、というのは冗談ですが、一軒お店というか、京町家を紹介します。「秦家(はたけ)」といいます。」

 以下「秦家」の宣伝である。

 「秦家」は、祇園祭に「太子山」(たいしやま)を出す太子山町(油小路仏光寺下ル〇七五ー三五一ー二五六五)にある。表構えに「奇應丸」の看板が上がっていて、ひときわ目立つ。江戸時代から一二代にわたって続いた、「太子山奇應丸」という漢方薬で知られた老舗である。

 表の店の部分の建設が明治二年。元治元年(一八六四年)の京都大火(どんどん焼け)で京町家の大半は焼けているから、最古の町家のひとつと言っていい。表構えのみならず、随所に洒落た意匠が仕組まれており、京町家の精髄を味わうことができる。京都市登録有形文化財に指定されているのもその意匠の水準の故にである。

 一〇年ほど前に廃業ということになって「秦家」は大きな転機を迎えた。税金、修繕費など町家を維持していくのは大変である。現代生活に合わない面もある。

 「秦家」の隣に一〇階建てのマンションが建つ。実に奇妙な感覚に陥る。どちらに未来があるのか。京都には、今なお数多くの京町家が残るけれど、その運命や如何に。小さな会合で「秦家」に寄せて頂く度に思うのは、その行く末である。

 京町家(木造住宅)を残せ、などというのは不自然だ。消え去るべきものは消え去るのみと、夏彦先生なら言うんじゃないか。「秦家」の空間とお料理を心から味わって頂くのはもちろんであるが、その後で、ひとこと聞いてみたい。

 京都に来てずっと考えているのだけれど、僕にはなかなか答えが見つからない。

 夏彦先生、もう一度は京都へいらして、山鉾町あたりも歩いて下さい。祇園祭の頃は如何ですか。


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特集:アーバンアーキテクト、『建築 普及&資格』、1995 Winter

特集:アーバンアーキテクト、『建築 普及&資格』、1995 Winter



















2022年2月1日火曜日

ヤン・ファン・リ-ベック,おしまいの頁で,室内,199805

 05 ヤン・ファン・リ-ベック,おしまいの頁で,室内,199805

ヤン・ファン・リーベック

布野修司

 

 オランダとインドネシアに行って来た。オランダは専ら大学、研究所巡り。インドネシアは建設中の実験住宅についての打ち合わせ。なんでそんな旅を思いつくかというと、インドネシア往復とヨーロッパ往復がほとんど同じ値段だからだ。近頃の航空運賃はわけが分からない。

 時差があって大変と思われるかもしれないが、飛行機の中ではどうせ飲みっぱなしで夢うつつだからどうということはない。今回の三〇時間を超える缶詰時間には、鈴木光司の『リング』『らせん』『ループ』の三部作を読んだ。

 ところで、オランダーインドネシアー日本は細からぬ歴史の糸で結ばれている。司馬遼太郎『オランダ紀行』を読んでみて欲しい。ライデン大学の一角に、壁一杯に芭蕉の句が書かれている建物がある。日本学は今でも盛んだ。シーボルトが太いパイプとなっている。

 歴史の綾は面白い。昨年、ケープ・タウンに行って、ひとりの興味深い人物を知った。ヤン・ファン・リーベックという。二〇歳で外科医の免許をとり、東インド会社の船にのった。一六三八年のことだ。バタヴィアに着いて、方向転換。商才があったらしい。一六四二年、会社の幹部とともに長崎の出島を訪れている。鎖国へと動き始めていた徳川幕府の動向を調査するのが目的であった。

 その後、トンキンで単独で絹貿易に従事するが失敗したらしい。再び出島に拠点を移したりしている。ところが、事件勃発。不正蓄財が発覚し、帰国命令をくらうのだ。かなりのやり手であったのだろう。運命と言うべきか、その帰途、彼はケープに短期間上陸している。そのことが、ケープ・タウンの建設を指揮することに繋がるのだ。

 アムステルダムに戻った彼は復活の機会を待ち続けた。そして、一六五一年、ケープの補給基地建設の指揮官に任命され、その機会をつかんだ。相当の才能があったのは間違いない。

 こうしてファン・リーベックというひとりの男によって、アムステルダム、ケープ・タウン、バタヴィア、出島が繋がる。ファン・リーベックは、再びバタヴィアに移り、オランダに帰ることなく没したのであった。



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07 木匠塾,おしまいの頁で,室内,199807

08建築家と保険,おしまいの頁で,室内,199808

09桟留,おしまいの頁で,室内,199809

10 インド・サラセン様式,おしまいの頁で,室内,199810

11 ヴィガン,おしまいの頁で,室内,199811

12カピス貝の街,おしまいの頁で,室内,199812

13ダム成金の家,おしまいの頁で,室内,199901

14 J.シラスのこと,おしまいの頁で,室内,199902

15 ジベタリアン,おしまいの頁で,室内,199903

16西成まちづくり大学,おしまいの頁で,室内,199904

17 スラバヤ・ヤマトホテル,おしまいの頁で,室内,199905

18京都デザインリ-グ構想,おしまいの頁で,室内,199906

19 ジャングル, おしまいの頁で,室内,19990

20 大工願望,おしまいの頁で,室内,199908

21日光,おしまいの頁で,室内,199909

22ヴァ-ラ-ナシ-,おしまいの頁で,室内,199910

23北京の変貌,おしまいの頁で,室内,199911

24群居,おしまいの頁で,室内,199912

2022年1月31日月曜日

アンコ-ルワット,おしまいの頁で,室内,199804

 

04 アンコ-ルワット,おしまいの頁で,室内,199804

アンコールワット

布野修司

 

 遅ればせながら「アンコールワットとクメール美術の1000年展」(大阪市立美術館)を見た。正直、そうびっくりしなかった。本物のアンコールワットを見て驚いたことがあるからである。建造物の迫力は現地に行かないとわからない。

 しかし、今回の、ギメ国立東洋美術館とプノンペン国立博物館のコレクションが水準の高いものであることは間違いない。個々の仏像や神像は実に迫力があった。クメール美術の実力は相当なものだ。

 ヒンドゥーの神々を見分けるには、その持ち物、乗り物を見ればいい。四本の手に、円輪(チャクラ)、法螺貝、棍棒、蓮華を持つのがヴィシュヌで、乗り物はガルーダ(神鳥)。シヴァは虎皮を腰に巻き、蛇を首に巻く。ナンディン(牛)が控える。わかりやすいのは象の頭のガネーシャ。シヴァの息子で、知恵と繁栄の神様。馬の頭がヴァージムカ。ヴィシュヌの化身だ。ヴィシュヌは猪、獅子、亀、魚など多くに化身する。猿の姿はハヌマーン。孫悟空の原型になったとされる。ヒンドゥーの物語を思い浮かべながら、神々を品定めするのは楽しい。

 ヒンドゥー教など知らない、などというなかれ。仏教の世界にもその神々は忍び込んでいるのだ。梵天とはブラーフマンのこと。帝釈天はインドラ(雷神)だ。馬頭観音だってそうだ。京都の寺を歩きながらヒンドゥーの神々を見つけるのが楽しみになりつつある。仏像に興味を抱くのは年をとった証拠かもしれない。

 ところで「アンコールワットに感嘆するのは好事家の仕事」といった建築家が戦時中の丹下健三である。当時の新興建築家にとって、仏教やヒンドゥー教の八百万の神々の世界は魑魅魍魎の世界と思えていたのかもしれない。それに少し先立って、バンテアイ・スレイという遺跡から石材を運び出し、逮捕された(一九二三年)のがアンドレ・マルローである。さらに遡って、江戸時代にアンコールワットを訪れた日本人がいる。家光の命によってオランダ船に乗船した長崎の通詞島野兼了だ。彼はなんとアンコールワットを祇園精舎と間違えた。その話はかなり有名で建築家・伊東忠太が天皇にご進講に及んでいる。アンコールワットの世界最古の図面は日本人が残したのである。



『室内』おしまいの頁で199801199912

01百年後の京都,おしまいの頁で,室内,199801

02室内と屋外,おしまいの頁で,室内,199802

03英語帝国主義,おしまいの頁で,室内,199803

04 アンコ-ルワット,おしまいの頁で,室内,199804

05 ヤン・ファン・リ-ベック,おしまいの頁で,室内,199805

06 秦家,おしまいの頁で,室内,199806

07 木匠塾,おしまいの頁で,室内,199807

08建築家と保険,おしまいの頁で,室内,199808

09桟留,おしまいの頁で,室内,199809

10 インド・サラセン様式,おしまいの頁で,室内,199810

11 ヴィガン,おしまいの頁で,室内,199811

12カピス貝の街,おしまいの頁で,室内,199812

13ダム成金の家,おしまいの頁で,室内,199901

14 J.シラスのこと,おしまいの頁で,室内,199902

15 ジベタリアン,おしまいの頁で,室内,199903

16西成まちづくり大学,おしまいの頁で,室内,199904

17 スラバヤ・ヤマトホテル,おしまいの頁で,室内,199905

18京都デザインリ-グ構想,おしまいの頁で,室内,199906

19 ジャングル, おしまいの頁で,室内,19990

20 大工願望,おしまいの頁で,室内,199908

21日光,おしまいの頁で,室内,199909

22ヴァ-ラ-ナシ-,おしまいの頁で,室内,199910

23北京の変貌,おしまいの頁で,室内,199911

24群居,おしまいの頁で,室内,199912