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2023年1月13日金曜日

韓国建築研修旅行,雑木林の世界45,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センター,199305

 韓国建築研修旅行雑木林の世界45住宅と木材(財)日本住宅・木材技術センター199305

雑木林の世界 

韓国建築研修旅行

                        布野修司

 

 三月の一三日から二二日の一〇日間、韓国へ行ってきた。韓国へはこれで三度目なのであるが、本格的に建築を見て歩くのは始めてである。とはいえ、漢陽大学(ソウル)と蔚山大学(蔚山)でのセミナーおよび国際シンポジウムが主目的だから、駆け足に違いはない。ソウル↓大邱↓慶州↓蔚山↓釜山というコースである。ひとつには、出雲建築フォーラムのシンポジウム「朝鮮文化が日本建築に与えたもの」(雑木林の世界   一九九二年一二月号)に刺激されたということがある。シンポジウムで話題になった、「宗廟」や「秘苑」、また、韓国の伝統的集落、マウル、韓三建君が紹介した「廟」での祭礼を実際にみてみたかったのである。春分の日を日程に組み入れたのは、慶州の「崇徳殿」(全国朴氏の廟)の祭礼を見るためである。

 ソウルでは、漢陽大学の朴勇煥(パク・ヤンファン)教授と久しぶりに再会した。大学院時代からの友人である。研究室を訪問すると、その旺盛な研究ぶりが研究室の熱気と共に伝わってきた。もともとは、福祉施設の研究が専門であり、その学位論文を手伝ったのが懐かしいのであるが、研究はハウジングの分野を含めてさらに広がっていた。当然といえば当然であろう。特に、今、植民地時代に建てられた「日(本)式住居」の調査を全国規模で展開しているのが印象的であった。日本と韓国の建築学会にとってなくてはならない存在に大成?している様子が実に頼もしい。

 水原(スウォン)では、ソウル大の任勝淋(イム・センビン)教授に会った。水原は、城壁を復原し、その城塞都市の雰囲気を残すいい町だ。実をいうと、任さんとは、出発の直前、第3回国際景観材料シンポジウム「アジアの景観ーーー材料の未来」(大阪綿業会館 3月12日)で初めて会ったばかりである。「景観感覚」(センス・オブ・ランドスケープ)という概念を打ち出すその基調講演は実に立派であり、パネル・ディスカッションでも、その優等生振りに、コーディネーターとして随分助けられた。韓国へ行くというと、是非、研究室へ来なさいという。水原に彼の研究室があるのを知って厚かましくもお邪魔し、水原カルビまでご馳走になった次第である。議論をさらに深めることができ、今後の交流を深めることができたのは大きな収穫だった。

 「空間社」の張世洋さんに再会したのはいうまでもない。世の中狭いものである。朴氏、張氏は高校の先輩後輩だというし、任氏、張氏はソウル大の建築学科の先輩後輩だという。一堂に会して、大パーティーが盛り上がったことはいうまでもない。

 今回のプログラムを用意してくれたのは、韓三建君である。蔚山大学はその母校である。国際シンポジウムでは、「東南アジアの土俗建築」と題して講演したのであるが、まあまあであった。「アンニョン ハシムニカ」とやったら冒頭から大受けで、気持ちよくしゃべれた。質問も厳しく、レヴェルが高い。いいシンポジウムだったと我ながら思う。講演者のひとりであった、弱冠二六才で『韓国の建築』(西垣安比古訳 学芸出版社)を書いた金奉烈氏や多くのスタッフと交流できたのも大きい。蔚山大学では、こうしたシンポジウムは初めてのことであり、他の大学からの参加者も多かったという。テレビの取材が2局もあり、地方新聞にも取り上げられる一大イヴェントとなったようである。

 旅行を通じて、少し系統的に見たのは近代建築である。同行した学生の中に伊東忠太研究をテーマにする青井哲人君がいて、リストを持参していたせいもある。ソウルでは、朝鮮総督府(国立中央博物館 デ・ラランデ 野村一郎 国枝博)やソウル駅(辰野金吾 塚本靖)を始め、梨花女子大(ヴォーリス)、天道教本部(中村輿資平)などかなりみた。釜山では、あまり見ることができなかったのであるが、ほとんど残っていない印象であった。大邱では、いくつか注目すべきものをみたが、慶北大学医学部本館などなかなかの迫力であった。

 しかし、僕にとって印象的であったのはやはり住居であり、集落であり、都市である。都市としては、ソウルは短期間では手に余るとして、水原、そして慶州のスケールがよかった。特に、慶州は、韓三建君の『慶州邑城の空間構造に関する研究』(修士論文 一九九〇年)をテキストに、また、本人の解説つきでまわれたのが最高であった。また、釜山では、出来上がったばかりの許萬亨氏の『韓国釜山の都市形成過程と都市施設に関する研究』(学位論文 一九九三年)をもとに倭館や日本居留地の跡をまわったのが感慨深かった。

 集落として見れたのは、良洞マウル(大邱近郊)と妙洞マウル(慶州近郊)の二つなのであるが、何よりも感じるのは、日本や東南アジアの民家との違いである。木の文化と言うけれど、韓国の場合、石の感覚、土の感覚が相当強い。何をいまさらということかもしれないのであるが、実際にみた素直な感想である。

 韓国の場合、木がそう豊かではない。すなわち、建築用材として使える樹木が少ないことが、石や土という素材を用いるひとつの理由だろう。それに、オンドルの使用が決定的である。熱を通すには木や紙ではまずい。隙間を塞ぐのには、土を塗込めた方がいい。すきま風を通す解放的なマルと塗込めたオンドルバンとを明確にわけるところに韓国の住居の特徴があるのである。オンドルは、半島北部に発生したものが高麗時代に全島に普及したとされる。マル(板の間)の成立をめぐる議論が示すように、別の伝統が考えられるのは当然であるが、今日、オンドルは韓国の住居に一般的であり、そのあり方を大きく規定しているのである。

 韓国の建築は粗雑である、洗練の度合いが低い。こうした見方を支配的にしたのは、日本の建築史学の大先達である。日本の文化の優位性を疑わなかった植民地時代のことだ。日本の建築の方がはるかに技術的に洗練され、高度に美しい、という価値判断をそうした先達も当然のように受け入れていたのであった。

 実をいうと、僕自身、そうした見方をしていたことがある。写真でみる韓国の建築にはどうしても違和感があったのである。第一、屋根の瓦が漆喰で固められるのがしっくりこない。第二、屋根の反りがどうもしっくりこない。第三、石の積み方が粗雑である。

 かって、以上のような違和感を口にして、大議論した相手が朴勇煥教授であった。朴さんの反論は今でも覚えている。韓国の建築の方がはるかに自然に対しては高度なのだというのが彼の主張である。仏国寺(慶州)を見よ。地面から石積みになる、石積みも荒くそして精緻になる。大地から生い出るように建築がなされるのが基本だ。その配置にしろ、単純な人口的なシンメトリーはつかわない。ヴォリュームと視覚のバランスを微妙にとるのが韓国の建築なのだ。韓国の建築には韓国の建築の論理があり、美学がある。今回それを体感できたことは大きな収穫であった。

 それにしても、至るところ、秀吉の影が現れる。彼の建造物破壊の暴挙は今猶、さらに末永く、われわれのぬぐいさることのできない汚点である。

 






2023年1月12日木曜日

東南アジア(湿潤熱帯)における環境共生住宅に関する研究:住友財団,1997年

東南アジア(湿潤熱帯)における環境共生住宅に関する研究:住友財団,1997年


東南アジア(湿潤熱帯)における環境共生住宅に関する研究

Study on Eco-cycle House in South East Asia(Humid Tropical Regiouns)

 

 

 湿潤熱帯に相応しい環境共生住宅のモデル開発を目指した本研究は、これまでの蓄積をもとにまず基本設計を行った(19973月)。基本的な手法として盛り込んだのは、①二重屋根とし排熱効果を促進(ダブルルーフ)、②屋根に通風と採光を考慮したガラスルーバーを設置、③軒の出を大きく取り、直射日光による外壁の受熱量を軽減、④輻射冷房として居室の壁面に水循環パイプを設置(床冷水房)、⑤共用空間の水平、垂直方向の通風を確保(クロスベンチレーション)、⑥半地下部分で蓄冷効果を促進、⑦2階外壁を木造とし、排熱効果を促進、⑧1階はRCラーメン構造にレンガブロック壁で遮熱・蓄冷効果、⑨太陽電池利用、⑩地域産材利用(断熱材としてのココナッツ椰子の繊維利用)である。

 幸運にも(財)国際建設協会(IDI)の事業として取りあげられ、具体的な実験住宅の建設をインドネシアのスラバヤ(スラバヤ工科大学キャンパス)において行うことになった。現地調査を行い(19979月)現実的な条件に合わせて設計変更を行い、実施設計(199710月~12月)を経て、1998年1月着工、6月に竣工をみた。現在その温熱等の環境についてのモニタリングを開始し、予備的な解析に着手したところであるが、短期間に予想以上の成果を上げることができたと考えている。解析結果をもとに、様々な実験をさらに重ね、社会化できるモデルとして鍛えていきたいと考えている。

 

 

東南アジア(湿潤熱帯)における環境共生住宅に関する研究

Study on Eco-cycle House in South East Asia(Humid Tropical Regiouns)

 

 This research project which aim at developing the model of Eco-cycle House in the Humid Tropical Regions firstly launch the basic plan based on our previous studies. The basic techniques and methods are dabble roof high side glass leuber long eaves floor cooling system which cycle the well water cross-ventilation using the local materials(palm fibres for heat insurance)

 Our proposal was luckily accepted as a project by IDI(International Foundation Development of Infrastructure),  and the model house was built at  Surabaya( ITS campus ,Indonesia) in June 1998. We have already started to monitor the environmental conditions of Eco-cycle House. We are thinking to try the experiment based on the analysis and to push out  our model to be  socialised in the near future.


 

東南アジア(湿潤熱帯)における環境共生住宅に関する研究

Study on Eco-cycle House in South East Asia(Humid Tropical Regiouns)

 

 This research project which aim at developing the model of Eco-cycle House in the Humid Tropical Regions firstly launch the basic plan based on our previous studies. The basic techniques and methods are dabble roof high side glass leuber long eaves floor cooling system which cycle the well water cross-ventilation using the local materials(palm fibres for heat insurance)

 Our proposal was luckily accepted as a project by IDI(International Foundation Development of Infrastructure),  and the model house was built at  Surabaya( ITS campus ,Indonesia) in June 1998. We have already started to monitor the environmental conditions of Eco-cycle House. We are thinking to try the experiment based on the analysis and to push out  our model to be  socialised in the near future.

 

 

 () 平成9年度

① 事前調査および設計

インドネシアの既存建築技術の中からパッシブソーラーの範疇に属する技術を抽出すると共に、我が国のパッシブソーラーシステムがインドネシアにおいてどのように適用可能かを検討し、実験施設の設計をする。

② 実験施設の建設

パッシブソーラーシステムを導入した実験施設を建設する。

 

(3)平成10年度

① モニタリングおよび評価

実験施設のモニタリングを行い、インドネシアにおけるパッシブソーラシステムの有効性を評価し、発展途上国における有効性を分析する。

② パンフレットの作成、配布

途上国におけるパッシブソーラーシステムの普及促進のため、結果と有効性を紹介するパンフレットを作成し、セミナーの開催などを通じてパンフレットを配布する。

 

3-3 今年度の活動概要

 

① 現地調査(平成9年9月1723日)

試験施工予定地の確認および実験施設の設計内容協議を行った。

 

② 第1回パッシブソーラーシステム専門部会(平成9年10月3日)

布野委員のITSとの打合せ内容の報告に基づき、実験施設の設計に関する検討を行った。

 

③ 専門部会での検討を基に設計変更作業を実施(平成9年10月6日~)

半地下+2階を3階建てに変更、床冷房システム、ダブルルーフ等の詳細設計を行った。

 

④ ITSと合意文書(MEMORANDUM)締結(平成9年1110日)

平成93月時点では試験施工の規模等が明確でないため保留していたMEMORANDUMを正式に取り交わした。

 

⑤ PT.PP-TAISEI INDONESIA CONSTRUCTIONと工事請負契約締結

(平成9年1112日)

 

⑥ 京都大学にてSilas教授と打合せ(平成9年1219日)

別件にて来日された教授と実験施設の詳細設計打合せ並びに、モニタリング機器の説明及び受け渡しを行った。

 

⑦ Ground Breaking Ceremonyの開催(平成10年1月13日)

日本側代表として斉藤憲晃氏が出席した。

 

⑧ 現地調査(平成10年3月1522日)

試験施工完了確認を行うと共に、モニタリングの実施体制の検討をITSと行った。

 

1-2 今年度の事業

 

今年度の事業は建設技術の選定、パッシブソーラーシステム技術の試験施工、選定された建設技術の平成10年度試験施工へ向けた実施体制検討の3項目である。本報告書では、建設技術の選定とパッシブソーラーシステム技術に関する2項目を取りまとめるものとする。各項目の業務内容は以下の通り。

 

() 建設技術の選定

途上国に適すると思われる建設技術を分野、実施国、協力体制等を評価し選定するために、途上国建設技術開発促進事業委員会の設置・運営を行う。

 

() パッシブソーラーシステム技術

平成8年度から平成10年度の3ヶ年で実施する予定で、2年度目にあたる本年度はインドネシアをモデル国として、以下の項目を実施する。

インドネシアの気候風土を考慮した試験施工用パッシブソーラーシステム設計を行う。

インドネシアの1110日工科大学(ITS)構内にて試験施工を行う。

モニタリング方法の検討

試験施工に係る技術的指導のために、専門部会の設置運営を行う。

 

第3章 パッシブソーラーシステム技術

 

3-1 プロジェクトの目的

このプロジェクトは、経済成長の著しい途上国のエネルギー消費量の増大に対して、途上国の風土にあったパッシブソーラーシステムを導入することで、途上国国民の生活環境改善、しいては地球規模の環境対策の観点からの省エネルギー推進に貢献することを目的とし、インドネシアをモデル国としてパッシブソーラーシステムを導入した建物の試験施工を行い、その有効性について検証するものである。

 

3-2 プロジェクトの内容

 

() 平成8年度

① 資料収集、整理

・国内のソーラーシステムに関する資料を収集、整理する。

② 試験施工技術内容の選定

・ソーラーシステムの適用可能な対象建築物を検討する。

・国内のソーラーシステムの中から対象建築物に導入可能な技術を想定し、試験施工建物の概念設計を行う。

③ 事業実施体制の検討

・相手国政府の関係機関に対し事業内容を説明し協力を依頼する。

・相手国の学識経験者に試験施工設計に対し協力を依頼する。

・事業実施体制案を作成する。

 

() 平成9年度

① 事前調査および設計

インドネシアの既存建築技術の中からパッシブソーラーの範疇に属する技術を抽出すると共に、我が国のパッシブソーラーシステムがインドネシアにおいてどのように適用可能かを検討し、実験施設の設計をする。

② 実験施設の建設

パッシブソーラーシステムを導入した実験施設を建設する。

 

(3)平成10年度

① モニタリングおよび評価

実験施設のモニタリングを行い、インドネシアにおけるパッシブソーラシステムの有効性を評価し、発展途上国における有効性を分析する。

② パンフレットの作成、配布

途上国におけるパッシブソーラーシステムの普及促進のため、結果と有効性を紹介するパンフレットを作成し、セミナーの開催などを通じてパンフレットを配布する。

 

3-3 今年度の活動概要

 

① 現地調査(平成9年9月1723日)

試験施工予定地の確認および実験施設の設計内容協議を行った。

 

② 第1回パッシブソーラーシステム専門部会(平成9年10月3日)

布野委員のITSとの打合せ内容の報告に基づき、実験施設の設計に関する検討を行った。

 

③ 専門部会での検討を基に設計変更作業を実施(平成9年10月6日~)

半地下+2階を3階建てに変更、床冷房システム、ダブルルーフ等の詳細設計を行った。

 

④ ITSと合意文書(MEMORANDUM)締結(平成9年1110日)

平成93月時点では試験施工の規模等が明確でないため保留していたMEMORANDUMを正式に取り交わした。

 

⑤ PT.PP-TAISEI INDONESIA CONSTRUCTIONと工事請負契約締結

(平成9年1112日)

 

⑥ 京都大学にてSilas教授と打合せ(平成9年1219日)

別件にて来日された教授と実験施設の詳細設計打合せ並びに、モニタリング機器の説明及び受け渡しを行った。

 

⑦ Ground Breaking Ceremonyの開催(平成10年1月13日)

日本側代表として斉藤憲晃氏が出席した。

 

⑧ 現地調査(平成10年3月1522日)

試験施工完了確認を行うと共に、モニタリングの実施体制の検討をITSと行った。

 

3-4 試験施工の設計

 

() 当初案

ここでいう当初案とは、昨年度の検討から規模縮小を行い、半地下+2階建ての延べ床面積約230㎡の設計に改良した案である。(主要図面:図-1~5)

この案のパッシブソーラーシステムの概要は以下の通り。

      屋根をダブルルーフとし排熱効果を促進。

      屋根に通風と採光を考慮したガラスルーバーを設置。

      軒の出を大きく取り、直射日光による外壁の受熱量を軽減。

      輻射冷房として居室の壁面に水循環パイプを設置。

      共用空間の水平、垂直方向の通風を確保。

      半地下部分で蓄冷効果を促進。

      2階外壁を木造とし、排熱効果を促進。

      1階はRCラーメン構造にレンガブロック壁で遮熱・蓄冷効果を促進。

 


 

2023年1月11日水曜日

『群居』創刊一〇周年,雑木林の世界42,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センター,199302

 『群居』創刊一〇周年,雑木林の世界42,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センター,199302


雑木林の世界42

『群居』創刊10周年

 

                       布野修司

 

 普請帳研究会(代表 宮澤智士)が出している『普請研究』という雑誌がある。十年前に創刊されて、年四冊、今年で四〇号になる。その三九号は「大工・田中文男」と題した特集である。田中文男といえば、「大文」(だいふみ)さんと呼ばれて知られる。大工の文さんをつづめた言い方だ。田中さんというのは世間に多すぎるから、自然にそう呼ばれ始めたらしい。

 ところで、本誌の読者であれば「大文」さんを知っている人が多いのではないか。希代のインテリ棟梁である。「日本建築セミナー」や「木造建築研究フォーラム」での活躍もよく知られている。木造文化についての造詣の深さでは右に出るものがいないのではないかと思える程今ではヴェテランである。名人大工、棟梁は今でも日本に数多いけれど、『普請研究』のような研究誌を十年も出し続ける大工さんはいないだろう。

 大学の研究室にいた頃から存じ上げていたのであるが、SSF(サイト・スペシャルズ・フォーラム)の関係で、特にこの二年、近くで「大文」さんに接する機会を得ている。幸せである。声がでかい。会えば、必ず怒られる。僕のような大学の先生は特に駄目である。能書きばっかり言ってないで、もっと、木のことを勉強せい、と怒鳴られっぱなしである。特集「大工・田中文男」を読むと「大文」さんの人柄がよく伝わってくる。

 棟梁田中文男格言集からいくつか引けば次のようである。

 「職人だから焼酎を飲んでいればいい時代ではない」

 「まず餌を投げて魚をつかまえる」

 「自分の町のことは自分で考えろ」

 「時代に賭ける勇気がなくてはだめだ」

 「金持ちがつぶれるのは世の中のためーつぶれたくなかったら自分でがんばれ」

 「職人は馬鹿でできず、利口でできず、中途半端でなおできず」

 「粗悪品をつくってたら大学はつぶれる」等々

 是非、一読をお薦めしたい(普請帳研究会 03-3356-4841)。

 

 ところで、『普請研究』が創刊された丁度その頃、もうひとつの雑誌が創刊された。『群居』である。一九九二年の年末に三一号が出た。一九八一年末に、創刊準備号を出しているから、まさに丁度十年である。同じ季刊であるのに号数が足りない。『普請研究』には脱帽であるが、我ながらよく続いて来たと思う。『群居』の編集人というのは実は筆者なのである。

 『群居』の母胎となったのは、ハウジング計画ユニオン(HPU)という小さな建築家の集まりである。大野勝彦、石山修武、渡辺豊和、と僕が最初のメンバーである。創刊の言葉は次のようだ。

 「家、すまい、住、住むことと建てること、住宅=町づくりをめぐる多様なテーマを中心に、身体、建築、都市、国家をめぐる広範な問題を様々な角度から明らかにする新たなメディア『群居』を創刊します。既存のメディアではどうしても掬いとれない問題に出来る限り光を当てること、可能な限りインタージャンルの問題提起をめざすこと、様々なハウジング・ネットワークのメディアたるべきこと、グローバルな、特にアジア地域の各地域との経験交流を積極的に取り挙げること、等々、目標は大きいのですが、今後の展開を期待して頂ければと思います。」

 恥ずかしながら、僕が書いた。この十年を振り返って、よく続いたと思う一方で冷や汗が出る思いである。

 『群居』の十年で、何が出来て、何が出来なかったか。十周年記念ということもあり、少し、真面目に議論してみようということになった。上の四人に加えて、二十名余りが集まる機会をもったのであった(一九九二年一二月八日 群居「車座」座談会 東京・赤坂)。

 色々な話が飛び出してなかなか面白かったのであるが、つくづく思うのはこの八〇年代という十年、特に後半のバブルの時代は一体なんだったのかということである。『群居』が出発した七〇年代末から八〇年代初頭には、二度のオイルショックを経験した七〇年代の閉塞的な雰囲気が濃厚であり、八〇年代半ばから後半にかけて、バブル経済の高揚によって、「建築の黄金時代」が再び訪れようとは全くもって予想することさえできなかったことである。

 建築家がもう少し真正面から「住宅」の問題に取り組もうというのがHPUの素朴な主旨であり、その動きは建設省の「地域住宅(HOPE)計画」などの展開とも相俟って地道な動きにつながりつつあるようにも思えたのであるが、バブルはそうした展開を吹き飛ばしてしまったようにも見える。

 七〇年代末において、建築家を取りまく状況は極めて厳しかった、議論の中で振り返ってみると今更のように思う。「われわれにとって、まず問題は、住宅を最後の砦としてではなく、最初の砦としてなにが構想できるかである」と、僕は『戦後建築論ノート』(相模書房 一九八一年)に書いた。バブルとともに登場してきた若い建築家たちには、想像できないことであろうが、住宅の設計が「最後の砦」である(原広司)という状況認識は広範に共有されていたのである。

 六〇年代初頭、一斉に都市へ向かって行った建築家たちは、六〇年代末からオイルショックにかけて、次第に「都市からの撤退」を迫られ、住宅の設計という「自閉の回路」へ追い込まれていった。そうした過程を踏まえた上で「自閉の回路」をどう開いて行くか、それが『戦後建築論ノート』のテーマであった。八〇年代に、都市開発の巨大なプロジェクトが次々に構想され、建築家が無防備に再び「都市へ」と巻き込まれていくことなど夢想だにできなかったのである。

  議論のなかで、「群居」する像を提示できなかったことが決定的な問題ではないかという話題になった。テーマとしては、住宅の生産流通の問題と住宅の表現の問題の関係、その裂け目をどう解くのかという、ある意味では最初からの基本問題も大いに議論されたのであるが、町をどうつくるかが具体的に考えてこれなかった、少なくとも、ありうべき町の像を示すべきではないか、そしてそれこそHPUが実践すべきではないか、という展開になってきたのである。都市構想を問う、「群居」の形を提示する、次の十年のテーマである。

 十年というのはそう短くはない。それぞれ歳をとった。メディアを維持して行くためには当然若い世代の参加が不可欠である。様々な課題を意識しながら、『群居』はさらに「停滞無き緩慢なる前進」(田中文男)を続けようと思う。

 

 


2023年1月10日火曜日

建築戦争が始まる 第二回AFシンポジウム,雑木林の世界41,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センター,199301

 建築戦争が始まる  第二回AFシンポジウム,雑木林の世界41,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センター,199301


雑木林の世界40

建築戦争が始まる

第二回AFシンポジウム

                       布野修司

 

 「建築戦争が始まる」といういささか変わったタイトルのシンポジウムが開かれた(一九九二年一一月一九日 大阪YMCA会館)。AF(建築フォーラム)主催の第二回目のシンポジウムである。パネラーは、宇野求、平良敬一、山本理顕、渡辺豊和、布野修司。コーディネーターは、美術評論の高島直之がつとめた。

 第一回のシンポジウムは、「建築の世紀末と未来」と題した、磯崎新、原広司、浅田彰三氏によるシンポジウムで千人近い参加者を集めたのであるが(雑木林の世界33)、今度も四百人を超える聴衆が集まった。東京ではこう人は集まらないと思うのであるが、どうだろう。あるいは、議論の季節が来たのかも知れない。昔から、不況になれば建築運動が起こるといわれるのであるが、バブルが弾けて果たしてどうか。とにかく議論が必要だというのが、AF結成の主旨(雑木林の世界19)だから歓迎すべきことである。

 今回も、スライドはなしで、三時間、建築界で何が問題なのか本音で話し合おう、というのが主旨だ。しかし、座談会ならわかるけれど、四百人もの聴衆を前にして、どうすればいいのか。何を問題とすればいいのか、そう例のない、少なくとも僕にとっては初めての経験である。

 最初はいささかぎこちないスタートとなった。楽屋では盛り上がっていたのだけれど、一巡するまでなかなかかみ合わないのである。建築界の積年の諸問題をどう突破するか、その発火点をどこにもとめるかという筋立てとなっていくことで、どうやら格好がついたのであるが、話がどう転ぶかわからない、スリル満点のシンポジウムとなったのであった。

 建築界の諸問題としては、実に様々な問題が出された。建築デザインの全体的衰退、企業クライアントの水準の低さ、建築家における倫理の喪失、日本の景観の酷さ、職人世界の崩壊、建設業界の川上化、重層下請構造の問題、談合問題、地球環境問題、建築行政の問題、公共建築の設計者選定(コンペ、設計料入札等)問題、建築ジャーナリズムのだらしなさ・・・はては、建築教育、大学の建築学科の再編成、さらに偏差値社会全体の問題まで、問題はとてつもなく広範囲に及ぶのである。

 建設業界の川上化というのは、建設請負業(ゼネコン)がどんどんソフト化(サービス業化)し、現場離れしつつあることをいう。その一方で、ウエイトをもちつつあるのが、具体的な現場技術を支える専門工事業者(サブコン)であり、現場技能者(サイト・スペシャリスト)なのであるが、利益は川上に厚く、川下に薄い。これはおかしいのではないか。建築家はもっと職人さんたちと連帯すべきではないのか。

 全く、思いもかけなかったのであるが、サイト・スペシャルズ・フォーラム(SSF)で職人大学(サイト・スペシャルズ・アカデミー(SSA))建設を推進する小野辰雄氏(日綜産業 SSF副理事長)の顔が会場に見えた。これぞとばかりに発言を求めたところ、壇上にたってまで、職人問題について熱弁をふるって頂けた。建築家の集まりにはいささか唐突であったのであるが、反響は十分であった。むしろ、日経新聞や京都新聞の記者の反応が面白かった。小野発言は、建築家のいつものわけのわからない(?)話よりよっぽどわかりやすかったというのである。

 またさらに、会場を沸かしたのは、パネラーからの挑発的なビジネス社会批判である。特に、バブルの最中に思いつきとも見える建築を無見識に建てた大企業の問題が鋭く告発されたのであるが、一般的な大企業批判に会場から反論が出るのは必然であった。建築家だってもう少し現場を知るべきだ云々。期待すべき建築家にしても、モラルの低下、はなはだしいものがあるではないか等々。

 どこに発火点をもとめるかという後段のまず最初はこうしてまずサブコン、あるいは職人さんに期待するということになったのであるが、もちろん、多様な提起がなされた。

 むしろ期待すべきは、地方で頑張っている人たちではないか、というのが平良敬一氏である。一方、山本理顕氏は、都市も問題だ、建築家は都市住宅の問題をさぼってきているという。宇野求氏は、住宅については男性では駄目だ、女性にしか期待できない、という。調子に乗って、グローバルには南の国、第三世界に期待せざるを得ないのではないかと言ったのは僕である。

 地方、サブコン、職人、女性、第三世界・・・・並べ挙げていくと、これまで建築界で必ずしも焦点を当てられてこなかったところである。おそらくそうしたところから考えていくのが筋なのであろう。

 議論は、もちろん、開かれたままである。すぐにどうこうしようということではない。ただ、これからの中心的テーマの手がかりが得れたのは収穫だったように思う。キーワードは、「都市革命」である。平良敬一氏の、「いまこそ都市革命が必要ではないか」というシンポジウムでの提起がきっかけである。日本の諸都市は果たして今のままでいいのか。「都市革命」というのは、六〇年代末にH.ルフェーブルによって出された概念であるが、その後の日本の都市の混乱は、「都市社会」の実現とはほど遠いことを示している。『建築思潮』2号のテーマは「都市革命」(仮)ではどうか、ということになりつつあるのである。

 そういえば、『建築思潮』創刊号「未踏の世紀末」がいよいよ出る(一九九二年一二月一八日 学芸出版社 連絡先は、06-534-5670 AF事務局.大森)。

 大阪でのシンポジウムを終えて二日後、名古屋へ行った。「建築デザイン会議」の「現代建築家100人展 変貌する公共性」名古屋展のオープニングに呼ばれたのである。「人と建築と社会と」と題して何かしゃべろ、という。おこがましいけれど、旧知の酒井宣良氏、大島哲蔵氏の依頼とあって断れない。両氏との鼎談の形ならと無理を言って楽しく議論できた。「建築戦争」の余韻があったかもしれない。熊本アートポリス、京都の景観問題などをめぐってホットな話題が続出した。聞けば、JR名古屋駅も高層化の計画があるという。C.アレグザンダーの千種台団地の建て替えの問題など足元に大きな問題が横たわってもいるのである。

 一日置いて、こんどは京都大学の11月祭の建築学科の企画(「珍建築」展)に竹山聖氏と呼ばれて、建築教育をめぐる問題をとことんしゃべらされた。

 議論の季節がやってきた、そんな感じがひしひしとしてくる。議論ばかりでは何にもならないのであるが、地についた議論を深めておかないと、ひとたび状況がかわるとすぐさま足元を掬われるのが建築界なのである。






2023年1月9日月曜日

朝鮮文化が日本建築に与えたもの,雑木林の世界40,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センター,199212

 朝鮮文化が日本建築に与えたもの,雑木林の世界40,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センター,199212


雑木林の世界40

朝鮮文化が日本建築に与えたもの

第二回出雲建築フォーラム

                       布野修司

 

 距離的に近くなったせいであろうか。このところ出雲、松江に赴くことが頻繁になった。島根県景観形成マニュアル作成委員会、松江市景観対策委員会、出雲市まちづくり景観賞審査委員会、・・・景観関係の委員会が多い。一一月末には、仁多町の景観シンポジウムがある。日本中景観ばやりである。

 加茂町の文化ホールの公開ヒヤリング方式によるコンペは一五〇人が集まる盛況であった(一〇月八日 雑木林の世界36 八月号)が、渡辺豊和氏が設計者に決まった。出雲のことだけはお手伝いしなければと思うのであるが・・・。

 そうした出雲で、一一月一日、第二回出雲建築フォーラム・シンポジウムが開かれた(大社町商工会館)。今年のテーマは「朝鮮文化が日本建築に与えたもの」という大変なテーマである。去年に続いてコーディネーターの役をおおせつかった。伊丹潤著『朝鮮の建築と文化』、鄭寅國著『韓国建築様式論』、安瑛培著『韓国建築 外部空間』、野村孝文著『朝鮮の民家』、ハウジング・スタディー・グループ著『韓国現代住居学』・・・、にわか勉強もそこそこに厚かましく出かけたのであるが、実に楽しい、刺激的なフォーラムとなった。

 出雲建築フォーラムについては、本欄で二度ほど紹介してきた(雑木林の世界09 一九九〇年五月、雑木林の世界28 一九九一年12月)。全国から神々が集う神在月(かみありづき)に毎年建築フォーラムを開こうというので結成されたのが出雲建築フォーラムである。最初は構想だけの紹介だったののであるが、昨年第一回目が行われ、今年二年目が続けられた。出雲建築フォーラムはなんとなく元気がいい。

 今年は韓国から一線の建築家を招いた。張世洋(チャン・セー・ヤン)氏である。張氏は、日本でも著名な、ソウル・オリンピック・スタジアムの設計者、金寿恨(キム・ス・グン 一九八六年死去)亡き後、空間総合建築士事務所を率いる。「空間社」は総勢百二十一九四七年、釜山に生まれ、ソウル大学校工科大学を卒業した若きリーダーである。

 パネラーは、韓国建築に造詣の深い、伊丹潤氏、日本で慶州の都市史を研究する韓 三建氏、同じく住居学を学ぶ姜恵京氏、密教建築を中心とする建築史の藤井恵介氏、そして高松伸氏である。百人近い参加者があった。会場には、昨年に続いて、長谷川尭氏、渡辺豊和氏の顔も見えた。

  第一回目は「大和建築」に対して、「出雲建築」というものが果して考えられるか。出雲に独自の空間のあり方、自然と人間との独自の関わり、スケール感覚等々が果してあるのか、等々をめぐって議論が行われたのであるが、それならば韓国・朝鮮との関係はどうか、というのが今回のテーマである。

 日本文化と朝鮮・韓国文化が密接につながりを持つことは明らかである。ことに古代においては、その関係は無視し得ない、というより一体で考えた方がいい程だ。古代出雲は特に朝鮮・韓半島との関係が深い。近代には、植民地化の歴史という不幸な関係もある。

 日本の中の朝鮮文化、あるいは朝鮮の中の日本文化をみる視点は日本文化を考える上で欠かすことのできないものである。

 よく、日本で韓国・朝鮮は近くて遠い国といわれる。確かに我々は韓国・朝鮮についてあまりに知らない。しかし一方、近いからわかるということもある。西欧vs日本の構図を超えて、深く理解し合う基盤は日本と朝鮮・韓国の間にある。

 「朝鮮文化が日本建築に与えた影響」といっても、我々はあまりにも朝鮮・韓国の建築について知らない。まずは断片的でもいいから朝鮮・韓国の建築について知ろうというのがシンポジウムの最初の目的となるのは当然の成りゆきであった。

 まず、張氏が、オリンピック・スタジアムなど空間社の作品をスライドで説明した。つくづく思うに、現代建築の動向について我々はほとんど知らない。ソウル・オリンピックの際、体操競技が行われた体育館は、香港上海銀行を差し置いてハイテック技術を顕彰する賞を受賞したと言うのであるが、出雲ドームとよく似ている。傘を広げるその構造もテフロン幕を用いることも、彼は既に試みていたのである。

 彼の作品をめぐっては、シンポジウムでもコメントが出されたのであるが、極めて良質のモダニズムを突き詰めようとする姿勢に好感がもたれた。韓国建築の伝統を現代建築にどう生かすかがひとつの焦点となった。特に、マダン(庭)のスケールをめぐって議論が起こったのが興味深かかった。

 続いて、韓三建氏は、日本の神社と韓国の廟をめぐって、特に廟における儀礼を詳しく説明してくれた。ソウルの宗廟、そして新羅の古都、慶州における廟の事例が中心であった。神社と廟そのものを比較することの問題点はある。しかし、神宮という言葉が朝鮮の方が早いという事実や出雲大社の儀礼と廟での儀礼がよく似ているという事実など考えさせられるテーマが沢山提起された。

 宗廟というと、かって建築家、白井晟一が東洋のパルテノンと呼んだ建築である。宗廟に惹かれて韓国を歩くようになったという伊丹潤氏の吐露もあった。

 朝鮮・韓国建築の特性というと、一方、民家の特性がよく問題とされる。先のマダンもそうだが、すぐ想起されるのがオンドル温突である。高句麗起源ということであるけれど、今では全国で一般的である。また板間としてのマル(抹楼)も特徴的である。このマルをめぐっても議論となった。日本の板間はマルからきたのかどうか。また、マルは南方起源なのか、北方起源なのか。今回初めて知ったのであるが、既に戦前期に、マルの起源をめぐって、藤島亥治郎、村田治郎の両碩学の間で論争があるのである。

 伊丹潤氏が強調したのは、自然観の微妙な違いである。彼によれば、坪庭とか中庭という形で自然を取り込むのが日本であるとすれば、内部も外部もない、あるがままなのが韓国だ。韓国には鑑賞するための空間はない。自然を観る感覚はなく、自然に観られる感覚が強い。儒教の自然観が根底にあるという。

 風水地理説、図讖(としん)思想についての話題も当然出た。風水地理説が韓国に入ってきたのは新羅時代後期のことだという。

 また、床座の問題もでた。日本も韓国・朝鮮も上下足を区分し、床座なのである。さらに茶室韓国起源説もちらりと出た。

 とてもまとめきる能力はなかったのであるが、少なくともテーマの広大な広がりは確認出来たように思う。

 来年はどうするか。テーマは沢山ある。毎年の神在月が楽しみになってきた。神在月にはみんなで出雲へ、ということになりそうな気がしてくるではないか。

  






2023年1月7日土曜日

木の文化をどうするの,日刊建設工業新聞,19970710

木の文化をどうするの,日刊建設工業新聞,19970710

   木の文化をどうするの
 オーストリアのウイーン工科大学、フィンランドのヘルシンキ工科大学、米国のヴァージニア工科大学からたてつづけに建築家、教授の訪問を受けた。オーストラリアからはハウジングに体系的に取り組む建築家H。ヴィマー氏。後の二大学は、学生それぞれ二十人前後が同伴しての訪問である。京都にいるとこうした交流が頻繁である。僕は専らアジアのことを研究しているのだけれど、欧米の建築家たちもアジアへの関心は高い。ヴィマー氏の作品にはヨーロッパの伝統より中国や日本の建築への明らかな興味が読みとれた。居ながらにして情報が得られ、議論できるのは有り難いことである。
 ところが頭の痛い指摘も当然受ける。
 二つの大学の学生たちのプログラムはよく似ている。京都の町を素材に特に木造建築について学ぼうというのである。ワークショップ方式というのであろうか、単位認定を伴う研修旅行である。日本の大学も広く海外に出かけていく必要があると思う。うらやましい限りである。
 修学院離宮、桂離宮、詩仙堂…、二つの大学のプログラムを見せられて、つくづく京都は木造建築の宝庫であると思う。実に恵まれているけれど、時としてその大切な遺産のことを僕らは忘れてしまっていることに気づかされる。講義を聴いていると、日本人の方が木造文化をどうも大事にしてこなかった、大事にしていないことを指摘されているようで恥じ入るのである。
 フィンランドは木造建築の国だ。だから木の文化への興味はよく分かる。しかしそれにしても、ヘルシンキ工科大学の先生方の三つの講義が、フィンランドの建築家の作品の中に日本建築の影響がいかに深く及んでいるかを次々に指摘するのにはいささか驚いた。
 しかし、日本はどうか。阪神淡路大震災以降の復興過程で木造住宅はほとんど建たない。それ以前に、日本の在来の木造住宅は大きくその姿を変えてきた。木造住宅といっても木材の使用率はわずか四分の一ぐらいである。京都では数多くの町家が風前の灯火である。建て替えると木造では許可が下りないのである。全てが木造建築を抹殺していく仕組みができあがっている。
 学生たちはただ観光して歩いているわけではない。両大学ともスケッチしたり、様々なレポートが課せられている。レイ・キャス教授率いるヴァージニア工科大学のプログラムは特に興味深いものだ。近い将来日本の民家を解体してアメリカに移築しようというのである。「木の移築」プロジェクトという。プロジェクトの中心は、京都で建築を学ぶピーター・ラウ講師である。
 まず、初年度は民家を解体しながら木造の組立を学ぶ。そして、次年度はアメリカで組み立てる。敷地もキャンパス内に用意されているという。米国の大工さん(フレーマー)も協力する体制にあるという。外国人の方が木造文化の維持に熱心なのである。複雑な心境にならざるを得ないではないか。
 問題は日本側の協力体制である。協力しましょう、という話になったけれど、容易ではない。組立解体の場所を探すのが大変である。解体する民家を探すのも難しい。なんとかうまく行くことを願う。こうした小さなプロジェクトでもひとつの希望につながるかもしれないからである。


 

2023年1月6日金曜日

2023年1月5日木曜日

マルチ・ディメンジョナル・ハウジング,雑木林の世界39,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センター,199211

マルチ・ディメンジョナル・ハウジング,雑木林の世界39,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センター,199211


雑木林の世界39

マルチ・ディメンジョナル・ハウジング

スラバヤ・ソンボ・ハウジング計画

                       布野修司

 

 九月に入って、三週間弱の短い期間であったが、インドネシアに出かけてきた。今回は、バリ→ロンボク→スラバヤ→ジャカルタという行程である。バリ、ロンボクでの住居集落調査の継続とセミナー出席、研究交流が目的であった。

 それぞれに収穫があったのだが、三年振りのジャカルタが新鮮であった。数回訪れているのだけれど、前回の滞在が一日程度だから実際には数年振りの訪問になったからであろう。

 高層ビルが随分と増えた。ベチャ(輪タク)が一掃された。タクシーが随分使いやすくなった。表通りは綺麗になって、清掃車が目立つ。ジャカルタという都市は日々スマートになりつつある、そんな印象である。

 インドネシアに発つ直前、「アジアの都市 その魅力を語る」というシンポジウム(九月四日 於:東京都庁舎 司会 饗庭孝典 パネラー 石井米雄 土屋健治 大石芳野 布野修司 九月一九日 NHK放映)に参加したのであるが、その時に議論のために用意されたジャカルタについてのレポート・ビデオにはいささか半信半疑だった。ディスコやファッションショー、若者文化の洗練さは東京や西欧大都市とそう変わりはないというトーンだったのである。

 しかし、そんなファッショナブルな雰囲気が確かになくもなかった。コタ(下町の中心)のグロドック・プラザに行ってみると、最新のAV機器やコンピューターなど電器製品だけを売る店を集めた超近代的なビルがある。もちろん、周辺には昔ながらのチャイナタウン、問屋街もあるのであるが、一歩足を踏み入れると、東京と言われてもニューヨークと言われても区別がつかないそんなきらびやかさなのである。

 仰天したのは、ジャカルタ湾に面した一大リゾート地風高級住宅地である。入り江には白いクルーザーが並んでいる。それこそ、インドネシアとは思えない別天地の趣であった。もちろん、そのすぐ近くにはバラックが密集する地区がある。昔ながらの貧困の風景もここそこにある。しかし、刻一刻変わって行くのが都市である。ジャカルタも随分変わった。

 そうしたジャカルタで、住宅問題に対するアプローチも少しづつ異なった展開を取り始めているようだ。例えば、新しい形の集合住宅建設が本格化しようとしているのである。

 その先端をきっているのは、スラバヤ工科大学のJ.シラス教授である。十年来の旧知というか、僕のインドネシアにおけるカウンターパートというか、恩師といっていい先生の、その活躍ぶりは実に頼もしい限りである。

 昨年、彼個人は国際居住年記念松下賞を受賞したのであるが、今年はスラバヤ市が一九八六年のアガ・カーン賞に続いて、国連の人間居住センター(ハビタット)の賞を受賞することが決まったという。今回スラバヤ訪問は、その受賞式のため市長以下の一行がニューヨークへ出発する直前のあわただしい時機であった。

 そのJ.シラスがスラバヤのみならず、ジャカルタでもプロジェクトを手掛けている。そのスラバヤでの活動が評価を受けてのことである。また、インドからも声がかかっている。その実績からみて、その活動が注目を集めるのは当然といえるであろう。

 ジャカルタでのプロジェクトはプロガドンPulo Gadongのプロジェクトである。今回、建設中のプロガドンを見てきたのであるが、基本的なコンセプトは、もちろん、スラバヤのデュパッDupakとソンボSomboと同じであった。今のところデュパッが完成、ソンボがほぼ完成といったところである。何がその特徴なのか。

 J.シラスは、何も特別なことはない、自然に設計しているだけだ、どうしてこうしたことが、ジャカルタやタイやインドでできないのかその方が不思議だ、というのであるが、実際はそうでもない。

 そのハウジング・プロジェクトの特徴は、共用スペースが主体になっているところにある。具体的に、リビングが共用である、厨房が共用である、カマール・マンディー(バス・トイレ)が共用である。もう少し、正確に言うと、通常の通路や廊下に当たるスペースがリッチにとられている。礼拝スペースが各階に設けられている。厨房は、各戸毎に区切られたものが一箇所にまとめられている。カマール・マンディーは二戸で一個を利用するかたちでまとめられている。まとめた共用部分をできるだけオープンにし、通風をとる。その特徴を書き上げ出せばきりがないけれど、およそ、以上のようである。

 このハウジング・システムをどう呼ぶか。立体コアハウス、マルチプル・コアハウスはどうか、というのが僕の案であった。コア・ハウスが立体化している、という意味である。しかし、J.シラスは問題はシェルターとしての住居だけではない、ことを強調したいという。

 J.F.ターナーはマルチ・パラダイム・ハウジングを提案しているらしい。J.F.ターナーとは、『ハウジング・バイ・ピープル』、『フリーダム・トゥー・ビルド』の著者で発展途上国のハウジング理論の先導者として知られる。昨年、ベルリンで会った時に、スラバヤの計画を見てそういう概念が話題になったのだという。

 マルチ・ディメンジョナル・ハウジングと呼ぼうと思う、というのがJ.シラスの答である。多次元的ハウジング、直訳すればこうなろうか。

  デュパッやソンボを訪れてみると随分活気がある。コモンのリビングというか廊下がまるで通りのようなのである。そこに、カキ・リマ(屋台)ができ、作業場ができ、人だかりができるからである。二階であろうと三階であろうと、すぐにトコ(店舗)もできる。カンポンの生活そのままである。

 シェルターだけつくっても仕方がない、経済的な支えもなければならないし、コミュニティーの質も維持されなければならない。マルチ・ディメンジョナル・ハウジングというのは、経済的、社会的、文化的、あらゆる次元を含み込んだハウジングという意味なのである。

 何も難しいことではない。カンポンがそうなのだ。カンポンでの生活を展開できるそうした空間、そして仕組みを創り出すこと、そのモデルはカンポンである。というのがJ.シラスの持論である。

 J.シラスの場合、経験を積み重ねながら、よりよいデザインを目指すそうした姿勢が基本にある。デュパッの経験はもちろんソンボに生かされている。特に、共用のキッチン、カマール・マンディーのありかたにはもう少し試行錯誤が必要だ、というのが今回も話題になった。

 赤い瓦の勾配屋根を基調とするそのデザインは、カンポンの真直中にあって嫌みがない。素直なデザインの中に力強さがある。

  

2023年1月3日火曜日

高根村・日本一かがり火まつり,雑木林の世界37,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センター,199209

 高根村・日本一かがり火まつり,雑木林の世界37,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センター,199209

雑木林の世界37

飛騨高山木匠塾・第二回インターユニヴァーシティー・サマースクール報告

高根村・日本一かがり火まつり

                        布野修司

 五月号でご案内した飛騨高山木匠塾・第二回インターユニヴァーシティー・サマースクール(七月二五日~八月二日)をほぼ予定どおり終えた。参加者は、ピーク時で八〇名、合わせて九〇名近くにのぼった。この「雑木林の世界」を読んで参加した人たちが十二名、感謝感激である。

 主な参加大学は、芝浦工業大学、東洋大学、千葉大学、京都大学、大阪芸術大学の五校。もちろん、単独の一般参加もあった。教師陣は、太田邦夫塾頭以下、秋山哲一、浦江真人、村木里絵(東洋大学)、藤澤好一(芝浦工業大学)、安藤正雄、渡辺秀俊(千葉大学)、布野修司(京都大学)。それに今年は、大阪芸術大学の三澤文子、鈴木達郎の両先生が若い一年生(一回生)を引き連れて参加下さった。三澤先生には、特別にスライド・レクチャーもして頂いた。

 極めて充実した九日間にわたるスクールの内容のそれぞれはとても本欄では紹介しきれない。いくつかトピックスを振り返ってみよう。

 なんといってもハイライトは足場丸太組み実習である。講師として、わざわざ藤野功さん(日綜産業顧問)が横浜から来て下さった。藤野さんは重量鳶の出身である。特攻隊の生き残りとおっしゃる大ベテランなのだが、若い。今でも十分現役が勤まる。外国にもしばしば指導に出かける大先達である。そうした大先生が二十歳の若者に負けない体力、気力を全面にたぎらせて、精力的に指導にあたって下さった。

 塾生のノリは明らかに違う。単なるレクチャーだと眠くなってしまうのであるが、実習となると生き生きしてくる。現場で学ぶことはやはり貴重である。

 藤野さんが到着した夜、早速講義である。四時間でも、五時間でも話しますよ、聞かないと損ですよ、というわけである。まずは、ロープ術である。キング・オブ・ノットと言われる、世界共通の基本の結び方から、「犬殺し」など数種の結び方を教わった。まるで手品のような早業なのであるが、よくよく理解すると、成るほど知恵に溢れた縛りかたである。ヨットや山登りをやるのならともかく、ロープの使い方など日常生活では習うことがない。極めて新鮮であった。

 ロープの結び方をマスターした翌日は、いよいよ、足場丸太組実習である。全員参加でステージをつくったのであるが、まずは丸太の皮剥きである。柄の長い鎌とナタ出で皮を剥いでいくのであるが、結構時間がかかる。そして、一方、丸太を縛る番線をみんなで準備した。これはなれるとそう難しくない。準備ができると、いよいよ組立である。

 番線を締めるシノの使い方が難しい。きちんと締めないとガタガタである。いっぺん失敗するとその番線は使えない。番線をいくつも無駄にしながらも、皆だんだん慣れてきた。うまく行き出すと一人前の鳶になった気分である。階段もつけ、梯子もつくってしまった。完成はしなかったものの、筏つくりに挑戦しようとしたグループもいる。

 藤野さんは、安全と集団の規律には厳しい。朝はラジオ体操で始まり、決められた時間と場所でしか喫煙は駄目である。当たり前のことだけれど、なかなかできない。若い諸君のだらしなさにはイライラされっぱなしであった。それでも、皆が一生懸命だったのを認められたのか、来年も来てやるとおっしゃった。何をつくろうか、今から楽しみである。

 測量実習では、敷地の測量を行った。来年以降の施設整備のためのベースマップとするためである。二つの棟をどう改造するか、また、どう結びつけるか、いささか不自由している風呂の問題をどうするか、バイオガス利用はどうするか、様々な意見が出始めている。来年は、大工仕事も実習になるかもしれない。

 今年は、切り出し現場および「飛騨産業」に加えて、製材所(安原木材)の見学を行った。また、オークヴィレッジと森林匠魁塾にもお世話になった。見学だけでは何かがすぐ身につくということではないけれど、木への関心を喚起するには百聞は一見に如かずである。飛騨の里というのは、木のことを学ぶには事欠かない、実にふさわしい場所である。

 渓流が流れ、朝夕は寒いぐらいに涼しい。森に囲まれ、飛騨高山木匠塾の環境は抜群である。野球大会や釣りなどリクレーションも楽しんだ。まだ、まだ、ハードスケジュールであったけれど、昨年よりはスケジュールの組み方はうまくいったように思う。食事の改善は見違える程であった。リーダーの工夫でヴァラエティーに富んだ食事を楽しむことができた。

 何よりも、学生にとってはそれこそインターユニヴァーシティーの交流がいい。特に、日本の東西の大学が交流するのはなかなか機会がないから貴重である。日本の臍といわれる飛騨高山はそうした意味でもいいロケーションにある。

 飛騨高山木匠塾は、実に多くの人々に支えられて出発しつつある。わが日本住宅木材技術センターの支援はいうまでもないのであるが、実際には久々野高山営林署(新井文男署長)の支援が大きい。また、地元、高根村の御理解が貴重である。

 ところで、その高根村で毎年八月の第一土曜日、「日本一かがり火まつり」が開かれる。昨年はみることができなかったのであるが、今年は最後にみんなで出かけて楽しんだ。

 とにかく、すごい。勇壮である。高根村と営林署の御好意で松明行列に残った全員で参加したのであるが、滅多にない体験である。火を直接使ったり、見たりする経験は、日常生活においてほとんどなくなりつつあるのであるが、原初の火に触れる、そんな感覚を味わうことができたような気分であった。わずかな時間であったが、高根村の企画部の人たちと飛騨高山木匠塾の塾生とささやかな交流をもつことができた。来年は、是非、飛騨高山木匠塾で店を出して欲しい、という要望があった。また、祭の出し物を何か出して欲しいという、要望もあった。

 「かがり火祭」は村を挙げての大イヴェントである。考えてみれば、大変忙しい時期にお邪魔して迷惑をかけているわけである。来年からは少しはお手伝いをしなければ申し訳ない。時間がかかるかも知れないけれども、飛騨高山木匠塾が根づくために、高根村の皆さんとの交流をさらに深めていくことは不可欠なことである。