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2025年11月7日金曜日

デルフト:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日

 デルフト:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日

C21 デルフトDelft

  アムステルダムを含め、デルフト、ライデン、ハーレムといった北海沿岸の「低地」地方の諸都市は、運河都市kanaal stedenと呼ばれる。「低地」地方の住人は、古来、テルプterpと呼ばれる人工的なマウンドを築造し、堤防=ダイクdijkによって干拓を行い、ポルダーpolderと呼ばれる干拓地をつくって居住してきた。ライデンは、スペインのライデン包囲(157374)に耐えた砦ブルフトburchtのある小高い丘を中心に発展してきた町である。ダイクによってポルダーをつくることによって居住地がつくられ、同時に運河が張り巡らされる建設方法は各都市共通である。ダムdam=堰、スライスsluis=水門の設置は、ポルダー建設に不可欠であり、アムステルダム、ロッテルダムという名称はまさにダム建設がその町の起源となっていることを示している。

 オランダの都市形成は、以上のように、ポルダー形成と排水のシステムによって理解することができる。まず、河川(運河、排水路)の堤防沿いの帯状の片面ポルダー型集落がその原型である。続いて両面ポルダー型の集落が発展する。そして、ダム、水門、水路(運河)の配置によってヴァリエーションが生まれる[1]。ロドヴィコ・グッチアルディニが絶賛した[2]というデルフトについてその形成過程を見ると以下のようである。

デルフトがウィレムⅡ世から都市自治の特許状を獲得するのは1246年であるが、その名は、フィレー川とスヒー川を繋ぐ水溝=デルフに由来する。中央にアウデ・ケルク(旧教会、1200頃)のある並行するアウデ・デルフト(1100頃)とニーウ・デルフトで囲われる街区が原型である。1070年に建てられたゴドフリー公爵一族の城を中心に発達してきた。二つの運河の北側に、北東に向けて斜めに走る運河オーステインデOosteinde(東橋)が整備され、3本の運河が基本的骨格を形成する。デルフトは交易の中心地として発展していくが、バター、織物、敷物、そしてとりわけビールの醸造で栄えた。ニーウ・デルフトの北側に、現在、新教会(13831510)と市庁舎[3]のある矩形の広場が1436年にフィリップ善良公から授与され、行政的にも地理的にも都市の統一がなされた。16世紀初頭には、他の運河都市と同様1万人規模の都市に成長していた。

 1536年の大火、そしてその直後に襲った伝染病で市は一旦衰退するが、オランイエ公ウイリアム[4]1572年に移住してきた頃にはかつての栄光を取り戻している。地図を見る限り1582/88年から1609/17年の間に大きな変化はない。北側に大きな稜堡が設けられたのは1634/35年の地図以降である。1645年に起きた弾薬庫の大爆発で多くの建造物が破壊されたが、17世紀後半に市の中心部は再建され今日に至る。



[1] 石田壽一、『低地オランダ 帯状発展する建築・都市・ランドスケープ』、丸善株式会社、1998

[2] ミヒール・C・プロンプ、「17世紀デルフトの町を訪ねて」、『フェルメールとその時代』、毎日新聞社、2000

[3] 16世紀初頭の建設。Hendrick de Keyserの設計になる。

[4] 城壁のないデン・ハーグより防御しやすいデルフトを選んだ。にも関わらず、反プロテスタントによって、オランイエ公ウイリアムは1584年にデルフトの自宅プリンセンホーフで暗殺された。ヘンドリック・デ・ケイゼルによってデザインされたその墓は新教会に置かれている。デルフトがウィレムⅡ世から都市自治の特許状を獲得するのは1246年であるが、その名は、フィレー川とスヒー川を繋ぐ水溝=デルフに由来する。中央にアウデ・ケルク(旧教会、1200頃)のある並行するアウデ・デルフト(1100頃)とニーウ・デルフトで囲われる街区が原型である。1070年に建てられたゴドフリー公爵一族の城を中心に発達してきた。二つの運河の北側に、北東に向けて斜めに走る運河オーステインデOosteinde(東橋)が整備され、3本の運河が基本的骨格を形成する。デルフトは交易の中心地として発展していくが、バター、織物、敷物、そしてとりわけビールの醸造で栄えた。ニーウ・デルフトの北側に、現在、新教会(13831510)とHendrick de Keyserの設計になる市庁舎のある矩形の広場が1436年にフィリップ善良公から授与され、行政的にも地理的にも都市の統一がなされた。16世紀初頭には、他の運河都市と同様1万人規模の都市に成長していた。

 1536年の大火、そしてその直後に襲った伝染病で市は一旦衰退するが、オランイエ公ウイリアム[1]1572年に移住してきた頃にはかつての栄光を取り戻している。地図を見る限り1582/88年から1609/17年の間に大きな変化はない。北側に大きな稜堡が設けられたのは1634/35年の地図以降である。1645年に起きた弾薬庫の大爆発で多くの建造物が破壊されたが、17世紀後半に市の中心部は再建され今日に至る。

 

【参考文献】

·        Edwards, Henry Sutherland. Old and new Paris: its history, its people, and its places (2 vol 1894) 

·        Fierro, Alfred. Historical Dictionary of Paris (1998) 392pp, an abridged translation of his Histoire et dictionnaire de Paris (1996), 1580pp

·        Horne, Alistair. Seven Ages of Paris (2002), emphasis on ruling elites excerpt and text search

·        Jones, Colin. Paris: Biography of a City (2004), 592pp; comprehensive history by a leading British scholar excerpt and text search

·        Lawrence, Rachel; Gondrand, Fabienne (2010). Paris (City Guide) (12th ed.). London: Insight Guides. ISBN 9789812820792.

·        Sutcliffe, Anthony. Paris: An Architectural History (1996)








 


 



[1] 城壁のないデン・ハーグより防御しやすいデルフトを選んだ。にも関わらず、反プロテスタントによって、オランイエ公ウイリアムは1584年にデルフトの自宅プリンセンホーフで暗殺された。ヘンドリック・デ・ケイゼルによってデザインされたその墓は新教会に置かれている。


2025年11月6日木曜日

パラマリボ:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日

 パラマリボ:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日


L19 ニューヨークと交換された街―南米ワイルドコーストの木造首都―

パラマリボParamaribo,パラマリボ地方,スリナムSurinam

 


スリナム(旧蘭領ギアナ)の首都パラマリボの起源は、1499年にアメリゴ・ヴェスプッチに率いられた船団によるいわゆる南米ワイルドコーストが発見に遡るが、本格的に植民地化されていくのは17世紀以降で、1651年に英国人フランシス・ウィルビー卿がタバコとサトウキビ農園を開発し成功したことに始まる。さらに、166567年の第二次英蘭戦争中にオランダが占領、戦後、ニーウ・アムステルダム(現ニューヨーク)と交換されたのがスリナムである。以後1975年の独立まで約300年、オランダ支配が続くことになる。パラマリボの名は、スリナム川河岸の先住民の村であったパルマルボParmarboあるいはパルムルボParumurboに由来する。

奴隷制廃止以後、プランテーション経営のために中国やインド、ジャワ、カリブ地域などから大量の労働力が導入され、首都パラマリボにはそれら多様な民族が混住する。また市街地中心部には植民地時代の建築が多数残り(図①)、2002年に世界文化遺産へ登録されている。

 オランダはまず、スリナム川河口にフォート・ゼーランディアを建設する。要塞は正五角形の各頂点に稜堡を備えたプランで、周囲には濠も建設された。オランダ支配の下で次々とプランテーションが開発され、要塞の西に市街地が形成されるようになる。その形成過程は以下のようである(図②)。

① 17世紀後半にゼーランディア要塞の西に市街地が広がり始める。排水のための運河に平行に、貝殻層の土地に沿うように3本の主要街路が 設けられ、その後の市街地発展の方向を決定づける。

② 18世紀初頭に3本の主要街路がさらに西に延長され、要塞から約2キロほど西まで市域が拡大する。また、より河口に近いコランティン川との合流地点に新たな要塞が築かれた。

③ 18世紀半ばに、従来の西方向への拡張に対し、ほぼ45度の角度をなす斜めのグリッド・パターンの市街地が形成される(図③)。

18世紀後半になると、プランテーションの維持を管理人に任せた農場主が多数パラマリボに移住するようになり、そうした人口増加を反映して、フォート・ゼーランディアの北および従来の市域の南の運河によって区切られた地区に、新たな居住地区が形成されていくことになった。

1863年に奴隷制が廃止され、自由の身となった多くのアフリカ系黒人がパラマリボに移り住むようになった。またプランテーション維持のため、インド、インドネシアを中心とした国々から多くの労働力を輸入したことで人口が急増し、市域は北側と西側を中心にさらに郊外へと拡大していく。

市街地の建物はほとんど木造であったため、しばしば火災がおこり、特に1821年と1832年には大火によってパラマリボ中心部の大部分の建物が灰と化した。今日、17世紀、18世紀の建物は数えるほどしか残っていない。

1800年頃までにパラマリボ中心部の骨格が形成されるのであるが、大きくは18世紀半ばまでのプランテーション開発期における要塞および都市機能の整備による都市域の拡張と、18世紀後半以降のプランテーションの衰退に伴うパラマリボへの人口の集中による居住地の拡張という2つの局面がある。そして市街地においては、現在も当時建設された街区ブロックが、ほとんどそのままの形で維持されているのが大きな特徴である。

 パラマリボの市街地はスリナム川に注ぐ排水用の運河によって土地が分割されている。市域の拡張に際しては、そうした運河で区切られた地区が1つの拡張の単位となっていた。基本的な街区割りは、正方形グリッドに基づいているが、運河や斜めの街路と接する部分では台形のブロックがつくられている。当時オランダではいくつかの寸法単位が使用されていたがパラマリボで用いられたのはラインラントの単位ラインラント・ロット=12フィート(377.7cm)である。1ラインラント・フィートは約31.48センチメートルとなる。基本となる正方形ブロックは、東西に3分割された内の東西両端の敷地がさらに南北に3等分されている(図4)。

 オランダ西インド会社WICによって1718世紀に建設された交易拠点は、アジア、アフリカ、南北アメリカの広範囲におよび、その数は150以上にのぼるが、その中で、パラマリボは、首都とは言え、人口25万人に満たない小都市にすぎない。そのパラマリボは、その起源において、ニーウ・アムステルダムと交換された植民拠点である。大メトロポリスとったニューヨークと比べると実にユニークな珠玉のような木造首都である。

 

 参考文献

 布野修司編(2005)『近代世界システムと植民都市』京都大学学術出版会。

 Bubberman, F.C. et al Links with the Past: The History of the cartography of Suriname 1500-1971”, Theatrum Orbis Ter.r.arum B.V., AmsteRdam, 1973

Fontaine, Jos, “Zeelandia De Geschiedenis van een Fort”, De Walburg Pers Zutphen, 1972

Fontaine, Jos,” Zeelandia De Geschiedenis van een Fort”, De Walburg Pers Zutphen, 1972

Goslinga, Cornelis Ch., “A Short History of the Netherlands Antilles and Surinam”, Martinus Nijhoff, Hague, 1979

Goslinga, Cornelius Ch., “The Dutch in the Caribbean and in the Guianas 1680-1791”, Van Gorcum, Maastricht, 1985

Urban Heritage Foundation Suriname “Plan for the Inner City of Paramaribo”, Vaco Press, 1998

Urban Heritage Foundation Sruriname “PARAMARIBO Image of the past, vision on the future”, Paramaribo, 1997






 

 


2025年11月5日水曜日

レシフェ:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日

レシフェ:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日


L23 ブラジル都市の起源―丘と低地の興亡―

都市名 City,地域名 Region,国名 Country

レシフェRecife/オリンダOrinda、ペルナンブコPernambuco, ブラジルBrazil

 

レシフェは、人口1555039人(2012年)のブラジル、ペルナンブコ州の州都である。

1500年にP.A.カブラルによって発見されたブラジルは、トルデシーリャス条約(1494)に基づいてポルトガルの植民地とされてきた。ポルトガルは、当初、海岸線に沿って15のカピタニアを設けるが、1551年にブラジル司教区を創設、ペルナンブコのオリンダを首都とした(世界文化遺産に登録(1982年)図①)。

このオリンダを襲ったのがオランダ西インド会社WICで、19302月にオリンダ攻略に成功する。以降、1654年にポルトガルによってブラジルから撤退を余儀なくされるまで24年間、オランダはブラジルに拠点を確保する。ポルトガルは丘の上にオリンダを築き、低地にオランダはレシフェを築いた。都市建設にもそれぞれ得て不得手がある。

オランダはまず、レシフェの町を、続いてマウリッツスタットをアントニオ・ヴァス島に建設する。要塞建設に続いて、行政施設や多くの修道院や教会が建設され、多くの人々が移住し、レシフェは、産業と貿易の中心となる。

レシフェには、オランダと同じような高密度の住宅地が形成された。住居の形式もオランダ風で、外部階段、カーブした戸口、三角形や鐘型の破風、先端装飾のついた破風、凹型と凸型のカーブの混合した破風を特徴とした。ダッチ・ゲイブル(切妻)が使用されたのは、単に郷愁からではなく、典型的なオランダの木組みは、伝統的なポルトガルの寄せ棟住宅よりも経済的で、都市的集住に適していたからである。

アントニオ・ヴァス島(西)に向けて腰を折った海老のような形をした市街は、同じ形に中央を走る街路の両側に街区が形成されていた(図②)。 折れた腰骨の辺りに波止場と広場があり、左(西)右(北)に市街は分かれる。オランダ人たちは西に住み、黒人他は北の街区に住んだ。北の街区には市場があった。西端にマウリッツスタットへの橋が架けられ(1644年)、北端には魚市場が設けられた。今日にまで、橋の名前(ポンテ・マウリシオ)にマウリッツの名前が残されているのは、この橋の建設が町の発展の原点だからである。

マウリッツスタットの都市計画は極めて体系的に構想され、中心にまっすぐ南に流れる運河を通し、平坦な市街地はグリッド街区に分割、稜堡は東西に規則的に並んでいる。

 運河と堀のシステムがまず目につく。ニーウ・マウリッツスタットの中央に南北真っ直ぐに運河が掘削され、カピバリベ川 とバピバリベ川の両方を繋ぐ。エルネストス要塞の周りを囲む堀は、バピバリベ川に連結され、水門が流れ制御する。この運河のシステムは防御の意味ももつ。明らかにオランダの都市計画が持ち込まれている。

 同時期に建設が進められたバタヴィアと同様、マウリッツスタットの建設は、オランダ帝国の威信の表現であった。ブラジルにおけるユートピア建設のために、マウリッツは、ブラジルの首都の美しさをヨーロッパに知らしめるために、そしてレシフェを美しく創り上げるために、科学者、技術者、医者、芸術家、建築家など約45人のオランダ人を集めている。マウリッツが目指したのは、科学と芸術の中心となる都市建設であった。

 ニーウ・マウリッツスタットの計画案にはシモン・ステヴィンの理想都市計画案の強い影響がある。ネーデルダッチ・マテマティカで学んだエンジニアはその理論に当然触れていた。グリッド・パターンの街路体系、2本に1本の道が稜堡に続くこと、骨格としての運河体系、2つの中央公共広場、全体が堀に囲まれていること、道路と運河と建物と広場のバランスの取れたプロポーションなどにそれが窺える。フロートクワルティール(マウリッツスタット)とニーウ・マウリッツスタットを繋ぐ都市の拡張システム、運河システムは最もステヴィン・モデルに従う点である。

 近代のレシフェの核は、レシフェの中央からポンテ・マウリシオを渡りサント・アントニオ(かつてのアントニオ・ヴァス島)を横切って最終的には本土へと続く軸で形成されている。しかし、18世紀初頭、マウリッツスタット(アントニア・ヴァス)の水路と運河は規模も小さくなり、ほとんどの道路パターンは変更される。1808年のブラジル独立以後、大規模な土木工事が行われ、市域は拡大していく。1910年に地方自治体によって大規模な再編成がなされ、ほぼオランダの残したものは消える(図③)。

現在レシフェ地区Bairro do Recifeの保存修景計画が進められつつあり、12の建造物が保存建物に指定されている。18世紀末頃、統治者であったホセ・セザール・デ・マネセスJose Cesar de Manezesによって、フライブルフは経済的な理由から破壊された。マウリッツの邸宅は1820年に保存された状態で残されていたが、今日統治者の宮殿がその敷地に建っている。マウリッツの余暇のための住宅、ボン・ヴィスタは17世紀の後半に消えた。ボン・ヴィスタの名前は現在ホテルと商業ビルが建ち並ぶ地区の名として残っている。ヨハン・マウリッツの橋は新しい橋に取って代えられた。

 

参考文献

布野修司編(2005)『近代世界システムと植民都市』京都大学学術出版会。

Hannedea Van Nederveen Meerkerk, “Recife The Rise of a 17th-Century Trade city from a Cultural-Historical Perspective”, Van Gorcum, Assen/Maastricht, 1989

E.van den Boogaart “Johan Maurits van Nassau-Siegen 1604-1679 A Humanist Prince in Europe and Brazil”, The Johan Maurits van Nassau Stichting, Den Hague, 1979





 

 


2025年11月4日火曜日

リオ・デ・ジャネイロ:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日

 リオ・デ・ジャネイロ:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日


L29 カーニヴァルのメガ・シティ

リオ・デ・ジャネイロ Rio de Janairo,リオ・デ・ジャネイロ州,ブラジルBrazil

 リオのカーニヴァル(謝肉祭)で世界的に知られるリオ・デ・ジャネイロは、ブラジルを代表する最古の都市のひとつであり、サンパウロに次ぐ第2位、南米でもブエノスアイレスに次ぐ第3位の大都市圏人口が1200万人を超えるメガ・シティである。世界的に名の知られる保養地コパカバーナ海岸通りをはじめとして、グアナバラ湾口と人工的な海岸線 、ニテロイの歴史的要塞群などが「リオ・デ・ジャネイロ:山と海との間のカリオカの景観群」として、世界文化遺産に登録(2012年)されている。

ブラジルの植民地化は、P.A.カブラル艦隊の漂着(陸地発見)(1500年)に始まるが、初期の主要産品は、染料の原料パウ・ブラジル(ブラジル蘇芳)である。ポルトガル王室は、アマゾン川河口域からラプラタ川河口域までの長い海岸線を15の地区に分割して、それぞれに受託統治者(ドナトリオ)を置くカピタニア制を採るが、拠点とした主要な港市は、北部アマゾン川流域の入口となるベレンとサン・ルイス、そして、後に砂糖プランテーションの中心となるレシフェとサルヴァドル、そして、内陸部につながるリオ・デ・ジャネイロ、サントス(サンパウロの外港)である。

リオ・デ・ジャネイロの地にポルトガル人探検家ガスパール・デ・レモスが到達したのは15021月であった。グアナバラ湾の奥が狭まっていたのを大きな川と誤認し、発見した月に因んで命名した名がリオ・デ・ジャネイロ(「一月の川」)である。

1555年にフランスが進出して拠点(南極フランス)を建設したが、ポルトガルはそれを撃退し(1567年)、都市建設を本格化する。ポルトガル人たちは沿岸部に壁を白く塗った住居を建てて住んだ。先住民が白人を「カリオカ」(白い家)と呼ぶのはそのことに由来する。

16世紀に入って、ポルトガル領ブラジルは、1621年に設立されたオランダ西インド会社WICの標的となる。ブラジル木と砂糖が目的であった。サルヴァドルの占領はすぐさま奪還するが(1625)、オリンダを奪取され(1630)、レシフェを拠点に1654年までペルナンブコ地域はオランダによって支配されている。ポルトガルの植民地経営が本格化するのは17世紀後半以降である。17世紀までのリオ・デ・ジャネイロは、砂糖栽培を中心とする製糖工場がある小さな港町にすぎなかった。

18世紀前半、内陸のミナスジェライス州で金鉱が発見されてその集散地であるサンパウロが発展し始めるが、1725年にミナスジェライスとつながる陸路が開通すると、リオ・デ・ジャネイロは、その積出港としても発展し始める。そして、1760年には、ブラジル植民地の首府となる。この時点での人口はサンパウロが約36000人、リオ・デ・ジャネイロは約30000人とされるが、1780年には約39000人となり、サンパウロを上回っている。最古の地図をみると、四隅に四方突出型の要塞を置いたグリッド街区が描かれている(図1)。カリオカ水道橋は18世紀前半に建設されたものである。カーニヴァルは1723年に遡るという。

1808年に半島戦争(スペイン独立戦争)が勃発すると、ポルトガル王国は、ナポレオン軍の侵入を逃れて、宮廷をリスボンからリオ・デ・ジャネイロに移す。すなわち、リオ・デ・ジャネイロは、ポルトガル・ブラジル連合王国の首都となる。1821年にリスボンに再遷都されるが、ブラジルの独立派が王太子ドン・ペドロを擁立してブラジル帝国の独立を宣言(1822年)、リオ・デ・ジャネイロはブラジル帝国の首都となる。

帝国の首都として行政機能の集中したリオ・デ・ジャネイロは順調に発展していくことになる。1840年の地図には、現在のセントロ地区の街路パターンがより詳細に描かれ、海沿いに、また、現在の共和国広場の西にも市街地が拡がっていることがわかる(図2)。

19世紀後半になるとブラジル初の鉄道が敷設され、ガス燈や電信、上下水道といった近代都市としてのインフラが整備されていく。1899年に帝政が廃止され、共和制に移行するが、ブラジル連邦共和国の首都として、急速に人口が増加し、市街地も拡大していった。1900年には80万人を超える大都市となる。

20世紀初頭、第5代大統領ロドリゲス・アルヴェスの下で都市改造にあたったのは都市計画家のフランシスコ・ペレイラ・パソスである。東西南北の幹線道路が整備され、コパカバーナやイパネマへと通じる直通トンネルが建設されたのはこの時期である。市街地は南に大きく延びていくことになる。第二次世界大戦後も、内陸部や北東部から職をもとめて大量の人々が流入し、人口増加は続いた。経済活動の重心は徐々に内陸部のサンパウロ市に移り、1960年には、首都はブラジリアに移されるが、多くの観光客を集める都市として発展してきている。2016年には南米で初めてオリンピックが開催された。

一方、周辺の丘の斜面には、中心部の超高層が林立する現代都市の景観とは対比的な、ラテンアメリカ最大のロシーニャ地区などファベーラと呼ばれる不法占拠地区が拡がっている。


【参考文献】

伊藤秋仁・住田育法・冨野幹雄(2015)『ブラジル国家の形成―その歴史・民族・政治』晃洋書房

住田育法編(2009)『ブラジルの都市問題―貧困と格差を越えて』春風社


【図写真】

1 リオ・デ・ジャネイロ 1780年(Rio de Janeiro Library of Congress

2 リオ・デ・ジャネイロ 1840年(DUFOUR, A.H.. House of Bernard, Paris.  

3 ファベーラの景観 撮影 伊藤宏


2025年11月3日月曜日

リマ:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日

 リマ:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日


L16 王たちの都

リマ Lima、リマ郡 Provincia de Lima、ペルー共和国 Piru Republika

リマは、ペルー共和国の首都であり、政治・文化・金融・商業などの中心として人口800万人を抱える都市であり、南米でも有数のメガ・シティある。

市内をリマク川が東から西に流れ,街は旧市街地と新市街地に2分されるが,旧市街地のリマ・サントロ地区は1988年にユネスコの世界文化遺産に登録されている。

リマ市の設立は,フランシスコ・ピサロが、インディオ制圧のために拠点としていたハウハの町をリマ(王たちの都市La Ciudad de los Reyes)と名づけ建設宣言を行った1535118日とされる。フランシスコ・ピサロが2003隻の一団を率いてペルーに到達したのは1531年初頭である。ハウハすなわちリマの地は,インカ帝国以前の諸文明の興亡の中で,必ずしも中核的な地域ではなかったが、水質のいい水と燃料が得られ,リマク川を通じての海上交通の便がよかったこと,また地元のインディオのカシーケたちが敵対的でなかったことが理由としてあげられる。

ピサロは,リマ建設と平行してさらにトルヒージョを建設している(1535)。そして、リマの外港としてカジャオを建設したのは1537年である。どちらもスペイン植民都市の典型であるグリット・パターンの都市であり、都市が建設されてから市壁が建設されている。

リマは、ペルー副王領(15421821)の首都となり大きく発展していくことになる,南アメリカのスペイン帝国全体の首都として,16世紀から18世紀にかけて君臨した。王立教皇庁立サン・マルコス大学が置かれ,全ての銀はリマを通じてパナマ地峡経由でセヴィーリャに送られるなど政治経済宗教の中心であり続けるのである。

リマク川に近接してプラサ・マヨールが設けられ,カテドラルの建設が開始されたのは1544年である。プラサ・マヨールの北に副王邸,西にカビルド,東に主教会が配されているのはインディアス法(「フェリペⅡ世の勅令」1573)に適っている。当初の計画は,単純な正方形グリッドのパターンである。

ポトシ銀山が発見(1545)されて以降,さらに発展は加速されるが、16世紀末の段階では規模はそう大きくはなかった。1599年から1606年にかけてリマに住んだヒエロニムス会士ディエゴ・デ・オカーニャは,リマは村のようだと書いている。大半の住居は平屋もしくは2階建ての日干煉瓦造であった。リマは1615年には人口25000人を数えたとされる。それでも,1619年に描かれた絵をみると,そう巨大な都市のようには見えない(図1)。その人口の過半はインディオ,メスティーソ,黒人であった。

しかし、17世紀の前半には,少なくとも中心街区はスペイン風の景観を整えたと思われる。プラサ・マヨールの中心に,ペルー副王マルキス・デ・モンテスクラロスによって噴水が建設されたのは1606年である。バロック・スタイルのカテドラルの再建が開始されるのは1626年である1626年の図には,78)×11のグリッド街区が描かれている(図2)。半円形に大砲が配置されているのはユニークである。一連の都市図を見ると,街区規模は150×150(ヴァラ)と他と比べると大型である。特徴は畑や果樹園など郊外に余地を含んで市壁が建設されていることである。

しかし,リマは,その後安定的に発展することはできなかった。1655年には大地震にみまわれている。また,インディオとの関係は必ずしも良好とはいえず,1656年頃にはインディオの暴動が起こっている。さらに,1665年から1668年にかけては,鉱山主が植民地政府に反乱を起こしている。

スペイン王室は、海賊対策のために主要な都市に要塞建設資金を供給するが,最初にハバナに要塞が建設されたのは1558年である。続いて、ペルーに赴任した副王たちも,太平洋岸の港を要塞化する。カジャオの要塞化は1624年に行われ、リマ(1682) とトルヒージョ(16851687)にも市壁が設けられた(図3)。サント・ドミンゴ,ハバナ,ヴェラクルス,パナマに続いて,リマは14の市壁をもつスペイン植民都市のひとつである。

リマは1687年と1746年に大地震に見舞われる。カジャオは、1746年の大地震の津波で壊滅的被害を受けた。リマでも多くの建築物が破壊されたが、現在残っている歴史的市街地は、災害を逃れている。その後、大規模な都市計画が行われ,18世紀にはリマはさらに発展していくことになる。リマの市壁は破壊されたのは1872年である。

18世紀末のリマの人口は約5万人に過ぎない。19世紀末の段階でもせいぜい10万人(1875)であった。大きく変貌するのは1930年代以降である。1940年には大地震が起き,以降スラムが拡大し,第2次世界大戦後にはペルー各地から人々が移り住んできたことから市街が急速に拡大し,一大都市へと変貌していく。

人口は33万人(1931),66万人(1940),190万人(1961),342万人(1972),484万人(1981),643万人(1993),728万人(2004),847万人(2007),現在では1000万人にならんとする大都市である。ペルーの全体人口は約3000万人であり、典型的なプライメイト・シティ(単一支配型都市)である。

リマ旧市街のアルマス広場の周りには、統治時代に建てられた壮麗で豪華な建造物が数多く建ち並び、往年の繁栄を現在に残している。1988年にサン・フランシスコ修道院とその聖堂が世界文化遺産に登録された。1991年に登録範囲はかつてのプラサ・マヨール周辺の歴史地区全体に広げられ,そのオリジナル・グリッドを今日に伝えてくれている。 





) グリッド都市 -スペイン植民都市の起源、形成、変容、転生- 布野修司著 第Ⅴ章5王たちの都 リマ 




2025年11月2日日曜日

ポトシ:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日

 ポトシ:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日


L21 銀の帝都

ポトシPotosi , トマス・アリアス郡Tomás Frías Province、ボリビアBolivia

 

 ポトシはボリビアの南部、首都ラパスLa Pazから南東に約440km離れたアンデス山脈中の盆地に位置する。

メキシコでいくつかの銀鉱山が相次いで発見されたのち、ペルー副王領が設置されてまもなくポトシ(1545)、サカステス(1546)などの大鉱山が発見された。スペイン植民地帝国の鍵を握ったのは銀であり、スペイン植民地を支える最大の資源,財貨となった。ヨーロッパに大量に流入することによって,世界史の構造を変える大きな契機になる。そうした意味では,ポトシは,スペイン植民都市のひとつの典型ということができる。実際,「銀なくしてペルーなし」と言われ,16世紀半ばには人口16万人を擁すインディアス最大の都市となったのがポトシである 。ポトシの銀はリマの外港カジャオからパナマに向かい、そこから大西洋側のポルトベロ港(ノンブレ・デ、ディオス)へ上陸輸送され、セヴィージャに送られた。さらに、アカプルコ-マニラ-漳州のガレオン行路がアジアへ銀を運んだ。

ポトシ銀山が発見されてすぐに近くのチュキサカ(ラプラタ)からスペイン人が移住し,3000人のインディオが採掘に当たった。水銀アマルガム法自体は,セヴィージャ生まれのバルトレメ・デ・メディーナが1555年にメキシコのパチュカ鉱山で完成させていたものであるが,副王トレドは,その情報を得て,銀の溶解職人ペデロ・フェルナンデス・デ・ベラスコに命じて実験させ,ウアンカベリカ水銀鉱山を接収し,水銀の専売化を実現した上で本格導入をはかるのである。水銀アマルガム法はポトシ銀山の発展と不可分である。

各地の要塞を強化し,海軍も増強した上で,ビルカバンバのインカ軍を制圧,インカ帝国を滅亡させると,副王領内の巡察(ヴィシタ・ヘネラル)を行い(15701575,インディオ人口を把握し,領内の再編,統合を行う。年貢,徴税の基礎を築くとともに,インディオへの布教体制を再構築し,スペイン人に対しても異端審問所を設置,徹底化するなど教会体制を一新した。そして,ポトシPotosí 銀山へミタ労働制と水銀アマルガム法 を導入(1573)したことが,とりわけその名を歴史に残すことになる。


ペドロ・シエサ・デ・ペロンの『ペルー誌』(1553)の挿画(木版)(図Ⅰ)「ポトシ山Cerro de Potosi」を見ると,山の南側を流れる川を挟んで,川の北側に2つの教会らしき建物の他,比較的しっかりした建物が並んで描かれ,南側はより小さな建物が並んでいるように見える。スペイン人の住居とインディオの小屋を分けられていたのであろう。ただ,南側には広場と教会があるから町の中心は既に南側に設定されていたと考えられる。

 グリッド状の街区が形成され,さらに当初のグリッド街区を越えて都市が拡張していることが分かる(図Ⅱ)。このオリジナル・グリッドは,今日まで維持されている。

ポトシはスペイン植民都市の理念モデルの原型によって形成され、さらにグリットに従って拡張が行われたものだと考えられる。ポトシで精錬された銀は,ポトシ財務局を通じて,5分の1はスペインに運ばれ,王室の歳入に組み込まれた。残りの5分の4はポトシ財務局が捕捉しなかったものも少なくないとされるが,ペルー副王領に留まったわけではない。インディオにポトシを中心とする銀経済圏が成立することになった。ポトシ銀山における銀を精錬抽出するための原材料や資材(水銀,鉛,錫,銅,石炭,木材,・・・)は,ほとんど現地で調達することができた。ウアンカベリカ水銀鉱山にだぶつく水銀をメキシコに送る一方,ペルー副王領に対して様々なかたちで増税をはかり,資金調達に務めるのである。結果として,ポトシの銀はメキシコに流れることになった。当初は,ノンブレ・デ・ディオスからヴェラクルスに向かい,ハバナも中継点としながら,スペインとの交易ネットワークは強固に成立することになるのである(図Ⅲ、Ⅳ)。ポトシの銀は,一方で,アンデスを越えて黒人奴隷の交易拠点であったブエノス・アイレスに流れるのであるが,ブエノス・アイレスから直接セヴィージャへの直接移送は認められておらず,ポトシへの経済物資を供給するのが主目的であった。ポトシ銀山に水銀アマルガム法が導入された1573年は,アカプルコとマニラを結ぶガレオン船交易が開始された年でもある。中国の絹製品などが「新世界」に流れ出ることになると,銀も「東洋」に流れ出すことになった。

 19世紀になると、銀はすっかり枯渇し、独立に伴う戦乱も起こり、荒廃していった。19世紀末までは錫が大量に採掘されたが、これも現在ではほぼ枯渇している。

現在ではポトシ市内の造幣局の跡が博物館となっているなど、建物を含めた街全体が世界文化遺産となり、スペイン植民地時代の名残がある観光地になっている。赤茶色に染まる山「セロ・リコ」の裾野に広がるポトシの街は、赤い瓦屋根をもった家々が立ち並ぶ。また、街の中心地は、植民地時代を物語るような赤や黄色、水色に塗られた外壁と、出窓を有する住居が多くみられる。 


参考文献

布野 修司,「グリッド都市 スペイン植民都市の起源,形成,変容,転生」,京都大学学術出版会pp145-183,pp388-392

布野 修司,「近代世界システムと植民都市」,京都大学学術出版会,pp86-92




2025年11月1日土曜日

ブエノスアイレス:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日

 ブエノスアイレス:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日


L29 延長するグリッド

ブエノスアイレスBuenos Aires,ブエノスアイレス自治市 Ciudad Autónoma de Buenos Aires,アルゼンチン共和国 Aregentine Republic

 ブエノス・アイレスの起源は、ペデロ・デ・メンドーサ・イ・ルハンが建設した(1536年)「ヌエストラ・セニョ-ラ・サンタ・マリ-ア・デル・ブエン・アイレ(良き空気の我々の聖母マリア」(南郊のサン・テルモ地区に比定)に遡る。メンドーサの一団は,インディオの反抗に会い,ラプラタ川の上流に追いやられ,指揮を委ねられたフアン・デ・アヨラが翌年建設したのが、南アメリカで最も古い都市のひとつとなるアスンシオンである。多くのコンキスタドールが出陣していく「母都市」となり、ブエノス・アイレスの再征服もアスンシオンからなされた。

その都市形成の歴史を残された都市図をもとにみると以下のようである。最古の都市図(図①)は、フアン・デ・ガライによって再建され,ラ・トリニダードと命名された直後の1583年のものであるが,9×15の完結型のグリッド・パターンで,上下左右が延長される表現をとっている。単純な正方形グリッドで街区規模は140ヴァラ×140ヴァラ,街路幅11ヴァラでプラサ・マヨールは162ヴァラ×162ヴァラである。正方形街区は2×24分割される。

ブエノス・アイレスは,ラ・プラタ流域の産物,皮革などの輸出港として発展するまた,黒人奴隷の交易拠点ともなった。次に古い1708年の都市図(図②)には要塞が描かれ,その前に3街区分の大きな広場がとられている。全体は9.5×16の街区となっている。1720年の都市図には実際に建設された既成市街地が示されているが,建詰まっているのは4×9の範囲で,要塞も1街区規模である。周辺に建物が徐々に拡がりつつあり,境界ははっきりしていない(図③)。

「ブルボン改革」によって,ポルトガルの侵攻に対処するために,ラプラタ副王領がペルー副王領から分離するかたちで設置されて(1776),ブエノス・アイレスはその首都となり,開港される。1784年、そしてそれ以降の地図はその成長過程をそのまま示している。1700年に約2000人であった人口は、1778年には約24200人、1800年には約32000人に増加している。ブエノス・アイレスは、多くのスペイン植民都市が当初の計画とは異なった展開をして行ったのに対して、拡張可能な明快なグリッド・パターンの都市として計画され、その計画理念をもとに発展してきた、ある意味でユニークな都市である。

1810年の五月革命によって、ブエノスアイレスは自治を宣言し、1816年には正式に独立が宣言されるが、独立戦争は難航を極める。1825年のブラジル戦争時に国名をリオ・デ・ラ・プラタからアルヘンティーナに改名するが、その後も内戦が続き、国家統一がなされるのは1861年であり、ブエノスアイレスが首都になるのは1880年のことである。19世紀末の都市図(1885)の都市図(図④)をみるとほぼ一定の範囲が市街地されているのをみることができる。

19世紀を通じて人口は増加し続け、1855年のセンサスでは約93000人とされるが、国家統一以降、ヨーロッパからの移民が急増する。自由主義政権が積極的に招来したせいで、リアチュエロ川河口の港湾のラ・ボカ地区には、アルゼンチン・タンゴの発祥地となるイタリア人居住区が形成されたのがその象徴である。都市人口は、1875年には約213000人、1900年には約806000人に達する。

そして、さらに以降の人口増加は、まさにプライメイト・シティの典型である。1914年には163万人にわずか15年で倍増するのである。

アルゼンチンには広大な鉄道網が建設され、国内の全ての鉄道がブエノスアイレスを起点としたことが大きい。都市構造も、電車、自動車の導入によって変わっていく。ラテンアメリカで最初に地下鉄が建設されたのはブエノスアイレスであり、1911年のことである。そして、高層化も進行していくことになった。

19世紀中葉以降、貧困層の居住区がグリッド街区内に形成されてきたのであるが、20世紀に入って、郊外にも巨大な貧困者の居住区(ヴィジャ・ミセリアVillas miserias )が形成されていった。

ブエノスアイレスは、1920年代以降、ラテンアメリカ最大規模の都市として成長していくことになる。

ブエノスアイレス市の人口は現在300万人弱(289万人、2010)であるが、ブエノスアイレス州内の24のパルティードを加えたブエノスアイレス大都市圏の人口は、14122000人(UN Year Book)に達し、アルゼンチンの総人口約4000万の3割を超えている。世界有数のメガシティである。

 

参考文献

布野修司・ヒメネス・ベルデホ,ホアン・ラモン:グリッド都市-スペイン植民都市の起源,形成,変容,転生,京都大学学術出版会,2013

松下マルタ「ブエノスアイレスー南米のパリからラテン・アメリカ型首都へ」(国本伊代・乗浩子編(1991)『ラテンアメリカ都市と社会』新評論)

Romero, Jose Luis y Luis Romero(eds.)(1983), “Buenos Aires, Historia de cuatlo siglos”, Editorial Abril

Ross, Stanly and Thomas McGann(eds.) (1982), “Buenos Aires, 400 years”, University of Texas Press, Austin





 


布野修司 履歴 2025年1月1日

布野修司 20241101 履歴   住所 東京都小平市上水本町 6 ー 5 - 7 ー 103 本籍 島根県松江市東朝日町 236 ー 14   1949 年 8 月 10 日    島根県出雲市知井宮生まれ   学歴 196...