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2023年5月27日土曜日

集まって住む原理ー元倉真琴論,建築思潮Ⅴ,学芸出版社,199703

 集まって住む原理ー元倉真琴論,建築思潮Ⅴ,学芸出版社,199703

元倉真琴論

集まって住む原理

布野修司

 

 コンペイトウ

 元倉真琴はいわゆる派手な建築家ではない。奇を衒った造形を弄んだり、流行の哲学用語をまぶした難解な建築論を振り回したりする建築家とは資質が違う。

 熊本アートポリスの竜蛇平団地で日本建築学会賞を受賞することがなければ一般にはそう着目されなかったかもしれない。こつこつと作品を作り続ける堅実な建築家であり、そうだと思われてきた。

 同世代の建築家と比べてみるとわかりやすいだろう。元倉は東京芸術大学の出身だ。例えば、東大の石井和紘。彼の場合、口八丁手八丁の建築家(?)のイメージがあるが、建築家としてのデビュー以前になにがしかのスターであった。学生時代から建築ジャーナリズムでその名を轟かせていて、直島小学校による幸運なデヴューも二〇代半ばと早い。例えば、早稲田の重村力。彼は建築家’70行動委員会の闘士であり、やがて象グループのスポークスマンの役割を任じることになる。東京芸術大学の修士課程を終えて槙文彦の事務所へ入所することになる元倉の場合、ごくオーソドックスに建築を学ぶ道を選んだように思える。

 見るところ、東京芸大系の建築家には文章書きは少ない。いわゆる、寡黙に器用に建築を作り続けるタイプの建築家が多いという印象がある。吉村順三スクールと言えばわかりやすいのだろうか。良質のモダンリビング住宅を作る「うまい」住宅作家のイメージがある。『住宅建築』誌が比較的そうした作家の動向をフォローしているところだ。住宅の設計をベースにしてきた元倉真琴も基本的にはそうした住宅作家の系譜に位置づけられるのであろうか。

 しかし、僕の見る元倉真琴は少し違う。ただ、質の高い住宅を寡黙に作り続けるといったタイプでは決してない。僕は元倉真琴の少し下の弟の世代として接してきたのであるが、彼もまた石井和紘や重村力と同様、「スター」であった。彼は、井出健、松山巌らと「コンペイトウ」というグループを結成していて、真壁智治、大竹誠らの「遺留品研究所」とともに、なにやら面白そうなフィールド・スタディーを『都市住宅』誌などにたて続けに発表していたのである。僕ら(三宅理一、杉本俊多、千葉政継ら)が、「雛芥子(ひなげし)」と名乗るグループを結成したのは多分に「コンペイトウ」の影響であった。そして、「コンペイトウ」の書斎学派と言われた井出健、松山巌の二人と僕らは、すぐに出会うことになった。雑誌『Tau』を通じて知り合い、同時代建築研究会などで親しく交わることとなったのである。「コンペイトウ」という若き建築集団は七〇年代初頭の建築ジャーナリスムにその初々しい足跡を鮮やかに残している。

 

 「最近代式住宅の作り方」

 元倉真琴について、まず指摘すべきはその驚くべき一貫性である。その初心に拘り続ける軌跡になるほどと思う。もちろん、その初心が何で、一貫性が何かが問題である。元倉真琴の初心は、幸いなことに、『アーバン・ファサード』(住まいの図書館出版局 一九九二年)にうかがうことができる。自ら、その初心を振り返る一書をものしてくれているのである。

 初出の日付を見ると、一九七一年から七二年にかけての『都市住宅』誌がその舞台だったことがわかる。記憶が蘇ってくる。「雛芥子」のメンバーは、その頃大学の三,四年生だ。建築を学び始めた僕らは元倉の作品を貪るように読んだのである。その内容の中心は元倉真琴の修士設計であった。

 強烈な印象に残っているのは「最近代式住宅の作り方」である。

 」その作法は主に二つである。「置くこと」と「くっつけること」である。」。単純な言い切り方が新鮮だった。

 1.まず始めにキュービックなBOX 2.屋根を斜めにカットする 3.床を空間に自由に置く 4.はしごをかける 5.床を持ち上げる 落とし込む 6.装置を置く 内部空間完成 7.外皮に穴をあける 8.外部に出っ張り装置をつける 9.内部外部のペインティング

 ああこうやって住宅は設計するのか、簡単なんだ、などと受け止めたわけではない。チャールズ・ムーアなど当時話題を呼んでいた建築家の作法を見事に分析して見せた鮮やかさに何か(皮肉めいた意図)を感じたのだと思う。

 いずれにせよここにあるのは原理的な思考である。この原理的思考は、今日の「FH(フューチャー・ハウジング)保谷2」まで変わらない。そして、その思考がフィールド・サーヴェイに基礎を置いて組み立てられるところに大きな特徴がある。街を歩きながら、元倉真琴は考え始めた。変わるものと変わるもの、変転する表層と都市の構造を読みながら、ある原理、作法を求めてきたのである。

 

 アーバン・ファサード 

 「なぜ、「私の街」を歩いたかについて」の中で元倉は書いている。

 「当時私は何というテーマを持てないまま、ただ興味のあるものだけをひたすら身近に集めてくるということをやっていた。C.ムーアやR.ヴェンチューリのやり方。B.ルドフスキーの扱うようなプリミティブな世界。C.アレグザンダーの方法論。自分たちで建築をつくってしまうこと(セルフビルド)。ドーム・クック・ブックやホール・アース・カタログ。そして街を歩いて採集すること。キッチュ。ポップ。マンガ・・・など。」。

 ここで挙げられている世界は僕らの世代が共有していたものだ。セルフビルド、ヴァナキュラー建築、・・・建築の問題をごく身近な日常の身体感覚において捉えるのが僕らの出発点であった。

 元倉は、さらに次のように言う。

 「製図板に向かうより、街を歩くことがよりラジカルであった。街頭闘争や新宿西口のフォーク集会のように、街は状況によって全く違った者になることを知った。そして、街は対象化されるものではなく、自分たちで獲得できるものだと考えた。みんな都市について考えていた。そして多くの人たちが街を歩き、街に参加し、考え、そして表現した。屋台を採集する者。木賃アパートを調査する者。・・・・」。

 「都市は巨大な着せ替え人形だ!」というサブタイトル、あるいは『アーバン・ファサード』というタイトルにしても、元倉の関心が建築の表層にのみあるかのような誤解を与えるかもしれない。自ら明言するように、元倉の方法は、R.ヴェンチューリに大きな触発を受けたものだ。『コンプレッキシティ・アンド・コントラディクション・イン・アーキテクチャー』(『建築の多様性と対立性』 伊藤公文訳 鹿島出版会 一九八二年)『ラーニング・フロム・ラスベガス』(『ラスベガス』、石井和紘、伊藤公文訳 鹿島出版会、一九七八)は、僕らのバイブルであった。

 その理論が、表層デザインに拘る多くのポストモダン建築を産んだのは確かだ。しかし、元倉の立脚点は、以上のように異なる。「街は自分たちで獲得できるものだ」という認識があってアーバン・ファサードなのである。

 

 ブリコラージュの世界

 「実際の都市を見ると、日常的に変化をしているのは、基本的システムに無関係な表面であり、置かれたり、付加されたりしたところであることがわかる。」という認識は、都市のマイナーなエレメントとその集合の形態へ眼を向けさせる。しかし、だからといって基本的システムに無縁な要素に集中すればいい、というわけではないのである。「日常的な個々の意識によって個別的に変化し、その変化の集合体が都市全体を変化させていると認識したとき、私たちが都市環境について考えねばならないことは明確になると考えているのである。つまり、都市の日常的変化の内容と人の生活の現象との関係だ。」と書いているのである。

 「中心テーマは「個の自律性」「個から全体へ」「日常性へ」そして「解放」であった」。

 ブリコラージュだと松山巌はいう(「ブリコラージュの街」『アーバン・ファサード』解説)。

 「元倉が街で見ようとしたものも、確立した何か、単一な価値の中にある何かではなく、人々が参加し、補完し、それ自体は消えても、連綿として痕跡を伝える何かではなかったろうか。たとえば、看板やポスター。決まった大きさなどなく、手元にある材料で作られる。例えば、植木鉢。何かを梱包していた発泡スチロールの箱が鉢に替り、みかん箱が棚になる。人々が街のなかで、見つけ出し、みずから器用に工作する。すなわちブリコラージュする世界である。」

 松山もこのブリコラージュの世界を共有していた。元倉と松山の交流については、松山巌の『闇のなかの石』(文芸春秋 一九九五年)が触れている。「カオス」の章だ。コンペイトウの仲間で蓼科にセルフビルドの小屋を建てたこと、東京上野の「アメ横」調査のことなどが追想されている。五階建ての共同ビルに建て変わった「アメ横」について、松山はつぶやく。

 「調査し、分析しその上でビルを考えても結局はこうした白らけた箱を造ったに違いないとも、いや、全く別のものが造れた筈だとも想う。アメ横の中を歩き廻って求めていたものは一体何であったのか。」

  文筆家と建築家に二人の道は分かれた。松山の方が建築を突き抜けたというべきであろうが、建築以前に何かが共有されていたことは間違いない。

 

 集合住宅から街へ

 元倉真琴は、一貫して自らの仕事の奇跡を振り返る。

 一戸から二戸へ、二戸から四戸へ、四戸から八戸へ、その作品は徐々に拡がってきた。「岸上邸」(一九八一年)、「高橋邸」(一九八二年)、「小田原の住宅」(一九九五年)は、都市型住宅の原型としてのコートハウス(中庭型住宅)の試みである。「星龍庵」(一九九三年)は、テラスハウスの系列として連続的に街並みをつくる試みである。「巣鴨の二世帯住宅」(一九九四年)は、集合住宅の原型である。「QUAD」(一九九〇年)は四戸の集合住宅である。そして、「池上の集合住宅」(一九八九年)は八戸の集合住宅である。

 個が集まって街をつくるというテーマが執拗に試みられているのは一目瞭然である。小さなエレメントがどう集まると街になるのか、それが一貫するテーマである。

 「静宏荘」(一九九三年)では、三階建て五八戸のアパートメントハウスとなった。そして、日本建築学会賞を受賞することになった「熊本県営竜蛇平団地」(一九九三年)がある。街のモデルへと到達したとみていい。「S市営住宅団地案」(一九九四年)、「長野市今井ニュータウンF2ブロク」(一九九六年)、「大阪府営なぎさ団地」(一九九六年)とプロジェクト案が続く。

 建築家としてのトレーニングの上では、槙文彦を師としたことも一方で大きいと思う。建築家による集合住宅作品として評価の高い「代官山ヒルサイドテラス」に一貫して関わってきた経験は決定的である。その数期にわたる建設プロセスは、都市的なコンテクストにおける住居集合のあり方のひとつの解答、モデルとなっているのである。その仕事の全容は、『ヒルサイドテラス白書』(住まいの図書館出版局、一九九五年)にまとめられるところである。

 元倉を自らの以上のような奇跡を振り返るにあたって、しばしば、九龍城の写真を引く。いまや解体されて跡形もないのであるが、個々ばらばらに増改築を繰り返したような高層ビルのファサードである。あるいは、ニーベルソンという彫刻家の多様な形態がつまった箱を積み上げた作品を取りあげる。個々はばらばらで、それが集まってひとつの街をつくりあげる、その方法を一貫して追及してきたのである。

 元倉は最近「アジア的な住まい環境のモデル」ということを口にし出している。下町育ちらしい身体感覚に基づいているのだと思う。次のステップのテーマは見えているらしい。

 

 FHプロジェクト

 一方でたどり着いたのが「FH(フューチャー・ハウジング)プロジェクト」である。大成プレファブとの協同による「工業化工法による集合住宅のプロトタイプ」設計の試みである。

 もちろん、以上のような一貫するテーマの延長にFHプロジェクトはある。しかし、工業化工法を前提とすることにおいて、ひとつの制約を与えられると同時に、別の可能性も開くものである。集合住宅生産の工業化という課題は日本においてようやく現実に問われ始めたところであり、建築家が真に取り組むべき課題である。元倉は、ごく自然にその課題に向かったのだといえる。繰り返すように、元倉はもとより単なる住宅作家としてなど出発していないのである。

 FHプロジェクトにおける元倉の提案はさすがと思わせるものだ。集合住宅についてじっくり考え続けてきた建築家ならではのコンセプトの提示がある。例えば、立体ユニットの提案がある。各ユニットを媒介するインターフェイシング・ユニットの提案がある。住戸ー集合住宅ー街あるいは住居ー道ー集合住宅のヒエラルキーをこれまでのスタディーに従ってシステム化するのである。

 FHプロジェクトの特徴は、例えば、大阪ガスの「NEXT21」プロジェクトと比べてみればはっきりするであろう。「NEXT21」の場合、基本的なコンセプトは立体的な人工地盤である。諸インフラがビルトインされたスケルトンとして躯体が構築され、そこに既存の生産システムによる個々の住宅が組み込まれる。オープンなシステムが目指されている。

 それに対して、FHプロジェクトは、居住空間は領域ユニットとして予め限定される。建築家として空間の型を提案する構えは崩されていない。そして、サブシステムも空間の分節として意識され、街をつくっていく表現の問題として捉えられている。

 もちろん、元倉真琴のプロトタイプが唯一の正解ということではないだろう。また、それが日本の風土に根づいていくかどうかは別問題である。しかし、こうした試みこそ建築家の仕事ではなかったか。そうした意味では元倉の仕事は際立っているといえはしないか。もっと数多くの実験が繰り返されるべきなのである。

 コンペイトウの仲間たちと街を歩き回って考え続けたことを具体的にプロジェクトとして展開しうる、そんな時代がようやく訪れた。その地に足のついた持続する志をつくづく頼もしく頼りに思う。

 


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