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2021年9月21日火曜日

21世紀のユ-トピア 都市再生という課題(7)「「中国共産党第一次全国代表大会会址」が「スタ-バックス」に 超高層の谷間に「里弄住宅」 上海 新天地」

 21世紀のユートピア・・・都市再生という課題

都市再生とは何か。何を再生するのか。都市再生デザインの行方を探る

布野修司 日刊建設工業新聞200111302002092710回連載 

 この五年の間、「植民都市空間の起源・変容・転成・保全に関する調査研究」(文部省科学研究費助成研究)と題する研究プロジェクトに携わってきた。〈支配←→被支配〉〈ヨーロッパ文明←→土着文化〉の二つを拮抗基軸とする都市の文化変容が主題である。自ずから、世界史的なスケールにおいて、都市の未来を考える機会となった。

二一世紀の鍵を握る今日の発展途上地域の都市は、ほとんどが植民都市としての歴史をもつ。各都市は、人口問題、環境問題に悩む一方で、共通の課題を抱え始めている。植民地期に形成された都市核の再開発問題である。植民都市遺産を否定するのか、継承するのかはかなり大きなテーマである。

顧みるに、我が国は、「都市再生」の大合唱である。一体「都市再生」とは何か。再生する都市遺産とは一体何か。世界中のいくつかの事例に即して、様々な角度から考えて見たい。

  21世紀のユ-トピア 都市再生という課題(7)

「中国共産党第一次全国代表大会会址」が「スタ-バックス」に

  超高層の谷間に「里弄住宅」 上海 新天地 多彩な都市の貌 

布野修司 

 

上海は、おそろしく元気なまちだ。浦東新区に「東方明珠電視塔」など超高層が林立する様は壮観である。超高層の数では東京も脱帽であろう。人民広場にある上海城市規画展示館には上海全体の模型がワンフロア全体に展示されており、そのすごさを実感できる。

一方、上海の貌というと西洋建築の建ち並ぶ外灘(バンド)である。その夜景は上海の往時を偲ばせる。上海は日本租界を含めて各国の租界がつくられた町だ。異国情緒が漂ったかつての雰囲気は未だに残っている。また、未だ一九二〇年代から三〇年代に開発された里弄(りろう)住宅(石窟門ともいう)がびっしり並ぶ地区もある。超高層が林立する谷間に低層の居住区がまだまだ点々と存在しているのである。里弄住宅もまた上海の貌である。

そして、上海のニュースポットとなっているのが「新天地」である。「新天地」は、人民公園の西側を南に下がった廬湾区の一画にある。心底仰天したのは、「一大会址」に「スターバックス」が入っていたことだ。グローバリゼーションの象徴といえるのではないか。超高層建築の多くもアメリカ人建築家の設計である。「一大会址」とは中国共産党第一次全国代表大会会址のことである。一九二一年七月、当時フランス租界であったこの場所、李漢俊(後に脱党)の住宅に毛沢東ら一三名が集まった。一九世紀半ばに住宅地として開発された地区で、これまで煉瓦造の建物が建ち並んでいた。

煉瓦造の住宅に次々と手が加えられ、洒落たブティックやレストランに変貌しつつある。新旧の取り合わせのデザインがいかにも受けそうな雰囲気を醸し出していた。未だ工事中だが、既に観光名所になりつつあるらしく、バスガイドが観光客を引き連れて巡っている。まさに「新天地」として、若い世代を惹きつけているのである。

「新天地」だけではない。蒋介石夫人の宋美齢が使った書斎(宋慶齢故居)は、「カフェ・アールデコ・ガーデン」となっている。かつて英国人の屋敷であった瑞金賓館はアジア・レストランに変貌している。租界建築が次々にリニューアルされているのも上海のひとつの貌である。




[01] 21世紀のユ-トピア 都市再生という課題(1)「バブリ-なオランダ建築」,日刊建設工業新聞,20011130

[02] 21世紀のユ-トピア 都市再生という課題(2)「問われる歴史的都市核の再開発」,日刊建設工業新聞,20020111

[03] 21世紀のユ-トピア 都市再生という課題(3)「元気なロンドン・テムズ川・サウス・バンクス」,日刊建設工業新聞,20020201

[04] 21世紀のユ-トピア 都市再生という課題(4)「再開発の壮絶なる失敗ケ-プタウンのディストリクト・シックス」,日刊建設工業新聞,20020222

[05] 21世紀のユ-トピア 都市再生という課題(5)「バ-ドウォッチングのできる都心 ジャカルタのニュ-タウン・イン・タウン」,日刊建設工業新聞,20020315

[06] 21世紀のユ-トピア 都市再生という課題(6)「アイデンティティとしての空間形式(街区と町屋) マラッカ オ-ルドタウン」,日刊建設工業新聞,20020531

[07] 21世紀のユ-トピア 都市再生という課題(7)「「中国共産党第一次全国代表大会会址」が「スタ-バックス」に 超高層の谷間に「里弄住宅」 上海 新天地」,日刊建設工業新聞,2002615

[08] 21世紀のユ-トピア 都市再生という課題(8)「大雑院から高層マンションへ 歴史的大改造 北京 消えゆく胡同 消えゆく四合院」,日刊建設工業新聞,200207 12

[09] 21世紀のユ-トピア 都市再生という課題(9)URA(都市再開発機構)の挑戦 甦るショップハウス・ラフレシア シンガポ-ル チャイナタウンの変貌」,日刊建設工業新聞,20020830

[10] 21世紀のユ-トピア 都市再生という課題(10)「地下に眠るロ-マの都市遺構 ウォ-タ-フロント・バルセロネ-タ バルセロナ ガウディの生き続ける街」,日刊建設工業新聞,20020927

 

2021年9月20日月曜日

21世紀のユ-トピア 都市再生という課題(6)「アイデンティティとしての空間形式(街区と町屋) マラッカ オ-ルドタウン」

21世紀のユートピア・・・都市再生という課題

都市再生とは何か。何を再生するのか。都市再生デザインの行方を探る

布野修司 日刊建設工業新聞200111302002092710回連載 

 この五年の間、「植民都市空間の起源・変容・転成・保全に関する調査研究」(文部省科学研究費助成研究)と題する研究プロジェクトに携わってきた。〈支配←→被支配〉〈ヨーロッパ文明←→土着文化〉の二つを拮抗基軸とする都市の文化変容が主題である。自ずから、世界史的なスケールにおいて、都市の未来を考える機会となった。

二一世紀の鍵を握る今日の発展途上地域の都市は、ほとんどが植民都市としての歴史をもつ。各都市は、人口問題、環境問題に悩む一方で、共通の課題を抱え始めている。植民地期に形成された都市核の再開発問題である。植民都市遺産を否定するのか、継承するのかはかなり大きなテーマである。

顧みるに、我が国は、「都市再生」の大合唱である。一体「都市再生」とは何か。再生する都市遺産とは一体何か。世界中のいくつかの事例に即して、様々な角度から考えて見たい。

 21世紀のユ-トピア 都市再生という課題(6)

アイデンティティとしての空間形式(街区と町屋) マラッカ オ-ルドタウン

まちの形の確認 ババニョニャ 

                                  布野修司

 


 




 マラッカにはこれまで三度行ったことがある。最初は一九八一年、二〇年の月日を経て一昨年、昨年と続けて通った。一昨年は何日かじっくり歩き回ったからオールドタウンについては隅々までイメージできる。こじんまりしたいい町だ。

二〇年前、マラッカはなんとなくうらびれた田舎町でしかなかった。しかし、今では歴史都市としての面影を再生しつつある。二〇年間でマラッカはすっかり変わった。最初の訪問時、フランシスコ・ザビエルが一時葬られたセント・ポール教会など荒れ放題であったし、スタダイズ(市庁舎)やその周辺の歴史的建造物も傷んだままであった。王宮が復元されたのは最近である。変わるのは当たり前であるが、調査してみると、オールドタウンについてはほとんどの町屋はそのままであるから、変わったという印象は町のかたちがむしろくっきりしたというのに近い。

 マラッカはマレー半島における最初の都市といっていい。マラッカ王国の交易拠点として発展してきた。そのマラッカをポルトガルが奪うのが一五一一年、そして、その要塞をオランダが占領し(一六四一~一七九五年)、英国が引き継ぐ(一七九五~一八一八、一八二四~一九五七年)。その都市形成には植民地化の歴史が重層している。英国統治時代になってマラッカの相対的地位は低下する。ペナン、そしてシンガポールにその交易拠点としての役割を譲るのである。その後、錫、ゴムの集散地としての機能はもつが、内陸開発の拠点とはならない。戦後も工業開発からはむしろ取り残されてきた。東西交渉史の上で名高いマラッカにわざわざクアラルンプールから足を運んでいささか期待はずれの感を抱いたのが二〇年前である。

マラッカが脚光を浴び出すのはツーリズムの勃興の流れにおいてである。調べてみると、マラッカ州で文化遺産保全修復法が施行されたのは一九八八年のことである。それ以前に全州で古物法が成立し(一九七六年)、保護すべきモニュメントや遺物の指定が開始されていたが、都市計画と直接結びつくわけではない。マラッカがその歴史的都市としてのアイデンティティに目覚め、世界文化遺産登録を目指すまでにいたったのは最近のことなのである。

都市再生が課題であるとして、一体どの時代の都市を再生するのかは興味深い問題である。マラッカの場合、英国統治時代に大きな改変はなく、オランダ時代の骨格が残されてきたから自らそれがベースとされている。しかし、ポルトガル時代も無視し得ないし、事実、マラッカの南にはポルトガル村が存在している。また、一九世紀以降、町を担ったのはババニョニャと呼ばれる土着化した中国人たちである。

 オールドタウンを歩くと様々な民族が居住していることが自ずとわかる。トゥカン・ベシ-トゥカン・エマス通りにはヒンドゥ寺院、モスク、そして中国廟が並んでいる。教会もいくつかある。住宅の多くは店舗住宅(ショップハウス)であるがマレーハウスもある。ババニョニャが支配的であるが、インド人が多く携わる金融街もある。こうした多民族社会において何を再生するかは大きな問題である。

 日本の歴史都市の場合も同じ問題がある。民族や宗教の差異ほどはっきりしないが、様々な階層が様々な価値観を持ちながら共住するのが都市である。従って、都市再生といってもコンセンサスを得るのはそう容易ではない。しかし、住み手がどうあれ、町のアイデンティティに関わる、その骨格となる空間の形式がある。マラッカの場合、町屋の形式がかなり広範に維持されており、その骨格や景観をくっきりと浮かび上がらせる行為として、町屋の形式の維持が選択されたのである。

マラッカももちろん多くの問題を抱えている。バイパスがないために大量の車が通り抜けるのもそうだ。また、海岸部を壁のように塞ぐ住宅開発はオールドタウンの再生の意義を半減させてしまっている。

 

 

[01] 21世紀のユ-トピア 都市再生という課題(1)「バブリ-なオランダ建築」,日刊建設工業新聞,20011130

[02] 21世紀のユ-トピア 都市再生という課題(2)「問われる歴史的都市核の再開発」,日刊建設工業新聞,20020111

[03] 21世紀のユ-トピア 都市再生という課題(3)「元気なロンドン・テムズ川・サウス・バンクス」,日刊建設工業新聞,20020201

[04] 21世紀のユ-トピア 都市再生という課題(4)「再開発の壮絶なる失敗ケ-プタウンのディストリクト・シックス」,日刊建設工業新聞,20020222

[05] 21世紀のユ-トピア 都市再生という課題(5)「バ-ドウォッチングのできる都心 ジャカルタのニュ-タウン・イン・タウン」,日刊建設工業新聞,20020315

[06] 21世紀のユ-トピア 都市再生という課題(6)「アイデンティティとしての空間形式(街区と町屋) マラッカ オ-ルドタウン」,日刊建設工業新聞,20020531

[07] 21世紀のユ-トピア 都市再生という課題(7)「「中国共産党第一次全国代表大会会址」が「スタ-バックス」に 超高層の谷間に「里弄住宅」 上海 新天地」,日刊建設工業新聞,2002615

[08] 21世紀のユ-トピア 都市再生という課題(8)「大雑院から高層マンションへ 歴史的大改造 北京 消えゆく胡同 消えゆく四合院」,日刊建設工業新聞,200207 12

[09] 21世紀のユ-トピア 都市再生という課題(9)URA(都市再開発機構)の挑戦 甦るショップハウス・ラフレシア シンガポ-ル チャイナタウンの変貌」,日刊建設工業新聞,20020830

[10] 21世紀のユ-トピア 都市再生という課題(10)「地下に眠るロ-マの都市遺構 ウォ-タ-フロント・バルセロネ-タ バルセロナ ガウディの生き続ける街」,日刊建設工業新聞,20020927

  

2021年9月19日日曜日

21世紀のユ-トピア 都市再生という課題(5)「バ-ドウォッチングのできる都心 ジャカルタのニュ-タウン・イン・タウン」

 21世紀のユートピア・・・都市再生という課題

都市再生とは何か。何を再生するのか。都市再生デザインの行方を探る

布野修司 日刊建設工業新聞200111302002092710回連載 

 この五年の間、「植民都市空間の起源・変容・転成・保全に関する調査研究」(文部省科学研究費助成研究)と題する研究プロジェクトに携わってきた。〈支配←→被支配〉〈ヨーロッパ文明←→土着文化〉の二つを拮抗基軸とする都市の文化変容が主題である。自ずから、世界史的なスケールにおいて、都市の未来を考える機会となった。

二一世紀の鍵を握る今日の発展途上地域の都市は、ほとんどが植民都市としての歴史をもつ。各都市は、人口問題、環境問題に悩む一方で、共通の課題を抱え始めている。植民地期に形成された都市核の再開発問題である。植民都市遺産を否定するのか、継承するのかはかなり大きなテーマである。

顧みるに、我が国は、「都市再生」の大合唱である。一体「都市再生」とは何か。再生する都市遺産とは一体何か。世界中のいくつかの事例に即して、様々な角度から考えて見たい。

 21世紀のユ-トピア 都市再生という課題(5)

バ-ドウォッチングのできる都心  ジャカルタのニュ-タウン・イン・タウン

ニュータウン・イン・タウン(都市の中の新都市)、国内空港の跡地利用

セルフ・コンテインド(自己充足)か否か?

コタ・バル・バンダル・クマヨランKota Baru Bandar Kemayoran

布野修司 




 ジャカルタも東京(江戸)も一七世紀初頭にその起源をもつ。江戸幕府が開かれたのが一六〇三年、オランダがもともとスンダ・カラパと呼ばれていた寒村を襲ってバタヴィアの建設を開始したのが一六一九年である。バタヴィアは一七世紀半ばにはその骨格を完成させ、一八世紀にかけて繁栄を誇る。一八世紀末に人口約一二万人というから江戸の方が大きいが、バタヴィアは「東洋の女王」と呼ばれ、東インド会社の植民都市の中で最も美しい都市とされた。その後、ウェルトフレーデン(現在のムルデカ広場)に中心を移し、南に向かって都市は発展する。そして、一九世紀末から二〇世紀にかけて産業革命の大きなインパクトを受け、巨大都市への道を歩む。独立以後の人口増加にはすさまじいものがあり、ジャボタペックJaBoTaBek(ジャカルタ、ボゴール、タンゲラン、ブカシ)と呼ばれるジャカルタ大都市圏の人口は一〇〇〇万人を優に超える。

 ジャカルタが今日猶多くの都市問題を抱えていることは指摘するまでもない。交通、ゴミ処理、上下水などインフラストラクチャーの整備は依然として大きな課題だし、住宅問題も解決されたわけではない。ジャカルタにおいて都市再生という課題がないわけではない。具体的なテーマとしてかつてのバタヴィア、コタ地区の再生がある。かつての市庁舎(現ジャカルタ美術館)のあるファタヒラ広場に歴史的建造物を改造した洒落たカフェができるなどその萌芽はあるが、運河は依然として悪臭を放っている状況だ。一般的には発展途上国の大都市は再開発が問題になるはるか以前の状況にある。

 そうしたジャカルタにおいて、注目すべきプロジェクトが実施されようとしている。経済危機以降頓挫しているからその成否は歴史的評価を待たねばならないが、その理念は大いに興味深い。いわく、ニュータウン・イン・タウン(都市の中の新都市)・プロジェクトである。

 発想の種は都心に位置する広大なクマヨラン空港の跡地であった。二〇年前にはまだ国内線用空港として使われていた。何度か乗り降りしたことがあるが、まるで赤い屋根の海に突っ込むような空港であった。周辺はぎっしりとカンポン(都市集落)に取り囲まれ、市街ははるか遠くまで広がっている。飛行場の移転は当然であった。この跡地をひとつの都市を建設しよう、というのである。

 プルムナス(公団)や民間によって多くの郊外住宅地開発が行われる中で抜群の立地である。そしてかなりの規模がある。滑走路を幹線道路に使うのは当然として、いくつか注目すべき今日的アイディアがある。

 まず、ジャワ海に面する一画に開発を凍結された自然公園が確保されている。野生を呼び戻すのが理念である。また、数十万人に及ぶとされるバタウィと呼ばれるジャカルタ原住民の文化を維持していくことが謳われる。もともと原住民が暮らしていた土地であることから、その民族文化を学び継承する施設やワークショップを設けようというのである。さらに、周辺のカンポン居住者にカンポン型の集合住宅(ルーマー・ススン)を供給するのが前提とされる。カンポン型集合住宅とは、居間や厨房、バス・トイレを共用にする、インドネシア型のコレクティブ・ハウスである。ニュータウンのサーヴィス部門を支える層としても様々な階層が居住する(ミックス・ハウジング)のが原則である。そして、全体として自己充足すること、全ての生活が新都市内で完結することが中心理念とされる。

 経済危機とそれに続く政変が仮になくても、このプロジェクトが成功したかどうかはわからない。しかし、このプロジェクトには強力な理念がある。都市再生に必要なのもいくつかのシャープな理念ではないか。

 

 

[01] 21世紀のユ-トピア 都市再生という課題(1)「バブリ-なオランダ建築」,日刊建設工業新聞,20011130

[02] 21世紀のユ-トピア 都市再生という課題(2)「問われる歴史的都市核の再開発」,日刊建設工業新聞,20020111

[03] 21世紀のユ-トピア 都市再生という課題(3)「元気なロンドン・テムズ川・サウス・バンクス」,日刊建設工業新聞,20020201

[04] 21世紀のユ-トピア 都市再生という課題(4)「再開発の壮絶なる失敗ケ-プタウンのディストリクト・シックス」,日刊建設工業新聞,20020222

[05] 21世紀のユ-トピア 都市再生という課題(5)「バ-ドウォッチングのできる都心 ジャカルタのニュ-タウン・イン・タウン」,日刊建設工業新聞,20020315

[06] 21世紀のユ-トピア 都市再生という課題(6)「アイデンティティとしての空間形式(街区と町屋) マラッカ オ-ルドタウン」,日刊建設工業新聞,20020531

[07] 21世紀のユ-トピア 都市再生という課題(7)「「中国共産党第一次全国代表大会会址」が「スタ-バックス」に 超高層の谷間に「里弄住宅」 上海 新天地」,日刊建設工業新聞,2002615

[08] 21世紀のユ-トピア 都市再生という課題(8)「大雑院から高層マンションへ 歴史的大改造 北京 消えゆく胡同 消えゆく四合院」,日刊建設工業新聞,200207 12

[09] 21世紀のユ-トピア 都市再生という課題(9)URA(都市再開発機構)の挑戦 甦るショップハウス・ラフレシア シンガポ-ル チャイナタウンの変貌」,日刊建設工業新聞,20020830

[10] 21世紀のユ-トピア 都市再生という課題(10)「地下に眠るロ-マの都市遺構 ウォ-タ-フロント・バルセロネ-タ バルセロナ ガウディの生き続ける街」,日刊建設工業新聞,20020927

 

2021年9月18日土曜日

21世紀のユ-トピア 都市再生という課題(4)「再開発の壮絶なる失敗ケ-プタウンのディストリクト・シックス」

 21世紀のユートピア・・・都市再生という課題

都市再生とは何か。何を再生するのか。都市再生デザインの行方を探る

布野修司 日刊建設工業新聞200111302002092710回連載

  この五年の間、「植民都市空間の起源・変容・転成・保全に関する調査研究」(文部省科学研究費助成研究)と題する研究プロジェクトに携わってきた。〈支配←→被支配〉〈ヨーロッパ文明←→土着文化〉の二つを拮抗基軸とする都市の文化変容が主題である。自ずから、世界史的なスケールにおいて、都市の未来を考える機会となった。

二一世紀の鍵を握る今日の発展途上地域の都市は、ほとんどが植民都市としての歴史をもつ。各都市は、人口問題、環境問題に悩む一方で、共通の課題を抱え始めている。植民地期に形成された都市核の再開発問題である。植民都市遺産を否定するのか、継承するのかはかなり大きなテーマである。

顧みるに、我が国は、「都市再生」の大合唱である。一体「都市再生」とは何か。再生する都市遺産とは一体何か。世界中のいくつかの事例に即して、様々な角度から考えて見たい。

21世紀のユ-トピア 都市再生という課題(4)

再開発の壮絶なる失敗 ケ-プタウンのディストリクト・シックス


ケープタウンはシドニーと二〇〇〇年のオリンピック開催を競って破れた。マンデラ政権の登場(一九九四年)で、アパルトヘイト体制が崩壊し、国際社会に新体制が認められつつあり、アフリカでの開催が初めてということもあって大いに期待されたが残念な結果となった。ケープタウンは、オランダが基礎を築きイギリスが後を引き継いで建設した美しい町だ。しかし、ケープタウンには、その都心に近接してディストリクト・シックスという負の遺産となる地区がある。

 ディストリクト・シックスは、現在、茫漠たる野原である。所々に教会など宗教施設が建っており、住宅もぽつんぽつんとあるが寒々しい風景だ。ディストリクト・シックスはかつて黒人、インド人の他、東欧、北欧など多人種の混住する地区であり、活気ある下町であった。ところが、一九五〇年に制定された集団地域法に基づいて突然「白人地区」に指定される(一九六六年)。全ての地主は政府以外に土地を売ることを禁止され、多くの反対運動にも関わらず、一九六八年、地区の解体が強行されたのであった。ディストリクト・シックスは南アフリカで最も悲惨なスラム・クリアランスの事例となった。発展途上国の大都市でも数多くのスラム・クリアランスが行われてきたが、アパルトヘイト体制下で強制力をもって行われた事例として他に類例を見ない。

一八六七年にケープタウンの行政区は六つの地区に分割された。ディストリクト・シックスの名称はその時の区分に由来する。ケープタウンの都市建設は、一六五二年にヤン・ファン・リーベックによって開始される。この人物、最初はバタヴィアに赴任し、出島を訪れたことのある興味深い人物だ。当初は要塞のみであるが、やがて居住地建設が本格化し、一六六六年に現在の位置に新たにファイブ・スター形の要塞が建設された。ディストリクト・シックスはこの要塞から南東に形成されることになるが、一八世紀末までは未利用地のままである。市域の東への拡張が始まるのは、一九世紀初頭で一八三四年の奴隷解放が大きな転換点となる。人口は急増し始める。二〇世紀初頭、地区はほぼ建て詰まった。衛生問題は年々深刻化し、一九〇一年にはペストが発生する。そうした中で原住民(都市地域)法が制定された(一九二三年)。各自治体にアフリカ人を分離したロケーションに住まわせ、都市への流入を制御することを求めるものだ。これが集団地域法(一九五〇年)の前身である。

以降、高密度居住による衛生問題、住宅問題が一貫する都市計画の課題となる。公衆衛生法(一九一九年)、住居法(一九二〇年)がつくられ、パインランズという田園都市建設がこころみられるが、基本方針は黒人の分離、強制移住であり、原住民(都市地域)法の制定が居住地編成を大きく規定する。

一九六二年、市議会はディストリクト・シックスの地所を買収し、再開発することを提案する。そして、一九六四年地域開発大臣は再計画のための調査委員会を立ち上げる。その結果、貧困地区回復委員会CORDAが設立される。しかし、一九六五年、政府は全ての計画を凍結する。一九六六年、ディストリクト・シックスは突然「白人地区」に指定されるのである。一九六八年にCORDAが簡単な再開発計画(五一.ha、一五,〇〇〇人)を立て、一九七一年に政府が承認した計画案(五一.ha、一三,五〇〇人)は、オープン・スペースを広大にとった巨大なフラッツの集合体であった。計画対象地域はかつてのディストリクト・シックスの半分程度に縮小している。四半世紀たって再開発計画は遅々として進まない。

かつてバブル華やかなりし頃、東京で下町が次々に消滅していったことを思い出す。学ぶべきは地区の歴史を無視する再開発は巨大なロスであることだ。ディストリクト・シックスには様々な民族の文化が歴史的に根付いていたにもかかわらず、その再開発計画は一瞬のうちにそれを抹殺してしまったのである。

 


 

 

[01] 21世紀のユ-トピア 都市再生という課題(1)「バブリ-なオランダ建築」,日刊建設工業新聞,20011130

[02] 21世紀のユ-トピア 都市再生という課題(2)「問われる歴史的都市核の再開発」,日刊建設工業新聞,20020111

[03] 21世紀のユ-トピア 都市再生という課題(3)「元気なロンドン・テムズ川・サウス・バンクス」,日刊建設工業新聞,20020201

[04] 21世紀のユ-トピア 都市再生という課題(4)「再開発の壮絶なる失敗ケ-プタウンのディストリクト・シックス」,日刊建設工業新聞,20020222

[05] 21世紀のユ-トピア 都市再生という課題(5)「バ-ドウォッチングのできる都心 ジャカルタのニュ-タウン・イン・タウン」,日刊建設工業新聞,20020315

[06] 21世紀のユ-トピア 都市再生という課題(6)「アイデンティティとしての空間形式(街区と町屋) マラッカ オ-ルドタウン」,日刊建設工業新聞,20020531

[07] 21世紀のユ-トピア 都市再生という課題(7)「「中国共産党第一次全国代表大会会址」が「スタ-バックス」に 超高層の谷間に「里弄住宅」 上海 新天地」,日刊建設工業新聞,2002615

[08] 21世紀のユ-トピア 都市再生という課題(8)「大雑院から高層マンションへ 歴史的大改造 北京 消えゆく胡同 消えゆく四合院」,日刊建設工業新聞,200207 12

[09] 21世紀のユ-トピア 都市再生という課題(9)URA(都市再開発機構)の挑戦 甦るショップハウス・ラフレシア シンガポ-ル チャイナタウンの変貌」,日刊建設工業新聞,20020830

[10] 21世紀のユ-トピア 都市再生という課題(10)「地下に眠るロ-マの都市遺構 ウォ-タ-フロント・バルセロネ-タ バルセロナ ガウディの生き続ける街」,日刊建設工業新聞,20020927

 

2021年9月17日金曜日

21世紀のユ-トピア 都市再生という課題(3) 元気なロンドン・テムズ川・サウス・バンクス

 21世紀のユートピア・・・都市再生という課題

都市再生とは何か。何を再生するのか。都市再生デザインの行方を探る

布野修司 日刊建設工業新聞200111302002092710回 連載

  この五年の間、「植民都市空間の起源・変容・転成・保全に関する調査研究」(文部省科学研究費助成研究)と題する研究プロジェクトに携わってきた。〈支配←→被支配〉〈ヨーロッパ文明←→土着文化〉の二つを拮抗基軸とする都市の文化変容が主題である。自ずから、世界史的なスケールにおいて、都市の未来を考える機会となった。

二一世紀の鍵を握る今日の発展途上地域の都市は、ほとんどが植民都市としての歴史をもつ。各都市は、人口問題、環境問題に悩む一方で、共通の課題を抱え始めている。植民地期に形成された都市核の再開発問題である。植民都市遺産を否定するのか、継承するのかはかなり大きなテーマである。

顧みるに、我が国は、「都市再生」の大合唱である。一体「都市再生」とは何か。再生する都市遺産とは一体何か。世界中のいくつかの事例に即して、様々な角度から考えて見たい。

 21世紀のユ-トピア 都市再生という課題(3)

元気なロンドン・テムズ川・サウス・バンクス

 新旧絶妙のバランス 復元・再生・挑戦

ザ・ドラマティック・マイル ロンドン・テムズ川・サウス・バンクス

                                   布野修司





 

 ロンドン・テムズ川・サウス・バンクスが元気である。「ザ・ドラマティック・マイル」「ロンドンズ・ドラマチック・リバーサイド」というキャッチフレーズの下、いくつかのプロジェクトが進行中である。ウエストミンスター・ブリッジからロンドン・ブリッジまで、その一マイルを歩いた。

 ビッグベンを振り返りながらウエストミンスター・ブリッジを渡ると、まず、大観覧車が人気を集めている。プリンス・チャールズであれば眉を顰めそうであるがロンドン子の間に議論はなかったのであろうか。人を集めるには大観覧車ということか。しかし、建築のディテールはしっかりしており迫力がある。橋の元にはサッチャーの行革で売り飛ばされたカウンティ・ホールがある。前にオープン・カフェのテーブルが並び週末のせいかものすごい人の流れであった。

少し行くと右手に円形の立体映画館IMAX、そして、国立劇場など公共建築が続く。戦後、打ち放しコンクリートの近代建築が並んだ一画である。プリンス・チャールズがかつて槍玉に挙げた地区だ。こうして新たな建築が建ち並びだすとあらためて一時代が過ぎたという気がしてくる。

新たな建築といっても、新たに建築されるだけではない。続く目玉のテート・モダンがそうだ。この現在人気を集める美術館は巨大な発電所を改造したものものなのである。こんなところに発電所があったのかとまず思う。堂々たる建築はベーレンスなど近代建築の迫力を感じさせる。ところがこの発電所、第二次世界大戦後の建設であった。建築家はギルバート・スコット卿で、一九五三年に西半分がオープンし、完成したのは一九五九年である。丁度打ち放しコンクリートの国立劇場が建ち並びだした時期だ。煉瓦造の工業建築を当時の建築ジャーナリズムが無視したとしても不思議はない。第一スケールアウトである。発電所としても石油時代を読みそこなったのか、また、都心に近すぎたせいか、一九八一年に閉鎖されたのであった。その建築がいま甦っている。コンペに勝ったのは、ジャック・ヘルツォークとピエール・デ・ムーロンである。プリツカー賞を受賞した。巨大な空間を思う存分再生している。ストック時代の建築再生の、ひとつの方向を示している。

テート・モダンの前には、真直ぐセント・ポール寺院へ向けて、ノーマン・フォスターのミレニアム・ブリッジが建設中だ。無骨な橋が並ぶ中でひときわスマートである。テムズに浮かぶオブジェになる。土木スケールの構築物のデザインは建築家の大きなテーマになるであろう。少し離れてロンドン・ブリッジのたもとには同じくノーマン・フォスターによる楕円球形をしたロンドン市のオフィスがある。ミレニアム・ドーム(閉鎖中である)のリチャード・ロジャースも合わせて健在で、挑戦的である。

テート・モダンの東には、シェイクスピアの「グローブ座」がミレニアム・プロジェクトに先駆けて復元されている。F.イエーツの『世界劇場』以降、考古学的資料も得た考証を重ねた上での復元である。こうした復元も大いに試みられるべきだ。ただ重要なのは復元のための復元ではないことだ。実際、シェイクスピア劇団によってシェイクスピア劇が毎日上演され、大いに人を集めているのである。

川向こうを望みながら歩けば、ロンドンの歴史的街並みをパノラマとして楽しむことができる。ところどころに簡単な説明もある。中にハーバート・ベイカーの建築を発見して思わずにんまりした。彼は南アフリカで活躍した建築家である。ロンドンの歴史の厚みに思いを馳せることもできるのである。

わずか一マイルの間に新旧取り混ぜた再生手法が見られる。絶妙のバランスと言えるのではないか。


[01] 21世紀のユ-トピア 都市再生という課題(1)「バブリ-なオランダ建築」,日刊建設工業新聞,20011130

[02] 21世紀のユ-トピア 都市再生という課題(2)「問われる歴史的都市核の再開発」,日刊建設工業新聞,20020111

[03] 21世紀のユ-トピア 都市再生という課題(3)「元気なロンドン・テムズ川・サウス・バンクス」,日刊建設工業新聞,20020201

[04] 21世紀のユ-トピア 都市再生という課題(4)「再開発の壮絶なる失敗ケ-プタウンのディストリクト・シックス」,日刊建設工業新聞,20020222

[05] 21世紀のユ-トピア 都市再生という課題(5)「バ-ドウォッチングのできる都心 ジャカルタのニュ-タウン・イン・タウン」,日刊建設工業新聞,20020315

[06] 21世紀のユ-トピア 都市再生という課題(6)「アイデンティティとしての空間形式(街区と町屋) マラッカ オ-ルドタウン」,日刊建設工業新聞,20020531

[07] 21世紀のユ-トピア 都市再生という課題(7)「「中国共産党第一次全国代表大会会址」が「スタ-バックス」に 超高層の谷間に「里弄住宅」 上海 新天地」,日刊建設工業新聞,2002615

[08] 21世紀のユ-トピア 都市再生という課題(8)「大雑院から高層マンションへ 歴史的大改造 北京 消えゆく胡同 消えゆく四合院」,日刊建設工業新聞,200207 12

[09] 21世紀のユ-トピア 都市再生という課題(9)URA(都市再開発機構)の挑戦 甦るショップハウス・ラフレシア シンガポ-ル チャイナタウンの変貌」,日刊建設工業新聞,20020830

[10] 21世紀のユ-トピア 都市再生という課題(10)「地下に眠るロ-マの都市遺構 ウォ-タ-フロント・バルセロネ-タ バルセロナ ガウディの生き続ける街」,日刊建設工業新聞,20020927

 

2021年9月16日木曜日

21世紀のユ-トピア 都市再生という課題(2)「問われる歴史的都市核の再開発」ソカロからラテン・アメリカ・タワーへ

 21世紀のユートピア・・・都市再生という課題

都市再生とは何か。何を再生するのか。都市再生デザインの行方を探る

布野修司 日刊建設工業新聞200111302002092710連載 

 この五年の間、「植民都市空間の起源・変容・転成・保全に関する調査研究」(文部省科学研究費助成研究)と題する研究プロジェクトに携わってきた。〈支配←→被支配〉〈ヨーロッパ文明←→土着文化〉の二つを拮抗基軸とする都市の文化変容が主題である。自ずから、世界史的なスケールにおいて、都市の未来を考える機会となった。

二一世紀の鍵を握る今日の発展途上地域の都市は、ほとんどが植民都市としての歴史をもつ。各都市は、人口問題、環境問題に悩む一方で、共通の課題を抱え始めている。植民地期に形成された都市核の再開発問題である。植民都市遺産を否定するのか、継承するのかはかなり大きなテーマである。

顧みるに、我が国は、「都市再生」の大合唱である。一体「都市再生」とは何か。再生する都市遺産とは一体何か。世界中のいくつかの事例に即して、様々な角度から考えて見たい。

 21世紀のユ-トピア 都市再生という課題(2

問われる歴史的都市核の再開発  ソカロからラテン・アメリカ・タワーへ

 メキシコ・シティの苦悩!? 問われる歴史的都市核の再開発 

   超高層の海に沈むかコルテスの街

 

京都のような格子状の町に住んでいるせいだろうか。世界中の格子状(グリッド・パターン)の都市が気になる。といってもきりがない。古今東西、グリッド・パターンの都市はそこら中にあるからである。

植民都市ということでは、中南米はスペインがつくった格子状都市の宝庫である。フェリペ二世が一五七三年に発したインディアス法が大きな影響力を持ったとされるが、もちろんそれ以前から格子状都市はつくられている。フェリペ二世の勅令はそれを集大成したものだ。今年、オランダ西インド会社(WIC)の建設した植民都市をブラジルそしてカリブ海まで追いかけて、その帰途、初めてスペイン植民地(ヌエバ・エスパーニャ)の総括拠点であったメキシコの地を訪れる機会を得た。メキシコ・シティは見事なグリッド・パターンの街である。

メキシコ・シティの地をコルテスが征服した時(一五二一年)、テスカカ湖の上にはアステカ帝国の都テノチティトランの壮麗な姿があった。コルテスはその都を破壊し、その石材を使って自分たちの都シウダード・デ・メヒコを建設する。アステカ帝国の都市遺産を完全に破壊し、全く新たな都市を同じ場所に建てたのである。

現在、ソカロと呼ばれる中央広場の周辺には、スペインの当時の都市に決して負けないカテドラル、宮殿が建つ。コルテスは、現地人にヨーロッパ都市文明の威光を示すこと、スペイン本国に負けない都市を建設することを目指したのである宮殿の隣地からアステカの中央神殿跡が発見されたのは一九一三年のことだ。ひどいことをしたものだ、とつくづく思う。コルテスの頭脳の中には、先住民の都市文化遺産への尊敬の念など微塵もなかった。

とは言え、ソカロは既に五〇〇年にも及ぶ歴史を誇る。周辺は世界文化遺産にも指定されている。ところで、ソカロの外れ、アラメダ公園の角に、エンパイア・ステート・ビルを小型にしたようなラテン・アメリカ・タワーというビルが建っている。地上四四階、さらテレビ塔が載って一八二メートルにもなる。そのビルの展望台から見事なグリッドと主要な建物を俯瞰することが出来る。

このラテン・アメリカ・タワー、驚いたことに一九四八年に着工して五六年に竣工している。日本に霞ヶ関ビルが出来る(六八年)遙かに前である。設計者はオルティス・モナステリオ。日本において、六〇年頃国立自治大学図書館の民族的表現などが話題になったことがあるが、この建物は知られていない。アメリカ建築の華々しさの前に無視されたのだろう。耐震性にすぐれ、度重なる地震にも問題ないという。

このタワーをめぐって今一騒動が起こりつつある。なんと、大統領とメキシコ市長は、都心活性化のために、ゾカロからラテン・アメリカ・タワーの町へ化粧直しをはかることで一致、そのためのプロジェクトを発表したのである。八月半ば、僕のメキシコ滞在中のことである。

世界文化遺産にも指定された歴史的中心ソカロも古くさい、と言うことであろうか。また、未だ近代建築の理念と美学は根強いということであろうか。ソカロが経済的に地盤沈下しつつあることはよくわかる。ちょっとしたレストランなど夕方7時を過ぎれば店じまいである。何らかの再開発は必至のようだ。

テノチティトランを完全に破壊して出来た栄光のコルテスの町が、超高の林立する街の底に沈んでしまうとしたら皮肉なことである。都市も500年存続すればもって瞑すべしということであろうか。もっとも、顔見知りになったラテンアメリカ・タワーの足下の古本屋の主人は、メキシコには金無いし、何も変わらない、と平然としているのである。






 

[01] 21世紀のユ-トピア 都市再生という課題(1)「バブリ-なオランダ建築」,日刊建設工業新聞,20011130

[02] 21世紀のユ-トピア 都市再生という課題(2)「問われる歴史的都市核の再開発」,日刊建設工業新聞,20020111

[03] 21世紀のユ-トピア 都市再生という課題(3)「元気なロンドン・テムズ川・サウス・バンクス」,日刊建設工業新聞,20020201

[04] 21世紀のユ-トピア 都市再生という課題(4)「再開発の壮絶なる失敗ケ-プタウンのディストリクト・シックス」,日刊建設工業新聞,20020222

[05] 21世紀のユ-トピア 都市再生という課題(5)「バ-ドウォッチングのできる都心 ジャカルタのニュ-タウン・イン・タウン」,日刊建設工業新聞,20020315

[06] 21世紀のユ-トピア 都市再生という課題(6)「アイデンティティとしての空間形式(街区と町屋) マラッカ オ-ルドタウン」,日刊建設工業新聞,20020531

[07] 21世紀のユ-トピア 都市再生という課題(7)「「中国共産党第一次全国代表大会会址」が「スタ-バックス」に 超高層の谷間に「里弄住宅」 上海 新天地」,日刊建設工業新聞,2002615

[08] 21世紀のユ-トピア 都市再生という課題(8)「大雑院から高層マンションへ 歴史的大改造 北京 消えゆく胡同 消えゆく四合院」,日刊建設工業新聞,200207 12

[09] 21世紀のユ-トピア 都市再生という課題(9)URA(都市再開発機構)の挑戦 甦るショップハウス・ラフレシア シンガポ-ル チャイナタウンの変貌」,日刊建設工業新聞,20020830

[10] 21世紀のユ-トピア 都市再生という課題(10)「地下に眠るロ-マの都市遺構 ウォ-タ-フロント・バルセロネ-タ バルセロナ ガウディの生き続ける街」,日刊建設工業新聞,20020927

 

2021年9月15日水曜日

21世紀のユ-トピア 都市再生という課題(1)「バブリ-なオランダ建築」

 21世紀のユートピア・・・都市再生という課題

都市再生とは何か。何を再生するのか。都市再生デザインの行方を探る

布野修司 日刊建設工業新聞200111302002092710

 この五年の間、「植民都市空間の起源・変容・転成・保全に関する調査研究」(文部省科学研究費助成研究)と題する研究プロジェクトに携わってきた。〈支配←→被支配〉〈ヨーロッパ文明←→土着文化〉の二つを拮抗基軸とする都市の文化変容が主題である。自ずから、世界史的なスケールにおいて、都市の未来を考える機会となった。

二一世紀の鍵を握る今日の発展途上地域の都市は、ほとんどが植民都市としての歴史をもつ。各都市は、人口問題、環境問題に悩む一方で、共通の課題を抱え始めている。植民地期に形成された都市核の再開発問題である。植民都市遺産を否定するのか、継承するのかはかなり大きなテーマである。

顧みるに、我が国は、「都市再生」の大合唱である。一体「都市再生」とは何か。再生する都市遺産とは一体何か。世界中のいくつかの事例に即して、様々な角度から考えて見たい。


21世紀のユ-トピア 都市再生という課題(1

バブリ-なオランダ建築 ハーグ駅前再開発 

 ポストモダン建築の最後の競演、饗宴、共演!?

 マイケル・グレイブス、シーザ・ペリ、レム・コールハウス、リチャード・マイヤー、アルド・ロッシ他

長年つき合ってきたインドネシアのことを調べるには宗主国であったオランダに赴くことになる。ケープタウン、コロンボ、マラッカ、インドネシア以外でも、ポルトガルの拠点を襲ってオランダが基礎を築いたアジアの都市は少なくない。資料漁りのために最も通ったのはハーグ中央駅に接している王立図書館、国立公文書館である。

そのハーグ中央駅の駅前がなんとも賑やかである。

趣のある歴史的建物の背後に異形の高層建築が二つ見える。オランダはハーグの王宮手前から中央駅を望んだ光景である。左の砲弾形のビルがシーザ・ペリ、右の急勾配の切り妻屋根が二つ連なるビルがマイケル・グレイブスの設計だ。

国際司法裁判所があり、歴史ある落ち着いた町として知られるハーグの駅前に、よくもまあ次々に話題作がそろうものである。コールハウスの出世作といっていいドラマ・シアター(OMA 一九八〇~八七)、リチャード・マイヤーのハーグ新市庁舎(一九八六~九五)も隣接して建っている。国際的建築家の時ならぬ饗宴の感がある。マスタープラン(一九八八~)は、ロブ・クリエである。

オランダ建築には昔から興味があった。アムステルダム派の建築が好きで随分見て歩いた。アムステルダム派の住宅作品が建ち並ぶベルヘンのパーク・メールウクなど三度も行った。J. J. P.アウトやブリンクマンの力量にも惹かれるけれど、ロッテルダム派よりアムステルダム派の方が僕の肌には合う。ハーグは両都市の中間で、両派の師匠と言っていいH. P. ベルラーエの市立美術館(一九二七~三五)やキリスト第一教会(一九二五/二六)、ネーデルランド事務所ビル(一九二一~二七)が残っている。そして、P. L.クラマーの百貨店(一九二四~二六)もあればG.THリートフェルトの住宅作品もある。

それにしても、ハーグに限らず、アムステルダムにしろ、ロッテルダムにしろ、近年のオランダ建築の元気の良さにはびっくりするやら、うらやましいやらである。

しかし一方で、ポストモダンの建築などもう流行らないのではないのか、という気がしないでもない。負け惜しみのようだが、歴史ある都市をここまで改造して大丈夫かな、という気がしてくる。まるでバブル期の日本建築を見るようなのだ。マスタープランが立てられたのは1980年代の終わりである。ポストモダン理論が色濃く投影されているとしても当然かも知れない。

しかし、ポストモダンの都市計画理論とは何か。ポストモダン歴史主義のデザインというのは歴史的文脈を取り戻そうという動きであった。しかし、個々の建築が建つ具体的な場所の歴史についてはどのような方法を採ろうとしたかは不明である。地となる街並みが近代建築のデザインで支配されるそういう場所での自己主張の表現は得意でも、地となる街並みが歴史的な文脈を色濃く持つ場合はどういう解答になるのか、それが問題である。

個々の建築家は、それぞれがそれなりにハーグの町を読んで、それぞれに解答を出しているように見える。しかし、その解答の方向はばらばらである。むしろ、建築家の我が儘の表現が無秩序に並んでいるように見える。ハーグの町の未来がここに示されているとはとても思えない。

無味乾燥な近代建築の立ち並ぶ景観にポストモダンの歴史主義は確かに一撃を加えたかも知れないけれど、しっかりした歴史的街並みの前ではどうしても薄っぺらに見えてしまう。競演が饗宴に終始し、共演になり得ていないのが致命的ではないか。



[01] 21世紀のユ-トピア 都市再生という課題(1)「バブリ-なオランダ建築」,日刊建設工業新聞,20011130

[02] 21世紀のユ-トピア 都市再生という課題(2)「問われる歴史的都市核の再開発」,日刊建設工業新聞,20020111

[03] 21世紀のユ-トピア 都市再生という課題(3)「元気なロンドン・テムズ川・サウス・バンクス」,日刊建設工業新聞,20020201

[04] 21世紀のユ-トピア 都市再生という課題(4)「再開発の壮絶なる失敗ケ-プタウンのディストリクト・シックス」,日刊建設工業新聞,20020222

[05] 21世紀のユ-トピア 都市再生という課題(5)「バ-ドウォッチングのできる都心 ジャカルタのニュ-タウン・イン・タウン」,日刊建設工業新聞,20020315

[06] 21世紀のユ-トピア 都市再生という課題(6)「アイデンティティとしての空間形式(街区と町屋) マラッカ オ-ルドタウン」,日刊建設工業新聞,20020531

[07] 21世紀のユ-トピア 都市再生という課題(7)「「中国共産党第一次全国代表大会会址」が「スタ-バックス」に 超高層の谷間に「里弄住宅」 上海 新天地」,日刊建設工業新聞,2002615

[08] 21世紀のユ-トピア 都市再生という課題(8)「大雑院から高層マンションへ 歴史的大改造 北京 消えゆく胡同 消えゆく四合院」,日刊建設工業新聞,200207 12

[09] 21世紀のユ-トピア 都市再生という課題(9)URA(都市再開発機構)の挑戦 甦るショップハウス・ラフレシア シンガポ-ル チャイナタウンの変貌」,日刊建設工業新聞,20020830

[10] 21世紀のユ-トピア 都市再生という課題(10)「地下に眠るロ-マの都市遺構 ウォ-タ-フロント・バルセロネ-タ バルセロナ ガウディの生き続ける街」,日刊建設工業新聞,20020927

 


2021年9月14日火曜日

一九一〇年代のシカゴ, 黒テントJUNGLE公演パンフ、 19990527

 一九一〇年代のシカゴ, 黒テントJUNGLE公演パンフ, 19990527

一九一〇年代のシカゴ

布野修司

 

 ブレヒトの『都会のジャングル』の舞台は一九一〇年代のシカゴである。そして、まさにテーマは「ジャングルとしての都会」だ。「まだ誰も大都市をジャングルとして描きだしてはいない」という「画期的発見」によって書き始められたというのがこの戯曲である。

 

 ★

 何故、シカゴなのか。

 台本を追うと、「一九一二年八月八日朝 シカゴにあるC.メインズの貸本屋」から「一九一五年一一月一九日」の一週間後「死んだC.シュリンクの個人事務所」まで全一一場からなる(一九二二年の初稿は一六場。一九二七年のダルムシュタット講演より現在の形となる)。「貸本屋」「材木商C.シュリンクの事務所」「ガルガ家の屋根裏部屋」「チャイナホテル」と舞台のほとんどは都会といっても屋内の一室である。屋外の設定は、第六場と第一〇場の「ミシンガン湖」のみだ。しかも、「雑木林」「砂利採集場」という設定である。猥雑な「スラム」やいかがわしい「盛り場」が出てくるわけではない。場所の臭いはしないのである。都市そのもの、あるいは街路や広場は舞台ではない。「マルベリー通り六番」とか「ミシガン湖」といった極くわずかな地名を除けば、シカゴという都市の具体的な場所を想起させる場面はない。頻繁に出てくるのは、むしろ「タヒチ」とか「ヨコハマ」(横浜生まれのマレー人C.シュリンク!)、「パプア」といった地名である。

 ブレヒトは「背景としてのアメリカ」を選んだのであって必ずしもシカゴという具体的な都市が問題ではなかったように思える。ブレヒトにとって「ジャングルとしての大都市」とはベルリンに他ならない。また、観客にとって直接的にイメージされるのもベルリンである。しかし、ブレヒトはシカゴを選んだ。「サンフランシスコ」と「ニューヨーク」、そしてガルガの家族がかって住んでいた「サヴァンナ」、さらに「タヒチ」「パプア」「ヨコハマ」といった地名によって想起される地理学的空間が意図的に設定されたのである。

 「背景としてアメリカを選んだのは、しばしば考えられているようにロマン主義への執着からではない。ベルリンを選んだって、別にかまわなかっただろう。しかし、ベルリンを選べば、観客は、〈人間というものは、奇妙で、ぎょっとするような、おどろくべき行動をするものだな〉などといわなかっただろう。〈そんな行動をするベルリンなどは、ただの例外にすぎん〉といって、すませてしまうことだろう。ぼくの描いたタイプに本質的に一致し、それらのタイプを拒むのではなく包み込んでしまう背景(それがアメリカだ)こそ、現代にふさわしい多くの人物の行動様式に注目させるのにもっともぐあいのよい背景ではないか、とぼくは思った。背景をドイツにしたのでは、これらのタイプはロマンティックなものになってしまう。」(一九二八年のハイデルベルグ講演のパンフレット。ブレヒトコレクション②、晶文社、あとがき、石黒英男)

 直接的には「シカゴにやってきた東欧からの移住者の悲惨な生活を描いた」アプトン・シンクレアの『ザ・ジャングル』が(少なくとも題名の)ヒントになっているという(ブレヒト戯曲全集①、未来社、岩淵達治)。しかし、シカゴという設定はブレヒトの説明に依れば右の理由による。ブレヒトにはある距離が必要であった。「マレー人」材木商シュリンクという設定もそうだ。「東洋的な相貌」「シカゴ」という設定によって一端はベルリンを異化する必要があった。「奇妙で、ぎょっとするような、おどろくべき行動をする」人間たちを包み込む場所として設定されているのがシカゴなのである。

 

 

 しかし、何故、ニューヨークでなくてシカゴか。シカゴとは如何なる都市か。

 ブレヒトの『都会のジャングル』にとってシカゴは単に背景として必要であったということを確認した上で、テキストを離れて、一九一〇年代(一九一二年~一五年)のシカゴを振り返ってみよう。ブレヒトとその時代についてのなにがしかを考える材料となるかもしれない。

 ブレヒトの『都会のジャングル』がミュンヘンで初演された一九二二年、シカゴで近代建築の行方を左右するコンペが開催されている。当時世界最大の日刊紙発行を誇るシカゴ・トリビューン社新社屋のコンペだ。アメリカ人建築家一四五人にに加えて、A.ロース、B.タウト、L.ヒルベルザイマー、W.グロピウスとA.マイヤーなど近代建築運動を主導した蒼々たる建築家たちがヨーロッパから参加している。高さ四〇〇フィートのスカイスクレーパー(摩天楼)の設計において、来るべき都市のデザインが問われたののである。ニューヨークのエンパイア・ステートビルや世界貿易センタービルと競いながら、シカゴが世界一の高さのビルに拘り続けたことは、ジョン・ハンコック・ビルやシアーズ・タワーが示している。クアラルンプール(マレーシア!)のツインタワーにその地位を譲るまで世界一の高さを誇ったのはシアーズ・タワーだ。

 実はシカゴでこそこうしたコンペが行われる理由があった。建築技術の歴史において超高層建築を用意したのはシカゴなのである。経済学(F.A.ハイエクら)、社会学(R.E.パークら)、政治学(C.E.メリアムら)などと同様、建築界にもシカゴ・スクールがある。一九世紀末にシカゴで活躍したW.B.ジェニー,D.H.バーナム、L.サリバンなどの一群の建築家をいう。超高層を可能にしたのは、エレベーター技術である(I.G.オーティスのアイディアを実用化したW.L.ジョンストンの設計したジェーン・グラナイト・ビル(フィラデルフィア、一八五二年)が最初とされる)が、その前提として高さを可能にする構造技術(剛構造の技術)が必要であった。それを発達させたのがシカゴ・スクールの建築家たちである。そして、シカゴの目抜き通りであるステート・ストリートは彼らの建築によってその骨格がつくられたのである。

 それだけではない。F.L.ライトがL.サリバンのもとで育つのがシカゴであり、バウハウスとともにミース.vd.ローエが亡命(一九三七年)してくるのがシカゴである。そのイリノイ工科大学のクラウンホールやミシガン湖畔のアパート、レイクショアドライブは近代建築の傑作とされる。シカゴは近代建築のメッカである。

 一八八九年のパリ博をはるかに超える規模で催された一八九三年の世界(コロンビア)博以降、華々しい都市美化運動の展開によってシカゴは世界の注目を集めつつあった。そこで開催されたのが、ヨーロッパとアメリカの建築家が集う一大イヴェントである。ブレヒトの耳にシカゴ・トリビューンをめぐる建築界の熱狂が届いていたかどうかはわからない。しかし、観客たちの中にはそうした情報はあったであろう。少なくとも、近代的大都市を象徴するスカイスクレーパーとシカゴという名前が一般に結びついていたことは間違いないところだ。

 

 ★

 もちろん、ブレヒトが「背景」にしようとしたのは、テクノロジーを謳歌し、都市美化を装う、そうしたシカゴではない。ブレヒトの頭にあったのは一九一九年の人種暴動ではなかったか。アル・カポネらギャングの跋扈する、腐敗と無法の暗黒街は一九二〇年代のシカゴだけれど、一九世紀末のシカゴは、労働運動の中心地であり、既に血なまぐさい事件の絶えない町であった。ユニオン・ストック・ヤードの悲惨は、それこそアプトン・シンクレアの『ザ・ジャングル』きち描くところだ。一九世紀末には工場労働者のストライキが相次いでいる。シカゴは一攫千金の夢を実現させる都市である一方、生き馬の眼を抜くような、生存競争の町であった。

 シカゴとはもともとインディアンの言葉でニンニクを意味するのだという。一八世紀までは何もない土地だ。一九世紀初頭に砦が設けられ、一八三三年にタウンシップ(町制)が設定されるが人口は千人に充たない。アメリカではお決まりのグリッド(格子状)の街区割だ。一平方マイル(一.六キロ四方)が単位である。やがて、東西をつなぐ交通の要衝として発達をはじめ、一九世紀中葉で人口三万人に達する。移民が急増するきっかけになったのはニューヨーク-シカゴ間の大陸鉄道の開通である。一八六〇年に一一万人、一八七〇年に三〇万人、一八八〇年に五〇万人、一八九〇年に一一〇万人。一九〇〇年に一七〇万人、すさまじい人口増加だ。シュリンクとガルガの闘争の舞台となった一九一〇年から一九二〇年にかけて人口は二一九万人から二七〇万人に膨れあがっている。一九一〇年のベルリンが二〇七万人(一九二〇年の合併後の大ベルリンは三八六万人)だからほぼ同規模だ。一九世紀の首都パリもほぼ同じ規模だ。新興アメリカ合衆国の二〇世紀の世界都市とみなされつつあったのがシカゴであった。

 急速な人口増加によって生み出されるのが「スラム」である。そして上下水問題、衛生問題、廃棄物問題、住宅問題が大きな都市問題となる。都市美化運動が展開されたのはまさに「スラム」がシカゴを覆う状況を背景としてのことである。都市社会学者E.W.バージェスの同心円理論はまさにシカゴを研究対象として生み出された。シカゴを支えた商工業の発達は多くの富豪を生む一方で大量の下層民を郊外と都心の間に吸収したのである。そして、シカゴの都市文化を支えたのはこうした「スラム」であり、「移民社会」であった。D.H.バーナムは、一九〇七年にシカゴの改造計画を立てている。アメリカ大都市最初の全体計画案と言っていい。グリッドの街区を引き裂いて放射状のアヴェニューが走る。そして、円弧状の環状道路を設ける構想である。一九一〇年代のシカゴは明らかにその当初の姿を大きく変えようとしていた。

 

 ★

 移民については詳細な資料、統計がある。一九二〇年に、十万人を超えるのがポーランド、ドイツ、ソ連でイタリア、スエーデン、リトアニア、チェコスロバキア・・が続く。そうした、多くの移民達は居住地を棲み分けモザイク状に住区を形成していく。アーヴィン・カトラーの『シカゴ』(Irving Cutler:CHICAGO-Metropolis of the Mid-Continent,Kendal,1982)は、各移民がどこにどう住んだかを詳細に明らかにしている。東ヨーロッパから移民が三六パーセントを占めるのが注目されるが、ドイツからの移民も一貫して高い。最初の入植は一八三〇年代に遡るが、増加するのは一八四八年のベルリン三月革命以降である。いわゆる学歴の高い改革派、いわゆる「フォーティ・エイターズ」がドイツ移民の初期の中核を形成する。ドイツ移民が居住したのはノース・アヴェニューであり、一帯の通りにはゲーテ、シラー、レッシング、ベートーベンといった名がつけられた。ドイツ語の看板やサインがかかっていたという。ミースなど亡命者を受け入れたのはこうしたドイツ移民のコミュニティである。ブレヒトがシカゴについて、ドイツ移民の社会を通じて様々な情報を持っていたと考えるのはむしろ自然であろう。

 第一次世界大戦の勃発と共にヨーロッパからの移民が減少すると、労働力不足を補うために南部から大量の黒人が流入してくる(一九一〇年から一九二〇年にかけて四万人から一一万人に増加する)。黒人たちはブラック・ベルトを形成しながら住みついていく。そして起こったのが一九一九年のサウスサイドの大暴動なのである。

 ところでマレー人、あるいはアジア人はどうか。アジア人の移住が増えるのは主として戦後である。第二次世界大戦以前には数百の日本人が住んでいた。また、アメリカが植民地化したフィリピンとの関係がある。フィリピン人は一九二〇年代から居住を開始し、一九三〇年には約二〇〇〇人がシカゴに住んでいた。

 都市美化運動を主導した建築家、シカゴ・スクールの中心人物D.H.バーナムは、一九〇四年に横浜、東京経由でマニラを訪れている。そして、マニラとともにバギオの都市計画案をつくっている。また、彼はサンフランシスコの都市計画案でも知られる(Giorgio Ciucci et al:The American City, MIT, 1979)。シカゴ、サンフランシスコ、マニラの街区パターンがよく似ているのは当然だ。日本とシカゴの関係については、D.H.バーナムのもとで学んだ建築家下田菊太郎の存在がある。F.L.ライトが帝国ホテルの設計のために日本を訪れたのは一九一五年である。一九一〇年代のシカゴとアジアは様々につながっていたのである。

 シュリンクはマレー人といっても「ヨコハマ」生まれということだから、チャイニーズ・マレーと考えていいだろう。何故か、シュリンクは子供の頃「揚子江で手漕ぎ船に乗っていた」という。中国と関係があるのは間違いない。「チャイナホテル」が場面として設定されているところを見ると、ブレヒトはシカゴのチャイナタウンについてはなんらかの情報を持っていたに違いない。

 シカゴで最も古いアジア人居住区は、もちろん、チャイナタウンである。ヴァン・ブレン・ストリートの南、クラーク・ストリートに沿ったダウンタウンに一八八〇年代末に形成された。彼らはほとんどがサンフランシスコ経由でシカゴに入り、鉄道関係で職を得た。また、飲食店、洗濯屋が一般的な職業である。だから、材木商というのは成功した移民ということになろう。一九一二年、業務地区の拡張に伴い、新たなチャイナタウンがチェルマック・ロードとウエントワース・アヴェニュー周辺につくられる。現在でも一五〇〇〇人を超えるチャイニーズの三分の一はこのチャイナタウンに住んでいるが、『都会のジャングル』の舞台となったのは間違いなくこのチャイナタウンである。思わず「間違いなく」と書いた。ブレヒトの仮構した、チャイナホテルとシュリンクの事務所は、「あった」とすれば、このチャイナタウンの中にあったに違いないのである。