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2022年12月18日日曜日

デジタルファブリケーションの未来 ―秋吉浩気の華麗なる冒険― 『メタアーキテクト 次世代のための建築』を読む、スペルプラーツ、2022

デジタルファブリケーションの未来──秋吉浩気の華麗なる冒険『メタアーキテクト 次世代のための建築』を読む|布野修司|株式会社スペルプラーツ|note 

書評 秋吉浩気『メタアーキテクト 次世代のための建築』スペルプラーツ、2022

 

デジタルファブリケーションの未来

―秋吉浩気の華麗なる冒険―

『メタアーキテクト 次世代のための建築』を読む

 次世代への贈与

「何のために、誰のために建築をつくるのか。この根源的な問いを模索するために本書を書き始めた」。冒頭(はじめに)の第1行である。

一瞬、原広司の『建築に何が可能か──建築と人間と』(1967)の冒頭を想った。

『建築とは何か』という問いは、『人間とは何か』という問いが不毛であると同様に、行動の指標とはなりえない。もし私たちが人間について問うなら、『人間に何ができるか』を問うべきである。同様に建築についても、『建築に何ができるか』と問うべきであろう。このふたつの問いの内容には一見さしたる差異もないようにみえるのであるが、実はかなりの断絶がある。

(第一章 Ⅰ 初原的な問い)。

 

原広司がこの処女論集を上梓したのは30歳、秋吉浩気34歳、初々しい問いである。

秋吉の場合、すぐさま続けて答えを書いてくれている。「建築をつくることは「次世代への贈与」を行うことであり、林業における植林のように時代の繁栄に向けて建築というかたちで物語を託すことである。」と。「次世代のための建築」というのは本書のサブタイトルである。いまここに生きているわれわれ世代には関係ないの? と思うと、すぐさま、「未来なんかない、あるのは希望だけだ」と言ったのはイヴァン・イリイチだが、裏を返せば希望がないかぎり未来はないというわけだ」と続けている。「希望の火を灯し未来をつくる、その物語を建築によって次世代に届けるのが建築家である」という。問題は、秋吉の物語がどういう物語か? ということである。

 

 産業社会批判

イヴァン・イリイチ(19262002)というウィーン生まれの哲学者、文明批評家の名はどれだけ若い世代に知られているのであろうか。イリイチの脱学校論(『脱学校の社会』(1977)Deschoolinng Society1971])、脱病院論・医原病(『脱病院化社会──医療の限界』[1979)]は、施設計画学を組み立ててきた吉武泰水・鈴木成文研究室を出自とする評者には決定的なインパクトを与えたが、それだけではない。ヴァナキュラー、オールタナティブ・テクノロジー(『エネルギーと公正』[1979])、コンヴィヴィアリティ(『自由の奪回──現代社会における「のびやかさConviviality」を求めて』(1979)『コンヴィヴィアリティのための道具』(1985))、ジェンダー(『ジェンダー──女と男の世界』[1985]、シャドウ・ワーク(『シャドウ・ワーク――生活のあり方を問う』[1982)、サブシステンス、そして『人類の希望――イリイチ日本で語る』(1984など、産業社会批判に関わるキー概念を次々に提出するイリイチの著作は必読書として多くに読まれた。最初の1頁に現れるイリイチの名前によって、本書の問題意識を予感することになる。

イリイチについては、「3章 変わる経済──ポストキャピタリズム論」で、さらにB.フラー『宇宙船地球号 操縦マニュアル』(1968)、ローマクラブ『成長の限界』(1972)、E.シューマッハー『スモール イズ ビューティフル』(1973)などとともに触れられる。

「今必要なのは新しい思想ではなく、むしろ彼らの見出した仮説を検証し実行する担い手と実践なのではなかろうか」というが、秋吉浩気が生まれる(1988)前の著作である。本書には、随所に、先行世代による仕事、著作への言及があり、その思索を未来に引き継ぐ構えがあるが、先行世代はいったい何をしてきたのか、という提起でもある。

 

 メタアーキテクト

アーキテクトとは、コンピューター・アーキテクトという言葉がすでに定着しているように、アルケーArcheのテクネーTechneすなわち根源の技術(技能)に関わる存在(職能)だから、十分偉い! のであるが、タイトルはメタアーキテクトである。メタすなわち「超越した」「高次の」アーキテクトだから相当偉い! これも冒頭にすぐさま説明がある。自らを客観視する高次の次元に到達し(メタ認知)、代謝を繰り返し(メタボライズ)、変貌(メタモルフォーゼ)を遂げる存在である。もう少し、端的には「プロフェッサー×アーキテクト」時代の栄光を捨てた「アントレプレナー×アーキテクト」という。すなわち、メタアーキテクトを自称する現在の秋吉浩気である。

 

メタアーキテクトをめぐっては、「5章 変わる職能──メタアーキテクト論」で議論される。そこでは建築家の職能をめぐって、西欧のマスタービルダーや日本の大工棟梁にも触れ、『秋葉原感覚で住宅を考える』「D-D方式」の石山修武をメタアーキテクトの源流に位置するといい、「地域住宅工房」「ネットワーク型の町場職人システム」の大野勝彦、アーキテクトビルダー論のC.アレグザンダーにも言及するから、必ずしも突拍子もない提起ではない。本書でさらに新たに提出される興味深い概念は、MaaS(モビリティ・アズ・ア・サーヴィス)を捩った「アーキテクツ・アズ・ア・サーヴィスAaaS」である。システムの中に消去されるメタアーキテクトとシステムをデザインするメタアーキテクトは一般には分裂する。本書での秋吉は後者である。

 

 理論と実践

本書は、日本に久々に現れた建築理論書である。原広司を最初に思い浮かべたけれど、彼には、BE(ビルディング・エレメント)論、有孔体理論があった。さらに集落論、様相論の展開がある。秋吉は、本書で、菊竹清訓の『代謝建築論──か・かた・かたち』に何度か触れている。磯崎新にはプロセス・プランニング論があり、手法論、引用論の展開があった。『建築少年たちの夢』(2011)で、磯崎、原以下、安藤忠雄、藤森照信、伊東豊雄、山本理顕、石山修武、渡辺豊和といった評者の先行世代の建築論について考えたが、以降、内藤廣、隈研吾にしても、妹島和世にしても、議論するに足る建築理論の展開がない。本書には、先行理論を大きく取り込む構えがあり、建築理論の地平を再構築する必要を再認識させるものがある。

小さな本だけれど、構成に工夫がある。というか、実に凝った構成である。曰く「この本では左右別々の物語が進行する」。右が「事」「構想」「起業家」、左が「物」「行動」「作家」、両義性をそのまま共存させる狙いがあるというが、要するに、右が理論、左が実践である。理念あるいは理論がそのまま実現するということはむしろ稀であり、逆に、一般には実践が理論を深化させる。最近、ある都市の歴史についての本で(『スラバヤ──コスモスとしてのカンポン』[2021])、出来事と空間を分ける、似たような構成を考えたからよくわかる。建築の図面や写真を文章の挿絵にするのでも、建築の図面や写真をただ解説しているわけではないということである。「造ったり考えたり」は、内田祥哉先生の言葉であるが★1、「左手で論文、右手で設計」は、評者の口癖である。

理論書あるいは学術書というと、起承転結あるいは序破急といった枠組みが問われるが、それは、本書において、少なくとも形式的には見事に貫かれている。目次を見れば、その形式主義は一目瞭然である。おそらく、頁割も絡むこの構成には編集者との共同作業が不可欠だったと思う。

まず、左頁を一気に読んだ(見た)ほうがいいと思う。Ⅰ建築以前 ⅰ場づくり ⅱ事づくり ⅲ人づくり、Ⅱ建築未満 ⅰ離散構法の構造 ⅱ線材構造の構法 ⅲ面材構造の構法、Ⅲ建築以降 ⅰ規模展開 ⅱ水平展開 ⅲ垂直展開というのが目次である。

 

ショップボット

すべては、3CNC(コンピュータ数値制御)加工機ショップボットShopBotから始まる。

DIYによるリノベーションのための家具などを製作する工房とともにショップボットを4tトラックに積んで各地を巡回する移動式工房を立ち上げた。2022年初頭の段階で、全国に113台導入したという。ショップボット1台でさまざまな身近な木工品や家具が製作できる、各地でのワークショップが多くの参加者を惹きつけたことは想像に難くない。ショップボットは、自らの手で身近なものをつくる道具となったのである。かつて、石山修武率いるダムダン空間工作所(1973年設立)が2×4の端材で積木や木馬のような遊具を製作して販売したことを思い出す。ル・コルビュジェ、C.R.マッキントッシュ、M.ブロイヤー、T.リートフェルト、丹下……建築家の名前を関する椅子は少なくないが、建築家は、本来、空間を構成する全てのものをデザインする存在であった。村野藤吾の時代までは、ドアノブ、各種金具、洗面台……すべて建築家がデザインし、逆に、それが商品化されるのがむしろ一般的であった。石山修武とダムダン空間工作所はD-D(ダイレクト・ディーリング)方式と呼んだが、建築を構成する建材、部品、家具など全てを市場価格より低価で供給し、自力建設(セルフビルド)によって自らの空間をつくりあげる、そうした仕組みを夢想したのであった。当時、石山修武をマニラの「フリーダム・トゥー・ビルド」★2、バンコクの「ビルディング・トゥゲザー」★3に案内する機会があったが、頼みもしないのに、石山は部品、部材の価格をリストにしてくれた。その夢想は、発展途上国においては現実化されつつあったのである。

 

建築以降→?

秋吉浩気は、建築未満から建築へ向かう、というけれど、すべてが建築と言えばいいのではないか。建築未満(Ⅱ)というけれど、建築構法の模索といったほうがいい。建築の架構、構法、工法は、建築の骨格を規定する。伝統的な柱梁構造、ログ構造、あるいは2×4工法のような単純な?[a1] 工法であれば、すなわち、建築架構のシステムが決まっているのであれば、柱とか梁など部材をデジタル加工することはすでにシステム化されており、プレカット工場など生産システムはできあがっている。

だから、ショップボットが加工できる木材部品による新たな架構方式が追及された。建築システムとしては、限定された特異な回答の模索である。その模索は実に楽しそうである。造形的な可能性を追求するのは、CAD3Dプリンター、そしてショップボットを手にした建築家にとっては必然である。

そして、利賀村の《まれびとの家》を実現する機会が訪れた。以降が「Ⅲ 建築以降」である。磯崎新の処女建築論集は『空間へ』(1971)であるが、「Ⅲ 建築へ」というべきか?合掌造りの伝統の地域ではちょっと異質な急勾配の架構であるが、ショップボットによってひとつの空間を実現したのが《まれびとの家》である。

そしてさらに、「量」を追求する軸と「質」を追求する軸の2方向の模索を始めたというが、前者の展開として開始したのが「Nesting」というプレファブ住宅事業である。後者のさらなる展開として、「建築家事業」を行うVUILD Architectsを立ち上げた(2017)。この「建築家事業」というのは何か? メタアーキテクトの仕事なのか? 通常のアーキテクトの仕事なのか?

左頁を追いかければ、その軌跡は実に分かりやすい。「Ⅲ 建築以降」というのであれば、次のステップとして「Ⅳ 都市へ、あるいは街区へ」を見たいと思う。

建築をいくつかの要素(部品、家具、部屋……)あるいはいくつかのシステム(躯体、内装、設備……)からなるものと考え、建築から都市まで一貫するシステムとして構成する先行理論としてN.J.ハブラーケンの「建築=都市構成理論」がある。槇文彦の「群像形論」があり、大谷幸夫の「都市構成論」(麹町計画)がある。

 

デジタルファブリケーションが世界を救う?

さて、本論である。本論は6章構成である。目次を追うだけで論の展開の広大さ一目瞭然である。社会、産業、経済、流通、要するに世界全体を問い、その未来を展望しようとするのである。秋吉が自らに課すのは世界システムについてのヴィジョンである。

未来ヴィジョンを明快に語るのは、上述のように、3章の「変わる経済―ポストキャピタリズム論」である。脱成長のために、「脱商品化・脱植民地化・脱画一化・脱集約化・脱グローバル化」をいかに実現するかが問題であり、あとは実行するだけだ。そのためには、デジタルファブリケーションが武器になる。分散加工、小型部品、参画を基本とする自律分散型の産業システムがそれを可能にするという。

変わる社会(1章)というのは、言うまでもなく、この間のICT革命、AIの進化、CAD BIM……などデジタル社会の到来、GAFAなど巨大なプラットフォーマーが世界を支配するそうした時代の到来をいう。しかし、建築業界、建築家はまったく対応できない。だから、社会(建築業界)を変える起業(アントレプレナー×アーキテクト)が必要であり、社会のヴィジョンを提示する建築家メタアーキテクトが必要である。簡単に言えば、本書の主張は、そういうことである。

ただ、デジタルファブリケーションによって、分業化と専門分化を克服できる、「このような余剰を必要としない民主的な中間技術をもってすれば、かつての狩猟採集民族のように(その?)都度必要なものを自分で生産できる能力を取り戻し、土地に縛られず、誰に管理されることなく、自由に生きていくことができる。」と、あっけらかんに書くけれど、[a2] である。水をかけるつもりはない。[a3] 「暗号資産による贈与経済」「近代以前の社会と接続する共有型経済と循環型経済」にしても、「個人で家を買うのではなく、集団で家を共有する必要がある」「所有せずに私有(私用?専用?)できる住まいというものが成立すればいい」にして、評者を含めた先行世代も似たようなことをしゃべってきたのである。

「丹下健三の「東京計画1960」やメタボリストたちのように、誰に依頼されるのでもなくビジョナリーな社会像を提示することともある。しかし、これらの未来像が実現することはまれであり、単なる絵空事で終わることが多い。」という秋吉の一節については、かつて以下のように書いたことがある。

アーバン・デザインという一つの領域を仮構し、建築の構想力による都市のフィジカルな配列を提案することによって、その社会的、経済的、技術的実現可能性を問うというスタイルは、近代建築の英雄時代の巨匠のスタイルである。そこでの建築家のイメージは、思想家にして実践家、総合の人間であり、世界を秩序づける<世界建築家>としてのそれといえようか。

「第一章 建築の解体 三 諸神話の崩壊」『戦後建築論ノート』(1981

 

この<世界建築家>とメタアーキテクトの位相はどう異なるのか。秋吉浩気は「実現したい社会像があるならば、自分で実現したほうが早い。実現したいという情熱と行動力さえあれば、資金も仲間も集まる幸運な時代に生きているからだ。」という。頼もしいと言えば頼もしい。

 

デジタルヴァナキュラー

「建築とはきわめて政治的で経済的な活動であり、けっして科学や工学や美学の領域にとどまるものではない。社会はむしろ技術や芸術の外にある。」と、秋吉は冒頭(はじめに)に書いている。2行目[a4] を除けば異議はない。

高度成長の1960年代の最後を華々しく飾ったExpo70の後、磯崎新は、

社会変革のラディカリズムとデザインとの間に、絶対的裂け目を見た

といい、

デザインと社会変革の全過程の両者を一挙におおいうるラディカリズムは、その幻想性という領域においてのみ成立すると言えなくもない。逆に社会変革のラディカリズムに焦点を合わせるならば、そのデザインの行使過程、ひいては実現の全過程を反体制的に所有することが残されているといってよい。

と書いた(「第9章 「世界建築」の羅針盤―磯崎新 二 建築の解体、そして「建築」宣言」、拙著『建築少年たちの夢』[2011])。

秋吉浩気の根源的問いは共有されてきたと思う。これまでの建築家は「10%の人類のための建築家」であったというというのは、B.ルドフスキーの『建築家なしの建築Architecture without Architects』(あるいは『驚異の工匠たち』?)の冒頭の科白である。B.ルドフスキー、ヴァナキュラー建築、デザイン・サーヴェイについては「4章 変わる流通──デジタルヴァナキュラー論」に言及があるが、秋吉はそこで「まれびとの家」をデジタルヴァナキュラーの建築として位置づけている。ヴァナキュラー建築の世界、「誰もが建築家でありうる」という地平への視線は1970年代初頭には共有されており、自力建設(セルフビルド)は、若い建築家、建築学生の「流行」であった。しかし、時代を制してきたのは産業化の流れである。

 

地球のデザイン

今、その流れは大きく転換しつつある。未来の世界は、インターネット(メタバース)[a5] によって世界中が緊密につながる一方、空間的には分散して居住する、そんな世界である。Covid-19がそれを加速しつつあるように思える。デジタルファブリケーションはそうした世界と親和性がありそうである。秋吉によれば、リーマンショックの2008年が、CNCミリングマシン・ショップボット(2003年創業)すなわち建築における減産系デジタルファブリケーション浸透の転回点で、ニューヨーク近代美術館MOMAで開催された「Home Delivery」展がその象徴になるという。

AIについては、秋吉は触れないが、近いうちにAIシンギュラリティ(コンピュータが人間の脳を超える)に達し、その後一気に加速するというレイ・カーツワイルRay Kurzweilの予想がある。秋吉も引くユヴァル・ノア・ハラリは、意識をもたないアルゴリズムがパターン認識で人間の意識を凌ぐ、すなわち、ホモ・サピエンスの制御が不能になることもありうるという。基本的にはAIもホモ・サピエンスの僕(トゥール)だと評者は素朴に思う。デジタルファブリケーションもひとつのトゥールである。そのひとつのシステム、ましてや木材という素材に限定したシステムが世界全体を覆うことはないであろう。

本書の理論展開に関わる議論をさらに整理してもいいが、紙数も相当費やしたし、一旦開こうと思う。議論は、地球のデザインをめぐり、論点は多数ある。本書をめぐってさらに議論が深化されることを願う。

 

「地球」のデザインと「住居」のデザイン、あるいは「地域」のデザインはどう結びつくのか、それこそ「最も豊富な部分をもつ<全体>」のデザインの問題である。・・・ひとつの構想は、「住居」に「地球」を埋蔵することである。……

と書いたのは、阪神淡路大震災直後のことである(『戦後建築の終焉──世紀末建築論ノート』[1995])。

システムか個の表現か、一般解か特殊解か、設計施工一貫か設計施工分離か(6章 変わる設計──ビルドデザイン論)、……『群居』(ハウジング計画ユニオンHPUの機関紙)(19822000)では、石山修武、大野勝彦、渡辺豊和、そして松村秀一など若い仲間たちと議論を続け、個別のプロジェクトと同時に日本の住宅生産流通消費のシステムのみならず世界の住宅生産流通消費のシステムも問うてきた。本書には、『群居』の歴史的議論に確実に答えるものがある。

秋吉浩気がさまざまな模索を重ねたうえで、VUILDを創業するのは2017年である。建築におけるデジタルファブリケーションを武器にした格闘はしばらく続くであろう。藤村龍至にも同じことを書いたことがあるが、ロング・ロング・ウエイ・トゥー・ゴーである。シンパシーを込めて見守りたいと思う。 

 

1 フリーダム・トゥー・ビルド
──その名は、第三世界の自力建設活動に大きな影響を与えたJohn F.C. Turnerの著書Turner, John F. C.; Fichter, Robert, eds. (1972). Freedom to Build: Dweller Control of the Housing Process. New York: Macmillan.に由来する。他に、Turner, John F. C. (1976). Housing By People: Towards Autonomy in Building Environments. London: Marion Boyars.がある。フィリピンのNGO組織Freedom to Buildは、イエスズ会神父ウィリアム.J.キースによって設立され、マニラ近郊のダスマリニャスのリセツルメント・プロジェクトなどで自力建設支援を展開した。ワークショップを運営し、市場価格より安い建材、部品を提供し、住宅の建設は居住者に委ねるのを基本理念とした。日本からJ.アンソレーナ神父が支援してきた。

 

2 ビルディング・トゥゲザー
──バンコクのアジア工科大学(AIT)で教鞭をとっていたS.エンジェルを中心として設立。S.エンジェルは、UCバークレーでC.アレグザンダーと協働、『パタン・ランゲージ』の共著者である。AITで、いくつかのモデル住宅を建てたのち基本的にはホローブロックを主構造とするビルディング・システムを採用。梁、杭はプレキャスト。現場にブロック工場、建具工場を併設し、居住者は建設活動に参加することで安価で住居を購入できる仕組み。バンコク近郊のランシットでプロジェクトを展開した。


2022年12月17日土曜日

北京・天津・大連旅日誌,雑木林の世界69,住宅と木材,199505

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ア-バンア-キテクト制,雑木林の世界74,住宅と木材,199510

ア-バンア-キテクト制,雑木林の世界74,住宅と木材,199510

雑木林の世界74

アーバン・アーキテクト制

 

  マスター・アーキテクト制について、本欄で触れたことがある(雑木林の世界61 一九九四年九月)。その後、「アーバン・アーキテクト」という耳慣れない言葉がつくられようとし、一人歩きし始めている。建築文化・景観問題研究会((財)建築技術教育普及センター)の座長を引き受けていて、なんとなく、「アーバン・アーキテクト」構想、あるいは「アーバン・アーキテクト」支援事業(建設省住宅局)について巻き込まれ出している。この間の経緯と最近考えていることを紹介してみたい。

 「アーバン・アーキテクト支援事業」という構想は、簡単にいえばこうだ。まず、まちづくりに意欲的に取り組もうとする建築家をセンターに登録する。また、まちづくりに関する様々な業務について専門家の援助を希望する自治体を募る。センターは、運営委員会を組織し、自治体の要望に最も相応しい建築家を登録名簿から複数選定し、自治体に推薦する。自治体は、推薦された建築家の中から必要に応じて建築家あるいは建築家のグループを選び業務契約を締結する。建設省は、まちづくりに関わる様々な補助事業をこの仕組みを活用する自治体について優先的に考慮し、支援する。選定された建築家(グループ)は、業務についてセンターに報告し、その経験を公表することによって評価蓄積する。

 こうした支援事業が構想されるに至った背景は私見によれば以下のようである。

 ①いわゆる景観問題という形で、日本のまちづくりのあり方が見直される中で、新たな都市建築行政、事業手法がもとめられるようになってきた。具体的には、景観デザイン、アーバン・デザインといった分野、業務の必要性が求められるようになってきた。

 ②建築行政としては、建築基準法の遵守のみを旨としてきた従来の建築規制、建築指導行政から総合的なまちづくりをリードしていく誘導行政の必要性が意識されてきた。

 ③また、建築行政と都市計画行政の隔絶が強く意識され始めた。具体的に縦割行政の弊害も指摘される。さらに、景観デザインにおける土木分野と建築分野の協調の必要性も意識される。

 ④一方、行政の簡素化、規制緩和、地方分権の流れが次第に大きく意識されつつある。従来の建築主事による建築確認、検査は十分ではない上に、簡素化するとすれば別の仕組みが必要である。また、地域に固有な景観形成のために行政の分権化、弾力的対応は不可欠とされる。さらに、住民のニーズに即応できるような機動性をもった対応も必要とされる。

 ⑤以上のようなまちづくりの新たな流れを具体的に支えて行くには、地域のまちづくり、景観デザインを総合的に持続的に担っていく専門家、職能が必要とされる。そうした職能を担うのに最も適しているのは建築家である。建築家も新たな業務、職能分野の開拓という意味でも、与えられた敷地で設計する従来の業務にとどまらず、まちづくりに積極的に関与していく必要がある。

 ここでいう建築家を仮に「アーバン・アーキテクト」と呼ぼうということだ。「シティ・アーキテクト」、「タウン・アーキテクト」、「コミュニティ・アーキテクト」などといった方がわかりやすいかもしれない。どんな名前が定着していくかは今後の問題である。

 しかし、それ以上に問題なのは、一体「アーバン・アーキテクト」という職能にはどのような専門性、能力が必要とされるのか、また、どのような仕事を行うのか、ということだ。さらに、どのような仕組みにおいて、「アーバン・アーキテクト」を位置づけるか、という問題である。

 「アーバン・アーキテクト」に、まず要求されるのは、端的に言って、デザイン能力である。しかし、このデザイン能力というのが一般的にわかりにくい。また、説明しにくく、誤解を受けやすい。デザイン能力という場合、絵画や彫刻などアートの世界の能力とは必ずしも同じではない。アーキテクトの基本的能力は、実に様々な要素をある調和を持った全体へまとめあげる総合力にある。「アーバン・アーキテクト」となると、一個の建築をまとめあげるだけではなく、まちづくりをまとめあげるさらに高次の能力が要求される。具体的に、都市計画に関わる諸制度、様々な事業手法についての知識も必要になる。また、地域の歴史や文化について鋭く深く理解する能力が要求される。

 「アーバン・アーキテクト」に期待されるのは調整能力である。「マスター・アーキテクト」というと全体をワンマン・コントロールするイメージがあるけれど、民主的なプロセスにおいて意思決定を行う仕組みを確立した上で調整することが重要である。・・・と考えていくと、大変な能力が必要とされる。果たして、どれだけの建築家が対応できるであろうか。建築文化・景観問題研究会では、精力的に各地の建築家と懇談を行っているのであるが、建築家の側にも多大の努力が必要である。建築士という資格を基礎としながらも、より高次の資格制度が必要となるかもしれない。

 「アーバン・アーキテクト」制を構想する上で、さらに大きな問題は、「アーバン・アーキテクト」をどのようなまちづくりのシステムとして位置づけるかという問題がある。具体的には、だれが報酬を保証するかということを考えてみればいい。既に、試みられているのは、例えば、「アーバン・アーキテクト」を嘱託として自治体が雇用する形がある。また、コンサルタント派遣事業という形がある。究極的には、権限の問題がある。ある程度の権限が委譲されないと、審議会の形とそう変わりはないことになる。

 さらに大きな問題は、「アーバン・アーキテクト」の手法として何が有効かという問題がある。単なる条例やマニュアルでは意味がない。それを具体的なイメージとして提案するのが「アーバン・アーキテクト」である。それも地図を色で塗り分ける形でなく、ヴィジュアルに地区のあり方を提示していく役割が「アーバン・アーキテクト」にはある。また、公共建築の設計者の選定のあり方を提案することも必要になるかもしれない。

 今考えているのは、各自治体で地区毎に「アーバン・アーキテクト」が考えられないかということである。もちろん、上位にアーバン・アーキテクト連絡会議が設けられ、全体にマスター・アーキテクトが考えられていい。「アーバン・アーキテクト」は任期制とする。地域に根ざした建築家を主体とするが、他の地域の建築家との協働も考えられていい。制度以前に多くの試行錯誤が必要である。  





 

2022年12月15日木曜日

2022年12月11日日曜日

2022年12月10日土曜日

技能者養成の現在,雑木林の世界31,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センター,199203

 技能者養成の現在,雑木林の世界31,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センター,199203

雑木林の世界31

 技能者養成の現在

 茨城木造住宅センター・ハウジング・アカデミー開校

                        布野修司

 

 年が明けて、SSF(サイト・スペシャルズ・フォーラム)の運営委員会が京都で開かれた。一周年記念の国際シンポジウム「明日のサイトスペシャリスト」は大成功であったのであるが、活動二年目の方針をどうするか、がテーマである。

 ●支部設立を軸に定例フォーラムを開催する

 ●「職人大学」構想の実現化へむけたプログラムを具体的に実  施する

 ●SSFニュースの充実

 ●報告書の出版

  マイスター制度視察報告

    国際シンポジウム報告など

 ●調査研究、技術開発

  実態把握をもとにして情報公開のシステムを構築する。

  技術開発、研究開発を行なう

 ●出版、ビデオ制作など、SSFの存在をアピールするための  諸方策を検討し、事業化を図る。

 ●その他、各種イヴェント、事業の可能性を追求する

などが検討事項であった。

 

 続いて、「楔の会」が同じく京都で開かれた。「楔の会」というと知る人ぞ知る、日本の木造住宅行政に先鞭をつけたグループである。建設省建築研究所の第一研究部長の鎌田宣夫氏が組長(会なのに何故か組長という)をつとめられる。十年ほど前、たまたま本誌に書いたことがあるのであるが(「木造住宅歳時記 熊谷うちわ祭り」 一九八三年八月)、木造住宅研究会と居住文化研究会が合同して結成されたのが「楔の会」である。偶然、その発足の会に立ち会った経緯があって、名前だけの会員にして頂いてきた。今回は、セキスイハウス総合研究所の「納得工房」の見学を中心プログラムとして初めて関西で開かれたのであった。

 この十年、木造住宅をめぐる状況の変化は隔世の感がある。随分と一般の木造住宅への関心は高まったといっていい。しかし、木造住宅はどんどん減りつつある。どんどん減るから、関心は高まる、そういうことだ。この流れは如何ともしがたいのであろうか。抜本的な施策はまだないのである。

 

 このところの業界の焦点は技能者養成である。木造住宅の振興を計ろうにも、技能者がいなくなるのであればどうしようもない。例えば、京都の町家を保存しろといっても、修理や改築を行う大工さんをはじめとする職人さんがいなくなればどうしようもないではないか、そんな声がある。一方、「木造住宅、木造住宅」というけれど、木造住宅を建てる人がいなくなれば、木造関連の技能者など必要なくなるではないか、という声がある。木造住宅の需要が増えるのであれば職人は自然と育つ、減るのであれば職人はいらなくなる、議論を乱暴に単純化すれば、根底にはそうした需要と供給の問題がある。ただ単に、職人を養成すべきだ、木造住宅を増やすべきだ、といっても始まらないことである。

 しかし、技能者の養成の問題、木材生産の問題はもとよりそんなに単純ではない。第一に言えるのは、時間がかかるということである。特に、技能者養成は一朝一夕でできるものではない。木材生産についても、外材に頼らず、国産材主体で考えるということになれば、言うまでもなく、長期的な視点とプログラムが必要である。その時々の需給関係に委ねればいいというわけにはいかないのである。

 第二に言えるのは、人の育成というのは社会の編成そのものに関わるということである。林業や建設業に入職する若者が少ないというのは、何も若者のせいではない。木造住宅を支える世界全体、業界や社会全体の問題である。技能者教育の問題である以前に学校教育の問題であり、ひいては社会全体の問題である。偏差値によって一元的にその能力が判断される学歴社会において、職人社会は評価されない。社会的に評価も薄く、報酬も少ないとすれば、若者が参入しないのは当然のことである。

 こうした中で何がなされなければならないのか。社会の編成を問題にする以前に業界の体質改善の問題がもちろんある。建設業界には解決すべき問題がまだまだ数多い。というより、問題は構造的であり、構造そのものの改善が必要である。

 職人養成については、既に様々な取り組みがなされている。それなりの資本力をもった民間企業が技能者養成に力を入れるのは、その死活に関わる以上、当然のことである。しかし、技能者養成は決して民間企業にまかせおけばいいわけではない。

 問われているのは全体システムである。深刻なのは中小の工務店の方である。問題は、徒弟制によって職人の養成を全体として引き受けてきたそうした世界なのである。徒弟制の復活を試みることはアナクロであるとしても、地域地域で新しい仕組みをどう再構築するかがテーマとなる筈である。

 行政の役割があるとすれば、地域における職人養成の仕組みをどう支援するかであろう。この欄で二度触れた(九〇年八月、九一年一一月)「茨城木造住宅センター・ハウジングアカデミー」の試みはそのひとつである。

 「茨城木造住宅センター・ハウジングアカデミー」も、この間紆余曲折があった。しかし、どうにか四月開校にこぎつけそうである。インドネシアに出張していて、肝心の時には、谷卓郎先生、藤澤好一先生に全てお任せであったのであるが、細部をつめるに当たっては難しい問題が続出した。まだまだ、クリアしないといけない問題は山積しているのであるが、なんとか出発できる、そんな段階に至ったことは実に快挙といえるのではないか。

 まず指摘できるのは、住宅行政の側から投じられた施策が商工労働行政との調整連携によって実現しようとしていることである。全国でも珍しいことではないか。技能者養成のプログラムは、社会全体の編成に関わる以上、各省庁の施策は当然関連してくる。特に、地方自治体のレヴェルでは緊密な連携が必要となる。茨城は、そのささやかな先例となるのではないか。

 訓練科目、訓練課程、訓練内容、訓練機関、訓練時間など研修内容、施設整備の他にも実施に向けて検討すべき課題もまだまだ多い。雇用条件も、組合員で同一に決定しなければならない。新入生の宿舎などもきちんと確保しなければならない。教授人のリストアップはできたのであるが、生活指導体制の確立も急務である。OJTのプログラムも具体的に組む必要がある。

 しかし、本当の問題は運営費用をどう捻出するかである。住宅請負契約額の一%を組合でプールするとか、恒常的な運営基金を考える必要があるのだ。個々の工務店が養成の費用を個々に負担するのは大変である。そのコストを組合全体で、また地域の業界全体でプールする仕組みはないか。困難な試みの行方に次のステップが見えてきた。

 


2022年12月9日金曜日

近代日本の建築家と都市計画ーー都市の透視図Ⅳ,『CEL』27号,199403

 近代日本の建築家と都市計画ーー都市の透視図Ⅳ,『CEL』27号,199403


 CEL』 都市の透視図Ⅰ~Ⅳ

都市計画のいくつかの起源とその終焉--都市の透視図Ⅰ, CEL24号, 大阪ガス,199306 (布野修司建築論集Ⅱ収録)

都市の病理学-「スラム」をめぐって,都市の透視図Ⅱ,CEL25,大阪ガス,199309(布野修司建築論集Ⅱ収録)

風水論のためのノ-ト--都市の透視図Ⅲ,CEL26号,大阪ガス,199311(布野修司建築論集Ⅰ収録)

近代日本の建築家と都市計画--都市の透視図Ⅳ,『CEL27号,199403

住いを考えるこの一冊, 『CEL』,大阪ガス、200607


 

近代日本の建築家と都市計画--都市の透視図Ⅳ

                            布野修司

 

 新しい目標としての都市  

 日本の建築家が都市を対象化し始めるのは、明治末から大正初めにかけてのことである。当時の建築専門誌である『建築雑誌』や『建築世界』といった雑誌を見てみると、盛んに住宅や都市の問題が建築家によって語られ始めるのを見ることが出来る。その背景については、稲垣栄三の『日本の近代建築』(註1)の「九 新しい目標としての都市と住宅」に詳しい。

 明治末年頃、建築界は帝国議事堂をめぐって揺れていた。欧化主義か、日本独自のスタイルか、折衷主義か、あるいは進化主義か、「国家を如何に装飾するか」をめぐる「議院建築問題」(一九一〇~一一年)である。しかし、大正期に入るとテーマはがらりと変わる。日本建築学会の合同講演会のテーマを見ても、「都市計画に関する講演」(一九一八年)、「都市と住宅に関する講演」(一九一九年)と都市と住宅がはっきりメイン・テーマに据えられるのである。しかし、その関心はそう広がりをもったものではなかった。稲垣は、「大正時代の建築は、・・・建築に関する法律の早急な制定という目標を見定め、この課題に取り組むのである。一九一九(大正八)年に、「市街地建築物法」と「都市計画法」が制定されるまで、建築家の社会政策的な関心はほとんどこの二つの法規の成立という目標にだけ向けられたということができる。」と書いている。

 さらに続けて稲垣は次のように総括する。

 「大正時代の建築家の善意は、一九年に公布された二つの総合的な法規を成立させるまでに止まっていて、それ以上に、実際に都市を改造し住宅を供給する事業には及んでいない。大正初期にはほとんど普遍的になった社会的関心は、建築家を未知の世界にかりたて、従来関心の対象とならなかった都市計画や住宅を、旺盛な知識欲をもって処理したのであるが、そこから彼らの行動の原理を導き出したわけではないのである。」

 それでは、建築家は、その後の歴史において、実際に都市を改造し、住宅を供給する事業に取り組んで行くことになったのか。あるいは、自らの行動の論理を導き出し得たのか。大いに疑問がある。

 興味深いことに、法規制のみを自己目的化しようとしているかにみえた当時の建築家のあり方に警告を発する一人の建築家がいた。皇居前の明治生命館、大阪中之島公会堂などの設計で知られる岡田信一郎である。

 「建築家の或る者は、学者である、技術者である、其故に彼は条例の立案編纂に盡力しさえすればよい。決して政治的弥次馬や壮士のやうに、社会的事項の条例実施の事に関与する必要はない。其実施は為政者のことである。決して建築家の参与す可き事ではない。建築家は其嘱を受け条例を立案すれば足ると為すかも知れない。私は是等の高遠にして迂愚なる賢者に敬意を表する。而して彼等に活社会から退隠されんことを勧告する」(註2)というのである。岡田には、「社会改良家としての建築家」(註3)という理念があった。

 大正期の建築論の展開についてはここでは触れる余裕がない。美術か技術か、用か美か、という二元論的議論の平面に対して、「建築を社会活動の入れ物」と捉える岡田信一郎は全く新しい認識を提出していたとみていい。彼にとって、条例をつくっただけでは何の意味もない。問題はその運用である。彼は、その運用における困難を予見し、憂慮する。例えば、建築家の養成が急務であることを訴えるのである。

 実際、条例を制定しても都市行政の実際は制定者をいらいらさせるものであった。「吾人は強ひて現時の我国都市行政の組織を罵らんとするものではない。けれども事実に於て其成績思はしからさるは、全く市理事者の処置宣しきを得ざるを証明し、又之を監督しつつある市会議員の無責任を暴露するものではないか。」(註4)と片岡安をして語気を荒げさすのが実態だった。

 しかし、この苛立ちはその後も深く自らを問うこと無く繰り返され続けてきたように見える。

 

  日本の都市計画を貫通するもの

 日本の建築家が都市を対象化し、具体的なアプローチを始めるのは以上のように明治末から大正期のことであるが、日本の都市計画そのものの起源はもちろんそれ以前に遡る。一般的には、一八八八(明治二一)年の東京市区改正条例の公布と翌年の同条例施行および市区改正設計の告示をもって日本の近代都市計画の始まりとされる。日本の都市計画は既に百年余りの歴史をもっていることになる。

 およそその歴史を振り返る時、石田頼房による時代区分がわかりやすい(註5)。石田によれば、今日に至る日本の都市計画の歴史は以下の八期に区分できる。

 第一期の欧風化都市改造期(一八六八~一八八七年)は、銀座煉瓦街建設(一九七二年)、日比谷官庁集中計画(一八八六年)などを経て、東京市区改正条例へ至る日本の都市計画の前史である。この過程については、藤森照信の『明治の東京計画』(註6)が詳しく光を当てるところだ。

 第二期の市区改正期(一八八〇~一九一八年)を経て、第三期の都市計画制度確立期(一九一〇~一九三五年)において、東京市区改正土地建物処分規則(一八八九年)などを踏まえて、都市計画法、市街地建築物法が制定(一九一九年)され、戦前期における都市計画制度が一応確立される。この時期の震災復興都市計画事業(一九二三年)は、日本の都市計画にとって極めて大きな経験であったといっていい。同潤会による不良住宅地区改良事業、住宅供給事業、また、土地区画整理事業の既成市街地への適用など、具体的な事業展開がなされ出すのである。

 一五年戦争下の第四期戦時下都市計画期(一九三一~一九四五年)は、ある意味では特殊である。国土計画設定要綱(一九四〇年)にみられるように、国土計画、防災都市計画などが全面的に主題となった時期である。しかし、都市計画史の上では、決して空白期でも停滞期でもない。数多くの実験的な試みがなされた時期である。極めて大きな経験となったのは、植民地における都市計画の実践であった。

 戦後については、戦後復興期の経験(第五期 戦後復興都市計画期 一九四五~一九五四年)の後は、一九六八年の新都市計画法、一九七〇年の建築基準法改正が画期になる(第六期 基本法不在・都市開発期 一九五五~一九六八年 第七期 新基本法期 一九六八~一九八五年)。既成緩和策が取られた反計画期の問題(第八期 反計画期 一九八二年~)は、バブル崩壊後、今日における問題でもある。

 問題は、以上のような日本の都市計画の歴史を貫いている課題である。建築家が都市に目覚めて以降、具体的なアプローチが様々に展開されてきたのであるが、残されている課題は依然として多いのである。

 石田頼房は、歴史を貫く日本の都市計画の課題として、まず、外国都市計画技術の影響をあげる。外国とはもちろんヨーロッパの国々である。明治期のお雇い外国人による都市計画技術や建築技術の直接導入以降、常にモデルは欧米にあった。オースマンのパリ改造と市区改正、ナチスの国土計画理論と戦時体制下の国土計画理論、グレーター・ロンドン・プランと首都圏整備計画、戦後でもドイツのB(ベー)-プラン(地区詳細計画)と地区計画制度(一九八〇年)など、ほとんどがそうである。日本のコンテクストの中から独自の手法や施策が生み出されるということはなかったのである。

 さらに、もう少し基本的なレヴェルで日本の都市計画の課題を石田は挙げる。すなわち、都市計画の主体の問題、都市計画の財源の問題、土地問題、所有権と土地利用規制の問題、都市計画の組織の問題である。

 都市計画の主体は誰なのか。誰が都市計画を行なうのか。国なのか地方自治体なのか、行政なのか住民なのか。住民参加論が様々に展開されてきたのであるが、その実態たるや薄ら寒い限りである。国の補助金事業を追随する形がほとんどで、決定プロセスは不透明である。

 都市計画の財源はどこに求められるか。何でまかなうのか。受益と負担の問題は一貫する問題である。都市計画事業が生み出す開発利益の帰属をめぐっては、政、財、官をめぐって癒着の構造があり、実に曖昧なままである。

 土地問題、あるいは土地所有権と利用権、土地の公共性と私有権、所有権と土地利用規制の問題は、都市計画の基本的問題であり続けている。土地私有制は資本主義社会の基本である。土地の売買、建設は基本的には自由である。しかし、都市計画が都市計画として成立するためには、土地の利用についての何らかのコントロールが可能でなければならない。そのためには理念が必要である。例えばその前提となる公共性の概念は日本において極めて未成熟であり、曖昧である。そうした状況に西欧の都市計画モデルを導入するところにまず混乱の源がある。ある意味で、日本の都市のあり方を規定してきたのは、土地への投機行動である。そして、それを規制する法制度である。極端にいうと、そのいたちごっこがあるだけで、結果として無秩序な誠に日本的な都市が出来上がってきたのである。

 

 戦後建築家と都市

 戦後まもなく日本の建築家にとっての全面的な主題は戦後復興であった。具体的な課題としての都市建設、住宅建設が焦眉の課題であった。戦災復興都市計画には数多くの都市計画家が参加している。

 戦災復興院は、典型的な一三の都市について、建築家に委嘱して調査計画立案作業を行った。一九四六年の秋から夏にかけてのことである。高山栄華が長岡市、丹下健三が広島市、前橋市、武基雄が長崎市、呉市などの計画立案に当たった。また、東京都は、一九四六年二月に東京都復興都市計画コンペを銀座、新宿、浅草、渋谷、品川、深川といった地区をとりあげて行っている。

 この復興コンペを含む「東京戦災復興都市計画」は、ある理想の表現であった。結果として、実施されなかった計画であり、そうした意味では未完である。否、現実の過程は、その計画とは大きく異なった方向に展開してきたのであった。紙の上にある理想の図式を描くスタイルがここでも踏襲された。都市計画制度も都市計画技術もむしろ戦前との連続線上に前提されていた。欧米諸国が新しい都市計画制度を模索する取り組みを見せたのに対して、日本の場合、あまりにも余裕がなかった。

 朝鮮特需によってビル・ブームが始まり、戦災復興が軌道に乗ると建築家の都市計画への関心は相対的に薄れていく。理想の計画案より、高度経済成長へむかうエネルギーが都市の形態を支配して行くのである。こうして、関東大震災直後に続いて、日本の建築家・都市計画家は、理想の都市計画を実践する機会をまたしても失ったのであった。

 建築家が再び都市への関心を露にするのは、一九六〇年前後のことである。盛んに都市のプロジェクトが建築家によって描かれるのである。菊竹清訓の「海上都市」、「塔状都市」、黒川紀章の「空間都市」、「農村都市」、「垂直壁都市」、槙文彦・大高正人の「新宿副都心計画」、磯崎新の「空中都市」、そして丹下健三の「東京計画1960」などがそうだ。また、メタボリズムをはじめ様々に都市構成論が展開されるのである。アーバン・デザインという領域の確立、都市デザインの方法および発展段階についての整理、建築への時間性の導入とその技術化、槙文彦の「群造形論」、大谷幸夫の「        試論」、磯崎新の「プロセス・プランニング論」、原広司の「有孔体理論」、西沢文隆の「コートハウス論」などがそうだ。六〇年代に至って、建築家が一斉に「都市づいて」行った過程とその帰結については『戦後建築論ノート』(註7)で詳述するところである。

 「アーバン・デザインという一つの領域を仮構し、建築家の構想力による都市のフィジカルな配列を提案することによって、その社会的、経済的、技術的実現可能性を問うというスタイルは、近代建築の英雄時代の巨匠のスタイルである。・・・しかし、都市へのコミットの回路として、こうしたスタイルが衝撃をもち得たのは、六〇年代初頭のほんのわずかな幸福な時期に過ぎなかった。未来都市のプロジェクトは、ほぼこの時期に集中して提出されたのみで、急速に色あせていくのである。一面から見れば、六〇年代の過程は、彼らの構想力が現実化されていく過程であったといえよう。彼らのプロジェクトが色あせて見え出したのは、現実の過程がそれを囲い込み、疑似的な形であれ現実のコンテクストのなかでそれなりの形態をあたえることによって、追い越し始めたからである。それをものの見事に示したのが、大阪万国博・       であり、沖縄海洋博であった。・・・」(註7)

 

 ポストモダンの都市論

 オイルショックとともに建築家の「都市から撤退」が始まる。若い建築家たちの表現の場は、ほとんど住宅の設計という小さな自閉的な回路に限定されていく(註8)。

 大規模なニュータウンの基本設計など具体的な仕事が当該機関に委ねられ、実践の機会が失われたということもある。しかし、建築家が自ら都市への回路を閉ざした点が大きい。自らの方法論やプロジェクトの提示によって引き起こされる現実の様々なコンフリクトを引き受けようとする意欲も余裕もなくなるのである。そういう意味では、建築家たちは二重に都市への回路を閉ざされ、また自ら閉ざしていったのであった。その事情は今も猶変わらない。

 ところが、再び、都市の時代がやってくる。バブル経済の波が日本列島を襲うなか、東京をはじめとする日本の都市は大きく変容することになるのである。建築家は、またしても、また、無防備にも、都市へと駆り立てられていくことになった。民間活力導入のかけ声のもと規制緩和による「反計画」の時代が始まる。建築家の無防備さも、無手勝つ流も「反計画」の時代に再び受け入れられたように見えたのであった。

 建築家が都市への具体的実践の回路を断たれる一方で、都市への関心はむしろ次第に大きくなっていく。東京論、都市論の隆盛はその関心の大きさを示している。その背景にあったのがバブル都市論である。膨大な金余り現象からの様々な都市改造計画への様々な蠢きである。

 この間の都市論は、およそ三つにわけることができる。ひとつは剥き出しの都市改造論であり、都市再開発論である。なぜ、都市改造なのか、特に東京をめぐってははっきりしている。一言でいえば、「フロンティアの消滅」である(註9)。例えば、東京が単純にその平面的広がりを考えても過飽和状態に達しつつあることは明かなことだ。東京一極集中がますます加速されるなかで、都市発展のフロンティアが消滅しつつある。そこで、まず求められたのがウオーター・フロントである。また、未利用の公有地である。そして、地下空間であり、空中である。空へ、地下へ、海へ、フロンティアが求められた。そして、それが全国へと波及して行ったのである。

 もうひとつの都市論の流れは、レトロスペクティブな都市論である。都市化の進展によって失われた古きよき都市の伝統や記憶が次々に掘り起こされていった。都市の中の過去が、自然が現代都市への批判として対置されたのである。もちろん、そうした素朴な回顧趣味は都市改造のうねりに巻き込まれてしまう。水への郷愁がストレートにウオーターフロント開発へ結び付けられたことがそれを示している。

 さらにもうひとつの都市論の流れは、いわゆるポストモダンの都市論である。すなわち、いまあるがままの現代都市、とりわけ、国際化し、ますます人工環境化し、スクラップ・アンド・ビルドを繰り返す仮設都市、東京をそのまま肯定し、愛(め)であげる都市論である。ただただ、今都市が面白い、東京が面白いという都市論である。このポストモダンの都市論の系譜は、レトロスペクティブな都市論をすぐさま取り込む。ポストモダン・ヒストリシズムと言われた皮相な歴史主義的なポストモダン・デザインが都市の表層を覆い出したのである。

 こうしてあえて三つの都市論の流れを区別してみてわかることは、全体としてそれぞれがつながっていることである。レトロスペクティブな都市論は一見都市改造への悲鳴であるようでいて、ポストモダンの都市論を介して過去の都市を疑似的に再現する回路に送り込まれたし、ポストモダンの都市論は、都市改造の様々な蠢きをその華やかさのうちに包み込むものであった。

 

 都市計画という妖怪 

 そうしてバブルが弾けた。再び、都市からの撤退の時期を迎えつつある。以上簡単に振り返ってみたように、建築家と都市の関わりは、震災、戦災、高度成長経済、バブル経済による建設と破壊の歴史とともにあった。再び、バブルが訪れるまで建築家は首をすくめてまつだけなのであろうか。おそらく、そうではない。都市と建築とをめぐるより根源的な方法とアプローチが求められていることがそろそろ意識されてもいい筈なのである。

 六〇年代における建築家による様々な都市構成論の模索は何故現実のプロセスの中で試され、根づいていくことがなかったか。ひとつには建築家の怠慢がある。都市計画家、プランナーという職能が未だ成立しない状況において、建築家は自らの理論や方法を実践するそうした機会を自らも求めるべきであった。しかし、そう指摘するのは容易いのであるが、そんなに簡単ではない。都市計画の問題はひとりの建築家にどうこうできるものではないからである。

 日本の都市計画の問題はまずその仕組み自体にある。端的に言えば、その仕組みが不透明でわかりにくいことである。

 第一、そのわからなさは法体系の体系性の無さに現れている。都市計画に関わる法律と言えば、都市計画法や建築基準法にとどまらず、およそ二百にも及ぶ。それぞれに諸官庁が絡み、許認可の権限が錯綜する。都市計画家であれ建築家であれ、都市計画関連法の全てに知悉して都市計画を行なうことなど不可能である。また、都市計画関連法の全体がどのような都市計画を目指しているのか、誰も知らないのである。

 否、都市計画関連法の全体が自己表現するのが日本の都市の姿だといってもいい。その無秩序が法体系の体系性のなさを表現しているのである。

 第二、都市計画といっても何を行なうのか、その方法は必ずしも豊かではない。都市計画法の規定する内容も、建てられる建築物の種類やヴォリュームを規制するゾーニングの手法が基本である。誤解を恐れずに思い切って言えば、容積率や建ぺい率の制限、高さ制限、斜線制限、日影制限などのコントロールと個々の建築のデザインとは次元の違う問題である。本来、個々の建築のデザインは近隣との関係を含んでおり、当然、都市計画への展開を内包しているべきものであるけれど、一律に数字で規制することでその道を予め封じられているともいえるのである。

 フィジカルな都市計画の基本となる道路や河川などのインフラストラクチャーの整備や公共建築の建設をみると問題はさらに広がり、日本の政治経済社会の構造に関わる問題につながってくる。建築家ならずとも、都市計画というとうんざりするのは、そうした構造を思うからである。

 各自治体における都市計画といっても、各省庁の立案した補助金事業やある枠組みで決定された公共事業をこなすだけにすぎない実態もある。政官財の癒着といわれる構造の中で得体の知れない妖怪が蠢いている。そんな日本で建築家が無力感をもつとしても必ずしも責められないであろう。

 

 計画概念の崩壊

 「ミテランのいわゆるグラン・プロジェはパリにおいて、オスマンがやり残した部分を補完する作業であったというべきであろう」と磯崎はいう(註12)。首都を壮大に構築する企図は一九世紀の殆どの国家で見られた。国家権力と首都の都市計画の強力な結びつきは、そうした意味では一九世紀的だ。しかし、一九八九年のベルリンの壁の崩壊まで、それは続いたのだと磯崎はいう。ヒトラー、スターリン、ミテランの首都計画がその象徴だ。しかし、国家というフレームが崩壊し、国境という障壁が無効になるにつれて、都市もまたその姿を消すのだ、というのが磯崎の直感である。

 確かに、国家権力を可視化し、国家理性を象徴する首都という概念は崩壊して行くだろう。強力な国家権力による都市計画のあり方を想起するのはアナクロである。根源的問題はその先にある。おそらく問うべきは近代的な都市計画の方法そのものなのである。

 近代都市計画の理念を支えてきたのはユートピア思想である。その起源として挙げられるのは、オーエンであり、フーリエであり、サンシモンであり、空想的社会主義といわれたユートピア思想である。そして、その思想は社会主義都市計画の理念へもつながっていく。いま、社会主義国の「崩壊」が大きくクローズアップされるなかで、同じように問われるのが、社会主義の都市計画理論であり、また、近代都市計画の理論なのである。

 より一般的には、計画という概念そのものが決定的に問われているといってもいい。計画という概念はもちろん古代へ遡ることができる。しかし、われわれにとっての計画という概念はすぐれて二〇世紀的な概念とみていい。第○次五ケ年計画という形で、社会的意味をもって一つの流行概念になったのは今世紀、それも一九三〇年代になってからである。その発端にあるのがソビエトにおける経済五ケ年計画である。いうまでもなく、国家を主体とするそうした計画は資本主義諸国においても受け入れられていった。今、それが全面的に問われているのである。

 社会に対する働きかけの合理的な体系、一定の主体が一定の目的を達成するために合理的に統合された行動を行うための手段の体系が計画であるとして、主体とは何か(誰が誰のために働きかけるのか)、目的とは何か(何のために働きかけるのか、具体的な形で明確化できるのか)、手段とは何か(合理的客観的に評価できるのか)、そもそも合理的とは何か、社会主義が「崩壊」し、国家や民族というフレームが揺れる中で、全てが揺らぎ始めている。もちろん、計画という概念が依拠する世界観、例えば、数量的統計的世界認識や一元的尺度への還元主義への根底的懐疑が表明されてから既に久しいといっていい。ただ、必ずしも、それに変わる概念や手法を我々は未だ手にしていないのである。

 ここでわれわれは再び全体と部分をめぐる基本的な問題へたち帰ることになる。全体から部分へか、部分から全体へか、部分の中の全体か、全体の中の部分か、都市と建築をめぐる、あるいは都市と住居をめぐる基本的問いである。

 少なくとも言えることは、都市というのは計画されるものであると同時に生きられるものだということである。そのダイナミックな過程を組み込まないあらゆる都市計画理論はそれだけでは無効であるということである。近代日本の都市計画の歴史が教える最大なものも、都市が無数の集団の作品であり、建築家の構想力や空間の創造も生きられてはじめて意味を持つということである。


註1  稲垣栄三、『日本の近代建築』(上)(下)、SD選書、一九七九年

註2 岡田信一郎、「建築條例の実施に就いて」、『建築世界』 一九一六.〇一

註3 岡田信一郎、「高松工学士に与えて『建築家は如何なる生を活く可きか』を論ず」、『建築画報』 一九一五.〇三

註4 片岡安、「都市計画と輿論の喚起」、『建築世界』 一九一九.〇四

註5 石田頼房、『日本近代都市計画の百年』、自治体研究社、一九八七年

註6  藤森照信、『明治の東京計画』、岩波書店、一九八二年

註7 拙稿 「第一章 建築の解体ー建築における一九六〇年代」 『戦後建築論ノート』、相模書房、一九八一年

註8 拙稿 「世紀末建築論ノートⅠ デミウルゴスとゲニウス・ロキ」 建築思潮 創刊号 一九九二年一二月

註9 拙稿 「ポストモダン都市・東京」  早稲田文学 一九八九年

註10 越沢明 『満州国の首都計画』 日本経済評論社 一九八八年

註11 磯崎新 「「都市」は姿を消す」 「太陽」 一九九三年四月

註12 E.J.オーエンズ 松原國師訳 『古代ギリシャ・ローマの都市』 国文社 一九九二年

註13 拙稿 「都市計画のいくつかの起源とその終焉」 『CEL』24 一九九三年六月






2022年12月8日木曜日

ロンボク島調査,雑木林の世界30,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センター,199202

 ロンボク島調査,雑木林の世界30,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センター,199202

雑木林の世界30

ロンボク島調査

                        布野修司

 

 昨年の師走は実に忙しかった。といっても、贅沢な忙しさだ。一二月六日に日本を発って、帰国したのがクリスマスの二五日、ほとんどを暖かいインドネシアで過ごしたのである。随分と優雅に思われるに違いない。忙しい最中、周囲の迷惑を顧みず出かけるだけでも我が侭である。真っ黒になって帰国したから、スキー焼けに間違えられて、言い訳も大変であった。帰国した翌日、東京には初雪が降った。常夏の島から雪の島へ、その落差はさすがに身に応えた。

 今回のインドネシア行はロンボク島の住居集落についての調査が目的であった。ロンボク島と言えば、バリ島のすぐ東に接する島だ。間にウオーレス線が走り、動植物の生態ががらっと変わるので知られる。話はそれるが、A.R.ウオーレスの『マレー諸島』の翻訳(宮田彬訳 思索社)が昨年出たのだが、それを読むとダーウィンの進化論のアイディアはもともとはウオーレスによるらしい。

 調査研究の方は、住宅総合研究財団の研究助成で、いささか大げさなのだけれど、研究題目を「イスラーム世界の住居集落の形態とその構成原理に関する比較研究ーーインドネシア(ロンボク島)の住居集落とコスモロジー」という。以前この欄で触れたのであるが(雑木林の世界25 一九九一年五月)、「イスラムの都市性」に関する研究が母体となった研究である。メンバーは、応地利明(京都大学文学部 教授  地域環境学)、堀 直  (甲南大学文学部 教授  中央アジア史)、金坂清則(大阪大学教養部 助教授 都市・歴史地理学)、坂本 勉(慶応大学文学部 教授 イスラム社会史)、佐藤浩司(国立民族博物館 助手  建築史)である。残念ながら、堀先生は参加できなかったのであるが、他分野の先生との本格的な共同調査は初めての経験である。実に刺激的な三週間であった。

 白状すれば、どのような方法で、どのような調査を行うかについて、きちんと議論をつめて出かけたわけではない。実際に、都市や集落をみて、具体的な方法を考えようという、そうした意味では予備的な調査の構えであった。しかし、結果的にかなり本格的な調査を行うことになったのは、チャクラヌガラ(Cakranegara)という極めて興味深い都市に出会ったからである。チャクラヌガラというのは、実に整然としたグリッド・パターンの都市であった。明らかにヒンドゥー都市のパターンをしている。バリにも、あるいはインドにも、こうきれいなパターンはないのである。

 知られるように、ロンボク島は、その西部はバリの影響でヒンドゥー教の影響が強く、東部はイスラーム教が支配的であるというように、インドネシアでも特異な島である。イスラームとヒンドゥーの違いによって、集落や都市ののパターンはどう異なるか、平たく言えば、そうした関心からロンボク島を調査対象として選択したのであった。

 「住居はひとつのコスモスである。あるいは、住居にはそれぞれの民族のもつコスモロジーが様々なかたちで投影される、といわれる。しかし、必ずしもそうは思えない地域も多い。つまり、コスモロジーは、必ずしも、幾何学的な形態や物の配置に示されるとは限らない。宇宙観が形象として強く現れる場合と極めて希薄な場合がある。

  本研究は、住居集落のフィジカルな構成原理を明らかにすることを大きな目的とし、住居集落の形態とコスモロジーの関係について考察する。すなわち、住居集落の構成原理に関わる思想、理念を問題とし、その具体的内容、地域における差異などを明らかにする。具体的に焦点を当てるのは、インドネシアであり、比較のための圏域としてイスラム圏を選定する。

 一般に、インドネシア、とりわけ、ジャワ、バリ、東インドネシアにおいては、住居集落の構成とコスモロジーの強い結び付きを見ることができる。一方、一般に、イスラーム圏においては、住居集落の構成とコスモロジーとの結び付きは希薄であるように思える。その差異は何に起因するのか考察したい。インドネシアは、今日、イスラーム圏のなかで少なくともそのムスリム人口の比重において大きな位置を占めるのであるが、住居集落の構成を規定するコスモロジーはより土着的な基層文化である。住居集落の形態は多様な原理によって規定される。自然環境、社会組織、建築技術、などの差異によって住居集落の形態は地域によって多様である。本研究は、住居集落の形態とそれに影響を与える思想や理念、すなわちコスモロジーに焦点を当てることによって、その多様性について考察を深めるねらいをもつ。すなわち、住文化の複合性について明らかにすることが大きな目的となる。」

 と、研究目的にうたったのであるが、具体的に対象となる都市や集落が存在するかどうかについては、事前の文献調査では必ずしも検討がついてはいなかった。チャクラヌガラの発見で、議論ははずみ、調査に熱がはいったのである。毎日、手分けをして、町を歩測しながら歩いた。全歩行距離数はかなりのものになる。

 われわれにはひとつの仮説があった。それはおよそこうだ。

 都市の理念型として超越的なモデルが存在し、そのメタファーとして現実の都市形態が考えられる場合と、実践的、機能的な論理が支配的な場合がある。前者の場合も理念型がそのまま実現する場合は少ない。都市の形態を規定する思想や理念は、その文明の中心より、周辺地域において、より理念的、理想的に表現される傾向が強い。

 チャクラヌガラをどう解釈するかはこれからの課題なのであるが、バリ・ヒンドゥーのコスモロジーを基礎にしているのはまず間違いが無い。ここでも、バリ文化の周辺により理想の都市モデルをみることができるのである。

 チャクラヌガラの南北東西の大通りの南は右京、左京(仮にそう名づけた)とも四×四の一六ブロックからなる。一ブロックは一辺約二百メートル、南北に四分割され、各区画は背割りの形で十づつの宅地に分けられていたと思われる。個々の宅地は東西からアプローチがとられるている。東北の角には、サンガ(屋敷神)が置かれ、ヒンドゥーの住まいとすぐわかる。ムスリムは今では都市周縁部に居住する。そのかっての骨格はきちんと保存されているのである。

 ロンボク島での調査は、チャクラヌガラが中心となったのであるが、その外港であるアンペナンについても若干の調査を試みた。カンポン・ムラユ、カンポン・ブギス、カンポン・アラブ、カンポン・チノなど、植民都市の歴史を残して、いまでも棲み分けがみられる。また、南部の山間部、北部の山麓には、ワクトゥー・ティガと呼ばれる(それに対して、厳格にイスラームの教えを守るムスリムをワクトゥー・リマという)、ムスリムでも土着の文化も保持する人々の集落がある。小さな島だけれど、様々な文化の重層をみることができる。実に興味深い島である。

 


2022年12月7日水曜日

割箸とコンクリ-ト型枠用合板,雑木林の世界29,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センター,199201

 割箸とコンクリ-ト型枠用合板,雑木林の世界29,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センター,199201 

雑木林の世界29

割箸とコンクリート型枠用合板

                        布野修司

 

 ロス・ラムジィグリア(ミシガン州ブリッスフィールド)、ジェフ・アーヴィン(ワシントン州ベリンガム)のふたりのアメリカの大工さんに会った。SSFの国際シンポジウムの打ち合せのためである。ロスさんにアメリカの様子を話してもらうことになっているのである。ジェフ・アービンさんは日本は初めてであったけれど、ロスさんは大阪で育った。日本語は敬語を使い分けるほどうまい。日本人の奥様に水戸納豆を買って帰るほどの日本通である。

 ふたりとも今回は日本で仕事をするためにやってきた。ティンバー・フレームの木造住宅の需要は日本で増えつつあるらしい。ふたりは、頻繁に日本に来ることになりそうである。

 アメリカの木造住宅と言えば、すぐ思い浮かぶのは、2×4やログハウスだけれど、テインバー・フレームの伝統もある。バーン(納屋)の伝統がそうだという。ヨーロッパ各地から様々に持ち込まれた伝統である。オランダの影響の強いところ、イギリスの影響の強いところ、色々ある。実は、そうした伝統の復活の動きが現れてきたのはここ二〇年ほどのことだという。そして一九八五年、ティンバー・フレーマーズ・ギルドという団体が組織された。今、会員は七百人ぐらいだという。ジェフ・アーヴィンさんはその前会長である。

 米松(ダグラスファー)の太い部材を用いた素朴なデザインは本物志向の日本人をひきつけつつある。ログハウスとは別にブームを呼びつつあるのである。アメリカから大工さんがやってくる。2×4とは違った展開になる可能性がある。ふたりの話を聞くと職人さんの国際交流は現場で始まっているのである。輸入住宅も増えつつある。木造住宅も国際化の時代を本格的に迎えつつあるのだ。

 一方、それに対して南の方は頭がいたい。熱帯林、南洋材の問題である。建設業界では、アジア諸国からの外国人労働者の問題が大きな問題になりつつあるのだが、熱帯材、南洋材の問題も難しい。そろそろ明確な方向を見いだす時期にきたようである。

 木材資源をめぐっては、この間、ひとしきり割箸論議が起こった。僕自身、何度か発言する機会があったのだが、「木造文化の危機」と題したエッセイ(産経新聞 『周縁から』 一九八九年八月二一日)は、『ワリバシ讃歌』(湯川順浩著 都市文化社 一九九〇年)に引用されている。

 「日本の割箸文化が東南アジアの熱帯降雨林を破壊しているのだと、自分の箸をいつも携帯しているひとがいるという。割箸の使い捨ては資源の無駄だ。割箸をやめれば、木材の輸入を減らし、熱帯地域の森林資源を護ることができるというのである。いささか乱暴な議論だ。・・・」というのが書き出しで、「木造住宅を支える全体的なシステムをどう考えるかが問題なのである。」と結んだ。割箸論議はことの本質を覆い隠すのが問題だというのが主旨である。山本夏彦先生によれば、割箸は一〇年に一度繰り返し問題になるのだという。

 「木造住宅を支えるシステムが問題だ」というのは、しかし、熱帯材に関する限り、正確ではない。問題なのは、木造住宅より鉄筋コンクリート造の建物だ。この辺が難しい。

 つい先頃も「市民と商社マン 森林開発で熱論」といった記事が新聞に出たのであるが、開発と自然保護の問題は、もう少し実態に即した議論が必要である。熱帯林の問題については、『熱帯林破壊と日本の木材貿易』(黒田洋一+フランソワ・ネクトゥー共著 築地書館 一九八九年)が問題の広がりをまとめているところだ。

 世界の熱帯木材貿易において日本は大きな位置を占める。というより、その貿易量の四分の一を占める世界最大の輸入国が日本である。一九八九年の輸入総量一七四五万㎡の内訳は、原木が五六.二%、合板が二七.七%、製材が一六.〇%である。原木の八四%は合板用だから、七〇%が合板に用いられる。とすると、何が問題かは予めはっきりしているのである。

 合板のうち約半分が建築土木用である。そして、ある試算によれば(「サラワクの熱帯林があるうちに」 熱帯林行動ネットワーク(JATAN) 一九九一年五月)、コンクリート型枠として使われる合板は、全体の二五%から三〇%になる。熱帯林といえば、合板、そしてコンクリート型枠をまずイメージすべきなのであって、決して割箸ではない。建設土木用以外ではパルプ・チップである。ファックスやコピー機、OA機器の普及で、紙の消費量はものすごいものがある。DM(ダイレクトメール)の量を考えても、紙の莫大な消費は毎日の生活で実感するところである。割箸を言うなら紙をそれ以上に問題にすべきなのである。

 ところでどうすればいいのか。遅ればせながら様々な試みがなされつつある。単純には南洋材を使わないことである。もちろん、問題はそう単純ではないのであるが、復原に百年もかかるような伐採が許されないことは言うまでもないだろう。また、輸入先がサラワク、サバ、パプア・ニューギニアといった特定の地域に限定されていることも大きな問題である。

 コンクリート型枠を除けば、代替は比較的用意だという。南洋材が使用されるのはその性能より価格が安いからという理由だからである。コンクリート型枠の場合、安いことに加えて、軽量で施工性がいい、強度、剛性がある、表面が円滑でコンクリートへの影響がない、などといった特性から多用されてきたのであって、そう簡単ではない。

 第一に考えられていることは、コンクリートの現場一体式打ち込みをやめることである。デッキプレート型枠、プレキャスト型枠など打ち込み型枠などの普及も考えられるところだ。しかし、現場一体式打ち込みがなくせるとは思えない。とすると、転用回数を増やすことがひとつのテーマとなる。塗装合板などが開発されつつあるところだ。

 さらに南洋材を針葉樹に代替して行くことが考えられている。既に、いくつかの大手建設会社では、芯材に針葉樹材を用いた複合合板に切り替えることを決定しつつある。さらに、それこそ間伐材の利用も考えられるところだ。欧米では、熱帯材消費削減の様々な措置がとられているというのであるが、日本ではいささか反応が鈍い。いつものことながら、外圧があってからというのが日本のパターンである。

 熱帯材を使わなければいい、というのも短絡である。しかし、熱帯材について考え、きちんとした対応をすることができなければ、日本の木造文化の再生なぞ予め望むべくもないことである。

 

   


2022年12月6日火曜日