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2025年12月15日月曜日

ビルディング・トゥゲザー,at,デルファイ研究所,199208

 ビルディング・トゥゲザー,at,デルファイ研究所,199208

ビルディング・トゥゲザー

                布野修司

 

 ビルディング・トゥゲザーというのは、バンコクで住宅建設に取り組むグループの名称である。一緒に建てよう、実にストレートであっけらかんとした響きがある。

 東南アジアの各国は深刻な居住問題を抱えているのであるが、政府機関のみならず、居住問題に真正面から取り組むインフォーマル・グループがいくつかある。ビルディング・トゥゲザーは、そうした中でも極めて意欲的で、建築的構想力に溢れたグループである。

 基本的には居住者が建設に参加する自力建設(セルフ・ビルド)である。素人でもできるようにインターロッキング・ブロックがデザインされた。われわれが見かけるのとはひと味違う。基本型は一種類で、四〇〇ミリ×二〇〇ミリ×二〇〇ミリ、日本のものより倍の厚さがあって中空になっている。できるだけ種類を少なくするのが意図で、簡単な器具で三人一組で積み上げるというのが最初の発想である。

 現場にブロック工場が造られた。PCの梁や杭も現場で造られる。建具は木造で、これまた現場生産である。手づくりではあるが、ビルディング・システムは極めてしっかりと設計されているのである。

 しかし、最初にみた時、多少の違和感があった。重い、少しゴツ過ぎるのではないか、と思えたのである。

 「なんで木造にしなかったのか。」

 ブロックをデザインしたハワイの建築家B.アザリントンに素直に聞いてみたら、「木の方がタイでは高いからだ」というのが答であった。「タイの気候には合わないのでは」となおも畳かけると、こうだ。

 「うるさいな、そんなこと言ってないで、せっかくだから一緒にブロック積んでみればいい。簡単だから。」

 建設はクラスター(房)単位で行われる。居住予定者は、講習を受けた上で、また、先行するクラスターを手伝いながら、ウイーク・エンドや夜間を利用して建設に参加する。参加した分、分譲価格は安くなるわけである。

 現場では、同時にいくつかの段階が進行している。僕が最初に現場を訪れた時は丁度最初のクラスターが完成したところであったが、既に数グループはそれぞれのクラスターに着工しており現場は実に賑やかであった。そして、人々は一緒に建てることを心底楽しんでいるように思えた。

 もちろん、さすがに居住者だけで完成したのではなかった。ビルディング・トゥゲザーのコア・スタッフの監督のもと、数人の職人さんが常駐して全体をみることになったのであるが、それにしても、二〇〇戸が参加した大変なプロジェクトである。

 出来上がると画家が壁面に絵を思い思いに描く。スーパーグラフィックだ。仏教の世界がモチーフとなるかと思うと、自然の森も描かれる。かと思うと、工事現場そのものを描いた壁もある。不思議な感じの空間ができた。そしてみんなもそれぞれ自分の家に絵を描く。楽しそうである。この感覚は日本には薄い。

 


2025年12月14日日曜日

チャンディ・スク,at,デルファイ研究所,199209

 チャンディ・スク,at,デルファイ研究所,199209


チャンディー・スク 

          

布野修司

 

 チャンディー(     )とは、ジャワのヒンドゥー・仏教寺院の総称である。寺院といっても様々な建造物からなるのであるが、チャンディーというとストゥーパ(卒塔婆      )と違って内部空間をもつものをいう。礼拝供養の対象物(仏像、神像、リンガなど)を納めた祠堂である。  

 チャンディー・ボロブドールをはじめ、数多くのチャンディーを見てきたのであるが、いささか謎めいているのがこのチャンディー・スクである。かなり珍しい。みた瞬間、想起したのはマヤのピラミッドであった。きれいな四角錘台の形態をしているのである。

 チャンディー・スクというのは、中部ジャワの古都ソロ(スラカルタ)ーーブンガワンソロのソローーの東方、ラウ山(      )の山腹に位置する。ソロから車で一時間ほどであろうか、中部ジャワといっても、もう東部ジャワとの境界である。

 チャンディー・スクは15世紀の建造だとされる。中部ジャワに位置するといっても、チャンディー・スクが建てられたのは、ヒンドゥー王国の中心が既にクディリ、シンゴサリを経て、モジョパイトへと移ったころである。

 不思議なのはその形態だけではない。ピラミッドの階段を上がってみると、中央に穴がうがたれていた。そこには巨大なリンガが置かれてあったという(  )。リンガとは男根である。チャンディーの多くはリンガを奉る。しかし、それを覆う建造物が残されていないのは何故か。そこには、バリに見られるような、何層かの木造の塔状の建築があったのではないか。実際、レリーフには、そうした建物が描かれているのである。

 チャンディー・スクへ行くというとみんなにやにやする。エロティックなチャンディーというのである。行ってみるとなるほど、性のシンボルがところどころにおおらかに置かれている。

 子宮のなかにインドの叙事誌「マハーバーラタ」の英雄ビマ(    )を描いた巨大なレリーフは一体何に使われたのか。また、無造作に、甲が平らな大きな亀が投げ出されている。これは何を意味するのか。日本で亀の上に墓石を載せるように何かを載せていたのであろうか。亀というと、蛇の上に亀の載ったインドの宇宙図を思い出すのであるが、それであろうか。沢山のレリーフが方々に置かれているのであるが、ヒンドゥーの神々の様々な物語が描かれているのであろう。

 チャンディー・スクは、実に抜群の見晴らし台にある。軸線は一直線にとられ、下界を見おろしている。何故こんなところにという気がしてくる。山間部という立地も他のチャンディーと違っているのである。千原大五郎氏は、ジャワにも、インド化以前の土着固有の巨石文化が生きており、この巨石文化の名残と消え行くヒンドゥー文化が融合して造られたのがチャンディー・スクだという。果してそうだろうか。巨石文化というほどスケールはなさそうなのだ。

                                                                       

 

 千原大五郎:『東南アジアのヒンドゥー・仏教建築』 鹿島出版界 1983年

    千原大五郎:『インドネシア社寺建築史』 1975年 

 

2025年12月13日土曜日

チャンディー・チョト,at,デルファイ研究所,199310

 チャンディー・チョト,at,デルファイ研究所,199310

チャンディー・チョト       ジャワ

                布野修司

 

 チャンディー建築については、これまでにあまり知られていないチャンディ・スク(中部ジャワ)とトゥガリンガ(バリ)を紹介したけれども、もうひとつ紹介したいものがある。チャンディー・チョトである。

 チャンディー・チョトというのは、中部ジャワの古都ソロ(スラカルタ)の東方、ラウ山(      )の山腹に位置する。ということは、チャンディ・スクのすぐ近くということになる。チャンディー・スクは、エロティックなチャンディーということで地元の人にも知られているのであるが、チャンディー・チョトについてはそんなに知られていないのではないか。

 性のシンボルが様々に埋め込まれたチャンディー・スクで不思議な気分にさせられたあと山を降りようとすると、近くにもうひとつチャンディーがあるという。見逃す手はない。好奇心にかられて行ってみた。チャンディー・スクからさらに登ったところになるほど不思議なチャンディーがもうひとつあった。それがチャンディー・チョトである。

 チャンディー・チョトについてはほとんど情報がなかった。ジャワで出された『中部ジャワのチャンディー』(  )という本には記述がないのである。後で調べると丁寧なガイドブックにはちゃんと場所が示されていたのであるが、名のみで何の記述もない、そんなチャンディーである。

 まずは木造の建物の方形の屋根が目につく。バリのプラ(     寺院)に似ている。第一感はこれは新しいだろうということであった。イジュク(やしの繊維)で葺かれた屋根や木造が新しいのである。しかし、もちろん、木造の建造物は何度も建て替えてきたはずだ。

 急な階段を上がると最初の広場に変なものがある。海亀の大きな姿が石のモザイクで描かれている。よくみると、魚や蟹がいる。そしてリンガもある。さらに、チャンディー・スクにもあった甲の平らな亀がある。明らかに、チャンンディー・スクの親戚のように思えた。ここでは亀は階段の踏石として使われている。チャンディー・スクの亀石も踏石だったのではないか。

 スケールはチャンディー・チョトの方がはるかに大きい。ここでも軸線は一直線にとられ、はるかに下界をみおろしている。構成原理は同じだ。階段状の構成は、急でダイナミックである。最上部には同じようにピラミッド状のチャンディーがある。何故か、ここも上屋がない。

 チャンディーの前に二対の祠があり、そこにリンガが奉られていた。随分と具象的である。男根崇拝は至るところにあるということか。ところが、その直後にみたものには、いささか度肝を抜かれてしまった。

 最上部のチャンディーのさらに上に建物の陰がみえる。木造の塔のようである。近づいてみると三重の塔である。なんと、塔の上に巨大なリンガがそびえたっているではないか。

 リンガを最重要の崇拝物とするのはシヴァ派である。あるいはタントラ教である。タントラ教は、宇宙の生成、発展を男女の性的結合になぞらえて理解する。そのシンボルがリンガであり、女性性器ヨーニである。リンガ、ヨーニに対する崇拝はもちろんタントリズムに固有というより、ヒンドゥー教全体のものである。ジャワのチャンディーは、ずいぶんと見て歩いた。リンガもずいぶんみた。しかし、チャンディー・チョトの三重の塔の上の、こんなあっけらかんなのは初めてであった。

 


2025年12月12日金曜日

ジャカルタ原住民・ベタウィの住居,at,デルファイ研究所,199303

  ジャカルタ原住民・ベタウィの住居,at,デルファイ研究所,199303


ジャカルタの原住民・ベタウィの住居

ジャカルタ・チョンデット

                布野修司

 

 人口800万人を超える大都市ジャカルタ、そのジャカルタの南西部にチョンデット      と呼ばれる地区がある。現在の行政区域でいうとバレカンバン、カンポン・テンガ、バトゥ・アンパルという三つのクルラハン(行政単位 連合町内会)からなるチリウン川沿いのかなり広大な地区である。

 ジャカルタの歴史的地区というと、まず、北のコタ地区である。かってバタビア城があり、市庁舎を始め、コタ駅など歴史的建造物が建ち並ぶ旧市街である。それともうひとつ、現在の都心、ムルデカ広場を中心とする地区、およびそれに隣接する高級住宅地メンテンがある。この二つの地区は誰でも知っているのだが、もう一ケ所、その保存が計画されつつある地区がある。それがこのチョンデットである。

 ジャカルタは、スンダ・カラパ(             カラパは椰子を意味する)と呼ばれた頃からチリウン川とともに発達してきたのであるが、その遥か以前、先史時代からこのチョンデットには人々が居住してきた。様々な出土品がそれを物語るのである。

 住民の八割は、ベタウィ        と呼ばれるジャカルタ・アスリ(原住民)である。五〇万人と推定されるベタウィは、もちろん、他の地区にも分散して住むのであるが、その中心がこのチョンデットである。タルマヌガラ王国時代の港湾地区であり、今猶独自の文化を保持していることで知られのである。

 今、訪れてみると、チリウン川は、汚染され淀んで強烈な臭いを放つ河口の様子からは想像できないほど豊かな樹木に覆われ、美しい。辺りには、果樹園が多く、のどかな農村の風景が広がる。家々が密集し、車が走り回る、騒々しいジャカルタにもこんなところが残っているのかと思う。

 独自の衣食住文化を保持するといっても、残念なことにベタウィの伝統的住居として、その原型をとどめるものは極めて少ない。ジャカルタ市の建築保存課のウイスヌ・アルジョ氏に半日案内してもらったのであるが、なかなかみつからない。イスラム化、植民地化の過程で様々な要素が混じり合ってきたし、時代と共に変化もしてきているのである。

 原型と思われるベタウィの住居は数十件程になってしまったというのであるが、そのプランはカンポンでよくみるもののように思えた。

 屋根の形態は、寄棟、切妻などいくつかタイプがあるが、テラス、ルアン・タム(客間)、ルアン・ティドゥール(寝室)、ダプール(厨房)、カマール・マンディー(浴室・トイレ)、スムール(井戸)が前から後ろへ一列に配置されるのが基本的パターンなのである。

 むしろ特徴は装飾である。ベタウィは、木彫を得意としたという。今でもチョンデットには、大工や職人が多く、家具や材木屋がやたらと目につくのである。

 

 

2025年12月11日木曜日

ソンボ・ハウジング・プロジェクト,at,デルファイ研究所, 199301

 ソンボ・ハウジング・プロジェクト,at,デルファイ研究所, 199301


ソンボ・ハウジング・プロジェクト

マルチ・ディメンジョナル・ハウジング・プロジェクト

          スラバヤ・ジャカルタ

 

                布野修司

 

 インドネシアで、いま、新しい形の集合住宅が生まれようとしている。カンポン・インプルーブメント・プログラム(KIP)の成果のあと、ジャカルタ、スラバヤといった大都市では、既成市街地の再開発という形での住宅供給が本格化しようとしているのであるが、それに先駆けて、実験的試みが展開されようとしているのである。リードするのは、スラバヤ工科大学のJ.シラス教授だ。

 最初のプロジェクトは、スラバヤのデュパッ     地区のハウジング・プロジェクトである。続いて、ソンボ     地区の計画が進められ、もうすぐ完成する。そして、ジャカルタでも、J.シラス教授によるプロジェクトが建設中だ。プロガドン           地区のプロジェクトである。

 三つのプロジェクトの基本的なコンセプトは同じである。何がその特徴なのか。何が新しいのか。J.シラス自身は、何も特別なことはないというのであるが、そうでもない。

 その特徴は、ひとことでいうと、共用スペースが主体になっているところにある。リビングが共用である、厨房が共用である、カマール・マンディー(バス・トイレ)が共用である。もう少し、正確に言うと、通常の通路や廊下に当たるスペースがリッチにとられている。礼拝スペースが各階に設けられている。厨房は、各戸毎に区切られたものが一箇所にまとめられている。カマール・マンディーは二戸で一個を利用するかたちでまとめられている。まとめた共用部分をできるだけオープンにし、通風をとる。その特徴を書き上げ出せばきりがないけれど、およそ、以上のようだ。

 このハウジング・システムをどう呼ぶか。マルチ・ディメンジョナル・ハウジングと呼ぼうと思う、というのがJ.シラスの答である。直訳すれば、多次元的ハウジングである。

  デュパッやソンボを訪れてみると随分活気がある。コモンのリビングというか廊下がまるで通りのようなのである。そこに、カキ・リマ(屋台)ができ、作業場ができ、人だかりができるからである。二階であろうと三階であろうと、すぐにトコ(店舗)もできる。カンポンの生活そのままである。

 シェルターだけつくっても仕方がない、経済的な支えもなければならないし、コミュニティーの質も維持されなければならない。マルチ・ディメンジョナル・ハウジングというのは、経済的、社会的、文化的、あらゆる次元を含み込んだハウジングという意味なのである。

 J.シラスの場合、経験を積み重ねながら、よりよいデザインを目指すそうした姿勢が基本にある。デュパッの経験はもちろんソンボに生かされている。また、その設計施工の過程において、住民参加が基本になっている。

 赤い瓦の勾配屋根を基調とするそのデザインは、カンポンの真直中にあって嫌みがない。素直なデザインの中に力強さがある。



2025年12月10日水曜日

BRI(ブリ)タワー,at,デルファイ研究所,199306

 BRI(ブリ)タワー,at,デルファイ研究所,199306


ブリ(BRI)タワー    ジャカルタ・スラバヤ

                布野修司

 

 二年ほど前、スラバヤに一際目立つ高層ビルが建った。BRIタワー、下層階にインドネシア銀行が入るオフィス・ビルである。ミラーグラスのカーテン・ウオールで、最上階が六角錐形に尖っている。カンポンの住居との対比が印象的だ。

 アメリカの建築家のデザインだというのであるが、名前は確認し忘れた。ロンドンのドックランド、ピラミッドを頂く、シーザ・ペリの超高層ビルやヘルムート・ヤーンのシカゴの超高層ビルなど最近は頭に尖った帽子を被るのが流行らしい。

 われわれにはどうということはないビルなのであるが、スラバヤでは相当話題になったらしい。「ちびた鉛筆ビル」などというニックネームがついたことがそれを示している。なるほどずんぐりむっくりのプロポーションは、使い古した鉛筆のようである。新しいビルだけど、使い古したというのだから、少し皮肉が込められたネーミングかもしれない。

 昨年ジャカルタへ行ってびっくりした。この「ちびた鉛筆ビル」がジャカルタにもあるのである。高速道路を走りながら、慌ててシャッターをきったのであるが、見るからにそっくりである。写真を焼いて見比べて見ると、微妙にデザインが変えてある。しかし、素材や色の使い方からみて同じデザイナーであろう。このふたつのBRIタワーは、成長著しいインドネシアの都市のニュートレンドを象徴するかのようだ。

 ある企業が同じスタイルで本社や支社をデザインすることはもちろんあるのだけれど、なんとなく嫌な感じがしないでもない。同じデザインを都市を違えて繰り返す建築家のセンスが気になるのである。

 しかし、考えてみると、日本だってそう偉そうなことは言えない。新宿の副都心を見よ。みんなアメリカのどこかで見たような超高層ビルではないか。そう指摘する声は多い。ものまねが日本人の代名詞のように言われた時代はそう昔ではないのである。ジャカルタに行く度に気になるのがタムリン通りにあるあるビルだ。知る人ぞ知る、東京の新橋にあるビルとそっくりなのだ。

 同じような材料やモチーフを用いることはよくあることだ。地域毎にスタイルは共有されてきたし、建築家個人のスタイルの一貫性もむしろ当然のこととされる。そもそも近代建築の理念は、世界中で共通のスタイルを実現することなのだから今更目くじらをたてても始まらないのであろう。全くのコピーをつくることはやらなかったにせよ、同じようなことは近代建築家が世界中の発展途上国でやってきたことだ。

 ジャカルタにも随分と高層ビルが増えた。その中に、ポール・ルドルフによる高層ビルがある。ダルマラ・サクティ・ビルだ。いかにもルドルフらしい。しかし、それにしても、なつかしい過去の建築家に思えていたルドルフの顕在ぶりにジャカルタで出会おうとはなんか複雑な気分である。

 


2025年12月9日火曜日

ヤマトホテル,at,デルファイ研究所,199302

 ヤマトホテル,at,デルファイ研究所,199302


ヤマトホテル          スラバヤ                布野修司

 

 スラバヤの目抜き通り、ジャラン・トゥンジュンガンにマジャパイトという小さなホテルがある。デュドック風というか、庇の水平性を強調してファサードを構成する小品だ。中に入ると、一階ロビーは吹き抜けており、シャンデリアが下がっている。上部にステンドグラスがめぐっていて、往時を忍ばせる。

 インドネシアに近代建築をもたらしたのはオランダであり、アムステルダム・スクール、ロッテルダム・スクール、あるいはデュドックの影響などを様々にみることができるのであるが、この小品もそのひとつである。

 スラバヤの近代建築というと、H.P.ベルラーヘが設計したアルヘメーネ(生命保険会社)の社屋がある。竣工は    年である。また、市庁舎を始めとするC.シトロエンのいくつかの作品が数少ない光彩を放っている。さらに、蘭領東インドで数多くの作品を手掛けたE.H.G.H.キュイペルスのいくつかの作品が残っている。しかし、残念ながらこのホテル・マジャパイトの建築家の名はわからない。

 このなにげないホテルは、しかし、スラバヤの人にとって、また、インドネシアの全ての人にとって、大きな意味をもつホテルである。そしてさらに日本にとっても縁が深い。実は、このホテルは、かってヤマトホテルと呼ばれていたのだ。

 日本の占領期に憲兵隊本部が置かれていたのがこのホテルである。そして、インドネシアの独立戦争の火蓋がきって落とされたのがこのヤマトホテルの前の戦闘なのである。

 記念すべき日は、一九四五年一一月一〇日。これは、スラバヤの人々が永遠に記憶する日付だ。スラバヤ工科大学の正式名称は、「11月10日スラバヤ工科大学」というのである。

 植民地支配復活の意図をもってスラバヤに上陸した連合軍(英印軍)とスラバヤ民衆が衝突、以降、全市が制圧されるまで一五日間の壮絶な戦闘が繰り広げられたのであった。

 いま、ホテル・マジャパイトを訪れると、その闘いを記録する数葉の写真がロビーに飾られている。また、イドルス(一九二一-七九)が、独立戦争最大の闘いとなったこのスラバヤの戦闘を舞台にした小説『スラバヤ』(  )を書いている。

 「数人の混血児が敢えて赤白青の三色旗をヤマトホテルに掲げようとしたとき、インドネシア人はひどく驚いた。驚いた人々はだんだん数が増え、増えるにつれてホテルに近づいていった。突然ひとりの青年がまえにとび出した。彼はポールによじ登ると、旗から青地部分を引き裂いた。」

 オランダの三色旗から、青地部分を引き裂くと、赤白の現在のインドネシア国旗になる。『スラバヤ』冒頭の実際にあった有名なエピソードである。

 

 

   グナワン・モハマッド、イグナス・クレデン編 『インドネシア短編小説集』(佐々木重次監訳 勁草書房 一九八三年)所収

押川典昭訳『スラバヤ』

2025年12月8日月曜日

モスクワ:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日

 モスクワ:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日


F03 帝国と社会主義が残る都市

モスクワ Moscow,モスクワ州 Moscow,ロシア連邦 Russian Federation


モスクワはロシア連邦の首都で、国土の広いロシアの中では西側に位置する。

面積は2511平方km、人口はヨーロッパ最大の115万人であり、欧州一の人口を持つ大都市かつ多民族都市として発展している。

さらに、ロシア国内最大の行政・政治・産業・科学・文化の中心地としても知られている。民族構成としてはロシア人が多数を占め、ウクライナ人、スラブ人、ユダヤ人、アルメニア人などが居住している。

モスクワの都市の骨格は、モスクワリングと呼ばれており「クレムリン」を中心とする同心円上に広がる環状道路が担っている。環状道路は過去に城塞都市であったため要塞、外壁、主要街道に沿って建設された郊外の出城などが、遊歩道または街道へと変化しているもので今日のモスクワの都市骨格を担っている。主要な街道の例を挙げると、ブーリヴァール環状道路、サドヴォエ環状道路が挙げられる(図1)。そのため、モスクワの都市発展はクレムリンを中心とする地区から放射円状に外へと発展している。ロシア革命以後の都市開発により、モスクワは図1に見られるような都市骨格へと変化している。

都市形成史を紐解くと、モスクワという名称の都市が史上初めて使用されたのはロシア最古の年代記とされる「イパーチイ年代紀」の一説であるとされている。その一説には1147年に行われたキエフ大公国の王位をめぐる内紛の会談がモスクワ中心部の砦で行われたと記されている。最近の考古学的調査では1147年以前には防備集落があったといわれている。

モスクワの都市としての記録は12世紀半ばにキエフ大公国ユーリー・ドゴルスキー公によって木製の城壁と濠を建設したところから始まる。だがモンゴル帝国の侵略によって初期の都市の面影はのこっていない。

現代のモスクワの都市骨格が形成されたのは、モスクワ大公国設立の13世紀後半頃と考えられている。1263年にモスクワ大公国の首都に制定された際、モスクワは皇帝の居住地である「クレムリン」を中心とする要塞都市として建設された。以降モスクワは2度都市形成の転機を迎えている。

一度目は15世紀以降、統一ロシア国の首都に制定された頃とされ、都市として安定的に繁栄し、16世紀にはロンドン、パリにと肩を並べるほどの大都市として発展をした(2)。二度目はロシア革命が行われた際、サンクトペテルブルグ(当時:ペテルブルグ)から遷都した頃(1917年から1918年であり、革命と内乱終結後に行われ、1935年には総合計画(図3)、1960年には新総合計画、1971年にはモスクワ発展総合計画(4)が策定されている。これらの計画は、市 街地・グリーンベルト(森林地帯)・衛星都市群の3都市圏で都市を構成する計画で、1930年代のイギリスで行われていた都市計画理念を踏襲したもの だと考えられる。

現代のモスクワは旧ソ連での社会主義原則に基づく都市形成が基準となっている。道路計画としては、クレムリンを始点とする主要幹線道路が放射状に延び、クレムリンを中心とする環状道路に接続する計画となっている。このような環状道路網を「モスクワリング」と呼称されている。

モスクワの中心地「クレムリン(кремль)」は、「古代ロシア都市内部の城塞、城」という意味で、ロシア帝国時代は王宮、ソ連時代は共産党中枢機関、ロシア連邦では大統領府が置かれている街の名前のことである。地区には百貨店、博物館、劇場、教会など住民が使用する商業・公共施設が配置されている。

 モスクワは集合住宅が多く、多くの住民はモスクワ環状自動車道(MCRH)の内側に居住している。そのためモスクワ市内の人口密度はかなり高い。

  

参考文献

土岐寛「モスクワ市政と都市計画」『都市問題』 第77111986

木村浩「モスクワ」文藝春秋 1992

「モスクワ発展総合計画」『近代建築』1986年 1








 


2025年12月7日日曜日

リヴィウ:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日

リヴィウ:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日


F02 多民族が磨いた東欧の真珠

リヴィウ(リヴォフ)、Lviv、ウクライナ Ukraina 


リヴィウはウクライナ西部の州であり、州都の名もリヴィウである。現在、キエフに次ぐウクライナの中央都市である。

地形的には、北にヴォルイニ丘陵、南にはカルパート山脈に挟まれており、変化ある地形に富んでいる。また、丘陵山地が州の中央を横断しており、これが分水嶺を形成している。この丘陵地の北の平原部には、バルト海へ繋がる西ブーフ川とプリーピャチ・ドニプロー川水系で、南側の平原は黒海へ繋がるドニエステル川水系となっている。リヴィウの気候は、温帯大陸性で年間降水量が700mm-1000mmであり、ウクライナ国内では水資源の豊富な地域となっている。そのため、リヴィウの中部より南には森林ステップが広がっている。

歴史的には、リヴィウ州域はモラヴィア王国滅亡後、12世紀までキエフ大公国の一部であった。その後、キエフ大公国が分裂し、リヴィウの西部はペレムイシュリ公国、東部はズヴェニーホロド公国、北部と中部はヴォロディーミル・ヴォインスキー公国の一部となった。その後、ハーリチ公国領、ハーリチ・ヴォイルニ公国領となる。都市としてのリヴィウはこの時代から重要な交易地として、ハーリチ・ヴォルイニ年代記では1256年に初出する。リヴィウという名前は、クニャージホラー(クニャージの山という意味で現代のヴィソーキイ・ザーモクにあたる)に要塞を建設したハーリチ・ヴォイルニ公国王のダニイロ・ロマーノヴィチ・ハーリツキー公が自身の息子であるレフにちなんで命名されたことが由来する。そのレフ・ダニイロヴィチの治世にリヴィウはハーリチ・ヴォルイニ公国の首都となった。14世紀中ごろから、リヴィウはポーランド王国の支配下に置かれる。1356年にマクデブルク都市法が制定され、ドイツ人商人が多く流れ込んだため、リヴィウの現代の街並みにドイツ的性格が形成される。ここから1434年から1772年にわたって、ポーランド王国のルーシ県の県庁所在地となった。15世紀までは主にドイツ人によって市政や司法が行われていたが、16世紀以降は住民の多くはポーランド化していった。1772年の第一次ポーランド分割によりオーストリア帝国に併合され、帝国の北東部にあたるガリツィア・ロドメリア王国の首都となる。ウクライナのほかの地域はロシア帝国の支配下にあり、ウクライナ語に対する弾圧が強かった。しかし、政治、文化的自由の享受されたオーストリア帝国のハプスブルク治下であったリヴィウはウクライナの民族運動が起こった。そのため、リヴィウではウクライナ語の出版物が活発に行われていた。このような背景をもとに、リヴィウはポーランド、ウクライナ文化の中心地として大きな存在となる。ロシア革命の後、西ウクライナ人民共和国が1918年に誕生し、リヴィウを首都に定めたが短命に終わる。その後、リヴィウは再びポーランド領となる。1939年には独ソ不可侵条約によって、ソヴィエト連邦ウクライナ領に編入されたが、第二次世界大戦中にドイツ軍によってリヴィウは制圧される。ナチス・ドイツ支配下ではポーランド総督府レンベルク県の県庁所在地となるが、第二次世界大戦後にウクライナ・ソヴィエト社会主義共和国の領土とされた。その後、1991年のソ連崩壊によって、リヴィウは独立したウクライナの都市となる。

このような戦争の続いたリヴィウだが、その歴史地区は奇跡的に戦火を免れた。様々な国の伝統が融合したこの地区は1998年に「リヴィウ歴史地区」として世界文化遺産に登録された。この歴史地区に存在する中世から近世にかけて作られた石造りの美しい街並みはヨーロッパの真珠と呼ばれる。様々なヨーロッパ諸国の文化伝統を残したこの場所はリヴィウの歴史を反映している。現在においてもリヴィウは交通網が発達し、ウクライナと世界を結ぶ国際的な交易ルートの要としてその役割を果たしている。

参考文献

竹内啓一ほか(2016,『世界地名大辞典6 ヨーロッパ・ロシアⅢ』, 朝倉書店

古田陽久+古田真美(2000), 『世界遺産ガイド-北欧・東欧・CIS編』

風早健史(2013, 『全部わかる世界遺産〈上〉ヨーロッパ/アフリカ』, 成美堂出版

伊東孝之ほか(1998, 『ポーランド・ウクライナ・バルト史』, 山川出版社

臼杵陽(2009)『イスラエル』 岩波書店

笈川博一(2010)『物語 エルサレムの歴史』 中央公論新社







 


2025年12月6日土曜日

ワルシャワ:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日

 ワルシャワ:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日


 E25  再現都市

ワルシャワWarsaw,マゾフシェ Masovia県,首都、ポーランド共和国 Republic of Poland


 ワルシャワは、第二次世界大戦末期に壊滅的な破壊を受けた都市である。そして、戦後、市民によって「壁のひび一本に至るまで」忠実に再現された、実にユニークな都市である。

 1939年にナチス・ドイツがポーランドへ侵攻、ワルシャワはドイツ軍の空襲に晒され、その占領下におかれた。ポーランド政府は、パリ次いでロンドンを拠点として抵抗運動を開始するが、ワルシャワ市内のユダヤ人はワルシャワ・ゲットー(ユダヤ人居住区)へ集められ、国内の絶滅収容所(アウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所)に送られた。そして、19448月のワルシャワ蜂起は、63日の戦闘の末ドイツ軍によって鎮圧され、多数の市民が殺戮され、市内の建物のほとんど85%が破壊された(図1)。

 その後、ソ連がドイツ軍を排除し、その解体(1989年)まで、ポーランドは衛星国家となるのであるが、ワルシャワ北部の旧市街スタレ・ミアストStare Miastoとその北に隣接する新市街ノウェ・ミアストNowe Miastoは、以前の姿に忠実に再現された。再利用できる建築要素はもともとあった場所に用いられた。もともとの建物に使用された煉瓦はできるだけ再利用された。煉瓦は潰してふるいにかけられ、再生可能なのである。何故、こうした忠実な復元が可能になったかと言えば、18世紀の画家ベルナルド・ベッロットが描いたヴェドゥータ(都市風景画)が残されていたからである(図2)。また、第一次世界大戦と第二次世界大戦の戦間期にワルシャワ工科大学の建築学科の学生が描いた写生画も資料とされた(図3ab)。

 ワルシャワ市民は、廃墟と化した市街地をソヴィエト流の社会主義都市計画による新たな都市に作り替える計画を拒否し、「意図と目的をもって破壊された街並みは意図と目的をもって復興させなければならない」という信念と「失われたものの復興は未来への責任である」という理念の下に復元するのである。

 ワルシャワの起源は9世紀頃に遡り、要塞化した集落が存在したとされるが、その名が史料に現れるのは1285年で、当時のワルシャワは、マゾフシェ公爵領に属する漁業を主とする寒村であったとされる。その後、マゾフシェ地方はポーランド王国に編入され、16世紀末にジグムントⅢ世がポーランド王宮をクラクフよりワルシャワに移転、1611年にワルシャワは正式にポーランド・リトアニア共和国の首都となる。

 ポーランド・リトアニア共和国(15691795)は1617世紀のヨーロッパ世界において、オスマン帝国に次ぐ広範な領土を支配した国であった。16世紀は、ポーランドの黄金の時代とされる。ヤギェウォ朝(13861572)の王家は、イタリアの諸都市と親しく交流して、後期ルネサンスの影響を大きく受けた。クラクフの街の建築群がイタリアとの関係を示しているが、1543年に地動説を唱えたN.コペルニクスが学んだのもクラクフ大学である。

 しかし、18世紀末に至ってポーランド・リトアニア共和国は消滅することになる。3次にわたって、周辺の強国、ブランデンブルグ・プロイセン、帝政ロシア、ハプスブルグ帝国によって分割されるのである。1795年の第3次ポーランド分割でプロイセン領に組み込まれ、1807年にナポレオンがワルシャワ公国を建てるが、ロシア皇帝アレクサンドルⅠ世がポーランド国王の座につくことになる。

 独立を喪失してから、ワルシャワは繰り返し、ポーランド国家再興運動の中心地となるが、ロシアによって制圧される。ポーランドが独立を回復し、ワルシャワが再び首都となるのは、第一次大戦後のパリ講和会議においてである。しかし、真の独立を達成するのはソ連邦の解体を待たねばならなかったのである。

 ワルシャワは、市内を流れるヴィスワ川の中流域に位置する。標高100mほどの平地で、ヴィスワ川は、北北西に向かって流れ、約350km先の港湾都市グダニスク(ダンツィヒ)でバルト海に注ぐ。ヴィスワ川は大きく時計回りに湾曲してクラクフに至る。

 ヴィスワ川西岸に接するように位置する王宮を中心とする旧市街スタレ・ミアストは1611年のワルシャワ遷都以前に形成された市街地であり、その北に隣接する新市街ノウェ・ミアストは、1611年に市街地となった地区である。また、中心市街地(シルドミェシチェは、18世紀以降、主として共産主義時代に開発された地区である(図4)。

 戦前期からのオフィス街とユダヤ人住宅街(ケッヒラー)の一部がその主要部を占める。第二次世界大戦中に、ナチスがユダヤ人地区にワルシャワ・ゲットーを設置したが、戦争末期に破壊されている。現在は、ワルシャワ中央駅、文化科学宮殿など、近代的な高層ビルが建つ。

 スタレ・ミアスト、ノウェ・ミアスト、クラクフ郊外通り、新世界通りおよびワルシャワ市内に点在する複数の宮殿群を含むワルシャワ歴史地区は1980年ユネスコの世界遺産に登録され、2011年には再建に用いられた資料(再建局管理文書)もユネスコ記憶遺産に登録された。

 

【参考文献】

UNESCO/World Heritage Center/Warsaw Heritage Center

UNESCO/World Heritage Center/Warsaw Heritage Center & NHK


1

2

3ab

4 ワルシャワ1914

Old map of Warsaw (Warszawa) vicinity in Poland by Wagner & Debes, Leipzig

 

 


2025年12月5日金曜日

クラクフ:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日

 クラクフ:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日


E23 北方ルネサンスの古都

クラクフ Kraków,マウォポルスカ県Województwo małopolskie,ポーランド共和国 Rzeczpospolita Polska

 

 


 ポーランド王国(1038頃~1569)の首都として知られるクラクフの起源は10世紀に遡る。グロッドgrod(城塞)的な城壁で囲われた集落遺構が発掘されたヴィスラ河上流左岸のヴァヴェルの丘が発祥地とされている。11世紀に王宮が移されて首都となると、急速に都市形成が行われた。司教座が置かれ、ヴァーヴェルの丘のサン・ミシェル教会を始め多くの教会が建設されるが、ほとんどが13世紀までの建設であるとされる。

東ヨーロッパの都市の形成は、グロッドと呼ばれる防御壁で囲われる都市核ができる段階、それに教会地区や商人地区が加わる段階、そして、都市法によって市制が整備される段階に分けられるが、クラクフはこの3段階目の典型だとされる。1257年にクラクフは市の権利を授与され、旧市街に残っている中央広場や街並も作られた。中央広場は中世都市の広場としては最大規模のもので(約40,000㎡)、中央にスキェンニツェ(織物会館)、西南脇には旧市庁舎の時計塔、南側には聖ヴォイチェフ協会がある。また、13世紀から15世紀にかけて、ヴァヴェル城を中心として当時の城を取り囲んだレンガや石造りの城壁が建設されている。

モンゴル(タタール)の襲撃によって破壊されるが、14世紀に入るとカジミェシュⅢ世(大王)(13331370)の下でクラクフは最盛期を迎える。ヨーロッパの人口が半減したとされる黒死病(134849)の流行時もポーランドは影響を受けていない。黒死病蔓延の元凶とされたユダヤ人が大量に流入したのもクラクフの繁栄につながる。カジミェシュ大王は積極的にユダヤ人を招き入れ、当時ヴィスラ川の中州であった土地自治区として提供した。ユダヤ人たちが豊かになるにつれて自治区は対岸にも広がってい

 大王は、ヴァヴェル城や街並みを形成する建築物をゴシック様式に改築し、また、ポーランド最古の大学となるヤギェウォ大学(クラクフ大学)を創設している(1364年)。コペルニクスが通うことになるこのヤゲェウォ大学は多くの優れた卒業生を世に送っているが、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世も入学しており、以来半生をクラクフで送っている。

続くヤゲェウォ王朝(13861586)に、ポーランド王国は全盛期を迎えるが、ジグムントⅠ世(150648)は、イタリア人建築家バルトロメオ・ベレッチを登用して、ヴァヴェル城内の大聖堂に金色のドームを戴くジグムント礼拝堂を建立する。その当時のルネッサンス建築が現在もなお多く残っている。ポーランド王国は、ヴェネツィアと国境を接しており、ルネサンスの文化、芸術は共有されていたと言っていい。ジグムント・ヴァザⅢ世の時代はバロック文化が普及する。

 ヤゲェウォ王朝が断絶すると、王権の弱体化が進み、1609年にジグムント・ヴァザⅢ世は首都をクラクフからワルシャワに遷す。そして、17世紀前半の30年戦争、18世紀前半の大北方戦争で国土は荒廃し、18世紀後半には3度のポーランド分割によってオーストリア領となった。その後、1809年にワルシャワ公国に入り、1815年のウィーン会議に基づいて、様々な自治権を回復していくことになる。そして、クラクフは、19世紀後半から20世紀初頭にかけて、ポーランド文化振興の中心地として重要な役割を果たしたとされる。第一次世界大戦後にポーランドが独立を果たすが、第二次世界大戦時にドイツ軍の占領を受けた。ヴィスワ川対岸にあるポドグジェ地区にクラクフ・ゲットーが造られた。クラクフの歴史上、ポーランド国内でも多くのユダヤ人がが居住し、ホロコーストを逃れるため、ユダヤ人はアメリカ合衆国やイスラエルなどへ移住した。現代のカジミェシュ地区では毎年7月初旬、ユダヤ人による「シャローム」祭が開催される。

クラクフが世界文化遺産に登録されたのは、制度創設初年度の1978年である。


図1 クラクフ

(http://www.discusmedia.com/maps/polish_city_maps/3606/

 

【参考文献】

ノーウィッチ、ジョン・ジュリアス(2016)『世界の歴史都市』福井正子訳、柊風社(Norwich, John Julius(2009), “Great Cities in History”, Thames & Hudson)。

伊東孝之、井内敏夫、中井和夫『新版 世界各国史 ポーランド・ウクライナ・バルト史』山川出版社、1998

瀬原義生(1993)『ドイツ中世都市の起源』未来社

沼野充義『読んで旅する世界の歴史と文化中欧 ポーランド・チェコスロヴァキア・ハンガリー』新潮社、1996

ポドレツキ・ヤヌシ『クラクフ:バベル城・旧市街・カジミェシ地区:ポドレツキ・ヤヌシの写真100選』Wydawnictowo”Karpaty”-Andrzej Laczynski1995

 

 


2025年12月4日木曜日

グダニスク:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日

グダニスク:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日


E24歴史に翻弄される自由都市

グダンニク Gdańsk, ポメラニア Pomeranian, ポーランド Poland

 

 

 

 

 


グダニスク(ドイツ語名ダンツィヒ)における定住を始めたのはゴート族や古プロイセン人であり、その後、79世紀にスラブ人が定住した。979年にはスラブ人のポーランド公ミェシュコ一世は、モトワヴァ川がヴィスワ川に合流するところに小島の砦と集落を置き、土盛りと木杭による二重の防塁を築いた。西に続く集落は後に「古都市」(スタレ・ミャスト)に発達する。

ポーランドにおけるスラブ人の支配は不安定な状況が続く。しかし、リューベックとヴィスビューの間にあり、さらにはノヴゴロドまで至るバルト海交易の中継地としての地理的条件から、各地の商人が移住してきて、グダニスクは交易都市として生長する。核をなす「主都市」(グウォヴニ・ミャスト)地区は、1224年にリューベック都市法を採用し、自治権を得る。

1226年、ポーランド王は古プロイセン人をキリスト教化すべく、ハンガリー地域にいたドイツ騎士団を呼び寄せた。ドイツ騎士団はグダニスクの約50km東にマルボルク城を建設して拠点とし、布教活動を展開する。1308年にはブランデンブルク辺境伯がドイツ地域から侵攻し、ポーランド王が騎士団に助けを請うたのを契機に、騎士団が強引にポメラニア地方を支配することとなる。グダニスク市民は抵抗したが、成功しない。1343年には騎士団のもとにクルム都市法に転換させられるが、市長と参事会を選ぶ権利を獲得する。1361年にはハンザ同盟に加わる(同盟が解消される1661年まで)。騎士団は商業活動を支援し、経済発展はさせたが、都市の自治は制限した。

スラブ人の築いていた木と土の砦は騎士団によって煉瓦造の強固な城に改造され、その西にオシェク地区のやや複雑な市街が形成された。その際に「古都市」地区にあった初期の市街地は壊される。

「主都市」はバルト海からヴィスワ川を遡ってモトワヴァ川へと入る交易船の港町として、川岸を船着き場とするグリッドプランで計画される。それは、1340年頃にマリア教会堂が今日見られるように大規模に改築されてゆき、歪みを生じる。 東西に走る主軸ドゥーガ(長い)通りの中ほどには市庁舎が建つが、ここから東側が幅広くなり、街路型市場広場のドゥーギ・タルク(長い市場)となる。川辺に出る「緑の門」までの細長い広場には、破風付きの都市建築が密に並んで濃密な都市空間が形づくられた。市域は二重の濠で囲まれ、ドゥーガ通り西端には三連の門を持つ都市門が築かれたが、後に凱旋門が追加され、華麗な歴史的文化財となって残る。中央に聳える「囚人塔」の複合建築は赤い煉瓦壁を見せ、中世、近世の地域伝統の建築装飾をまとう。市街地内の各街路がモトワヴァ河岸に出るところは門屋となっており、そのひとつであるシェロカ(広い)通りの門は繁栄当時の木造機構の巨大なクレーンを残している。

その後、「主都市」を北に延伸するようにして、騎士団は独立した新都市を建設する。ここにはドミニコ会の聖ミコワイ教会堂と修道院、聖ヤン教会堂、聖霊慈善院の宗教施設が林立した。騎士団は後にこれを手放し、両地区は一体化し、一筋の市壁と幅広い濠、モトワヴァ川で囲われる。

やがて市壁と濠の外にも市街地が拡大していく。南の濠の外には、モトワヴァ川沿いに広がる造船用地の後背市街地が形成され、独立した「郊外都市」(スタレ・プシェドミェシチェ)となる。他方、北西にも、古い川筋を取り込んで直交街路網の新市街が建設される。それは「古都市」と名付けられているが、スラブ人の初期市街地があったからである。また、モトワヴァ川の対岸には船着き場に穀物倉庫が並び、「穀物倉の島」(スピフレシェ)地区が生まれるが、市街化は進まない。これら三つの地区も16世紀に入る頃にはそれぞれの市壁を備え、独立した自治を持つ都市群をなした(図1

15世紀にはポーランド王とドイツ騎士団の争いは一進一退し、その狭間にあってこの地域の諸都市が結束して「プロイセン同盟」を組んでポーランド王を支援する。しかし、グダニスクは騎士団による残虐な反撃も受けている。経済力を増していったグダニスク市民は、王に服従し、また抵抗しつつ、三つどもえの争いを通して自治権を拡大していった。

16世紀にはポーランド王との不和から占領され、また17世紀には第二次北方戦争の際にスェーデン軍によって占領されるなど、軍事的な危機が続く。グダニスクには近世型の城塞都市理論が導入され、東側の湿地帯に円弧を描くように稜堡式城塞が築かれ、西側は丘を取り込みつつ、高度の稜堡技術による複雑な城塞が築かれる(図2

18世紀にはポーランド分割、プロイセン王国への編入、19世紀にはナポレオン戦争などと政治環境は激動を続け、20世紀には第一次大戦後、改めて「自由都市」として自立する。1939年、グダニスク港への攻撃で第二次世界大戦が始まる。そして市街地は空襲で壊滅したものの、戦後、歴史的景観が復元された。ドイツ系市民が追われ、抑圧的な社会主義政権が続いた後、1980年のレーニン造船所に始まる「連帯」の運動は社会主義体制の終焉の先駆けとなる。歴史に翻弄されながらも自由都市の精神は今も息づいているようである。

【参考文献】

Otto Kloeppel, "Das Stadtbild von Danzig in den drei Jahrhunderten seiner großen Geschichte", Kafemann, Gdańsk, 1937.




 図1 1520年頃のグダニスク復元図(Kloeppel, 1937 所収)

図2 17世紀グダニスクの西からの眺め(Merian1643年)

 


布野修司 履歴 2025年1月1日

布野修司 20241101 履歴   住所 東京都小平市上水本町 6 ー 5 - 7 ー 103 本籍 島根県松江市東朝日町 236 ー 14   1949 年 8 月 10 日    島根県出雲市知井宮生まれ   学歴 196...