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2026年3月20日金曜日

図書新聞 読書新聞 2023年上半期

 2023年度上半期読書アンケート

 

①土居義岳、空想の建築史、左右社。②石井翔太、恣意と必然の建築 大江宏の作品と思想、鹿島出版会。③本間利雄+自伝編集委員会、建築家・本間利雄 風土に根ざした建築を求めて、鹿島出版会。④戦後建築研究会、戦後空間史 都市・建築・人間、筑摩書房。⑤磯達雄・文 山田新治郎・写真、日本のブルータリズム建築、トゥー・ヴァージンズ。⑥青井哲人、ヨコとタテの建築論、慶応義塾大学出版会。⑦松村淳、愛されるコモンズをつくる 街場の建築家たちの挑戦、。

 コロナ禍がわれわれの拠って立つ足元を改めて問い、歴史を大きく振り返る時間を与えてくれたのであろう。陸続と新著が手元に届く。①はフランス建築史をベースとするヨーロッパ建築史の第一人者による建築論集。「古代ギリシアから現代までをひとつの同時代として」を副題とするように、その切口は常に現代に向けられている。②、③は日本の近代建築の歴史を生きた建築家の仕事を丹念に跡づける。戦後建築をリードした丹下健三の同級生であった大江宏はその裏の深みを生きた。磯崎新と同い年の本間利雄は山形を拠点として生きた。④~⑤は戦後建築に焦点を当てる。いずれも建築の歴史を振り返る著作である。⑥は④にも執筆するが(第一章 民衆・伝統・運動体-冷戦と復興、文学と建築、リアリズムとモダニズム)、理論家として知られる著者の東京芸術大学の講義をもとにした初の建築論である。⑦は「建築家の解体」を宣言した前著を受けて、街場の建築家への期待を綴る。

 ウクライナ戦争が世界史の転換を告げて予断を許さない。⑧坂内徳明、女帝と道化のロシア、京都大学学術出版会は、「ノヴゴロドは父、キエフは母、モスクワは心、ペテルブルグは頭」というロシアの歴史観、世界観を教えてくれる。

布野修司(建築批評)





 

 

 

2026年3月19日木曜日

「職人問題」顛末記                未発表 室内室外

 「職人問題」顛末記                未発表

                            布野修司

 

 ここ三年程参加してきた「イスラムの都市性」に関する研究会で一乗谷(朝倉氏遺跡 福井県)に行ってきた。何故、「イスラムの都市性」というテーマで一乗谷かと言われると困るのであるが、簡単にいうと、イスラム都市と比較するために、日本の原・城下町としての一乗谷と蓮如が建設しようとした原・寺内町としての吉崎御坊を考えてみようということである。世界を隈なく駆け巡り、古今東西の歴史に通じた何ともスケールの大きいフィールド派の碩学、応地(おうじ)利明(京都大学)隊長に率いられたわが班は好奇心旺盛になんでもみてみようというのが方針なのである。

 水野和雄(朝倉氏遺跡資料館)氏他の報告をうけたあと、最盛期、人口一万人は下らなかったとされる城下町の遺跡をつぶさに見て、様々なことを思った。なによりも感心したのは、二七八㌶もの地区を特別史跡に指定し、既に二五年もの間、発掘が続けられていることだ。二五年も経てば壊してしまう今日の都市のありようは、何千年たっても発掘に値しないことは明らかである。戦国時代、一五世紀の末から一六世紀の末まで、朝倉孝景が応仁の乱のころ居城を構え、五代目の朝倉義景が信長によって滅ぼされるまで、ほぼ百年にわたって栄えた町がそのまま埋もれてしまっている。はかないと言えばはかない。しかし、戦乱の中にもしたたかな生活はある。出土した茶器や陶磁器、文具や将棋の駒などの遊具をみると相当の文化の厚みが伝わってくる。優雅といえば、実に優雅である。

 人々の暮しぶりが実にリアルによくわかるのだが、眼をひいたのは、町を支えた職人たちの町屋である。瓶や様々な工具をみると、「かじし」や「ひものし」、「じゅずし」や「そめものし」など、「七十一番歌合」や「職人尽絵屏風」などに描かれたような、数々の職人の工房が軒を接して並んでいたさまが彷彿としてくる。石工や大工ももちろんいた。下水や井戸、地業の跡は、建築職人の存在抜きには考えられない。中世末期に至ると、職人たちの組織化が行われ、都市の形成がなされていく。その原初の形態がそこにはあった。

 職人といえば、山本夏彦大先生の「職人不足はだれのせい」(写真コラム 『週間新潮』 三月一日号)には、ほとほと参った。夏彦大先生の発言の影響力のすごさとファンの多さには今更のように驚かされる。三月号の本欄の拙文に大先生がちょっと言及されただけで、職人問題をめぐって小生の周辺で慌ただしくさまざまな出来事が巻き起こりだしたのだ。

 まず、建築界の大先輩たちが組織されてきた「建設同友会」から声がかかった。面白いことをいうらしいから、ちょっと呼んで話を聞いてみようという感じであった。飯でも食わせるから、気楽に雑談でいいからと言われて引き受けたのであるが、行ってみて青くなった。「建設同友会」というのは、もう三〇年も続いており、これまでの会のリストにある毎回のゲストは、政界、経済界、芸能界など各界の著名人ばかりなのである。長老たちは人が悪い。もうやけくそである。夢中でしゃべって、職人不足は大学の建築学科の教師が悪いと自己批判して、ひたすらすみません、というつもりだったのが、先輩たちも多少の責任があるんじゃないですか、などと口走ってしまった。悪い癖だ。いまでも冷汗がでるけれど後の祭りである。

 茨城県で職人学校をつくろうという話があって、少しづつお手伝いを始めていたのであるが、一気に加速がついた。しかし、進めれば進めるほど難しさがわかってくる。一方で、職業訓練校のような学校が閉鎖されつつあるのに、また新たに同じ様な学校をつくろうとしても駄目なのは最初からわかりきっている。学校という発想がそもそも貧しい。労働省や建設省、文部省の認定や指導で雁字搦めになって、どうも動きがとれない。

 何故、職人になり手がいないのかははっきりしている。どうすれば、職人のなり手が増えるのかも、はっきりしている。乱暴にいえば、将来がはっきり約束される、社会的に地位が高く、人々に尊敬され、高収入が得られる、そんな職業になればいいのである。日本全体でそんなことを考えるのは無理だから、というよりもとよりそんな発想を捨てて、ある地域で考えてみよう、というのだ。意外に可能性があるかもしれない、つい今日まで職人のそうした町場の世界は身近に生きていたのだからと、かなり具体的な計画を煮つめつつあるのだけれど、もとより一朝一夕で答えが出るわけはない。

 職人不足というけれど、一体、どういう職人が足りないのか、よくよくみてみる必要がある。職人不足を千載一遇の好機として、ぼろ儲けの企業も少なくないのだ。やっぱり、職人問題ということでひっぱり出された雑誌『施工』(彰国社)の三〇〇号記念の鼎談「これからの建設労働に何を期待するか」(一九九〇年一〇月号)で、建設労働については実に詳しい、筆宝(ひっぽう)康之(立正大学)、藤沢好一(芝浦工大)の両先生と話してみて、つくづくそう思う。ここ一年で、ある統計によれば建設労働者は二八万人も増えているのである。足りないといいながら、産業間シフトでこれだけ増える潜在力は日本にはまだあるのである。職人不足は、ある意味では、職人の地位や報酬を底上げするいい機会だと筆宝先生はおっしゃる。しかし、建築単価の上昇がリクルーターに食われて、職人の賃金が低く押さえられる、高労務費低賃金の構造がどうしようもなくある。問われているのは、一貫して建設業界の体質なのだ。

 総合建設業、いわゆるゼネコンは、必ずしも技術を保有するわけではない。自社で工場を持つより、いざ不景気となれば下請けを切り放す、そうした体質をもっている。近年は特に商社化しつつある。エンジニアリング・ブローカーともいう。先の鼎談では、ゼネコン=裸の王様論が話題になった。そうしたなかで、技術をもち、実際に建物を建設するのは、第一次下請け業者としての専門工事業、いわゆるサブコンである。そうした専門工事業のいくつかが集まって、職人問題を考えようという動きがある。これまた手伝いなさい、という声がかかった。

 中心となるのは、現場でたたき上げられた有力専門工事業の社長さんたちである。現場の人間がないがしろにされるのは我慢がならない、現場の専門家の社会的地位があがることであればなんでもしたいとおっしゃる。到底手に余る。しかし、後には引けない。何かお手伝いしなければと思い始めたところだ。

 まだ動きはじめたばかりで、海のものとも山のものともわからないのであるが、仮に、サイト・スペシャルズ・フォーラムというのを発足させることが決まった。サイト・スペシャリスト(現場専門技能家)というのは、もちろん、造語だ。横文字にすればイメージがあがるというわけではないのだが、現場監督、親方、職長などを含めた現場に責任をもつ技能家を育成する職人の殿堂(アカデミー)をつくりたいという、願いがとりあえずサイト・スペシャリストという名称に込められている。もちろん、そうした名称が社会化していくかどうかはこれからの問題である。

 秋田の能代には、再び行く羽目に陥った。七月号の本欄で書いた経緯からである。タイトルに続いたリード・コピーに「能代の人々の表情は暗かった」とあり、一瞬やばいと思ったのであるが、九月二三日の「木造建築研究フォーラム」の際にもう一度来い、いいたいことがある、というのだ。行ってみたら、俺のどこが暗いのか、と何人にも絡まれた。僕がタイトルつけたんじゃない、などという姑息な言い訳はきかない。『室内』の記事は、能代中に知れわたっているのである。もうフォーラムそっちのけで謝って飲み歩いた。能代のひとは底抜けに明るい。だけどしつこい。こう書いとけば、また行くことになるに違いない。

 そしてついにタイル職人のまねごとまでやってしまった。山谷労働者福祉会館は(仮称)は、全くもって奇跡的に完全に自力建設でまもなく完成の見込みなのであるが、躯体が打上がって、内装工事にかかって、タイル職人が足りないという。山田脩二さんの瓦を使ったという経緯もあって、研究室総出で瓦とタイルを貼ったのである。最初の日は全員筋肉痛である。しかし、今ではみんなそれぞれ一端のタイル職人気分である。現場の楽しさ、大事さが少しは実感できた。

 来年、高山で山車をつくる合同合宿も本決まりである。何故だろう、職人というとそわそわしてくる。道を間違えたのかもしれない。まあ、これからもなりそこねた職人の夢をたどたどしく追って行くことになるのであろう。

2026年3月18日水曜日

京都・デザイン・リーグ(仮称)構想

京都・デザイン・リーグ(仮称)構想

布野修司(京都大学)

 

 京都に移り住んで七年が過ぎた。来る早々設立された(一九九二年七月)京町家再生研究会のメンバーに当初から加えて頂き、いきなり「京町家再生のための防火手法」について考える機会を得た。その縁で、今も「水幕式散水装置」の検討会にも加えて頂いている。建都1200年には『建築文化』誌で特集「建都1200年の京都:日本の都市の伝統と未来」(一九九四年二月)を編む機会を与えられた。今、振り返ると「盲蛇に怖じず」だったけれど、多くの情報を得ることができ、京都を考える様々な視角を得た。さらに、一九九七年度に行われた「京都グランド・ヴィジョン」コンペでは審査員(専門部会)を勤めさせて頂き、その『作品集』刊行(一九九九年三月)のお手伝いもさせて頂いた。京都は日常的に一番身近な都市だから、そのあり方についてはそれなりに考えているつもりである。

 しかし、具体的にどういうアクションを起こせばいいのかについては未だにわからないというのが正直なところだ。様々な議論はあり、様々なグループのそれなりの活動はあるものの全体として取り組む仕組みがなかなか見えて来ないのである。「京都グランド・ヴィジョン」コンペにおける提案も、京都の抱える様々な問題を指摘し、目指すべき様々な方向を示している。しかし、誰がどう実行するのかということになるとわからない。極端に言うと、議論ばかりで何も変わらないのではないかという気さえしてくる。

 いくつか決定的な問題を指摘できる。まず、第一にステレオタイプ化された発想(問題の立て方)がある。思考の怠慢といってもいい。「京都の景観問題」というと、まず、建物の高さが問われる。あるいは、建設するかどうかが問題となる。しかし、どのような高さならいいのか、建設するならどうあるべきか、という方向に議論は進まない。そして、「事後?」議論は停止する。例えば、ポン・デ・ザール(3.5条大橋)の問題にしても、白紙撤回で決着が着いたように思われているけれど、都市計画審議会の決定は生きている。議論は停止したままだ。

 開発か保存か、観光かヴェンチャービジネスか、博物館都市へ、木造都市へ、京都をめぐる提案は二者択一の紋切り型のものがほとんどだ。提案のみがあって、具体化への過程が詰められることがない。

 第二に、「京都の景観問題」というと、極く限定された地区や建物しか問題とされない。ジャーナリスティックに問題されるのは、京都ホテルや京都駅のようなモニュメンタルな建築物だ。京都大学の建物が30mになっても問題にされないのは何故か。京都の問題というと山鉾町であり祇園である。議論はそうしたいくつかのハイライト地区に集中して、他は視野外に置かれるのが常だ。

 第三に、取組みに持続性がない。研究者やプランナーは、ある時期特定のテーマについて作業を行い、報告書を書き、論文を書くけれど、一貫して地区に関わることは希である。

 等々それなりに真剣に考えて、これしかないかな、と思うことが、以下にイメージを示す京都デザインリーグ(仮称)構想である。

  京都に拠点を置く大学・専門学校などの建築、都市計画、デザイン系の研究室が母胎となる。研究室は、それぞれ京都のある地区を担当する。地区はダブってもいいが、地区割会議によって可能な限り京都全域がカヴァーできることが望ましい。

 各研究室は、年に一日(春)、担当地区を歩き一定のフォーマット(写真、地図、ヴィデオ等々による地区カルテの作成)で記録する。そして、各研究室は、一日(秋)集い各地区について様々な問題(変化)を報告する。以上、年に最低二日、京都について共通の作業をしましょうというのが、提案だ。

 もちろん、各研究室は担当地区について様々なプロジェクト提案を行ってもいい。様々な関係ができれば実際の設計の仕事も来るかもしれない。それぞれに年一回の報告会で、提案内容を競えばいい。ただ、持続的に地区を記録するのはノルマだ。研究室を主体とするのは、持続性が期待できるからである。

 京都市立芸大、京都府大、京都工業繊維大学、京都大学、京都精華大学、京都造形大学、立命館大学、西安造形大学、・・・30研究室ぐらいの参加が見込めるであろうか。しかし、それでは全域をカヴァーするのはしんどい。でも全国の研究室が参加すれば、あるいは建築家が組織として参加すればわけないのである。京都・デザイン・リーグ構想は、タウン・アーキテクト制のシミュレーションでもある。

 

   

2026年3月17日火曜日

京都CDLに期待すること

京都CDLに期待すること

布野修司

 

 

 京都は、20018月末でちょうど10年になる。10年一昔である。それなりに京都のことはわかってきたような気がしないでもない。

しかし、信頼すべき京都人に言わせると、20年までは観光客と同じだ、という。20年までは仲間じゃない、ということかもしれない。京都人にはそんなところがある。しかし、三代住まなければ江戸っ子じゃないといったりするから、土地に馴染むには時間がかかるのはどこでも同じであろう。

しかし、何年住もうと京都がわかるとは限らない。また、観光客であれ、京都がわからない、ということもないだろう。京都CDLに期待するのは、とにかく、京都を知ろうということである。京都に対するステレオタイプ化したイメージを一旦捨てて、虚心坦懐に京都を見つめ直そう、ということである。

日本の古都、京都であっても、日々変化することがある。また、京都だって色んな場所がある。最低、それをきちんと書きとめよう。

多くの学生にとって、京都は数年住んで楽しく学ぶ町である。その新鮮な若い眼に期待しよう。10年、20年住むと逆に眼が曇るということもある。 

2026年3月16日月曜日

建築計画「学」―その可能性の中心―のためのメモ、日本建築学会、

 建築計画「学」―その可能性の中心―のためのメモ

布野修司(滋賀県立大学:建築計画委員会委員長)

 

0.   この懇談会でいう、「建築計画」とは一体何か? 「集落」とは何か? 「建築計画」は「集落」を超えることができるか、というテーマ設定は、何を問題にしようとするのか、タイトルだけから不明で、極めて奇異に思える。「建築計画学」あるいは「建築計画研究」が問題であって、「建築計画」一般が問題ではないのではないか? 「集落」と「建築計画」は、超えたり、超えられたりする関係なのか? 「集落」=「非計画」、「自然発生的」「?」という、問題の立て方は自明なのか?

1.   「住居集落」研究を問題にするのであれば、是非、『住居集落研究の方法と課題Ⅰ 異文化の理解をめぐって』(主査 布野修司,協議会資料, 建築計画委員会,1988)、『住居集落研究の方法と課題Ⅱ 異文化研究のプロブレマティーク』(主査 布野修司,協議会記録,建築計画委員会, 1989)を前提にして欲しい。また、この例にならって、議論を総括した論集をまとめて欲しい。この協議会では、「異文化」理解がキーとなっていたが、今日的なテーマ設定が必要だと思う(→8)。

2.   「建築計画学」をめぐっては、どういう回路(企画・設計・計画・施工)を想定して、議論するか、が問題である。あるいは、その回路の設定自体がテーマとなる。誤解を恐れずに言えば、公的な住宅供給、公共施設の設計計画(の回路)を前提として成立したのが、「建築計画学」である。「集落」ということで何が、どのような回路が、想定されているのか。

3.     「建築計画学」あるいは「建築計画学」「研究」については、一定の批判総括がなされてきている。「施設(系をフレームとする縦割り研究)」批判、「調査主義」批判、「研究のための研究(マンネリ化)」批判・・・などである。ここでは一体何を問題とするのか。

4.     「建築計画学」をめぐっては、端的に次のように考える。第一に、建築の企画・計画・設計・施工・維持・管理の全過程を対象とする広い視野がさらに必要である(学の総合性、広義の建築計画学)。第二に、地域社会との連携を基軸とした市民のための建築計画研究や活動がさらに活性化する必要がある(学の実践性)。第三に、建築計画学の固有の方法、体系がさらに追求検討される必要がある(学の固有性、体系性)。「建築計画学」の原点、初心、存立根拠を繰り返し問い続ける必要がある。

5.     「住居集落」研究については、2.でも突っ込んで議論しているが、今日われわれが臨地調査を行う「集落」をどう位置づけるのかがまず問題である。ここでいう「集落」とは一体どのようなものか。「非計画的」「自然発生的」という言葉から類推すると、ヴァナキュラーな世界がそのまま維持されてきたのが「集落」と規定されているように思えるが、果たしてそうか。相当程度古くから存続してきたと思われる「集落」が、150年ほど前に計画的に建設された移住集落であった、あるいは専ら観光目当ての農村集落もどきであった、といったことがある。また、「西欧化」「近代化」のインパクトが地域社会の「共同体」を解体するのではなく、逆に強化する場合がある。

6.     要するに、現代世界における「集落」も、産業社会の論理と無縁ではなく、大きな変容過程にあるのだとしたら、その規定について、もう少し慎重に設定すべきである。「集落」であれ、「都市」であれ、フィールドから組み立てるのが「建築計画学」の原点である。

7.     臨地調査→手法・空間構成原理の発見・抽出→空間の型の提案→設計→評価という、「建築計画学」の一連のプロセスと方法は、あらゆる対象に対して共通ではないか。プロトタイプかプロトコルか、という今年度の協議会テーマも、この一連の過程を前提にした議論である。現代社会のニーズを的確に把握することによって、新たな建築類型の提案、建設、評価といった社会実験が様々なレヴェルで展開されるべきだと考える。

8.     「集落」というキーワードによって何を問題にするのか。以上のようにもどかしいが、いささか踏み込んで勝手に思いこんで言えば、以下のようではないか。『世界住居誌』(布野修司編、昭和堂、2005年)をまとめてみて、つくづく思うのは、西欧列強が世界を再「発見」した時代になって、猶、地球上には太古の生活のままに生活してきた人々が存在し、さらについ最近までその伝統が生き続けて来たということである。逆に言うと、つい近年の変化がとてつもなく大きいということである。われわれは、その伝統を再度見直し、学ぶ必要があるのではないか。この点について、日本でも「民家研究」の歴史の流れにおいて主張されてきたし、グローバルにも、B.ルドフスキー、A.ラポポート、・・・P.オリバー・・・といった流れにおいて提起され続けて来ているところである。

9.     今日、「集落」というキーワードで直感されようとしているテーマは、建築と「自然」「環境」「生態」・・・との関係であろう。布野の場合、「地域の生態系に基づく住居(集落)システム」が、これまで一貫する関心である(『地域の生態系に基づく住居システムに関する研究()(主査 布野修司,全体統括・執筆,研究メンバー 安藤邦広 勝瀬義仁 浅井賢治 乾尚彦他) ,住宅建築研究所, 1981年。地域の生態系の基づく住居システムに関する研究()(主査 布野修司,全体統括・執筆,研究メンバー 安藤邦広 勝瀬義仁 浅井賢治 乾尚彦他),住宅総合研究財団,1991)。

10.『生きている住まいー東南アジア建築人類学』(ロクサーナ・ウオータソン著 ,布野修司(監訳)+アジア都市建築研究会,The Living House: An Anthropology of Architecture in South-East Asia,学芸出版社,1997)には、とりあげるべき、様々な視点が提出されている。これらの視点は、議論の対象になるのか(して欲しい)。

11.とは言え、以上のような関心に耐えうる「集落」が果たして、われわれ(日本人研究者)にとってあるのか、という問題がある。5.6.の指摘と相反する言い方であるが(5.6.の構えであれば、あらゆる「集落」は問題としうる)、目的テーマが9.10.だとすれば、ということである。もちろん、9.10.の研究関心に耐えうる「集落」は、アジアの各地にも数多く残されている。しかし、R.ウオータソンの眼の深度で各地域を「つぶす」のは容易ではない、と思う。日本に軸足を置いた場合の「集落研究」の戦略はもう少し練られて共有されるべきであろう。

12.この間、布野は、専ら「都市組織」研究に集中している。研究関心が移っていったということでは必ずしもなく、11.のような事情がある。また、都市の問題が現代社会において、特に発展途上地域において肥大化しつつあるという認識がある。また、都市組織と都市建築の型に関する研究は、建築計画研究の原点だと思っているからである。

              (7月18日 ニューデリーにて記す)

 

2026年3月15日日曜日

都市組織研究

 都市を遺伝子,細胞,臓器,血管,骨など様々な生体組織からなる有機体に喩えると,コミュニティ組織のような社会集団の編成と対応する、いくつかの要素(建材、部品、部屋・・・)あるいはいくつかのシステム(躯体,内装,設備・・・)からなる建築物とその集合による都市組織からなると考えられる。本研究では、ますます画一化しつつある現代都市の空間編成に対して、アジアの諸都市の都市組織の多様な空間構成を明らかにするものである。

 

The city is formed by urban tissues (urban fabrics), which are sets of buildings(houses, public facilities…) and open spaces(roads, rivers, …) supported by infrastructures as an organic body is consist of genes, cells, internal organs, blood vessels, bones and so on. This research clarifies the various space formation of urban tissues of Asian cities to reconsider the standardized urban formation of modernized cities in the world.

 

2026年3月14日土曜日

奥出雲おろち号、第7回しまね景観賞 優秀賞選評、島根県、1999

 奥出雲おろち号

  布野修司 

 出雲横田駅の近くの踏切で待った。紅葉の季節がほぼ終わりかけ、明日には運転がお終いになるという日で、雪も降り出しそうであった。

 やがてゆっくりと奥出雲おろち号が現れた。白とブルーに塗り分けられた車体は後ろの山の緑と紅葉によく映えて見えた。映えると言っても、自己主張をする映え方ではない。適度のスピードで通り過ぎるから、適度に刺激的である。このデザインが賞の対象だけれど、それよりこの企画自体が景観賞に値する。すなわち、景観を鑑賞する仕掛けがいい。

 このトロッコ列車の存在によって鉄道沿線の景観は常に意識されるだろう。旅客たちは奥出雲の自然を楽しむと同時に奧出雲の歴史と伝統を思う。他に同様のアイディアはあるにせよ、いつまでも続けて欲しいと思う。

 寒いから、トロッコ列車に乗っている人はいないのじゃないか、といささか心配であったけれど、やってきた奥出雲おろち号には紅葉を楽しむ少なからぬ客があった。

2026年3月13日金曜日

国民住宅と西山夘三の食寝分離論

 9.国民住宅と西山夘三の食寝分離論

 

  戦時下の住宅事情

  第2次世界大戦勃発前夜(1940年)、大政翼賛会が設立される。そして、国家総力戦体制へ向けての「新体制運動」が始まる。日中戦争が泥沼化する中で、日本国内は深刻な物不足に陥っていた。贅沢を慎み、生活を最低限まで切りつめることが強いられたが、それを美徳とする風潮が「新体制運動」を支えた。声高に提唱されたのが国民服であり、国民食であり、国民住宅であった。あらゆる物質生活を標準化することによって切りつめ、国民的統合を図ろうというのが「新体制運動」である。

 軍需産業の拡大とともに労働力が動員され、四大工業地域を中心とする都市部に人口が集中する。1939年には主要都市部の空き家率は1%を下回ったというi。住宅不足と労働者の不衛生な生活が深刻な問題となった。狭小な部屋での生活は、労働者の健康に大きな影響を及ぼす

 日々悪化していく住宅状況を背景に「国民住宅」構想は注目を集めた。1940年に国家による住宅供給機関として、同潤会を改組して設立された『住宅営団』も「国民住宅」への人々の期待を助長した。しかし、「国民住宅」建設という国家的プロジェクトに組み込まれた住宅政策は決して期待されたほど現実に即したものではなかった。衣食住ということで、国民服、国民食、国民住宅が発想されたのであるが、衣食と住は異なる。毎日着替える服や毎食異なる献立の替わりに、国民服を身につけ、国民食を口にするのと同様のレベルで国民住宅を考えることはできないのである。

 

 建築家の関心

 早川文夫(厚生省技師)による「国民住居の提唱」iiが建築界における国民住宅に対する態度を方向づけたといえる。

 「現在日本国民の大多数が住むべき家を仮に名付けて国民住居と呼ぶ。それは現存する家の単なる平均ではなく、かかる家にこそ住むべきであると云ふSollenを意味する」。

 つまり建築家として取り組むべきは、生活を最低限にまで切りつめて良しとする住宅ではなく、今後の住宅の目標を示すことである。以降、あるべき住宅像が様々に語られるのであるが、建築家の関心は必ずしも間取りにはない。

 「国民住宅」とはどうあるべきか。建築学会がまず提案しているiii。「戦時下の非常時であるから生活は簡素にすべき」という姿勢である。大邸宅を切りつめて小さくしていけば間取りは自ずと決定されるという。住宅の平面を構成する部屋は全て寝室に転用できるというのが結論であった。

 さらに学会案を下敷きにして、厚生省住宅規格協議会によって「住宅及其ノ敷地設計基準」が決定される。10㎡を単位として、30㎡「い」型から80㎡「へ」型まで6つの型が用意された。間取りというより、部屋を並べただけである。間取りより、量産のための規格化が建築家の頭を占めていたように見える。専ら、規格化はメートル単位か寸尺単位かといったことが議論されるのである。

 国民住宅設計コンペ(1941年)も現実の逼迫した住宅事情と結びつくものではなかった。「わが国将来の国民住宅の確立を期し、特にその意匠、構造、材料の上に画期的なる草案を求む」というのが募集趣旨ivである。敷地(130㎡指定)や建物規模の設定をみると募集側は必ずしも実現を考えていなかったように思える。審査員自身が審査所感として建築家の戸惑いが作品に現れていると言っている。このコンペの当選図案は、一見して奇妙である。そして中途半端である。木造に国際様式をはりつけただけなのである。

 

 「型」計画

 目前に迫る住宅難から出発した「国民住宅」は、戦時下の状況に眼をつむって理想を語るための道具のようであった。この名だけあって実が伴わない議論に、西山夘三は「食寝分離論」によって激しく反発する。戦争の有無に関わらず、一貫して庶民の住まい方に関心があった西山は、その膨大な調査をもとに、狭くても食事と就寝の部屋は別に確保されるべきであると主張する。そして同潤会が供給してきた中廊下型の間取りと比較しながら、少ない床面積でも食事室と寝室は別に確保できると強調する。

 住宅営団は設立すると同時に5年間で30万戸の住宅を供給すると宣言した。当時の全住宅数はおよそ1400万戸だった。住宅営団が国民の住居の全てをカヴァーすることが考えられていたわけではないが、かなりの目標である。量産化のための「国民住宅」の計画という課題に対しては、建築家にとって個々の住宅の設計を行う場合とは異なった方法が必要とされる。西山が提案したのが「型による解決」である。家族の人員構成に対応した寝室の確保が間取りを決定することが前提になった。この「型」計画は、住宅営団による住宅供給の柱になったばかりでなく、戦後日本の住宅を主導する。そして誰もが知るDK(ダイニング・キッチン)の爆発的普及へつながることになる。

 

i 西山夘三「戦争と住宅」1983

ii早川文夫「国民住宅の提唱」『建築雑誌』19409

iii 建築学会住宅問題委員会「庶民住宅の技術的研究」『建築雑誌』19411

iv 第15回建築展懸賞競技「国民住宅」『建築雑誌』19406

日本人とすまい6 間取り

 

 

2026年3月12日木曜日

百年計画/デザイン・コミッティー/京都の「めきき」、京都市

都市装置としての公共建築/設計システム論

百年計画/デザイン・コミッティー/京都の「めきき」

 

 都市は個々の建築行為の集積によって成り立っている。そうした意味で都市はそこに住む人々の集団的作品である。また、都市は一朝一夕に出来上がるわけではない。そうした意味で都市はそこで暮らしてきた人々の歴史的な作品である。

  それ故、自ら私有する空間(土地)だから自由にデザインすればいい、とはならない。好き勝手なデザインがとんでもない迷惑を近隣に及ぼすこともある。また、歴史的な作品である都市景観をたった一個の建築が台無しにすることがある。そこで必要なのがなにがしかのルールである。

 しかし、そのルールは、果たして法律や条令によって成文化しうるものであろうか。指針やマニュアルによって示されるものであろうか。はっきりしているのは、単に「高さ」や「色」や「形」が問題なのではないということである。一定の地区について一律「20メートル以下であればいい」「原色は駄目」「勾配屋根でなければならない」というのはおそろしく単純な発想である。建築のデザインというのはもう少し豊かで繊細である。個々の建築は個々の場所において固有の表現を求められている。

 究極的に問われているのは個々の場所における個々のデザインの当否である。はっきり言って「建築家」としての能力が問題だと思う。もちろん、専門家としての「建築家」が全てすぐれているとは限らない。また、誰だって「建築家」でありうる。そこで、とにかく必要なのは、議論の場ではないか、というのがかねてからの主張である。議論によって生み出されるものは結局凡庸なものにしかならない、とは必ずしも思わない。凡庸であれ、それはその議論の場の実力であり、最終的にひとつのデザインにまとめる「建築家」の能力の問題である。タウンアーキテクト制、デザイン・コミッティー制のように具体的な仕組みは色々考えられる。また、様々な萌芽的試みもある。指針やトゥールは使ってこそ意味があり、使い方こそが問題だということ、公共建築の場合特に、そのデザインの過程と持続的なシステムが問題であることを繰り返し強調したいと思う。

  

2026年3月6日金曜日

ヴァージニア工科大学とのワークショップ 「木の移築」プロジェクト 1997

SSF NEWS 原稿

ヴァージニア工科大学とのワークショップ 「木の移築」プロジェクト

布野修司

 

 6月4日、ヴァージニア工科大学の学生たちと京都大学京都造形大学の学生たちが、「ピラミッド匠の広場」(滋賀県八日市市)でワークショップを開いた。

 レイ・キャス教授率いるヴァージニア工科大学のプログラムは実に興味深い。近い将来日本の民家を解体してアメリカに移築しようというのだ。「木の移築」プロジェクトという。プロジェクトの中心は、京都で建築を学ぶピーター・ラウ講師である。まず、初年度は民家を解体しながら木造の組み立てを学ぶ。そして、次年度はアメリカで組み立てる。敷地もキャンパス内に用意されているという。米国の大工さん(フレーマー)も協力する体制にあるという。SSFとして協力したらと思う。

 今年は、とにかく何か共同製作しようという話になった。指導は彫刻家大倉次郎氏である。木彫で海外にも知られる。作業は簡単といえば簡単であった。墨で線を引くだけである。とにかく筆の赴くままに無心に引け、という。意識してパターンをつくってはいけない、という。交代して順番に引いていく。前の人の線が気になる。ルールは、前の人の線に接してはいけない、ということである。

 まず、紙の上に木や竹、石などを置く。これも構成を意識せずにばらまく。置かれたものをよけて線を引くのもルールである。

 やってみると意外に面白い。筆の太さによって線は規制されている。個々の線に個性はでるけれど、全体として統一感は自然にでてくろ。一心不乱に引いて、共同でひとつの作品ができる。貴重な体験であった。「木の移築」プロジェクトもなんとか成功させたいものである。

 






2026年3月5日木曜日

20000315ー0324:台湾 台北 台中:台湾921集集震災復興調査(東勢)(林宣萱修士論文):布野修司・闕銘宗・林宣萱・青井哲人・Fay・奥富・遠藤(東洋大)

 台湾(921集集)大地震・震災復興計画報告

未だに残る傷跡

ようやく仮設住宅が完成

多様な社区営造(まちづくり)への模索

布野修司

 

 中央研究院でこの九月に開く植民都市に関するシンポジウムの打ち合わせと震災復興の調査を兼ねて台湾を訪れた(三月一六日~二四日)。三月一八日は総統選投票日である。二一日は大地震から丁度半年に当たり、全ての法律の運用を柔軟に適用する緊急命令の期限(二四日)が来る。投票日直前、李遠哲中央研究院院長が民進党陳水扁候補を支持して辞任、中国からミサイルが発射された一九九六年の最初の総統選の際ほどではないにせよ、異様な政治的緊張の中での訪台となった。結果は民進党が辛勝。国民党の分裂選挙による敗北が李登輝の退陣につながったことはご承知の通りである。

 台風の目となったノーベル化学賞受賞者、李遠哲氏は、実は、中華民国社区営造学会会長でもある。この間の社区総体営造(まちづくり)運動をリードしてきた。九二一集集大地震後は、全国民間災後重建連盟の理事長をつとめる。台湾の未来の方向を握る文字通りのキーパースンである。社区営造学会の秘書(事務局)長は、早稲田大学で学んだ台湾大学城郷研究所の陳亮全氏、震災以前より機関誌『新故郷』を刊行し、震災後の復興計画のために二九チームに助成を行っている。以下は、社区営造学会を通じた震災復興活動の最前線についてのレポートである。

 

①社区総体営造の拠点-埔里 

 難航する権利調整-東勢

 総統選投票日前日の四〇万人近く集めた台北サッカー場での民進党の集会はものすごい盛り上がりであった。その大集会が最高潮に達する頃マイクを握ったのが陳其南交通大学教授である。いささか興奮した。前々日の夜再会し、親しく語らったばかりだったからである。陳其南教授は四年前には行政院の文化建設委員会にあり、まさに社区総体営造運動を創始(九四年)した人物である。社区とはコミュニティ(近隣社会)を意味する。移民社会で、基本的に中国人特有の家族主義の強い台湾では、戦後も国民党の強権政治が続いたこともあって、コミュニティの力が弱い。外省人(大陸系)と内省人(台湾人)の対立も根深い。だから、社区営造こそがこれからの重要テーマなのだ、と彼は力説する。

 社区営造学会秘書長の陳亮全、『新故郷』編集委員の曽旭光淡交大学副教授に合ったのは投票日当日であった。震災後の様々な取組みを取材する中で、ひとつの焦点として浮かび上がったのが埔里(南投県)である。一八一人が亡くなった埔里は都市部では東勢(台中県)についで死者の多かった街である。その埔里に新故郷文教基金会が設立され、雑誌『新故郷』が創刊されたのは、震災半年前であった。すなわち、社区営造学会のひとつの拠点は埔里に置かれていたのだ。中心人物は、総編集長廖嘉展氏である。彼は社区総体営造運動に関わるなかで李遠哲氏から雑誌編集の責任者に指名されたのである。

 震災後、「埔里家園重建工作站」がすぐさま組織された。重建とは再建の意である。続いて「婆婆媽媽工作隊」が結成(一〇月一五日)された。婆婆媽媽、おばあさん、おかあさんパワーの結集である。埔里の事務所では十数人の女性がきびきびと飛び回っている。様々な基金を得ながら、住民の要求がまとめられた。まず、緊急の課題になったのが小中学校の復旧である。阪神淡路大震災と違って、学校の被害が致命的であった。各地区の将来像も描かれた段階だ。しかし、物理的再建のみが問題にされているわけではない。「身心安住」「各有其位」(従前の場所に住み続ける)「経済復甦」「人文発展」があって「空間改造」である。そして、「計画的可行性」(実現性)「人力資源的在地化」(地域性)「計画効果的延続性」(持続性)が計画原則とされる。

 全てが順調にいっているわけではない。県政府との関係で対立点も出てきている。全てを失い目標を失って虚脱状態になっている人も多いという。東勢の本街でも権利関係の調整が難航している。こうした社区総体営造の草の根活動は開始されたばかりである。再建も具体的にはこれからだ。三月二四日東勢本街を新総統陳水扁氏が訪れた。本街南平里重建委員会の中心、王昌敏氏が後輩で強力な支援者であるという縁である。李遠哲氏がはっきり支持を表明した民進党の勝利は社区総体営造運動を加速することになろう。

 

②歴史的環境の復興

 仮設住宅の創意工夫

 集集ー日月潭

 震源地集集では三八人が亡くなった。集集鎮全体で全壊一七三六戸、半壊七九二人、合わせて六九パーセントが被害を受けた。中心の街、集集里でも全壊一四三戸、半壊六四戸六一パーセントがダメージを受けた。鉄道は波打つように切断され木造の集集駅は大きく傾いた。工事現場用鉄板で囲われていた。隣の鉄路博物館は傾いたまま放置されている。

 鎮公所(町役場)で鎮長林明水(さんずい)秦に短い時間会った。すこぶる元気でこの震災をむしろ好機と考えて街づくりを展開しようとしていると聞いたからである。倒壊した廟「武昌宮」もそのまま保存して観光資源にするのだという。また、歴史的町並みを復元するのだという。

 一体どういうルールで町並み復興をするのか、と問うと、すぐさま仮設住宅の建ち並ぶ中にある一室へ案内された。建築確認申請の事務所と考えていい。「集集鎮災後住屋重建補助方法」(二月一日公告)によって、施工費(坪当たり三〇〇〇元(約一〇万円)、最高額一五万元)と設計料(平米当たり四〇〇元、最高額五万円)の補助を行うのである。規定は、二メートルのセットバック、勾配瓦屋根(斜屋)の採用などであり、色彩の規定はない。最終的には委員会によって決定される。事務所には、模型の街屋街区が置かれ、三層のモデル住戸プランが示されている。これまで申請があったものは基本的にモデル提案に沿ったものだという。

 震災直後から集集鎮に救援に入ったのは、忠原大学の室内設計系、特教(特別教育)系を中心としたチーム(集集民間重建工作站)である。彼らは現在も月一度訪れ、半壊建物の指導や学童との交流を行っている。彼らはすぐさま文化資産として歴史的建造物の調査を行う(「集集受災歴史建築物調査複勘報告」)。そして、集集歴史建築導覧地図が作られた(二月一九日)。歴史的街区の復元は、その作業に基づいている。

 伝統的文化の継承という意味で興味深いのは原住民集落の復興である。なかでも興味深い試みとして日月潭のタオ族の仮設住宅地建設がある。設計を担当するのは建築家謝英俊氏。現場に事務所を移して陣頭指揮を執る。軽量鉄骨の骨組みに竹で屋根、壁を組むシンプルな構法である。これだと建設に原住民が参加でき、日当も手に入れることが出来る。近接して神戸から送られた仮設住宅が建てられていたが、その思想の違いは明らかである。原住民にとっては単に住空間があればいいというわけではない。具体的には祭祀のための空間が必要である。慈済二村(埔里鎮)という仏教系慈善団体が寄付をした原住民のための仮設住宅地も見たけれど、共通の広場がきちんと設けられていた。仮設住宅地と言えども多様な創意工夫がある。

 

③すっかり禿げた山肌 

 過疎化に悩む農村 

 中寮郷龍安ー魚池郷長寮尾

  台湾では、区域計画法に基づいて、都市区域と非都市区域が分けられている。また農村地区について、郷村区(200人以上)、農村聚落(200人未満)、原住民社区が区別される。今回の大地震の特徴は、多くの農村が被災したことである。全域が都市化していたら、死者二〇〇〇人ではすまず、阪神淡路大震災の死者を遙かに超えたことは間違いない。

 農村部を回るとところどころに傷跡が残っている。道路はがたがたしで、放置されている被災建物も少なくない。仮設居住のためのコンテナがやたらに目立つ。そして、異様なのは山の樹木がずり落ちて黄色い山肌がむき出しになっていることである。大地震は自然の景観もすっかり変えてしまった。

 一七八人がなくなった中寮郷の龍安里、内城里、清水里を東海建築工作隊の徐明松氏の案内で訪れた。彼はイタリアから帰国して台中で事務所を開いたばかりで震災に遭い、以後中寮郷の復興計画に取り組んでいる。週に一、二回は通うという。東海大学では寮郷の他、大里の復興計画に取り組む。また、関華山副教授が原住民集落の復興を担当する。

 龍安でチームはまず全体計画を立てた。村の共同作業場に大きな模型が置かれている。復興住宅のモデルも街家型、農家型がすぐさま用意された。標準設計に従えば設計料を補助するというが、住宅復興はこれからである。半年を経てようやく仮設住宅が竣工した段階だ。また、高齢者のための共同厨房が着工したところであった。

 注目すべきは龍安八景の整備計画である。共同水場の整備をはじめとして、景観的に維持されるべき八景が設定されている。村長とともに村を見下ろす丘に登ったのであるが、彼もまた震災復興を村おこしにつなげる視点をしっかりもっていた。過疎化、高齢化が共通の悩みである。農水路、道路の復旧は第一であるが、農業振興、頭打ちになりつつある檳榔(びんろう)栽培に加えてパイナップル・ワインの開発など熱っぽく語ってくれた。

 農村集落の場合、建築家にとってどう集落景観をつくるのかがテーマだろうと社区総体営造運動の創始者陳其南交通大学教授はいう。七四の農村集落が重点復興村とされているが、そのひとつ陳其南氏が関わる長寮尾(魚池郷)に行ってみた。村の中心に廟があり、その前の集落はほとんど倒壊したままだ。復興支援の県政府のバスが図書館に変わってポツンと取り残されている。まず復興されたのは村の中心となる廟だ。全て顔見知りだったから、誰が居ないかすぐ分かった、全員無事救出できたという。鍵となったのはしっかりしたコミュニティの存在であった。そして、興味深いのは都市と農村との里親-里子制度である。廟の再建に当たって新竹市の全面支援を受けたという。各都市が被災農村を支援するかたちが出来上がっているのである。

 


 

 

2026年3月4日水曜日

カラコロ工房、曽田邸、しまね景観賞、島根県景観課、2000年

 

カラコロ工房

布野修司

 

 旧日本銀行松江支店のリニューアル(更新)計画である。スクラップ・アンド・ビルド(建てては壊す)の時代から既存の建築資産、都市資産を再活用するストックの時代を象徴する先進事例として高く評価したい。もとの設計は長野宇平治、夏目漱石の同級生で全国的に知られた建築家である。しかし、こうした著名な建築家の作品であれ、建築史的価値というだけで保存される例はほとんどなかった。親しまれた街並み景観への要素を維持しながら、新たな機能を付加するのがこれからの手法である。

 本館に接して増設された工房棟の中庭のスケールがいい。板張りの床がカラコロ鳴るのもいい。工房という設定が成功の要因かもしれない。今のところ予想を超えた利用がなされていると聞いた。銀行の本館地下金庫のギャラリーも不思議な空間に再生されている。

 


曽田邸

布野修司

 

 国立公園内に建つ個人住宅である。

 かなりの急斜面であり、冬にはかなりの強風が吹きつける、普通は宅地には相応しくない立地である。しかし、気候のいい、特に夏などは、そのまま海に降りていけそうな、うらやましくなるような敷地だ。

 国立公園内ということもあって、豊かな樹木はそのまま残されている。建設に当たって新たな植栽もなされている。プランニングも地形に沿った形で樹冠のラインを大きく遮らないよう配慮されている。海を介して千酌港の岸壁から眺める景観がその設計意図をよく表しているように思えた。すなわち、この住宅は徒に自己主張することなく、豊かな緑の中に沈み込んでいる。また、緑に赤瓦が映えている。

 こうした地形や緑、景観に対する配慮は、設計の基本であり、国立公園に限らないであろう。個々の住宅の設計においても景観は問われている。そのひとつの好例として評価したい。

2026年3月3日火曜日

自立循環型地域社会(エコハウス、エコヴィレッジ、エコタウン)へー地域の生態系に基づく居住システムとコミュニティ・アーキテクト制(まちづくりネットワーク)の確立:東日本大震災復興計画私案、『朝日新聞』応募、2011年5月

 東日本大震災復興計画私案

自立循環型地域社会(エコハウス、エコヴィレッジ、エコタウン)へー地域の生態系に基づく居住システムとコミュニティ・アーキテクト制(まちづくりネットワーク)の確立

布野修司

 

二〇〇四年一二月二六日、スリランカのゴールにいてインド洋大津波に遭遇、危うく命拾いをしたときのことをありありと、寒気とともに思い出した。その時求められて一文を書いたのであるが、その中に次のようにある[1]

転がった列車の中から幼児が生還 名前名乗るも 住所を知らず

シュルシュルと獲物を狙う蛇のよう 運河を登る 津波の早さよ

大車横転後転繰り返す 押し流されて皆スクラップ

気がつくとバスや車、そして船が転がっている、自分が居た周辺で五〇〇人が亡くなった。悪夢の再現である、否、これはもう全てを超えて言葉もない。一度起これば全てが瓦解する原発の致命的問題が起こってしまった。世界は人類始まって以来の経験を共有しつつある。

 

阪神淡路大震災の後、建築家の責任を強く感じ、『裸の建築家・・・タウンアーキテクト論序説』(2000年)を書いて、地域診断からまちづくりまで一貫して担う職能の必要性を提起した。その後、インド洋大津波に巻き込まれ、復興支援に通う中で、その感をますます強くした。安心・安全のためのまちづくり(都市地域計画)の主体は地域社会(コミュニティ)である。地域社会に基礎をおいたまちづくりを組織する職能、コミュニティ・アーキテクトが必要である。そう考えて、京都コミュニティ・デザインリーグの活動、近江環人(コミュニティ・アーキテクト)地域再生学座による人材育成の活動をささやかに展開してきたが、東日本大震災を前にして、声を大にして繰り返して言うべきは、まちづくりの仕組みの大転換こそが必要だ、ということである。

素朴に自立循環型地域社会の再構築をうたう以下の復興計画私案は、地味かもしれない。脱原発依存、低炭素社会へという大きな枠組みを考える時、目指すべき方向は揺らがないと思う。

復興計画が共通に目指すべき前提として問われているのは、日本の社会、経済、政治、文化、産業、国土など全ての編成の問題であり、東京一極集中の構造を多極分散型に転じていくことである。大災害は常にその社会に潜在している矛盾、軋轢、差別を明らかにする。日本社会の全体があまりに被災地域に多くを委ね強いてきたということが今回の大震災で大きくクローズアップされた。部品産業の問題、日本の食を支える水産業の問題、そして原発・エネルギー問題がまさにそうである。

日本の産業構造の歪みを是正するためには被災地域に大きな投資を行う夢あるヴィジョンが欲しい。

また、エネルギー政策として、原子力発電に頼らず自然エネルギーに代替していくことは大きな流れになっていく。多様なエネルギー源が各地域に確保されるシステムが必要であることは誰の眼にも明らかになった。

復興は、単なる復旧であってはならず、日本再生、日本の地域社会再生のためのシステム構築でなければならない。復興計画は、自立循環型地域社会(エコハウス、エコヴィレッジ、エコタウン)の具体的な空間のあり方、その形態とそれを実現する仕組みにわかれるが、ここでは後者に力点を置きたい。というより、前者を自ら提案、選び取るのは地域社会であるという仕組みこそが重要であり、地域住民の日常生活を支える持続的な仕組みの構築こそを復興計画の中に組み込むというのが本提案である。

 

1 地域社会(コミュニティ)主体の復興計画 

まちづくり(都市地域計画)の主体は地域社会(コミュニティ)である。安心・安全のためのまちづくりの基礎は地域社会にある。

 災害時、倒壊した家屋の下敷きになった人たちの救出や消火など緊急事態に対処する上で第一に拠り所になるのは地域(近隣)社会である。今回の空前の大災害ではっきりするのは、消防、警察など災害救助の役割を担う職員を含めて自治体職員も被災者となる。自治体の危機管理システム、防災体制が完備していたとしても、必ず機能するとは限らない。災害発生まもなくの緊急事態に対処しえるのは個々の地区における相互扶助活動である。

 災害後の避難生活を支えるのも基本的には地域(近隣)社会である。小中学校、病院などの地域施設、近隣公園などが避難所生活の拠点となる。

  応急仮設住宅地の生活において重要なのもコミュニティ(地域社会)である。地域社会と切り離された形の応急仮設住宅への入居は、単身老人の孤独死など大きな問題を残した。地域社会を基礎としない公共住宅の供給が空家を大量に生み出している。地域と生活基盤の密接な関係を考慮するのは復興計画の前提である。

 復興計画で究極的に問われるのは地域(地区)における合意形成である。集合住宅の復旧、建替え、区画整理事業、再開発事業など復興のための全ての計画において必要なのは住民(市民)のまとまりである。地域社会の安全・安心のために個々人が果たすべき役割が共有されなければ合意形成は困難である。

 以上のように都市地域計画の基礎は地域社会にある。しかし、地域社会を都市地域計画の主体とする仕組みが日本にはない。日本の都市計画制度には、地域住民の積極的参加を位置づける仕組みがない。すなわち、安心・安全の都市地域計画を基礎づける仕組みがない。

 都市計画審議会等都市計画決定の手続きは形式的で、地域社会(コミュニティ)の参加は必ずしも保証されていない。自治体の都市計画に関わる施策は縦割りの組織による事業、補助金制度が主体となっている(に縛られている)。自治体による都市計画は公共事業の実施を中心としている。インフラストラクチャーの整備、また、施設建設(箱物)行政が主体である。日本の都市計画・建築行政はコントロール行政である。民間の開発行為について、開発規模、用途などを規制する手法が基本である。

 一方、地域住民の都市計画への参加意識は必ずしも高くない。あるいは、地域の利益のみの追求(地域エゴ)、企業利益のみの追求が都市地域計画のテーマとなっている。私的所有権が前提される中で、公共の福祉等、都市景観の公共性、地域社会の共用基盤としての公共空間についての認識は日本においては必ずしも定着していない。

 そうした状況において、地域社会を主体とする都市地域計画の仕組みの確立のために「建築家」「都市計画家」の果たすべき役割は大きい。都市地域計画について、「公共」自治体と地域社会(「民間」)の関係を媒介する組織として「NPO」(非営利組織)が位置づけられる必要がある。NPOは、都市計画のプロセスを一貫してサポートし、調整する役割を果たす組織として位置づけられる。

  もちろん、都市地域計画の実施主体としての自治体の役割は大きい。しかし、自治体が全ての地区についてその計画を一貫して担うのには限界がある。地域社会(地区)の自発的な取り組みを前提として、それをサポートする形が基本である。

 一方、地域社会(地区)が自らの要求を自ら都市地域(地区)計画へまとめあげるのにも限界がある。地域社会内部で利害はしばしば対立するし、要求をまとめ上げる時間、エネルギーは大きな負担となるのが一般的である。また、都市地域計画に関する専門的知識も必要とされる。

 自治体と地域社会を媒介する機関としてNPO、あるいは様々なヴォランティア・アソシエーションの活動が位置づけられる必要がある。その職能は、タウン(地区)・アーキテクト(プランナー)、ハウス・ドクター等として理念化される。様々な形の新しい都市地域計画の仕組みがそれぞれの地域で試行され、確立されるべきである1

災害時に備えて必要とされるのは、地域社会(地区)の自立性である。火災発生時に、消火活動のために必要な水は一定の地区内に確保されている必要がある。災害時に緊急に必要とされる薬品、食料などは一定の地区内に備蓄されるか、速やかに供給されるシステムが用意されている必要がある。ガス、水道、電気、交通などライフライン、インフラストラクチャーなどにはフェイル・セーフのシステムが必要である。一極集中型のシステムではなく、多核分散型のシステムが用意されていなければならない。

 

2 コミュニティ・アーキテクト制の導入 

 

指針

1 コミュニティ主体の復興計画

復興を全て公的な援助に頼ることはできないし、財政の問題もあって現実的ではない。しかし、被災者が自力で復興に取り組むには限界があるし不可能である。また、こうした復興をすべて自助にゆだねることは公的責任の放棄である。ただ、国、自治体が各個人の、また各地区の事情や要求に細かく対応することができないとすれば、復興計画の主体として考えるべきはコミュニティであり、コミュニティによる共助がベースとなる。パダンのアーバン・コミュニティにはそうした相互扶助の精神と仕組みが維持されている。

2 参加による合意形成

 復興計画の立案、実施に当たっては地区住民の参加が不可欠である。計画に当たっては様々な利害調整が必要であり、地区住民の間で合意形成がなされなければ、その実効性が担保されない。コミュニティは、地区住民の参加による合意形成をはかる役割を有している。

3 スモール・スケール・プロジェクト

合意形成のためには、大規模なプロジェクトはなじまない。身近な範囲で復興、居住環境の改善をはかるためには、小規模なプロジェクトを積み重ねるほうがいい。

4 段階的アプローチ

すなわち、ステップ・バイ・ステップのアプローチが必要である。実際、被災地では、様々な形で自力で復興がなされつつある。個々の動きを段階ごとに、一定のルールの下に誘導していくことが望まれる。

5 地区の多様性の維持

地区に地区の歴史があり、また、住民の構成などに個性がある。復興計画は、地区の固有性を尊重し、多様性を許容する方法で実施されるべきである。すなわち、市全体に画一的なやり方は必ずしもなじまない。

6 街並み景観の再生:都市の歴史とその記憶の重要性

地区の固有性を維持していくために、歴史的文化遺産は可能な限り復旧、再生すべきである。阪神淡路大震災の場合、被災した建物の瓦礫を早急に廃棄したために、町の景観が全く変わってしまった地区が少なくない。都市は歴史的な時間をかけて形成されるものであり、また、住民の一生にとっても町の雰囲気や景観は貴重な共有財産である。人々の記憶を大切にする再生をめざしたい。

7 コミュニティ・アーキテクトの活用

復興地区計画のためには、コミュニティ住民の要望を聞いて、様々なアドヴァイスを行うまとめやくが必要である。既に、地元大学の教官と学生たちが現地にオフィスを開いて住宅相談にのるヴォランティア活動を行う例が見られるが、そうした人材を各地区に配置する仕組み、援助の仕方が望まれる。

これからはスクラップ・アンド・ビルドだけではなく、建物の寿命を伸ばすことが必要だとされる時代である。建設資材の再利用を積極的に行い、補修、再建技術の蓄積を行うべきであったという反省もある。

 

2 行動計画

 以上のような指針も、具体性を欠いては意味がない。問題となるのは、予算であり、人材である。以下に、しかし、できることから一歩ずつ進めるというのが以上の指針である。以下に、パタン旧市街の復興計画についていくつかの具体的行動計画を示したい。

ここで復興計画の主体として念頭に置くのは、パダン市など自治体とコミュニティ組織であり、中央政府の各部局がそれをサポートする体制である。それらが立案する以下の行動計画を、UNESCOなど国際機関、文化遺産国際協力コンソーシアム、JICAなど各国政府機関、NGOグループ、国際ヴォランティア・グループ、インドネシアとの大学間交流など様々なレベルの協力体制が支える、というのが前提となる理想的なスキームである。また、行動計画を提案するのは、旧市街でも、具体的に焦点を当てているのは、今回調査を行った歴史的建造物が集中するバタン・アラウの周辺地区である。

 

A 緊急対策

住宅修復・再建技術基準・マニュアルの作成:住宅補修・修復・再建の方法について、基準を早急に検討し、わかりやすいマニュアル書をいくつかの事例を含めて作成(画一的な手法ではなくオールタナティブを示す)、被災居住者とともに建設関連業者にアピールし周知徹底することが必要である。特にレンガ造建物の補強が必要である。日本はレンガ造建物は採用してこなかったこともあって、その補強方法についての経験はほとんどないが、いくつかの方法について提案することは可能である。住宅補修・修復・再建の手法は、単に、応急的対応だけではなく、建物を維持管理していくためにも恒常的なシステムとしても必要とされる。補修・修復の現場施工グループが組織されることが、将来の街並み景観の維持システムにもつながる。住宅補修・修復・再建は、経済対策ともなりうる。至急、住宅補助の制度を実行に移す必要があるが、可能であれば①の住宅改善指針の徹底とリンクするのがベストである。

重要歴史的建造物のモデル復元:震災後に復元すべきとされる7つの重要建造物のなかに、街並み景観に関するものとして、ショップハウスRukoが2軒(Bola DuniaEs Kompto)含まれている。この復元を①のモデルケースとすることが推奨される。これまでの建築文化を継承しつつ、構造的検討を加えた新しい型の創出を目指す。

景観形成地区の制定と建景観築ガイドラインの作成:①②とともに、また先立って、各地区の将来像を描く必要がある。パダン市は1998年に、市条例として街並み景観の保存維持することを定め、具体的な地区(バタン・アラウ、カンポン・ポンドック、パサ・ガダン)を挙げている。しかし、具体的なアクションを起こしてきてはいない。まず、重要景観形成地区を指定し、その地区について、街並み景観に関わる高さ、形態、使用建材などについて緩やかなガイドラインをもうけたい。また最低限の建築規制を法制化(高さ、構造基準)したい。

地区の景観イメージの作成:中長期計画にとって、必要とされるのは地区の将来イメージであり、その方向性については可能な限り早期に合意形成する必要がある。指針の1 コミュニティ主体の復興計画2 参加による合意形成を展開したい。また7 コミュニティ・アーキテクトの活用を考えたい。

 

B 中長期計画

被災指定歴史建造物の積極活用:②には含まれないけれど、国のレベルで歴史的文化遺産として指定された建造物の多くが被害を受けている。こうした建造物については、復元そのものを目指すのではなく、コンヴァージョンも含めた様々な保存活用が図られるべきである。例えば、バタン・アラウ沿いには多くの被災建物があるが、ウォーターフロントを生かした再開発の潜在的可能性は大きいと考えられる。

共同建替、地区再開発の検討:比較的余裕のある住民の中には震災によって、移住を決断し、宅地を手放すケースが既に見られる。土地および住民の流動化によって、地区が大きく変化していく可能性がある。また、一方、集合住宅や連棟のショップハウス(店舗併用住宅Ruko)の場合、合意形成に時間を要して、復興が進まないことも想定できる。区画整理、土地のころがしRollingシステムによる宅地の共同化など新たな手法も含めて、パダン市の新たな景観資源、文化遺産となるような地区計画を考えたい。そのためには、例えば、ショップハウスなどいくつかの建築類型についてプロトタイプを設計し、そのビルディング・システムの開発を行う必要もある。

世界への発信:生活再建のために、住宅再建から開始される復興計画であるが、鍵となり、目標となるのは、地区の持続的な活性化である。歴史的遺産を多く有するパダン旧市街の復興はそれ自体国際的な関心であり、復興過程そのものも国際的に注目されている。ミナンカバウをはじめ多くの民族が居住し育ててきた都市をどう復興するかどうかは、パダン市のみならず、西ジャワ州政府、インドネシア政府にとっても、国のアイデンティティに関わる極めて重要な課題である。復興計画によって、その方法と過程そのものが他のモデルになるよう期待したい。 

 



[1] 「スリランカ・ゴールGalleでインド洋大津波に遭遇:現場報告 オランダ要塞に救われた命」『みすず』20053月号

布野修司 履歴 2025年1月1日

布野修司 20241101 履歴   住所 東京都小平市上水本町 6 ー 5 - 7 ー 103 本籍 島根県松江市東朝日町 236 ー 14   1949 年 8 月 10 日    島根県出雲市知井宮生まれ   学歴 196...