布野修司 Shuji Funo 螺旋工房クロニクル 泥鰌屋通信
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2024年11月6日水曜日
2024年11月5日火曜日
話題の本06、全京都建設協同組合ニュース、全京都建設協同組合、199607
話題の本
紹介者 布野修司 京都大学工学部助教授 地域生活空間計画学専攻
006
⑭色と欲 現代の世相1
上野千鶴子編
小学館
1996年10月
1600円
帯に「爛熟消費社会は日本人の生活と心をどのように変えたか」とある。現代の世相シリーズ全8巻の第1巻。左高信編『会社の民俗』(第2巻)小松和彦編『祭りとイベント』(第5巻)色川大吉編『心とメディア』(第9巻)とラインアップにある。本書の冒頭には家をめぐる欲望に関して、三浦展「欲望する家族」山本理顕「建築は仮説に基づいてできている」山口昌伴「台所戦後史」の3論文がある。山本理顕論文は世相を斬るというより真摯な住居論である。
⑮東南アジアの住まい
ジャック・デュマルセ 西村幸夫監修 佐藤浩司訳
学芸出版社
1993年
1854円
オックスフォード大学出版局のイメージ・オブ・アジアシリーズの一冊。東南アジアの住居については、評者は20年近く調査研究を続けているけれど、なかなかいい本がない。そうした中で本書は手頃な一冊。R.ウオータソンの「生きている住まい」をアジア都市建築研究会で訳したのであるが、近々ようやく刊行される、という。
⑯群居41号 特集=イギリスー成熟社会のハウジングの行方
布野修司編
群居刊行委員会(tel 03-5430-9911)
1996年11月
1500円
評者が編集長を務める。1982年12月に創刊準備号を出して、細々と刊行を続けている。最新号は、イギリス特集。フローからストックへというけれど、そのモデルとしてイギリスに焦点を当てた。安藤正雄、菊地成朋、野城智也、瀬口哲夫等々イギリス通のベストの執筆陣を組んだ。
2024年11月4日月曜日
話題の本05、全京都建設協同組合ニュース、全京都建設協同組合、199611
005
⑬数寄屋の森 和風空間の見方・考え方
中川武監修
丸善株式会社
1995年3月
3200円
数寄屋とは何か。本書は中谷礼仁をキャップとする早稲田大学中川研究室の若い建築学徒のその問いに対する回答である。数寄屋名作選(1章)から入り、まず歴史が解説される(2章)。読者はおよそ数寄屋なるものの歴史を手に入れることができる。続いて、近代編(3章)素材編(4章)がきて、現在編(5章)で締めくくられる。中心となるのは京都のフィールドワークをもとにした素材編である。数寄屋の基礎用語、構成要素、年表など付録もつけられている。
⑭居住空間の再生
早川和男編 講座 現代居住3
東京大学出版会
1996年9月
3914円
居住空間の再生と題されているが、扱われているのはインナーシティの問題だけではない。要するに居住空間が全体的に衰退してきたという認識から、その再構築をどう具体化するかがテーマである。居住空間再生の担い手をどう考えるかがひとつの焦点である。
⑮建築の前夜 前川國男文集
前川國男文集編集委員会
而立書房
1996年10月
3090円
前川國男といえば、日本の近代建築をリードし続けた巨匠である。ちょうど10年前に亡くなった。本書はその文章を可能な限り集めた文集である。近代建築家としていかに悩みが大きかったか文章の端々から伝わってくる。巻頭に「MR.建築家ーーー前川國男というラジカリズム」という文章を書かせていただき、各時期の解説をさせて頂いた。「バラックを作る人はバラックを作り乍ら、工場を作る人は工場を作り乍らただ誠実に全環境に目を注げ」という一節が耳にこびりついている。
2024年11月3日日曜日
話題の本04、全京都建設協同組合ニュース、全京都建設協同組合、199609
04
⑩住生活と住教育
奈良女子大学住生活学研究室編
彰国社
1993年
2400円
この7月、奈良女子大学の大学院に集中講義に招かれる機会があって、今井範子先生から頂いた。扇田信先生の古稀の記念論集で、奈良女子大学で先生に教えを受けられた諸先生が執筆されている。今井先生は「”動物と暮らす”住生活」を書かれている。かねがね、ペットの飼えるマンションを、と思っているのであるが、鳴き声がうるさいと裁判ざたになったわが東京のマンションを思い出してうんざりする。女性執筆陣の中で”白(国)二点”が、西村一朗、高口恭行両先生の論考である。
⑪ファミリー・トライアングル
神山睦美+米沢慧
春秋社
1995年
2369円
著者二人の対談集。米沢慧さんは郷土の先輩という縁もあって面識がある。『都市の貌』『<住む>という思想』『事件としての住居』などがある。ものにはならかったのであるが、東京論のために東京を一緒に歩き回った経験がある。神山睦美氏には、『家族という経験』がある。僕とほぼ同世代である。その二人が、それぞれの家族体験をもとに「高齢化社会」の行方をめぐって重厚な議論が展開される。ファミリー・トライアングルとは、職場、住居、家族のトライアングルを背景とする、家族の関係(三角形)を意味する。
⑫家の姿と住む構え
納得工房+GK道具学研究所
積水ハウス
1994年
2500
納得工房訪れたことのない人は是非行ってみてほしい。京阪奈丘陵、関西文化学術研究都市のハイテック・リサーチ・パークにある。様々な体験ができる。GK道具学研究所は、山口昌伴先生に率いられる。ユニークな集団による、納得のすまいづくりあの手この手が披露されている。「女性でも建物でも、まっ正面から見るなんてことは滅多にない」といったポイントが多数、イラスト・写真とともにぎっしりつまる。
2024年11月2日土曜日
話題の本03、全京都建設協同組合ニュース、全京都建設協同組合、199610
03
⑦⑧講座現代居住 全5巻 「1 歴史と思想」(大本圭野・戒能通厚編)
「2 家族と住居」(岸本幸臣・鈴木晃編)
編集代表 早川和男
東京大学出版会
1996年6、7月
3914円(1,2巻共)
「豊かさの中の住宅貧乏」とでも言うべき、日本の現代居住の様々な局面をグローバルな視点から問う総合講座。多分野にわたる数多くの専門家が執筆。現在、2巻まで刊行されており、以下、 「3 居住空間の再生」、「4 居住と法・政治・経済」、「5 世界の居住運動」と続刊予定。第1巻は、総論において、居住をめぐる今日的問題を明らかにし、基本的な視座を述べた上で、居住をめぐる理念、思想、政策の歴史と諸問題を論ずる。さらに、具体的な問題として、ホームレス問題、巨大都市問題、国土計画、地球環境問題など、現代的論点を考察している。
第2巻は、現代家族の揺らぎ、女性の社会進出、高齢化、少子化など家族と居住空間の関係を論じる。布野も「2 世界の住居形態と家族」を執筆している。
⑨コートヤード・ハウジング
S・ポリゾイデス/R・シャーウッド/J・タイス/J・シュールマン 有岡孝訳
住まいの図書館出版局
住まい学体系075
1996年4月
2600円
1982年にカリフォルニア大学出版会から初版が出され、1992年にプリンストン建築出版から再版されたものの翻訳である。副題に「L.A.の遺産」と小さくあるように、原題には「in Los Angeles」がついている。ロスアンジェルスの中庭式(集合)住宅(コートヤードハウス)を対象にした、南カリフォルニア大学グループの都市の類型学研究の成果である。しかし、コートヤード・ハウスは、古今東西、都市型住宅の形式としてどこにも見られるものであり、本書の議論は広く応用可能である。スパニッシュ・コロニアルの中庭式集合住宅の成立の過程を学びながら、地域に固有な都市型住宅のあり方を考えることができるのではないか。
2024年11月1日金曜日
話題の本02、全京都建設協同組合ニュース、全京都建設協同組合、199608
02
④ヒルサイドテラス白書
槙文彦+アトリエ・ヒルサイド編著
住まいの図書館出版局
住まい学体系071
2600円
1995年12月
「ヒルサイドテラス」とは、東京は代官山に建つ集合住宅である。近くに同潤会の代官山アパートが建つのであるが、戦前戦後を通じて、このヒルサイドテラスもまた、建築家による集合住宅としてその評価は高い。第一期のAB棟(1968年)が建設がなされて以降、第六期のFGN棟(1992年)まで、槙文彦と元倉真琴をはじめとするその若い仲間たちが継続的に設計に携わってきた。本書はその記録集である。
⑤住宅の近未来像
巽和夫・未来住宅研究会編
学芸出版社
3296円
1996年4月
近未来実験集合住宅「NEXT21」(大阪ガス)を実現した関西グループを中核とする未来住宅研究会の住宅論集である。具体的には、関西ビジネスインフォーメーション(KBI)主催の研究会がもとになっており、住様式、家族、集住、テニュア、居住地、エコロジーをキーワードに主論と特論から構成されている。
⑥家事の政治学
柏木博
青土社
2200円
1995年10月
デザイン批評を基盤として幅広く評論活動を展開する気鋭の評論家による家事労働論。もちろん、住居論としても読める。「キッチンのない住宅」「家事はロボットにおまかせ」など、魅力的な目次が並ぶ。しかし、必ずしもそこに未来の住宅についてのヒントがあるといった類の本ではない。住宅という容器のなかの出来事をじっくり考える本である。A
2024年10月31日木曜日
話題の本01、全京都建設協同組合ニュース、全京都建設協同組合、199607
001
今回から本欄を担当することになりました。ご挨拶代わりに(厚かましくも)まずは自分の著書編著を紹介させて頂きます。
①布野修司編、『日本の住宅 戦後50年 21世紀へ 変わるものと変わらないものを検証する』、彰国社、1995年3月
戦後50年を振り返って、これからの日本の住宅のあり方を展望する。50人の建築家の50の住宅作品を選定。また、地域に根ざした建築家50、日本の家づくり、まちづくりグループ50を掲載。建築家の作品を通しての住宅戦後史の試みには限界があるけれど、様々な視点での論考を含む。特に、戦後の住宅文献50は参考になる。
②布野修司、『住宅戦争』、彰国社、1989年。
住まいにとっての豊かさとは何か、というのがサブタイトル。受験戦争という言葉があるのに住宅戦争という言葉がないのはおかしい。日本人の一生が如何に住宅(の取得)に縛られているかを考える。F氏の住宅遍歴として著者自らの住宅遍歴を振り返るほか、山口百恵など有名人の住宅選択についても詳述している。
③布野修司編、『見知らぬ町の見知らぬ住まい』、彰国社、1990年
100人の筆者に100の住まいを紹介してもらう。日本の住宅はどこかワンパターンじゃないか、世界にはもっと楽しい住まいがあるんじゃないかというのがテーマ。100人に頼むと同じような事例が出て来るんじゃないかと思いきやすべて違う例が出てきた。住宅というのはそれぞれ違うのが当たり前なのである。
2024年10月30日水曜日
2024年10月29日火曜日
書評 井上章一「戦時下日本の建築家-アート・キッチュ・ジャパネスク」
書評 井上章一「戦時下日本の建築家-アート・キッチュ・ジャパネスク」
布野修司
本書のもとになったのは、「ファシズムの空間と象徴」と題された論文(『人文学報』、第五一号(一九八二年)、第五五号(一九八三年)である。その二本の論文をもとに『アート・キッチュ・ジャパネスクー大東亜のポストモダン』(青土社、一九八七年)がまとめられ、さらにタイトルと装いを変えて出版された(一九九五年)のが本書である。
実は、この一連の出版に評者は深く?関わっている、らしい。最初の二本の論文を送ってもらい、「国家とポスト・モダニズム建築」(『建築文化』、一九八四年五月号)で井上論文に言及したのがきっかけである。この言及はいたく井上氏を刺激したらしい。その経緯と反批判は長々と「あとがき」に記されている。その「あとがき」に依れば、この間、布野論文を除けば本書に対するほとんど表立った批評がないのだという。
筆者の文章は、磯崎新の「つくばセンタービル」、大江宏の「国立能楽堂」などが相次いで完成し、建築のポストモダニズムが跳梁跋扈する中で、「国家と様式」をめぐるテーマが浮上しつつあることを指摘するために井上論文に触れたにすぎない。文章全体が一般の眼に触れることはなかったから、反批判のみが流布する奇妙な感じであった。幸い『国家・様式・テクノロジー』(布野修司建築論集Ⅲ、一九九八年)に再録することができたから、本書をめぐる数少ない批判の構図は明らかになることになった。
争点は「帝冠様式」の評価をめぐっている。「帝冠様式」あるいは「帝冠併合様式」とは、下田菊太郎という興味深い建築家によって「帝国議事堂」(現国会議事堂)のデザインをめぐって提唱されるのであるが、簡単に言えば、鉄筋コンクリートの躯体に日本古来の神社仏閣の屋根を載せた折衷様式をいう。具体的には、九段会館(旧軍人会館)、東京帝室博物館など、戦時体制下にいくつかの実例が残されている。
「「帝冠様式」は日本のファシズム建築様式だというのがこれまでの通説であるが、「帝冠様式」は日本のファシズム建築様式ではない(さらに、日本にファシズム建築はない)」というのが本書の主張である。もちろん、本書は「帝冠様式」のみを扱うわけではない。「忠霊塔」コンペ(設計競技)、「大東亜建築様式」の問題など全体は四章から構成され、一五年戦争期における「建築家」の「言説」を丹念に追う中で、建築界が抱えた問題に光を当てようとしている。しかし、全体としてテーマとされるのは以上のような「通説」の転倒である。
それに対して、布野が指摘したのは、何故、そうした通説が転倒されなければならないのか、という本書が担う政治的立場である。本書には随所に「どんな(建築)イデオロギーも、意匠のための修辞にすぎない」「モダニズムが「日本ファシズム」と徹底的に戦ったことなど、一度もない」「”大東亜建設記念営造計画”が社会的にになった役割は、戦争協力という点から考えれば、無視しえるものだ」といった挑発的な断言を含んでおり、大きな違和感をもったのである。「ファシズム期における建築様式についての戦後の評価を転倒させようとする意識が先行するあまり、ファシズム思想との無縁性のみを強調するバランスを欠いたものといっていい。また、そのことにおいて、露骨なイデオロギーのみを浮かび上がらせるにとどまっている。」と書いた。いたくお気に召さなかったらしい。
ファシズム期の日本の建築家をめぐっては、「建築様式史上の造形の自立的変遷」にのみ焦点を当てる本書を得ても、なお検討すべき問題がある。新興建築家連盟の結成即即解散(一九三〇年)から建築新体制の確立(一九四五年)への過程は、建築家の活動を大きく規定するものであった。その体制全体の孕む問題は、拙著『戦後建築の終焉』(れんが書房新社、一九九五年)でも触れるように、建築技術、建築組織、建築学の編成、植民地の都市計画など、単に「帝冠様式」だけの問題ではないのである。
それ以前に、「帝冠様式」の問題が残されている。戦時体制下において開催された設計競技の多くは「日本趣味」「東洋趣味」を規定するものであった。この強制力は、果たしてとるにたらないものなのか。具体的に、今日、公共建築の設計競技や景観条例において勾配屋根が求められたりする。これは景観ファシズムというべきではないのか。「帝冠様式」の位相とどう異なるのか。
「帝冠様式」をキッチュとして捉えるのは慧眼である。「帝冠様式を日本のファシズム建築様式ととらえる通俗的な見方を否定して、上から与えられた、あるいは強制された様式としてではなく、大衆レベルによって支えられ、下から生み出された様式としてとらえる視点」は興味深い。なぜなら「国民へ向かって下降するベクトルが逆転して国家へ向けられるそうした眼差しの転換をこそファシズムの構造が本質的に孕んでいたとすれば、そうした視点から、大衆的な建築様式と国家的な建築様式との関連をとらえ直す契機とはなるはず」だからである。
屋根のシンボリズムについてはその力(強制力)をもう少し注意深く評価すべきであろう。民族や国民国家のアイデンティティあるいは地域なるもののアイデンティティが問われる度に、「帝冠様式」なるものは世界中で生み出されるのである。また、建築における「日本的なるもの」、についてももう少し掘り下げられるべきであろう。本書の「あとがき」には、井上氏も、植民地における帝冠様式など残された課題を列挙するところである。
一五年戦争期における日本回帰の諸現象と建築における日本趣味とは果たして関係なかったのか。「モダニズムが日本ファシズムと結託した」という命題はもう少し具体的に検証されるべきではないか。問題にすべきは、「日本的なるもの」のなかに合理性をみるというかたちで、近代建築の理念との共鳴を見る転倒ではないか。日本建築の本質と近代建築の本質を同じと見なすところに屈折はない。その屈折のなさが、科学技術新体制下における建設活動を支えたのではないか。本書に対する未だに解けない違和感は、数々の断言によって、例えば以上のような多くの問いを封じるからである。
2024年10月28日月曜日
2024年10月27日日曜日
John F.C.Turner(1976), "Housing by People Towards Autonomi in Building Environments", Pantheon Books, New York
John F.C.Turner(1976), "Housing by People Towards Autonomi in Building Environments", Pantheon Books, New York
https://drive.google.com/file/d/13Ve67Yv5Ki-2p7kEO1zOIeGcNLF6yTvt/view?usp=drive_link
2024年10月26日土曜日
書評 磯崎新『見立ての手法』,共同通信,1990
磯崎新『見立ての手法ーー日本的空間の読解』
熊本アートポリス展のコミッショナー、水戸芸術館の総合ディレクター、花と緑の博覧会の会場設計と、このところ、個々の建築の設計のみならず、建築のプロデュースで八面六ぴの大活躍なのが建築家、磯崎新である。その磯崎新も来年には還暦を迎える。今や建築界の重鎮だ。本書は、その最新建築論集である。
見立てとは、仮にみなす、あるいは、なぞらえる、という意味である。古来、日本庭園の作庭の手法として用いられてきた。竜安寺の石庭で、砂が海を、石が島や山を表す、という。そんなメタフォリカル(隠喩的)な表現がそうだ。本書は、そうした、日本的な表現手法をめぐる論考を集めて編んだものである。ほとんどが八〇年代に書かれたものであり、磯崎自身の建築的関心の推移をうかがう上でも興味深い。
建築における日本的なるものというテーマは、一九三〇年代、五〇年代と、これまで繰り返し問われてきた。みるところ、国際関係において、日本のアイデンティティーが問われる時代に、日本回帰の現象が起こっている。専ら、西欧の古典的建築に依拠してきた磯崎が、八〇年代に、日本的空間をどう捉えようとしたかは、八〇年代という時代をうかがう手掛かりにもなろう。
ま、かつら、にわ、ゆか、や、かげろひ、と全体は六部に整理されているのであるが、まず、取り上げられているのが、間(ま)という概念である。ジャパネスク・ブームのきっかけとなった、パリにおける間をテーマにする展覧会を契機とした文章が収められている。作家論や新都庁舎論なども含まれ、雑然とした感じもあるが、桂離宮論など読みごたえがある。
磯崎が拘るのは、徹底して、西欧人の眼で、あるいは、近代主義者の眼でみると、日本的なるものはどう読めるのか、ということだ。ひと味違う日本建築論になっているとすれば、その拘りの故にであろう。(悠)
2024年10月25日金曜日
京都CDL(コミュニティ・デザイン・リーグ)とタウンアーキテクト制、『建築の研究』。建築研究振興協会、2001
建築研究振興協会 建築の研究
京都CDL(コミュニティ・デザイン・リーグ)とタウンアーキテクト制
布野修司
京都CDLの概要
京都CDLとは何か。その謳い文句を並べれば以下のようだ。
○京都CDLは、京都で学ぶ学生たちを中心とするチームによって編成されるグループです。
○京都CDLは、京都のまちづくりのお手伝いをするグループです。
○京都CDLは、京都のまちについて様々な角度から調査し、記録します。
○京都CDLは、身近な環境について診断を行い、具体的な提案を行います。
○京都CDLは、その内容・結果(試合結果)を文書(ホームページ・会誌)で一般公開します。
○京都CDLは、継続的に、鍛錬(調査・分析)実戦(提案・提案の競技)を行うグループです。
○京都CDLは、まちの中に入り、まちと共にあり、豊かなまちのくらしをめざすグループです。
京都CDLは何をするのか。①各チームが、毎年、それぞれ担当地区を歩いて記録する、そして、②年に二度、春夏に集まって、それを報告する、基本的にそれだけである。もう少し具体的に書けば以下のようだ。
A 地区カルテの作製:担当地区について年に一回調査を行い記録する。共通 のフォーマットを用いる。例えば、1/2500の白地図に建物の種類、構造、階数、その他を記入し、写真撮影を行う。また、地区の問題点などを1枚にまとめる。このデータは原則として研究室が保管するが、GISなどの利用によって、各チームが共有する。また、市民にインターネットを通じて公開する。
B 地区診断および提案:Aをもとに各チームは地区についての診断あるいは提案をまとめる。
C 報告会・シンポジウムの開催:年に二度(4月・10月)集まり、議論する(4月は提案の発表、10月は調査及び分析の報告を行う予定)。
D 一日大行進京都断面調査の実施:年に一日全チームが集って京都の横断面を歩いて議論する。
E まちづくりの実践:それぞれの関係性のなかで具体的な提案、実践活動を展開する。
Aの記録のフォーマットは未だ検討中である。それぞれの視点でどう記録するかが問題である。Dは、発足後の議論の過程で発想された。もう一日、各チーム共通の作業日を設けようということである。初年度は、八坂神社から松尾大社まで四条通りを歩いた(6月2日)。その記録はGISを用いて一枚のCD-Romに収められつつある。来年は、鴨川沿いに南北縦断調査が企画されている。
京都CDLは各チームの代表(監督)および幹事(ヘッドコーチ)からなる運営委員会・事務局によって運営されている(図1)。A 参加チーム登録、B 地区割り調整、C 報告会の開催(4月・10月)、D 地区カルテの保管と活用、E アクション・プラン、F 他組織との連携が主な仕事である。
京都CDLの始動
2001年4月27日の京都CDL設立に当たって14大学24チームの参加表明があった。そこで、仮の地区割り案として、京都市全域(全11地区)を48地区に分けた(図2)。ベースとしたのは元学区、国勢調査の統計区である。約200区を平均4統計区ずつに分けたことになる。そこで、各チームは大学周辺ともう一地区、あるいは中心部一地区と周辺部一地区の二地区を担当することにした。京都CDL発足の大きなモメントに、京都のまちづくりをめぐる議論と実践がいわゆるハイライト地区(都心部(田の字地区)山鉾町、西陣、東山、嵯峨野)に集中している、ということがあり、かろうじて全域を割当てた格好である。
動き出すと様々な発意がある。まず、自前のメディアを持ちたい、という欲求がすぐさま形となった。『京都げのむ』という名がいつのまにか決まり、設立(大会)を主特集に10月19日の秋季リーグ(第2回シンポジウム)開催前に創刊号が刊行された。京都にしかない、かけがえのない遺伝子を探り当てたい、という思いが「京都げのむ」という命名に込められている。京都CDLの活動の大きなトゥールになることは間違いない。
10月19日、2001年度秋期リーグ・シンポジウムが開催された。発表は6チーム、ポスター発表と合わせて15チームが半年の活動報告を行った。分析あり、すばやい提案あり、ビデオ表現あり、多様な視点、アプローチが浮かび上がったように思う。そして、相互批評が大いなる次の展開を予感させた。京都に対するステレオタイプ化した手法を排し、多様な視点を確保維持し続けることが京都CDLの基本姿勢である。
活動を始めて、問い合わせ、要望という形の市民との接触、行政当局との連携の模索は既に始まっている。10月14日には鴨川フェスタに出店を求められ、子どもたちを対象とするまちづくりゲームの企画が評判を集めた。京都市役所は京都まちづくりセンターを窓口とすることを既に決定済みである。大学の地域社会への貢献の試みとして、既に評価も得つつある[i]。
何故、京都CDLなのか
何故、タウンアーキテクトか、については、『裸の建築家---タウンアーキテクト論序説』(以下『序説』)[ii]に書いた。そして、その最後に「京都デザイン・リーグ」構想について述べた。京都CDLは、タウンアーキテクト制のシミュレーションとして発想されたものである。すなわち、その発想の根には、建築家のあり方についての問いがあり、タウンアーキテクト(あるいはコミュニティ・アーキテクト)という職能についての展望がある。何故、そういう職能、あるいは仕組みを考えるに至ったかは『序説』に譲りたいが[iii]、最大のモメントは、一般の「建築家」が「生き延びる」ためには地域社会をその存在基盤とせざるを得ない(すべきである)、という認識である。「タウンアーキテクト」とは何か、何故、「タウンアーキテクト」か、日本の「タウンアーキテクト」の原型とは何か、について最小限要約すれば以下のようになる。
タウン・アーキテクトとは
「まちづくり」は本来自治体の仕事である。しかし、それぞれの自治体が「まちづくり」の主体として充分その役割を果たしているかどうかは疑問である。地域住民の意向を的確に捉えた「まちづくり」を展開する仕組みがないのが決定的である。そこで、自治体と地域住民の「まちづくり」を媒介する役割を果たすことを期待されるのが「タウンアーキテクト」である。その主要な仕事は、既に様々なコンサルタントやプランナー、「建築家」が行っている。ただ、必ずしもそのまちの住民でなくてもいいけれど、そのまちの「まちづくり」に継続的に関わるのが原則である。
「建築家」は基本的に施主の代弁者であるが、同時に施主と施工者(建設業者)の間にあって、第三者として相互の利害調整を行う役割をもつ。医者、弁護士などとともにその職能の根拠は西欧世界においては神への告白(プロフェス)である。また、市民社会の論理である。同様に「タウンアーキテクト」は、「コミュニティ(地域社会)」の代弁者であるが、地域べったり(その利益のみを代弁する)ではなく、「コミュニティ(地域社会)」と地方自治体の間の調整を行う役割をももつ。
①「タウンアーキテクト」は、「まちづくり」を推進する仕組みや場の提案者であり、実践者である。「タウンアーキテクト」は、「まちづくり」の仕掛け人(オルガナイザー(組織者))であり、アジテーター(主唱者)であり、コーディネーター(調整者)であり、アドヴォケイター(代弁者))である。
②「タウンアーキテクト」は、「まちづくり」の全般に関わる。従って、「建築家」(建築士)である必要は必ずしもない。本来、自治体の首長こそ「タウンアーキテクト」と呼ばれるべきである。具体的に考えるのは「空間計画」(都市計画)の分野だ。とりあえず、フィジカルな「まちのかたち」に関わるのが「タウンアーキテクト」である。こうした限定にまず問題がある。「まちづくり」のハードとソフトは切り離せない。空間の運営、維持管理の仕組みこそが問題である。しかし、「まちづくり」の質は最終的には「まちのかたち」に表現される。その表現、まちの景観に責任をもつのが「タウンアーキテクト」である。もちろん、誰もが「建築家」であり、「タウンアーキテクト」でありうる。身近な環境の全てに「建築家」は関わっている。どういう住宅を建てるか(選択するか)が「建築家」の仕事であれば、誰でも「建築家」でありうる。様々な条件をまとめあげ、それを空間的に表現するトレーニングを受け、その能力に優れているのが「建築家」である。
③「まちづくり」の仕組みとして、「タウンアーキテクト」のような存在が必要とされる一方、「建築家」の方にも「タウンアーキテクト」たるべき理由がある。「建築家」こそ「まちづくり」に積極的に関わるべきである。第一に、建てては壊す(スクラップ・アンド・ビルド)時代は終わった。新たに建てるよりも、再活用し、維持管理することの重要度が増すのは明らかである。日本の「建築家」はその仕事の内容、役割を代えていかざるを得ないが、ふたつの方向が考えられる。ひとつは、建物の増改築、改修、維持管理を主体としていく方向である。そして、もうひとつが「まちづくり」である。どのような建築をつくればいいのか、当初から地域と関わりを持つことを求められ、建てた後もその維持管理に責任を持たねばならない。いずれにせよ、「建築家」はその存在根拠を地域との関係に求められる。
④そもそもの発想において「タウンアーキテクト」の原型となるのは「建築主事」(建築基準法第4条に規定される、都道府県、特定の市町村および特別区の長の任命を受けた者)である。全国の自治体、土木事務所、特定行政庁に、約一七〇〇名の建築主事がいて、建築確認業務に従事している。全国で二千人程度の、あるいは全市町村三六〇〇人程度のすぐれた「タウンアーキテクト」がいて、デザイン指導すれば、相当町並みは違ってくるのではないか。建築確認行政は基本的にはコントロール行政であり、取り締まり行政である。建築確認行政が豊かな都市景観の創出に寄与してきたのか、というとそうは言えない。もしそうだとするなら、地域の「建築家」が手伝う形を考えればいいのではないか。
建築主事を積極的に「タウンアーキテクト」として考える場合、いくつかの形態が考えられる。欧米の「タウンアーキテクト」制がまず思い浮かぶ。最も権限をもつケースだと「建築市(町村)長」置く例がある。一般的には、何人かの建築家からなる委員会が任に当たる。建築コミッショナー・システムである。日本にもいくつか事例がある。「熊本アートポリス」「クリエイティブ・タウン・岡山(CTO)」「富山町の顔づくりプロジェクト」などにおけるコミッショナー・システムである。ただ、いずれも限られた公共建築の設計者選定の仕組みにすぎない。むしろ近いのは「都市計画審議会」「建築審議会」「景観審議会」といった審議会である。それらには、本来、「タウンアーキテクト」としての役割がある。地方分権一括法案以降、市町村の権限を認める「都市計画審議会」には大いに期待すべきかもしれない。しかし、審議会システムが単に形式的な手続き機関に堕しているのであれば、別の仕組みを考える必要がある。
⑤しかしいずれにしろ、一人のコミショナー、ひとつのコミッティーが自治体全体に責任を負うには限界がある。「タウンアーキテクト」はコミュニティ単位、地区単位で考える必要がある。あるいは、プロジェクト単位で「タウンアーキテクト」の派遣を考える必要がある。この場合、自治体とコミュニティの双方から依頼を受ける形が考えられる。具体的には、各種アドヴァイザー制度、「まちづくり協議会」方式、「コンサルタント派遣」制度として展開されているところである[iv]。
「タウンアーキテクト」の仕事
「タウンアーキテクト」は具体的に何を仕事とするのか。『序説』では、「タウンウォッチング」「百年計画」「公開ヒヤリング」・・・等々各地域で試みられたら面白いであろう手法を思いつくまま列挙している。しかし、そこでの議論は、建築コミッショナーとしての「タウンアーキテクト」の役割に集中しすぎている。やはりベースとすべきは、身近な仕事において、また具体的な地区で何ができるかであろう。京都CDLは、そのための大きなシミュレーションである。
「タウンアーキテクト」制をひとつの制度として構想してみることはできる。建築コミッショナー制を導入するのであれば、権限と報酬の設定、任期と任期中の自治体内での業務禁止は前提とされなければならない。地区アーキテクト制を実施するためには自治体の支援が不可欠である。地区アーキテクトは、個々の建築設計のアドヴァイザーを行う。住宅相談から設計者を紹介する、そうした試みは様々になされている。また、景観アドヴァイザー、あるいは景観モニターといった制度も考えられる。具体的な計画の実施となると、様々な権利関係の調整が必要となる。そうした意味では、「タウンアーキテクト」は、単にデザインする能力だけでなく、法律や収支計画にも通じていなければならない。また、住民、権利者の調整役を務めなければならない。一番近いイメージは再開発コーディネーターである。
しかし、制度のみを議論しても始まらない。地域毎に固有の「まちづくり」を期待するのであれば一律の制度はむしろ有害かもしれない。どんな小さなプロジェクトであれ、具体的な事例に学ぶことが先行さるべきである。まずは、①身近なディテールから、というのが指針である。また、②持続、が必要である。単発のイヴェントでは弱い。そして持続のためには、③地域社会のコンセンサス、が必要である。合意形成のためには、④参加、が必要であり、⑤情報公開が不可欠である。
京都CDLの今後
京都CDLは歩み始めたばかりで海のものとも山のものともわからない、というのが正直なところである。
大学の研究室活動をベースとすることにおいてその活動の持続性は保証される、というのが味噌であるが、一般的なシステムとしてはいくつか基本的問題がある。『序説』で繰り返し指摘しているのであるが、ひとつの問題は、タウンアーキテクトの報酬と権限である。
京都CDLの場合、基本的にヴォランティアであり、当面NPOを目指すということでいいのだが、それにしても自治体との関係は当然問われる。京都市の「すまい・まちづくり活動支援制度」との連携も大いに考えられる。いずれにせよ、ひとつの試行としてその全経験は記録したいと思う。
京都市全体をカヴァーするのにはまだまだチームが足りない。全国からの参加を是非お願いしたい。『京都げのむ』(定価1000円)、京都CDLについてはhttp://www.kyoto-cdl.com/ を参照されたい。
[i] 2001年4月17日 朝日新聞記事掲載「町づくりに研究者の知恵 地区の個性重視して提案 14大学の24チーム参加 アイデア競い合い」4月28日 京都新聞記事掲載「京滋などの15大学京都CDL設立」10月19日 朝日新聞「京都の街づくり歩いて調査 学生が研究成果報告」
[ii] 拙著、建築資料研究社、2000年。
[iii] タウン・アーキテクトをめぐる論考に以下のものがある。「タウン・アーキテクトの可能性」、『群居』、群居刊行委員会、1998年1月。「ちぐはぐな町並み開発を防ぐには建築家の継続参加が有効」、『日経アーキテクチャー』巻頭インタビュー、1995年4月10日。「タウンアーキテクトの組織実践へ向けて」、『群居』50号、2000年10月/「身近なディテールから・・・タウンアーキテクトの役割と可能性」、『造景』、2001年1月/The Roles and Tasks of Town Architects in Japan:A Proposal
for the establishment of Kyoto Community Design League, Traverse 02, Kyoto
University, 18 Jun. 2001(『新建築学研究』 第2号)/「京都コミュニティ・デザイン・リーグ(京都CDL)の試み・・・すまいの専門家の生きる道」 『住宅』、2001年10月号
[iv] 京都市も2001年度から「すまい・まちづくり活動支援制度」に係る専門家登録を開始する。
2024年10月24日木曜日
環境ー大きな物語 and/or 小さな物語ー 建築・都市,そして地球,2015年7月17日18:30~20:00 建築会館 建築書店,八束はじめ・布野修司対論シリーズ 第7回:ゲストゲスト 尾島俊雄(環境都市学者),建築討論006号,日本建築学会,201510
https://www.aij.or.jp/jpn/touron/6gou/tairon07.html
第7回八束はじめ・布野修司対論シリーズ
環境-大きな物語and/or小さな物語-建築・都市、そして地球
日時:2015年7月17日(金)18:30~20:00
会場:日本建築学会 建築書店
環境問題が今世紀で最も重要な事柄の一つであることはいうまでもないが、地球環境はひとつであるにもかかわらず、単体レヴェルから地域、都市、ひいては地球全体までカヴァーして論じることは難しい。今回は「対論」シリーズを締めくくるものとしてこの難事にチャレンジする。
ゲスト
■尾島俊雄(環境都市学者)
1937年生まれ。単なる建築設備のスケールを遥かに超えた提言を数々行なってきた。最先端の技術研究から教育、一般的な啓蒙活動までカヴァーする領域は極めて広く、総合的な建築-都市学者と称すべきかもしれない。早稲田大学名誉教授、元日本建築学会会長、日本景観学会会長、(財)建築保全センター理事長、アジア都市環境学会会長などを歴任。
■八束はじめ(建築家、建築批評家。芝浦工業大学名誉教授)
■布野修司(建築計画、アジア都市建築史、建築批評。日本大学特任教授)
八束:時間になったので、始めさせていただきます。今日は7回目にして最終回になります。この企画は布野さんと私が始めたのですが、2回目からゲストをお招きしています。最初から目算があったわけではないのですが、なんとなく、学会のイベントでもあるから建築学の大体の分野は網羅しようということになりました。最後に環境という今日一番重要なテーマを取り上げようということで、どなたにお願いしようか考えて、いままでは私と布野さんより若い方をお招きしていたのですが、思いつかなくて、大家なので恐縮ですが尾島先生にお越しいただいて、締めにふさわしい人選だという風に思っております。
布野:でもホントは尾島先生じゃないといけなかったんじゃないの?
八束:まあそうなんだけど(笑)。その理由を冒頭にお話ししておきたいと思います。今回のタイトルにも『大きな物語から小さな物語へ』というタイトルがついているんですが、私は、環境が重要なのは、『大きい』方と『小さい』方があると思っています。 大学の建築学科では、-私も意匠系の教員でしたけど-、スターアーキテクトを養成する意匠系研究室は一見花形という感じがあったと思うのですが、実は意匠系の研究室に進む人は、確実に減って来ています。今非常に人気があるのは、-芝浦工大の私の元同僚では、尾島先生のお弟子さん、村上公哉先生でしたけど-、環境系の研究室に人気があるわけです。設備の設計とかメーカーとか、単体の建築主体の仕事、要するに小さい方ですが、そこへの就職が堅調であるという極めてプラクティカルな理由もあると思いますが、同時に、大きくは地球環境全体、そういうような大きなストーリーも問題になる。ただ、この二つは繋がっているようで実際にはずいぶん距離があるわけです。たとえば建築単体の省エネ水準を上げることは、もちろん技術としては向上させるべき課題ですが、地球環境に直結するとまでいったらいい過ぎのはずです。でも何となく、省エネと言った途端にそれがつながっているように聞こえる。日本では60年代の公害問題もあって、エコロジーや環境の問題とかが建築の分野を超えて注目され、世界的にエポックメイキングだったものとしては、72年にいろいろとコントラバーシャルだったロマー・クラブ委嘱研究の『成長の限界』という本が出ています。それは地球環境全体のシミュレーションをした本でしたけれど、そういう問題と一戸一戸の建物の省エネ、あるいは空調なんかの質を高めるというのは、ずいぶん距離があるわけですよね。今『The Principles of Sustainability』という本を読んでいるのですけれど1、そこでは建築単体の話なんて全然出てこないのですね、ちょっと建築関係者としては拍子抜けするくらい。同時にこの両方を見据えながら話をするというようなことを考えると、『小さい』方の技術的な話は多くの人が研究をしてらっしゃって、人材に事欠かないと思うのですが、『大きい』方はそうでもない。後者だけが重要であるという積もりはいささかないのですけれども、その辺をずるずるべったりつなげて、個別技術に専門化していくのは問題ではないのか、というのが僕の根本的な問題意識で、そのために尾島先生にお越し願ったわけです。
尾島先生は特に90年代に啓蒙的な意味も含めて、相当いっぱい本を出されていて、私も再読したりしていますが、当時の尾島先生の扱われた対象は、1000mの超高層とか、逆に大深度地下の問題とか、極めて大きな問題をやられていました。それは20年前くらいの話で、その後に神戸・東北があっていろいろご意見の変容があるのは当然だと思いますが、その辺も含めたお話を聞かせていただきたいと思っています。その辺についてまず、全体としての尾島先生の基本姿勢を、お話して頂けるとありがたいのですが。
尾島:まず、このような老人をお呼びいただいてありがとうございます(笑)。改めて、何のために、と考え始めますと、特別大学に入ってから新しい学問をと思ったわけではなく、やはり身につまされている。僕は小学校の時は戦災で、富山の方の生まれなのですが、まちも学校も全滅したわけで、どうしても家がないと生きていけないことが身にしみたんです。学校も青空教室で、本当にひどい状態からスタートするとなれば、まず家が欲しいと痛切に思うわけです。富山という北陸のまちが全焼して何千人も死んだわけです。ですからそういう生活の中で建築をつくるというのは、材料も食べるものもない時代に家が欲しいということだから、極めて純粋に建築に憧れたというのは、それがないから作りたいという気持ちだったわけですね。大学に入りますと、今度はデザイナー希望がいっぱいいて、私もデザイナー、建てる方を希望したわけだけれど、勉強しているうちに、近代建築は、ものすごいエネルギーを使うということに気づいたわけです。戦争前の建物というのは、エネルギーを使うことがほとんどなくて、産業革命のおかげで冷房・暖房・照明を使いはじめて、空間をつくろうとするとものすごくエネルギーが必要だということがわかってですね。一生懸命新しい技術を開発しても、一体どうやって維持し続けることができるのかなと。当時の私の先生が、まさか設備と関わるとは思いもしないのだけれど、虎の門病院の設計をされていて、電気が足りない、冷房が無いから大変だとか、エネルギーの維持費出ないから、病院の経営ができないと。これは当たり前なんだけど、近代建築をつくるのはものすごいエネルギーを使うのだなと、維持費が掛かって、メンテナンスが掛かって…
八束:その先生とおっしゃるのは井上宇市先生ですね2?
尾島:そう。井上先生が設計した建物。これはえらいことだなと思って、だから設計するよりエネルギーの消費量を調べていたんですよ。どうやったら病院が経営できるのかなと。たまたま大学院に進んだのは、五月の連休、立山に登って山スキーで骨折、半年も休んでしまって竹中の就職に間に合わなくて、大学に残っただけで、特別な理由があったわけではないんです。それで大学にいると今度は、オリンピックの設計で、丹下さん、坪井さんの仕事があって、井上先生が一緒にその仕事をしたんです。あの時、意匠と構造と設備の3人が初めて同格に国から発注を受けたんです。
八束:設計の分離発注ですか?
尾島:そうです。そのお手伝いで丹下研にいったら、丹下さんが大理石を張りたいっておっしゃって、冷房する費用が無くなっちゃったんですよ。
八束:大理石のおかげで(笑)?
尾島:当時のオリンピックは10月でしたが、10月でも鉄板の釣り屋根で、15,000人もの観客が入ると、冷房しないとどうしようもなくて、それでも冷房するお金がないから、それであの巨大なノズルで、風でもってやった。つまり扇風機ですよ。2m/sの風を送ればいやでも涼しいですよ。生研の勝田先生の研究室で実験させてもらって、なんとか成立したんです。
布野:丹下先生の大理石のおかげでそういう知恵が生まれたわけだ(笑)。
尾島:知恵というか、死に物狂いで、観戦できる環境を作らないといけないでしょう。あえて環境というならばそういうことになる。同じことは磯崎さんのバルセロナのオリンピック競技場もそうで、最後お金がなくなって、仕方ないから、冷房が使えなければ、風を使ってやろうと。それは新しい学問領域を拓いたわけではなくて、建築の設備は、照明にしても水にしても電気にしても、建築の技術じゃないでしょう。 私は今の新国立競技場についても、最初からあの屋根に反対してたんです3。7月に屋根つけると冷房つけないといけない。今の東京電力には3,000kwやら5,000kwやらをあそこのために供給するのは無理ですよ。だから最初から屋根つけたら絶対ダメです、お金は最後になってどこからも出てきませんよ、と言ったら、今は冷房どころか屋根そのものも無くなってしまった。だからお金が最後に決定的になる。つくる時だけではなく維持費として。だから、僕は環境に特別思いがあるわけじゃなしに、建物をつくったら維持しないといけない、そのためにはいろんなものが必要なんですね。そういうことをやるのは絶対に必要な学問だから、みんなそんなことやらないし、新しいものつくるのに一生懸命だから(笑)。
大学はスターになるためではなく、本当にいい建築を維持するために必要なことをやるのが大学の役目だと思ったので、大学で研究するなら、どうしても必要な建築、いい建築、維持できる建築、今でいうサスティナブルな建築のための基礎的なことを積み上げて、資料をつくって調査をするのが、大学として不可欠だと。特に早稲田は、大学には人がいっぱいいまして調査には最適な学校だから、まずは作られた建物で何が必要かとかを調査する。考えてみれば、建築が主体だとすれば、環境はその周辺のものはすべてだと。だから主体をつくるためにはまずその環境、周りをちゃんと押さえる。それがわかれば主体がどんなものかがわかってくる。大学なんてそんなことするのが役割だから、スターだったら、専任で学校に来る必要なくてですね、外で作家やっていてたまに学校に来る方がいいんじゃないのなんて言いながら、大学で環境学をやっていました。
1. Simon
Dresner “The Principles of
Sustainability”Routledge 2008
2. 井上宇市(1918−2009)東京帝国大学船舶工学科卒業 大成建設を経て 早稲田大学 1962年同大教授 64年オリンピック代々木競技場および駒沢公園の企画設計および監理において日本建築学会特別賞受賞
3. これは当初のザハ案に関してのコメント
建築原論と環境学
八束:建築というのは本来個別の室内環境を整えるためにつくられますので、-これは布野さんの方の専門ですけれど-「建築学」が成立したときには、最初から、機械設備的な意味でなくとも『小さな』話は、当然成立していたわけで、戦後になって東大で岸田日出刀さんが講義されていた建築計画学にも、今日でいうところの環境計画がほとんど入っていました。その後、メカニカル・エンジニアリングが特化していくことによって、設備系・環境系の研究室が独立していったという経緯をたどっていると思いますけれども。
尾島:もともと原論や設備というのは計画学ですね、最初、東京大学だと渡邊要先生なんかは計画学の先生で、計画の上で原論が必要だから、太陽や風とかの周辺をやらなければいけないと。そのうち必要なものは何かと言えば、採光との関係とか、夜になると照明が必要だとか、原論が大事だということで、建築計画というのは、学問としては計画学というのは原論みたいなものが中心だったんだけれど。ところが戦後の冷房や暖房には猛烈にエネルギーが必要になって、自立するんです。設備だけで、ものすごいお金が必要になるし、それだけで新しい学問としても必要になってくる。そうなると、大学の中でも自立しないといけないからと言って、構造と意匠と設備なんてことを言い出したわけだよね。そこで鈴木成文先生といつも喧嘩してたのは、計画学という学問は、原論・設備があって初めて「計画学」で一体だったんですね。
布野:原論の先駆が、渡邊要先生とか、長倉康彦先生のお父さん、長倉謙介先生ですね。彼が昭和の初めの『高等建築学』シリーズの一巻(第13巻、1934年)に『計画原論』を書いているんですね。「建築計画学」はその段階で成立してませんよ。お雇い外国人として、J.コンドルが来日してて、何を教えたかというと歴史HistoryとビルコンBuilding Constructionなんですよ。要するに、何をどうやって建ててきたか、そして、どうやって建てるかということですね。計画原論も無かったんですよ。その後、段々分化して「建築構造」「建築意匠」といった科目ができていくんですが、ようやく、昭和の初めになって、それ計画原論ができて、現在につながっていく建築学の体系ができるんですね。
尾島:そうなんです。建築のあるべき姿を考えるのが原論であるのに、なぜか東京大学がですね、吉武計画学ですね、きっと(笑)。用途別建築学といって、計画学という学問を…
八束:ブレークダウンしちゃったんだ。
尾島:そう。
布野:吉武先生には、建築構造学に対して、如何に「建築計画学」を成立させるかという問題意識というか、使命感があったと思います。建築学の体系の中にデザインとかプランニングとかいう分野をどう確保するかというセンスなんです。そのためには、工学の枠の中で、論文を書かないといけない。用途別建築学は、施設計画学といいますが、その縦割りの問題を、この対論シリーズでも度々問題にしてきてるんですが、僕が在籍していたときに聞いた話では、その草創においては、分担して情報収集した方がいい、という判断だったようです。結果として、学校で学位論文3本、図書館で3本とか、ということになったんですね。大学のコミュニティの中で一定の発言力を得るための、ある意味では戦術だったと言えると思います。
尾島:工学部の中の建築学だったから、論文を書くために仕方なしに学問を作ったってことですよね。
布野:吉武先生は、待ち行列理論とか使って、トイレやエレベーターの規模算定をまずやられた。数式に乗りやすい分野はやりやすかった。
八束:学会でこういうこと言っちゃなんだけど、論文を書きやすいように分野をブレークダウンしちゃうのは本末転倒ですね。
布野:本末転倒ですよ。学会に設計計画委員会ができたのが64年でしょう。オリンピックの年ですよ。それが計画委員会に変わっていくんです。それのプレッシャーが内部的にあった。
八束:どこからのプレッシャー?
尾島:内部で喧々諤々だったっていう。教育委員会が取り上げて、法政大学の大江先生とか日大の近江先生とかが、教育委員会の委員長をやったときも、鈴木成文先生と徹底的に議論してた。本来なら、計画学が設備・原論と一緒にならないといけないし、まして論文集まで分けられたでしょう最近。
布野:だいぶ前ですけどね(笑)。
尾島:いかに僕が古い人間かってことがわかりますよ (笑)。
布野:設備・計画・構造が分かれてしまったから、「総合論文集」っていうのをつくったんですね。それでも面白い論文が出てこないから潰すって話で、その代わりが『建築討論』なんですけれど。
尾島:文化が進んで、分野分野でボスができちゃったからね。でも建築は本来総合的なものであるべきだし、だけど総合でといっても誰も書ける人はいなかったかもしれない。ですから環境学かなんかで特別にジャーナルをつくったということよりも、建築のあるべき姿、建築とは本来こういうものでなくてはいけないという、建築が存在するためには、常に周辺のことも学んでおかなくてはならないという、「あるべき論」をずっとやってきただけで、そういう形で話をすると学生はずいぶん集まってくるし、その時その時の課題というのもありますよね。だからその課題を解決するために建築家は何を考えるべきなのかということを論文の題名に取り上げると学生が集まってくるということで、だから僕の研究室は恥ずかしいことに、卒業生が850人。修士は250人、博士が60人。数だけはあり得ないくらいに集まって、特別に環境学とかをやったというわけではないんです。卒業生はデザイナーになったり、いろんな人がいますけどね。
布野:井上先生の建築設備と木村先生の建築計画原論の外側で都市環境という講座の名前をつくられたということを読みましたけれど。領域を広げるということだったんでしょうか。
尾島:水力学や電気通信技術にしても、建築技術ではないものを集めてこなければいけないわけですね。全部がわかる建築設備の教育なんて、できるわけがないですよね。電気や通信の基礎まで、建築の先生が学べるはずもなければ、その分野で論文書けること自体おかしいよね。総合的にこの空間を測る技術やらセンサーやら、すべてを考えられるスーパーマンみたいな研究者はいないしね。ましてや建築の先生で設備だとか環境やろうとしたって、ろくなもんじゃないよね。はじめから環境の技術者とか先生とかがいるわけではなく、バックアップをするための考え方、技術を学ぶしかない。井上先生も船舶工学の先生だったから、潜水艦クローズされた空間でいかにすごすかの、兵器を開発した先生に僕は付いた。その先生も船の中でいかに生きられる環境をつくれるかを必死になってやってきた先生で、いろいろな文献やいろいろな分野の体系から学んできて、それを建築の分野に取り込んできていた。体系だった技術だとか学問があるとは、今でも考えていない。
建築や建築の空間がどうあるべきなのか、どういう建物をつくったらその内部環境は外とどうちがうのか、光にしても音にしても空気にしても、クローズすれば外側の環境と内側の環境ってまったく違うわけですよね。つくり上げるということはありえないぐらいに、まわりの技術がどんどん進んでいく。車、飛行機、船、ヨット、いろいろな分野の技術者がいますね。車なんか完璧にすごいよね。あれだけのスピードで走りながら、雨漏りひとつしないですね。完璧にエアコンをして、静かな環境をつくるなんてことは、車の中のインテリアの技術からしたら、建築の空調や建築のインテリアの技術なんてお粗末だよね。いかに安くなんて話はせいぜい建築の設備の人にもできるかもしれない。そう考えると、今、建築の環境とか設備の体系化を成していくというのは、難しい。そのことを学生に伝えるような人や大学の講座は必要だと思います。
八束:今のお話をうかがっていると、建築計画学或いは建築学そのものだったのが、だんだん環境設備になっていっちゃっているようだけれども、実はそうではないというようなお話に聞こえますね。もっと総合的な技術というのか。
ソーラー・エネルギーについて
布野:井上先生の虎の門病院の設計を手伝われて、とにかく建築というのはエネルギーを使うんだという話でしたけれども、八束さんがいった『成長の限界』が出たのが1972年で、73年末にオイルショックがあって、ぼくらが省エネに向かわないといけないというそういう気分のときに、尾島先生はそこら中にソーラー・パネルが建ったらつぶしますよ、というようなことをおっしゃっていたんですよ。あれはいったいどういう意味だったんですか。
尾島:今でも僕はソーラーは反対ですよ。メガソーラー大反対。
布野:少し説明してもらえますか。要するにエネルギー使いますね、ということになると、次には、省エネルギーの話になるのかと思ったんですね。3.11以降、みんなスマートタウンとか言って、ソーラー・パネルがのっかった住宅団地が建てられていますよね。
尾島:ソーラーだけに関して言えば、やっぱりソーラーというのは太陽を電気に変える話ですよね。太陽熱は、僕は今でも賛成です。でも、太陽光というのはフリークエンシーがあるんですよ。それを電気に置き換えても、ものすごく質の悪い電気になるんですよ。今、普通に来ている系統電力というのは、ものすごく質のいい電力で、高等な電力が停電も無く送られているわけですね、今の日本は。それと太陽光でおこした電気をメガソーラーでくっつける。それを調整するためのお金、ものすごくお金がかかるんですよ。
八束:それは日本のような気候条件でということですね?
尾島:そうです。
布野:現在のメガソーラーじゃなくて、戸建住宅やビルの屋根の上にソーラーをのっけるのは問題だという脈略だったと思います。景観のこととかも含めて。
尾島:全部載せていった時の景観だけじゃなくて、それでもって一般の電力に換えましょうという馬鹿な話が出てくるから、その費用とメンテナンス、レヴェルからいったら“東京ではやめてくださいよ”ということですね。東京はまだ平均2.5階建て位なんだけども、高層階の建物が都心に出てくる。その時にペタペタ貼っていったときに、とてもじゃないけど持たない。都市はやはり都市らしい状態にしておくべきであって、農山村でソーラーを付けて、質が悪くても自分の家で電気を何とかまかなう、そういうのは今でも反対していません。
布野:太陽光にフリークエンシーがあるのはそうで、逆に、日本がいかに停電が無いかということですね。
尾島:それを普及させるために、48円/kwhで買い取るなんて馬鹿なことをね、それを安くするために全部中国製のソーラーを輸入してね、その結果、山に行ってご覧なさいよ、1万キロワットのソーラーつければ、守屋牧場が全滅してるわけよ。ゴルフ場ならまだましですが。
布野:確かにそういうことが起きてしまっているという問題はあるんですけど、やっぱり、買い取り制度をやらないと、そっちの方に動いて行かない、技術開発とかも進まない。
尾島:買い取り制度は、ちゃんとした電気を買い取るなら反対しない。例えば、こういう電力だから、起こした電力をそこで水素に変える。電気分解すれば水素になりますから、水素で蓄えて水素で買い取るぐらいのことをやってくれれば、48円じゃなくて10円くらいでおこしていかないと合わないわけよ。それを買い取るならいいですよ。
例えばね、日本は森林があるから、CO2で6%助かったんですよね、でもその森は間伐しないと、炭酸ガスを吸収してくれないんです。その間伐に200億円、森林組合が出すということがあったんですよ。間伐の金をとるために、あっという間に森林組合が切っていったの。頭だけ切ってそのまま置きっぱなしにしたわけよ。そしたら森がもっと荒れちゃった。だって頭だけ切って補助金だけもらったんですよね。僕らは大反対をして、木を切って切った木をちゃんとチップかなんかにちゃんと使うとかね、だから置き材、残置材にしないで切った木をちゃんと持ってきて、切った木を買い取る、集めた木を買い取る、という制度にしないと、本当に山が生きてこないんですよね。という話をした瞬間に、誰も持ってこなくなった。
布野:手間の問題もありますしね。もう一つだけ、ソーラー問題で、発送電分離とかが決まって、実際に動いている。電力供給をフリークエンシーを前提にした上で全部請け負って調整している会社が結構大きくなったりしている。そういう方向もあり得るんじゃないですか。
尾島:電気おこしても電力会社買い取れというと、送電網とか引かなきゃいけないとかフリークエンシーを調整するためのお金とかも掛かっちゃう。それで、電力会社が買い取りを拒否すると騒ぐわけですよ、政治的に利用してね、格好良くジャーナリズムが持ちあげる。それを阻止しようとすると敵になっちゃうんですよ。だから、ちゃんとした調整していくような人がコーディネートしていくことが必要で、バイオマスにしても再生可能エネルギーをこれからやっていくとしてもね、原子力もそう、本当に、市民に分りやすいかたちで、最高の環境を維持しながら、安上がりなおかつ、国にとって最善の方策は何かと、ちゃんと解説しながら調整するような人はいない。外国のやつをそのままクリエイティブだと、わーっと叫んでやってみたらひどいねとか、あまりにもそういうのが多すぎる。
サイエンス・フォー・ソサエティ-建築学科の立ち位置
八束:そういう、ある種のゼネラリスト、コーディネーションをする人材の養成というのが建築の分野でも求められるということでしょう。環境問題でどうしても僕が気になるのは、議論が一種のポリティカルコレクトネスにいっちゃいがちだということです。元々は全く正当な話なのに、さきほど先生がマスコミの話をされたけれども、建前というか、偽善的な議論がいっぱいあるわけで、環境の話だけじゃないけれども、そういう話はいっぱいあるんですよね。そういう教育や議論を学校とか学会ではしてない。
尾島:そうです、そうです、まったくそうです。
八束:だから技術者の養成をするという名目自体は間違えてないと思うけど、その技術者倫理というのを根底的なとこに立ち返ってやるだけの力が、私を含めて教員の側に充分に涵養されていない。
尾島:だからサイエンス・フォー・ソサエティ、社会のための本当の科学は何なのかとかね、本来あるべき姿、あるべきものとは何なのか、と真面目に考えるような人、そういう分野の研究者を育てなきゃいけないし、関心をもってもらう。それには横に伸びる情報がものすごく必要なんですね。最先端の分野を、かといって最末端の常識も手に入れなきゃだめですね。ですから、今こういう小さな部屋の中にも、最先端から最末端まで、或いは歴史的に縄文の分野から未来まで含めた情報を詰め込んでこなきゃいけないよね。そういう知識を本当に、建築を設計する人たちに、持ってくるための解説者、教材というのは、ものすごく大事だよね、だから教材を10年か20年かに一回抜本見直しをして、勉強しようじゃないかってね。
だから八束先生もそうだけど、僕は大学終わって10年だけど、芝浦の三浦昌生君とか村上公哉君とかもう一回集めてね、また勉強し直してる。というのはね、ものすごく変わってるんですよ、価値観とか、それからその分野で進んだイノベーション、技術を持ってしたときに、これまでこれは安くて、こっちのほうがいいと思ってたのが、完全に変わってるんですよね、もう本当にお金の価値観も1990年代に東京の土地でもってアメリカを買えるような時代は、今考えると信じられないような状況で、空き家がいっぱいあるとかでしょう。僕らが建築界志したのは家が無いからといってね、建てりゃいいって時代の思想と、今はもう粗大ごみはつくらないでくださいって、それだけ環境が変わってる。激変している環境に対して追随しながらですね、しかも都心と田舎とで全く違いますよね、要求性能も。それにあわせて追随していくこと自体が大変なことでね、そういう意味で、設計者は環境をいかに把握して、それを先取りしながら、なおかつ対応していくか、これだけでも、大変なことだと思いますよね。
八束:実際にこういうことをやっていると極めて政治的な話になっていきますよね。価値、環境の価値でもいいんですけど、それをどうやって評価するかというと。例えば田中角栄が列島改造をやった、あれは批判されるべきところはあるにしても、僕は不当に評価が低いといいますか、考えるべき提案だったと思うのですね。さっきの衡平か効率かでいうと彼は衡平にいったわけで、僕は効率=集中派だから方向は逆なんですけど。でも、地方に行くと、老人はいっぱいいるけど、緊急の場合の医療サービスが都会のように受けられない、だから道を引こう、という理屈ですよね、角栄のは。道理には合っている。土建屋とディヴェロッパーだけを潤したという総括はちょっと気の毒と思うのですね。ただし、それ自体はポリティカルにもコレクトなんだけど、この間何かの雑誌に名古屋都市圏の中にも都心部と周辺部でインフラのメンテナンスコストが一桁違うということが書いてあって、名古屋の中ですらそうだとすると、地方に行くとさらに大きく広がってきますよね、そのことを格差の問題とかを引っかけて議論をし出すと、これは極めて政治的な話になる。コストとサーヴィスのバランスを何処でとるのかみたいなことですから。こういう話を工学部の教員の間ではまずしない、ということが本当は問題で、四年間の学部教育の現場でそれをやれるかというと時間が足らないから難しいと思いますけど、学校の間の分業でも構わないと思うし、そういうことをやる高等教育機関というのがないと、どうも枕のないまま各論を技術的な所でだけで議論していくというのは、どこかで道を間違える可能性がある。
尾島:僕が理工学部長になったのは理工学部建築科はダメだよと建築学部にしなきゃいけないということでね、それは建築学会もそうだったんだけど、どうしても建築学部作りたいと、いうことで学部長になったんですよ。理工学部を、理学部・工学部・建築学部に分けましょうということで、学部長の時に150票対50票で完全に3学部に分けることにした。そして3学部に分けることにしたらですね、当然理・工・建に分かれると思ったわけ、ところが若干の連中はね、建築だけで入学試験や就職の面倒をみる労力を何回も取るのは大変だし、理工の方が歴史があって人集めやすいとかね、いいとこどりするとやっぱり理工学部をつけたほうが楽だねと、結局、創造理工とか先進理工とか基幹理工とか3つの理工に分かれたんですが、自立しなかったんだ。
布野:一応今は学部になったんじゃないですか。
尾島:いや、工学院は建築学部作ったけど、早稲田は先進理工学部建築学科。
布野:別の分野も入ってる?
尾島:そうです。土木や機械のロボットと一緒になってる。
布野:完全に文科省の枠組みですか。
尾島:学部長辞めたらすぐそんなふうになっちゃったんだけど、やっぱり建築学というのは理工学部にあっちゃいけない。理工学部に建築学科がつくられた背景は、理学の真理は一つだけど、工学はエンジニアリングだから量産する、と。だから理工学部建築学科のディシプリンは、真理は一つで、それに向けて量産する、理工学部建築学科はそういう仕組みになっちゃうんですよ、その結果日本の建築は北から南までおんなじ形の家やビルが建ち、おんなじ街をつくっちゃった。地域によってふさわしいものをつくるのが本来の建築文化であり、そういう常識が必要であった。認識科学が全てで、認識科学の法則性に基づいて画一的に量産しましょうと、それが理工学部だしね。認識科学が全てであるサイエンス・フォー・サイエンスの分野。ところが建築は設計科学であるべきあるものの探求でサイエンス・フォー・ソサエティである。
布野:設計科学と仰ったんで腑に落ちた。工学系ではどこでもそうですよね。設計がいるっていうのは。内田祥哉先生なんかはそれを東大におられるときには、工学部内で盛んに議論されてらっしゃいましたね、ただ、ほかの学科はそういう方向に動かなかった印象があります。
八束:ヴァリューの問題が入ってくるということですよね。
尾島:そう、価値認識、多様な価値認識のなかで、そのあるべきものを追っかけることで設計をしていくようなね、あるべきものの探求としての設計科学が本来の建築ではないかということでね。そして僕自身の人生が、その時に必要なもの、ソサエティが求めるものを一生懸命やっていただけであって、そういう分野を、もっともっと忠実に対応させるのが建築学科の役目であって、あるべきものというのは所々で全部違うし、要するに真理は一つでも真実は一つじゃなくていっぱいありますと。その中で応えていくのが本来の建築家なのかなと思う。そうすると多様な建築が生まれてくるし。
布野:さっきも言いましたが、戦後、我々が知っている体制ができて、そうしているうちに、専門分化が走り出し、技術的な進展がスピード・アップする中で、原点が見えなくなった。僕はもうリタイアですけど、今我々がどういうフレームで教えていくのか、尾島先生のお話は非常にわかりやすかった。最先端の技術をどうやって纏めていくのか、そういうことですよね、常に。
尾島:様々な要求性能に対応する多様な能力・技術を我々は十分もっているにも関わらず、今の企業・産業界は一律なものをつくってばら撒いているだけだと。それに立ち向かうというのは必要であると思いますよね。
布野:我々もう一回勉強しなおさないといけない。
尾島:布野先生、八束先生にはこれからですよと言いたい、これで終わったなんてとんでもない、大学終わったなんて、これから本当の探求でまだ20年ね、頑張らないと、日本の多様な風土、火山があり地震があり津波があり、原発の危機感をしょってね、この国土の中で我々の生活環境である安全と安心を守るためにはものすごい勉強をし直さないと、その地域地域においてね。それが日本の建築文化であり、いつかは日本の建築文明となり世界文明の一端をと期待しています。
安全と安心
布野:安全・安心の話をしていただけますか。阪神淡路大震災の後ですよね、先生は直後の建築学会会長で、僕まだ京都にいましたけど議論にはずいぶん参加させていただいたんです。
尾島:安全・安心といっても安全と安心は全く違いますということですね。安全は工学部が結構やれるんですよね。安心は違う。安心は一人一人の価値観の問題です。一人一人が安心できるような。これからいちばん大きなテーマで、工学的な安全ということよりも、人が本当に安心できるような環境をいかにつくるか、そのためにはどういう研究が必要かというね、工学というよりもひょっとしたら文系のテーマになるのかも。
八束:価値の問題は必然的に文系の問題を抱え込みますね。例えばさっきの『サステナビリティ』の本なんかを読んでいても、半分位は要するに、経済と環境がどう両立するのかしないのかっていう話になって、そこに哲学的な話から政治的な話まで全部からんでくるんです。経済学といっても、開発経済学とかいうのができて結構いろんな人たちがやっているけど、あれは文系でも理系でもない。相当大規模なシミュレーションをやりながら環境の問題を含めた議論をやりだすことが出来れば素晴らしいとおもうんだけど、先生のお話を伺っていると、ある種レオナルド的な、環境論、環境学に広がっていくっていう感じでそこは凄く面白いですね。
例えば丹下さんが都市工をつくろうとしたときにもそういう発想があったんですね。経済とか文系の流れも入れた学科を作ろうと。ただ結局工学部の枠を超えられなかった。それの足らないところを補うために地域開発センターをつくったんだけど、ああいうものは最初の10年くらいは機能するにしても、しばらくしないうちに、別の方向に行ってしまう。モデルになったはずのハーヴァードとMITのジョイントセンター・フォー・アーバニズムも、そのうちジョイントセンター・フォー・ハウジングかなんかになっちゃう。途上国支援のプログラムならお金を出しましょう、ということで、結局は政府と産業界の期待に添ったはなしになっちゃうんですけど。そういう根底的な、古い言い方をすると「国家百年の大計」みたいなことを議論し続けるのが、今は非常にしづらい環境になっている。
尾島:全くその通りでね。やっぱり、最初はサイエンスの方向へ皆動いていくし。実は今朝、IS研というセコム中央の研究所に行ってね-ISというのはインテリジェント・サイエンスのことで、120人の先端研究者が、映像とかセンサーの研究をやっている-、いまどきISを「インテリジェント・サイエンス」とは読まないで、「イスラム・ステーツ」と若者は考えるよと言って来た。
サイエンスというのも大事だけど、セコムもここまで大企業になって多方面でやってこれだけ儲かって財団の株収入だけで何億も入っている、それの配り先を考えるなら、もうちょっと倫理や制度論を考えなくちゃいけない。なんでISが生まれるの?と。テロのイスラミックとサイエンスのインテリジェント、同じISでも、あっちでは、精神的なものに若者たちが身体と命を投げうってまでね、あそこにまで行くことをどこかで考えないと、今の安心っていう話は出来ない。そうしたら彼らも「いや、実は考えていました」と。じゃあ、もうすこしそういう勉強をしましょう、ということでね。
今の日本が抱えている、本当にこれからの未来の日本を考えたときにね、中国や世界のことを考え、中東のことを考えて…。考えたこと無いですね、日本の若者と我々は。この国土、激しい国土を守っていくためには、自分たち自身のあるべき論みたいなものから議論していかないといけない。とくに建築の分野っていうのは、最先端で最末端だよね。建築家っていうのは常に最先端でやっていくべきだと思うし、また、最末端もまたフォローしなきゃ行けないわけだから。授業の中でもそういうことをやってもらいたいし、やっぱり僕たちはその分野で考えていくべきだと思うしね。そういう話をしかけると、乗ってくるんですよね、みなさん。ですから、八束先生もこれから始まるということで、良いと思いますよ。やらないとね。現職の僕の後任の早稲田の先生なんかを見ていると、忙しすぎるよね。忙しくて心をなくしているわけですよ。だって、明日アメリカで、あさってまたヨーロッパで国際会議のために日帰りするという馬鹿なことをやっているわけでね。しかもお金の出しかたは、そういう形でしか出ていないから、寄り道したら怒られるんだ、とかね。こんなことをやっているわけですね。で、論文はいくつだして、学生にはいくつ出して、とか。これはね、現職の人に任せておくのは可哀想だよね。
布野:若い先生も忙しいですからね。
八束:どんどん忙しくなっていく。僕、大学に11年いたけど、最初と最後では忙しさが全然違いますね。
尾島:僕も今だったら大学務まらなかっただろうな。勝手なこと出来た時代とね、休講が当たり前だった時代なんて、今じゃ有り得ないでしょう。
八束:事務方から、あれだしてください、これだしてください、と言うのをやるわけですよね。その上には文科省が、あれやれ、これやれ、というのがあるから。
布野:私も、休講して当たり前とか、適当にコーヒー飲みながら授業するとか、いう世代です。
尾島:東大はそれで良かったんでしょ。
布野:いや、東大で教えたことないですけど。助手で、設計製図はみましたけど。
八束:いや、公立大学はまだ全然楽よ、私大に比べたら。
バベルと大深度地下
八束:でも私大教員のルサンチマン話やっても仕方ないので、ちょっと軌道修正しましょう。僕の研究室では「Hyper den-City」と称して、今の時流とは逆行するのですが、超高密度都市の研究をしていました。早稲田にも、菊竹ismなのかどうかは分かりませんが、割とそういう傾向があるような気がします。それでしばらく前ですが先生にインタビューさせて頂いて、丹下さんの「東京計画1960」の住居メガストラクチャーは風を通すからいいとかいうお話を聞かせて頂いて、そういう評価もありか、と驚いた記憶があり、そういう研究をしていた私の学生が先生の「バベル」のことを調べたりしていたのですが、その辺のこともお話し頂けますか?
尾島:僕は1000mの超高層ビルを建てるとか10000mのバベルタワーをつくるとか大深度地下をどうしても必要だという話とか、それは建築家がどこまで本当にやるのと。1000mタワーをつくります、昨日もTBSから追っかけられているんですよね、バベルタワーで10000mタワーの模型をつくったんですよね。何のためにあんなものをつくったのかという話で、10000mのバベルタワーをバベルという名前をつけたこと自体は、そんなもの本来はつくってはいけないと、10000mのタワーなんて建築家はつくってはいけないという意味でバベルという名前をつけたんですね。それをつくった模型を、菊竹さんが92年のリオのサミットに持っていって、菊竹さん自身が説明してくれた。92年のリオのサミットの頃日本はバブルで、東京の土地だけでアメリカ全土が買えるという、そういうときがありましたよね。バベルは山手の内側の10kmの中に建物を建てて、そしてテレビのアンテナみたいなものを高さ10000mにすると、その骨格みたいなものの中に3000万人が住むような空間が生まれますという模型をつくった。それで、東京はつくる技術ももってますと。材料も日本は金ももっているからつくれますと。でも首都圏3000万人の人間を10km圏の中に入れたら、骨組みのところの空間に3000万人の住居があって、その次のところにオフィスがあって、その上に工場があってとか、10000mの上空から飛行機を飛ばすのは簡単だからですね、飛行場があってとか。そういう建物をつくる技術は日本は持っていますと、だけどできたらこんなになるんだからとか、これ、やめたほうがいいんじゃないのとか。要するに究極のところを、あの頃は1000mの建物を本当にハイパービルで建築を上げてつくろうとしたのですね。学会も含めて、200人くらいの。1000mビルをつくるための知識を日本はもっていたから、ドバイの建物も日本の技術が大量に使われてできた。今でも1000mのビルをつくれる技術はあるのだけれども、でもそれいくところまで行ったら、やめたほうがいいですよと。もっといい知恵があるんじゃないですかという意味で。
上に高くなると今度は下に必要なんですよね。だから20世紀を考えると本当に20世紀初頭に3mの建物が10m、30m、100m、300m、21世紀には1000m、3000m、10000mと、半対数で30年ごとに一桁ずつ上がっていく。21世紀は10000m行きますと。上のほうに上がっていくと、下には必ずインフラが必要です。3mだと30cm、10mだと1mとかね。1/10が地下に、根っこではないけれど、そこから水とかエネルギーとか或いは交通とか、そういうものの供給がないと、地下系がないと地上が生きてこない。だから大深度地下も大深度の深いところに居住環境をつくろうと馬鹿なことを言っているのではなくて、1000mの生活空間をつくろうとすると、100mの地下にインフラとか交通とかエネルギーとか水を蓄え供給しないと上の空間が維持できませんということで、だから大深度地下は、超高層建築とバランスしている。上と下はこうなりますと言っているだけ。それから空中高くやろうとすれば、地下をどうしてもつくらなければならない。しかし地下は居住空間ではなくて、インフラ系で埋まります。住むなら空中じゃないと。というのはやはり太陽のある空間につくった居室は、地下につくる居室に比べて環境工学的にはものすごく安上がりです。空中にある居室と地下にある居室は、光から空気からエネルギーからいろいろなものを計算すると10倍くらい安上がりです、維持費として。
地下系はインフラで、地下鉄、電力、ガス、通信、上下水道、冷温水もそうだし、連続してやっぱり地下系で供給するほうが地上でのたうち回る配管より、地下に入れてしまったほうがきれいです。だから大深度地下空間は、地上に1000mの建物をつくるならば、地下100mくらいのところにインフラをつくらないとダメです。特に東京の安全を考えると、都庁は千代田区から新宿区に移った。阪神でもそうだったけれども、海からのアプローチがないと東京のバックアップはできない。海から物資をもってきて、自衛隊や米軍の援護も海から来ると。自衛隊も災害本部は都庁につくるんですよね。都庁の災害対策本部で、自衛隊がそこに無線機を立てて、東京の支援体制をやるのだけれど、それが千代田区の海の近いところから新宿に来たときに、都庁にそれだけの機能を持ってきたときに、大深度地下で情報系からインフラ系をつくって、海側とつながないと、都庁の機能が維持できない。それで、どうしても大深度地下トンネルをもって、ライフラインをつくり、海側と内陸をつながないとダメですよと。
1997年のちょうど学会長のときにアーキテクト・オブ・ザ・イヤーで、三宅さんにそそのかされて、大模型をつくった。要するに環七周辺の木密地がどんどん燃えていって、都庁が孤立し、自衛隊が朝霞から救護に来るときに環七で止まってしまうんですよ。誰が本当に道路を啓開するのかという話が今でも生きている。
布野:首相官邸と朝霞の自衛隊駐屯地はつながっているんじゃないですか。
尾島:いや、まったくつながっていない。
八束:あれは、たぶん都市伝説ですよ。
尾島:まったくつながっていません。地下鉄十二号線の活用も話題になりますが、特別な訓練や仕掛けはされていません。
布野:10000mバベルの塔、そんなのありえないとおっしゃったんですか。ちょっと新鮮。
尾島:10kmの高さのものはできますと、しかしそのための維持費を計算すると…
布野:ありえる、という意味ですね。大深度地下派だったんですか、当時は。
尾島:大深度地下も、色々なことに利用出来れば維持できませんと。あれから20年、その当時自衛隊に差し上げた資料を今でも自衛隊は使っている。僕は先月、自衛隊の朝霞の訓練会場にいったら、中央防災会議の資料をベースに20年前と同じ都市データしか持ってないんですよ。自衛隊に学者は新しい資料を供給していない。東京直下型地震のときに、東京がどうなるかという資料が自衛隊に集まっていない。あのときにつくった模型とか資料を自衛隊に差し上げたんですよ。喜んでもっていってね、未だに使っているとか。
八束:この問題は、オーディエンスの皆さんも共通に抱かれた疑問ではないかと思うのだけれど、対論の四回目に羽藤さんという都市基盤工学の研究者に来てもらっていろいろ議論していたときに、彼は東京はよくできたメガストラクチャーであるというのですね。今はそれをさらにアップグレードしていくにはどうするかという話を今やっているようですけれども、彼は土木なので当然そこで大深度地下の話もやっています。それに対して、特に3.11以降、首都圏機能を分散させろという議論がある。それは10000mの話とは対極にある、正反対なものなわけですね。
私の研究室ではずっと国土計画の研究もやってきましたが、日本の国土計画では、常に効率か衡平か、要するに分散か集中かという話で、常にあっちいったりこっちいったりしているわけです。大きいのと小さいのという二分法のヴァリエーションですけれども、だいたい世論的には衡平のほうが圧倒的に分がいい。だから首都圏分散させろというのは受けいられやすくて、でかいものやろう、集中させろというのには、だいたい反発がある。自民党だって共産党だって集中反対でしょう? 羽藤さんとは、そういう話しに歯止めをかけるような議論をやると僕ら悪役(ヒール)になるよねという話をしていたんです。でも議論としては両方睨んでいく必要があると思う。東京を全部分散させてしまえば、災害の被害を分散させることにはなるけれども、それがもっと大きな社会的、経済的、政治的な問題の上で一番良い解答かどうかという大きな問題が回避されてしまいがちなのではないかと。
先生が、10000mは今のお話だと反面教師であるとお考えのように聞こえるんですけれども、必ずしも反面教師ではなくて、大深度地下の問題を含めて、10000mがベストかどうかはいろいろな観点から検討されなければいけないわけだし、そういうバランスシートがきれいにできて何が一番という答えは出ないかもしれないけれども、そういう議論は、今、どちらかというと最初から避けてしまっている。それは、非常に危険な方向なんじゃないかと思うのですけど、それを言うとだいたい高度成長期の話でしょとなってしまったり、これから日本は人口減少していくんだから、なんでそんな話をするんだよと言われるんだけれども、実際には首都圏はまだ減っていないわけですし…
布野:ちょっと減りだしたんじゃないの。
八束:ちょっとね。あれもたぶん社会的には、減っていくという予想と減ってほしいという予想の両方がある。その辺は微妙な問題だけれど。その辺に関しては先生どうお考えですか。つまり、バベルは完全に反面教師としてお考えでしたか、或いは大深度地下はそういうふうにもちろんこういう条件であればということなのだけれど、本当はそういうふうにしないほうがいいとお考えなのですか。
尾島:いや、それだけの技術はありますよということを言っているだけなんです。そのためのお金とか、本当にやりますかと言ったときに、やらないでしょうと、言っているだけなんです。なぜならば、東京の土地代が、アメリカを買えるだけの価値があるとすれば、そのお金をもし建築に置き換えていったら、それだけのものができてと、ただ言っているだけで、我々はその技術を持っていたとしても、それを本当にそこに使う、そしてそれを使うことによって、生活する人が豊かかどうかということを考えたときに、それをやらないでしょうということを言いたいだけなんです。どれだけのレベルの選択肢があるのかというときに10000mではなくて、本当に1000mですか300mですかというふうになっていくわけです。それだけのことなんです。
八束:そうですね。それはできるだけ低くしてしまって、人間は10mより高い所に住むのは不健康だからという話にはならない。
尾島:僕はやっぱり高いところもあり、低いところもあり多様な選択のかたちがあるんじゃなかということでクラスター構想。新宿やなんか高いところがあってもいいけれど、そうじゃないところは低くあってほしいし、クラスターですよね、連続して高いところがつながると、将棋倒しみたいになってしまうので、髙いところがあったら、周りが緑であれば良い。今の東京はドミノみたいになっている。環七周辺が木密でつながっているから、全部が火の海になって。それを分散する、切れ目を入れていくというね。そういうことをもうちょっと計画的にやれないかと。
八束:切れ目を入れていくためにはやっぱり、部分的に高密度化、或いは高度化が必要だということですよね。僕らが研究室でやっていたモデルに「東京計画2010」という、要するに丹下さんのヴァージョンを50年後に倍の規模に拡大するという計画があります。バベルよりはずっと低いのですが、超・超高層の部分が多いhyper den-Cityなんです。それが本当に望ましい、住みたい環境だとは思わないのですが、僕は安易に限界を設けないで理論的チャレンジしてみることは重要だと考えて、そういうことを「思考実験」と呼んでいます。本が出ているのでここで詳述はしませんが、尾島先生のお仕事も多分に「思考実験」のような気がしています。これに対して、今の設計の学生たちの傾向を見ていると、彼らが嫌いなビルディングタイプが2つあって、ひとつはショッピングセンターで、もうひとつは超高層なんです。翻って彼らが大好きなのが木密なんですね。そういうのを卒業設計でやりたいというのが多い。最初の問題設定でいうと「大」は嫌いで「小」が感覚的に好き。あれはとっても違和感があるんですね、想像力の衰退の現れではないかと。木密にいい点があるのは否定しないけれども、それを若い人が卒計で改めてつくってどうするの、もっと将来を向いてほしいと思うのです。それに対して、先生がいろいろな条件があり得るけれども、それをトータルでまとめていかなければならない、早稲田の尾島研はそういうことで人が集まってくるとおっしゃったわけで。あれは、さすがに早稲田はレベルが高いと思って聞いていたけれど。
尾島:木密地も住まい手にとっては、月島のああいう木密を残したところもあれはあれでひとつのコミュニティがあり、住まい方があるわけで、それはそれで、いいんじゃないのという意味で。
八束:部分的にはね。それはそうだと思います。僕も月島を否定する積もりはありません。
尾島:部分的にはというよりも、多様な価値観、でもそれは連続していくと将棋倒しみたいになってしまう、ドミノが起こりうるので、木密地が連続していくというのが問題であって、ある住まい方としてそういうものもというよりも、それが周りに迷惑をかける。連続的に、それこそ原発じゃないけれど、止めることができない。今の消防力とか今の組織力では止めることができない状況にはしてはいけない。抑止力をもっての許容であるべきだと。環境工学的にはだから、制御できる範囲の中でそれを許すことはいいけれど、自由だけれど、制御できないところまでそういうものを許していいかというと、僕は、それはありえないんじゃないかと。安心安全から。
八束:ただ制御可能性というのも変化し得るわけですね、それはもう環境工学というだけではなくて、防災も入っているし、都市計画も入っているし、建築計画も入っているだろうし、交通工学も入っている。やはりトータルな視座なんですね。
尾島:そう、建築と住まいのあるべき姿は何か、何の分野の学問かというのではなくてね。あるべき姿。
八束:やはり尾島先生に来て頂いただけのことはあったと思います。最近そういう議論がだんだんなされなくなっているような気がするものですから。布野さん、その辺どう思いますか?
地球環境について
布野:地球全体の話をどういう風にお考えですか? 気候変動パネルとか、温暖化問題とか。この間、ずっと世界中で議論しているわけですけど。
尾島:わたしたちの日常生活と地球環境は、密接に関わっている。これほど、日々の環境と地球環境がつながっている時代はないんじゃないですか、本当にね。70億の民が、同じ形で。とくにアジアの目覚ましい発展というんですかね。それがそのまま、本当に地球を蝕む。蝕むというと問題だけどそのまま直結するほどの量をやっているわけで。原単位がちょっと上がるだけで、×70億とかね、環境へのインパクトを考えれば、地球環境がどれくらい痛むかということが、即計算できちゃうんですよね、デジタルに。だからGNP、GDPで、中国が6%、8%の成長率を維持していきます、と言ったら、間違いなくその分だけ地球の大気なり環境がインパクトを受ける。それから、消費量にしてもね、化石燃料の消費量にしても、GNP、GDPに比例するのはCO2の発生量ですよね。そういう意味で、今の気候変動に直結する。
布野:アジア、要するに熱帯地域が30億人増えるという予測なんですけどね。
尾島:熱帯の人たちも冷房を始めるからね。冷房がないと頭が働かないから、ITの作業者は、冷房がないと動かないでしょ。
八束:だけど、シンガポールとか台湾とか、暑いところに行けばいくほど、冷房がキツいんだよな。設定温度18度とかになってますよ。地球環境にという以前に身体に悪い。
尾島:コンピュータも冷房しないと動かないんだよね。
布野:インドネシアに行ってた初期の頃は、「アップルのコンピュータはすぐ壊れる」と言ってました。
尾島:精度のいいやつほどすぐ壊れた、っていう時代ですね。でも、知的生産っていうのはもの凄くエネルギーを使っているんですね。そのもののエネルギーじゃなくって、それを維持するためのエネルギーっていうのは膨大でね。
八束:このサスティナビリティの本を読んでいてちょっとショックだったのは、建築の話が殆ど出てこないのね。車の話とか、IT関係の維持費、維持に伴うエネルギーの問題というのは相当やられているんだけど、建築環境というのはあんまり相手にされていないというので、ちょっとショックを覚えた。
尾島:都市というのはIT工場であってね。
八束:全体としてね。
尾島:そうなんですよ。建築空間のなかにITが入っているわけでね。ITへの電力供給を含めて全部建築の中に入っていて。それは都市の中にあるんですよね。昔は工場というと田舎にあったんですけどね、大気汚染のためとかね。でも今は人間に付随してITがくっついているわけですね。だからそういう意味で、ほとんど、途上国も含めて都市の中にITがあり、そこがガンガンエネルギーを要求していて、という状態だから。それが競争しているわけですよね。だから、インドなんて一番暑いところでITが盛んでね、そういうところがバンバンエネルギーを要求しているわけですよね。そのままCO2発生量に繋がり、途上国だからカウントしませんということになっているんだけど、最近ようやくカウントするようになってきましたよね。それを支える方法って、未だに無いわけでしょ。だから、どこまでいくかっていうのは…
布野:スマホの充電なんていうのは、相当な電力量でしょう。リチウム電池を開発するだけですごい価値があった。
尾島:維持するのにね。そういうものを維持し続けながら、それよりも一桁ずつ上がるくらいの性能をね、世界中で要求して競争し続けているわけでしょう。ネットでもって。クラウドも入り込んでね。そのためのコンピュータのデータセンターを設計すればわかるけれども、データセンターそのものよりも、データセンターが止まったとき、エネルギーが電源喪失したときのバックアップがどうなるか、大変な負荷が必要なんですよね。もっと冷たい、涼しいところにデータセンターを置こうとしていろんなことをやってみたんだけど、やっぱりそうも行かないんですね。エンドユーザーが暑いところに行くから。だから、雪崩をうったように、地球環境へのインパクトは増えていきますよね。そこで、原子力がどうしても必要だということで…
原発の将来
布野:最近出されたご本『日本は世界のまほろば2』を頂いたんですが4、「原発立地周辺」を回られたということですが、紹介頂けますか。
尾島:「まほろばシリーズ」という、僕は全国の都市を811都市のうち620を歩いてね、7冊のシリーズを出版したんですけど。これをまとめて一冊で『日本(やまと)の都市は世界(くに)のまほろば』として出版しました5。3.11の後、津波よりも原発ですよね。14カ所、54基の原発を立地している所へ、この2年間で全部行ったんです。そこの電力会社の専務、常務を呼びだして原発を見せてもらって、今は全部停止していますからね、5km圏、30km圏を歩いたんですよ。もちろん車でだけどね。 で、なぜそんなことをやったかというと、原発はまた再稼働しますよね。それから廃炉にしますよね。それがどうなるのか。原発そのものの安全のために今、2兆とか5兆円とかいう金を投下しているんですよ。でも周辺の住民対策は何もないんですよね。原発守るために最後はベントするわけですね。5km圏の人にすぐ流れていくんだけど、自宅待機しなさいといっても、ガンマ線なんか、自宅をスースー通っていくわけね。だから、原発から逃げられるはずないわけね。東京だって、柏崎原発、浜岡原発、東海原発から250km圏なんだよね。でも東京で、だれも原発対策のための建築を作っていないよね。再稼働に対して本来は、5km圏は自宅待機出来るように、30km圏は自宅から何時間後に逃げて、地域防災計画の原発対策編で、どこが受け皿か…、だけど、誰もそれやっていないんですよ。プラントは本当にお金かけてやっているんだけど、周辺に対しては何にもやっていない。実は石油コンビナートもみんなそうなんですよ。コンビナートは石災法で周辺は地域防災計画という法律でやっているわけ。原発の法律、住民に対する法律を読むと、安全と安心は守られていないんですよ。環境省に三条委員会をつくってね、規制委員会でもって「世界一安全な原発を作ります」といっているけど、5km圏、30km圏に住んでいる人の安心を守る法律はひとつも出来ていない。棄民なんですよ。
布野:避難の話しかしてませんよね。
尾島:あるべきものを考えるとすれば、放射線から守れるようなシェルター的な建築を、5km圏内はちゃんとつくらないとね。あるのは、原発の熱エネルギーをつかった温水プールとか、立派な図書館とか、地域にいろんなものが出来てるんですよ。ところが全部今クローズなんだよ。原発PRのためのショールームがいっぱいあるんだけど、今は全部クローズ。原発が止まっていて維持費が出ないから。これは何か間違っているんじゃないか、建築は。地震にはだいぶ強い建物を造りましたね。燃える方もね、一生懸命やったけど。54基の原発は使用済み燃料というのがそれぞれにあるわけですよ。だから、原発が稼働していなくたって、そこの冷却水が止まれば事件になる。要するにそういうことさえね、知らないよね、みんな。
日本は「まほろば」だと思ったんだけど、原発の立地は、縄文時代に一番栄えたところなんです。一万年前から日本人がこの国土の北の端から南の端まで100万人住んでいて、そのほとんどが原発立地のところなんだよね。なぜならそこは一番、海の幸、山の幸に恵まれたところだったから。原発立地はほとんど国立公園であり、半島であり、昔は津と言われる、魚が捕れて、海の幸、山の幸があるところの、半島の先端。そこが潮の流れがいいから、原発立地には一番良いと。だからそこに行ってみるとね、原発を作るためにいろんな民宿が出来たり、今でも5000人くらい働いているんですよ、止まっていても。原発を維持するために、冷やし続けないと。そこの使用電力の10%は、ポンプで冷却し続けている。だから、今でも、常時、ピークのときの40%、2000~3000人の人たちがいる。その人たちのいろんな施設があって、そして、宿舎もね、素晴らしい宿舎が。水洗便所と、しかも食事がおいしくて、安いところが一杯ありますから。みなさんも原発立地を歩きなさいよ(笑)。
布野:歩こうかな(笑)。
尾島:原発立地に行くことが、地域の人にとってすごく刺激になるし。僕が回ったところは全部、線引いてあります。やることは日本はまだ一杯あって、原発の放射線から守る。東京だってそうですよ、250km圏にありますからね。プリウム(放射能のある雲)が飛んでくるわけですよ。東京でも原発の放射線から守るための建築を作れと。でもだれもやってないよね。そういうことさえ知らないで、環境学と言ったってですね。単なるSOx(硫黄酸化物)とかNOx(窒素酸化物)もさることながら、原発の放射線からも建築はどう守るのかとかね、そういうことも真面目に考えないといけないですね。公共建築は避難所になるわけですね。そして、何分で、何時間で逃げなさい、というのがシミュレーションであるわけですよ。スクリーニングしてね、そういうところを誰も研究していない、建築の人はね。だから少なくとも、行って、そこで議論すると。津波のために22mの壁が、浜岡原発にしてもね。あなたがた原発行くと全部ウェルカムだからね。必死になって案内してくれますからね。反対されるの怖いからね。電話一本でどうぞどうぞ、なんてね。だから今の状況を理解してもらって、避けるわけにはいかなくて。ということで、その、日本はまほろばの土地であるにもかかわらず、そこに54基の原発ね、あと65基まで作ろうとしているけれども、それは全然死んでないからね。これから100年、1000年、1万年、要するに縄文時代から現代までと同じだけの1万年はまだ使用済み燃料を含めて抱えていかなければならない。どこにも持っていけませんよ、六ヶ所村だってね、全部オフリミットだからね。廃炉にするだけで100年、200年かかるんですからね。だからね、建築の人たちも、その場所、その周辺。5km圏はこういうことで、って法律まで出来ていて、逃げ方まで。その人がどこに逃げるかまで、本来はアテンドされているんですよ。島根原発の対策は一番良く出来ている方ですよ。
布野:僕は出身、島根の松江ですけど…
尾島:中国地方で、松江だけが唯一、県庁所在地に原発があるわけですよ。
布野:市内にあるようなものです。鹿島町の体育館のコンペの審査やったんですが、温水プール付きで随分リッチな予算でした。
尾島:そこに、放射能対策はやっていないでしょう? 考えもしなかったでしょう? 5km圏は間違いなくベントしたら危険ですよ、と言ってるわけですね。で、ベントする条件前提で、今は再稼働許しているわけだからね。だったら建築家が対策を考えていないことは異常ですよね。広島は原発の放射線にうるさい。広島に中国電力の本社があるから、地域原発対策編の中で、5km圏30km圏の人々がどこに逃げて、どこに退避するかが決まっていて、中国五県が協力してこの街の人たちが、この場所に逃げますとか訓練まで行って、受け入れ方と逃げる方の協定ができている。そして、訓練までやっている。
布野:まず、防波堤をすごい勢いで建てました。ダンプが渋滞起こすくらいの。
尾島:しかもあの周りは縄文の宝庫だった。
布野:そこまで出ないんですよ。出雲だけど…
尾島:いや、今行ってください。あなたは地元を知らないんだよ。だって島根大学の構内は縄文の遺跡でしょ? むちゃくちゃにあそこは縄文の巣窟なの。
布野:荒神谷とか。
尾島:それは刀剣の古墳時代でしょ? それはせいぜい2000年前なんだよ。島根原発のあたりは1万年前の生活空間がすごく残っている。
布野:勉強します。SOxとかNOxという話がありましたが、中国から大気降下物として水銀が降ってくる問題はいかがですか。
尾島:そりゃ当り前でしょ。中国から黄砂だけじゃなくてものすごい量が飛んでくるんだから、あれはもう30年前から、蘭州の黄砂の中にはSOxとか混じっている。だからそういうこともふくめて、地球、アジアがつながっている。それから一番怖いのは中国の原発だよね。韓国の原発、台湾の原発。そちらの方は日本がいくら安全にしても飛んでくるんだからね。
布野:韓国は26基、これは全部蔚山周辺の日本海側なんですよね。
尾島:原発の調査。日本がやめましたということで、政府がコントロールできないからやめるとかやめますということ。日本原発の規制と現場とは感覚が違う。福島のときはモニタリング・ポストの25機の内の24機まで壊れてしまってつかえなかった。でも未だにそれを使って逃げる場所を決めますとかやっている。要するに政府が言ったとおり逃げてくれないとこまるから。現場に行ったらわかりますよ。現場の人たち、福島の人たちが一番詳しいですよ。放射能の恐れとかね。そんじょそこらの学者よりは、地元住民の方が自分の子供のためだから、真剣に勉強していますからね。福島のお母さんたちの原発に対する学力たるやすごいですよ。だからそういう現場の声を聞きながら、建築家としてどういう避難場所をつくるとか、せめてそういうことしかできない。せいぜい、その場の状況を学ぶことから始める。だから3.11以降に教材を全部書きなおそうと卒業生を集めた勉強会をやっているわけ。いい歳したじい様がやっているわけだからさ。考えてくださいよ。
4. 『日本は世界のまほろば2-原発立地周辺』中央公論新書 2015
5. 『日本は世界のまほろば-消えるもの、残すもの、そして創ること』中央公論新書 2015
質問
八束:一応ここまでとして、会場からご質問を。
古瀬敏(静岡文化芸術大学名誉教授):セコムの話が出たので最後に一つだけお聞きしたいのですが、セコムというのは、日本橋の酒の問屋さんイイダさんという御兄弟が戦争で焼け野原になったときに、耐火建築をつくってと復興のときに耐火建築をみんなつくり始めた。そして、高度成長になって近代建築の高層建築街になっていく。それまでコミュニティのお互いの目が利いていたのだけどそれが利かなくなってきて、そのうちの息子さんの一人が、防犯のベルをお互いにつけたらいいんじゃないかと、自分で考えてつけてください、と起こされた企業なんですね。今日のお話の最初の近代建築が、エネルギーを一緒に使うというところから始めたという話とか、戦争のときに家がないから、もう一度環境を制御する家を考えられたというのは、同じような感じでお話をうかがっていた。彼が偉かったというのは、商人の街ですから、どうやってそれをビジネスモデルにして商売に結び付けるかというのを熱心に考えられたようです。そこでお尋ねしたいのは、今日の話は学識に富んだ、とても素晴らしいお話なんですけどそれを現実の力にしていくのは、何らかのビジネスモデルにしていく作戦といいますか、そういうのが必要かと思うのですが、何かお考えのことありますか?
尾島:セコムの飯田(亮=まこと)さんと30年前くらいにずいぶん話したんですよ。僕はその時、大学の先生嫌でね。辞表を出したんですよ。事務所は実際持っていたしね。実学をやりたかった。でも、飯田さんと議論した時にね。ま、建築はひどいよなと、あんな危ない建物平気でつくってさ、という話から始めてね。もっといい学者、要求をきちんと出せる学者が建築学科にいてくれないと困るよね、おれは実践者で行為をやる、おまえ、しゃべれ、問題を指摘しろ、学者はそれでいい、やれるかどうかは実業者のおれたちの仕事で、おまえは一生懸命、建築の問題点を洗い出してしゃべれよという話をして、それから僕はセコム財団の研究費を配る選考委員になったわけです。僕は今でもやはり学者は研究して提案し続けなければいけないと思う。行為をやれるような実業家はたくさんいる。もうかるからね。問題はやっぱり、何が必要なのか、あるべき姿はどうなのかをクリアーに指摘して、要求条件を出し続ける学者なり、研究者なり、仲間をもっと育てていかないといけない。
古瀬:大学ないし、学会ないし、学の人間は玉を投げ続けろと。受け止める人はいるだろうから探して、次の局面でやることはたくさんあるからと、そういう話かと。
尾島:そうなんです。だから飯田さんとの関係は今でもそういう関係。それでまた、どういう研究者にお金を配ったらいいか。飯田さん、稼ぐのも大変だけど、配るのはもっと大変。本当に考えている人に、ちゃんとしたお金を配れるかどうかは大変だよ。文科省のお金と違って、民間の一生懸命稼いでくれたお金をね。最近は年齢はずして、そして理工系に限っていたのを文系の人にも配ろうという提案をつい先月飯田さんに話した。原発の話は今までタブーだったけど、原発立地を回って見て、そういう分野でも、社会的なことを考えている人にお金を配ってもいいかねという話をしたら、避けては通れない問題だから是非やれよという話になった、そういう話です。
古瀬:わかりました。どうもありがとうございました。
八束:他に、若い人もいらっしゃるけれど。
小幡敏信(本田技研工業):どちらかというと後半の例えばソーラーの話とか環境工学のコンセプトの話しが一番印象に残っているのですが、大震災を受けてから環境が変わってそれに合わせてやっている。本当はやりたいことと建築学とふたつがあるような気がするのですが、私も本当は歴史とか建築のコンセプトについてやりたい。しかし、実際には、お金とか価値観とかどうしても利益だけ追求することが求められる。テクノロジーとか経済学とかが優先。私が教えられてきたのは、ピュアな建築学としての歴史、コンセプト、その受け継がれてきた建築学の理論を受け継いで改めてそれを発表することですね。建築が分化していったものをまとめなければならないということはあたりまえです。ただ、いろいろなものを見て、文学とか経済学とかいろんなことを学ぶ必要がある。本当は建築学科一辺倒にするならあらゆる学問を教える必要があるのではないかと私は思います。建築家は必要な学問だけ、設計するだけ、技術だけ学べばそれで充分だということではいけないと思います。ジャンルにこだわらないで、いろいろな学問を俯瞰して必要なものをセレクトして新しいルールをつくるということですね。学問の総合化、学問のリベラルアーツというのか、そういったやわらかい学問を増やすことによって、建築という狭い枠に収まることなく、いろいろな学問を修業していくことが、新しい建築学としての展望があると考えています。
八束:質問というよりは、ご意見ということですかね。他には?
川島範久(東工大助教 安田研究室):今日のお話の中で、サイエンス・フォー・サイエンスではなくサイエンス・フォー・ソサエティだという話だったと思うんですね。その時に制度設計というのがとても大事だという話になっていたと思うのですが、尾島先生としては、実際に環境政策というのはどうなっていくべきだと考えているのでしょうか。例えば、日本の中でいろんな人々が議論できないのも、ある一定の前提条件ができていない、これは当然やるべきだよねということも整備されていないと、何となく思っているのですが、そういった環境政策に対して尾島先生はどうなっていくべきだと考えていますか?
尾島:排熱が都市をあっためて、最後の公害は熱公害だということで、すべてのエネルギーは熱になりますよね、熱力学の法則で。で、出てくるのはヒートアイランド現象の問題で、『熱くなる大都市』を1975年に書いたんですよね6。それは、1970年に大阪万博で地域冷房をしたのはいいんだけど、その熱はどうなるの、と関西の学者にたたかれたんだよね。その時のインパクト量、人間の生産行為のすべてのインパクト量を考えないといけない。例えば、地表を緑から建物建てて変えたときに、太陽からの熱吸収が違う。これが一次破壊系。そこに化石燃料使ったら二次破壊系。燃やしたら三次破壊系。完全に量化できますよね。すべての熱エネルギーが大気を温めますよね。ということでヒートアイランド問題をずーっと40年続けているんですよ。実は熱公害というのはSOxとかNOxとか大気汚染の方は、フィルターで除去できる。でも、熱エネルギーは除去できないんだよね、どうしても。だから最後の公害は、熱汚染だと思って、それをライフワークにしていた。そこに、原発がでてきた。今までは放射能を考えなくてよかった。原子力の核エネルギーは太陽エネルギーなんだよね。太陽からも放射能はたくさん出ているんですよね。たまたま地球はバリアしているだけで。その太陽のもとの核エネルギーを原発で、地球場で再現して利用している。原始から原子へと言ったのはそういうことなんですよ。その放射能が災いしていて、制御できない放射能が絡んできたので、原子力の放射能をいかに鎮めるのか。それはCO2問題を含めて、ヒートアイランド現象や原子力による放射能汚染をどうバリアするかというと、時間で減衰するのを待つか、空間距離でもってバリアするかどちらかの方法しかない。今、原発は一万年廃棄物、使用済み燃料を含めて原発立地のところで守らなければならない。放射能から我々を守るためには、距離をおくか、一万年は守らなければいけない。その方法はなんなのかというと、原発鎮守の森でも創って、新しい神様を祭るとかそれを守る氏子つくるとかいうことしかない。それほど大きな問題だった。環境汚染で熱汚染をやってきて、僕のライフワーク終わったと思っていたら3.11以降放射能汚染が出てきて、もうちょっと生き、戦わなきゃいけないのかなと思い始めている。
川島:それはつまり、原子力のことはある意味で受け入れたうえで、それに対して、どう立ち向かうのかということですか?
尾島:受け入れたくなくたってやらなきゃいけない。戦争で廃墟になった自分の家をなんとかしないといけなかったのと同じ。僕は原発に賛成しているわけではない。
川島:そうですよね。先ほどの一万メートルタワーと同じですよね? それがいいとか悪とかいう前に、そういったものが…
尾島:そうです。問題に真正面から立ち向かってみないとわからないよね。だって学者って立ち向かってみないと。
布野:キャスビーCASBEEとかそういう評価基準と制度の問題を聞きたかったのではないですか? 村上周三先生がやられている世界の話みたいな。
尾島:僕は、村上先生は尊敬していますよ。ああいう真面目すぎるほどに…、ただあえて言うならば、アカデミックなレベルのところで止めて欲しかったのだけど、行政レベルの基準をつくっているから。彼も本来学者だから、本当は学会基準くらいを環境面でつくって欲しかった。行政基準をやると行き過ぎてしまう。だから、僕から本人にも言っていますが、やはりアカデミックな分野でもっといろいろなことを言ってもらった方がいい。行政基準としていろいろな基準法をつくっていくのは違う面で社会問題もあるんですよね。それはそれとして、今の民度からしたら性善説じゃなくて、性悪説に立って基準をつくらねばという彼の立場もなきにしもあらず。でも、ああいう人がいるから僕は勝手なことをやっていられるとも言えますね。そういう意味では、彼との関係はいい関係で。
八束:毎度もう少し時間が欲しいなというところで終わってしまいますが、今日で一応ワンコース終わったということで、できればそのうち本にしたいという話を布野さんとしています。最終回に尾島先生をお迎えして、予想通りというよりは予想を超えて大きな課題を私と布野さんにまで投げかけられたと思いました。
尾島:それを狙っても来たんです。秀才・奇才を欲しいままにしておられるお二人にもっと頑張れと、いうつもりで来たんです。
八束:発破をかけられてしまいましたね。有り難うございました。
6. 『熱くなる大都市』NHKブックス 1975
(文責:八束はじめ)
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