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2025年11月20日木曜日

メキシコシティ:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日

 メキシコシティ:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日


L10 廃墟の上のエルサレム

メキシコシティMexico City, 連邦区 Distrito Federal,メキシコMexico

 


 東西のシエラ・マドレ山脈と南の横断火山帯に囲われた中央高原の南に横断火山帯に接してメキシコ盆地は位置する。最低部でも海抜2240mであり,かつてはその中央にテスココ湖が水を蓄えていた。中央高原の雨量は少なくなく流れ出す河川のない閉鎖水系をなす。かつてのアステカ帝国の首都テノチティトランがあり,その上に築かれたのがシウダード・デ・メヒコである。

ナトワル語で「石のように硬いサボテン」を意味するテノチティトランの中心には,壁で囲われた300m四方ほどの祭祀広場の中に主神殿,ケツアルコアトル神殿,太陽神殿,ツォンパントリ,球技場他45もの公共建築が建ち並んでいた(図①)。1519年にスペイン人が到来した時点で,その人口は,諸説あるが,2030万人に達していたとされる。テノチティトランは,先スペイン期メソアメリカ最大の都市であり,当時の世界最大級の都市であった。

エルナン・コルテスは、15198月,メキシコ盆地に向けての進軍を開始し,1 521813日に至ってついにメヒコ・テノチティトランを陥落させた。そして,都市の再建が開始されるが、都市計画官に任命されたのはアロンソ・ガルシア・ブラボAlonso Garcia Braboである。テノチティトランの基本的骨格は維持され,中心広場にはカテドラルや副王邸が建設された。まず,プラサ・マヨールの東西南北の各端を延長するかたちで,東西,南北4本の街路が設けられ,その街路に面するかたちで建設が行われた(図②)。東西街路については,さらに南北に街路が設けられ,街区が形成されている(1524)。北側には発展の余地が少なく,1526年に教会が建てられた段階で,ほぼそのかたちができている。ヌエヴァ・エスパーニャ最大のスペイン植民都市となるシウダード・デ・メヒコは,プラサ・マヨールの形状と規模(275ヴァラ×290ヴァラ)は,サント・ドミンゴやハバナとはスケールを異にする。

いくつかの都市図(図③)が残されており、その発展過程を知ることが出来るが、中に、メキシコ・カテドラルを設計した建築家のフアン・ゴメス・デ・トラスモンテJuan Gómez de Trasmonte(c.15801645/47)による都市計画図と透視図(1628年)があり(図③C,D),トラスモンテのいささか誇張した理想のイメージが描かれている。フランシスコ会の修道士フアン・デ・トルクエマダJuan de Torquemadaは,1615年に出版した『インド君主国Monarchia Indiana』の中で「テノチティトランは混乱と悪魔の共和国バビロンであったが,今やもうひとつのエルサレムであり,地域と王国の母である」と書いている。また,シウダード・デ・メヒコをアメリカにおける教会を主導する新たなローマに喩えている。シウダード・デ・メヒコをエルサレムあるいはローマに見立てるイメージは,トラモンテのこの透視図のイメージとともにヨーロッパに伝えられた。そして何よりもアメリカのエルサレムあるいはローマというのは,メキシコに住むクレオールたちに圧倒的に受け入れられていく。

シウダード・デ・メヒコは火山帯に位置する標高5000mを超える山々に囲まれ,流れてくる水は流れ出す川をもたず、テスココ湖はそうした水が貯えられた湖であり,テノチティトランは洪水の恐れが常にあった。そこで,テスココ湖の干拓が1620年から開始され,完全に陸地化されていくことになる。1758年の地図(図③E)には周囲を取り囲むテスココ湖がまだ描かれており,1793年の地図(図③F)によると,湖が消えている。テスココ湖が完陸化されたのは18世紀後半のことである。しかし,軟弱地盤であり,地下水を汲み上げることで地盤沈下も進行していく。20世紀初頭には9mも沈下した場所があるという。

18世紀中頃から新たな鉱脈の発見や鉱山技術の改善によって再び銀ブームとなると,都市は発展を始める。テスココ湖の干陸はその象徴である。征服以降激減してきたインディオ人口は,18世紀になると増加に転じ,18世紀末のシウダード・デ・メヒコの人口は13万人(1793)に達した。

メキシコがスペインから独立(1821年)するのはコルテスがテノチティトランを征服して丁度300年後のことである。その後対外戦争が相次ぎ政権は安定しないが、それを治めたディアスのクーデター(1876)による独裁体制を打倒したのがメキシコ革命(1910年)である。

1940年代以降、政権は安定し、メキシコシティはその首都として発展して行くが、1970年代初頭以降の人口爆発によって、都市問題、住宅問題、とりわけ公害問題に悩むことになる。1985年には大地震に見舞われている。

人口の地方分散政策が1980年代以降一貫して採られてきているが、必ずしも実効があがらない。今や人口2000万を超える世界有数のメガ・シティである。

 

参考文献

布野修司・ヒメネス・ベルデホ,ホアン・ラモン2013)『グリッド都市-スペイン植民都市の起源,形成,変容,転生,京都大学学術出版会

Keith A. Davies(1974)’Tendencias demograficas urbanas durante el siglo XIX en Mexico’, in Edward F. Calnek et al(1974)”Ensayos sobre el desarrollo urbano de Mexico”, Sep Setentas

Early, James(1994)”The Colonial Architecture of Mexico”, Southern Methodist University Press, Dallas

Dym, Jordana (2006) “From sovereign villages to national states  city , state , and federation in Central America , 1759-1839” , University of New Mexico



2025年11月19日水曜日

モントリオール:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日

モントリオール:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日


L02 北米のパリ

モントリオール Montreal,ケベック州 Quebec,カナダ Canada


 モントリオール(モンレアル)は、北米のフランス植民都市を代表する都市であり、今日でも住民の大半はフランス系カナダ人を中心にしたヨーロッパ系である。人口は約170万人、カナダではトロントに次ぐ第二の都市である。モントリオール大都市圏(約352万人)の7割はフランス語を第一言語とし、そのヨーロッパ的な都市景観から「北米のパリ」と称せられる。

フランスの植民地建設の歴史は、1604年の東インド会社設立以前に遡る。そして、東インドより「新大陸」への進出がはるかに先行する。1503年から1505年にかけてブラジルに到達した記録が残されており、ヴェラツァーノがニューファンドランドからフロリダ半島までの北米東海岸を4回にわたって探索している(152428年)。そして、ジャック・カルティエ(14941554)が1534年,1536年,1540年と3回、イロコイ族が居住する今日のカナダの東海岸に到達、ヌーヴェル・フランスと名づける。しかし、カルティエは入植には失敗する。

本格的な植民が開始されるのは1603年であり、サミュエル・ド・シャンブラン(15671635)によって、太平洋に面するポート・ロイヤル(1604)、セントローレンス川の河口に近いケベック(16081763)に続いて、モントリオールに拠点が設けられることになる。

セントローレンス川を遡り、オタワ川が合流する地点にある小さな川中島にポール・ド・ショメディ・メゾンヌーブに率いられた一団が入植し、ヴィル・マリー(マリアの街)という名の開拓地を建設したのがモントリオールの起源である(1642)建設当初の図が残されているが、小さな広場のまわりに要塞、教会、そして北米最初の病院とともに複数の住居が描かれている(図1)。

ヴィル・マリーは毛皮取引の中心として、また、フランス人探検家たちの拠点として発展し、1665年までに居住者は約500人、1680年には約1400人に達している。そして、ヌーヴェル・フランスがイギリス軍に占領されてイギリス領となる1760年頃には8000人以上が居住する都市となった。

当時の都市図(図2)が残されているが、初期のフランス植民都市と比較するとケベックやルイスブルグ(図3)とは極めて対照的である。すなわち、ケベックはヨーロッパの中世都市の伝統、ルイスバーグはルネサンス都市の計画に基づくのに対して、地形に限定された線状の形態をしている。セントルイス(ミズーリ)、モビール(アラバマ)もよく似ており、ニュー・オリンズ(ルイジアナ)も同様である。モントリオールは、ニュー・オリンズで完成される北米におけるフランス植民都市の原型である。

イギリス植民地下のモントリオールは、1832年に市となり、島の南西部とサン・ルイス湖への港を結ぶラシーヌ運河の開削によって発展し、英領カナダ合同州の首都(18441849)となる。1860年代には、北米イギリス最大の都市であり、カナダの経済的、文化的中心となる。そして、19世紀から20世紀にかけて、英国系移民が数多く流入し、発展する。2つのカナダ横断鉄道路線がモントリオールを通り、モントリオールは経済的にカナダで最も重要な都市となるのである。

 今日のモントリオールに残されている歴史的な建築物はヴィクトリア朝時代のものが多い。すなわち、一方で、英国的な雰囲気もモントリオールには残されている。ノートルダム聖堂が建設されたのは1672年であるが、現在の聖堂はアイルランド系アメリカ人のプロテスタントでニューヨーク出身のゴシック・リヴァイバルの提唱者ジェームズ・オドネルが設計したものである。聖堂の内陣の建築が終了したのは1830であり、最初の塔が完成したのは1843である。当時、聖堂は北米で最大であった。

世界恐慌は、モントリオールに大きな打撃を与えるが、1930年代半ばには回復し、超高層ビルが次々に建てられた。第二次世界大戦後、1950年代前半には人口は100万人を超える。1950年代には、新たな地下鉄システムが整備され、モントリオール港は拡大された。また、セントローレンス水路が開削されている。

 モントリオールの国際的な地位は1967年の世界博覧会と夏季オリンピックの開催で確固たるものとなる。大リーグ野球MJPのチーム・エクスポスは、1969年~2004年、モントリオールを本拠地とした。モントリオールは、1980年頃まではカナダ最大の都市であった。トロントにその地位を譲ることになったのは、1970年代におけるケベック・ナショナリズムの高まりによる。1883年に周辺町村を合併した際、フランス語を公用語に戻した経緯もある(~1918年)。歴史的に経済、金融などは英語ベースで行われてきたのであるが、フランス語を単一公用語とする措置をとったことから、主要な企業の本社がトロントへ移転することになるのである。

とはいえ、モントリオールは、フランス語圏においては、パリ、キンシャサにつぐ第3の都市であり、カナダを代表する都市としてその歴史を誇っている。

【参考文献】

John W. Reps, “The Making of Urban America A History of City Planning in the United States”, Princeton University Press, 1965

布野修司編(2008)『近代世界システムと植民都市』京都大学学術出版会

1 モントリオール1644John W. Reps1965))

2 モントリオール2005John W. Reps1965

3 ルイスバーグ1764John W. Reps1965

 

 


2025年11月18日火曜日

蘇州:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日

 蘇州:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日


J09 水網都市

蘇州 Suzhou,江蘇省 Jiangsu,中国 China

  蘇州は古くから長江の南側にあり、長江デルタの中心部、太湖の東岸に位置する。江南の主要都市として栄えてきて、春秋時代に呉の都が置かれた。呉闔閭元(紀元前514)年、呉国筆頭家臣の伍子胥は元の都城を改築し、今の蘇州の原型である闔閭大城を建設された。都城は「郭城、大城、宮城」の三重城の配置を使い、宮城は中心から少し東南方向の場所に建設された。大城は八つの水陸城門を配置し、街と川が城門を通って、城外と繋がる。計画について。都城も機能によって、町を配置することを考えた。城内は官署を建てて、呉市と多種類の工房を建設された。その時、蘇州は呉国の政治と経済の中心にとして、存在している。紀元前221年(221BC)に始皇帝を中国統一して、秦漢六朝時期に入った。この時期で中国の中心は西の漢中地区に移動し、都城の蘇州は会稽郡となった。そして、人口は減少になり、経済の発展が低速状態になった。当時の会稽郡の都市構造は元の空間と位置をそのまま使って、建設は主に官署の再建設と改築を行わった。その中に漢王朝の諸侯王劉賈は諸侯国の都城が蘇州に配置し、諸侯国と地方二つの官署を収容するために、子城の隣にもう一つの小城を建設され、「定錯城」と呼ばれた。そして、元の呉市から、東市と西市となり、専門的な商業地区を配置された。まだ、道教仏教の繁栄によって、大量の宗教建築を建てられ、今蘇州残している塔はほぼ六朝時代に建てられたものである。個人庭園の建設もその時期から始め、その後、有名な蘇州園林の基礎となった。紀元581(581AD)王朝が中国を再統一して、隋唐五代十国時代に入った。その時期で、紀元591(591AD)軍事の原因で、蘇州西南の横山に城を引越して、まだ、35年後の唐武9年(626AD)にまだ元の場所に戻った。この引越は蘇州歴史の中に唯一の引越である。紀元610(610AD)隋大業3年京杭大運河の開通によって、蘇州は江南の水運中心となった。都市全体は城内に水路が脈絡と河道が骨架の水陸両立の双碁盤式になった。古城中心の子城はまだ全城の中心にして、町は坊市制を継続して、東市と西市の

.1 唐王朝時代の蘇州(城市空間:形態、類型与意義 陳泳 2006年)

他に城門の辺りにも商業活動が初めった。そして、城内の水路網骨架の形成によって、蘇州の水城景観が形成した(.1紀元922(922AD)軍事防衛のため、城壁は前の土塁と土塀から磚製城壁に改築せれ、古城の保存に対して、重要な影響を与えた。紀元960(960AD) 宋王朝を建立し、蘇州の名前が「平江」となった。宋の蘇州は唐の経済開発の上に発展し継き、城壁は不規則な長方形となり、子城が中心とする。東南に行政区域を配置し、北西に商業区域とする。南部が園林区域と倉庫区域にして、西南が教育区域となった。そして、蘇州の水路脈絡と河道骨架の水陸両立の双碁盤式都市計画は宋の時期でもっと順調に発展した。町は坊市制から坊巷制に変更し、都市の商業網が形成した.2紀元1271(1271AD) 宋王朝の代わりに

.2 宋王朝時代の蘇州(城市空間:形態、類型与意義 陳泳 2006年)

元王朝を建てられ、元明清時期には、戦争によって、城壁が何回の改修をされて、今残しているのは清王朝時代のものである。古城中心にある子城が戦争で壊され、再築されなかった。まだ、明成化年以降、蘇州商業が高速で発展によって、蘇州の商業区域は城壁を超えて、北西の虎丘辺りに拡張した。そして、経済の成長と共に、都市の園林化も始め、最後、園林都市を形成された。水路も整理して、景観だけじゃなく、水質の管理も初め、中国最初の水質管理法が作られた。町にも的な交通網を形成され、これで完全版の園林都市蘇州の形を完成した。

【参考文献】

陳泳(2006)『城市空間:形態、類型与意義』東南大学出版社

中国古建築叢書ー江蘇古建築 雍振華 2015 中国建築工業出版社


 

















2025年11月17日月曜日

承徳:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日

承徳:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日


J05 熱河避暑山荘―五族協和の陪都

承徳Chengde,河北省Hebei Province,中華人民共和国People's Republic of China

承徳は、北京の北東約350Kmに位置する。内モンゴル高原の南端から燕山山脈へ移行する標高13001500mの山地にあって、年間平均気温は摂氏15.6度の温暖な気候にある。今日の承徳の起源となるのは、清朝第3代皇帝康熙帝による、1703 (康熙42)年に開始された熱河行宮(避暑山荘)の造営である。

清朝の太祖ヌルハチが満州国を樹立するのは1588年であり、第3代順治帝が入関、北京へ遷都する以前に都としたのは盛京であり、遷都以降は陪都として整備される。外城を建設したのは第4代康熙帝であり、宮殿群を整備したのは第6代乾隆帝である。ただ、いずれも60年に及ぶ在位のうち、盛京へ東巡したのは、康熙帝は3度、乾隆帝は4度にすぎない。

頻繁に利用したのは「避暑山荘」と呼んだ承徳である。この後承徳は清朝の夏の宮殿として陪都的な役割を持つようになる。

 承徳の建設は、康熙帝および乾隆帝によって1703年から1792年にかけて建設された。康熙帝は、「朕は万里の長城は築かない。民族融和を実現し、万里の長城を無用物にする」と言い、「避暑山荘」の周囲に、多くの廟や寺院の建設を開始される。周囲に様々な多民族を住まわせることで民族融和の都を建設しようとしたとされる。乾隆帝によって拡充されたのが現在の承徳で、「避暑山荘」は中国に現在残っている宮廷庭園のなかで最大のものである(図1)。

 乾隆帝は、満族・蒙古族・チベット族・回族・ウィグル族などの壮大な寺院を次々と建立する。「外八廟」と呼ばれるその寺院群は、普陀宗乗之廟、溥仁寺、溥善寺、普寧寺、普楽寺、安遠廟、普祐寺、広縁寺、須弥山福寿之廟、普陀宗乗之廟、広安寺、羅漢堂、殊像寺など8廟にとどまらない。

 普陀宗乗之廟(図2abc)は乾隆帝の還暦60歳と皇太后80歳を祝賀し、少数民族の王侯貴族を招くために4年をかけて建造されたものである(乾隆3236年(17671771年))。普陀宗乘はポタラの漢訳、モデルとしたのはラサのポタラ宮であり、小ボタラ宮とも呼ばれる。普陀宗乗之廟の白台、山門、碑亭などは山麓に建てられ、大紅台や屋敷は山の頂上に建てられている。建築群は、山門、碑亭、五塔門、瑠璃牌坊など、大小さまざまである。廟内には『普陀宗乘之廟碑記』『土尓扈特全部帰順記』『優恤土尓扈特部衆記』の満州文字、漢字、モンゴル文字、チベット文字による碑文が置かれている。

 「外八廟」は初期に建てられた溥仁寺と溥善寺以外はすべてチベット様式で建てられている。普寧寺は、乾隆帝が承徳に建立した最初の寺院で、別名、大仏寺ともいう(乾隆20年(1755年))。山門、碑、亭、鐘楼、鼓楼、天王殿、大雄宝殿は漢民族様式で、他は、チベットにある三摩耶廟に模して作られている。大乗之閣(図3)は、高さ9メートルの須彌壇の上に建っており、その両側には、18の高さが異なる仏教建築が「曼陀羅」形に配置されている。

 普楽寺は、避暑山荘の東側を流れる武烈河の対岸に建てられ、その中心は、乾隆31年(1766年)に建造された旭光閣である(図4)。円形の形をした旭光閣は、瑠璃瓦の屋根が2つに重なり、先がとがっている。北京の天壇の祈年殿を模して建てられ、「円亭子」とも呼ばれている。

 清末のアロー戦争で、北京が英仏連合軍に占領されると、咸豊帝は避暑山荘に逃亡し、急逝している。戦争は英仏遠征軍司令官と恭親王との間で北京条約が締結されることによって終結するが、清朝は衰退していくことになる。

 承徳は、『周易』の「幹文用誉承以徳也」による命名であるが、温泉が出ることから熱河とも呼ばれてきた。雍正元(1723)年には熱河庁が設置されている。中華民国が成立すると府制廃止に伴い承徳県と改称するが、後には熱河特別区、熱河省が設けられる。1993年には関東軍による熱河侵攻作戦が行われ、承徳は関東軍に占領された。第二次世界大戦後、1956年に熱河省は廃止され、以降、河北省に所属する。

 河北省は、戦後、エネルギー産業、鉄鋼産業が発達し、一方、中国でも重要な綿花と小麦の産地である。華北でも長い海岸線を持ち。交通の便も良い。豊富な鉄鋼資源と石炭加工業が発達し、邯鄲鉄鋼総廠は近代的製鉄所として注目されている。1970年代採掘が始まった華北油田は石油採掘量は天津の大港油田を上回り、華北では最大、全国でも5番目の油田である。

 承徳の「避暑山荘」と「外八廟」は、1994年にユネスコの世界文化遺産に登録されている(図5)。                      (望月雄馬+布野修司)

 

【参考文献(分量外)】

『中華人民共和国分省地図集』地図出版社、197410月第一版

莫邦富『中国ハンドブック』三省堂、1996715日 第一版

五十嵐牧太 『熱河古蹟と西藏藝術』1982年に第一書房で復刻、1936年から4年間の調査記録

『ヘディン探検紀行全集 11 熱河 皇帝の都』 白水社1980年。








2025年11月16日日曜日

広州:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日

 広州:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日

J17 中国世界の海の窓口 西洋と東洋を繋いだ交易都市

広州Guangzhou広東省Guangdong中華人民共和国Peoples Republic of China


珠江の三角州地帯に位置する広州は、古来、海外交易の港市として知られる。

秦代以前の広東は南越(粤)と称したが、秦の始皇帝は、南越を征服(紀元前224年)すると、この地を桂林、南海(広州市近郊)、象(南寧)の三郡に分け、行政地を番禺(広州市近郊)に置いた。

南越と中原との間には武夷山脈が立ちはだかり、物資の運搬・調達や軍の往来に不便なため、広州から灕水、湘水を経て長江に通じ、長江の武漢から伸びる漢水、丹水を北上して長安に達する運河(霊渠)を築く。この霊渠は南方と北方間の貴重な内陸交通路となり、広州の都市発展の基盤となる。始皇帝の死後、趙佗が独立国を宣言し南越城(趙佗城)を築く。後漢になると西域との交易も盛んになり、物資はインド洋を通り越南(ヴェトナム)に上陸したのち番禺に運ばれていた。

 唐朝が崩壊すると、その混乱に乗じて「南漢」が成立する(917年)。その官庁区は現在の財政庁の位置にあり、隋代には刺史署、唐代には都府が置かれていた。大食街(現在の恵福路)以南に主要な商業区があった。現在の紙行路、米市路、白米巷、木排頭、絨線街、梳箆街である。これらの商業区では、米、天秤、丸太、竹細工、紙、絹糸、伝統手工芸品などが取り扱われていた。

唐代にアラブやペルシャの商人が城の西側に寓居の建設を許されると「蕃坊」と呼ばれる居住地が形成される。現在の中山路の南、人民路の東、大徳路の北、開放路の西である。「蕃坊」の居住者の大半はイスラム教徒であった。「蕃坊」にはモスク懐聖寺と光塔(627年)が築かれた (図①)。

宋朝になると外国貿易を管理する市舶司が置かれる(971年)。沿江および西部地区に商業居住区ができ、広州は物産が集積流通する一大拠点となった。広州城は子城(中城)、東城、西城と拡張が繰り返されていった。1044年に拡大建設が始まり、完成するのは1208年である。

元代の広州は、交易港としての地位を継承するが、その繁栄の一部は福建の泉州港に奪われるようになる。

 明朝は海禁政策を採る(1370年)が、寧波、泉州、広州の3港に限って朝貢貿易を許可する。広州には市舶司が置かれ(1403年)「蕃商」が建設される。この「蕃商」は清代の「広東十三夷館」の前身である。 明代の広州城は、北の山麓(現在の越秀山の一部)に城壁を拡大し、宋代の東、中(南城)、西の三城は連接された。これを「旧城」または「老城」という。1564年に、現在の越秀南路から万福路を通り、泰康路、一徳路を経て、西の人民路の太平門にいたる新城が増築される。そして、東の「清水豪」から南の「城南豪畔街」にかけて、外国商船が常時停泊する時代となる。1517年のポルトガルの来航以降、スペイン、オランダ、フランス、イギリスが相次いで中国貿易を求めてくる。解禁が解かれるのは清代の1684年で、広州、漳州、寧波、雲台山(江蘇・浙江・福建・広東にそれぞれ江海関・浙海関・閩海関・粤海関の4港)を開き、広州には現在の文化公園あたりに粤海関(税関)が置かれた。

対外貿易を仕切ったのが「官商」と呼ばれる特許商人で、その商店を「牙行」「官行」などと称した。解禁直後の1686年に、外国商人と十三の行商からなる「十三行」と称される中国特許商人は、広州城の南西に位置する十三行通りの南側、文化公園から珠江までの一帯に外国人商館「広東十三夷館」と十三行舎を建設する(図③)。 広東十三夷館は2階建てで連続長屋の形態をなし、1階が事務所室と倉庫、2階がベランダである住居となっている。当時の東南アジアで流行したバンガロー形式の建物である。

18世紀半ば、乾隆帝は、西洋人の頻繁な来訪を制限するため鎖国令を発布し(1759年)、アヘン戦争が終焉する1847年まで、海外貿易の権利を広州の貿易商のみに与えた。広州はますます特権的な都市となる。

海外交易のための港や商館は、広州城の正門外側すなわち西関に置かれるようになり、西関では徐々に下町が形成されていった。西関は宋代より商業の町として徐々に発展し、海禁政策とともに急激な発達をみせた。19世紀後半になると、もともと湿地であった西関の西部が開拓され、そこで富裕層が豪邸を築き始めた。伝統的な四合院住宅は西関大屋と呼ばれる。

しかし、西欧列強の進出によって広州は激動の時代を迎えることになった。アロー戦争(1856~1860)の際に焼失した夷館に代わって、広州の西側の珠江に面する楕円形の砂州を租借し、租界を建設する。この砂州を沙面という。1852年までは中国最大の輸出港として君臨してきたものの、それ以降は上海や香港にトップの座を譲り渡すことになる。

1911年に中華民国が成立すると、広州都督は城壁を解体して近代道路の建設と既存道路の拡幅を実施するため工務司を置く。城壁解体の土砂や磚石は、道路の路盤として利用し、残った瓦礫は東の東岡一帯、西の広三鉄道の黄沙駅から西村駅にかけての新開拓地の埋め立てに利用した。1938年に日本軍が広州を占領、西堤商業区、海珠工場一帯の民居を破壊し、広州の経済は一時期停滞する。

中華人民共和国が成立すると、第一次五カ年計画(19531957年)でその方針が示され、広州は工業都市に転じて急速に発展を遂げた。1980年になると、造船、機械、電子、化学工業といった重化学工業へ転換がなされる。1985年に「長江三角州」と「閩南三角州」とともに「珠江三角州」が経済特区に指定され、広州は上海に並ぶ一大メトロポリスとなる。

広州には、西関大屋区中心に、西関大屋竹筒屋(図④)、騎楼の3種類の伝統住居が存在してきたが、いずれも大きく変容しつつある

図④

 

 

主要参考文献

河合洋尚『景観人類学の課題 中国広州における都市環境の表象と再生』風響社、2013

田中重光『近代・中国の都市と建築 広州・黄埔・上海・南京・武漢・重慶・台北』相模書房、2005

周霞『広州城市形態演進』中国建築工業出版社、2005

三橋伸夫、小西敏正、黎庶施、本庄宏行『中国広州市騎楼街区における保全的再生策の動向と住民意識』日本建築学会技術報告集 18(39)639-6442012.6

 


布野修司 履歴 2025年1月1日

布野修司 20241101 履歴   住所 東京都小平市上水本町 6 ー 5 - 7 ー 103 本籍 島根県松江市東朝日町 236 ー 14   1949 年 8 月 10 日    島根県出雲市知井宮生まれ   学歴 196...