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2025年8月14日木曜日

「東京:祭師と開発業者たちのパラダイス?」書評石榑督和『戦後東京と闇市 新宿・池袋・渋谷の形成過程と都市組織』鹿島出版会,2016年9月20日布野修司 | 2016/12/13 | 書評,『建築討論』 010号:2016年冬(10月ー12月)

 東京:祭師と開発業者たちのパラダイス?」書評石榑督和『戦後東京と闇市 新宿・池袋・渋谷の形成過程と都市組織』鹿島出版会,2016920布野修司 | 2016/12/13 | 書評,『建築討論』 010号:2016年冬(1012月)


『建築討論』010号  ◎書評 布野修司 

── By 布野修司 |  | 書評, 010号:2016号(10-12月)

 

Book Review

Masakazu, Ishigure

Tokyo Rising from the Postwar Black Markets:Shinjuku, Ikebukro and Shibuya after 1945

 

東京:祭師と開発業者たちのパラダイス?

Tokyo : Paradice of Speculators and Developers?

石榑督和『戦後東京と闇市 新宿・池袋・渋谷の形成過程と都市組織』鹿島出版会、2016920

 

新宿駅、渋谷駅、池袋駅、東京都民ならずとも一度は降りてみたことのある親しいターミナル駅といえるのではないか。評者の場合、18歳で上京して井の頭線沿線に住んだこともあって、毎日のように渋谷の街を歩いた。そして、新宿、池袋にもしばしば足を延ばした。名画座、人生座といった200円程度で見られる映画館があり、週末にはオールナイト5本立てなどという映画館があったから、頻繁に足を運んだのである。1960年代末から70年代にかけて、渋谷、新宿、池袋は、学生の街であった。その後も、京王線沿線、東上線沿線また東横線沿線、すなわち、環七沿線の西東京を居住圏としてきたから、四半世紀前までは池袋、新宿、渋谷の駅周辺はホームグラウンドのようなものであった。いくつもの居酒屋を知っているし、今でも通う店もある。

本書は、新宿、渋谷、池袋のターミナル駅周辺がどのように形成されてきたのか、とりわけ、第二次世界大戦後まもなくの闇市の興亡、その帰趨に焦点を合わせて、その変容過程を明らかにするものである。見慣れた町の知らない成立ちを活き活きと描き出しており、それぞれの街の景観の新たな相貌を発見することになる。そして、今、東京で進行しつつあるプロジェクトの背景を窺ういくつかのヒントを得ることになる。

 

 本書のもとになっているのは、『闇市の形成と土地所有からみる戦後東京の副都心ターミナル近傍の形成過程に関する研究』と題された学位請求論文(2014年、明治大学)である。論文は、(財)住宅総合研究所の第一回博士論文賞を受賞したことが示すように一級の仕事といっていい。丹念な膨大な作業がその論拠をしっかりと裏打ちしている。

 大幅に構成し直したというが、本書は、大きく4章からなる。東京のターミナルの形成を概括した上で(Ⅰ 東京のターミナルの形成と駅前広場)、新宿(Ⅱ 四組のテキ屋が組織した闇市の盛衰 新宿の戦災復興過程)、池袋(Ⅲ 一主体が所有する広大な土地が与えた池袋の戦災復興過程)、渋谷(Ⅳ 地主が開発したマーケットの簇生と変容 渋谷の戦災復興過程)が順に扱われる。

本書の目的、視点、方法、枠組については序章に簡潔にまとめられる(序章 東京のターミナルと闇市)。何故、ターミナル駅なのか、何故、闇市なのか。東京の都市構造は、鉄道ネットワークによって成立しており、日本の大都市圏のように鉄道ネットワークが張りめぐらされた都市はないと著者はいう。確かに、今や日本の全人口の4分の1が集積する世界一の大都市圏域となった日本の首都圏を支える鉄道ネットワークのパターンは世界に類例のないものといっていい。しかし、本書が焦点を当てるのはネットワークそのものではない。ターミナル駅はネットワークの結節点であり、都市のインフラストラクチャーの要である。それ故、ターミナル駅周辺の街の成立ちをテーマにすることは大いに意味がある。ただ、そうであれば比較すべきターミナル駅は世界中に無数にある。著者の関心は、おそらく、闇市の方にある。何故、闇市がわれわれを引きつけるのか。それは、土地の所有と占有をめぐる原初の攻防、都市が形成され、変容していくメカニズム、都市組織の構成原理を見ることができるからである。結章(所有と占有からみる都市史)でまとめられるのはまさに都市計画の基本に関わるそうしたテーマについての議論である。

   

 新宿、池袋、渋谷の戦災復興過程は、各章のタイトルが示すように異なっている。場所に積み重ねられた歴史が異なり、土地所有の形態が異なるから、当然である。

 新宿については、東口、西口の3地区と駅ビル、それに三越周辺、そしてゴールデン街が取り上げられる.新宿の闇市を組織した「尾津組」「野原組」「和田組」「安田組」という4組の「テキ屋」の「暗躍」が活き活きと描かれる。評者のように、1960年代末から歩き回っていた世代にとっては消えた建物、店は少なくないが、中村屋、高野フルーツパーラー、武蔵野館など、現在も場所を特定できるから、その変貌は容易にイメージできる。戦後まもなくの闇市の雰囲気を今でも残すのが、西口の「思い出横丁」であり、三光町の新宿ゴールデン街である。今や外国人観光客が数多く訪れる東京の名所であるが、東口の和田組の「八十八軒部」と呼ばれたマーケットが1951年に集団移転してできたのが新宿ゴールデン街である。新宿のみならず、池袋、渋谷についても戦後闇市の現存状況はそれぞれの章末に表として示されている。

 露天商を組織した「テキ屋」が「暗躍」した渋谷に対して、池袋の場合、東口には敗戦直前に疎開事業で駅前の建物が撤去された広大な交通疎開空地と東武鉄道の社主根津嘉一郎が所有する雑木林(根津山)、西口には豊島師範学校用地があるだけであった。すなわち、民間の土地所有者は一人だけであった。「森田組」の「東口マーケット」など5つのマーケットが成立するが、1948年半ばには解散している。変わって進出したのは「武蔵野デパート」を建設した西部資本である。根津山は露天商たちの移転の受け皿となる。戦災復興土地区画整理事業は、権利関係者が少ない分、新宿よりスムーズに進むことになる。

 渋谷は現在大きく変貌しつつある。戦後最大の大変貌が進行しつつあるといっていい。本書は、センター街の入口を含めて、現在一大再開発が行われている一体を対象とする。

 渋谷の場合、台湾人によって「駅前マーケット」が建設され、「松田組」との抗争にGHQも介入する事態となり、「渋谷華僑襲撃事件」(1946719日)が勃発する。新宿、池袋と異なる事態が進行する。渋谷の闇市の解消過程と戦災復興過程を特徴づけるのは、電鉄、百貨店などの有力資本の主導の一方で、小規模な土地を所有する地主が商店を立ち上げていったことである。

    新宿、池袋、渋谷のそれぞれの場所については、本書によって復元された地籍図と表を片手に歩いてみるといい。街がどのように形成され、変容していくかを具体的に実感することができるだろう。

結章は、それぞれの形成、変容の過程をいくつかに類型化する。

まず、テキ屋主導のマーケット街の形成(類型A)と地建者(地主・借地人)建設のマーケット街形成(類型B)が分けられる。すなわち、不法占拠のかたちで形成されたインフォーマルなマーケットと地権を前提として建設されたフォーマルなマーケットの形成がある。そして、地権者の中でも、鉄道会社や百貨店、大規模店舗などの戦災対応と復興過程(類型C)がある。さらに、公道上に発生した露店群の形成とその解消過程(類型D)がある。いずれの類型についても具体例に即して様々なヴァリエーションが明らかにされる。

結論を一言でいえば、「巨大ターミナルの近傍の形成過程は、時間を経るにつれて経路が増えていくが、戦後復興期に複雑化した空間に対する権利関係を単純化していく過程であった」ということである。

 こう整理してしまうと、身も蓋もないかもしれないが、圧倒的な結論といっていい。単純な権利関係によって整理された街が、われわれが世界中で手にしつつある街である。

さらに、著者はこうもいう。「闇市の整理の裏側で、大資本が土地の取得と戦災復興土地区画整理による集約を行っていたことを見てきた。こうした大資本の勢力伸長を推進するような換地設計が、計画段階でどれほど意図的に行われていたかは、今後さらなる実証的な検証を必要とするが、戦災復興土地区画整理事業を遂行する公権力側にこうした意図があった可能性を示している」。

   

かつて、「アジアの都市変革のディテクター」とは誰か?をめぐるライデンで開かれた国際シンポジウムに招かれ、東京についてしゃべらされたことがある(International IIAS workshop MegaUrbanization in Asia Directors of Urban Change in a Comparative Perspective International Institute for Asian Studies (IIAS) Leiden University Leiden 1214 December 2002 )。一冊の本にまとめられている(Peter J.M. Nas(ed.)“Directors of Urban Change in Asia ”Routledge Advances in AsiaPacific StudiesRoutledge2005)。「果てしない東京プロジェクト:破滅か?それとも再生か:コミュニティ・デザインの時代を目指して」(Never Ending Tokyo Projects Catastrophe? or Rebirth?Towards the Age of Community Design)と題して話したのだけれど、本になった時は「TokyoParadise of Speculators and Builders」という題になった。大都市東京を動かすものは何か?本書が提起するのはそうした大きな問題である。

豊洲問題の背後にあるものは何か、東京オリンピックの施設建設の水面下で蠢くものは何か。著者は、別のところで次のように書いている。

虎ノ門ヒルズの下層を通り、新橋まで延伸された環状2号線は、五輪までに選手村や競技場が建設されることとなる湾岸部を通り豊洲まで延伸されることになっている。すでに湾岸部では超高層マンションの開発が相次いでおり、1980年代からの都の懸案であった湾岸地域の開発が五輪開催決定と環状2号線の延伸、さらに築地市場の豊洲移転などを契機として急激に進展する。

こうした地域の再開発・開発は、交通インフラの整備だけではなく、2002年に施行された都市再生特別措置法に基づく特定都市再生緊急整備地域に指定されていることで、さらに後押しされている。特定都市再生緊急整備地域の特徴は、土地利用規制の緩和に加え、事業者が都市計画を提案できる点にあり、東京では約1,990haを一帯的に指定した東京都心・臨海地域、新宿駅周辺地域(約220ha)、渋谷駅周辺地域(約140ha)、新駅とその周辺の開発が進む品川駅・田町駅周辺地域(約180ha)の4区域が指定されている。こうした地域を中心に、都や国は五輪開催を経済の活性化に役立て、交通インフラの整備と規制緩和を用意し、海外からの投資を呼び込むことで東京を改造し、グローバルな都市間競争において確固たる位置を確立する戦略をたてている。」(「新宿・渋谷・池袋の再開発のいま」『建築討論』004https://www.aij.or.jp/jpn/touron/4gou/jihyou9.html2015年4月)。

半世紀後あるいは100年経った後、著者のような研究者が現れて、以上のような過程を実証的に解き明かすことになるのであろうか。

 

    

 

 本書を読みながら、いくつか思い浮かべたことがある。ひとつは、雛芥子名で書いた「祭師たちの都市戦略--劇場街〈渋谷〉批判-」(『同時代演劇2』マルス、19739月『布野修司建築論集2 都市と劇場 都市計画という幻想』彰国社、1998年)という、渋谷にPARCOが進出、西部劇場がオープンし、NHK放送センター・ホールのこけら落としがあった1973年の文章である。小見出しだけ列挙すれば、「報道のエクリチュール」「企業のエクリチュール」「公園通り(VIVA PARCO)」「闇市―ターミナル―「劇場街」」「<西武>という名の劇場」「イヴェント戦略」である。「都市の記号学」あるいは「都市の現象学」を標榜する都市批評の試みであったが、「闇市―ターミナル―「劇場街」」の項目を掲げている。読み返してみて、本書のような緻密な分析は欠いているけれど、およそ的を突いていたのではないか、と思った。本書の「あとがき」に、著者は、「東京の今と本書の内容はどのように関係するのだろうか」と書いて、「新宿・池袋・新宿などの巨大ターミナル近傍に限っては、もはや再開発を繰り返す場所として割り切るべきだと考える」という。また、「戦後の都市空間を残す場所、資本を投下し開発を繰り返す場所、選択が必要である」という。しかし、問題は誰が選択するのか、誰が割り切るのか、である。

 

 

 評者がもうひとつ読みながら思い浮かべていたのはスラバヤのカンポンである。もう35年以上フィールドにしているのであるが、当初、臨地調査で困惑したのは、土地建物についての権利関係が錯綜して容易に明らかにできないのである。近代的な土地所有関係、権利関係についての近代法はある。しかし、2か月単位の契約とか、固定資産税の納付と絡んで複雑な関係が形成されていた。というのも、カンポンの多くはもともとイリーガルな不法占拠地なのである。農村から職を求めて都会に移住してきて、とにかく住み着いてできたのがカンポンである。カンポン改善事業KIPは、結局、居住権をリーがライズする形で実施されていくのであるが、それを主導したのはカンポンのコミュニティ組織である。道路建設のための立ち退きなどの場合、権利関係を調整できるのはカンポンのコミュニティである。カンポンには共有地(コモンズ)のようなスペースもある。複雑な権利関係は、地上げに対する抑止力ともなっている。大規模な再開発は簡単にはできない仕組みがあるのである。

 闇市は「闇」市である。非合法である。しかし、闇市がなければ生きていくことのできない状況が戦後まもなく出現したのである。「テキ屋」という存在はその歴史を遡って論じなければならないであろうが、闇市を仕切る誰かが必要であり、それが暴利をむさぼる反社会的な社会集団も含まれる「テキ屋」であったということである。都市の発生、市の発生は、諸関係が生存をかけて絡まる中で、まさに起こるのである。そこには、当然、権力と法の成立根拠もある。いささか気になったのは、著者が闇市礼賛、闇市=盛り場論を批判する上で、闇市そしてテキ屋を都市計画の攪乱要因とのみとらえているように思えることである。著者自身も、「巨大ターミナル近傍に限っては、もはや再開発を繰り返す場所として割り切るべきだと考える」といいながら、「思い出横丁はこれまで幾度と無く再開発の計画が持ち上がったが、土地建物の権利関係の複雑さから、ことごとく立ち消えてきた。今後も新宿の遺産として残ることを期待する。」ともいう。例えば、吉祥寺にハモニカ横町に集う建築家たちは、何を考えて、再開発の仕事を手掛けるのであろうか。

 選択が必要というけれど、都市が全てそうであってはいけないのか。そうである、とは「闇市的なるもの」である、というと誤解が多すぎるとすれば、「カンポン的なるもの」である。

 

 

著者

石榑督和(いしぐれ・まさかず)

建築史・都市史、明治大学理工学部建築学科助教。1986年岐阜県生まれ。2014年明治大学大学院理工学研究科博士後期課程修了。博士(工学)2015年に論文「闇市の形成と土地所有からみる新宿東口駅前街区の戦後復興過程」で日本建築学会奨励賞受賞、論文「闇市の形成と土地所有からみる戦後東京の副都心ターミナル近傍の形成過程に関する研究」で住総研第一回博士論文賞を受賞。20142015年明治大学兼任講師、2015年より現職、2016年よりツバメアーキテクツ参画。






2025年8月13日水曜日

建築時評,建築討論002,日本建築学会,201409

  建築時評,建築討論002,日本建築学会,201409

 

 

 「アジアの都市組織の起源、形成、変容、転生に関する総合的研究」(科学研究費助成)と題する研究の一環として中国東北地方を巡った。大連・旅順-瀋陽-集安―長春という行程で、清(大清国)の起源となる都城・盛京と高句麗の都・丸都城、国内城を巡ることを目的とする旅であったが、建築行脚となると、「偽満州国」の建築を見て回ることになる。西澤泰彦著『「満州」都市物語 ハルビン・大連・瀋陽・長春』(河出書房新社、1996年)を携えての旅である。

 大連は19953月以来、ほぼ20年ぶりの再訪である。その変貌ぶりは予想通り激しかった。このところ中国の古都を中心に歩いているのであるが、北京オリンピック、上海万博を開催したこの10年の中国都市の変貌はどこでもドラスティックである。

20年前、大連を訪れたのは、南山地区の住宅の保存改修の調査が目的であった。南山地区は、満鉄社宅地区、共栄住宅地区、そして個人住宅地区の3つからなっていたが、満鉄社宅の特甲住宅が建てられたのは1910年であり先行するが、他は1920年代に開発された住宅地である。調査は容易ではなく苦労したことを思い出したが、多くの住宅に多数の世帯が居住し、とても良好な居住環境とは言えない状況であった。通りには屋台が並んでいたし、道路は舗装されていなかったように思う。今回訪れて、見違えるようであった。風景区に指定されて、保存の措置がとられていた。

ただ、見覚えのある住宅は残っているのであるが、ここだ!という記憶が蘇って来ないのがもどかしかった。周りの環境がすっかり変わってしまっているのである。港近くの旧ロシア人街も観光客向けの店舗が建ち並ぶテーマパーク風の通りにすっかり変貌していた。

大連の中心、中山広場の大連賓館(旧ヤマトホテル)にも寄ってみたが、広場の周りには、かつての雰囲気はない。広場に面したコロニアル建築をさらに2重に高さおよそ2倍のビル群に囲まれる形になっていた。これは瀋陽でも長春でも同じであるが「偽満州国」時代の建物は現代建築群の中に埋もれつつあるのが印象的であった。そして、そうした中でそうしたかつての植民地建築だけを見て歩くことの意味を考えさせられた。

 高層化の流れは留まる気配をみせないようである。大連駅のすぐ近く、かつての日本人町である旧連鎖街に接して、実に垢抜けた超高層ビルが建設中であった。

 大連中心裕景。香港の裕景地産(陳承裁)による不動産開発である。1987年創設という。この間の中国における都市再開発を先導してきたディベロッパーである。さすがの中国建築界もかつての勢いを失いつつあるようであるが、まだまだ余力がありそうである。設計はアメリカのシアトルに本拠を置くNBBJ、構造はOve Arup

NBBJは、Floyd Naramore, William J. Bain, Clifton Brady, and Perry Johanson4人によって1943年創業され、当初は Naramore, Bain, Brady & Johansonと称していたという。今や、ボストン、ニューヨーク、サン・フランシスコ、ロスアンジェルスなどアメリカだけでなく、ロンドン、そして北京と上海に事務所をもつ。そしてインドのプネにも事務所を開設している。唯一、建築設計事務所として世界経済フォーラムのグローバル成長企業に選ばれたという、世界をリードする設計集団のようである。

 60階と80階の2本のタワーが捩れるようにほぼ立ち上がりつつある。足元は既に完成しているが本格オープンは先のようである。中をみることはできない。一大コンプレックスである。完成すれば大連駅周辺は一変するであろう。2層の連棟の商店街、旧連鎖街との対比は際立っている。NBBJ2009年にシンガポールにThe Sail @ Marina Bayという2本ペアの超高層ビルを建てている。今や世界の超高層のニューファッションということであろうか。

 興味深いのは、NBBJが、温室効果ガス排出量50%削減をうたう「建築2030チャレンジ」を受け入れ2030年までにカーボン・ニュートラルを実現すると宣言していることである。アメリカ合衆国でも最もグリーン建築企業のひとつという。残念ながら、その実現の技術的裏づけについての情報は得られなかったのであるが、デザインのインパクトと共に受け入れられる要素をもっているのであろう。

 注目すべきは、プネに既にオフィスを構えていることである。中国の次にインドの建設市場が開く、それを明確にターゲットにしていることは間違いないのである。

 ゴローバリゼーションの先頭をいくファッショナブル・デザインの超高層ビルとその足元に埋もれる歴史的街区、しかも、そのほとんどが植民地遺産である、こうしたコンテクストにおいて、どういう別のオールタナティブがあるのか、議論してみる価値はありそうである。

 

 大連・旅順、そして瀋陽、撫順・集安、長春とめぐって、帰国前に大連で時間がとれたので、大連・南山地区を再び1時間ほど歩くことができた。全体は景観保存地区に指定され、高さ規制はなされているのであるが、もとの満鉄社宅はほとんど残っていない。確認できたのは1棟のみ。全体は再開発で、コロニアル風の建物が並ぶ。日本の建設会社も関わり、2000年に第一期が行われていた。地区の中心にはゲートが設けられ、いわゆるゲーティッドコミュニティとなっていた。こうした住宅地の歴史も議論の素材である。









2025年8月12日火曜日

小泉龍人『都市の起源 古代の先進地域=西アジアを掘る』講談社新書メチエ 2016年3月10日:布野修司 | 2016/05/14 | 書評, 『建築討論』008号:2016年夏(4月ー6月)

 小泉龍人『都市の起源 古代の先進地域=西アジアを掘る』講談社新書メチエ 2016310日:布野修司 | 2016/05/14 |  書評『建築討論』008号:2016年夏(46月)

http://touron.aij.or.jp/2016/05/1744




『建築討論』008号  ◎書評 布野修司 書評008号(2016年夏号(4-6月))

 

── By 布野修司 | 2016/04/05 | 書評, 008号:2016年夏号(4-6月) 

 

小泉龍人『都市の起源 古代の先進地域=西アジアを掘る』講談社新書メチエ、2016310

 

都市や国家はどのようにして生まれたのか、そして、何故、西アジアで「世界最古」の都市が誕生したのか、古来多くの論考が積み重ねられてきているが、本書は、西アジア考古学の最新の成果を踏まえた「都市の起源」論である。前著『都市誕生の考古学』(同成社、2001年)は、西アジア考古学のそれまでの成果を堅実にまとめたアカデミックな諸として評価が高いが、上梓されたのは2001年であり、15年の時が経つ。本書には、その成果も当然盛り込まれているが、新たな知見とともに、都市誕生のシナリオについての新たな提起が含まれている。

これまで世界最古の都市遺跡と考えられてきたのは,パレスティナのエリコ(イェリコ,ジェリコJericho (註1)あるいは小アジアのチャタル・ホユック Çatalhöyük(註2である。しかし,現在では,いずれも集落であって都市ではないとされる。

それでは、そもそも都市とは何か、数多くの住居址など古代の遺構が発見された場合,都市かどうかは一体どう判定されるのか。

本書でも冒頭に引かれるが(序章)、よく知られるのが“アーバン・レボリューションUrban Revolution(都市革命)(註3)を書いた考古学者のG.チャイルドの定義である。G.チャイルドが,発見された遺跡を「都市」とする条件として挙げるのは、次の10項目である。

1.規模(人口集住),

2.居住者の層化(工人,商人,役人,神官,農民),

3.租税(神や君主に献上する生産者),

4.記念建造物,

5.手工業を免除された支配階級,

6.文字(情報記録の体系),

7.実用的科学技術の発展,

8.芸術と芸術家,

9.長距離交易(定期的輸入),

10.専門工人



1 ウルク遺跡

規模が大きいと言っても相対的であり,人口何人以上が都市ということにはならないだろう。G.チャイルドは,分業と階層分化(2.5.8.10)を重視している。租税,文字,長距離交易といった社会経済関係に関わる要素も注目される。多くの議論があるが、評者なりに一般的に大きく整理すれば,Ⅰ.高密度の集住,Ⅱ.分業,階層化と棲み分け,Ⅲ.物資,資本,技術の集中とそのネットワーク化,Ⅳ.権力(政事・祭事・軍事・経済)の中心施設と支配管理道具(文字・文書,法,税,・・・)の存在が都市の本質,基本特性と考えられる。

著者は、「都市計画」「行政機構」「祭祀施設」の3つの存在を、古代西アジアの都市を一般集落や都市的集落(都市的な性格をもつ集落)から区別するための必要十分条件とする。「行政機構」(指導者の館、軍事施設、ドア封泥(部屋の扉を封印する粘土塊)、市場、絵文字的記号など)「祭祀施設」(街の守護神を祀る神殿など)というのは、Ⅳ.権力(政事・祭事・軍事・経済)の中心施設の存在ということである。「都市計画」というのは、都市が定義されないと同義反復であり、計画性ということであれば集落でも計画性のある集落もあるが、具体的には、城壁、目抜き通り、街路、水利施設の存在をいう。特に、都市成立の第一歩として城壁は欠かせない条件である、とする。この城壁の存在という条件は、例えば日本の都市には適用できないが、著者の3要件は、あくまで西アジアに限った要件とする。「都市的集落」とは、3要件の全てをみたさないものをいう。『都市誕生の考古学』では、その点については、より周到に議論されている。


2 ハブーバ・カビーバ南遺跡

エリコは、城壁をもつ。しかし、都市ではないとされる。では、「世界最古」の都市は何か。本書によれば、その最有力候補はウルク遺跡(図1)であり,ハブーバ・カビーラ南遺跡(図2)である。いずれもウルク後期とされる約5300年前の遺跡である。『都市誕生の考古学』では、ウバイド期(紀元前5500年頃~4,000年頃)に集落であったウル(現代名テル・アル・ムカイヤル),ウルク(ワルカ),エリドゥラガシュなどが「都市国家」となるのはウルク期(紀元前4,000年頃~3300年頃)後期のことであるとし、3要件をすべて満たす最古期の都市はハブーバ・カビーラ南としていたが、本書では、ハブーバ・カビーラ南はウルクのコピーとして建設されたとする。すなわち、都市誕生段階で都市と呼べる町はウルクとハブーバ・カビーラ南の2都市しかないという。この間の新たな知見に基づく見解である。

ハブーバ・カビーバ南は、ウルクの北西約900km、ユーフラテス河のはるか上流に位置する(図3)。何故、そうした地に、ウルク同様の都市が建設されたのか。ハブーバ・カビーバ南の周辺には、銀成分の含まれた方鉛鉱の産地があり、銀の開発が絡んでいるというのが著者の推理である。

楔形文字資料に「銀の山」と呼ばれる場所が記されており、それは南東アナトリアのタウルス山脈であったと推測され、ハブーバ・カビーバ南遺跡から銀を抽出する灰吹法の確実な証拠として最古級の工房跡が発掘されているという。すなわち、ハブーバ・カビーバ南は銀を精製し、ウルクへ輸送する中継地であった。

古代西アジアでは、銀の入手と安定的な供給のために、都市が計画的につくられていった、原料入手から製品流通に至るまでの一連の流れは都市になって具現化された、そして、都市誕生後、都市国家が分立する段階で、遠隔地から錫を輸入して、青銅が発明された、青銅の開発には、銀以上に、原料の確保から生産、流通にいたるまで複雑な工程と周到な人的配置が必要であり、組織化された仕組みが必要となる、すなわち、国家権力が必要となる、西アジアの都市の指導者は、銀とともに権力を掌握して、その権力を行使して青銅の武器を開発することになった、というのが本書の大きな見取図であり、興味深い提起である(序章 二つの「世界最古」の都市-神と銀の街)。

西アジアにおける都市誕生について、一般的に考えられてきたのは、灌漑農業との関係である。遠距離交易の成立も都市革命の条件としてG.チャイルドも挙げるところであるが、具体的に、銀の生産、流通に着目して都市誕生の地域連関を提起するのが本書である。

西アジアで農耕が開始(紀元前80007500年頃)されたのは、一帯に野生のムギが生育するレヴァント回廊で、定住的狩猟採集民による低湿地小規模園耕という形態であった。すなわち,レヴァントでは定住が栽培農耕に先行し、この段階ではまだ家畜を伴っていない。低湿地の栽培農耕は,やがて丘陵部の粗放天水農耕へ移行し、大規模な集落が出現するとともに,ヤギ,ヒツジの家畜化された。メソポタミア北部で成立したヤギ,ヒツジ,ウシ,ブタの四大家畜を伴う粗放天水農耕,農耕牧畜の混合農業は,ユーフラテス中・上流域を起点とし,西アジア各地に拡散していく。メソポタミア中・南部の低湿地に農耕牧畜が及んだのは,ザグロス山脈よりやや遅れ,紀元前5500年頃だとされる。年間降水量が200mmに足らない乾燥地域において農耕が成立するためには灌漑技術の確立が不可欠であった。平原・ステップ地域の南部で灌漑農業がまず開始され,シュメールに及ぶ。農耕牧畜の開始は最も遅れるが,農業技術の革新,灌漑農業技術によって,南部地域はメソポタミア全域に対して優位に立つ。これが都市革命の引き金となる。淡水での漁労,採集狩猟に加えて,農業遊牧による穀類の生産,ヒツジ・ヤギ・ブタの飼育によっても豊かな食糧を確保することができるようになったこと,瀝青(アスファルト),石灰岩以外には資源には乏しい地域であったが,鉱物資源を得るためにメソポタミア北部,トルコ,イランなどとの遠距離交易ネットワークを確立したこと,本書が強調するのはこの点であり、着目するのが銀である、灌漑農業そして紡糸,織布のために,分業による労働の組織管理システム,生産物の貯蔵管理システムを発達させたこと,そして,粘土板による文字記録システムを発明したこと,など都市成立の要件が出そろうのである。

本書では、以上を含めて、西アジアにおける農耕の発生と都市誕生のシナリオを前提にしながら、考古学的遺構をもとにして、古代都市の諸相を描き出す。全体は、序章と終章、第一章~第五章からなる。

第一章「川、墓、神殿―自然環境と祭祀儀礼」では、水利、舟運、墓の画一性と鍵なし倉庫にみる平等原理―これについては『都市誕生の考古学』でも強調される、神殿祭祀が記述される。第二章「「よそ者」との共存―街並みの変貌」では、約8000年前の気候変動、地球温暖化によるペルシア湾の海進とそれによる移住に焦点が当てられる。よく知られた事実であるが、この移住、「よそ者」の侵入が都市誕生のひとつの引き金になったというのは本書の強調するところである。第三章「安心と快適さの追求―都市的集落から都市へ」では専ら都市計画、都市形態に焦点が当てられる。これまでは、メソポタミアの諸都市には明快な計画原理はないとされてきたが、ハブーバ・カビーバ南が極めて整然とした構成をしていることが示唆するように、一定の計画性があることは、本書は重ねて強調するところである。第四章「人と人の拡散―「都市化」の拡散」は、都市間の関係、都市のネットワークに焦点が当てられるが、北メソポタミアでは「目の文様」が、南メソポタミアでは「ヘビの文様」が祭祀儀礼のシンボルとして共通にみられる精神世界のネットワークも銅、錫といった資源などの物流システムも合わせて扱われる。第五章「神を頂点とした秩序―都市の「陰」の部分」では、支配-被支配、都市の巨大化、戦争である。

3 メソポタミアの主要遺跡

近接するエジプト文明とインダス文明の比較は随所において行われる。また、都市の起源ということでは、中国、日本も視野におかれている。本書は、以上のようにアカデミックに多くの提起を含んでいるが、都市について多角的に考える様々な手掛かりを与えてくれる。ユニークなのは、都市を「陽」と「陰」の両面から捉えるとしている点である。「陽」とは、都市での暮らしの快適さや便利さ、出会いの刺激などであり、「陰」とは、様々な格差、差別、希薄な人間関係、支配構造などである。ただ、いささか現代都市の抱える問題に引きつけ過ぎという気がしないでもない。第五章に「陰」の側面をまとめるという構成もしっくりこない。その視点が構成にうまくいかされていない印象である。都市が「陰」「陽」を合わせ持つひとつの装置であることは、終章の「都市と権力―国家的な組織による秩序の維持」が示す通りである。

 

1 エリコ,ジェリコ。ヨルダン川西岸地区,死海の北西部に位置する。『旧約聖書』には繰り返し現れ,「棕櫚の町」として知られる。1952に,イギリスのキャスリーン・ケニヨンKathleen Kenyonらによって,遺跡の先土器新石器A期の層(前8350年頃~前7370年頃)から,広さ約4ヘクタール・高さ約4m・厚さ約2mの石の壁で囲まれた集落址が発掘された。初期の町は新石器時代の小規模な定住集落で,メソポタミアの都市文明とはつながらないとされている。

2 アナトリア南部の都市遺構。1958に発見され,19611965にかけてジェームス・メラート James Mellaartによって発掘調査されて,世界的に知られるようになった。最古層は紀元前7500年に遡るとされる。最古の都市遺構ともされたが,メラートは巨大な村落とする。2002年,世界文化遺産に登録された。

3  Childe, V. Gordon (1950) The Urban Revolution, Town Planning Review 21:3-17.

S.F.

 

 

著者

小泉龍人:1964年東京都生まれ。早稲田大学第一文学部卒業、同大学院文学研究科博士課程単位取得満期退学。博士(文学)。早稲田大学、明治大学、日本大学等で講師、国士舘大学イラク古代文化研究所共同研究員。西アジア考古学、比較都市論、古代ワイン。著書に『都市誕生の考古学』(同成社)、訳書に『考古学の歩み』(朝倉書店)など。


2025年8月11日月曜日

いるか設計集団編著『よみがえった茅葺の家』建築ジャーナル 2016年1月31日:布野修司 | 2016/04/01 |『建築討論』 008号:2016年夏(4月ー6月)

書籍紹介 岩本弘光『ジェフリー・バワの建築 スリランカの「アミニズム・モダン」』 彰国社 2016110日/前田昌弘『津波被災と再定住 コミュニティのレジリエンスを支える』京都大学学術出版会 2016229日/応地利明『トンブクトゥ 交界都市の歴史と現在』臨川書店 2016131日/いるか設計集団編著『よみがえった茅葺の家』建築ジャーナル 2016131日:布野修司 | 2016/04/01 |『建築討論』 008号:2016年夏(46月)


『建築討論』008号 201641日刊行  

◎書籍紹介 布野修司 書籍紹介008号(2016年夏号(4-6月))

 

いるか設計集団編著『よみがえった茅葺の家』建築ジャーナル2016131[布野修司1] 

 

神戸市の登録有形文化財第一号に登録されている大前家(神戸市北区道場町)の移築・再生の記録集である。大前家は江戸時代後期に建てられた農家であり,所有者である大前延夫さんは22歳まで,この農家で育った。高速道路の建設に伴い壊すか移転するかを迫られた大前延夫さんは,同じ町内日下部に土地を取得,いるか設計集団に移築・再生を依頼,本書は,その依頼から竣工までの記録集である。

実測調査(第1章 出会い」→基本計画~実施設計(第2章)→解体(第3章 茅葺き民家解体)→工事(第4章 家づくり工事)→移築(移築・再生後の暮らし)という経緯が,豊富な写真,図面とともに振り返られ,記録されている。

移築・再生であって,文化財をそのまま移築ということではない。移築前の住宅は江戸後期に遡る母屋と増築部分(洗面,風呂,トイレ,納戸)からなっていた。その大前家の歴史は,実測調査をもとに,神戸の民家の伝統,地域特性における位置づけとともに明らかにされているが(黒田龍二,佐藤定義),何を移築するのか,ということが,当然テーマになる。基本計画に当たって,大前家の何を引継ぎ,何をどう再生するかが,様々に議論される。その議論は,1.茅葺き屋根を尊重するデザイン,2.お墓のある山への美しい風景を活かしたプランにする,3.週末の農的暮らしの場にするため,畑も引っ越す,4.念仏講,御茶会など人が集まれる家にする,5.街道沿いの町家としての佇まいを残す,6.可能なかぎり古材を再利用する,7.茅葺き棟以外の部分は,現代の建築材料や工法でつくる,という基本計画の指針に集約されるが,言うまでもなく,こうした作業と議論はあらゆる建築の設計において問われることである。地域を読み,敷地を読み,その場を支える集団を考えるのは,いるか集団の基本的方法でもある。このプロジェクトでも,上述の指針を確認した上で,A案~K案が検討されている。現代生活に対応するために,茅葺き棟以外の部分は,現代の建築材料や工法でつくる(7)という方針が敢えて挙げられるが,移築・再生の結果は,草葺き民家+現代的付属屋という新たな建築の提案となっている。一言で言えば,「循環型社会への一つの提案として受け止めていただきたい」(有村桂子「あとがき」)ということである。

興味深いのは,「文化財」としての扱い,である。高速道路建設に伴う移転費用と文化財としての移転費用の問題など,本書には,極めて具体的に経緯が書かれている。概算見積もり,コスト削減,そして施工会社の決定の経緯についても同様である。茅葺き体験会から職人さんたちの仕事ぶりまで,細かく記録される。こうした記録に値する丁寧な仕事が各地域で積み重ねられることを大いに期待したい。S.F.

 

いるか設計集団:代表:有村桂子,吉村雅夫 会長:重村 力:19788Team ZOO 象設計集団神戸アトリエとして発足,19812月いるか設計集団に改名。 脇町立図書館1987年,第12回 吉田五十八賞), アーサヒルズ1993年,日本建築学会 霞が関ビル賞),出石町立弘道小学校1994年,ARCASIA AWARD FOR ARCHITECTURE GOLD PRIZE(第6回アジア建築家会議金賞)),出石町ひぼこホール1997年,日本建築学会作品選奨), 緒方町立緒方中学校2004年,日本建築学会作品選奨),豊岡エコハウス2010年), 城崎国際アートセンター2015年,兵庫県 人間サイズのまちづくり賞)など。

 

布野修司 履歴 2025年1月1日

布野修司 20241101 履歴   住所 東京都小平市上水本町 6 ー 5 - 7 ー 103 本籍 島根県松江市東朝日町 236 ー 14   1949 年 8 月 10 日    島根県出雲市知井宮生まれ   学歴 196...