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2025年5月24日土曜日

インタビュー連載「日中建設交流史を考える」 第9回:布野修司 先生, インタビュアー 、市川紘司、日中建築住宅産業協議会『日中建協news』

 日中建築住宅産業協議会『日中建協news』掲載

インタビュー連載「日中建設交流史を考える」

9回:布野修司 先生

 

2023919

市川紘司

 

質問リスト(順不同)

·     戦後(1949年)生まれである布野先生は、青年時代、中国という国やその文化・社会に対して、どのような印象を持たれていましたか。とくに、10代の頃に起こった文化大革命については、どのような印象を持たれていましたか。

·     戦後日本の多くの学問分野でそうであったように、布野先生の専門領域である建築計画では、西山夘三氏をはじめ、社会主義をめざす新中国にシンパシーをもつ学者が少なからずいらっしゃったと思います。布野先生が受けた建築教育のなかで、新中国および社会主義・共産主義はどのように扱われていたでしょうか。

·     布野先生は1970年代末から東南アジアのフィールドワークを展開されていますが、中国を初めて訪問したのは何時でしょうか。また、その際の動機や印象をお聞かせください。

·     また、その後、大部『大元都市』に結実することになる中国での都市史研究をどのように展開されるようになったのか、そのあらましを教えてください。

·     1990年代なかば、布野先生は戦後日本の建築ジャーナリズムにおいて「アジアはネガティブ・タブーだった」と指摘されています。改めて、戦後日本の建築界におけるアジアおよび中国がどのように論じられてきたのか(/こなかったのか)、あるいはそうした全体的な状況のなかで、印象的なメディアの取り組みや論文があれば、教えてください。

·     布野研究室では数多くのアジア・中国からの留学生を受け入れてきていますが、そうした留学生に対する考えや印象などをお聞かせください。

·     2010年代後半からは、北京工業大学や西安工程大学で客員・特任教授をされています。中国での教育実践の感触はいかがでしょうか。また、中国の建築教育については、どのような印象を持たれていますか。

·     戦後日本は東南〜東アジア諸国に戦後賠償やODAとして建築・土木工事を実施してきました。アジアをフィールドにする研究者として、そのようなプロジェクトとの付き合いなどがあれば、教えてください。

·     1990年代以降、中国でも現代建築が盛り上がっていきますが、布野先生の視点からは、現在に至るまでの中国の同時代の建築(現代建築)はどのように見えていますか。

 

※以上の質問リストにかぎらず、当日はざっくばらんに、布野先生の中国にかんする「すべて」を聞き出せたら、と思っております。どうぞよろしくお願いします。

2025年5月21日水曜日

伊東豊雄はどこへ行く? 書評/伊東豊雄 『日本語の建築 空間にひらがなの流動感を生む』 PHP新書 (2016年11月29日)伊東豊雄はどこへ行く? 2017/02/14 | WEB版『建築討論』, 011号:2017年春(1月ー3月)http://touron.aij.or.jp/2017/02/3548

 『建築討論』011号  ◎書評 布野修司 

── By 布野修司 |  | 書評, 011号:2017年冬号(01-03月)

 

Book Review

伊東豊雄はどこへ行く?

Where Toyoo Ito is going?

伊東豊雄『日本語の建築 空間にひらがなの流動感を生む』PHP新書、20161129

 

 

台中国家歌劇院が10年がかりで竣工した。仙台で開催された第11アジアの建築交流国際シンポジウムISAIAInternational Symposium on Architectural Interchange in Asia)(東北大学、2016920日~23日)の基調講演の中で本人自らの説明を聞いた。現場の大変さを聞いていたのであるが、よくぞ竣工にこぎつけたと思う。この見たことのない傑作は21世紀の名建築として歴史に残ることであろう。

東日本大震災後、被災地に何度も通って「みんなの家」を被災地に建てた。そして、2012年開催の第13ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展に、陸前高田の「みんなの家」を出展、金獅子賞を受けた。そして、プリツカー賞も受賞した(2013年)。さらに、新国立競技場の設計競技については結果的に3度挑戦し敗れた。この間、日本の建築界の中心にいて、その一挙手一投足が注目される建築家が伊東豊雄である。

そんな伊東豊雄が2016年に立て続けに新書を出した。本書と『「建築」で社会を変える』(集英社新書、20169月)である。東日本大震災直後の『あの日からの建築』(集英社新書、201210月)と合わせると、立て続けに3冊の新書が出版されたことになる。いずれも、インタビューをもとに、編集者、企画者がまとめるスタイルである。本書のタイトル、「日本語の建築」「空間にひらがなの流動感を生む」という方向性は必ずしも詳述されるわけではない従って、伊東豊雄のこれまでの『風の変容体』『透層する建築』のような建築論を期待して読むと裏切られるが、この一連の新書から、伊東豊雄がこの間何をどう考えて、何をしてきたのか、建築家としてのある着地点に向かいつつあることを知ることができる。

  

「壁、壁、壁…。前を向いても後ろを振り返っても、右も左も壁ばかり。渡る世間は壁ばかりです。」と本書は書きだされる。壁とは、例えば、巨大な防潮堤で、「安全・安心」の壁が実は「管理」という壁と同義語で、お上が自分の管理責任を問われるときに必ず持ち出されるのが「安全・安心」の壁だという。本書は、プロジェクト毎に出会う「壁」についての物語である。

まず興味深いのは、第一章「新国立劇場三連敗」である。3連敗とは、最初のプロポーザルコンペで負けたこと、また、ザハ案への反対運動の過程で自ら提案した改修案が採用されなかったこと、さらにデザイン・ビルド方式に応募(B案)で敗れたこと、の3連敗である。

新国立競技場をめぐる問題が、建築界で深く受け止めるべき問題を孕んでいることはこの間様々な場所で議論されてきた。このWEB版『建築討論』でもまず「デザイン・ビルド方式の問題」http://touron.aij.or.jp/2016/04/1827、そして「契約方式の問題」http://touron.aij.or.jp/2016/09/2643をめぐって議論がなされている。設計施工の分離を前提とした建築家の基盤が大きく揺らぎ、設計者、施工者、そしてクライアントの関係が複雑に変化し多様化していることが確認される。ただ、建築の契約発注について、また、建築家が果たすべき役割について、必ずしも建築界が一致する方向性は必ずしも見いだせていない。

新国立競技場のコンペについては、歴史的、構造的な問題が露呈しているといっていい。別の場所でじっくり議論したいと思うが、しかしそれにしても、何故、伊東豊雄はデザイン・ビルドのコンペに応募したのか。本書を読んで初めて知ったのであるが、様々な柵(しがらみ)の中で頼み込まれたのではなく(A案一案だけではコンペが成立しないから)、コンペへの応募は伊東豊雄の方からもちかけたのだという。というのも、『あの日からの建築』において、あるいは本書においても、東京(都市)から地方へ、あるいは「新しさ」から「みんなの家」へ、自らの建築家としての方向を大きく転換したと思われているからである。その伊東が、東京のど真ん中の国家的プロジェクトに自ら挑む構図がしっくりこないのである。

伊東豊雄は、自らの案がすぐれていると、公表された点数の問題に絞って疑問を提示するが、新国立競技場のコンペの問題は点数制による評価方法を問う以前にある。コンペのフレームすなわち敷かれたレールがそもそも問題であって、敷かれたルールに乗って戦って負けたということである。結果として、ルールに従って選定しましたというアリバイづくりに参加することになった。「壁」をカムフラージュし、補強する役割である。

結局、何故、3回目の戦いに参加したのかについては、「建築に携わろうと思ったら、大手の組織系事務所に入るしかない」状況の中で「個人の建築家としてどこまでできるのかチャレンジしてみたいと思った「若い人に知ってほしかった」」というだけである。

この間の伊東豊雄の「転向」をめぐっては飯島洋一『「らしい」建築批判』(青土社、2014年)の厳しい批判があり、この書評欄でもとりあげた(「21世紀の資本と未来」https://www.aij.or.jp/jpn/touron/4gou/syohyou001.html)。繰り返しは控えたいが、飯島は、東日本大震災以前と以後の伊東豊雄の「転向」、「自己批判」、すなわち、「個の表現」「作品」としての建築を否定し「社会性」を重視する方向をよしとしながら、その「作品主義」「ブランド建築家」の本質は変わらないと批判する。そして、コンペに参加しながら改修案を提出した伊東の態度も一貫性に欠けると批判する。飯島に言わせれば、白紙撤回後のデザイン・ビルド・コンペに参加することなどもっての他ということであろう。

「仙台メディアテーク」までの伊東豊雄の建築論の展開をめぐっては、『建築少年たちの夢 現代建築水滸伝』(彰国社、2011年)で論じたが(「第三章 かたちの永久革命 伊東豊雄」)、確かに、状況に応じて状況と渡り合うその言説にはブレがある。それに付け加えることはないが、しかしそれにしても、東日本大震災後の「みんなの家」とそれ以前の作品群との間のブレ、落差は、それ以前のブレに比べて極めて大きい。ひたすら「新しいかたち」を求めてきた(「かたちの永久革命」)伊東がコミュニティ・ベースの「みんなの家」を提案するのである。

それに既存施設の改修案を提示しながらデザイン・ビルドの新築案に応募するのは明らかに首尾一貫しない。伊東に言わせれば、条件が違うのだから案が異なるのは当然ということであろうが、飯島ならずとも、戸惑わざるを得ない。

しかも、『あの日からの建築』で語った新たな建築の方向については、結局「みんなの家」しかつくれなかったと伊東豊雄はいう(第二章「管理」と「経済」の高く厚い壁 東日本大震災と「みんなの家」)。この言い方もいささか気になる。「今後、被災各地の復興は困難をきわめるだろう。安全で美しい街が五年十年で実現するとは到底思われない。しかし東京のような近代都市の向こう側に見えてくる未来の街の萌芽は確実にここにある。」と書いていたのである。釜石復興プロジェクトは挫折したという。しかし、一体何をつくりたかったのか。『「建築」で日本を変える』と言うのである。

結局、「管理」と「経済」を大きな二つの壁とする近代主義に凝り固まった思考と態度に拒まれたというけれど、何が阻まれたのか。

その昔、「近代の呪縛に放て」という『建築文化』の連載シリーズ(197577年)のコア・スタッフとして毎月のように集まっていた頃を思い出す。伊東豊雄をトップに,長尾重武[1],富永譲[2],北原理雄[3],八束はじめ[4],布野修司というのがメンバーであった。「近代の呪縛に放て」というのは田尻裕彦[5]編集長の命名であったが,近代建築批判の課題は広く共有されていた。「アルミの家」によってデビューはしていたけれど、その時点で「中野本町の家」はまだ実現はしていない。近代建築批判をどう建築表現として展開するのか、口角泡を飛ばして議論したものである。結局、振出しに戻ったということなのか?出発点にとどまっているだけなのか、何ができて何ができなかったのか。

伊東豊雄は、第三章「「時代」から「場所」へ」で、これまでの自らの軌跡を素直に振り返っている。「社会に背をむけた1970年代」から「消費の海に浸らずして新しい建築はない」といっていた時代へ、そして、「八代博物館・未来の森ミュージアム」以降、公共建築の展開がある。建築家として自作を語るというより、時代の流れとの対応が語られる。インタビュアーとの応答がベースになっているからであるが、もともと伊東豊雄は「状況」に敏感な建築家である。自ら振り返って、はっきりと「バブルの時代の東京が一番好きでした」ともいっている。そして「仙台メディアテーク」以降は、地域や場所に密着した建築を強く意識するようになるのである。

1970年代初頭、近代建築批判の流れはいくつかの方向に向かう。わかりやすいのは、近代建築の理念や規範が排除してきたもの、否定してきたものを復権することである。装飾や様式、自然やエコロジー、ヴァナキュラーなものやポップなもの、廃棄物やキッチュ、地域や伝統などが次々と対置された。そして、それぞれがデザインの問題と競われることにおいてポストモダンの建築として一括されることになる。様々な記号やイコンや装飾が浮遊するポストモダンの建築状況は、あらゆる差異が無差異化され同一平面上に並べられることによって消費される消費社会の神話の構造と照応していた。そうした中で、常に何か新しさを求めてきたのが伊東豊雄である。だから、装飾や様式、自然やエコロジー、ヴァナキュラーなものやポップなもの、廃棄物やキッチュ、地域や伝統を対置する構えはなかった。その伊東が「地域」や「場所」へ向かうというのである。

 鍵となりそうなのが「日本語の建築」であり、「ひらがなの流動感」だという。もちろん、「日本の伝統的な建築様式に戻ればいいと考えているわけではない」。「歴史や風土を踏まえたうえで、現代のテクノロジーを駆使して未来を見据えた建築のあり様をみつけ出したい」「アジアの建築家として、日本人の建築家として、一つ見えてくる道筋の先に、「日本語の空間」「日本語の建築」というあり方が存在するのではないかと考えるようになった」(序章)というのである。

「日本語の建築」というのは本書で突き詰められているわけではない。枕としてひかれているのは水村美苗『日本語が亡びるとき 英語の世紀の中で』(筑摩書房、2008年)である。これについては、「建築討論」02号「日本建築の滅びる時」宇野求・布野修司対談https://www.aij.or.jp/jpn/touron/2gou/jihyou003.html で話題にしている)が、世界語、国際語としての英語と日本語、近代建築と日本建築という単純なディコトミーに基づいて日本を対置するというのだとすれば、よくある日本回帰のパターンである。辛うじて理解するのは、「壁」によって空間を区切ってしまうのではなく、空間の連続性を保ちながら、空間に場所の違いを生み出す、壁を建てない、区切られた部屋を極力つくらない、自然の中にいるような建築、具体的には「せんだいメディアテーク」の「チューブ」や「みんなの森ぎふメディアコスモス」の「グルーブ」、振り返れば「中野本町の家」のような空間がその方向だという。


 建築の壁と「渡る世間は壁ばかり」という「壁」はもちろん違う。壁を取っ払えばいい、というわけではないだろう。近代建築批判が単にデザインの問題ではないことは最初からわかりきったことである。この「日本語の建築」は社会的な「壁」の問題にどう重なるのか。

 『「建築」で日本を変える』のあとがきに書かれているけれど、伊東豊雄は、2014年の秋から4カ月間病院生活を送っている[6]。この4カ月の膨大な時間にこれまでにつくってきた建築のこと、そしてこれからの自分の人生の過ごし方について考えたのだという。

 結局は、自らの生き方として示すしかない、ということではないか。「作品」とか「個」の表現とかを突き抜けた地平で、依拠する場所を決めたということである。そうだとすれば、伊東豊雄は変わった、あるいは着地点を見出したのである。

 最終的に行きつきつつあるのは大三島である。残された建築人生を大三島での活動に懸けたいという。伊東建築塾も大三島で行われる。大三島には土地も買った。ル・コルビュジェが晩年、モナコ近くの海辺に小屋を建て、のんびり裸で絵をかきながら過ごしたというエピソードにわが身も重ねるともいう。

 そうした中で、熊本大地震が起こった(20164月)。熊本アートポリスのコミッショナーとしては動かざるを得ない。大三島を拠点としながらもまだまだ世界中を股にかけざるを得ないかもしれない。

 しかしそれにしても、伊東豊雄のように「壁」と格闘する建築家が群雄割拠しないといけないのではないか。



[1] 1944年東京都生まれ。東京大学工学部建築学科卒業,東京大学大学院博士課程単位取得満期退学,工学博士(東京大学)。7283年東京大学助手。7778年イタリア政府給費留学生としてローマ大学に留学。'8388年東北工業大学助教授。武蔵野美術大学教授,学長。作品に「国分寺の家」(1976年)「天日向家船」(1996年)など。著書に『ミケランジェロのローマ』(1988年)『ローマ・バロックの劇場都市』(1993年)『建築家レオナルド・ダ・ヴィンチ』(1994年)『ローマイメージの中の永遠の都』(1997年)など。詩集に『きみといた朝』(2000年)『四季・四時』(2002年)『愛にかんする季節のソネット』(2002年)。

[2] 1943 台北市生まれ。東京大学工学部建築学科卒業。1967年~1972菊竹清訓建築設計事務所。1972年富永讓+フォルムシステム設計研究所設立。法政大学名誉教授。「ひらたタウンセンター」で日本建築学会賞(2003年)。著作に『現代建築 空間と方法』(1986年)『近代建築の空間再読』(1986年)『ル・コルビュジエ 建築の詩』(2003年)『現代建築解体新書』(2007年)など。

[3] 1947年横浜生まれ。1970年東京大学工学部都市工学科卒業。1977年東京大学大学院工学系研究科博士課程修了。名古屋大学工学部助手,三重大学工学部助教授を経て1990年千葉大学工学部教授。千葉大学名誉教授。『都市設計』(「新建築学大系」一七,共著,彰国社,1983年)『公共空間の活用と賑わいまちづくり』(共著,学芸出版社,2007年)など。訳書に『アーバン・ゲーム』(M.ケンツレン),『都市の景観』(G.カレン)など。

[4] 1948年山形県生まれ。建築家、建築批評家。1979年東京大学都市工学科博士課程中退,磯崎新アトリエ(担当作品ロスアンゼルス現代美術館,筑波センタービル等)を経て1985UPM(Urban Project Machine)設立。1988年熊本アートポリスのディクレクター。芝浦工業大学教授、芝浦工業大学名誉教授。作品に「白石マルチメディアセンターアテネ」(1997年)「美里町文化交流センター「ひびき」」(2002年)など。著作に『逃走するバベル 建築・革命・消費』(1982年)『批評としての建築 現代建築の読みかた』(1985年)『近代建築のアポリア 転向建築論序説』(1986年)『ロシア・アヴァンギャルド建築』(1993年)『思想としての日本近代建築』(2005年)など。

[5] 1931年生まれ。早稲田大学文学部卒業。建築ジャーナリスト。1960年彰国社入社。『建築文化』編集担当,『施工』創刊編集長を経て,1970年『建築文化』編集長(企画室長の任期を挟んで82年まで)。著書に『この先の建築』『建築の向こう側』(2003年)など。

[6] 実は、丁度その期間に滋賀県新生美術館のコンペがあり、伊東さんが選考委員会に一度も出席できず、僕は審査委員長として2段階の公開ヒヤリング方式を実現するのに孤軍奮闘することになった。この公開ヒヤリングによるコンペ方式を僕は20年前から続けているのだが、新国立競技場も何故透明性の高いコンペ方式がとられなかったのか、その組み立てにそもそも疑念がある。点数制の問題も新生美術館でも当然問題になった。

2025年5月19日月曜日

うさんくさい呪文,日経アーキテクチャー,日経BP社,1995

うさんくさい呪文,日経アーキテクチャー,日経BP社,1995

環境共生住宅 うさんくさい呪文

布野修司

 

 「環境共生」という言葉を随分耳にするようになった。というか、猫も杓子も「環境共生」という時代である。「持続的発展」という言葉もそうだ。「地球環境問題」が強迫観念となる中で、このふたつの言葉はなにかお呪(まじな)いのように唱えられつつある。

 建築、都市計画の分野も例外ではない。エコ・ハウス、エコ・シティといった言葉が頻繁に唱えられる。しかし、その実態はどうか。

 環境共生住宅(エコ・ハウス)とは何か。建設省の定義によると、「地球環境を保全する観点から、エネルギー・資源・廃棄物などの面で充分な配慮がなされ」、「周辺の自然環境と親密に美しく調和し」、「住まい手が主体的に関わりながら健康で快適に生活できるよう工夫された」住宅である。なんだかよくわからない。地球環境の保全というのはいいにしても、エネルギー・資源・廃棄物などの面で充分な配慮とは何か。自然環境と調和するとはどういうことか。快適な生活とは何か。定義だけからは具体的なイメージはわいてこないのである。

 「地球環境問題」に対する住宅レヴェルでの対応と理解すればまだ具体的かもしれない。しかし、オゾン層破壊、温暖化、酸性雨、砂漠化、海洋汚染、核廃棄物処理といった地球規模の問題に個々の住宅のあり方はどのように結びつくのか、必ずしも道筋は見えないのではないか。大気汚染、水質汚濁、ゴミ処理、騒音、・・・といった公害の素因を可能な限り最小化すること、また、資源を可能な限り循環的に利用するということは共有されているといえるだろうか。しかし、住宅に即してはどうすればいいのか。環境共生住宅といっても、スローガンばかりで日本の住宅そのものはちっとも変わりそうにない。

 雨水利用、中水利用、太陽熱利用、風力発電、地熱利用、・・・様々なエコ技術が取り沙汰されるけれど、いずれも一般化にはほど遠い感がある。今の所コストがかかりすぎるという。例えば、古紙にしろ、空き缶や空き瓶にしろリサイクルにコストがかかる。しかし、限られた資源を有効利用するというのであればコストをかけるのは当然である。同じように、いま脚光を浴びるエコ技術が真の意味で「地球にやさしい」のであれば、コストがかかろうがシステム転換すべきではないか。しかし、一向にそうした動きが見えてこない。どうもあやしい。うさんくさいのは、省エネルギー化、あるいは自然エネルギー利用の最大化といった主張がかえってエネルギー浪費的だったりすることである。

 東南アジア(湿潤熱帯)におけるエコ・ハウスのあり方についての研究を開始して、今更のように気づくことがある。つまり、われわれははもともと「環境共生」的なあり方をしていたということだ。ソーラー・エナジーだ、ビオトープだ、バイオガスだ、といわなくても、自然環境と共生してきたのである。エコ・ハウス、エコ・テクノロジーというけれど、まずは、ヴァナキュラーな住居集落のあり方に学ぶのが原点ではないか、とJ.シラス先生(スラバヤ工科大学)には一喝されてしまった。先進諸国がエネルギーを浪費しておいて、発展途上国に「環境共生」を押しつけるのは欺瞞ではないか。自分だけはクーラーを使っておいて、熱帯地域の人はクーラーを使うなというのはおかしいのではないか。そう問いつめられると、日本の環境共生住宅とは一体なんだと思わざるを得ない。

 「持続的発展」論も、同じようにいかがわしい。南北問題を覆い隠すからである。本気で環境共生住宅を実現するのだとすればエネルギー消費を下げる試みがあらゆるレヴェルでなされる必要がある。ますます人工環境化を進める日本に果たして可能なのか。環境共生住宅といいながら、エネルギー消費は増大している、そんなまやかしであれば、スローガンだけの方がまだましである。


 日本の住宅:戦後50年

                                       布野修司

 

 住宅不足数420万戸から出発して50年。日本の住宅はこの半世紀の間ににどこまできたのであろうか。あるいは、どのように変化したのであろうか。無味乾燥な統計データから読めることもある。

 まず、現断面をみてみよう。年間住宅着工戸数は1990年に171万戸、バブル崩壊があって、130万戸台に落ち込んだ後、徐々に回復し1993年には149万戸となった。1994年に入って、毎月発表される住宅着工統計の推移をみると(()内は1993年)、5月、13.0万戸(11.5万戸)、7月、14.5万戸(13.7万戸)、9月、13.3万戸(13.6万戸)とほぼ回復基調にあるとみていい。内容を見るとどうか。2割を超えたプレファブ住宅の割合が若干減りつつある。プレファブ住宅でも、好調であった賃貸住宅が減り、持家が増えている。それに対して、木造住宅の減少に歯止めがかかり、非木造の共同住宅が増え始めている。

 全国で住宅総数(ストック)が世帯数を超えたのが1968年(全県では1973年)、「量から質へ」がスローガンとされてから既に20年になる。焼け野原に無数のバラックを建てることから出発した戦後のゼロ地点と比較してみればなんと遠くまで来たことか。この半世紀の、とりわけこの30年の日本の住宅の変化は実にすさまじいとつくづく思う。日本の住宅はこれからどこへ行くのか、建築家はなにをなしうるのかを念頭に置きながら、うらなってみよう。

 ①ストックとしての住宅:フローからストックへ!、スクラップ・アンド・ビルドではなく社会基盤としての住環境を!とよくいうのであるが、果たしてそれは可能か。住宅着工戸数を加えてみると、この30年で日本の住宅はそっくり建て替えられたことになる。要するに、日本の住宅は現在30年を耐用年限としてリサイクルしつつあるのであるが、これを50年、100年の循環に切り替えることは実際如何に可能なのか。容易ではないだろう。住宅生産者社会の編成、ひいては日本の産業構造、国民総生産の動向にかかわるからである。建設産業の従事者が例えば半減するとすれば、自ずと建設戸数は減少するし、耐用年限は伸びる。建築家として、個別になしうることは、素材を素材としての生命を全うさせる、あるいは再生循環させるありかたを追求することであろう。そうした意味では、各地の古民家再生の試みや古材の回収センターの試みは評価できる。住宅メーカーのセンチュリー・ハウジング(百年住宅)は信用できない。

 ②町並み景観としての住宅地:日本の住宅地の景観は、日本の住宅生産構造のそのままの表現でもある。それが雑然としているとすれば、住宅生産システムが多様で混沌としているからでもある。この生産システムの雑然とした棲み分けの構造をどうすべきか。地域に固有な町並み景観の形成という観点からも再編成が考えられるべきであろう。景観形成のための材料や部品が安定的に供給されるシステムが地域毎に成立する可能性は果たしてあるのか。一方、この間の公共住宅の画一性を破るいくつかの意欲的試みは評価できる。これまで、あまりにも様々な制約や固定観念に囚われてきたということか。但し、住戸の構成は画一的nLDK住戸パターンのままで、ファサードだけを町並みデザインのテーマとするのは怠慢である。

 ③都市型住宅:住宅を社会的ストックと考える見方、あるいは町並み景観として住宅群を考える見方が成熟しないのは、都市的集住の型が成立していないことと大いに関係がある。個々の住戸を日照時間といったわずかの条件に依りながら単に集合させる形の集合住宅の帰結はこの50年で明らかになったとみていい。新たな住戸型を含む新たな集合住宅のイメージが求められている。所有と使用の分離、共用空間概念の社会化など、の

    




 

布野修司 履歴 2025年1月1日

布野修司 20241101 履歴   住所 東京都小平市上水本町 6 ー 5 - 7 ー 103 本籍 島根県松江市東朝日町 236 ー 14   1949 年 8 月 10 日    島根県出雲市知井宮生まれ   学歴 196...