このブログを検索

2021年8月26日木曜日

外国人労働者問題①、 避けられね「第三の開国」? 異質なものの共存原理 建設通信新聞、1991年4月

 01 避けられね「第三の開国」? 異質なものの共存原理、外国人労働者問題①、建設通信新聞、199141                            

                                   布野修司 

 外国人労働者の問題をめぐってはこの間多くの議論がなされている。未曽有の建設ブームによって職人不足、技能者不足、建設労働者不足の問題が深刻化するなかで、また、外国人労働者をめぐるトラブルがマスコミなどで大きく取り上げられるなかで、外国人労働者の受け入れの問題が大きくクローズアップされてきたのであった。しかし、外国人労働者問題は必ずしも一過性の問題ではない。「3K」、「6K」による若者の建設業離れ、現場離れは決定的であるが、より本質的で深刻なのは出生率の低下で若年労働者の絶対数が減少基調にあり、これ以上の新規参入は望めないということだ。若年労働者の新規参入促進の処方策が大きなテーマとなる一方、未開拓の労働市場として、女子労働者や高齢者とともに外国人労働者に焦点が当てられ始めたのである。

 しかし、外国人労働者問題は必ずしも以上のような業界の一方的な位置づけにおいて論じきれるものではい。日本社会の国際化という課題と絡み、国際経済の問題だけでなく、歴史的、社会的、文化的な問題の総体に関わる。建設業界のみならず他の分野を含めて一般的に外国人労働者問題をめぐる議論をまとめてみればおよそ以下のようだ。

 わかりやすく開国論、鎖国論、必然論にわけよう。

 開国論:日本とアジアを中心とする発展途上国の経済格差が続く限り外国人労働者の流入はなくならない。また、日本の産業界の重層下請構造を支える零細企業、中小企業の人手不足が深刻化しており、それを受け入れる需要が存在する。すなわち、送り出す国にプッシュ要因があり、日本にプル要因がある。需要と供給がマッチするのだから開国は当然である。外国人労働者の受け入れを拒否して非合法なものとしていることが、悪質ブローカーをばっこさせ、不法就労を陰湿なものとしている。外国人労働者を受け入れることは、労働力の確保が可能となるだけでなく、発展途上国の経済発展の寄与ともなり、人づくりの援助ともなる。また、そのことが経済的安全保障ともなる。

 鎖国論:外国人労働者を特に単純労働、不熟練職種に導入すれば、労働条件の低下や失業率の上昇を招く。業界の構造改善のむしろさまたげになり、日本人労働者の賃金、労働環境の改善にも悪影響が出る。外国人労働者が増えれば単純労働のみならず専門技術職にもやがて進出すると日本人の失業につながる。外国人労働者は雇用の調節の役割をもち不安定な立場に置かれる。教育、福祉などの生活環境条件も劣悪におかれる。滞在年数が長期化し、定住化が促進されると社会的コストが増大する。結果として、外国人労働者の差別が起こり、業界全体のイメージも結果的に悪くなる。

 必然論:開国論は、何よりも経済の論理に偏しており、外国人を低賃金労働力として利用する発想が強い。また、送り出す側の問題についての洞察がない。鎖国論は、人種差別的イデオロギーとしての単一民族論を強化する。結果として反日感情を国際社会に定着させる。いずれも、日本で既に起こっている実態について、また、外国人労働者を送り出す発展途上国の実態についての理解を欠いている。外国人労働者の流入は必然的である。また、既にそうした事態が起こっている。日本で働く外国人は不法就労者という烙印を押されて、人権を抑圧されている。外国人差別に対して、その人権擁護が優先課題である。出稼ぎに依存せざるをえない日本社会の構造と第三世界の構造を是正し、出稼ぎに伴う悲劇のない地球社会を実現することが究極的な目標となる。

 開国か鎖国か、外国人労働者問題を論じるにあたっては予め態度を明らかにしておく必要があるかも知れない。いずれの指摘も一理ある。問題が極力少ないように条件をつけて開国していくのがいい、といったところが大方の共通意見ではなかろうか。しかし、現実の事態はそううまくはいかない。国際間のモビリティーをうまくコントロールするなどということは容易ではないのだ。むしろ、一国の利益のみを考えてコントロールするといった発想が問われているのである。

 どちらかと問われれば、筆者は開国派である。それも無条件の開国派である。というといささか無責任にすぎるとすぐさま非難されそうだ。もちろん、あわててあれこれと付け加えねばならない。それなら条件付き開国派かというとそうでもない。つまり、外国人労働者の問題は開国か鎖国かという二者択一の問題ではないというのが筆者の立場だ。どういうことか。

 無条件の開国というのは、必然論の立場に近い。開国を前提として、あるいは開国の実態を前提として、まず外国人労働者の人権の問題などを考えようというのが必然論の立場であるとすると、もう少し一般的に、文化的な背景を異にする人々がどのように共存していくか、その原理を見いだすこと、そして、日常生活においてそれを具体化することがいま問われている、というのが筆者の問いの構えなのである。

 開国か鎖国かという問いの立て方は専ら経済の論理に基づく。また、日本中心的な発想が先行したある意味では傲慢な二者択一論である。鎖国は楽であるが、日本の社会を開いていくことが大きな課題である中で逆行的である。現行の改定入官法は基本的に外国人を締め出す鎖国法である。雇用者処罰制度が作られることによって一層その性格が明らかである。ある程度まで黙認し、景気が後退したり、問題がマスコミなどで大きくとりあげられると締め出す、日本の入管体制は実に巧妙で陰湿である。いま問われているのは日常生活レヴェルでの国際化であり、異質な文化が共存するそのあり方を模索するその絶好の機会が現在なのである。そうした視点から外国人労働者の問題を何回かに分けて素朴に考えてみたい。




02] 身近で見えない「スラム」、拡散する隔離空間、外国人労働者問題②、建設通信新聞、199142

 [03] 寄場の変容 重層構造のさらなる重層化、外国人労働者問題③、建設通信新聞、199143

 [04] 差別と排外主義 「不法」というレッテルが生み出すもの、外国人労働者問題④、建設通信新聞、199144

 [05] 建設現場の光景 お寺と黒人、外国人労働者問題⑤、建設通信新聞、199145

 [06] ウサギ小屋文化 非関税障壁としての住まい、外国人労働者問題⑥、建設通信新聞、199148

 [07] 最底辺 ガストアルバイターの光と影、外国人労働者問題⑦、建設通信新聞、1991410

 [08] 歴史の記憶 朝鮮人と日本の経験、外国人労働者問題⑧、建設通信新聞、1991411

 [09] 貧困の共有 インドネシアのカンポンの世界、外国人労働者問題⑨、建設通信新聞、1991412

 [10] 情報公開われらの内なる国際化 開かれた世界へ、外国人労働者問題⑩、建設通信新聞、1991415

0 件のコメント:

コメントを投稿