[01] 避けられね「第三の開国」? 異質なものの共存原理、外国人労働者問題①、建設通信新聞、1991年4月1日
[02] 身近で見えない「スラム」、拡散する隔離空間、外国人労働者問題②、建設通信新聞、1991年4月2日
[03] 寄場の変容 重層構造のさらなる重層化、外国人労働者問題③、建設通信新聞、1991年4月3日
山谷といえば、「寄せ場」である。日雇労働者の町として知られる。日本でも有数の「ドヤ街」である。その山谷に、昨年秋ひとつの建物が竣工した。山谷労働者福祉会館(日本キリスト教団日本堤伝導所)である。その完成は奇跡に近い。山谷の労働者による完全な自立建設として、全ての建設資金をカンパに頼って建設が行われ完成したのである。
鉄筋コンクリート造、地上三階建てで、延床面積は百坪に足りない。しかし、その建設に込められた思いはとてつもなく大きい。一階には、医務室と食堂が置かれている。二階には、多目的の広間と事務スペース、相談室、三階には、宿泊もできる和室、印刷室、図書室などが配される。屋上は、休憩スペースである。夏には屋上ビアガーデンともなる。福祉活動、医療活動など労働者のための多彩な活動の拠点として構想されたのが山谷労働者福祉会館である。
一見してただの建物ではない。手作りの不思議な味がある。ファサードは、A.ガウディーには及ばないけれど、砕いたタイルで奇妙な文様が描かれている。みんなでひとつひとつ張りつけたのである。また、ファサードには、様々なお面が取り付けられている。人物にはそれぞれモデルがある。山谷の人たちだ。さらに、みんなが思い思いのメッセージを刻んで焼いた瓦がところどころに使われている。
山谷に労働者のための会館を建設しようという話が出て、募金活動が始められたのは三年ほど前のことである。八九年一月、山谷の中心に土地を確保することができた。建設そのものが具体的なものとなり、募金活動に拍車がかかった。しかし、それからが長かった。建設にかかって一年余り、竣工に至った過程は波乱万丈である。設計を行い、設計施工の監理を行ったのは宮内康建築工房である。紆余曲折の上、直営方式で、日本キリスト教団を建設主として、一切、労働者自身による自力建設を行うことにしたのである。
実際は、トラブルの連続であった。山谷には労働者が沢山いるとはいっても、働きながらのヴォランティアである。また、得手、不得手の仕事もある。スケジュール通りに進むのがむしろ不思議である。ましてやカンパを募りながら、資金調達もしなければならない。ハプニングも起こった。例えば、ある運送会社は、「山谷」というだけで、建築資材である瓦の搬送を拒否したのである。ひどい差別であった。
いま山谷は空前の建設ブームの中で仕事は多い。路上で酒盛りする労働者の様子は一見活気にみちているようにみえる。しかし、抱える問題は極めて大きい。
第一、好況にも関わらず、必ずしも、労働者の賃金は上がっていない。職安で日当一万一千円、路上で一万二千円ぐらいが平均であろうか。型枠大工であれば、人手不足で三万円も五万円もすると言われるのであるが、山谷には落ちない。相も変わらず、中途で抜かれる構造があるのである。高い労務費を支払ってもリクルートの費用に消えてしまう。建設業界の重層下請けの構造、高労務費・低賃金の体質は変わってはいない。山谷はその象徴である。
第二、生活空間としての山谷はいま急激に変容しつつある。地価高騰の余波は山谷にも及び、再開発のプレッシャーが日増しに強くなりつつあるのである。例えば、ドヤは、次第にビジネスホテルに建て替わりつつある。宿泊費は、当然上がる。宿泊費があがれば、労働者の生活にも大きな影響が及ぶ。日雇労働者も、ドヤ住まいとビジネスホテル住まいとに二分化されつつあるのだ。また、山谷から追い立てられる層もでてきている。
第三、山谷地区に居住する日雇労働者は八千人から一万人と言われる。その日雇労働者は、どんどん高齢化しつつある。日本の社会全体が高齢化しつつあるから、当然とも言えるのであるが、単身者を主とする寄せ場の場合、また、日雇という不安定な雇用形態が支配的な地域の場合、高齢化の問題はより深刻である。山谷労働者福祉会館が構想されたのは高齢化の問題が大きな引金になっているといえるだろう。
第四、山谷にも山谷の地域社会がある。日雇労働者だけでなく、その存在を支え、共存する地域社会がある。日雇労働者ではなく、地域住民を対象として行った調査によれば、ドヤの経営者にしろ、酒屋や飲食店にしろ、日雇労働者に依拠して成立したきた構造がある。日雇労働者を差別する構造もあるけれど、日雇労働者と共存してきた構造もあるのである。しかし、再開発の波が及び、そうした構造そのものが大きく崩れつつあるのが現在の山谷である。
山谷において外国人労働者はどうか。天安門事件の前までは、中国の就学生が職安に行列をなし、言葉が不自由で大量にあぶれるという光景がみられたというが、その姿をみかけることは少ない。ドヤ住まいの外国人は極めて少ない。何故か。
山谷ではあまりにも宿代が高いのである。日本人の労働者でも追い立てられるのである。寄せ場も拡散しつつあるといえるであろう。再開発によって、地域の生活空間が大きく変わりつつあるのはなにも山谷に限らない。東京の下町では、地上げによって壊滅してしまった地区がいくつもあるのである。
東京大改造、再開発を支えるのは言ってみれば山谷の労働者たちである。山谷の労働者は、いつも景気の調節機能として位置づけられてた。しかし、山谷のような空間の存在は常に無視され、差別されている。若い労働者たちはまだしも、歳をとって病気になり、仕事もままらなくなると、追い立てられ、ボロ雑巾のように捨てられる。外国人労働者に対してもほぼ同じ構造がある。問題は、重層構造の最下層をさらに二重化する形で外国人労働者が最低辺を形成することである。
[04] 差別と排外主義 「不法」というレッテルが生み出すもの、外国人労働者問題④、建設通信新聞、1991年4月4日
[05] 建設現場の光景 お寺と黒人、外国人労働者問題⑤、建設通信新聞、1991年4月5日
[06] ウサギ小屋文化 非関税障壁としての住まい、外国人労働者問題⑥、建設通信新聞、1991年4月8日
[07] 最底辺 ガストアルバイターの光と影、外国人労働者問題⑦、建設通信新聞、1991年4月10日
[08] 歴史の記憶 朝鮮人と日本の経験、外国人労働者問題⑧、建設通信新聞、1991年4月11日
[09] 貧困の共有 インドネシアのカンポンの世界、外国人労働者問題⑨、建設通信新聞、1991年4月12日
[10] 情報公開われらの内なる国際化 開かれた世界へ、外国人労働者問題⑩、建設通信新聞、1991年4月15日
0 件のコメント:
コメントを投稿