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2022年5月31日火曜日

家づくりの会,雑木林の世界10,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センター,199006

 家づくりの会雑木林の世界10住宅と木材(財)日本住宅・木材技術センター199006

雑木林の世界10

 家づくりの会

                        布野修司

 

 「家づくりの会」の公開講座(*1)については、以前ここで触れたことがある(*2)。今年の二月に、無事に五回目を終えたのであるが、僕自身なかなかに刺激的な講座であった。そこで考えたことを振り返り、「家づくりの会」に期待することなどを綴ってみようと思う。「家づくりの会」とは、住宅の設計を主とする建築家の集まりである。結成されて、七年になる。

 住宅の設計を主として設計事務所を経営して行くのは容易ではない。はっきり言ってそれだけでは食べてはいけない。どんな組織であれ、どんな地域であれ、その事情は同じことである。いきなり脱線すれば、そういう状況に本質的に日本の住まいの貧しさを見てとることができる。住宅を建てる人々に設計料を払う理解と余裕が無い。住宅=町づくりを担う「建築家」が生きて行けないような社会に「いい」住まいと町が出来るわけはないのである。 もちろん、「建築家」の側にもより大きな問題がある。住宅の建設を責任を持って行う体制をつくりだしてきたかどうか疑問だからである。代願設計に甘んじたり、設計料をダンピングしたり、ということは日常的に行われているのである。「家づくりの会」は、そんな中で住宅の設計に真正面から取り組んでいるグループである。公開講座のテーマの中心は、実は、まさに「今、住宅設計に何が可能か」ということであった。

 小さなアトリエ事務所の場合、また、地縁的関係をもたない建築家の場合、仕事を入手するのが難しい。営業活動をする余裕もないし、手掛かりも少ない。設計者を必要とする施主は一定の地域に集中しているわけではないし、安定的にそうした施主がみつかる保証はない。一般的には、口コミを通じたり、住宅関係の雑誌や週刊誌のようなメディアを通じて、施主を獲得するのが仕事を得る方法となっている。

 そうであるとすれば、営業活動をもう少し組織的にできないか。設計者を必要とする施主をもう少し積極的に組織できないか。「家づくりの会」結成のモメントはおそらくそうしたことだったのではないか。ユーザー教育、住宅相談などの情報サービス、建築家の職能のアピールなど、結成の目的と理念はもちろん掲げられるであろう。しかし、本音を追求すれば、実質的な目的は会員が安定的に仕事を確保することである。もちろん、それが悪いとかいいとかいうことではない。それが会の出発点だということだ。

 「家づくりの会」の具体的な活動として基本となっているのは家づくりセミナーを開催することである。マスコミを通じて、セミナー参加者が募られる。そして、参加者に対して個別の相談も行われる。会の事務所には、会員の作品集および設計図書が置かれ、住宅の設計を希望するユーザーは、好きな設計者を選定する、そんな仕組みが基本である。

 「家づくりの会」のメンバーは、首都圏、大都市近郊をその拠点とする。世代的には、団塊の世代、地方出身者が多いという。それぞれ設計の腕には自負がある。建築の専門誌にも時々作品を発表する。しかし、デザインの新奇さのみを追っかける建築ジャーナリズムには概して批判的である。施主は、住宅メーカーの住宅にはあきたらない層が多い。「家づくりの会」のプロフィールを独断と偏見にみちていうと以上のようだ。

 最初、公開講座の話があった時、正直いって不意をつかれた感じを受けた。というのも、この間、地域の建築家のありかたについて考えたりしゃべったりしてきたのだけれど、この大都市という地域の住宅=町づくりの問題が頭の中からすっぽり抜けていたような気がしたからである。大都市については問題が大きすぎてどこから手をつけていいのか、判断停止といった感じだったのである。しかし、「家づくりの会」のような会の結成と存在は、考えてみれば当然である。大都市という地域の住宅=町づくりを考える実に大きな手がかりになるというのが直感であった。 

  もちろん、「家づくりの会」が単に会員だけのための仕事の受注組織にとどまるとすればそう興味はない。同じ様なやりかたをとる組織も多いし、その活動はそう広がりをもたないであろう。しかし、展開によっては様々な可能性をもっているようにみえる。公開講座での議論を踏まえて、その可能性について思いつくまま列挙してみよう。

 ①小さなアトリエ事務所でも、二〇、三〇と集まれば大変な組織である。競争的共存より、共同的共存を追求すべきである。会員相互の情報交換、デティールの蓄積のレヴェルから共同設計、資材の共同購入、等々手掛かりは多い。

 ②ユーザーのみならず施工者(技能者・職人)を含めたネットワークを組織する必要があるのではないか。職人問題はこれからの大きな問題である。設計者が特権的な立場にたった発想には限界がある。ユーザー参加やデザイン・ビルドが積極的に考えられていい。

 ③不特定のユーザーをのみ対象とするのではなく、それぞれがそれぞれの拠点で住宅=町づくりを都市生活者として、あるいは都市環境モニターとして展開していくことが必要ではないか。大都市圏のHOPE計画を会として展開してみる手もある。タウン・アーキテクトとしての行政との関係も意識されていい。

 ④地方の住宅=町づくりチームとの連携を計る方法がある。単なる情報交換ではなく、産直や職人の交流を含めたネットワークができれば活動の幅は大きく広がる可能性がある。

 ⑤オリジナル部品の開発および販売など、新たな事業展開も考えられていい。設計(デザイン)の質を具体的な物で保証していくことは大きな武器ともなる。うまくいけば会の基盤を安定化することもできる。

 ⑥住宅メーカーにあきたらない比較的余裕のある層だけでなく、もう少し、別の層、より一般的な層をターゲットにする手はないか。ローコスト住宅のモデルを追求してみる意義がある。その活動の社会的意味をもう少し拡大する可能性がある。

 ⑦都市型住宅のありかたを共同提案できないか。戸建住宅だけでなく、集合住宅が支配的である大都市圏では、都市型住宅の提案が求められている。コーポラティブ・ハウジング含めて共同住宅についてより積極的に取り組むことで新たな可能性が開けないか。

 ⑧自主性、自律的な活動を前提とした上で、住宅メーカー各社との連携も考えられていい。自ずと役割は違う筈であり、相互に棲みわけていく路はいくらでもある。質の高い住宅=町づくりこそが競われるべきである。

 ⑨もう少し、住宅=町づくりに積極的に取り組む建築家を広範に組織する必要がある。その活動を建築界に向けて積極的に表現していくことも必要である。若い会員が積極的に参加することも不可欠であり、あらゆるメディアを通じた広報出版活動も極めて重要である。


1 「建築家と住宅ー--建築家は、いま、住宅の設計にどう取組むのか」。テーマ日程は以下のようであった。

●テーマ

 これからの日本の住まいがどうあるべきか、を「建築家」の立場から論じてみたい。「建築家」にとって、住宅が全面的なテーマであった時代があった。そして、住宅の設計は「建築家」の基本であると言われ続けてもいる。しかし、いま、「建築家」にとって、住宅は主要なテーマであるようにはみえない。また、日本の住宅のあり方に対して何を貢献しているかも疑問なしとしない。平たく言って、住宅の設計の仕事で食べていけるかどうかも疑問である。一方、「建築家」が日本の住宅のあり方に対して果たす役割は、依然として、あるのではないか。具体的にどういう活動が可能か、住宅をめぐる様々な問題をめぐって考えてみたい。

 

 Ⅰ 住宅生産の構造と建築家     1989年 9月30日

                                 ゲスト 植久哲男

 Ⅱ 建築家と住宅の戦後史       1989年 10月21日

                                 ゲスト 平良敬一

 Ⅲ 工業化住宅と住宅設計      1989年 12月 2日

                                 ゲスト 松村秀一

 Ⅳ 地域住宅計画の可能性と限界 1990年    1月27日 

                                 ゲスト 山中文彦

 Ⅴ  ハウジング計画論の展開     1990年  2月24日

 

2 雑木林の世界4 1989年12月

 


編集委員会委員長就任・組閣 2001年6月、『建築雑誌』編集長日誌 2001年4月25日~2003年5月31日

 『建築雑誌』編集長日誌 2001425日~2003531

            布野修司

 

普段日記などつけない。試みないのだから三日坊主に終わるということもない。日常を省みようともせず、それを恥じない。生来の怠惰はどうしようもない。

そんな僕が、こともあろうに意を決して、『建築雑誌』の編集を続ける間、日誌のようなものを綴ることにした。

というのは嘘。日誌を書いて公開するように、というのは編集部の強~い要望である。編集委員会が何を考え、どのような議論を踏まえて編集作業を行っているのか、できるだけ生の声で伝えて欲しい、ということだ。

全くもって自信がないが、断る権利はなさそうだ。おそらく編集委員の助けを借りることになるに違いないけれど、気楽に編集「裏(嘘)話」など気の赴くままに記してみたい。

日記はつけない僕でも、海外を旅する時だけは、何故かいつも一冊のノートを持参して、見たこと、聞いたことをメモする習慣がある。殴り書きの間に領収書や名刺や電車の切符などべたべた張り付けるから、ノートは三倍ぐらいに膨れあがってしまうのだが、本棚を数えたらそんなノートが31冊になっている。ろくでもない記録なのに、何か貴重な財産のような気がしている。

『建築雑誌』の編集も、二年間のジャーニーjourneyと思えばいいのである。ジャーナルjournalとはそもそも日録, 日誌, 日記という意味である(2001111日)。

 

回想・・・編集委員会発足まで

200161

 正式に編集委員長になる。なったはず。仙田会長に連絡するもつかまらず。

 

200165日 

学会のアジア建築交流委員会に出席。ようやく編集部の小野寺さん、片寄さんと直に打ち合わせができた。太田邦男委員会は真木さんと今井さんが担当。渡辺武信委員会で小野寺さんとは一緒であったが片寄さんとは初めてである。とにかくよろしくお願いしま~す、である。この二人がいなければ何も立ちゆかない、ということは前二回の経験でよ~くわかっている。

しかしそれにしてもいつも思うけれど、37000部を超える雑誌の編集をたった二人で担当するとは大変なことである。会告欄の分担、下請け体制などを聞く。助っ人となる編集事務所について相談を受ける。

そして、初めて編集のフレームを確認する。編集委員会が担当するのは、特集40p(or 24p、2月号学会報告、7月号学会予告、8月号学会賞)+常設欄15pである。

そして、編集委員の人数を聞いて大いに困った。20人強でお願いしたい、と小野寺さんはいう。そして、各支部から可能な限り起用して欲しいとおっしゃる。また、国土交通省、業界からもお願いしたい。わかってはいたつもりであるが人数の読みは甘かった。既に半数近くは打診していたのである。責任転嫁するわけではないけれど、会長は何人でもいい、とおっしゃっていたような・・・気がする。

 問題は旅費である。出席率8割で予算措置をしているという。僕は、京都を拠点にしており関西の委員の比率は高くなる。しかし、旅費代がかかるからといって東京中心というのもおかしい。

まず、その場で若山委員会の論壇投稿は止めることにし、支部通信委員制度を提案する。毎回お呼びするわけにはいかないけれど、地方の声を受け止める場を設定すべきだと思ったからである。また、瞬間的に「地域の眼(まなこ)」という常設コラムも思いついた。一号2p、2年間24号で48p、47都道府県から一人ずつ登場願おう。また、この際各支部から一人は編集委員とするのを原則にしようと思った。これは旅費の問題ではない。ポリシーの問題である。次期委員会にも引き継がれるといい。

それにしても困った。作業部隊として、布野チルドレンに加わってもらうとどうしても人数は増える。メールも使えることであり、旅費の枠は尊重するということで多少の人数増は認めてもらうことにする。特に規定があるわけではないという。

 

200167

 建築学会賞委員会へ出席。仙田会長に途中ではあるけれど組閣名簿を提出、意見をもとめる。全ての支部は埋まっていない。編集委員会は相対的に独立していると言っても、編集委員の選任は理事会マターである。会長からも何人かの推薦を頂く。女性委員が足りない、足りない、といって変な顔をされた。

傑作は伊藤圭子委員。国土交通省からの委員が決まらない。何人も適任の人が思い浮かぶが皆忙しい。全体構成上女性が欲しい。建築技術教育普及センター時代、建築文化景観問題研究会で「アーバン・アーキテクト制」をめぐって一緒に仕事をしたことのある伊藤さんに学会から電話する。「若い世代で、元気な女性を推薦願いたい」というと、「私でよければやりますよ」。即決まりである。

 

200168

 一斉にメール。焦るのは、7月半ばから5週間、海外調査に出掛けることが決まっているからである。一ヶ月で1月号、2月号どころか常設欄の目途をつけて置く必要がある。

 

2001612

 初理事会。学会方針を理解して編集に当たるように理事会には必ず出席せよ、とのこと。斉藤専務理事がしきりに会員数の減少を指摘するのが印象的。建築界のリストラが必要であるとすれば、建築学会もリストラが必要なのは当たり前である。編集委員会の上位に友澤副会長が束ねる情報委員会という親委員会があることを知る。作品選集も一応編集委員会が関係する。

懇親パーティーがあって、その流れで、友澤、小野寺、片寄、布野の四人で簡単な顔合わせ懇親会。会告欄、情報ネットワーク欄も編集委員会の守備範囲だという。毎号55p(39p)編集すればいいと思っていたから、とまどう。会告欄については強烈な思い出がある。特集はなんでもいいんですよ、会告さえあれば、好きにやって下さい、と言われたことが一度ならずあるのである。こうした意見は今でもエンジニア系の会員に強い、というのが僕の思いこみである。正直、そうだとすれば気楽である。期待されていないのだから自由にやればいい。ところが友澤先生は、どちらかというとホームページがあるから会告欄は縮小せよ、という意見である。他の学会もホームページが主流になりつつあるという。

 

2001615

 ようやく組閣完了。編集委員会は32名の構成となった。委員には、会長就任の挨拶原稿、過去の特集一覧、過去の常置欄リストなどとともに次のようなメールを送った。編集委員の決定は、710日の理事会を待たなければならないけれど、日程が合わない。79日に第一回編集会開催で見切り発車である。

 

■建築雑誌(20012003)編集委員会委員の皆様へ 布野修司 2001615

編集委員への就任ご承諾ありがとうございました。

近々、事務局から正式の依頼等がいくと思います。何卒よろしくお願いします。早速で恐縮ですが、以下の点、ご承知おき下さい。

Ⅰ 委員会開催について

 第1回 79日 15:0017:00 建築会館 田町 第2回 830日 15:0017:00 建築会館 田町 第3回 922日 学会大会中 本郷:東大 第2回、第3回はご相談の上決定します。

Ⅱ スケジュール

 学会から別送の予定 9月上旬に1月号の原稿依頼をしなくてはなりません。

Ⅲ 編集フレーム

1 編集委員会が担当するのは、特集40p( or 24p、2月号学会報告、7月号学会予告、8月号学会賞)+常設欄15pです。議論はありますが、このフレームで出発します。特集:大の月9号小の月3号 ×224号 研究年報2

編集にあたって(略)

 常設欄 1p 2p 4p 

 ・地域の目 2p 24×2 47都道府県+1

・海外情報 外国人の眼 1p(例えば、外国雑誌の編集長のメッセージ)

・インターネットの頁 1

 ・巻末(巻頭)インタビュー(特集にからめる あるいは 建築界の重鎮長老) 

 エンジニアリング 技術ノート

 文献抄録

 編集後記

基本(通奏)テーマ 鍵語 

 4つあるいは6つの問題領域を設定し、繰り返し問う。4×3×2or6×2×2

 デザイン

 土地

 建築技術

 世界

 地球環境

新学会長重点項目

防災・健康のための横断的学術研究 発注システム 建築博物館・・・

 

特集テーマ(例えば思いつくままに)

   アジアの都市建築

   エコ・アーキテクチャー・モデル

   日本の建設産業 構造改革の行方

   日本のタウンアーキテクト

   建築教育・技能教育・・建築資格

   ストック改造の技術

   設計者選定問題

   日本の住宅と家族 都市型住宅

   世界遺産/殖民都市

  

   21世紀の建築デザイン

 

当面の作業

   学会の課題の整理

   過去の建築雑誌の総括

   編集フレームの設定

   14号案

 

■建築雑誌(20012003)編集委員会構成案は以下のようである。途中で何度も編集部の二人にチェックして頂いた。専攻分野、出身大学、所属委員会、職場、年齢、居住地・・・、毎に表をつくって頂いた。もちろん、偏りはある。学会の委員会の代表によって構成しても、理事会や学術委員会のようになるだけである。小嶋一浩、古谷誠章、貝島桃代、塚本由晴、鈴木隆之そして新居照和といった建築家の面々に入ってもらった。会員の多くは設計事務所員ということもある。彼らの総合的関心を大きな指針にしたい。

組閣は満足である。当たり前だ、最初から不満ならやっていけないだろう。事務局もまあまあのバランスだという。問題は、多くの先生に推薦いただいたのに断念した委員候補が少なくないことだ。第一、仙田会長の推薦者がほとんど入っていない。結果を見ると、お膝元から塚本由晴君だけである。石田君、土肥君も東工大だけど全く系列を異にする。仙田会長からはいつでも意見をもらえるであろう、というのが勝手な判断である。推薦いただいた各先生には失礼極まりない言い方であるが、推薦名簿は編集に当たって大いに活用させて頂こうと思う。

 

編集委員長

1布野修司   京大 東洋大 東大         建築計画 都市計画            近畿(京都)

編集幹事

2松山 巌  作家 東京芸大           評論                  関東(東京)

3古谷誠章  早稲田               建築家 建築計画            関東(東京)

4石田泰一郎  京大 東工大            視環境 光               近畿(京都)

5大崎 純   京大                構造力学                近畿(京都)

編集委員

6青井哲人  神戸芸工大学 近畿大学 京都造形大学 アジア建築史             近畿(大阪)

7浅川滋男   鳥取環境大学 奈文研-京大      建築史                中国(鳥取)

8伊加賀俊治  日建設計 早大            地球環境               関東(東京)

9伊藤圭子  国土交通省(都市整備公団) 京大   建築行政          関東(東京・千葉)

10岩下 剛  鹿児島大学 早大           室内化学物質汚染          九州(鹿児島)

11岩松 準  佐藤工業 京大            建築生産 PM CM       関東(東京)

12遠藤和義    工学院 芝浦工大 東大        建築経済 建築生産        関東(東京)

13小野田泰明 東北大学               建築計画             東北(宮城)

14貝島桃代  筑波大学 東工大 日本女子大学    建築家           関東(東京・茨城)

15勝山里美  大林組広報室 横浜国大        環境工学設計           関東(東京)

16北沢 猛  東大(都市工)            都市デザイン           関東(東京)

17黒野弘靖  新潟大学               建築計画             北陸(新潟)

18小嶋一浩  東京理科大 東大 京大        建築家              関東(東京)

19鈴木隆之    京都精華大学 アトリエファイ 京大   建築家  小説家     近畿(京都・千葉)

20高島直之  評論家 武蔵野美術大学        美術評論             関東(東京)

21田中麻里  群馬大学 京大-奈良女子大学     住居学              関東(群馬)

22Thomas Daniel  F.O.B. ヴィクトリア大 京大   建築家              近畿(京都)

23塚本由晴  東工大                建築家             関東(東京)

24土肥真人  東工大 京大             造園 まちづくり        関東(東京)

25新居照和  建築家 関西大学           設計              四国(高知)

26野口貴文  東大                 材料              関東(東京)

27羽山弘文  北大                 環境          北海道(北海道)

28福和伸夫  名古屋大 清水和泉研-        構造 防災          東海(愛知)

29藤田香織  東京都立大 東大           構造             関東(東京)

30八坂文子  鹿島建設 東大            構造設計           関東(東京)

31山根 周  滋賀県立大学 京大          都市計画           近畿(滋賀)

32脇田祥尚  島根女子短期大学 京大        まちづくり          中国(島根)

 


 

竹中大工道具館 村松研究会,講演「アジアの建築技術」 アジア都市建築研究の課題」,竹中大工道具館,2005年07月08日

 竹中大工道具館 村松研究会,講演「アジアの建築技術」 アジア都市建築研究の課題」,竹中大工道具館,20050708


竹中大工道具館 村松研究会                   200578

アジアの建築技術 アジア都市建築研究の課題

布野修司(滋賀県立大学)

 

 Ⅰ 「アジア都市建築史」のフレーム

 

Ⅱ 「アジア都市建築史」の課題

 

近代以前のアジアと日本建築・都城

1 ヴァナキュラー建築の世界・・・民家研究のグローバルな展開

2 仏教建築の世界史

3 中国・朝鮮半島・日本

4 アジアの都城とコスモロジー

 

 近世/近代・・・・近代世界システムの形成と都市・建築

1 西欧との接触

   2 オランダ植民都市ネットワーク

3 コロニアル建築としての明治建築

4 世界近代建築史再考

Ⅲ アジアのヴァナキュラー建築をめぐって

  01 アジアの伝統的住居

   森、砂漠、草原、野、海  「世界単位」

  『世界ヴァナキュラー建築百科事典(EVAW)』全3

02 オーストロネシア世界  日本建築の原像

1 北方系と南方系    土間式:地床式 高床式

2 ドンソン銅鼓   石寨山 家屋紋鏡

3 オーストロネシア語族

03 原始入母屋造・・・構造発達論 

1 家屋文鏡

2 原始入母屋造  G.ドメニク 

04 移動住居・・・パオ テント 円錐形住居

1 ゲル 蒙古包 ユルト  

    2 テント

    3 円錐形住居

05  井篭組・・・校倉造

    1 北方の井籠組  

    2 南方の井籠組

06  石造・煉瓦造・・ドーム、ヴォールト、ペンデンティーフの起源   

1 版築、日干煉瓦、磚

2 円形建築

3 隅三角状持送式

07  高床式住居

    1 地床式の分布

    2 抹樓

      稲作と高床式

    4 穀倉型住居

08 中庭式住居・・・コートハウス

   1 古代ギリシャと古代ローマ  

   2 四大都市文明

   3 コートハウスの類型  

09 家族と住居形式

1 ロングハウス

2 ミナンカバウの住居

3 バタックの住居

4 サダン・トラジャの住居

10 コスモスとしての家

   1 三界観念    バヌア

   2 オリエンテーション

   3 身体としての住居



2022年5月30日月曜日

「世界建築家」丹下健三の死 丹下の生きた時代,丹下のいない時代,建築ジャーナル, 2005

 「世界建築家」丹下健三の死 丹下の生きた時代,丹下のいない時代,建築ジャーナル, 2005

 「世界建築家」丹下健三の死

  丹下の生きた時代、丹下のいない時代

布野修司

 

 丹下健三が逝った。92才の大往生である。近代日本の生んだ偉大な建築家であった。しかし、巨人の死に際して、例えば、今年生誕百年を迎える前川国男の死の時(1986年)のように、ひとつの時代が終わった、という沸き上がってくる独特の感慨はない。既に、藤森照信によって、その全生涯、全仕事が集大成[i]されていることもあるだろう。丹下の時代は既に過ぎ去っていた、という感が強い。

丹下健三については、これまで、何度か書いてきた[ii]。日本の近代建築とりわけ戦後建築を代表する建築家であるから、繰り返し触れることになるのは当然であろう。本誌『建築ジャーナル』でも、平良敬一、磯崎新、古谷誠章の諸氏と丹下健三と丹下健三をどう乗り越えるかをめぐって議論したことがある[iii]10年前に、丹下は既に乗り越えるべき対象であったのである。否、10年前においても、丹下は乗り越えるべき存在であったというべきである。追悼に当たって反芻すべきなのもその問いであろう。すなわち、建築における「丹下的なるもの」とは何か、という問いである。

 

丹下における連続・非連続

丹下健三をめぐっては、デビュー作品である、戦時中の「大東亜建設忠霊神域計画」(1942年)、「在盤谷日本文化会館」(1942年)という、いずれも一等入選を果たしたふたつのコンペ応募作品と戦後日本建築の出発を記念する「広島ピースセンター」(1949年コンペ、1955年竣工)の間の連続・不連続をめぐって、すなわち、丹下における転向・非転向をめぐって、議論が行なわれてきた。そして、その帰結は現在ではおよそはっきりしている。

当初、強調されたのは、国粋主義者から近代主義者へ、という丹下のイデオロギーの転換、すなわち転向である。戦後日本浪漫派に心酔していた丹下が、一転、平和の旗手として広島ピースセンターの設計に関わることへの素朴な違和感は、丹下の輝かしい戦後の歩みにも関わらず存在し続けた。丹下自身が、「戦没学徒記念館」(1966年)の発表を秘してきたことがその事情を示している。日本の近代建築草創の歴史は、ファシズムに対する果敢な闘いとその挫折の歴史として描かれる。「日本趣味」「東洋趣味」を旨とすべし、という規定がなされていた一連の設計競技に、敢然と近代建築のスタイルを提出し続け、ついには「日本的なるもの」=「ナショナルなもの」を象徴する勾配屋根を受け入れるに至った前川国男の軌跡がその象徴とされる[iv]。丹下健三の場合、問題とされてきたのは逆向きの転向である。

しかし、確認されるのはむしろ連続性である。その作品、その設計手法を見る限り、戦前戦後に大きな変化はない。寝殿造り風の屋根を除けば、「大東亜建設忠霊神域計画」と「広島平和記念館総合計画」(1950年)は、その構成手法に差異はないのである[v]。戦後の伝統論争においてもその方向は変わらないが、日本的なるものに近代的なるものを見いだす、例えば、日本建築の木割を近代技術によって実現するといった解答が多くの建築家によって選択されてきた。丹下の場合、作品系列上の大きな転換は、むしろ、60年代に入ってからの構造表現主義の作品にみることができる。藤森照信の整理によれば、「柱梁の系譜」から「彫刻的表現」への転換である。そして、さらに問題にすべき転換は、「東京都新庁舎」におけるポストモダンへの傾斜である。しかし、いずれにしろ、丹下健三が一貫して近代技術の展開を基礎にしながら質の高い作品を表現し続けたことは衆目の一致するところである。

そして、連続性は「国家」との関係においても強調される。磯崎新は、前述の座談会などでも繰り返し指摘しているが、丹下の死に際しての追悼文においても[vi]、丹下の発想の内奥には、徹頭徹尾、国家への想いがあり、「超越的な何ものかにむかって引かれた一本の軸線がひそんでいる」という。丹下健三は、基本的に国家主義者であり、「国家の建築家」であったことになる。確かに、「大東亜建設忠霊神域計画」→「広島平和記念資料館」→「代々木国立屋内総合競技場」(1964年)→「大阪万国博お祭り広場」(1970年)と、丹下健三は日本の国家的プロジェクトに一貫して関わってきたのである。

 

世界資本主義の誘い

国家の肖像を描き続けるのが丹下の本質であったという磯崎の見方に立てば、1970年以降の作品はとるにたらない、ということになる。果たしてそうか。確かに、70年代に入って、オイルショック以降、丹下は転身したように見える。その後の歴史は、1974年に東京大学を定年退官し、設立した丹下健三・都市・建築設計研究所の歴史である。東京大学理学部本館(1973-79)、草月会館(1974-79年)やわずかの住宅作品を除いて、1970年代にほとんど丹下は日本で仕事をしていない。仕事の場はほとんどが海外である。そして、作品の質もかつての輝きはない。当時を振り返って、丹下健三は消えた、という印象がある。国内では、丹下健三批判の書と言っていい、長谷川堯の『神殿か獄舎か』が貪るように読まれた。また、磯崎新の『建築の解体』がポストモダンの方向性を示していた。丹下が日本に帰ってくるのは、「ポストモダンには明日はない」という発言、そして「東京都新庁舎」コンペとともにである。

丹下が海外へ向かったのは、単純には国内に仕事がなくなったからである。一方、オイルダラーで潤う中東の国々には多くの仕事があった。丹下健三には一度だけ会ったことがある。大学院生の時、「松江都市圏総合開発計画」(1974-75年)のアルバイトをしていて月尾嘉男に自邸に連れていかれたのである。専ら、中東情勢が語られていたのを思い出す。また、それ以前に二度ほど[vii]「アーバンデザイン」という科目の講義を聞いた。大阪万博を直前にして、その総合プロデューサーである丹下健三は大スターであり大御所であったが、講義の内容は、建築を学び始めた学生にはいささかショックなものであった。「君たちは不幸です。1980年代後半には、建築は衰退します」というのである。ロストウの経済発展の四段階説を下敷きにした歴史予測であった。振り返れば、そうした歴史的予測に基づいて丹下は日本を「離陸」し、海外に向かったのである。磯崎流には、国家が丹下という建築家を必要としなくなった、といってもいい。日本という国家が変質したのである。一方、国家の肖像を必要とする新興国が丹下を招いたのである。丹下と丹下の作品は、近代国家のシンボルとして「売れた」のである。そして、バブルとともに丹下は日本に帰還する。挑んだのは、世界都市・東京の貌をどうデザインするかという課題であった。

 

土地に固有な表現へ

こうして、丹下の一貫性は明らかではないか。磯崎のように、丹下を最後の「国家の建築家」として歴史的に封じ込めてしまうだけでは不充分であろう。さらに一貫するものを確認するには、丹下の都市へのアプローチを見る必要がある。丹下健三の学位論文は『都市の地域構造と建築形態』(1959年)である。また、戦後まもなくより多くの復興都市計画に関わってきた。その頂点にあるのが「東京計画1960(1960)である。この「東京計画」は、それ以前の大ロンドン計画を下敷きとする首都圏計画、すなわち同心円状に副都心、衛星都市を配する構造を根底的に転換するものであったこと、また、それにも関わらず、ハイアラーキカルなツリー構造(C.アレクサンダー)を免れていないことなど、多くの議論を生んだが、第一に問題とすべきは、丹下の都市へのスタンス、その立っている位置であった。

アーバンデザインという一つの平面を仮構し、都市のフィジカルな配列を提案することによって、その社会的、経済的、技術的実現可能性を問うというスタイルは、基本的に近代建築英雄時代の巨匠のスタイルである。そこでの建築家は、思想家にして実践家、総合の人間であり、世界を秩序づける神としての「世界建築家」のイメージである。丹下健三は、日本という国家が、戦後復興→講和、国連加盟→高度成長→東京オリンピック→大阪万国博という国際的地位を獲得していく過程で、「世界建築家」のイメージを体現し得たのである。

この「世界建築家」という幻想は、建築という行為の根源に関わるが故におそらく消滅することはない。しかし、それが大きく何かを動かす時代はもうないであろう。世界的建築家といっても、世界資本主義の運動に翻弄されながら建設市場を渡り歩く存在でしかない。多くの建築家たちは、対極的に、もう少し地域の現実に拘束され、土地に固有な表現を再構築するそんな存在に回帰しつつある。われわれはしばらく前からそんな時代を生き始めている。

 

 



[i] 丹下健三・藤森照信、『丹下健三 KENZO TANGE』、新建築社、2002年9月

[ii] 拙稿、「丹下健三と戦後建築」(「Ⅲ章 四人の建築家」)『国家・様式・テクノロジー―建築の昭和―』布野修司建築論集Ⅲ、彰国社、1998

[iii] 磯崎新、平良敬一、布野修司、古谷誠章、「「丹下健三」の読み方 そしてそれを乗り越える戦略は?」、『建築ジャーナル』、No.874、1995年12月

[iv] 拙稿、「Mr.建築家―前川国男というラディカリズム―」(「Ⅲ章 四人の建築家」)『国家・様式・テクノロジー―建築の昭和―』布野修司建築論集Ⅲ、彰国社、1998

[v] 稲垣栄三がつとにそのことを指摘している。稲垣栄三、『日本の近代建築』、丸善、1959年。SD選書、

[vi] 磯崎新、「建築家丹下健三氏を悼む 描き続けた国家の肖像」、朝日新聞、2005323

[vii] 丹下本人は二度ほどしか出校していない。残りの授業は渡辺定夫の代講であった。