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2024年8月31日土曜日

西山夘三の住宅・都市論,図書新聞,200708 11

 西山夘三の住宅・都市論 その現代的検証

布野修司

西山夘三(一九一一~九四年)は建築学の泰斗として知られる。その活動の母胎は戦前期に遡るが、戦後日本の建築界をリードし続けた建築家として、東の丹下健三、西の西山夘三と呼ばれた時代もある。死後十二年を過ぎて、西山スクールの研究者たちによってようやく編まれた「西山夘三」論が本書である。

評者は、西山夘三先生が開かれた京都大学の地域生活空間計画講座に招かれ、一九九一年から二〇〇五年まで助教授として勤めた。建築計画学の系譜で言えば、西山夘三研究室のライヴァルと目された東京大学の吉武泰水研究室の出身だけれど、形式的には孫弟子で、「西山夘三をどう乗り越えるか」は、「学」を志してからの一貫するテーマであった。その評価をめぐっては折に触れて書き、戦前期については、「西山夘三論序説」(『布野修司建築論集Ⅲ 国家・様式・テクノロジー―建築の昭和―』、一九九八年所収)にまとめた。評者の位置づけについてはそれに譲りたい。西山スクールの諸氏からの西山論がないことにはかねてから不満であったけれど、そうした意味で待望の書である。教えられることは少なくなかった。

西山夘三は、膨大な資料を残しており、その整理のために死後まもなく西山文庫が設立(一九九四年)された。西山夘三は、晩年、資料を駆使して、『建築学入門上下』という自伝を書いており、遺稿集として『安治川物語』もある。ただ、西山自身は時代を敗戦以前に遡行する構えを採って、戦後から現代にかけての関心は希薄であった。本書は、具体的な西山文庫の資料を基にして、西山の戦後の活動に焦点を当てることに、まず大きな意義を有している。

巻頭、総論が編者代表である住田昌二によって書かれている。住宅論を中心とした論考であるが、「政策論としてもリアリティを欠く」「学問的には概して評論の域をでていない」「急速に忘れ去られてしまうことになった」「社会の劇的な変化が十分読みきれていなかった」「スーパーマン西山は、ほぼ過去の人になったかに見える」といった極めてはっきりした評価が端々に示され、小気味いい。「西山住宅学の特質」として「問題解決学としての一貫した体系」を指摘する一方、固有の方法論の一貫がない、という。また、西山夘三は近代化論者であり、機能主義者であり、「マルクス主義者というよりシステム論者ではなかったか」という。同感である。住田は、西山住宅学の超克の方向として、「機能論から文化論へ①住宅計画論」「マスハウジングからマルチハウジングへ②住宅政策論」「階層から地域へ③住宅界総論」の三つの柱を「ニュー・グランドセオリーの確立」を目指す。

本書の第二の意義は、「二〇世紀パラダイムを体現した西山住宅計画学の終焉」をはっきり宣言する、以上のような住田論文を巻頭に置いていることにある。西山に対する批判はもう少し早くなされるべきであった、と思う。しかし、それなりの時間が必要であったことも理解できる。いずれにせよ、その「終焉」が西山スクールによってなされたことは画期的と言えるであろう。

全体は五章からなるが、もちろん、全ての論考が住田論文と同じ視座に立って書かれているわけではない。西山夘三の「学」の継承とその深度は、筆者の仕事との関係に応じてそれぞれで、それ自体興味深い。個人的に、まず興味深いと思ったのは、農家研究に焦点を当てた第1章(中島煕八郎)と大阪万博の会場計画を扱った第5章(海道清信)である。いずれも、西山本人が必ずしも書いてこなかったことが大きい。西山の住宅研究は、都市の庶民住宅に関するものが圧倒的な分量を占める。そうした意味で、西山の「農家研究」について明らかにすることは、その全体像を捕らえる上で極めて有効だと思う。戦後の建築計画研究が農村地域をひとつのベースとして出発していたことを中島論文は描き出している。『日本のすまい』全三巻に結実する、その足跡には実に迫力がある。しかし、地域計画の具体的展開は必ずしもない。第四章(中林浩)が「地域生活空間計画論」に焦点を当てるが、そこではむしろ今日の「景観計画論」への接続が意識されている。

全体を通じて、西山の「構想計画」という概念が、今後もさらに可能性を持つものとして注目されている。住田は、「ワークショップ」による「まちづくり」が方法論的には「構想計画」と同じ系譜にあるという。第三章(片方信也)が「構想計画」に焦点を当てるが、西山の「イエポリス」「京都計画六四」「二一世紀の設計」を住民主体のまちづくりという今日の論者の視点に直接結びつけるのは難しいのではないか。「建築家」という主体、「空間の論理」をめぐるアポリアは本書全体にも引き継がれているように思う。第五章に興味をもつのは、具体的なプロジェクトにおける西山の具体的な役割を、具体的に問うているからである。

第二章(森本信明)は、西山夘三の「持家主義批判」を執拗に問う。西山夘三の住宅生産の工業化(住宅の商品化)の主張と「持家主義批判」の奇妙な捩れについてはかねてから解せないのであるが、森本は日本における議論を丹念に解説してくれている。ただ、森本の主張する「まちなか戸建住宅」は果たしてどうか。アジアの諸都市を歩き回っていると、農家住宅を原型とする日本のような都市型住宅はむしろ少ない。都市には都市の住宅の型と街区の型がある。少なくとも「建築家」が「空間の型」を提示する役割は一貫してあるのではないか。



2024年8月30日金曜日

日本の建築界は中国をどのように眺め,記述し,伝えてきたのか,書評:松原弘典『未像の大国』,図書新聞,20121201

 松原弘典 『未像の大国 日本の建築メディアにおける中国認識』鹿島出版会、20125

 

布野修司

 奇妙な「建築」の本である。しかし、貴重な本である。

 中国に拠点において建築家として活動を開始した著者が、サブタイトルにあるように、『建築雑誌』(日本建築学会、一八八七年創刊)『新建築』(一九二五年創刊)『日経アーキテクチャー』(一九七六年創刊)という三つの建築メディアの中国関連記事を取り上げて、その「中国認識」を論じたのが本書である。

学位請求論文が基になっているというのであるが、まるで全体がカタログのようで、記事の番号、発表年月、執筆者、タイトル、執筆者の属性、記事の属性に関する表が矢鱈に出てくる。序章には、先行研究として中国関連文献の解題が書かれ、巻末に別表として、記事のリストが掲げられており、「中国観」が現れている箇所が抜書きされている。また、学位請求論文とは別に、中国と深いかかわりを持ってきた先達たちに対するインタビューが掲載されている。奇妙な「建築」の本というのは、以上のような資料がふんだんに詰め込まれているのに、建築写真が一枚もないということによる印象である。そして、貴重というのは、網羅的に集められた資料のリストは様々に利用可能で有難い、という意味である。

 冒頭に「日本の建築界はどのように隣国中国を眺め、記述し、伝えてきたのか」というのが本書の素朴なテーマである。本文は三章からなり、第一章では『建築雑誌』(一八八七-二〇〇八)の記事の分析、第二章では三誌(一九八五~二〇〇八)の分析、第三章では、「日本建築界の反復中国観における中国認識」と題する総合的分析が行われている。

 一、日本の建築界の中国に関する記述はだれがどのように書いてきたのか、二、日本の建築界は中国のどの部分について着目してきたのか、三、日本の建築家が繰り返し持つ対中論調にはどのような傾向があるのか、というのが学位論文としてのテーマ・セッティングであり、それぞれについての解答はそう面白いものではない。例えば、一については、それぞれの建築メディアの「情報の伝達軸」が異なっていることがわかったというけれど、建築メディアを分析の対象にする以前に明らかにしておくべきことであり、わかっている(明らかにできる)ことである。また、二についても、関心の対象を大きく「技術」「社会」「場所」の三つにわけ、それぞれのメディアで重点が異なっているというだけでは、一への解答と同様な感想をもつ。興味深いのは三への解答だろう。「中国観」には一七の論点が見出され(論点より記事の主題というべきであるが)、その論調を肯定否定にわけると、一貫するもの、交代するものが反復されているというのが骨子である。中国と日本の関係が大きく変わる中で、ステレオタイプ的な中国観が反復される一方、新たな中国の発見が記事の中に見出されるのは、当然といえば当然である。

 最大の結論はタイトルに示されている。「未像」というのは未だ像を結ばないという意味であろうか。日本は中国を「理解できない」のではなく、「理解したつもり」と「理解していない」の間の往復運動を繰り返しているだけだ、というのである。

 タイムリーというべきか。「尖閣国有化」によって、日中関係は、過去の歴史を反復して、未曽有の緊張関係に置かれつつある。建築界に限らず、日本社会は、「理解したつもり」の中国と「理解できない」中国の間で、どう対応していいのか戸惑うばかりではないか。

 実は、著者が中国を拠点にしようと決意した頃、北京で会ったことがある。これからは中国の時代だから本気でやったらいい、というと、もとよりその覚悟です、というのが答えであった。しかし、並大抵の覚悟ではなかったのであろうと、本書を読みながら思った。中国と全身で向き合うために、『建築雑誌』を創刊号からすべての記事を見つめ直す作業が必要だったのである。また、手当たり次第に中国関連文献を読み漁る必要があったのだと思う。CiiniなどによってWeb検索が容易に利用できるようになったとは言え、記事を読みこなしとおしたその作業には敬意を表したい。分析には著者自身の発言も含まれている。本書がこれから中国の建築界と向き合おうとする若い世代にとって最良のガイドになることは間違いない。

 同じような作業をして『戦後建築論ノート』を書いたから、建築メディアに取り上げられた。書かれたたもののみを素材とすることの限界については痛いほどよくわかる。本書でも、その手続き、論文としてのアプローチについては繰り返し留保がなされているように思われる。インタビュー集が追補されていることは、著者自らその「隔靴掻痒」感を自覚しているからだと思う。インタビューは、実に生き生きとまとめられており、それぞれ面白く読める。中国へのスタンスは多様である。 

 「中国をどう語るかということが、多くの日本人にとってきわめて普遍的な問いになりうる、ということがわかったのである」というのが帯にある。「尖閣国有化」以後、中国をどう語るのか。読者は、著者の提起する普遍的な問いに真摯に向き合う必要がある。






2024年8月29日木曜日

タウンアーキテクト論序説,群居,199712

 「タウン・アーキテクト」論序説

 

 「アーバン・アーキテクト」

 「アーバン・アーキテクト」という言葉が突然創り出され*1、一人歩きし、その挙げ句に闇に葬り去られようとしている。「アーバン・アーキテクト」という命名に僕は全く関知しないのであるが、その言葉が産み出された背景はよく知っている。というより、その主唱者であるかのように見なされて、インタビューを受けたことがある*2。きっかけは「建築文化・景観問題研究会」である。建築課長(住宅課長)として県や市に出向する建設省のスタッフと「建築家」が、主として「景観問題」を議論する場が(財)建築技術教育普及センター内につくられ、その座長を務めていたのである。

 その主張は、簡単にいうと「豊かな街並みの形成には「建築家」の継続的参加が必要である」ということである。「アーバン・アーキテクト」制と呼ばれる制度の構想は、いかにすぐれた街並みを形成していくか、建築行政として景観形成をどう誘導するか、そのためにどのような仕組みをつくるか、という問題意識がもとになっており、その仕組みに「アーバン・アーキテクト」と仮に呼ぶ「建築家」の参加を位置づけようという構想である。その限りにおいて、「建築界」にそう反対はないのではないか。

 しかし、実際、どう制度化するかとなると多くの問題がある。建築士法が規定する資格制度、建築基準法の建築計画確認制度、さらには地方自治法など既存の制度との関係がまず問題になる。さらに、それに関連する諸団体の利害関係が絡む。新しい制度の制定は、既存のシステムの改編を伴うが故に往々にして多くの軋轢を生むのである。「アーバン・アーキテクト」というのは、どうも新たな資格の制定もしくは新たな確認制度の制定の構想と受けとめられたらしい。(財)建築技術教育普及センターは、建築士試験を実施している機関である。そして、その資格の認定を誰が、どういう機関が行うかをめぐって、水面下で熾烈な抗争?があり、さしたる議論もないままに「アーバン・アーキテクト」という言葉は忘れ去られようとしているようである。

 

 マスター・アーキテクト

 「アーバン・アーキテクト」制の構想は、一方で「マスター・アーキテクト」制の導入と受けとめられたようである。「マスター・アーキテクト制」というのもはっきりしないのであるが、いくつか具体的なイメージがある。

 「マスター・アーキテクト」制とは、もともとは、大規模で複合的なプロジェクトのデザイン・コントロール、調整を一人のマスター・アーキテクトに委ねる形をいう。住宅都市整備公団の南大沢団地、あるいは滋賀県立大学のキャンパスの計画において、いずれも内井昭蔵をマスターアーキテクトとして採用された方式がわかりやすい。また、長野オリンピック村建設におけるケースがある。マスター・アーキテクトがいて、各ブロックを担当する建築家(ブロック・アーキテクト)に指針としてのデザイン・コードを示し、さらに相互調整に責任をもつ。もう少し複雑な組織形態をとったのが幕張副都心の計画である。委員会システムがとられ、デザイン・コードが決定された上で、各委員がブロック・アーキテクトとして、参加建築家の間を調整するというスタイルである。長野の場合、地元建築家とのJVが義務づけられている。いずれも、新規に計画されるプロジェクト・ベースのデザイン・コントロールの手法である。

 

 インスペクター

 一方、阪神・淡路大震災が起こって状況が変化した。街づくり、景観行政以前に、「建築家」の能力が問われたのである。そして、「アーバン・アーキテクト」などより、「インスペクター(検査士)」の方がテーマになった。景観以前に違反建築や既存不適格の建築を糾すのが先決というわけである。建築士制度の問題としては、「構造技術士」の構想がかねてからある。「第三者機関」による検査制度が導入されるとなると、「アーバン・アーキテクト」をめぐる議論は棚上げされかねない。

 ここでは何も法制度としての「アーバン・アーキテクト制」を問題にしようというのではない。現行法制度下においても、その構想を具体化する方策は色々ある。それに「アーバン・アーキテクト制」が全国一律の制度として出来上がった瞬間に別の問題が生ずる可能性がある。なぜなら、問題は、各地域で、各自治体で、それぞれ固有の、個性豊かな街並みをつくりあげるかであって、そのために必要な仕組みである。仕組みそのものも個性的で多様であることがおそらく前提となるのである。ここでは「アーバン・アーキテクト制」という制度の構想と区別するために、「タウン・アーキテクト」(あるいは「シティ・アーキテクト」)という言葉を一般的に用いることにしよう。

 

 ランドシャフト

 なぜ「タウン・アーキテクト」なり「シティ・アーキテクト」構想なのか。ひとつのきっかけはこの間の景観行政の展開である。

 景観(風景)条例を制定する自治体はおよそ二〇〇に登るという。今後も制定が続くことが予想される。しかし、景観条例とは一体何なのか。あるいは、それ以前に、景観とは一体何なのか。

 景観あるいは風景、ランドスケープあるいはランドシャフトといった概念をめぐっては多くの議論が必要である。しかし、ここでは概念規定をめぐる基本を確認するに留めよう。

 まず確認すべきは、景観あるいは風景がランド、すなわち土地に結びついた概念であるということである。景観あるいは風景は土地に固有なものである。クラウドスケープ、シースケープという場合も同じであろう。同じような景観はあっても、同じ景観はないのである。景観条例が地域の独自な景観のあり方をうたうのは当然である。

 景観と風景を分ける主張がある。「西欧の景観、日本の風景」という時、景観は客観的な土地の姿、風景は主観によって受けとめられた土地の姿という区別が前提のようだ。景観がWe see、風景はI seeという区別もある。ここで確認すべきは、景観にしろ、風景にしろ、共有化された土地の姿が問題となることだ。K.リンチの「都市のイメージ」がわかりやすい。土地に関する集合イメージが問題なのである。景観条例が成立するのは、景観が地域のアイデンティティに関わる共有されたものだからである。

 さらに確認すべきは、景観あるいは風景は、視覚的な土地の姿のみに関わるわけではない、ということだ 。景観は確かに観ることに関わる。しかし、サウンドスケープ(音景観)という概念もある。例えば、水や風を感じるのは視覚のみならず、聴覚もあり、触覚もある。また、臭いを嗅いだり、舐めてみたりということもある。要するに、景観あるいは風景は、視覚のみならず、五感の全てで関じる土地の姿に関わると規定しておいた方がいい。

 

 景観のダイナミズム

 景観あるいは風景をめぐっては、まだまだ考えておく必要がある。ひとつは景観のダイナミズムであり、また、そのレヴェルである。さらに、そのスケールである。

 景観は変化するものである。自然景観が四季によって異なるように、市街地景観も人々の営みによって日々姿を変える。新たな建物が建てられたり、既存の建物が建てられたり、長い間には市街地景観も変化する。この間あまりに急速に変化が起こったが故に、景観が意識されるようになったのであり、その前提は景観は変わらないというのではなく、変わるものだということである。

 あるいは、変わらないものと変わるものを分けて考えておく必要があるだろう。自然景観はそう変わらないものであり、市街地景観のような人為的空間は変わるというのがわかりやすいかもしれない。しかし、大きく自然景観を変えてきたのが近代であり、自然破壊の事例は枚挙に暇がない。また、市街地景観であれ、自然景観を傷つけることによって、あるいは自然景観の中で成り立つのだから、その区別は簡単ではない。いいたいのは景観を固定的に考えるのは不自然だということである。すなわち、景観はダイナミックに変化するものであり、保存(凍結保存)というのは本来不自然だという確認である。問題は、従って、変化の過程であり、その秩序ということである。

 景観といっても、誰がどこで享受するものか、という問題がある。視覚的景観について言えば、視点場の問題がある。全ての住民による全ての場所の景観が問題であることは言うまでもないが、景観という場合、上述したように共有されたものが問題となる。

 都市全体の景観、その都市を象徴する視点場と景観のレヴェルもあれば、地区(コミュニティ)単位で共有された佇まいもある。また、大きな通りに沿ったパースペクティブな景観もある。大景観、中景観、小景観といった区別がなされるのは、むしろ当然である。

 ある土地の姿という時、そもそもその土地がどうアイデンティファイされるかが問題である。景観という観点において、地域はどう設定されるかである。自然景観の特性によって、ある土地なり、地域があるまとまりをもって設定される場合はわかりやすい。かってはそうであった。しかし、都市が一定規模を超えると、また、全国の都市が同じような景観を呈し出すと、そのまとまりが極めて曖昧となる。景観(土地、地域)のまとまりを地区毎に区別する必要がある。ある街の景観について、ある地区の景観やイメージのみで議論するのは地区毎のアイデンティティを無視することにつなるのである。

 

 景観マニュアル

 景観あるいは風景という概念にたどたどしく拘ったのは、正直に言って、景観というものがわからないからである。結局、以上のように、極めて、全体的な概念として考えるしかない、と思えるからである。ストレートに言えば、景観は高さや色だけではない、ということである。高さや色に象徴されるものの背後に、以上のような何か全体的なものが問われているということである。

 そこで景観条例である。景観条例とは一体何か。

 よく言われるように、景観条例は、どの自治体のものもそう変わりはない。基本的な方針をうたうだけだから、そう変わりはないのも不思議はないといえる。しかし、以上で確認したような、地域(地区)毎の固有性、景観のダイナミズム、景観のレヴェルやスケールの区別についての基本理念がうたわれるわけではない。「景観が大事である」というけれど、実は何が大事なのかはわからない。問題は、具体的な規定、マニュアルの次元で明瞭になる。景観マニュアルもまた全国どこの自治体でも似たりよったりなのである。

 自然景観を守れ、というのであればある範囲でその施策は共有できる。しかし、どういう建物が相応しいかについてはそう簡単ではない。よく問題になるのは、国立公園とか国定公園における形態規制である。国立公園内では、勾配屋根でないといけないという。また、曲線を使ってはいけないという。さらに、原色をつかってはいけないという。なぜそうなるのか。風致地区とか、美観地区でも同じである。ステレオタイプ化されたマニュアルが用意されており、建築確認制度とは別に許認可にあたって規制を受ける。

 「周囲の景観にあった」デザイン、という。それが「勾配屋根」であり、「曲線は駄目」であり、「原色は駄目」となる。恐ろしい短絡的思考ではないか。どうも、景観行政といってもそのレヴェルの話に留まり続けているようなのである。

 「陸屋根」が駄目というのであれば、近代建築は一切駄目ということか。「帝冠様式」の時代を思い出す。木造の架構であれば勾配屋根となるのはごく自然である。しかし、鉄筋コンクリート造の建物を全て勾配屋根にしろとは不自然であり、行きすぎればファッショだ。ヴァナキュラーな建築にだって陸屋根はある。やはり地域毎、地区毎に考えるべきではないか。何で曲線は駄目か。自然界は曲線に満ちており、直線の方が不自然だ。色ほど文化的なものはない。日本人は生成(きな)りの色を好む、という。赤青黄色の原色は駄目、という。しかし、お稲荷さんの赤(朱)はどうか。緑に映えて綺麗だ、という人たちは多いのではないか。神社仏閣多彩な色を日本でも使ってきたのである。

 何を根拠に形態や色彩を規制できるのか。以上で、まず言いたいのは、一律の規定、マニュアルなどありえないのではないかということである。具体的な判断は個々の場所に即して議論するしかないのではないか。そこで必要とされるのが、「タウン・アーキテクト」のセンスなのである。

 

 景観条例・・・法的根拠

 しかし、問題は別の次元ですぐ明らかになる。仮に、何となく、ある地域(地区)について、共有化された将来イメージが確認されたとしよう。その確認の手続きこそが大問題であり、景観条例制定あるいはそれに基づく景観形成地区といった地域(地区)指定の前提に関わる大問題なのであるが、それ以前に、景観条例というものが何ら法的根拠をもたない、というさらに大きな問題がある。

 いくつか具体例を挙げよう。

 ある県の景観審議会に相次いで「物件」(作品)がかかった。ひとつは七五メートルの高層ビル。京都が六〇メートルで大騒ぎ、ということを考えると、地方都市(京都、金沢と並んで三古都を宣伝文句にうたう)にはいささか不釣り合いだ。しかし、この作品は景観形成地域からほんのわずかだけれど外れていた。もうひとつは当初九階建てのマンション。これは景観形成地域内であった。このふたつの建物は湖の河口の橋を挟んで南北に位置する。いずれも、この上ない景観を享受する位置に立地する。

 結果だけ言えば、ふたつの建物はいずれも既に竣工している。

 景観審議会は、公開であった。極めて進んでいる県といっていい。いずれのケースも二度も設計者・施工者に対する公開ヒヤリングを行った。七五メートルの高層ビルの場合、あまりにヴォリュームが大きく、交通問題なども予想されることから、代替地を探すのはどうか、というのがひとつのオールタナティブであったが、問題にならなかった。建築基準法上の要件を満たしておれば確認を下ろさざるを得ない。

 面白かったのは、設計者が「周辺環境に配慮すべし」という景観条例は充分遵守した、と繰り返したことである。ヴォリュームそのものがスケール・アウトであればどうしようもない。どうせなら、日本のどこにもない、強烈なランドマークになる「目立つ」デザインの方がいいのではないか、というのが僕の挑発であった。

 マンションの方は、明らかに景観条例違反であった。県がその土地を買い上げて公園化すべしというのが、委員の大半の意見であったが、うまくいかなかった。不思議なことに、階数を切り下げるということで決着がはかられた。それは筋が違うと、景観審議会としては、官報に施主者名を公表することになった。氏名公表が今のところ最大の罰則である。

 施主側にも言い分があった。ほぼ同じ位置にたつのに、高層ビルはOKでマンションは駄目だ、というのは納得できない。それに、既存の多くのビルが既に景観を壊しているのではないか、という主張である。

 かくして、この県の景観条例は、その効果が最も期待された「物件」の竣工によって骨抜きにされたのであった。

 一体どうすればいいのか。どうせ法的根拠がないのであれば、もっと実効ある仕組みが考えられるべきではないか。

 

 建築主事

 建築確認行政に関わるのは建築主事である。全国の土木事務所、特定行政庁に、約一七〇〇名の建築主事がいるという。

 建築行政といっても、確認行政に限定されるわけではない。都市計画に関わる施策の範囲は多部署にわたる。しかし、ここでは建築主事に限定して考えよう。「タウンアーキテクト」に一番近い存在は建築主事なのである。

 そもそも、「アーバン・アーキテクト」の構想は、建築指導行政のあり方についての反省から発想されたのである。

 建築確認行政は基本的にはコントロール行政であった。かって、警察がその仕事としていたように、基本は取り締まり行政である。建築基準法に基づいて、確認申請の書類を法に照らしてチェックするのが建築主事の仕事である。しかし、そうした建築確認行政が豊かな都市景観の創出に寄与してきたのか、というとそう言えないのではないか。「アーバン・アーキテクト」構想の出発点はここである。

 建築主事が「タウン・アーキテクト」になればいいのではないか。これが僕の答えであった。全国で二千人程度の、あるいは全市町村三六〇〇人程度のすぐれた「タウン・アーキテクト」(「シティ・アーキテクト」)がいて、デザイン指導すれば、相当町並みは違ってくるのではないか。それこそが建築指導ではないか。

 実は、ヒントがあった。デザインにまで口を出す建築主事さんが実際いたのである。建築主事は、街のことをよく知っている。法律制度にも通じている。建築に理解のある、建築を愛する建築主事さんこそ「タウン・アーキテクト」に相応しいのである。

 しかし、そうはいかないという。デザイン指導に法的根拠がないということもあるが、そもそも、人材がいないという。一七〇〇人の建築主事さんは、法律や制度には強いかもしれないけれど、どちらかというとデザインには弱いという。

 もしそうだとするなら、「建築家」が手伝う形を考えればいいのではないか。第二の答えである。その形は様々に考えられる。また、必ずしも一人の「建築家」を想定する必要はない。デザイン・コミッティーのような委員会システムでもいい。

 問題は権限と報酬である。

 

 デザイン・コーディネーター

 ある駅前のケース。突然知事が駅舎のデザインを発表する。神社の形式を模した切妻の屋根だ。一部市民が異を唱えた。しかし、それを議論する場所がない。鉄道線路が高架になり、JRは駅舎のデザインを独自に行う。相互を調整する部署がない。隣地に市の土地がある。市は「地域交流センター」を計画中だ。駅舎とどうマッチさせるか。

 こうしたケースは、日本中にあるのではないか。

 景観条例は、周囲との調和をうたうけれど、そもそも、個別の建築活動を調整する仕組みが自治体の内部にない。繰り返し指摘される縦割り行政の弊害である。

 問題は、建築主事の問題を超える。

 都市計画行政と建築行政をつなぐそもそもの仕組みがないのである。

 公共建築の建設を考えてみても、下手をするとバラバラである。学校、美術館、体育館は教育委員会。物産館は商工部。発注者が自治体の中でも異なっている。営繕部が統括すればいいけれど、必ずしも権限を与えられているとは限らない。街がバラバラになるのは、バラバラの仕組みの上に建築行政、都市計画行政が展開されているからである。

 

 コミッショナー・システム

 「アートポリス」「クリエイティブ・タウン・岡山(CTO)」「富山町の顔づくりプロジェクト」など、この間、「建築界」で注目を集めた試みは、強力なリーダーシップをもった首長によるものであった。

 一定規模以下の市町村では、都市計画の全体を統合する役割は首長に期待できる。「タウン・アーキテクト」としての首長である。建築市長あるいは建築副市長の制度をもつ市がドイツにはある。

 あるいは建築好きの首長のブレインに「建築家」がつくケースが考えられる。コミッショナー・システムである。

 しかし、いずれも問題がある。首長は任期に縛られる。首長が替わることにおいて、施策の継続性が担保されないことが多いのである。公共建築の設計施工が建設業界の利権に結びついており、首長の交替が支持層の交替に結びつくのである。

 特定の「建築家」によるコミッショナー・システムも同様の問題をもつ。基本的に「建築界」のボス支配に結びつく可能性をもつからである。コミッショナーは余程の見識をもつ「建築家」でなければ、システムはうまく機能しない。

 公共建築の設計については、「設計者選定委員会」のような委員会システムも考えられる。実際、様々な自治体で、そうした委員会がつくられている。いずれにせよ問題は、公平、公開、公正の原理がきちんと機能しているかどうかである。

 しかし、それ以前に「タウン・アーキテクト」が関わるのは公共建築の設計のみではないのである。

 

 シュタット・アルヒテクト

 ドイツの「シュタットアルヒテクト」制も、相当多様なようだ。また、必ずしも制度化されているわけではないようだ。さらに、思ったほど権限もないらしい*3

 ただ、法体系が違う。都市計画の上位計画権は市町村にあるのである。憲法に明確にうたわれている。市町村の「建築法」があって、その下に州の「建築法」がある。そして、その下に「記念物保護法」がある。

 また、様々なスケールの計画図書が用意されているのも違う。都市開発計画(1:20,000)、土地利用計画(1:10,000)、まちづくり基本計画(1:2,000)、地区詳細計画(1:1,000)。この地区詳細計画が法的拘束力をもっていることは知られていよう。

 シュタット・アルヒテクトに仕事を依頼するのは市町村である。議会が何人かの「建築家」から選定する場合もあれば、市長の知り合いに頼む場合もある。しかし、ほとんどの場合、都市計画局の依頼だという。その場合、コンサルタントといっていいのではないか。日本でもそう変わりはないかもしれない。

 もちろん、いずれの場合も厳格な中立性が求められる。西欧における公共性の概念の歴史の厚みを思い起こしておく必要があるかもしれない。

 計画書の作成にはしかるべき報酬が払われる。個々の指導については、費やした時間に応じて報酬を請求する。仕事の内容によって報酬の基準が定められているという。指導内容は記録に残すのが原則である。報酬などがまだ曖昧であるにせよ、このあたり、日本の自治体でも試みられ始めた「コンサルタント派遣」の仕組みとそう遠くはないのではないか。

 再開発事業の場合、シュタットアルヒテクトの報酬は事業費の中でまかなわれる。あくまでも、第三者として、中立的判断を行うのが原則である。一企業、一事業舎の利益を考えてはならない。シュタットアルヒテクトは、その都市で民間の仕事を行うのは原則として控える必要がある。実際には、仕事を行うことはもちろんある。

 

 NPO(ノン・プロフィット・オーガニゼーション)

 もちろん、シュタットアルヒテクトについてはもっと研究してみる必要がある。また、他の国や地域についても情報が欲しい。しかし、それぞれの地域で、独自の仕組みを考え出す必要がある。それが本来景観に迫る道である。

  上で少しだけ覗いたように、様々な仕組みの萌芽はある。また、既存の仕組みが有効に機能すればいい、ということもある。「建築審議会」にしろ、「景観審議会」にしろ、「都市計画審議会」にしろ、本来、「タウンアーキテクト」としての役割をもっている筈である。しかし、審議会システムが単に形式的な手続き機関に堕しているのであれば、別の仕組みを考える必要がある。

 「まちづくり協議会」方式も、「コンサルタント派遣」制度もそれぞれに可能性をもっている。阪神・淡路大震災後の復興まちづくり運動にその萌芽がある。「タウンアーキテクト」の嘱託制度もすぐやろうと思えば出来る。NPOのまちづくりの仕組みへの位置づけも一般に認識されつつある。

 

 タウン・アーキテクトの具体的な像を描いてみよう。すぐさまできることは少なくないのである。

 

 情報公開

 建築界に限らず日本社会のあらゆるレヴェルで情報公開(ディスクローズ)が求められている。とりわけ、中央官庁をはじめ地方自治体など行政当局の情報開示は時代の流れである。市民に対して、公平、公正であることを原則とするのであれば、情報公開はその前提とならなければならない。

 まず、最初の指針は情報公開である。

 既存のまちづくりの仕組みにおいても情報公開はすぐさま出来るはずである。都市計画審議会、建築審議会、景観審議会といった審議会システムも公開にすることによって形式的、手続的ではない実質的なものとなる可能性がある。実際、公開されている「景観審議会」もあるのである。まちの景観全体について責任をもつ、少なくとも議論を行って指針を提示する「景観審議会」の会長は、タウン・アーキテクトとして位置づけられていいだろう。景観審議会は、本来、タウン・デザイン・コミッティーとしての役割を持っているのである。

 景観賞などまちづくりに関わる懸賞制度の審査会も公開でいい。まちづくりに関わる議論を公開することによって、ひとつには、まちづくりの方向をめぐって、また、まちのアイデンティティをめぐって、ある共通の理解を育む機会が得られる。行政当局の位置づけとしては、ひとつの啓発活動である。また、行政内容についての説明責任を果たすことにもなる。

 

 設計競技のシステム化

 公共建築の設計競技の審査におけるヒヤリングも原則公開としたい。行政側としてはほとんど手間はかからない。公開ヒヤリングを行う場所の設定さえすればいいのである。公開ヒヤリングについては、島根県でいくつか経験がある。「加茂町文化センター」「故郷悠々会館(川本町)」「出雲市地域交流センター」「鹿島町体育館」などである。

 設計競技については、その競技方式をめぐって多くの議論がある。設計料入札が未だに行われつつある現状は、改革すべき多くの問題を抱えていると言わなければならない。しかし、まちのアイデンティティ形成という観点から、公共建築の設計者選定は考えられるべきである。

 特命、指名、公開、あるいはプロポーザル方式、二段階方式といった設計者の選定方式は多様であっていい。ただ、設計料の入札によってその金額の多寡によって設計者を決めるというのは言語同断である。設計の質は設計料によって決して担保されないのである。

 特命指名だから悪いということではない。他の設計者に代え難い能力をもっているとその設計者が認定できれば特命でも差し支えはないのである。問題は誰がどこで認定するかである。一般的には、特命の発注の決定が非公開で行われることに問題がある。また、通常、設計者の決定を行うのは首長であり、議会の承認を得る。議会において特命の根拠が説明できなくて、形の上だけで指名競技が行われるのが疑似コンペである。

 いずれの方式をとるにせよ、全ての設計者選定のヒヤリングを公開とする。これで随分すっきりする。具体的に、指名設計競技の場合を例にとって説明しよう。

 何人かの建築家がある公共建築の指名設計競技に指名されたとしよう。この場合、要求する提案内容は様々であってよい。いわゆるプロポーザル方式も含める。ただ、提案内容ではなく、建築家を選ぶ、あるいは組織体を選ぶという形のプロポーザル方式はとらない。あくまでも具体的な土地について、具体的な建物についての提案があって初めて設計者が選定できるというのが前提である。プロポーザル方式というのは人あるいは組織を選ぶのだという主張があるけれど、既往の実績の評価で設計者を選定するのであれば設計競技は必要ない。建築家にとって設計競技への参加が多大な労力を要することと指名料など設計競技にコストをかけたくないという行政の意向でプロポーザル方式が推奨されるが、全く間違いである。全ての公共建築はじっくりと時間とお金ををかけて練られるべきなのである。

 提案内容のフォーマットについては様々でいいが、後述するように、公開ヒヤリングが一般市民にも開かれたものであることを前提とするとき、専門の建築家だけでなくわかりやすいプレゼンテーションが求められるべきである。A3数枚程度でも提案内容は表現できる。どんな設計競技においても、設計競技への参加者は当然自らの提案内容わかりやすく提示することが求められるのは当然である。

 

 公開ヒヤリング方式

 さて、数名から一〇名ぐらいまでの指名設計競技参加者から提案がなされると、通常、ヒヤリングというのが行われる。ヒヤリングを行わないケースもあるけれど、その場合、提出物は相当詳細なものが必要となる。提出物を簡素にするプロポーザル方式による場合、ヒヤリングが原則である。公開設計競技の場合や指名設計競技でも二段階で行われる場合は、一段階目での書類選考はありうる。しかし、最終決定の際にはヒヤリングを前提としたい。審査員の能力の問題とも関連するけれど、提案の意図を直接質疑応答することによって、決定のための正確な情報を確認することが必要だからである。

 ヒヤリングは二〇分から三〇分程度、順次個別に行われるのが通常である。これを公開で全指名競技参加者が同席した上で行おうというのが公開ヒヤリング方式である。時間の関係で数名程度の参加が基本となる。

 審査委員会の委員長が司会を務める。まず、各提案者が提案内容を二〇分程度で説明する。二~三名の補助説明者を認める場合がある。その後、質疑応答を審査委員を含めて行う。一種のシンポジウム、パネル・ディスカッションの形式である。その意義は以下の通りである。

 ①住民の地域における生活に密接に関わる公共建築がどのようであるべきか様々な角度から議論する場となる。まちづくりのイヴェントとして位置づけることもできる。

 ②建築家にとって、自らの提案内容を審査委員のみならず、住民に直接アピールする場となる。まず、他の提案者の提案との差異を強調する必要がある。一方、専門以外の住民、審査員にもわかりやすく説明する必要がある。建築家には負担が大きいことになるが、自己訓練の場でもある。一般の人々に建築の楽しさを理解してもらう絶好の機会となる。

 ③審査員にとって、同じテーマについては共通に聞け比較できるメリットがあり、時間の節約にもなる。一方、質問の内容は、審査員の関心、判断根拠を提案者、住民に示す機会となる。審査員の見識もオープンに問われるのである。

 本審査は原則非公開でいい。公開で決定することももちろん行われていいけれど、特に建築専門以外の審査員の自由な意見が出にくいことがある。住民投票によって決めることを主張する向きもあるけれど、町並み形成に関わる判断はそれなりの専門的知見とセンスが必要である。また、用地決定などで政治的に対立がある場合、提案内容の質とは別の要素が介入する恐れがある。住民相互が十分に議論する場が保証される場合は住民投票ということも考えられるけれど現状では難しい。例えば、京都の「ポン・デ・ザール(三.五条大橋)」建設問題で、都市計画審議会の案の閲覧公開に対する意見書は地元住民を中心に賛成多数であったけれど、有識者がマスコミをベースに反対運動を展開するというように、議論の場がない。住民投票制度など、きちんとした決定の仕組みについて情報が周知徹底していることが前提となる。

 本審査は非公開としても、但し、可能な限り詳細な報告書がつくられるべきである。基本的には公開が精神であるということである。何度かの投票を行った場合、審査員がそれぞれどう投票したかは公開されたかは記録され、講評されるべきである。そうすることにおいて審査員の役割も果たすことができるのである。

 

 公共建築建設委員会

 ところで、設計競技における最大の問題は、実は審査委員会の構成である。審査委員会は、基本的には首長が任命する形をとる。住民(議会)、行政当局(担当部長)、専門家(建築家)、関連団体、有識者等々、あるバランスを考えて組織される。まず、このバランスについてまず問題がある。建築専門家とそれ以外の委員の判断が往々にして食い違うのである。また、専門家といっても、分野は様々で、実務に通じているかどうかで相当違う。まあ、建築界としては審査員の過半は建築界から選んで欲しいというところだろう。実際、審査員の構成が決定に大きく左右するのだから、審査委員会の決定こそが予め問題であることは明らかである。

 そこで第一の問題は、審査委員会が全くテンポラリーに組織されることである。場合によると、設計条件や応募要項に審査員が全くタッチしない場合もある。それでは審査委員はあまりにも無責任である。また、審査が終わると審査委員会は解散し、設計の過程で様々な問題が起ころうと重大な変更がなされようと無関係であることが多い。審査委員会は設計案あるいは設計者の選定のみに関わる場合がほとんどである。すぐれた公共建築を実現するために設計競技の審査委員会はもっと責任をもつべきである。

 そのためには、審査委員会はその建築物が竣工するまで(あるいは竣工後も)は解散しない形を模索するのがいい。設計競技の審査委員会を一種の建設委員会へと接続するのである。

 こうして一定期間、具体的にはあるひとつの公共建築物の設計建設過程について一貫して責任をもつボードが成立する。タウン・アーキテクトないしタウン・デザイン・コミッティーのひとつのイメージがここにある。

 

 タウン・デザイン・コミッティ・・・公共建築の設計者選定委員会

 個々の公共建築の建設を肌理細かく行うことは、まちの景観をつくっていく上で極めて重要である。しかし、どのような施設を配置していくかについては上位のデザインが必要である。いわゆる都市計画が必要である。しかし、一般に都市計画というと必ずしもランドスケープ・デザインに関わるわけではない。ゾーニング(都市計画区域の決定)、区画整理、道路整備、公共施設の建設といった手法が一般的にとられるが、ランドスケープ・デザインとしての相互の関連づけは行われない。そこで、まちの景観について、一貫した調整を行う機関が必要となる。

 具体的には、まず、公共建築について、設計者をどう配置していくかがわかりやすい。様々な自治体で設けられている設計者選定委員会がその役目をになう。

 設計者選定委員会は、場合によっては、設計者の選定のための設計競技方式と審査委員会(前述のイメージではこれが建設委員会になる)の組織を提案する。設計者そのものを直接選定するより、その選定方法を決定するという形で二重化して置く方が様々な利害を調整する上でよりすぐれている。

 具体的なイメージは以下のようである。

 高度な技術あるいは特殊な技術を必要とする建築、地域外の建築家の経験蓄積に期待する設計競技方式をとる。公開コンペによって広く英知を求める。地方自治体でも国際公開コンペを行うことも可能である。地域に密着した施設については地域の建築家を優先する。地域外の建築家の参加を求める場合も、地域の建築家との協動を求める。要するに地域性を踏まえ、地域で暮らしていく建築家のあり方が常に具体的にイメージされている必要がある。設計者選定委員会は、個々の町並み形成に相応しい設計者選定の枠組みを提示するのである。

 中央のスター・アーキテクトが地域で仕事をすることももちろんあっていいけれど、タウン・アーキテクトの存在基盤はあくまで地域との持続的関わりが前提とされなければならない。それを担保するのが公共建築の設計者選定を主要な機能とするけれど恒常的に設置されるタウン・デザイン・ボード、あるいはタウン・アーキテクトである。特に、土木構築物にも積極的にデザイナーを登用する役割がこのデザイン・ボードにはある。 

 

 百年計画委員会

 いささか公共建築の設計者選定の問題に立ち入り過ぎたかも知れない。しかし、公共建築のデザインはまちのアイデンティティ形成に大きな力を持っており、そのデザインをめぐる議論の場と方向性は持続的な場がなければ維持できない。首長が替われば都市計画の方針ががらりとかわうのが日本での通常である。しかし、まちづくりというのは継続性が極めて重要である。首長や議員の任期に縛られない仕組みの構築が必要である。

 その仕組みとして面白いのが「百年計画委員会」の構想である。それぞれのまちの百年後の姿を思い描く委員会をそれぞれのまちがもつのである。これもタウン・デザイン・コミッティーの役割のひとつのイメージになる。

 奈良町百年計画あるいは京都グランドヴィジョン・コンペということで、まちの百年後を思い描く試みを行ったことがあるが実に有効である。奈良町の場合、各個人の家の百年後がわかる図を描いたのであるが、個々人の関心も惹きつけることができる。

 まず、面白いのは百年後に残っているものと残っていないものを分けて見る必要がある。鉄筋コンクリートの公共建築よりも意外に木造住宅の方が残っている可能性がある。百年後には誰も生きてはいないけれど、まちにとって大事なものを評価する作業が百年計画には不可欠である。かくまちには、恒常的に百年後を考え続けるボードが欲しい。まちの賢人会議といったかたちでもいいし、既存の審議会を永続化する形でもいい。

 

 タウン・ウオッチング---地区アーキテクト

 もういくつかタウン・アーキテクトのイメージを膨らましておこう。ひとつは、個々の建築設計のアドヴァイザーを行う形が考えられる。住宅相談から設計者を紹介する、そうした試みは様々になされている。また、景観アドヴァイザー、あるいは景観モニターといった制度も考えられる。とにかく、まちの姿の現状について把握するのがタウン・アーキテクトの出発点である。

 まちといっても市町村の規模は様々である。まちの全体の景観とともに地区毎のアイデンティティが重要であることは上述した通りである。そうすると、地区アーキテクトのような存在を想定することができる。地区アーキテクトが集まって、タウン・デザイン・コミッティーが構成されるのである。

 地区アーキテクトはもちろん複数であってもいい。当面、大学の研究室単位で地区を分担する形をとってもいい。地区アーキテクトは、地区の現状をまず調査する。図面や写真として記録する。年に一度調査を行って、変化を報告する。余裕があれば地区の将来像を描き、具体的な建築行為(増改築、建替)についてアドヴァイスを行う。まちの現状を常に把握(タウン・ウオッチング)するのがタウンアーキテクトの出発点である。

 具体的な計画の実施となると、様々な権利関係の調整が必要となる。そうした意味では、タウン・アーキテクトは、単にデザインする能力だけでなく、法律や収支計画にも通じていなければならない。また、住民、権利者の調整役を務めなければならない。一番近いイメージは再開発コーディネーターであろう。

 

 タウン・アーキテクトの具体像

  おそらくは複数からなるタウン・アーキテクトの具体像を想い描いてみよう。

 タウン・アーキテクトは以下のような職務を担う。

 ①まちの景観デザインのあり方について調査を行い、その将来にわたってのあり方についての基本的考え方をまとめる。あるいはそれを議論する場を恒常的に維持する。

 ②まちの景観デザインに関わる公共事業のあり方について自治体に対するアドヴァイスを行う。特に公共建築の建設維持管理について体系化を計る。

 ③公共建築の設計者選定について、その選定方式を提案し、その実施についてアドヴァイスを行う。

 ④住民の様々なまちづくりの活動、建築活動について景観デザインの観点からアドヴァイスを行う。あるいはそのためのワークショップなど様々な仕組みを組織する。

  ⑤地区を定常的に観察し、その将来のあり方についてアドヴァイスする。また、定常的に町のあり方を考えるヴォランティアを組織する。

 問題は、権限と報酬である。条例などによって権限を設定できればいいけれど、地方自治法等との絡みで難しい面もある。考えられるのは、タウン・アーキテクトを自治体の臨時雇員あるいは嘱託とすることである。あるいは建築市長という形がとれればいい。権限はともかく報酬は、何らかの形で保証されなければならない。

 当然、任期制を採る。また、任期中は当該自治体での公共建築の実施設計には当たれないのが原則である。

 

  タウン・アーキテクトの具体像といっても以上はスケッチにすぎない。実際には様々な形態が考えられるであろう。既存の建築関連諸団体との連携も充分とる必要がある。

 一方、最大の問題はまちづくりや景観デザインに関心をもつ「住民」「市民」の「不在」である。あるいは「受動性」である。また、「タウン・アーキテクト」というに値する能力と見識を持った人材の不足である。下手な制度化を考えるより、まずは実例を積み重ねる、そんなところがとりあえずの方針であろうか。

 

*1 「アーバン・アーキテクト」、梅野住宅局長 巻頭言 建築技術教育普及センター・ニュース、一九九四年

*2 日経アーキテクチャー インタビュー

*3 アレキサンダー・シュミット、「美しいまちなみ景観に関する講演会」、建築技術教育センター、一九九七年四月

2024年8月28日水曜日

職人大学の創立に向けて,建設専門工事業者の社会的地位の向上と「職人大学」の創立,日刊建設工業新聞,19961115

 職人大学の創立に向けて,日刊建設工業新聞,19961115

 

建設専門工事業者の社会的地位の向上と「職人大学」の創立 

布野修司(京都大学助教授)

 

 「職人大学」の設立を目指す国際技能振興財団(KGS)が労働省の認可を受け、日比谷公会堂で盛大に設立大会が行なわれたのは、四月六日のことであった。母胎となったのは、サイト・スペシャルズ・フォーラム(SSF)である。その設立は一九九〇年十一月だから、小さな産声をあげてからほぼ五年の月日が流れたことになる。

 サイト・スペシャルズとは、サイト・スペシャリスト(現場専門技能家)に関する現場のこと全てをいう。職人、特に屋外作業を行う現場専門技能家の地位が不当に低く評価されている。その社会的地位の向上を実現するために「職人大学」をつくろう、と立ち上がったのが小野辰雄国際技能振興財団副会長をはじめとする専門工事業の皆さんであった。

 SSF設立当初からそのお手伝いをしてきたけれど、建設業界のうんざりするような体質にとまどうことも多かった。しかし、そうした中で頼もしく思うのは専門工事業の力である。とりわけSSFを支えてきた専門工事業の皆さんには頭が下がる。ゼネコンが川上志向を強め現場離れして行く中で、現場の技術を保有するのは専門工事業である。その未来に大いに期待したい。

 ゼネコンは管理技術のみに特化して空洞化しつつある。その実態を明らかにしたのが「職人問題」ではなかったか。建設産業を支えてきた職人が切り捨てられていく。誰が職人を育てるのか。問題は、日本の学歴社会の全体、産業界の編成全体に関わる。SSFは当初、精力的にシンポジウムを開催した。ドイツ、アメリカ、イギリスから職人、研究者を招いて国際シンポジウム行った。ヨーロッパのマイスター制度などに学ぶためにドイツへ調査に出かけてもいる。職人養成のためのシステムのみならず、職人育成のためのソーシャル・カッセ(社会基金)の役割、その仕組みに注目すべきものがあると考えたからである。

 SSFは真摯な議論の場であり続けた。どんな「職人大学」をつくるのか。自前の大学をつくりたい、これまでにない大学をつくりたい。大学の建築学科にいると嫌というほどその意味はわかる。今の制度的枠組みの中では限界が大きいのである。すなわち、普通の大学だと必然的に座学が中心になる。机上の勉強だけで、職人は育てることはできないではないか。とにかく構想だけはつくろう、ということで、いろいろなイメージが出てきた。本部校があって、地域校がいる。建築は地域に関わりが深いのだから、一校だけではとても間に合わない。さらに働きながら学ぶことを基本とするから、現場校も必要だ。

 しかし、議論だけしてても始まらない。それで生まれたのがSSFスクーリング(実験校)である。一週間から十日合宿しながら「職人大学」をやってみようというわけである。職長クラスの参加者を募った。何が問題なのか、どういう教育をすればいいのか、手探りするのが目的であった。ヴェテランの職長さんの中から「職人大学」の教授マイスターを発掘するのも目的であった。

 SSFの実験校は既に移動大学である、というのが僕の見解である。しかし、世の中いろいろとタイミングがある。SSFが飛躍する大きなきっかけになったのは、KSD(中小企業経営者福祉事業団)との出会いである。産業空洞化が危惧される中で、優れた職人の後継者の育成を怠ってきたのは誰か。その提起を真摯に受けとめたのが国会議員の諸先生方にもいた。参議院に中小企業特別対策委員会が設置され、「職人大学」設立は大きな関心を集め出すことになった。しかし、「職人大学」設立への運動は今始まったばかりである。専門工事業に限らず、建設産業界全体の取り組みが問われている。問題は、建設業界を支える仕組みなのである。


 

2024年8月27日火曜日

阪神淡路大震災と戦後建築の五〇年,建築思潮Ⅳ,199502

 阪神・淡路大震災と戦後建築の五〇年

世紀末建築論ノートⅣ

布野修司

 

都市の死

 阪神・淡路大震災直後に次のように書いた。

 

 西宮から三宮まで、被災地を縫うように歩いた。相次ぐ奇怪な街の光景に息をのみ続ける体験であった。滅亡する都市のイメージと逞しく再生しようとする都市のイメージの二つがそこにあった。

 横転した家の屋根が垂直になって、真上から見るように眼の前にある。家や塀、電柱がつんのめるように倒れて路をふさいでいる。異様な形の物体がそこら中に転がっている。何もかもが、折れ、転がり、滑り、捻れ、潰れている。平衡感覚が麻痺してきた。どうしたらこんな壊れ方をするのか。全てがバラバラで、町のここそこがゴミ捨て場になったかのようだ。航空写真からは実感できない光景だ。

 五〇年前日本の町の多くは廃墟であった。一面の焼け野原から出発し、懸命に戦後復興を果たし、高度成長を遂げ、そして今や日本は世界有数の国となった。その繁栄を象徴する現代都市が一瞬にして機能を停止する。そんなことがあっていいのか。この五〇年の日本のまちづくりは一体なんだったのか。瓦礫の山と化し、バラバラになった町の姿を目の当たりにして、様々な思いがこみ上げてくる。

 何故、こんなに被害が出たのか。都市直下型地震の恐ろしさと共に大惨事の原因が様々に指摘される。灰燼に帰したのは空襲を免れた戦前からの木造住宅の密集地区が多い。倒壊した建造物には確かに古い木造住宅が目立つ。しかし、鉄筋コンクリート造や鉄骨造の建造物でも横転したものがある。倒壊しなくても決定的なダメージを受けたものが少なくない。その象徴が高架鉄道であり、高速道路である。現代都市の脆さ、防災体制の不十分性、危機管理の諸問題も様々に指摘される。歩き回ってみると、色々気づく。このとてつもない大震災の経験はディテールに至って克明に記録され、かけがえのない教訓とされねばならない。

 例えば、一階に南面して大きな開口部をもつ居間を設け、二階に個室群を設ける日本の家屋の構造は、果たして都市住居としてふさわしいものであったのか。無惨にも押しつぶされた一階を見ると、一階には壁の量がもう少しバランスよく必要であるように思えてならない。日照の点からも二階に居間を設けるパターンは何故考えられて来なかったのか。木造は駄目だ、ということには必ずしもならないだろう。耐火建築が火を抱え込んで類焼していったという考えられない事実もある。徹底した検証が必要である。

 しかし、問われているのは単なる技術的な問題ではない。災害に対する心構えの問題でもない。根源において問われるのは、現代都市のあり方、まちづくりのあり方に関わる思想である。都市生活が如何に脆弱な基盤の上に成り立っているのかを嫌というほど今回思い知らされたのである。

 現代都市はひたすらフロンティアを求めて肥大化してきた。ひたすら移動時間を短縮させるメディアを発達させ集積度を高めてきた。郊外へのスプロールが限界に達するや、空へ、地下へ、海へ、さらにフロンティアを求め、巨大化してきた。山を削って宅地をつくり、その土で海を埋め立て土地をつくる。一石二鳥というのであるが、自然をそこまで苛めて拡大を求める必要があったのか。都市や街区の適正な規模について、あまりに無頓着ではなかったか。

 燃える自宅の炎をただ呆然と見つめるだけという居住地システムの欠陥は致命的である。いくら情報メディアが張り巡らされていても、地区レヴェルの自律システムが余りに弱い。水、ガス、水道というライフラインにしても、地区毎に自律的システムが必要ではないか。交通システム、情報システムにしても、重層的なネットワークを組む必要があるのではないか。

 現代都市の死、廃墟を見てしまったからには、これまでとは異なった都市の姿が見えたのでなければならない。垣間みた被災地の人々の姿は実に逞しかった。そのエネルギーをこれまでにない都市のあり方へと結びつけていかねばならない。復興の力強い歩みの中に新しいまちづくりの夢を共にみたいと思う△注1△。

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 今も考えていることはそうは変わっていない。

 頭を離れないのは、都市の死、ということである。

 そして、都市の再生というテーマである。

 

文化住宅の悲劇…暴かれた

 

 阪神・淡路大震災の発生、避難所生活、応急仮設住宅居住、そして復旧・復興へという過程を見てつくづく感じるのは、日本社会の階層性である。すぐさまホテル住まいに入った層がいる一方で、避難所が閉鎖(八月二〇日)されて猶、避難生活を続けざるを得ない人たちがいる。間もなく出入りの業者や関連企業の社員に倒壊建物を片づけさせる邸宅がある一方、未だ手つかずの建物がある。びくともしなかった高級住宅街のすぐ隣で数多くの死者をだした地区がある。これほどに日本の社会は階層的であったか。

 今回の阪神・淡路大震災で最もダメージを受けたのは、高齢者であり、障害者であり、住宅困窮者であり、外国人であり、要するに社会的弱者であった。結果として、浮き彫りになったのは、都市計画の論理や都市開発戦略がそうした社会の階層性の上に組み立てられてきたことだ。

 ひたすらフロンティアを求める都市拡大政策の影で、都心が見捨てられてきた。山を削って宅地をつくり、その土で海を埋め立て土地をつくる。一石二鳥の投資効果のみが求められ、居住環境整備や防災対策など都心への投資は常に後回しにされてきた。

 最も大きな打撃を受けたのが「文化(ブンカ)」である。関西で「ブンカ」というと「文化住宅」という一つの住居形式を意味する。もともとは大正期から昭和初期にかけて展開された生活改善運動、文化生活運動を背景に現れた都市に住む中流階級のための洋風住宅(和洋折衷住宅)を「文化住宅」といったのだが、今日の「文化住宅」は、従来の設備共用型のアパートあるいは長屋に対して、各戸に玄関、台所、便所がつく形式を不動産業者が「文化住宅」と称して宣伝しだしたことに由来する。もちろん、第二次大戦後、戦後復興期を経て高度成長期にかけてのことだ。一般的に言えば「木賃(もくちん)アパート」だ。正確には、木造賃貸アパートの設備専用のタイプが「文化」である。「アパート」というと、設備共用のタイプをいう。もっとも、一戸建ての賃貸住宅が棟を連ねるタイプも「文化」といったりする。ややこしい。住戸面積は同じようなものだけれど、専用か共用かの差異を「文化」的といって区別するのである。アイロニカルなニュアンスも込められた独特の言い回しだ。

 その「文化住宅」が大きな被害にあった。木造だったからということではない。木造住宅であっても、震災に耐えた住宅は数しれない。木造住宅が潰れて亡くなった方もいるけれど家具が倒れて(飛んで)亡くなった方が数多い。大震災の教訓は数多いけれど、しっかり設計した建物は総じて問題はなかった。

 「文化住宅」は、築後年数が長く、白蟻や腐食で老朽化したものが多かったため大きな被害を受けたのである。戦後の住宅政策や都市政策の貧困の裏で、「文化住宅」は、日本の社会を支えてきた。それが最もダメージを受けたのである。それにしても「文化住宅」とは皮肉な命名である。阪神・淡路大震災によって、「文化住宅」の存在という日本の住宅文化の一断面が浮き彫りになったのである。

 

廃棄される都市……二重の受難

 

 被災地を歩くと活気がない。片づけられた更地が点々と続いて人気の無いせいだ。仮設住宅地も元気がない。活気のあるのは、テント村であり、避難所であり、…人々が懸命に住み続けようとする場所だ。人々の生き生きとした生活があってはじめて都市は生き生きとする、当然のことだ。

 とにかく元に戻りたい、復旧したい、以前と同様暮らしたい、というのが、被災を受けた人々の願いである。

 生活の基盤を奪われた被災者にとって、苦難は二重、三重である。全ての避難所は閉鎖されたのであるが、避難生活が終わったわけではない。当初、三〇万人もの人が住む場所を奪われ、避難所生活を強いられたのであるが、なお、数千の人々が残されている。テント生活など、多くの人が困難な生活をおくっていることには変わりはない。その場所に生活の根拠があり、そこに住み続けるしかない人々がいるのは当然のことだ。

 応急仮設住宅の多くが建設されたのは、都市郊外である。都心に仮設住宅を建てる余地がないのは致命的である。利便性が悪く、空家が出る。同じ場所に住み続けなければ、仕事ができないのだから無理もない。数だけ建てればいいというわけではないのだ。被災し、なお、避難生活を強いられ続ける、二重の受難である。

 仮設住宅での老人の孤独死がいくつも報じられる。コミュニティが存在せず、近所つきあいがないせいである。入居にあたって高齢者を優先したのはいいけれど、その生活を支える配慮がまったくされなかった。被災を受けて、さらにコミュニティを奪われる、三重の受難である。

 さらに復興計画ということで、区画整理が行われる。場合によると、土地の減歩を強いられる。四重の受難である。

 そして、被災した建造物を無償で廃棄したのは決定的である。都市を再生する手がかりを失うことにつながるからだ。五重の受難である。

 特に、木造住宅の場合、再生可能であるという、その最大の特性を生かす機会を奪われてしまった。廃材を使ってでも住み続ける意欲の中に再生の最初のきっかけもあったはずである。何故、鉄筋コンクリートや鉄骨造の建物の再生利用が試みられないのかも不思議である。技術的には様々な復旧方法が可能である。そして、関東大震災以降、新潟地震の場合など、かなりの復旧事例もある。阪神・淡路大震災の場合、少なくとも、再生技術の様々な方法が蓄積されるべきではなかったか。

 阪神・淡路大震災は、人々の生活構造を根底から揺るがし、都市そのものを廃棄物と化す。しかし、それ以前に、我らが都市は廃棄物として建てられているのではないか。建てては壊し、壊しては建てる、阪神・淡路大震災は、スクラップ・アンド・ビルドの体質を浮かび上がらせただけではないか。

 

復興計画の袋小路…変わらぬ構造

 

 各地域で復興計画が立案されつつあるけれど、なかなか動かない。区画整理や住宅地区改良の事業計画も、権利者の調整は難しいし、時間もかかる。行政当局としては、予算獲得のために事業決定を急ぎたいのだけれど、住民の意向も尊重されなければならない。ジレンマである。

 しかし、問題はそれ以前にある。阪神・淡路大震災は、決して何かを変えたわけではないのである。

 建築や都市の防災性能の強化がうたわれ、防災訓練がより真剣に行われるのは当然のことである。しかし、危機管理や防災対策のみが強調され、当初からまちの生き生きとした再生というテーマが見失われてしまっている。阪神淡路大震災の復興計画と、関東大震災後の復興計画や戦災復興とはどう違うのか。この戦後五〇年の日本のまちづくりは一体何であったのか、と顧みる視点がほとんどない。

 戦災によって木造都市の弱点は痛感された。それ故、防火区域を規定し、基準をつくり、都市の不燃化に努めてきた。しかし、なお都市が脆弱であった。直下型地震は想定されていなかった。それ故、さらにひたすら防災機能を強化すべきだ、という。地盤改良や耐震基準の強化、既存構築物の補強、防災公園の建設、区画整理…が強調される。同じことの繰り返しである。例えば、なぜ、一七メートルの道路が必要なのか、誰も説明できないままに決定される、そんなおかしな事が起こっている。防災ファシズムというべきか。

 立案された復興計画をみると、大復興計画というべき巨大プロジェクト主義が見えかくれしている。震災とは関係ない以前からの大規模プロジェクトの構想がさりげなく復興計画に含められようとしたりする。国家予算をいかに被災地に配分するかがそこでの焦点である。都市拡大政策の延長である。フロンティアを求めてそこに集中的に投資を行う開発戦略は決して方向転換していないのである。

 震災特需は、建設業者にとって僥倖である。壊して建てる、一石二鳥である。一方で、倒壊した建造物をつくり続けてきた責任、その体制を自ら問うことはない。喉元過ぎれば熱さを忘れる。地震も過ぎ去れば、単なる天災である。その体験はみるみる風化し、忘れ去られていく。もう数百年は来ないであろう、自分が生きている間はもう来ない、という必ずしも根拠のない楽天主義が蔓延してしまっている。

 住宅復興にしても何も変わらない。とにかく戸数主義がある。数さえ供給すればいい、という何も考えない怠惰な思考パターンがそこにある。そこには、これまでのまちづくりのあり方についての反省は必ずしも無いのである。事業手法にしても、計画手法にしても、既存の制度的な枠組み、官僚的な前例主義に捕らわれて、臨機応変の対応ができないのである。

 復興計画において必要なのは、フレキシビリティーである。ステップ・バイ・ステップの取り組みである。予算も臨機応変に組み替えることが必要となる。しかし、そのとっかかりもない。被災者の生活の全体性が忘れ去られている。

 

大震災の教訓

 

 復興過程にはいくつもの袋小路がある。震災が来ようと来まいと、基本的な問題点が露呈しただけだ。問題は、被災地であろうと被災地でなかろうと関係ないのである。

 阪神・淡路大震災がローカルな地震であったことは間違いない。国民総生産に対する被害総額を考えても、関東大震災の方がはるかにウエイトが高かった。しかし、その都市や建築のあり方について与えた意味は、決して小さくない。というより、日本のまちづくりや建築のあり方に根源的な疑問を投げかけたという意味で衝撃的であった。どこにも遍在する問題を地震の一揺れが一瞬のうちに露呈させたのである。

 震災があったからといって、そう簡単にものごとの仕組みが変わるわけではない。そのインパクトが現れてくるまでには時間がかかるだろう。被災した子どもたちのことを考えると、その体験が真に生かされていくのはしばらく先のことである。避難所生活を体験した人々の三十万人という規模は、その拡がりを含めてかなり大きい。大震災の教訓がいずれ社会を変えていくこと、少なくともなんらかの影響を及ぼしていくことは間違いないところである。

 しかし、一方で、震災体験が急速に風化していくのも事実である。地震の体験は必ずしも蓄積されないのではないか、という思いも時間が経つにつれてわいてくる。震災経験が記憶されるのはせいぜい体験した一代か二代までではないか。例えば、伝統的な大工技術は、長年の経験を蓄積してきており、地震にも十分対処できるというけれど、垂直加重についてはそう言えても、今回のような直下型の縦揺れについては疑わしいという。

 何も変わらない、事態が何事もなかったようにしか推移していかないのを見ていると、震災体験をどう継承していくかこそが最大の問題であると思えてくる。震災体験をどう生かすか、阪神・淡路大震災に学ぶことを、いくつか列挙してみよう。

 

自然の力

 なによりも確認すべきは自然の力である。水道の蛇口をひねればすぐ水がでる。スイッチをひねれば明かりが灯る。エアコンディショニングで室内気候は自由に制御できる。つい、人工的に環境をコントロールできる、あるいはしていると考えがちなのであるが、とんでもない。災害が起こる度に思い知らされるのは自然の力の大きさである。そして、そうした自然の力を読みそこなっていること、自然の力を忘れていることが思い知らされる。山を削って土地をつくり、湿地に土を盛って宅地にする。そして、海を埋め立てる。本来人が住まなかった場所だ。災害を恐れるからである。関西には地震はこない、というのはどんな根拠に基づいていたのか。軟弱地盤や活断層、液状化の問題についていかに無知であったか。また、知っていても、結果的にいかに甘く見ていたか。また逆に、自然のもつ力のすばらしさも思い知らされる。火を止めるのに緑の果たした役割は大きいのである。自然の河川や井戸の意味も大きくクローズアップされた。

 

都市の論理

 

 都市計画の問題として、まず、指摘されるのは、開発戦略の問題点である。山を削って宅地を造り、その土で海を埋める、一石二鳥とも三鳥とも言われた都市経営の論理は、企業経営の論理としては当然であり、自治体の模範とされた。しかし、その裏で、また、結果として、都心の整備を遅らせてきた。都心に投資するのは効率が悪い。防災にはコストがかかる。経済論理が全てを支配する。都市生活者の論理、都市の論理が見失われてきた。都市経営のポリシー、都市計画の基本論理が根底的に問われたのである。

 

重層的な都市構造

 

 都市構造の問題として露呈したのが、一極集中型のネットワークの問題点である。具体的に、インフラストラクチャーが機能停止に陥ったのは致命的であった。代替のシステム、ダブルシステムがなかったのである。交通機関について、鉄道が幅一キロメートルに四つの路線が平行に走るけれど迂回する線が無い。道路にしてもそうである。多重性のあるネットワークは、交通に限らず、上下水道などライフラインのシステム全体に必要である。多核・分散型のネットワーク・システムである。

 

公共空間の貧困

 

 公共建築の建築としての弱さは、致命的であった。特に、病院がダメージを受けたのは大きかった。危機管理の問題ともつながるけれど、消防署など防災のネットワークが十分に機能しなかったことも大きい。想像を超えた震災だったということもあるが、システム上の問題も指摘される。避難生活、応急生活を支えたのは、小学校とコンビニエンスストアであった。公共施設のあり方は、非日常時を想定した性能が要求されるのである。また、クローズアップされたのは、オープンスペースの少なさである。公園空地が少なくて、火災が止まらなかった。また、仮設住宅を建てるスペースがない。公共的なオープンスペースの重要な意味を教えてくれたのが今回の大震災である。

 

地区の自律性

 

 目の前で自宅が燃えているのを呆然と見ているだけというのは、どうみてもおかしい。同時多発型の火災の場合にどういうシステムが必要なのか。防火にしろ、人命救助にしろ、うまく機能したのはコミュニティがしっかりしている地区であったといわれる。救急車や消防車が来るのをただ待つだけという地区は結果として被害を拡大することにつながったのである。今回の大震災の最大の教訓は、行政が役に立たないことが明らかになった、という声がある。自治体職員もまた被災者である。行政のみに依存する体質が有効に機能しないのは明かである。問題は、自治の仕組みであり、地区の自律性である。

 インフラストラクチャーについても、エネルギー供給の単位、システムについても地区の自律性が必要である。ガス・ディーゼル・電気の併用、井戸の分散配置など、…多様な系がつくられる必要がある。また、情報システムの問題としても地区の自律的なネットワークが必要となる。

 

ヴォランティアの役割

 

 一般的にヴォランティアの役割が大きくクローズアップされたのであるが、まちづくりにおけるヴォランティアの意味の確認は重要である。一方、ヴォランティアの問題点も意識される。行政との間で、また、被災者との間で様々な軋轢も生まれているのである。多くは、システムとしてヴォランティアが位置づけられていないことに起因する。

 建築の分野でも被災度調査から始まって復興計画に至る過程で、ヴォランティアの果たした役割は少なくない。しかし、その持続的なシステムについては必ずしも十分とは言えない。ある地区のみ関心が集中し、建築、都市計画の専門家の支援が必要とされる大半の地区が見捨てられたままである。また、行政当局も、専門家、ヴォランティアの派遣について、必ずしも積極的ではない。粘り強い取り組みの中で、日常的なまちづくりにおける専門ヴォランティアの役割を実質化しながら状況を変えて行くしかない。

 

建築構造の論理…近代日本の建築と地震

 

 問題は、以上のような教訓をどう生かすかである。その道筋が見えないことに、いささか苛立つ。とにかく、試行錯誤であれ、実践してみること、それなくして何も進展しない。いずれにしてもはっきりしているのは、阪神・淡路大震災の露わにした問題は相当長期間にわたって反芻され続けられねばならないことである。

 しかし、考えてみれば、近代日本において同じ問いは既に繰り返し反芻されて来たのではなかったか。

 近代日本の建築学の発達過程を考えてみるといい。当初から、地震は大テーマであった。辰野金吾が伊東忠太に建築史学の確立を、佐野利器に建築構造学の確立を命じ、託したのが、日本の建築学の始まりとされるのであるが、構造学の確立の必要性を強く意識させたのは濃尾地震であった。西洋から移入されようとした煉瓦造や石造の建造物は地震に対して必ずしも強くないとすれば、西洋建築をそのまま導入することはできない。日本には地震があるという事実は、日本における建築のあり方を大きく規定してきたのである。

 F・L・ライトが設計した帝国ホテルが竣工直後に関東大震災にあい、それに耐えたのはよく知られている。その関東大震災の予兆として一年前に起こった地震で被害を受けた丸ビルが補修強化していたおかげで倒壊を免れたということも明らかにされている。関東大震災は、日本に本格的に鉄骨造、鉄筋コンクリート造を導入するきっかけとなったとみていい。鉄骨造、鉄筋コンクリート造の構造基準、仕様基準が整備されたのは一九三〇年のことであった。また、木造建築に筋交いが導入されはじめるのも昭和初期以降のことである。

 戦前日本における建築構造学をめぐる一大議論は、いわゆる「柔剛論争」である。すなわち、地震に対して柔構造がいいか剛構造がいいかをめぐる議論である。地震において、被害が少ないのはむしろ伝統的な木造住宅であるという事実が一方であり、地震の力を柔軟に受けとめ揺れることによってエネルギーを吸収しようというのが柔構造理論である。当時、既に「免震構造」という概念が出されていた。それに対して、徹底して、建物を固く(剛に)して地震に対処しようとするのが剛構造理論である。震災直後に建てられた岡田信一郎設計の住宅が解体されるのを見たことがあるのであるが、鉄筋の替わりに入っていたのは鉄道のレールであった。とにかく強くというのは一般の感覚であった。論争は、剛構造派の圧勝であった。

 戦後、超高層建築の建設のために柔構造理論が採用される。今回の地震で、「免震構造」や「制震構造」がクローズアップされる。建築構造を支える思想の問題としてその変転は興味深いところである。近代日本における建築を支える思想を雄の思想と雌の思想という対立において捉えようとしたのは長谷川尭である△注2△。建築構造学はデザインの自由を束縛してきたというのが骨子である。耐震基準の強化の歴史は、なるほど、そうした歴史を示しているように見える。しかし、以上のように、建築構造にも柔と剛がある。また、デザインの自由と耐震性の問題とは別の次元の問題である。

 多数の構築物が倒壊し、多くの死者が出た今回の事態は、建築構造理論のよってたつ基盤を問う。構造基準(最低基準)の強化ではなく、性能基準の明示へ、大震災以後、建築基準法の基本的組立てをめぐって議論がなされるのであるが、制度の問題にすり替えられてはならないだろう。安全性と経済性をめぐる議論は建築構造設計の基本であるが、経済性をもとめる社会の側に問題が預けられてはならないであろう。まして、手抜き工事などの施工技術の問題にすり替えられてはならないはずだ。建築に深く内在する問題として受けとめられない限り、何の教訓も得られないのである。

 

所有と利用の制度

 

 阪神・淡路大震災後の復旧・復興をどう考えるか、どう具体的に展開するかは目の前の問題である。しかし、前述のように何も変わらぬ制度的な枠組みがある。

 激震地からかなり離れて、被害を受けた地区がある。あるいは、個々に被害を受けたということであれば、被災地はかなりの広域に広がっている。大震災を受けたけれど、光が当てられない、見捨てられた多くの地区、被災者がいる。そうした地区や被災者のことを考えてみると、被災が個人的受難であり、復旧・復興が基本的に個人の問題であることがはっきりしてくる。これまでと同じ枠組みの中で、復旧・復興を行わねばならない。

 復興が進まないのは当然である。資産を持たない層にとってローンを二重に払うのは容易なことではない。全半壊マンションの建て替えがまとまるのは、個々の事情が多様である以前に不可能に近いのである。

 しかし、考えてみれば、土地や建物の所有をめぐる問題は、地震が来ようと来まいと基本的な問題である。区画整理事業や都市再開発事業、住宅地区改良事業、総合住環境整備事業といった面的整備事業も地震とは必ずしも関係ない。合意形成を図り、計画決定を行うのは同じ手続きである。地震だからといって、計画がまとまる保証はない。

 激震地からはかなり離れているのに、半数以上が半壊全壊した「文化住宅」街がある。聞けば、高度成長期に古材を使って不動産会社がリース用「文化住宅」として売りだしたものという。不在地家主が一〇〇人近い、この三十年で持家取得した世帯が二〇〇近く、応急仮設住宅に住む借家人の世帯が二五〇、権利関係が極めて複雑だ。各層で、復興計画についての要求がまるで異なる。

 こうした地区に復興計画として事業計画が立てられようとすると、当然のことながら、個々の関心は自分の土地がどうなるかである。地主層、持家層にとって、自分の土地が計画域に含まれるかどうか、自分の土地を計画道路が横切るかどうか。区画整理の場合、減歩の問題があるからなおさら関心は高い。また、自分の土地の資産価値がどうなるか、いくらで売れるか、どれだけ高くなるのか、議論の中心は、まずは所有する資産の価値の増減に集中する。そして、最終的にも、自分の所有する土地建物がどれだけの評価を受けるかによって計画への賛否を決定したいというのが一般的である。

 様々な思惑が飛び交い収拾がつかなくなる。不動産業者が暗躍し出す。行政当局も、都市計画的によほど重要な地区でなければ、手間暇をかけて地区をまとめる気はない。予算を使わなくていいから、合意形成を地区のコミュニティに委ねる態度をとる。区分所有法をベースとするマンションの復興の場合も基本的には同じである。ただ、公共機関がどれだけ介入するかが問題である。

 こうして、問われるのは日本の空間のあり方そのものである。公共的な空間は、公共で整備し、維持されなければならない。高速道路が横転し、橋脚が落下するといった事態は論外である。病院や学校など公園など社会資本としての環境の整備も公共サイドの役割である。しかし、住宅はどうか。あるいは、住宅を中心とする地区の環境はどうか。市場原理に委ねられるだけである。公共住宅の供給も市場メカニズムに基づいて行われるだけである。公民の間で、日常的環境をつくっていく主体、すなわちコミュニティや非営利組織(NPO)など、共の部分が見失われている。

 阪神・淡路大震災によって、分譲住宅離れが進行しつつある。一方、賃貸住宅の性能の向上が求められつつある。戦後一貫して上がり続けた土地と建物の価格は初めて下がりつつある。土地の価格が上がらないとすれば、土地への投機行動は意味がなくなる。土地の所有に関わる観念が大きく変わる可能性がある。土地の所有と利用が分離されている現状から、一体的な利用へ、所有より環境の質へ、住宅及び住環境の公共化へ、もしかすると動きが展開するかもしれない。

 被災者にとって、ヴォランティアとの関係やコミュニティ内の関係について貴重な体験がある。新しいまちづくりの芽があるとすれば、被災時の共の体験であろう。コレクティブハウジングなど、共有空間を最大化する住宅モデルが生みだされるとすればひとつの萌芽となる。

 都市の欠陥は、住宅の問題でもある。戦後五〇年の間、都市住宅の型を必ずしも創りあげてきていないことが致命的である。

 

都市の再生

 

 都市の歴史、都市の記憶をどう考えるのかは、復興計画のテーマである。何を復旧すべきか、何を復興すべきか、何を再生すべきか、必然的には都市の固有性、歴史性をどう考えるかが問われるのである。

 そこで、建造物の再生、復旧が、まず建築家にとって大きな問題となる。同じものを復元すればいいのか、という問いを前にして、建築家は基本的な解答を求められる。これまた震災があろうとなかろうと常に問われている問題である。都市の歴史的、文化的コンテクストをどう読むか、それをどう表現するかは、日常的テーマといっていい。

 戦災復興でヨーロッパの都市がそう試みたように、まったく元通りに復旧すればいいというのであれば簡単である。しかし、そうした復旧の理念は、日本においてどう考えても共有されそうにない。都市が復旧に値する価値をもっているかどうか、ということに関して疑問は多いのである。すなわち、日本の都市は社会的なストックとして意識されてきていないのである。戦後五〇年で、日本の都市はすぐさま復興を遂げ、驚くほどの変貌を遂げた。しかし、この半世紀が造り上げた後世に残すべき町や建築は何かというと実に心許ないのである。

 壊しては建て、建てては壊す、というスクラップ・アンド・ビルド型の都市でいいということであれば、震災による都市の破壊もスクラップの一つの形態ということでいい。必ずしも、まちづくりについてのパラダイムの変更は必要ないだろう。実際、復興都市計画の枠組みに大きな変更はないのである。

 しかし、都市が本来人々の生活の歴史を刻み、しかも、共有化されたイメージや記憶をもつものだとすれば、物理的にもその手がかりをもつのでなければならない。都市のシンボル的建造物のみならず、ここそこの場所に記憶の種が埋め込まれている必要がある。極めて具体的に、ストック型の都市が目指されるとしたら、復興の理念に再生の理念、建造物の再生利用の概念が含まれていなければならない。否、建築の理念そのものに再生の理念が含まれていなければならない。

 果たして、日本の都市はストックэ・・э再生型の都市に転換していくことができるのであろうか。こうしてたどたどしく考えてくると、戦後建築の思想の根幹に行き当たる。すなわち、メタボリズムである。

 乱暴に言い切れば、メタボリズムは、結果として、スクラップ・アンド・ビルドの論理、「社会的総空間の商品化」のメカニズムを裏打ちするイデオロギーに他ならなかった、というのが結論である△注3△。

 しかし、問題の立て方として、変わるものと変わらないもの、基幹設備と個々の建造物を、システムとして区別するその設定はおそらく間違ってはいなかった。都市のインフラストラクチュアも大きな問題を抱えていることが白日の下にされたのであるが、全てが消費のメカニズムに吸収される、そんな論理が支配したのが戦後五〇年である。

 都市の骨格、すなわち、アイデンティティをつくりだすことに失敗し続けているのが日本の建築家である。単に、建造物を凍結的に保存すればいいのか、歴史的、地域的な建築様式のステレオタイプをただ用いればいいのか、地域で産する建築材料をただ使えばいいのか、……ここでも議論は大震災以前からのものである。

 阪神・淡路大震災は、こうして、日本の建築界の抱えている基本的問題を▽抉▽△えぐ△りだす。しかし、その解答への何らかの方向性を見いだす契機になるのかどうかはわからない。

 半世紀後の被災地の姿にその答えは明確となるはずだ。しかし、それ以前に、半世紀前から同じ問いの答えが求められているのである。

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一九九五年九月一九日  スラバヤにて  

 

〈注〉

 

注1 「阪神大震災とまちづくり……地区に自律のシステムを」共同通信配信、一九九五年一月二九日『神戸新聞』など

注2 長谷川尭『雄の視角 雌の視角』相模書房、一九七六年

注3 布野修司『戦後建築の終焉』れんが書房新社、一九九五年

 

2024年8月26日月曜日

いい建築と悪い建築,日経アーキテクチャー,19960408

  いい建築と悪い建築

布野修司

 

 いらない建築などはない。あるのはいい建築と悪い建築だけである。

 どんな建築であれ、建てられるからにはいる建築である。たとえ悪い建築であっても、最低、それを建てる設計者や施工者や部品メーカーにとってはなにがしかの利益をもたらすのであるから、いる建築である。

 建てない方がいい、あるいは別の建築を建てた方がいい、というのであれば枚挙に暇がない。というより、ほとんど全ての建築がそうだ。稀に、人里離れたところに、要するに開発に取り残されて建ち続けた建物が傑作ということになる。

 いい建築とは何か。いい悪いは見方による、などとは言わない。そういうと、いるいらないも見方によるということになる。

 いい建築とは壊されない建築である。壊されない建築なんかありうるのか。永久に壊れない建築は物理的にはあり得ないけれど、原理的には方法が3つだけある。ひとつは永遠につくり続ける方法である。永遠に未完であればいい。式年造替による形式保存の方法も入れてもいい。もうひとつは最初から壊れたものをつくればいい。廃墟価値の理論だ。そして、最後はつくらないことである。つくらない建築は壊れることはない。すなわちいらない建築である。

 しかしそれでも建築家であればつくるのであるから、いらない建築はないのである。つくるのであれば、ただひたすらいい建築をつくればいい。いらないと言われてもどうにか使える、壊すと言われてもなんとか再生できるそんな建築が求められる時代が来ていると思う。

2024年8月25日日曜日

パネル・ディスカッション:パネリスト:「京都会館」開館45周年・前川國男生誕100年記念シンポジウム,「前川國男と京都会館」,京都会館,2005年10月10日

パネル・ディスカッション:パネリスト:「京都会館」開館45周年・前川國男生誕100年記念シンポジウム,「前川國男と京都会館」,京都会館,20051010

 

前川国男と京都会館

2005年10月10日

京都会館

                                2005926

「京都会館シンポジウム」タイムスケジュール  

                                    松隈 洋 

テーマ:前川國男と京都会館

日時:20051010日(月・祝)13301730   場所:京都会館 会議場 

■事前の打合せなど

 ・パネラー司会者の集合時間   :1130

   建物を見学しながら意見交換  :11301230

   会議室にて食事をしながら打合せ:12301330

■シンポジウム本番の進行表

1:あいさつ                    13301335   5

      □松隈 洋(京都会館シンポジウム実行委員会・京都工芸繊維大学助教授):シンポジウムについての主旨を説明し、パネラーと司会者を紹介の後、布野さんへマイクを渡す。

2:司会者の言葉           13351350   15分      □布野修司(滋賀県立大学教授・前川國男展実行委員)

:『建築の前夜―前川國男文集』而立書房1996年刊の序論と時代解説を担当し、戦後モダニズム建築にも関心を寄せる立場から、前川國男とその築がもつ意味についてお話しいただき、基調講演へとつなげる。

   前川国男を知っていますか?

日本の戦後建築の歴史を代表する建築家を一人挙げるとすれば、多くが丹下健三を挙げるであろう。日本の戦後を象徴する広島平和会館原爆記念陳列館・本館をデビュー作とし、東京都庁舎、国立屋内総合競技場など日本の戦後建築をリードする作品をつくり続けたことといい、戦後還暦60年の区切りの年(2000年)に亡くなったことといい、その軌跡は鮮やかにその歴史を浮かび上がらせている。


 

丹下健三の先生が前川国男

 

それに比すると、前川國男の軌跡はいかにも地味である。しかし、日本の戦後建築のあり方により根源的に関わってきた建築家の代表をあげるとすれば前川國男である。前川國男という日本の近代建築史を代表する建築家の意義については、「Mr.建築家―前川國男というラディカリズム」[i]という文章を書いて付け加えることはないけれど、日本の近代建築の育つ土壌、建築家のあり方に深く関わって、建築界をリードし続けたのが前川國男である

 

  一回の出会い 近代建築とは何か 宮内嘉久 『前川国男』 作品集がない

 

 日本最初の近代建築家 分離派・創宇社

     コンペ問題 定款様式

 

 建築生産の工業化:プレモス テクニカル・アプローチ

 建築家の職能

  デザイン?? 「京都会館」

 

 今、もっともラディカルな建築家はつくらない建築家である、という衝撃発言

 

 つくることは暴力

 壊すことも暴力

 

 

3:基調講演「京都会館と戦後モダニズム建築」    13501430   40

      □石田潤一郎(建築史家・京都工芸繊維大学教授)               

       :「関西のモダニズム20選」の選定委員主査を務めた経験から、日本の戦

        後モダニズム建築の歴史的な意味について概説し、京都会館のもつ独自

        の価値をお話しいただく。液晶プロジェクター使用。

 

              《休憩 10分》

 

4:シンポジウム「京都会館と前川國男を語る」    14401530   50

     ①事前の見学会と基調講演を踏まえての発言

岸 和郎(建築家・京都工芸繊維大学教授)

:ご自身の前川建築や京都会館との出会いから、その価値についてお話し

 いただく。←偶然にも、岸氏は、京都会館が竣工した当時の前川國男と

 同年齢の建築家の一人である。

□横内敏人(建築家・京都造形芸術大学教授)

       :最晩年の前川國男に接した最後の所員の一人としての経験から、前川の

        製図室での姿や、何故、前川事務所へ入ったのか、ルイス・カーンとの

        比較など、個人的なエピソードを交えてお話しいただく。

     ②京都会館と戦後モダニズム建築の価値を巡って

     ③京都会館が今後より良い状態で使われるために必要なことは何か など…。

 

         《質疑や会場からの発言を受ける》

  

A:京都会館は、京都府下の高等学校吹奏楽コンクール会場として長く使われ、いわば、

  「吹奏楽の甲子園」としての歴史をもつ。その関係者から、使用者として京都会館

  への思いをお話しいただく。

 

B:今年の3月、ドコモモ100選展のシンポジウム出席のために来日した、ボローニャ

  大学教授で建築歴史家のマリステラ・カーシアート会長が、来京し、京都会館を見

  学された。京都会館の伝統や環境に根ざしたたたずまいに感動したそうである。そ

  のカッシアート氏から届いたメッセージを紹介する。/布野修司

 

5:各パネラーからまとめの発言をいただき、司会者の布野修司氏がしめて終了。

     シンポジウムの内容については、記録を残し、将来的には活字化する予定。

 

 

    見学会の進行表

1.  第1ホールの客席へ見学者が入場

2.  舞台袖から、京都会館館長、松本正治氏があいさつ

3.  京都会館の概要と見学会についての案内/松隈 洋

4.  舞台での音楽?

5.  自由見学に入る。

 

《 「京都会館」シンポジウムと見学会 企画書 》         2005814

 

 

    タイトル

 

「京都会館」開館45周年・前川國男生誕100年 

 記念シンポジウムと見学会

 

    リード文

 

京都会館は今年で開館45周年を迎えます。戦後、疲弊し荒廃していた京都に市民文化の拠点をつくろうと、さまざまな人々が尽力し、厳しい財政事情の中で建設されたのが、京都会館でした。以来45年、たくさんのコンサートや催しが行われてきた文化施設として、岡崎地区の景観を形づくるものとして、今や風景そのもののように周辺環境に溶け込み、その存在感のあるたたずまいは、長く市民に愛されてきました。

竣工当時には、日本建築学会賞や建築年鑑賞を受賞し、また近年では、2000年に、関西における代表的な近代建築との評価がなされて、「関西のモダニズム建築20選」に選ばれました。そして、2003年には、世界的な近代建築の評価と保存を提唱する国際組織である、DOCOMOMOの日本支部と日本建築学会によって、日本を代表する近代建築「DOCOMOMO100選」にも選定され、今や世界へとその価値が伝えらつつあります。

さらに、今年は、設計者である建築家・前川國男(19051986年)生誕100年の節目の年にもあたっています。1223日からは、その仕事の全貌を紹介するはじめての展覧会が、JR東京駅構内にある東京ステーションギャラリーで開催される予定です。

こうした機会にあわせて、京都会館のシンポジウムと、普段は見ることのできないホール内部や舞台、楽屋、屋上などを含む、全館の見学会を企画しました。京都にとって、日本にとって京都会館がどのような歴史的な意味をもち、その建築的な価値はどこにあるのか、前川國男は京都会館に何を実現させようとしていたのか、京都の美しい秋を背景に、広く深く考えます。

 

 

    データ

 

日時:20051010日(月・祝)13301730

 

場所:京都会館 会議場(定員300名)

 

主催:京都会館シンポジウム実行委員会

 

協力:前川國男展実行委員会・京都会館

 

 

    スケジュール

 

1部 シンポジウム  133015301230受付開始)

 

テーマ:前川國男と京都会館

 

司会:布野修司(滋賀県立大学教授)

 

パネラー:岸 和郎(建築家・京都工芸繊維大学教授)

     横内敏人(建築家・京都造形芸術大学教授)

     石田潤一郎(京都工芸繊維大学教授)

 

 

2部 京都会館 見学会    15301730

 

案内:松隈 洋(前川國男展実行委員会事務局長・京都工芸繊維大学助教授)

 

 

    参加方法

 

申し込み不要(当日先着順)

満員の場合はご入場いただけない場合があります。

 

    参加費用:第1部、第2部共通(資料代を含む)

 

一般  1000円

学生   500円

 

 

    問い合せ先:京都会館シンポジウム実行委員会

 

6068342

京都市左京区岡崎最勝寺町13

京都会館内 京都会館シンポジウム実行委員会

TEL0757716051

 

 

    「生誕100年・前川國男建築展」のご案内

 

会期:20051223日(祝・金)~200635日(日)

会場:東京ステーションギャラリー

   JR東京駅・丸の内中央口下車・赤煉瓦駅舎内

   〒1000005 東京都中央区丸の内19‐1

   TEL:03-32122485

      ホームページ:http://www.ejrcf.or.jp

















前川国男と戦後近代建築

                        布野修司

 

 日本の戦後建築の歴史を代表する建築家を一人挙げるとすれば、多くが丹下健三を挙げるであろう。日本の戦後を象徴する広島平和会館原爆記念陳列館・本館をデビュー作とし、東京都庁舎、国立屋内総合競技場など日本の戦後建築をリードする作品をつくり続けたことといい、戦後還暦60年の区切りの年(2000年)に亡くなったことといい、その軌跡は鮮やかにその歴史を浮かび上がらせている。

 それに比すると、前川國男の軌跡はいかにも地味である。しかし、日本の戦後建築のあり方により根源的に関わってきた建築家の代表をあげるとすれば前川國男である。前川國男という日本の近代建築史を代表する建築家の意義については、「Mr.建築家―前川國男というラディカリズム」[ii]という文章を書いて付け加えることはないけれど、日本の近代建築の育つ土壌、建築家のあり方に深く関わって、建築界をリードし続けたのが前川國男である。

 敗戦直後、鮮やかに日本の戦後建築の行く末を見据え、確実に第一歩を踏み出したのは前川國男であった。戦後復興、住宅復興が喫緊の課題であり、まずは、戦時中(1944年)開設していた鳥取分室を拠点に「プレモス」に全力投球することになる。「プレモス」は、戦前の「乾式工法」の導入を前史とする建築家によるプレファブ住宅の試みの先駆けである。戦後の住宅生産の方向性を予見するものとして、また、住宅復興に真っ先に取り組んだ建築家の実践として高く評価されている。

 前川國男は、また、戦後相次いで行われた復興都市計画のコンペにも参加している。他の多くの建築家同様、復興都市計画は焦眉の課題であった。そして、いち早く設計活動を再開し、結実させたのが前川であった。戦後建築の最初の作品と目される「紀伊国屋書店」が竣工したのは1947年のことである。1947年は、浜口隆一による『ヒューマニズムの建築』が書かれ、西山夘三の『これからのすまい』が書かれた年だ。また、戦後建築を主導すべく新建築家技術者集団(NAU)が結成されたのがこの年の6月である。

 興味深いのは、前川國男がNAUに参加していないことだ。「新興建築家連盟で幻滅を味わった」からだという。前川の場合、あくまで「建築家」としての立場が基本に置かれるのである。

 もちろん、前川國男が戦後の建築運動と無縁であったということではない。NAUの結成が行われ、戦後建築の指針が広く共有されつつあった1947年、前川は、近代建築推進のためにMID(ミド)同人を組織している。「プレモス」の計画の主体になったのはMID同人である。1947年から1951年にかけて、河原一郎、大高正人、鬼頭梓、進来廉、木村俊彦ら、戦後建築を背負ってたつことになる人材が陸続と入所する。戦前からの丹下、浜口を加えれば、前川シューレの巨大な流れが戦後建築をつき動かして行ったとみていいのである。

 建築界の基本的問題をめぐって、前川國男とMID同人はラディカルな提起を続けている。「国立国会図書館」公開コンペをめぐる著作権問題は、「広島平和記念聖堂」コンペ(1948年 前川3等入選)の不明瞭さが示した建築家をとりまく日本的風土を明るみに出すものであった。また、MID同人による「福島県教育会館」(1956年)の住民の建設3加もユニークな取り組みである。前川國男事務所の戦後派スタッフの大半は、建築事務所員懇談会(「所懇」)を経て、5期会結成(1956年6月)に3加することになる。

 しかし、敗戦から5〇年代にかけて日本の建築シーンが前川を核として展開していったのはその作品の質においてであった。

 1952年には、「日本相互銀行本店」が完成する。オフィスビルの軽量化を目指したその方法は「テクニカル・アプローチ」と呼ばれた。また、この年、「神奈川県立図書館・音楽堂」の指名コンペに当選、1954年に竣工する(1955年度日本建築学会賞受賞)。前川國男は、数々のオーディトリアムを設計するのであるが、その原型となったとされる。また、1955年、坂倉準三、吉村順3とともに「国際文化会館」を設計する。さらに、「京都文化会館」、「東京文化会館」と建築界で最も権威を持つとされる賞の受賞歴を追っかけてみても、前川時代は一目瞭然である。

 前川國男の一貫するテーマは、建築家の職能の確立である。「白書」(1955年)にその原点を窺うことが出来る筈だ。既に、戦前からそれを目指してきた日本建築士会の会員であった前川は、日本建築設計監理協会が改組され、UIA日本支部として日本建築家協会が設立される際、重要メンバーとして参加する。そして、1959年には、日本建築家協会会長(~1962年)に選ばれる。日本の建築家の職能確立への困難な道を前川は中心的に引き受けることになるのである。

 しかし、職能確立への道半ばで、バブルの帰趨を見ぬまま前川は亡くなることになる。丹下健三がやがてバブルに翻弄され、日本の戦後建築の帰趨を示したとすれば、前川國男にとって日本の近代建築は、最後まで「未完」であった。   (建築批評・滋賀県立大学教授)



[i] 拙稿、『建築の前夜 前川國男文集』(而立書房、1996年)所収(布野修司建築論集『国家:様式・テクノロジーーー建築の昭和』、彰国社、1998年)

[ii] 拙稿、『建築の前夜 前川國男文集』(而立書房、1996年)所収(布野修司建築論集『国家:様式・テクノロジーーー建築の昭和』、彰国社、1998年)