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2025年3月6日木曜日

第77回アジア都市建築研究会,佐藤浩司「砂上の楼閣をこえてーあらたなる東南アジア史のためにー」,応地利明「興亡の世界史ー海洋世界のネットワークー」,京都大学総合研究2号館,2009年3月27日

 77回アジア都市建築研究会,佐藤浩司「砂上の楼閣をこえてーあらたなる東南アジア史のためにー」,応地利明「興亡の世界史ー海洋世界のネットワークー」,京都大学総合研究2号館,2009327



2025年3月5日水曜日

居酒屋ジャーナル0  建築家の未来は、まちにあり、建築ジャーナル、2006

 居酒屋ジャーナル

建築家の未来は、まちにあり

 

まちが文化性のない建物で埋められていく。これからの時代、建築家の役割とは、単体の建築ではなく、まち全体を担うことではないか。関西在住の建築家と識者4人が、タウンアーキテクトの可能性を軸に、未来の建築家像を語り、青春時代の原点を振り返る。


――今、布野さんは、「タウンアーキテクト」制を提唱され、その普及に力を入れられています。タウンアーキテクトとは「まちづくりを担う建築の専門家」と考えられていますね。

 

建築がまちを汚している

 

布野 現在の日本では、地域社会が弱体化し、かつ自治体は縮小を求められていまする。その両者を繋ぐのが、タウンアーキテクトという職能で、今後その存在が必要となっていくと思ってます。一方で、建築家がその職能を担わなければ、生き残れない時代でもある。

つくる仕事は少なくなり、食えないわけです。まちづくりでは、複雑な条件をまとめ上げる設計の能力を生かせると思う。

横内 その話にとても興味を持ちます。私のように住宅中心に仕事をする建築家は、まちづくりに一番遠い存在でしょう。一般に建築家は社会的スタンスを持たず、単体の建築を一生懸命に設計する。だから、個々の建築が質の高いものでも、それらが並んだときに、まちの景観を台無しにしてしまってることがある。住宅レベルであればいいが、マンションのような大きなものは影響が大きい。京都で仕事をしていて実感しますが、新築による歴史的都市の景観破壊は、ここ10年はひどいものです。それに対して建築家が、たとえ自身の手足を縛ることになっても声を上げて異議を唱えないと駄目だと思います。

松隈 実際は法規を守ってさえすれば、何をつくってもいいわけですよね。例えば、京都三条通りの歴史的景観を構成する築100年の中京郵便局の目前に、マンションがいきなり建ってしまう。その景観破壊の責任は誰にあると問うとき、事業者や建築家が「法律は守ってます」と言って済まされることではない。

永田 まちの景観を汚くしようが、マンション業者は経済性にしか目を向けない。居住スペースを小さくしてコストを抑え、過密に居住者を建物に詰め込み利潤を上げる。その業者は販売の時、リビングに備え付けたテーブルに白いクロスをかぶせ、ワイングラスを並べるわけです。「そんなはずないやろう、人の生活は」と言いたくなる。しかしその演出が、消費者の購買意欲を刺激し、求められる生活像にさえなっていく。すると建築家もそれを前提にした設計せざるを得なくなる。

――経済性のみで建物をつくっていくことはよくないと、姉歯事件によって見直され始めているわけです。しかし、阪神・淡路大震災の時点で建築界は変わらなければならなかった。

永田 大手の住宅メーカーでは、優秀な技術者を集めて、耐震技術を開発しました。だが、文化的にはまったく稚拙なんです。日本人の家の在り方を本質的に研究せず、あくまで売れるものを追求してきただけ。

 

タウンアーキテクトの可能性

 

――先ほどの手足を縛る話は、肝心の建築家には評判が悪いですよね。そうした中で、タウンアーキテクトは、どういう方向性を目指すのですか。

布野 建築に対する縛りは、実は行政が常に行ってきました。つまり「取締行政」でやってきた。今後は、「誘導行政」になるべきです。まちの中の建築物の色や形態についても誘導していけばよい。その規定づくりを、センスのいいタウンアーキテクトに任せればいいと思う。その人物が、ある建物を真っ赤に塗れと言ったとしても、新緑に映えて美しいかもしれない。才能ある人に権限と報酬を与える。委員会システムでもよくて、複数の人に任せてもいい。

 こうしたことを提案しても、なかなか実現しないので、京都の14大学の研究室を組織して、「京都コミュニティデザインリーグ(CDL)」を立ち上げ、京都のまちを地区ごとに調査・研究し、提案するまねごとを始めました。研究室の教員が各地区のタウンアーキテクトであるという発想です。残念ながら資金が続かず、活動は停滞していますが。

横内 私は、設計事務所を経営しつつ大学に席を置いています。だから、何か社会的な提案をしなければという責任を感じています。最近考えていることはまちづくりなんです。昨年、学生と20年ぶりにイタリアを訪れました。フェレンツェでは、交通規制が布かれ、車が走っておらず、みなが散策を楽しんでる。見違えるように美しいまちになっていました。建築家こそこうした魅力あるまちへの再生案を出していくべきだと実感しました。                 

 

疾風怒涛の青春で目指したこと

 

――建築家の将来像としてのタウンアーキテクトの可能性に期待したいと思います。未来に目を向けるためにも、みなさんの原点、建築を志した当初のお話を聞かせてください。

布野 私が大学に入学した1968年は東大闘争の最盛期でした。1970年には、反万国博の運動があった。旧日本建築家協会(JAA)に対して、ジャーナリストの宮内嘉久さんや平良敬一さん、原(広司)さんなどが、、「アーキテクチュアフロント(AF 建築戦線)」を結成して、デモをした。それをまた追求しに行った覚えがある。

 1970年代後半は、建築ジャーナリズムの場をつくろうと、宮内さんらと『地平線』という雑誌の創刊について議論しました。永田さんもそのときのメンバーだった。しかし宮内さんらと若い私たちの意見が食い違い、結局1号も出せずに潰れた。

横内 私は大学卒業後にアメリカ留学して設計の経験を積み、27歳の時、前川國男建築設計事務所に入所しました。1982年です。ボストンでは槇文彦さん級のかっこいい建築はいくらでもあり、当時日本で活躍していたスター建築家にはあまり共感できませんでした。そんな中、前川建築の泥臭いが誠実な設計に、かえって衝撃を受けていました。そこで前川さんという人間に接してみたくなり、その門を叩きました。

松隈 私が横内さんより1年先に前川事務所に勤めていました。前川さんに惹かれたのは、学生の頃、大学の講演に来られて「今、つくらない建築家が、最も良心的な建築家だ」という言葉に感動したからです。当時私は学生運動にかかわっていたので、面接時にそのビラを持っていきました。すると前川さんは、「君は全共闘か?」と私に聞き、若い所員にも訊ねる。すると周囲から「僕は全共闘です」などと声があがる。前川さんの事務所は社会的に意識の高い人が集まるのだなと感じました。そこに建築界の現状を変えていきたいとする前川さんの姿勢を垣間見る思いがしました。

永田 私たちの世代が若い頃も、前川さんは神様でした。関西では、村野藤吾さんです。この大建築家のどちらかに就職したかった。しかし事務所の月給が当時6,000円で、これでは食えない。それで1965年、月給25,000円の竹中工務店に入ったわけです。

 私が前川さんと出会ったのは1975年頃で、前川さんや白井晟一さんを囲む「風声会」を通してでした。会の宴会の後、前川事務所の当時所員だった大宇根弘司さんと、建設中だった甲府の山梨県立美術館を見学に行きました。すると目の高さに、太いサッシュが水平に入っている。「なんでそんなところに」と問うと、大宇根さんは「親父(前川さん)にきちっと入れとけと指示された」と答える。そこで思わず「下手くそやな」と言ってしまったものです。大建築家に対するあこがれがあって、彼らと同じようなものがつくりたいという気持ちは強く、志は高かったなあ。

布野 昔話は面白いねえ。シリーズでやろうか。

 

<プロフィール>

布野修司

滋賀県立大学環境学科教授

ふの・しゅうじ|1949年島根県生まれ。東京大学大学院博士課程中退。京都大学教授を経て、2006年より滋賀県立大学教授。主な著書に『布野修司建築論集』『戦後建築論ノート』など

 

永田祐三

永田北野建築研究所代表

ながた・ゆうぞう|1941年大阪府生まれ。1965年京都工芸繊維大学建築工芸学科卒業。竹中工務店勤務後、1985年永田北野建築研究所設立。1993年村野藤吾賞受賞(ホテル川久)

 

松隈洋

京都工芸繊維大学助教授

まつくま・ひろし|1957年兵庫県生まれ。1980年京都大学工学部建築学科卒業。前川國男建築事務所勤務後、2000年より京都工芸繊維大学助教授。著書に『近代建築を記憶する』など

 

横内敏人

横内敏人建築設計事務所代表

よこうち・としひと|1954年山梨県生まれ。1978年東京芸術大学建築科卒業。前川國男建築事務所勤務後、1991年横内敏人建築設計事務所設立。三方町縄文博物館設計競技1

 

<案内>

「居酒屋ジャーナル」参加者の募集

あなたも4名の常連とともに、建築界に物申しませんか? 参加ご希望の方は以下の連絡先まで。 

居酒屋ジャーナル担当:〒541-0047 大阪市中央区淡路町1-3-7キタデビル

建築ジャーナル大阪編集部 TEL06-4707-1385 

FAX06-4707-1386

E-mail  oosaka@kj-web.or.jp

 

 

 

 

 

 

2025年3月4日火曜日

合宿物語  「鯨の会」通信 連載④  1988

合宿物語  「鯨の会」通信 連載④  1988

                                                          布野修司

  韓国で大ヒットの映画「鯨の唄」()を見たか。僕は観てない。ソウルオリンピックの頃、テレビ(衛星放送)でかなり長い紹介を見ただけだ。二人の若者が一人の言葉を失った少女を救い出すストーリーだった。それによると「鯨」というのは韓国では幸せのシンボルなんだそうだ。「鯨の会」もそうすると実にいい名前なのだ。

 前回、谷田君のことを書いたら、梨を送ってもらった。鳥取の二十世紀だ。みんなで御馳走になった。ありがとう。他の研究室にも配った。実においしかった。こうでなくっちゃ。智頭には1111日~13日、再び行ってきた。一日がかりの大審査、激論に次ぐ激論の末、グランプリ二点(150万円)と優秀作十点(各30万円)を決めた。ふたを開けてみたら、グランプリの一つに、諸君の知っている(であろう)建築家、高崎正治が入っていた。しかし、それにしても、鯨の会からは誰も出さなかったんじゃないか。出せば少なくとも30万円はとれただろうに。と思うと、情けないやら、腹がたつやら……。とにかく頭にきたぞ。どんどんコンペに出すこと。出して入選したら、賞金でおごること。

 昨日(1121日)は、英語で2時間半の講義をやってきた。できるかって。まあ何とかなるものよ。英語は恥をかくことを怖れなけりゃ、通じるものよ。もっとも通じたかどうか知らないけれども。JICA(国際協力事業団)の住宅建設技術研修セミナーである。講義題目は「日本と第三世界における住宅生産システム」(Housing Const-ruction System in the Third World Countries and Japan)である。インドネシア、エジプト、チリ、フィリピン、ヨルダン等13カ国、聞き手は皆若くて優秀な政府高官である。東南アジアと日本におけるわが研究室の研究成果をぶつける絶好の機会でもあり、毎年やんなくっちゃと思いつつあるところだ。

 10月の「鯨の会」は実に面白かった。岡君のレクチャーはなかなかためにもなった。でもきっとその報告は、面白さを伝えないだろう。今年の卒論生は随分とサボッてる(ということは僕がサボッとるということだが)。もう少しましな、来ない人にも内容のわかるレポートを書けんのかね。

 と思いきや、1119日の卒論中間発表会では皆頑張った。どうも要領だけはいいらしい。誰に似たんだろう。誰が指導したんだろう。

 上原珠枝さん(82年卒)、平野敏彦くん(83年卒)、赤羽司くん(84年卒)と、このところ結婚ラッシュである。澤原武彦くん(83年卒)も来春に結婚の予定。とにかく、めでたいめでたい。みんなも、だんだんおじんになるぞ、おばんになるぞ。ウッシシ(なんのこっちゃ)。だけど小生は決して諸君より若くはなれないのだ。せめて気だけはいつまでも若くなくっちゃ。

 そういえば、うろ覚えだけど、「鯨の会」多摩支部が結成されたようだ。メンバーは、奥富敏樹(85年卒)、町田真一(85年卒)、石井敬一(85年卒)、中条広隆(85年卒)に僕。何だ、皆同じ学年じゃないか。しかし、中条がなんで入っているんだ。初めて(?)おごってもらった。教え子におごってもらうことがこんなに気持ちがいいとは知らなかった……。

 ということで連載を続けよう。

 

 第一回の合宿である。場所は新潟県の粟島。この合宿を企画し、組織し、実行したのは、山口茂(中央住宅)、塚越実(近藤建設)の名コンビである。この二人によって、布野・宮内研のその後の合宿のスタイルは決定されたといっていい程だ。

 都市病理じゃなくて人間病理だと悪口を言うのもいたけれど(言ったのはもちろん僕だろう)、このコンビの漫才にはとにかく一年中笑わされた。そのハイライトが粟島での合宿である。研究室には今でもその時の分厚いアルバムが置いてあるのであるが、毎年開いては吹き出している。

 度肝を抜かれたのは、確か山口君が妹に書かしたのだという宴会用垂幕というか横幕が用意されていたことである。第一夜、「布野大賞争奪歌謡大会」。第二夜、「宮内大賞争奪大隠し芸大会」。第三夜、「第一回布野・宮内合同合宿記念祝賀パーティー」。毎夜、大きく墨書きされた横幕を取り替えて大騒ぎだったのだ。この時の合宿には、岡君、稲葉君、それにAURA設計工房の浜田羊介さんが参加している。それにもう一人、他の研究室から誰か参加している。誰か浅瀬に飛び込んで額を切って大騒ぎしたんじゃなかったっけか。誰だっけ。

 もちろん、宴会だけじゃない。きちんとゼミもやった。しかし、圧倒的に覚えているのはとにかくめちゃくちゃ楽しかったことだ。本村は、小屋をつくるんだとかなんとか馬鹿なことをやり出すし、もうテンヤワンヤであった。二人の初代マドンナの水着姿が初々しかったのが昨日のようだ(いつか歴代マドンナ列伝をまとめよう)。

 極めつけは粟島一周チャリンコ・レース。この時の記憶が三宅島一周レース(83年)に結びつくのだけれど、とにかく疲れたよなあ。

 この研究室合宿というゼミは、他の大学にそうそうない、とてもいいシステムだと思う。研究の一つのステップを区切れるし、何よりも、学生生活の大きな想い出となる。諸君にとっても、合宿が一番印象深いのではないか。忘れないように、そのリストを挙げておこう。教師の特権で、同じとこには二度と行かないのだ。

 

1978) 青 湖(長野県)クッソー

 1979  粟   島(新潟県)

 1980  松 湖(長野県)

  1981  裏 梯(福島県)

  1982  金原温泉(長野県)

     ゲスト:永田洋明

 1983  三 島(東京都)

     ゲスト:高野雅夫(生闘学舎)

 1984  淡 島(兵庫県)

     ゲスト:山田修二(淡路かわら工房)

 1985  松 町(静岡県)

     ゲスト:石山修武

 1986  竜神村・田辺(和歌山県)

     ゲスト:渡辺豊和

 1987  美ケ原高原(長野県)

     ゲスト:渡辺豊和(京都芸短)・安藤正雄(千葉大)と三大学合同

  1988  佐 島(新潟県)

     ゲスト:安藤研(千葉大)と合同

 

 残念ながら、民宿の記録がない。合宿の話を書くと、毎回、それだけになってしまうので、各年の合宿幹事に後はまかせたい。それぞれ合宿の想い出を書いて送って欲しい。そうすれば、僕が書かなくても、それをそのまま載っければいい。僕も助かる。

 

 ところで、第四回、鯨の会には、わざわざ長野県(岡谷)から、斎藤正行君(79年卒)が出席してくれた。出張をうまく合わせてくれたのだという。こういうのはうれしいねえ。しかし、それにしても全然変わってない。人間なんてそう変わりゃせんのだ。

 飲むほどに「先生の言うことも全然変ってませんね」とくる。「そりゃあ、進歩しとらんということか」。「いやあ、ボカァー、先生と勝負してますよ、今でも」。「おまえこそ、全然変ってないじゃんか」。「そうだねえー」てな具合いだった。

 その時、この原稿の話になった。合宿のことだけ書きゃいいよなといったら、鍋があるという。

 鍋とは何か。そういや冬は、研究室で毎晩のように鍋をつくって酒飲んで、何か集計してたんだ。主役は、保坂順一君。彼の親父さんは寿司屋で、門前小僧よろしく、何でもさばいて、つくってくれる。あれもうまかったなあ。その後、電気釜を入れれば、インスタントラーメンの時代もあった。研究室の食の歴史もまたいずれまとめよう。そういえば、東洋大に来て真っ先に買ったものって何だと思う。冷蔵庫なんだよ。


2025年3月3日月曜日

研究室誕生 「鯨の会」通信 連載③  1988

 研究室誕生 「鯨の会」通信 連載③  1988

                                                  布野修司

 

 大学院の北川君から電話があった。僕が研究室に居て、彼は外だ。明日までにこの原稿を書けという。どうもおかしい。いつもは僕の方が外から指示するのに調子がくるう。去年は、上村久司君(現在、JKK 住環境研究所)が主(ぬし)のように研究室に棲みついていたから、随分と助かった。今年は、スラムに僕一人ということも少なくない。それに昨年はインスタントラーメンだったのに、今年の四年生はちゃんと出前を頼む。ずいぶんと優雅である。おかげで、僕もちゃんと昼食をとるようになった。研究室は集まってくる学生によって毎年毎年雰囲気が違うのである。

 しかし、べらぼうな話だ。いくら気楽に書くといったってあまりに急だ。自分で書いてみろといいたい気分でペン(サインペン)をとったところである。

 今年の夏というか8~9月は実に変だった。異常気象もこう続くと異常気象じゃなくなる。地球はきっとおかしくなりつつあるような気がしてならない。広瀬隆の「危険な話」は読んだかな……。

 7月の半ば、鳥取県の八頭郡は千頭(ちづ)という町に出かけてきた。「ちづサンフォーラム」という千頭杉を用いた住宅コンペのプレシンポジウムのためである。わりと真面目な話は『建築文化』九月号に書いた(「地域の活性化とは」リレー時評)から読んで欲しい。大失敗である。折角鯨通信があるのに諸君に参加を呼びかけるのを忘れた。正確には、頼んだんだけれど事務局が忘れた。審査員をやるから、関係者を入選させるわけにはいかない、などとは決して思わない。どんどん参加して欲しかったのだ。あわてて身近に声をかけたけど何人が応募してくれるか。締切は10月末である(登録締切が8月末だったのだ)。

 鳥取県と言えば谷田昭道君(81年卒)がいる。あの美声の、天使の声の谷田君だ。一度テープを送ってもらったんだけどお礼を書き忘れた。今度も、連絡し忘れた。御免。その後、曲が出来てきたらまた送ってちょうだい。あつかましいかな。

 でも行ってみて、いくつかの感激的なことがあった。一つは、二人の東洋大のOB(3期と7期)に会えたことである。もう一つは、『スラムとウサギ小屋』を読んで来たという高校生に出会ったことである。高校生だよ。読んでない諸君も多い(だよね)というのにである。東南アジアが忙しくて日本はあまり歩いてこなかったけれど、どんどん歩きたい気分である。

 昨年、「都民の家」というコンペの審査員をやったけれど、今もう一つ川口市の都市デザイン賞の審査も頼まれている。そんな歳になったのだろう。鯨の会のコンペ入選の声を早く聞きたいものだ。

 ところで合宿は佐渡へ行ってきた。千葉大の安藤正雄研究室との合同合宿である。思えば、昨年は、美ケ原高原で、京都芸術短大の渡辺豊和研究室も加えた三研究室の大合同合宿であった。今年は、五大学でインター・ユニヴァーシティーでという声もあったけど、二大学となった。石見一彦君(80年卒)に会った。ただただなつかしかった。少し太って中年になりかけていたけど、ちっとも変わりなかった。ただ、佐渡は嫁飢饉とかで、嫁さんのきてが少ないという。困ったもんだ。

 ところで、思い出したから書いておきたい。来年2月21日から3月15日ヨーロッパへ行くことになりそうである。都合のつく人は一緒に行こう。旅費は45万ぐらいかな。三週間は長すぎるかも知れないし、年度末で忙しいかもしれないけれど。最近は円高で学生は沢山集まるのだけれど、鯨の会の諸君がいてくれると学生の相手はまかせられると思ったりなんかしたりして……。その旅行プランを同封します。入ってなかったら、いよいよ事務局は駄目だと思って下さい。

 さて連載を続けよう。

 

 最初の年(78年)は、楽しく、優雅にあわただしくすぎた。79年の1月には、最初の東南アジア調査に発っているから、その準備に忙しかったのである(東南アジア研究については前号にも触れられているので、またの機会にしたい)。最初の講義は「建築意匠Ⅰ」である。何故かうれしかった。授業でも何度か話したけれど、「建築計画」という科目の前身が「建築意匠」である。先祖返りして、より好きなことがしゃべれるとうのが魅力的であったのである。「建築計画」は建築を狭くしすぎている、そうした思いが強かったのだ。

 「建築意匠」という講義は未だに固まってこない。「近代建築」を素材に好きなことをしゃべっている。途中で試験をやり始めたのは、あんまり好きなことばかりでいいのかと反省したからである。

 ジャカルタ→パダン→メダン→トバ湖→ジャカルタ→バンドン→シンガポール→バンコック→ホンコンと回って帰ってばたばたしているともう4月である。一年目は楽をしたのだけれど、卒論生をとらなければならないというので、卒論テーマを考える。実際、何をやろうか色々考えたのだと思う。それより果して卒論生が来てくれるかどうかも心配であった。今でこそ人数が多いと嫌だなんて心底思うのであるが、もし一人も来てくれなかったら、卒論テーマもくそもないのである。

 とはいっても、当面自分の関心を貫くしかない。そこで、一つは、東大の頃に手がけ始めた住宅の増改築についての調査研究を軸にしようと考えた。「住ストックの更新とその改善諸方策に関する研究」というテーマである。それともう一つ、東南アジア研究がテーマになる。幸い大学院に進学した稲葉君、M2の岡君がそれぞれの軸になってくれそうな予感があった。

 以上はいささか地味である。そこで宮内先生と相談して、同時代建築研究会の関心からいくつかテーマを出すことにした。まずは、日本の近代建築史に関する研究、そして都市病理研究である。この都市病理研究は、その後紆余曲折するのであるが研究室の大きな流れをつくった。そういえば事務局の那須君も八巻君も都市病理の出である。初代から始まって、ユニークな人材が沢山集まっている。

 もう一つ、空間論研究というテーマもつくった。当時、設計をやる研究室は、山崎研究室、前田研究室、太田研究室とあったが、設計についても少し配慮したかったからだと思う。ただ、卒業設計を始めたのは、4期の飯塚君からである。以後、昨年をのぞいて毎年、卒業設計賞を獲得してきた。昨年も設計製図賞をもらったから設計は大きな柱となってきたといっていいであろう。忘れるといけなから、以下にメモしておこう。

  82年  卒業設計賞  飯塚 保

  83年  卒業設計賞  平野敏彦

  83年  設計製図賞  小美野聡

  84年  卒業設計賞  村木理会

  85年  卒業設計賞  奥富敏樹

  85年  卒業設計賞  松田和優紀

  85年  設計製図賞  岡坂 巧

  86年  卒業設計賞  浅見佐智子

  86年  卒業設計賞  内田泰啓

  87年  設計製図賞  新居隆晴

 そして、集まったのが山口、塚越、保坂、木下、斎藤、金井、本丸、そして斎藤、三浦の九名である。佐藤、三浦は今では今井、市川に姓が変わっている。9名というのはいい数である。その後20人というときもあって10名以下になることはなかったのであるが、今年7名となって(8名以上とってはいけないルールとなって)そのことを余計に感ずる。じっくりつき合える。学生も教師もサボれない感じ(あるいは教師がサボれば学生もサボる。学生がサボれば教師もサボる)がはっきりとわかるのである。

 教師をしたものであればおそらく同じであろう。最初の年はとりわけ印象深いものである。とは言え、どんな研究をしていたかというと相当あやしい。試行錯誤である。強烈な印象に残っているのは、やっぱり合宿である。

 

 ここで時間が切れた。次は、もっと早く締切をいうようにネ。


2025年3月2日日曜日

最初に出会った学生たち  「鯨の会」通信 連載②  1988

 最初に出会った学生たち      「鯨の会」通信 連載②  1988

                                           布野 修司

 

 TBSのディレクターから電話がある。「プライムタイムの本村ですが、今度、取り壊される同潤会の押上(中ノ郷)のアパートを取り上げようと思うんですけど‥‥」。松山巖さんの紹介なのだという。同潤会については多少の資料をもっている。これまでも三度ばかりNHKの番組の相談にのったことがある。わざわざ川越まで来るというので合うことにする。それが敗因であった。テレビは嫌いである。何故かって、テレビに出るような見てくれをしていないことは諸君だって知っているじゃないか。ちょっと前、NHKの「おはようジャーナル」に出されそうになったことがある。手づくりハウスとかなんとかにコメントをというような番組だったのだが、石山修武に逃げられて、人がいないのだという。すんでのところで、大野勝彦に代わってもらったのだけれど、テレビは柄じゃない。その点ラジオはいい。顔がでないから。

  しかし、まあ、つい出る羽目になった。といっても、10分ほどのニュースのうちの30秒だけだ。六月一日(例の森本キャスターが復帰した日だ)一日、取材陣につき合ったのである。まあいい経験だったのだけど、放映されたのをビデオでみると(もちろん、飲んだくれていて、リアル・タイムではみられないのだ)、やっぱりがっかりである。いいことを沢山しゃべったのだけど、ほんの一言二言扱われてるだけなのである。やっぱりテレビに出るんなら、生で好きなことがいえるんじゃなくっちゃ、なんて言ってみても後の祭りだよ。 六月二日、同潤会アパートをみて回った翌日、『週間読売』から電話がある。「新宿のゴールデン街で好きなだけ酒を飲ますから何か書いて頂けますか‥‥」ときた。正直いって、思わずヨダレが出た。しかし、そうもの欲しそうにするのは性に合わない(誰かがウッソーという)。「いつですか、今、これでも忙しいんですけど」、「えー、今日」、ホントに絶句。しかしあいにくと予定があいている(シメシメ)。「しかし、ずいぶんと急なことですね。『週間読売』っていうのは、そんなにいいかげんなんですか」。受話器の向こうで、「そうなんですよ、われわれも急に上司からいわれたんですよ。渡辺武信さんの推薦なんですよ。建築界で飲んで書けるのは、宮内康か布野修司だって‥‥」。ギョッ、武信さんには多少借りがある。「もう、ことわられると首です」とかなんとか、編集の辻さん(酒飲んで、もちろん仲良くなったのだ)はもう必死である。そのうち、「いや、僕もいいかげんなのはきらいじゃないですしィ~。お酒も嫌いじゃないですしィ~」てなことを口走ってしまった。その夜は、美術評論家の高島直之を「ただで酒が飲める」と呼び出して、楽しく飲んだ。文章は、割とうまく書けた。読んだかな。読んでないだろうな。‥‥ てなのが近況である。さて、連載を続けよう。

 

 1978年4月の中頃だった。一台のオンボロ小型トラックが東大本郷の工学部一号館の前に横づけされた。運転してきた男は、背が高く、がっしりとした、たくましい青年である。しかし、その風体はまるで、梱包屋か工務店の二代目のようであった。その印象が正しかったことは、すぐに裏づけられるのであるが、その好青年が小生の東洋大学への迎えの使者であるとは、おそらく、誰も気づかなかったにちがいない。「東洋大学の中村ですけど、布野先生の荷物を運ぶように言われたんですが‥‥」と言われた時に、僕も一瞬とまどった記憶があるのである。

 中村良和君。僕が最初に出会った東洋大生である。その最初の印象は強烈であった。何故か、うきうきした気分になったことを覚えている。「たったこれだけなんですか」だったか、「ずいぶんあるんですね」だったか、中村君が言ってダンボールをあっという間に積み込むと、すぐさま川越に向かった。さらば東大よ!なんて感傷的になんかちっともならなかった。川越街道はひどく混んでおり、おかげで、随分中村君と話すことができたのである。

 中村良和君は、今、豊橋にいる。JKK(住環境研究所)から積水化学工業にいって、中部セキスイツーユーホーム製作所に出向中である。何年か前、「一人じゃ寂しいから、誰かよこしてよ」といわれて、白水直人君(85年卒)が行った。しかし、人の運命というのはわからないものである。中村君が、今、豊橋にいることなど、本人も夢にも思わなかった筈なのである。その最初の出会いから、今日までの間に彼の人生は一変したのであり、ものすごいドラマがあったのである。

 最初に出会った時、彼は、前田研究室の研究生であった。しかし、同時に、北区の滝野川で工務店を営んでいる親父さんの元で、大工の修行中であること、続いて、電気屋、建具屋など下職の見習いを数カ月づつ続けるつもりであること、そうした上で、親父の跡をつぐつもりであること、全く新しい建築家のタイプを目指すことなどなどを、川越街道の上で語り続けた。正直いって、新鮮だった。二年程、東大で助手をして、アモルフの宇野君や竹内君、団紀彦君なんかのエスキースを見て、学生との接触はあったのであるが、東大には、こんなタイプの学生はいない。その時、一つの世界が開かれたような気がした。ひとつの構想が芽生えた。中村君と僕とのその構想は次第に膨らんでいく。そして、着々と実現するかにみえた。しかし、その矢先の事故であり、遭難であった。そう、彼は有数の山男でもあったのである。

 川越へ向かう車の中で、中村君は既に山男としての夢を、ヒマラヤ登山の夢を語っていた。海外登山の実績のある山岳会に属していたのである。その後、沢山の学生にあったのだけれど、はっきり言うけど、人間としての巾は、東大生より、東洋大生の方が上である。諸君の中には、音楽にかけてはセミ・プロ級が何人もいる。寿司をにぎらせたら、包丁をにぎらせたら、本職はだしのやつがいる。野球をやらせたらどうだ。(一瞬口ごもって)すごい奴らばかりである。スポーツをやらせたら、青白きインテリなんかに負けはしない。おまけに、もてるやつらばかりときたら、いうことなしである(そうだよねえ諸君)。中村君はそうした最初の学生であった。

 彼の二重遭難の話は後にしよう。それは四年後の暮れのことである。忘れもしない、宮内康さんが野球で骨折した日だ。東洋大学につくと、諸君のよく知ってる研究室に荷物を運びあげた。ガランとしていた。それがスラムとなるのに一年とかからなかったように思う。それまでのスラムは内田研究室であった。それ以後、その名誉の言葉はわが研究室につきまとい、今なお、つきまとっている。何人かの学生、大学院生が手伝ってくれた。その中に、岡利実君がいた。岡君も印象深い、彼と一緒に東南アジア研究を始めることになったのである。岡君と中村君は親友であった。岡君は理論派であり、中村君は実践派といった印象であったことを覚えている。

 最初の年、何をしていたかは、あんまり覚えていない。授業もあんまりしなくてよかったような気がする。もっぱら、前田研究室の院生、学生とゼミなどをつきあった。稲葉君の学年である。原稿のリストをみてみると、その年、悠木一也のペンネ-ムで『建築文化』に「螺旋工房クロニクル」というコラムを連載している。他に『現代思想』に書くなど、もっぱら原稿を書いていたようである。もちろん、一方で東南アジア・プロジェクトが開始されつつあった。同時代建築研究会も盛んであった。一方で、東大の院生、日本女子大の二人の学生(現 彦坂裕夫人、浜口恵子さん)の卒論をみていた記憶がある。楽しく、優雅であった。そうした中で忘れられないことがある。それは、前田研究室の合宿(青木湖)で起こった悪夢のような出来事である。

 断じて信じて欲しいのだけれど、僕は酒が飲めなかった。師匠である宮内康先生に聞いて欲しい。絶対ホントなのだ。その合宿で、新田君(現 近藤建設)という一人の学生が「飲み比べをしよう」という。皆はやしたてる。新任のセンコーとしては、学生に甘くみられるのが嫌だった。「よ~し」と受けてたった。新田君は底なしであった。しかし、その彼がトイレへ行ってゲエゲエはいて(後でわかって僕は怒り狂ったのだ。彼にはそういう特技があった。)さらに挑んできたのである。そしてクライマックスをむかえた。民宿の庭で、いきなり胴上げされたのである。このテクニックを僕はうかつにも知らなかった。人を酔わせる悪どい手だと今でも思う。こう書いてても眼から火花が出そうだ。チクショー。あとは知らない。花火をもってそこら中を駆け摺りまわった。何人もが火傷したという。挙げ句の果てに田圃に飛び込んで泥だらけになった。将棋板をひっくり返した。それで寝てしまった。

 翌朝、ガンガンする頭で恥ずかしさを感じて、ゼミを放っぽり出して、東京へ帰った。前田先生もあきれたと思う。この時以来、前田先生は僕のことを大酒飲みだと思い込んで、方々で言いふらすのでホトホト困ったのだ。満員で暑くて、トイレでゲエゲエ吐いた。ほとんど死にそうであった。その時は、とんでもない大学にきたと正直思った。酒をきたえなければと思ったのはこの時なのだ。「布野先生に酒を飲ますな」という噂はあっという間に広まった。学生の見る眼も変わった。「この先生はほんとは馬鹿なんだ」と、実に親しげなのである。                                   (以下次号) 

2025年3月1日土曜日

東洋大へ来た頃のこと 連載①、「鯨の会」通信01、1988

 東洋大へ来た頃のこと      「鯨の会」通信 連載①  1988

                             布野 修司

 

 「鯨の会」の通信を出すから何か書いてくれとのことである。というのはウソで、ホントは何か書かせてくれといったのは僕の方らしい。酔っぱらってて記憶がないから・・・そう僕は32才になった頃、つまり諸君とアメリカへ研修旅行へいってから、酔うと記憶がなくなるようになったのである。布野・宮内研でいうと4期生、飯塚君たちの学年は責任を感じて欲しい。デモマア、年のせいですね。君達も気をつけよう。・・・定かではないのだが。まあ、せっかくスペースを頂いたので、何事かをつづってみたいと思う。編集部というか事務局に「130 人の一人づつについて思い出を連載していいか」と聞いたら、「そんなに続くかどうか保証できない」などというので、「一期毎なら10号だけど」といったら、「そのぐらい出るかもしれない」という。思い出話をつづりながら近況も報告して欲しいということである。

 今回の「鯨の会」の発足について僕はほとんど何もしていない。特に「鯨の会」という名前については全く相談もうけていない。大洋ホエールズのまわしものがいるなと直感して、文句いったら、「先生、アンチ・ジャイアンツでしょう」とか、「『鯨井中野台2100』の『鯨』だ」とか、「それならナンデ『川越の会』とか『中野台の会』じゃないのだ」というとしどろもどろなのだ。「イヤ、升味で鯨が食べれなくなるからだ」とか「『鯨飲』の鯨」だとか「捕鯨は断固続けるべきだ」とか、全くいい加減である。こんないいかげんな会なんか嫌かというと、そうでもない。名前はついてしまったのだから、あきらめることにする・・・変な名前だと思う人もあきらめよう・・・。実は、僕もこういう会があったらいいなと思っていたのである。それに、第一回の会でも少しだけ時間をもらって話したのだけれど、「鯨の会」の発足について、僕に全く責任がないわけでもない。研究室も10年になると、初期の頃の諸君は働き盛りである。腕に自信もできて、資格もとり、独立しようというつわものも出てくる。実際、研究室のOBの中にそうした人達が次第に増えてきた。また、独立しなくても転職するケースはかなり多い。僕が「鯨の会」のような会・・・どんな会に育っていくのか今のところ事務局にきいても分からないのだが・・・必要だと思ったのはOBの独立や転職の相談、あるいは学生のリクルートの相談に一人一人対応するのではかなわないからである。それに、僕自身や大学に集まる情報ではたかが知れている。もっと、OBどうしで相互交流すればいいんじゃないか、とふと思い、昨年の12月だったか、何人かのOBたちに忘年会と称して集まってもらって、何となくこういう会があればなあなどとつぶやいたり、わめいたりしただけである。後は、一切知らない。全ては、秘密裡に進められた。もっとも、後で聞くと、宮内先生が色々とアドヴァイスして下さったらしい。そうでなければ、こんなスマートに、会など発足する筈が無いのである。

 以上は本音である。だがしかし、もちろん、別の本音もある。それは本音というより夢といった方がいいのだけれど、その夢については諸君がゲラゲラ笑い出すといけないから書かない。それに、会がこれからどうなっていくかは誰にもわからないのだから、一人の年長のメンバーにすぎない僕が勝手に自分の夢を押しつけるわけにはいかないのだ・・・その夢について聞きたければ、定例会の二次会に出て聞いてちょうだい。酒の席なら、多少のホラも許されるんじゃないか・・・。   

 

 さて、前置きが長くなった。まず近況だけど、『群居』、『同時代建築通信』の読者であれば御存知であろう。僕は僕でそう変わっていないのである。ただ年をとった。学生は丁度、一回り(12年)下より若い世代になってしまった。宮内康先生がウシ年で丁度一回り上だから、宮内先生に最初に出会った頃のことを思い出すと、何となく感じがわかる。しかし、さらにもう一回り下になったらどんな感じだろう・・・宮内先生に聞いてみなくちゃ・・・。東洋大にきた頃、生まれたばかりだった上の子がもう4年生である。当り前だけど、その頃は自分の子供の世代である。諸君と同じようにその年の学生と酒が飲めるかどうか自信がないのである。まあ、将来の話は後でいい。何回かにわけてこの10年を振り返ってみよう。

 

 それは1978年の正月が明けて早々のことだったと思う。内田雄造さんから一本の電話をもらった。「君を東洋大に招きたいから履歴書を出して欲しい」。随分唐突であった。全くの寝耳に水である。それまでそういう話は全くなかったし、夢にも考えていなかったことである。内田先生、前田先生の名前はもちろん知っていたし、東大の吉武先生が筑波へ行かれる時の研究室のちょっとしたゴタゴタを通じて面識もあった。しかし、それ以外の先生については全く知らなかった。太田邦夫先生、上杉啓先生ですらそうである。両先生も僕について全く知らなかったと思う。しかし、もう一人だけ、東洋大の先生で知ってる先生がいた。誰でしょう。もちろん、いうまでもなく、それは宮内康先生である。同時代建築研究会を始めたのは1976年の暮れだから、その頃は毎月一度は会っていたわけである。しかし、当然のことながら、非常勤である宮内先生から、そんな話は一切聞かされていない。しかし、確かめたわけじゃないから定かではないけど、僕に関する具体的な情報は、宮内先生を通じて、前田、内田の両先生に伝えられたに違いないのだ。そうだとすれば、僕が東洋大にくる大きなきっかけは、そもそも宮内先生にあったことになる。それが事実であろう。なぜなら、その頃、僕は、多少、建築ジャーナリズムに文章を書き出してはいたけれど、全くといっていい程、業績はなかったのである。

 しかし、今にして思えば随分乱暴な話である。前もって意向を確認もせずにいきなり履歴書である。しかし、僕は即座に答えた。「行きます。宜しくお願いします。」。理由は簡単である。東洋大の方に自由な空気があるという直感である。そして、その直感は決して間違ってはいなかったのである。

 

  ここで以下次号と書いたら、「まだスペースがあります」と事務局が言う。全くもってダラシナイ事務局である。「そして、その直感は決して間違っていなかったのである‥‥」すばらしいエンディングではないか、それなのに、以下は蛇足である。

 

 電話をもらって、まもなく、内田さんと渋谷の茶店で会った。その茶店にはデビュー前の清水由貴子がいたのを覚えている。清水由貴子って誰かって?知らないかなあ?欽チャンバンド・・・古いなあ・・・に帰ってきたアイドルとかいうんでしばらく出てたよ。どうでもいいけど、それだけ記憶が鮮明ということである。それに僕が芸能界に強いのは昔からなのだ・・・もっとも最近はダメだけど・・・。その時、1~2度TVに出ただけの清水由貴子をそれと分かったくらいなのだ。

その茶店では、内田さんから履歴書の書き方について教えてもらったのである。その後一度、もしかすると同じ日だったかも知れないのだが、前田先生、内田先生と、新宿駅前のバーというか茶店でビールを軽く飲んだ。That's all. である。僕が君達と出会う運命は決まったのである。もちろん、後できくと、僕を採用するかどうかをめぐっては多少もめたらしい。しかし、当時の僕にはそんなことは知る由もなかった。3月には、もう設計製図会議に呼ばれて、いっぱしの意見をはいた記憶がある。その会議には入れ替わりで神戸大学へいく重村力さんがいたのがまるで昨日のようである。

                                 (次号へ続く)

 

布野修司 履歴 2025年1月1日

布野修司 20241101 履歴   住所 東京都小平市上水本町 6 ー 5 - 7 ー 103 本籍 島根県松江市東朝日町 236 ー 14   1949 年 8 月 10 日    島根県出雲市知井宮生まれ   学歴 196...