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2023年1月26日木曜日

職人大学第二回スク-リング-宮崎校,雑木林の世界53,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センター,199401

  職人大学第二回スク-リング-宮崎校,雑木林の世界53,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センター,199401

雑木林の世界53

サイト・スペシャルズ・フォーラム

職人大学第2回スクーリング

宮崎県宮崎校

                       布野修司

 

 今、宮崎県は綾町のサイクリングターミナルでこの原稿を書いている。後ろでは、金山金治(原建設)氏の「建設職町学(学び、教える)」の講義が行われている。職人になってからづっとつけているという分厚い日記帳をどんと机の上に置いての講義だ。迫力がある。

 サイト・スペシャルズ・フォーラム(SSF)の「職人大学第2回スクーリング宮崎県宮崎校」が一一月二三日から開かれており、四日目の午後の最終講義である。この後、夕食をとり、恒例の超ヴェテラン鳶藤野功氏の講義がある。また、今井義雄(鈴木工務店)氏の「現場経営学(新技術への挑戦)」が続く。ハードスケジュールは、第一回の佐渡と同様である。

 今回の受講者は三一名、佐渡に続いての参加者もいる。一八才の鍋島君と興梠さんである。最年少はなんと一七才の大村義人君だ。中卒で既に三年の経験を持つ。ハンサム・ボーイで大人気である。鍋島君はアイドルの役割を譲った形になる。最年長は前回に続いて興梠(佐多技建)さんでOB会である「真渡の会」会長として参加されている。三〇代、四〇代のベテランが今回も中心である。こう書いているうちに、第一期世で「真渡の会」事務局幹事の杢尾さん(皆栄建設)がやってきた。先輩連中の講義は明日の朝、八時半からである。変わり種は、竹村君だ。京都大学の研究室を飛び出して、この九月から大工修行を始めたばかりである。田中文男さんにお願いして真木工作所で働いている。「大学まで出てどうして?」と、好奇の眼で見られても一向気にせず、一生懸命である。

 金山さんの講義が早く終わった。藤野さんの講義を急遽行うことにした。臨機応変である。藤野さんの講義を実況中継してみると次のようである。

 「五トンのものをロープで吊る。吊り角度六〇度。ロープの径はいくらか」。いきなりの質問である。前に講義を受けているからうろたえないけど知らないと面食らう。安全荷重は、円周一インチ(直径八ミリ)で五〇〇キロ、二インチで二トン、三インチで四.五トン、四インチで八トンである。

 「問題は重量見積です。鉄の比重はいくらですか。鉄筋コンクリートは。木は。」。正解は、一立方メートル当たり、七.八トン(八と覚える)、二.四トン、〇 五トン(乾いた松で)である。単に数字を暗記するのではなく、身体で覚えていなければならない。そしてロープ結びの基本実習。ボーラインノット(ハクライ結び)、シングルシートベンド、ハーフピッチ、ティンバーヒッチ、クラウンノット、何度も習って頭には入っているけれど普段やってないからちっとも身がつかない。

 午後の小野辰雄(SSF副理事長 日綜産業)氏の「安全工学と仮設構造物の先端技術」にはNHKの取材が入った。教室を飛び出た野外の講義である。野外に特別に組まれた足場に飛び乗った講義はテレビにとって絵になる。小野講師も力が入った。

 夕食を終えて、六時半から三分にわたって宮崎ローカルで放映。この後七時からのニュースで全国ネットで流されるというが、果たしてどうか。七時からは今井義雄氏の講義が始まったが、テーマは変更になって「職長さんが考える現場経営」。レジュメには「サブコンの役割の変化」、「ゼネコンの求める優良パートナー像」など七項が挙げられている。講義スタートと同時に安藤正雄(千葉大)先生とSSFニュース担当の山本直人さんが二度目の到着。忙しい中、とんぼ帰りである。

 七時のニュースでは流れない。結果的には九時のニュースで流れたのであるが、皆いささかがっかりの様子であった。

 翌日は、理事会とSSF設立三周年記念の行事「みんなでつくろう職人大学」があった。三〇〇人もの人々が集まり、職人大学設立へむけての熱っぽいスピーチが相次いだ。中でも、小野辰雄副理事長の「何故、職人大学か」は、ユーモアも交えながらの熱弁であった。

 シンポジウムに出席した僕が話したのはおよそ次のようなことである。「SSFの実験校はとにかく疲れます。頭が痛くなるというのが素朴な実感です。

 とにかくすばらしいのは、朝の八時半から夜の九時まで、食事の時間を除くとびっちりのハードスケジュールなのですが、講義の始まる前に全員が着席します。眠ったりする人はありません。眼がみんな輝いていて真剣です。大学だとこんなことはありません。平気で遅刻して来ますし、眠ります。第一、授業に出てきません。大学には、大体遊びに来ているんです。人生で唯一遊べる期間なんですね。でも実験校はみな必死です。貴重な仕事の時間を割いてやってきているんです。講師も手が抜けません。

 頭が痛い第一は、「大学の先生の話しは難しくてわからない」といわれることです。よく聞いてみると、わからないというより面白くないというんですね。現場経験の豊富な人のほうが面白いんです。

 頭が痛い第二は、課外授業、補修授業がすごいんです。お酒を飲みながら色々話しをするわけです。体験報告会と呼んでいますが、相互に職種を超えて話しをするのが本当に貴重です。勢い、寝不足になります。二日酔いになります。頭が痛いわけです。」 職人大学構想は、拠点校としての「職人工芸大学(仮称)」の設立を目指して、文部省との非公式の折衝に入ったところである。また、建設業界の理解をもとめて各団体への説明を精力的に開始し出したところである。この間のゼネコン疑惑騒動で予定が狂いっぱなしなのであるが、タイミングとしてはむしろいいのかもしれない。後継者育成のしっかりした体制をいまこそつくりあげるべきなのである。職人大学設立発起人会は来年度になるであろうか。未だ道は遠いのであるが、一歩一歩着実に進んできたことは確かである。会場ではカンパも集められ始めた。浄財を広く集めてその意義を訴えていく必要がある。

 シンポジウムでは、実験校の問題点、足りない点を問われて次のように答えた。

 「僕の考えでは、職人大学は既に出来ていると思います。目標を遠くに置くのではなく、今、既に出来ていると考えた方がいい。第三回、第四回と続けていけばいい。今のところ年二回の予定なのですが、そのうち拠点校、現場校ができる筈です。今は移動大学なんです。佐渡と宮崎がすんだわけですけれど、まだ、各県回るとすると四五都道府県も残っているわけです。年二回じゃ足りなくなるでしょう。そのうちいろんな所から手が上がってくるでしょう。現に、群馬県、神奈川県から申し出があります。とにかく、実験校を続けていく中で、もし、問題点があれば直していけばいいわけです。」。本音である。  





東洋大学建築学科50周年記念シンポジウム ディスカッション

2023年1月25日水曜日

現代建築の行方-日本と朝鮮の比較をめぐって,雑木林の世界52,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センター,199312

現代建築の行方-日本と朝鮮の比較をめぐって,雑木林の世界52,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センター,199312


雑木林の世界52 

出雲建築フォーラム第3回シンポジウム

現代建築の行方ーー日本と朝鮮の比較をめぐって

 

                       布野修司

 

 十月の頭に、スラバヤ工科大学のJ.シラス先生が北九州市にやってきた。世界銀行と国連地域開発センターが主催する国際会議に出席するためである。今後の研究計画について打ち合わせするために会いに行った。一緒に北方の居住環境整備の様子を見せて頂いた。大変な事業である。九州女子大の岡房江先生と九州大学の菊地朋明先生にお世話になって、翌日には、ネクストⅠ、Ⅱなど博多のハウジングを見せて頂いた。J.シラス先生とは短い時間であったが、互いに毎年のように行き来出来るようになったのは実にうれしい限りである。

 ところで、神無月、十月は出雲では神有月である。年に一度全国から八百万の神様が出雲大社に集まって会議を行なうことになっている。その出雲特有な神有月に全国から建築家を招いてシンポジウムや展覧会をやろうと始めた出雲建築フォーラムの恒例の行事も早いもので今年で三回目になる。

 今年のテーマは「朝鮮文化が日本建築に与えたもの」パート2ということで「現代建築の行方ーー日本と朝鮮の比較をめぐって」をサブテーマとした。パネリストは、韓国からの承孝相氏(TSC代表)、金奉烈氏(蔚山大学)の二人に、今年新たに村松伸氏(東京大学)、昨年に続いて韓三建氏(京都大学大学院)と小生である。しかし、それだけではない。フロアには、昨年のパネリスト張世洋氏(空間社代表)ら韓国から五人の建築家、日本からは鬼頭梓新日本建築家協会(JIA)会長、高松伸、渡辺豊和など壮々たるメンバーが陣取った。神々のシンポジオン(祝宴)の雰囲気である。

 今年の会場は、松江市の「くにびきメッセ」(島根県立産業交流会館)である。高松伸の最新作だ。見本市のための空間ということで大味だけれど力は入っている。JR山陰線からよく見える大橋川沿いの絶好の立地でもある。その国際会議場を借り切ったのであるが、いささか背伸びし過ぎたかもしれない。しかし、シンポジウムは例年通り力作の建築にまけない熱気に溢れたものとなった。特に、承、金両氏のスライド・プレゼンテーションは力のこもったものであった。

 金奉烈氏は以前紹介したのことがある(雑木林の世界    韓国建築研修旅行 一九九三年五月号)。一九五八年生まれで若いにもかかわらず、日本でも翻訳の出た『韓国の建築 伝統建築編』(西垣安比古訳 学芸出版社 一九九一年)の著者である。弱冠二六才でものしたこの著書は、ガイドブックといっていいのであるが、その水準を超えている。今は韓国の文化財保護委員である。また、金氏は現代建築についての批評家としても「空間」誌などでも活躍している。AAスクールに留学経験もあり、活動の広がりはインターナショナルである。

 今回のレクチャーは、「韓国建築の集合性」と題し、集合の形態という観点から韓国建築の特性を浮かび上がらせるものであった。日本のみならず、ヨーロパア諸国の事例との比較もあって学識の深さを感じさせるレクチャーであった。

  承孝相氏は、自分の作品を振り返る形のレクチャーであった。氏は一九五二年生まれだ。ソウル大卒で金奉烈氏は後輩になる。張世洋氏と同じく、空間社にあって金寿根氏に学んだ。ウイーンに二年間学んでいる。一九八九年独立。十四人の建築家からなる「4.3」グループという集団のひとりでもある。事務所TSC主催。Tとはテーマ、Sとはサイト(場所)、Cとはコンテンポラリー(時代性)を指すのだという。彼の建築観を示す三つの概念を事務所の名前にしたのである。

 彼は、如何に金寿根に学び金寿根以上に金寿根的な表現を目指してきたかを語った上で、新たに目指そうとしている建築について述べた。沈黙の建築と仮に彼はいうのであるが、伝統や地域性などの意味を殺ぎ落としたミニマルな表現を目指しているようだ。金寿根から如何に離れるか、その模索をとつとつと語る真摯な態度が好感を持てた。

 村松伸氏は、一年滞在した韓国の現代建築について語ると思い気や、台湾、中国、香港、シンガポール、インドネシアの現代建築をめぐってのスライド・レクチャーであった。アジアで建築の新しい動きが起こりつつあるその熱気を充分伝えるプレゼンテーションであった。

 小生の場合、北朝鮮のスライドを用意していたのであるが、余りに熱のこもったレクチャーが続いて全体で四時間も用意していたのに時間がなくなった。渡辺豊和さんとともに、懇親会でスライドを続けたのであった。韓三建君は、昨年に続いて、絶妙の通訳で大活躍であった。

 韓国の場合、一九五〇年代生まれの建築家がそろそろ中心になりつつある。相互の方法を真に突き合わせるそんな時代がきたというのが実感である。

 島根県の場合、慶尚北道と姉妹関係を結ぶなど韓国との交流に極めて熱心である。今回のシンポジウムも環日本海(東海・・韓国では日本海とは言わない)博覧会の一環として位置づけられたものであり、つい先頃も、環日本海の知事サミットも行っている。鳥取県、富山県、新潟県など日本の日本海沿岸の県知事とロシア沿海州、韓国、北朝鮮、中国の地方首長が一堂に会して議論するのである。こうした地域の特色を生かした国際化の動きはますます活発していくことになるであろう。

 懇親会では、来年は、韓国でフォーラムをやろうという声が出た。張世洋氏がすぐに答えた。前向きに検討しようと。ソウルの空間社ならいつでも開放しましょうと。また、今回のシンポジウムの内容を「空間」誌に載せるから投稿してくれという。来年、十月にはソウルで出雲建築フォーラムの第四回シンポジウムが開かれそうである。また、釜山に出雲建築フォーラムのような組織をつくろうという声が韓国側参加者から上がった。楽しみなことである。

 このところやけに島根づいている。川本町の「悠邑ふるさと会館」(仮称)のコンペの審査がある。これまた、公開ヒヤリング方式でやることになった。小生は関係しないのであるが、大社町の文化センターも公開ヒヤリング方式で行われる。もしかすると、島根方式になっていくかもしれない。また、美保関町の隠岐汽船のターミナル・ビルのコンペがある。しまね景観賞の審査がある。

 十月には、四回目の出雲市まちづくり景観賞の審査に行ってきた。また、大東町の景観研究会に出かけて話をする機会があった。全て、出雲建築フォーラムの動きが渦になっての展開である。忙しいけれど断れないのがいささか苦しい。しかし、もう少し軌道にのるまでという思いもある。しばらくは出雲に、島根に注目していきたいというところである。

 

2023年1月24日火曜日

第三回インタ-ユニヴァ-シティ-:サマ-スク-ル,雑木林の世界51,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センター,199311

 第三回インタ-ユニヴァ-シティ-:サマ-スク-ル,雑木林の世界51,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センター,199311

雑木林の世界51

飛騨高山木匠塾

第3回インターユニヴァーシティー:サマー・スクール

 

                       布野修司

 今年の飛騨高山木匠塾は、岐阜県と共催の研修プログラムやシンポジウムの開催、茨城ハウジングアカデミーの夏期研修など様々なプログラムが平行して行われ、実に多彩なものとなった。学生の自主的運営を段々目指そうとしているのであるが、全ての中心にいてプログラムを切り盛りしたのは、東洋大学の秋山哲一先生である。また、芝浦工業大学の藤澤好一先生である。

 僕の場合、先号で述べたように諸般の事情で二泊三日しか参加することができなかった。そこで、今回は、京大および関西組の幹事役を立派に果たした川崎昌和君(京都大学大学院)にレポートをお願いすることにした。

 

 今年の木匠塾は思いもかけぬ雨にたたられ、野外での活動を主旨とする木匠塾の参加メンバーにとっては何とも恨めしく思われた。にもかかわらず、昨年までの蓄積とメンバー達のやる気もあって、かなり充実したものになったといえよう。参加大学は七大学を数え、これに茨城ハウジングアカデミー、M  設計事務所、さらには高山からの一般参加者が加わり、一時は百人を越え、かなり賑やかな交流の場とすることができた。茨城ハウジング・アカデミーは、大工を目指す若者の学校であり、平日には実際の現場に出て作業・見習いをしながら週二日この学校で建築技術や理論を学ぶというものである。その行動力には目を見張るものがあり、彼らが今年の活力源になったといってもよいだろう。特に大学で安穏とした学生生活を送って者にはよい刺激となった。

  以下に今年の木匠塾の活動の日誌を書いてみる。

 

  八月一日  関東、関西の各地から三々五々車で木匠塾の宿舎(元は営林署の製品事業所で、かなりの年代物である)に参加者が集まってくる。一年間空き家となっていた場所であるので、総出で大掃除・布団干しをするが、今にも雨が降り出しそうな空の下なかなか布団が乾かず、その晩は幾分湿った布団で寝ることになる。

  八月二日  この日から本格的に活動が始まる。今年の実習は大きく三つに分かれた。まず、宿舎の周辺施設計画で、高低差のある二つの宿舎をつなぐルート、周辺の散策路、野外ステージ、果ては展望台までつくってしまおうとするものである。次は岩風呂計画。二つの宿舎の間にある朽ちかけた倉庫を利用し、かねてから望まれていた風呂をつくろうとするものである。そしてもう一つは飛騨高根村のかがり火祭りに出店する際の屋台をつくり、祭りの日にはお助け飯、野麦汁、焼き鳥、日本酒を売ってしまおうというものだ。それぞれのグループに分かれて案を詰める。この日の夜はオープニング・パーティーということで、高根村の村長さんがわざわざお見えになり、挨拶をしてくださった。高根村の方々にはいろいろと便宜を働いてもらっており、全く頭の下がる思いである。

  八月三日 雨が降ったり止んだりするなか、それぞれ作業を進める。散策路のグループは、薮の中を悪戦苦闘しつつ道を切り開き、切り出し材の皮を剥いだりする作業。岩風呂のグループは、この日から参加の三澤文子率いるM  設計の面々を中心に、一日で設計図からパース、木拾い表まで作り上げてしまった。プロは強い、と学生の面々。木匠塾の精神として、スクラップ・アンド・ビルドはやめようと現存の建物を生かす方向に決定。他のグループの精力的な活動に負けじと、屋台グループも本格的に制作を開始、ハウジング・アカデミーの人たちを中心に、装飾の格子、蔀戸などに慣れない手つきで挑戦する。

  八月四日  この日は林業経営についての実習と見学。アカマツの国有林に入り、間伐作業を体験。実際にはあまり高く売れないアカマツを植えざるを得なかった森林行政の悲しさを垣間みる。その後森林組合の製材所に行き、木材の加工現場を見学。夜は遅れ気味の屋台の制作が続く。

  八月五日  日綜産業の藤野さんによる足場組立実習および安全に関する講義。建設現場での事故をなくそうと尽力する藤野さんの熱意を無駄にしたくないものだ。丸太を使ったステージや展望台も大方できあがり、ちょっとしたフィールド・アスレチック上のような感じになってきた。岩風呂グループは来年度の作業の下準備ということで基礎部分の補強作業をする。晩には東洋大学の太田先生によるスライドを交えたレクチャー「世界の木造住宅」が行われた。例年であれば野外でのレクチャーとなるが、雨のおかげで百人近い人数が宿舎の食堂に所狭しと集まって聞くこととなる。

  八月六日  高山市内見物。ただし木匠塾が今年で三回目という者もおり、一部は残って作業を続ける。特に屋台グループは明日が本番とあって最後の追い込みとなり、晩になってようやく仮組立をすることができた。この日の宿泊者は百名を越え、寝場所がないといった具合になってしまう。

  八月七日  「日本一かがり火祭り」当日。女性陣を中心としたメンバーは売り物の調理を村民センターで行い、他のメンバーで会場で屋台の組立。十二時頃から販売開始、十万ほどの利益を挙げ何とか完売にこぎつけることができた。最もその利益も一日でビールの泡として消えていってしまうのだが・・・。

  八月八日  この日は二人の講師陣を迎えての特別講義。民家の再生の専門家の降幡氏と、建築、家具製作からパッシヴ・ソーラー・システムまで幅広く活躍されている奥村氏が熱弁を振るってくださった。

  八月九日  学生達が待ちに待った野球大会。昨日、今日とうまい具合に雨が降らず、少し救われた感がある。最後の夜とあって、フェアウェル・パーティーが行われ、長いようであっという間に過ぎていった今年の木匠塾を振り返った。来た当初には「こんな山奥から早く帰りたい」と言っていたハウジング・アカデミーの面々が「来年も後輩を連れてきます」といってくれたのは非常にうれしかった。

  八月十日  片付け・清掃をした後、各自帰路につく。

  ともかく今年も大きな事故もなく無事終了することができた。早くから準備に走り回っていただいた芝浦工大の藤澤先生、東洋大の秋山先生、また高根村の方々、講義をしてくださった先生方にこの場を借りてお礼を述べたい。

  今年の木匠塾では様々な企画が盛り込まれ、それぞれが作業にいそしむことができた反面、学生の間でのゼミをあまり行えなかった。真剣に自分の研究・他の者の研究について討論するというのは大切であり、ある意味でシビアな場を設けたかった。また高山からの一般参加の人たちは三日間の参加ということもあって、少しとけこみにくかったようで、この辺を是非来年に向けての課題としたいところだ。

 


2023年1月22日日曜日

空間ア-トアカデミ-:サマ-スク-ル,雑木林の世界50,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センター,199310

 空間ア-トアカデミ-:サマ-スク-ル,雑木林の世界50,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センター,199310

雑木林の世界50

空間アートアカデミー:サマー・スクール

 

                       布野修司

 

 1993年の夏は異常な夏であった。梅雨が明けたのかどうか定かではない冷夏、長雨にはうんざりした。地震や台風の被害には、あらためて自然の脅威を感じさせられてしまう。それはそれとして、この夏はいささか忙しかった。七月の末から、新潟→ソウル→高山と連続して旅するスケジュールになったのである。夏休みをとった気分がしない。天候と同じである。

 しかし、刺激的な夏であったことは間違いない。もちろん、ハイライトは飛騨高山木匠塾である。雨に祟られたのであるが、第三回のインターユニヴァーシティ・サマースクールは八月一日から一〇日まで予定通り開かれた。大盛況、大成功であった。今年は、個人的なハプニングもあって、二泊三日しか参加できなかったのであるが、参加者の声も集めて、次回に報告しよう。八月七日の高根村「日本一かがり火まつり」への屋台参加は、用意したものは完売ということで、高根村のお役にも立てたようである。

 高山へ駆けつける前は、まず、新潟であった。「にいがた建築まちなみ100選」プレシンポジウムということで、「まちなみ形成と建築家」というシンポジウムのコーディネーターを務めた。芦原太郎、小嶋一浩、エドワード鈴木、隈研吾、高橋晶子、團紀彦、原尚、平倉直子、元倉真琴といったそうそうたる建築家が参加するシンポジウムであった。小川富由、青木仁、合田純一といった優秀な建設省の若手官僚も大勢加わった、かなりというか大変な人数のシンポジウムである。もちろん、初めての経験であった。実は、本欄でも触れた(雑木林の世界   「望ましい建築・まちなみ景観のあり方研究会」 一九九二年七月)研究会の延長のプログラムである。景観問題・建築文化研究会として活動を続けているのであるが、具体的実践の段階が来たといえるかもしれない。これもまたの機会に報告しよう。

 

 ソウルへは新潟から直接飛んだ。新潟からはウラジオストックやハバロフスク、イルクーツクへも飛んでいる。環日本海(東海)時代には裏日本側が中心となる。新潟を中心に既にネットワーク化が進んでいるという印象である。

 「空間」社のアート・アカデミーの講師として招かれたのであるが何をすればいいのか若干不安であった。五月に来日した張世洋氏(空間社代表)に招待状を手渡され、飛騨高山木匠塾と日程が重なると固辞したのであるが、どうしても来てくれということで、内容もよく知らずに三本ほどのレクチャーを用意して韓国へと向かったのである。今年は本当に韓国づいている。

 張さんとは、出雲建築フォーラム以来のつき合いである(雑木林の世界   「朝鮮文化が日本建築に与えたもの」 一九九二年一二月)。張さんは、ソウルのオリンピック・スタジアムを設計した金寿恨(故人)の一番弟子で、その空間社を引き継いでいる。韓国建築界の若きリーダーである。今年、三月、ソウルで再会し、五月、京都工業繊維大学での講演のために京都を訪れた氏にもう一度あった。二才違いであるが、やけに馬が合う。

 着いた日、早速、パーティーを開いて頂いた。メンバーがすごい。アート・アカデミーの他の講師(金億中、金鐘圭、襄乗吉、鄭奇溶)がまずすごい。スイス、イギリス(AAスクール)、アメリカ(UCLA)、パリとみな外国帰りの気鋭の建築家である。何で、僕なんか招待したのわからない、そんな気分にさせられてしまう。また、母校ソウル大学への復帰が決まった金光呟氏や承孝相氏など「4.3グループ」(一四人で設立)の若手建築家が沢山パーティーに参加してくれた。何か場違いな感じもしないではなかった。

 翌日からの四日は楽しい地獄であった。サマースクールのプログラムいうのが、実はある種の設計競技だったのである。一人のチューターに三人の学生がつく。具体的な敷地が与えられ、その敷地へ建築的回答を与えるよう求められるのである。短期集中グループ設計である。

 僕のチームについたのは、成均館大の禹君と安君、そして釜山大の安君であった。全部で一五人。ソウル大、蔚山大、仁荷大、忠北大、ハーバード大、延世大、東義大、弘益大、忠北大、韓国中から精鋭が集まっている。ポトフォリオを予め提出し、選抜されるのだという。

 実をいうとサマースクールは既に毎週土曜日、七月一〇日、一七日、二四日と三回開校されていた。講演会があってスタディーをするのである。僕の場合、毎週来る訳にはいかないのでその間のわがチームは張さんの指導である。いささかハンディが大きかったかもしれない。ソウルについて、ことの次第を知ったのであるが、あせったのはいうまでもない。

 敷地は、空間社のすぐ裏手にあった。長細い三角形をしているのが特徴的である。すぐ眼の前に秘園のある昌徳宮の塀がある。景福宮と昌徳宮を結ぶ道の始点・終点である。まずは敷地分析の結果を聞くところから始めた。通訳には韓三建君がついてくれた。韓君は抜群のデザインセンスを持っているから百人力であった。

 三週間の敷地分析を聞いて、基本テーマ、基本コンセプトを決めなければならない。何せ時間がないのである。一瞬の閃きで、「時の門              ーメディエイティング・トライアングル」というタイトルを決定。作業開始である。

 学生達は大変である。三泊四日の間に作品を仕上げねばならない。その間にレクチャーがあり、講評があり、フリーディスカッションがある。僕だって大変だった。四日の間に、二回スライド・レクチャーを行い、講評、ディスカッションの全てに参加しなければならない。各チームは競争で、先生同士も競争である。実に苦しい、楽しい四日間であった。

 最初の日、タイトルといくつかのねらいだけ決めた。午前中に都さんの「パラダイム・シフト」をめぐる哲学的講義があり、午後、僕がハウジングにおけるパラダイムシフトについて講義した後である。サマースクールは飛騨高山木匠塾と同じく今年で三回目で「思考の転換」をテーマとしたのである。

 さあやろう、といって、次の打ち合わせを夜中にしたいというので行ってみると、何も出来ていない。かなりあせる。チーム内でかなりの意見の相違が出て対立してしまった。これだからグループ設計は面白い。困った、明日の中間発表は基本コンセプトのプレゼンテーションで何とかしのごう、ということになった。

 翌朝行ってもさしたる進展がない。午後からの中間発表を聞いていささか安心する。議論ばかりでちっとも進んでないように見えるチームもあったのである。というように悪戦苦闘しながら、最終日を迎えて驚いた。ものすごい馬力である。方針を最終決定するやすさまじい勢いで作業が進んだのである。模型もあっという間に出来た。さすがにえり選った精鋭である。我がチームも格好がついた。いい線いったように思う。残念ながら最終展示は見届けられなかったのであるが、すぐさま展覧会が開かれた(八月四日~一六日)。結果はまた『空間』誌に掲載される。楽しみである。

 


2023年1月21日土曜日

東南アジアの樹木,雑木林の世界49,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センター,199309

 東南アジアの樹木,雑木林の世界49,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センター,199309

雑木林の世界49 

東南アジアの樹木

 

                       布野修司

 

 東南アジアを歩き出して既に久しいのだが、まだまだ学ぶべきことが多い。というか、知らないことが多すぎる。とくに専門外のことになるとからきし駄目である。否、専門として知ってないといけないことでも駄目なことが多すぎる。そのひとつが樹木である。

 人によって異なるのは当然であるが、建築に携わる人でも木を見分けられる人はそう多くない。松と杉、あるいは桧の違いはともかく、桧とひば(あすなろ)、さわらなどを臭いと肌理で判断できるとすれば、僕らの世代ではプロであろう。飛騨高山木匠塾では、木の種類を学ぶのが第一歩である。葉を見て、ひのきとひばを区別できるのであるが、ご存知であろうか。本誌の読者であれば当然の知識かも知れないのであるが、恥ずかしながら、飛騨高山木匠塾で初めて知った次第である。

 昔から、草花や樹木の名を覚えるのは不得意である。関心が無ければ覚えられないのは当然である。それなりに自然に囲まれて育った僕らの世代は、まだましかもしれない。最近の子供たちにとって自然に触れる機会がないのだからもっと事情は深刻である。山や海に出かけて自然に触れない限り、子供達に取って樹木や草花は図鑑の中の存在でしかない。

 東南アジアを歩き始めた当初から眼に触れる自然は新鮮であった。見慣れない樹木を沢山眼にするからである。まずは果物の木が珍しい。バナナの樹や椰子の樹、パイナップルの樹ぐらいは知っていても、他の果物になると果物自体が珍しい。ドリアンやマンゴスチンなど果物の王とか女王とか言われるものを食べて、その樹がそこら中に生えているのを見ると自然と覚える。ジャックフルーツ、パパイア、ランブータン、マンゴー、ロンガン(リューガン)、グアバ、・・・東南アジアを旅したことがある人はご存知であろう。

 他に、コーヒーの樹などは東南アジアで初めて見た。クロフの樹、煙草に入れる香料なのですぐ覚えた。建築材料としてはジャティ(チーク)、ナンカがよく使われる。屋根材としては砂糖椰子の繊維であるイジュク、あるいはアランアラン(茅)が使われる。

 まあ覚えたといっても以上のようだから全くもってたいしたことはない。不勉強の限りである。それではいけないと東南アジアの木造住宅の材料について少しづつ調べ始めたのであるが実に面白い。以下にいくつか記してみよう。今回のネタ本は、渡辺弘之先生の『東南アジア林産物20の謎』(築地書簡)である。

 東南アジアにも松がある。スマトラの高地、あるいはバリやジャワの高地で実際多く見かける。熱帯地方とはいえ、高度が上がれば針葉樹が生育してもおかしくない。わが国には、アカマツ、クロマツ、リュウキュウマツ、チョウセンゴヨウ、ハイマツ、など七種あるのであるが、東南アジアの場合、三針葉のケシアマツと二針葉のメルクシマツの二種類があるという。そして、ケシアマツはマレー半島以南には存在せず、赤道を超えて分布するのがメルクシマツだという。インドネシアでみられるのは従ってメルクシマツである。ボルネオには何故か自生していないという。

 南洋材というと、チークであり、マホガニーである。あるいはラワンである。いずれも我々には親しい。チークは確かに東南アジアの原産である。それもミャンマー、タイ、ラオスなど大陸部の明瞭に乾期をもつ地域が源郷であるという説が有力である。ジャワやスンバワにみられるチークがどのように大陸からもたらされたのかは各地の建築物を考える上で興味深いことである。チークは造船材として使われ、今高級家具材として専ら使われる。もちろん、建築用材としても高級材である。初めて知ったのであるが、宇治にある黄檗山万福寺の主要な柱がチーク材だと言う。

 一方、マホガニーは実は中南米が原産地だという。一六世紀後半、マホガニーは西欧列強によって家具材として、棺桶材としてヨーロッパに大量に輸出された。ところが、中南米ではしかるべき植林がなされなかったため、需要に答えられなくなった。そこで、気候の似た東南アジアで植林がなされるようになったというのが経緯らしい。マホガニーがセイロンに移植されたのが一八四〇年頃、マレーに来たのが一九七六年である。特に、オランダはインドネシアで積極的にマホガニーを造林したのだと言う。その結果であろう。東南アジアでマホガニーが多いのは、ジャワ、特に西ジャワである。マホガニーの並木道を車で走るのは極めて気持ちがいい。

 ラワンというのは、フィリピンでの呼び名だという。軽く柔らかい合板に適した樹種がフィリピンでラワンと呼ばれており、戦後、日本はまず主としてフィリピンからベニア(単板)を輸入したことからラワンの名が定着することになったのである。学術名はフタバガキである。あるいは、フタバガキ科の樹木の総称がラワンである。このフタバガキ科の起源はアフリカなのだというが、専ら繁殖したのが東南アジアで、五七〇種のうち、アフリカの約四〇種と南米アマゾンの一種を除いて他の種は全て東南アジアのものだという。

 フィリピンのフタバガキ林はベニア・合板のためにやがて伐り尽くされた。次の供給地がボルネオのサラワク、サバ、そしてカリマンタンに移っていく。この伐採が熱帯林破壊の大きな問題になっていることは衆知のことである。伐採しても植林すればいい、植林によって森林再生が可能であればいい。しかし、フタバガキ科樹木の再生は極めて難しいのである。

 まず第一に結実が不定期なのだと言う。第二に、種子の寿命が短く、すぐ発芽能力を失ってしまうのだと言う。第三に、仮に苗木の生産が可能になっても、熱帯林の中に生育の条件を作りだし、維持するのが極めて困難だという。他にも様々な問題があるらしいのであるが、かなり深刻な課題である。

 東南アジアの樹木と言うと仏壇、位牌に使われるコクタンなどがある。日本に輸入されているコクタンのほとんどはスラウェシ産だという。もう少し、一般的な建築用材、家具用材というと、やはり竹であり、あるいはラタンである。竹は建築に限らず、紙屋家具や食器や、ありとあらゆるものに使われる。東南アジア地域は竹の文化圏である。

  建築用材では無いけれど、強烈な印象を受けるのが、バンヤンの木である。インドネシアではブリンギンという。沖縄のガジュマルである。ロープをよるように大木になり、根が雨のように垂れ下がる。妖怪の住処のようだとよくいうが、バリなどでは神聖な樹木としてあがめられる。集落の核には必ずブリンギンが立っているのである。また、バリのサンガ(屋敷神の祠が置かれる領域)にはプルメリア(夾竹桃)が植えられる。プルメリアといえば、インドネシアでは墓地の樹木である。樹木のシンボリズムについても東南アジアは豊富な事例を与えてくれそうである。

 


2023年1月20日金曜日

講義:環境市民サスティナブル・コミュニティ研究会 本当に豊かな住まいとは共に生きる・自由に生きる アジアの都市と居住モデル 2002年1月15日

講義:環境市民サスティナブル・コミュニティ研究会 本当に豊かな住まいとは共に生きる・自由に生きる アジアの都市と居住モデル 2002115

環境市民
サスティナブル・コミュニティ研究会(SC研)連続公開講座
本当に豊かな住まいとは・・・共に生きる・自由に生きる

アジアの都市と居住モデル

2002115

 布野修司(京都大学)

 

 はじめに

   ・建築計画→地域生活空間計画

  ・カンポン調査(東南アジアの都市と住居に関する研究)

  ・「イスラームの都市性」研究

  ・アジア都市建築研究

  ・植民都市研究

             

 [1]布野修司:戦後建築論ノート,相模書房, ,1981615

  [2]布野修司:スラムとウサギ小屋,青土社,1985128

  [3]布野修司:住宅戦争,彰国社,19891210

  [4]布野修司:カンポンの世界,パルコ出版,1991725

  [5]布野修司:戦後建築の終焉,れんが書房新社,1995830

  [6]布野修司:住まいの夢と夢の住まい・アジア住居論,朝日新聞社, 19971025

  [7]布野修司:廃墟とバラック・・・建築のアジア,布野修司建築論集Ⅰ,彰国社,1998510

  [8]布野修司:都市と劇場・・・都市計画という幻想,布野修司建築論集Ⅱ,彰国社,1998610

  [9]布野修司:国家・様式・テクノロジー・・・建築のアジア,布野修司建築論集Ⅲ,彰国社,1998710

 [10]布野修司:裸の建築家・・・タウンアーキテクト論序説、建築資料研究社,2000310

 

[2]布野修司:見知らぬ町の見知らぬ住まい,彰国社,編著,1990

 [4]布野修司:見える家と見えない家,叢書 文化の現在3,岩波書店,共著

[6]布野修司:日本の住宅 戦後50, 彰国社,編著,19953

  [9]布野修司:日本の住居1985,戦後40年の軌跡とこれからの視座,建築文化,彰国社,共著,1985

 [29]布野修司:これからの中高層ハウジング,建設省住宅局,丸善,共著,1993

 [35]布野修司:講座 現代居住全5巻 第2巻 家族と住居,早川和男編,東京大学出版会,共著,19967

 [38]布野修司:21世紀の集合住宅・・・持続可能で豊かな社会をめざして,中高層ハウジング研究会,19983

 

[1]布野修司:環境の空間的イメージーーーイメージマップと空間認識,M.W.ダウンズ ダビット. ステア共編 吉武泰水監訳,IMAGE AND ENVIRONMENT---Cognitive Mapping and Spatial Behavior, edited by Roger M, Downs & David Stea, Aldine Publishing Co. Chicago 1973,曽田忠広 林章 布野修司 岡房信共訳,鹿島出版会,共訳書,1976

[2]布野修司:生きている住まいー東南アジア建築人類学(ロクサーナ・ウオータソン著 ,布野修司(監訳)+アジア都市建築研究会,The Living House: An Anthropology of Architecture in South-East Asia,学芸出版社,監訳書,19973

[3] 布野修司:植えつけられた都市--英国植民都市の形成、ロバート・ホーム著 ,布野修司+安藤正雄(監訳)+アジア都市建築研究会, Of Planting and Planning The Making of British Colonial Cities ,監訳書, 京都大学学術出版会、20017


本当に豊かな住まいとは・・・共に生きる・自由に生きる

・・・これからの住まい:日本の課題

 

  住まいと町づくりをめぐる基本的問題

 

  ●論理の欠落ーーー豊かさのなかの貧困

   ◇集住の論理    住宅=町づくりの視点の欠如

            建築と都市の分離

              型の不在 都市型住宅

              家族関係の希薄化

 

   ◇歴史の論理      スクラップ・アンド・ビルドの論理

            スペキュレーションとメタボリズム

            価格の支配 住テクの論理

            社会資本としての住宅・建築・都市

 

   ◇多様性と画一性  異質なものの共存原理

              イメージの画一性 入母屋御殿

              多様性の中の貧困 ポストモダンのデザイン

              感覚の豊かさと貧困  電脳台所

 

   ◇地域の論理   大都市圏と地方

            エコロジー

   ◇自然と身体の論理:直接性の原理

            人口環境化 土 水 火 木

              建てることの意味

 

   ◇生活の論理

    「家」の産業化

    住機能の外化 住まいのホテル化 家事労働のサービス産業代替

    住宅問題の階層化 社会的弱者の住宅問題

 


アジアの都市と居住モデル

 

•Ⅰ.東南アジアの都市居住・・・都市カンポンの構成

      :スラバヤについて

•   ○スラバヤの都市形成過程とその構造

•   ○カンポンの構成

•   ○カンポン住居の類型と変容プロセス

 

•Ⅱ.東南アジアのハウジング・プロジェクト

•   ○東南アジア各国の住宅政策

•   ○セルフヘルプによるハウジング

•   ○インフォーマル・グループの試み

•   ○カンポン・ススン

 

•Ⅲ.スラバヤ・エコハウス

 

 

•Ⅳ.アジアの都市型住居

 

 . 東南アジアの民家

 

 

21世紀の集合住宅 3つの供給基本モデル

?モデル設計の5つの柱 

   スケルトン分離

  オープンシステム

  居住者参加

  都市型町並み形成

  環境共生

?供給モデル

  o型 one owner

  a型 association

  b  bond

?スケルトンモデル

   O型 柱列型 column

   A型   壁体スケルトン wall

  B型 地盤型スケルトン base

*(OAB)x(abc) 

 

 住居をめぐるいくつかのアクシス

  所有形式(所有-無所有、定住-移住、恒久-仮設)

  集合形式(独居-群居、男性-女性、複数家族ー核家族)

  空間形式(有限-無限、限定-無限定、自由-不自由)

  環境形式(場所-無場所、自然-人工、地下-空中)

  技術形式(画一性-多様性、自己同一性-大衆性、地域性-普遍性)

  象徴形式(生-死、コスモス-カオス、永遠ー瞬間)

 

 


地域生活空間計画研究フレーム

 

 

 Ⅰ 居住空間システム

 

 [8]布野修司,田中麻里(京都大学):バンコクにおける建設労働者のための仮設居住地の実態と環境整備のあり方に関する研究,日本建築学会計画系論文集,483,p101-109,1996.05

[17]田中麻里(群馬大学),布野修司,赤澤明,小林正美:トゥンソンホン計画住宅地(バンコク)におけるコアハウスの増改築プロセスに関する考察,日本建築学会計画系論文集,512,p93-99,199810

 

  ◎ヴァナキュラー建築 住居の原型? 集合の基本形式

 [7]脇田祥尚,布野修司,牧紀男,青井哲人:デサ・バヤン(インドネシア・ロンボク島)における住居集落の空間構成,日本建築学会計画系論文集,478,p61-68,1995.12

 [9]脇田祥尚(島根女子短期大学),布野修司,牧紀男(京都大学),青井哲人(神戸芸術工科大学),山本直彦(京都大学):ロンボク島(インドネシア)におけるバリ族・ササック族の聖地,住居集落とオリエンテーション,日本建築学会計画系論文集,489,p97-102,199611

[14]山本直彦(京都大学),布野修司,脇田祥尚(島根女子短期大学),三井所隆史(京都大学):デサ・サングラ・アグン(インドネシア・マドゥラ島)における住居および集落の空間構成,日本建築学会計画系論文集,504,p103-110,19982

 

 

  Ⅱ カンポン・ハウジング・システム

 

 [1]布野修司,前田尚美,内田雄造:「インドネシアのスラムの居住対策と日本の経験との比較」  第三世界の居住環境とその整備手法に関する研究 その1,日本都市計画学会 学術研究論文集 19,1984

 [2]布野修司,前田尚美,内田雄造:「インドネシアのカンポンの実態とその変容過程の考察」  第三世界の居住環境とその整備手法に関する研究 その2,日本都市計画学会,学術研究論文集20,1985

 [6]布野修司:カンポンの歴史的形成プロセスとその特質,日本建築学会計画系論文報告集,433,p85-93,1992.03

  ・カンポン・インプルーブメント・プログラム(KIP) 

    ・ルーマー・ススン

[12]布野修司,山本直彦(京都大学),田中麻里(京都大学),脇田祥尚(島根女子短期大学):ルーマー・ススン・ソンボ(スラバヤ,インドネシア)の共用空間利用に関する考察,日本建築学会計画系論文集,502,p87~93,199712

    ・スラバヤ・エコハウス

 

  Ⅲ 街区組織と都市型住居 Urban Tissues

    グリッドThe Grid  

    コスモロジーCosmology 

    イスラームの都市原理 Hindu City & Islam City 

    棲み分けSegregation 

    街区組織と地域社会Block Pattern and Community Organization 

    Urban House Prototype

 

    Cakranegara---Jaipur

    Katumandu(Hadigaon, Patan, Thimi) Lahore ---Ahmedabad---Delhi

    Beijing--- Kyoto

    Taipei

    Ulsan--- Kyongju   

 

[10]布野修司,脇田祥尚(島根女子短期大学),牧紀男(京都大学),青井哲人(神戸芸術工科大学),山本直彦(京都大学):チャクラヌガラ(インドネシア・ロンボク島)の街区構成:チャクラヌガラの空間構成に関する研究 その1,日本建築学会計画系論文集,491,p135-139,19971

[11]布野修司,山本直彦(京都大学),黄蘭翔(台湾中央研究院),山根周(滋賀県立大学),荒仁(三菱総合研究所),渡辺菊真(京都大学):ジャイプルの街路体系と街区構成ーインド調査局作製の都市地図(1925-28)の分析その1,日本建築学会計画系論文集,499,p113~119,19979

[19]山根周(滋賀県立大学),布野修司,荒仁(三菱総研),沼田典久(久米設計),長村英俊(INA):モハッラ,クーチャ,ガリ,カトラの空間構成ーラホール旧市街の都市構成に関する研究 その1,513,p227~234, 199811

[20]黒川賢一(竹中工務店),布野修司,モハン・パント(京都大学),横井健(国際技能振興財団):ハディガオン(カトマンズ,ネパール)の空間構成 聖なる施設の分布と祭祀,日本建築学会計画系論文集,514,155-162p,199812

[22]竹内泰,布野修司:「京都の地蔵の配置に関する研究」,日本建築学会計画系論文集,520,263-270p,19996

[23]韓三建,布野修司:「日本植民統治期における韓国蔚山・旧邑城地区の土地利用の変化に関する研究」,520,219-226p,19996

[25]闕銘宗(京都大学),布野修司,田中禎彦(文化庁):新店市広興里の集落構成と寺廟の祭祀圏,日本建築学会計画系論文集,521,p175181,19997

[28]トウイ,布野修司:北京内城朝陽門地区の街区構成とその変化に関する研究,日本建築学会計画系論文集,526,p175-183,199912

[29]Mohan PANT(京都大学),布野修司:Social-Spatial Structure of the Jyapu Community Quarters of the City of Patan, Kathmandu Valley, カトマンドゥ盆地・パタンのジャプ居住地区:ドゥパトートルの社会空間構造 ,日本建築学会計画系論文集,527,p177-184,20001

[30]根上英志,山根周,沼田典久,布野修司:マネク・チョウク地区(アーメダバード、グジャラート、インド)における都市住居の空間構成と街区構成,日本建築学会計画系論文集,535,p ,20009

[31]正岡みわ子,丹羽大介,布野修司:京都山鉾町における祇園祭と建築生産組織,日本建築学会計画系論文集,535,p ,20009

[32]トウイ,布野修司,重村力:乾隆京城全図にみる北京内城の街区構成と宅地分割に関する考察,日本建築学会計画系論文集,536,p,200010

 

 

 Ⅳ 世界都市史研究

 

 植民都市研究 All cities are in a way colonial

      Pretolia New Delhi Canberra

      Munbai Chennnai Calcutta

      田園都市計画







 

2023年1月18日水曜日

職人大学(SSA)第一回パイロット・スクール佐渡,雑木林の世界48,住宅と木材,日本住宅木材技術センター,199308

職人大学(SSA)第一回パイロット・スクール佐渡,雑木林の世界48,住宅と木材,日本住宅木材技術センター,199308

雑木林の世界 

職人大学(SSA)第一回パイロット・スクール佐渡

 

                       布野修司

 

 一九九三年五月三〇日(日)から六月五日まで、SSF(サイト・スペシャルズ・フォーラム)の第一回パイロットスクールが新潟県の佐渡の真野町(佐渡スポーツハウス)で開催された。職人大学へ向けての第一歩である。まだまだ先は長いのであるが、ようやく、ここまできたと感慨深い。

 僕自身は残念なことにわずかに一泊二日だけしか参加できなかった。しかし、その熱気は肌で感じることができた。以下にその一端を報告しよう。プログラムは次のようであった。

 

 五月三〇日 受付/オリエンテーション/開校式/懇親会

 5月三一日 建設産業とサイトスペシャリスト(安藤正雄 青木利光)/地域ツアー/職人大学設立に向けて

 六月 一日 建設物の構造と仕様(藤澤好一 安藤正雄)/計画作成参画者資格 労働大臣の定める研修(1)(池田一雄仮設工業会専務理事)/体験報告会(1)(安藤正雄)

 六月 二日 計画作成参画者資格 労働大臣の定める研修(2)(森宣制仮設工業会会長)/体験報告会(2)(布野修司)/新技術・新工法(藤野功)/討論 職人大学構想(三浦裕二)

 六月 三日 施工管理 現場学・リーダー学(田中文男 斉藤充)/スポーツ/モニュメントを考える(三浦裕二)

 六月 四日 土木学と技(三浦裕二)/総括シンポジウム(参加者全員)/懇親会

 六月 五日 総括および修了式(内田祥哉SSF理事長)

 

 参加人員三〇名。全国各地から受講者が集まった。その顔ぶれがすごい。ほとんどがヴェテランの職長さんたちである。年齢は一八才から五〇才まで、多士才々である。

 まず感動したことがある。朝八時~夜の一〇時まで、ぎっしり詰まったプログラムは予定通りに実施されたのである。まずそれ自体驚くべきことだ。居眠りする人が全くいない。授業の一〇分前には皆着席して講師を待つ。大学では考えられないことだ。いまさらのように、大学の駄目さを痛感させられたのであった。

 体験報告会のコーディネート役を務めたのであるが、体験を語り合うだけで、大変な勉強である。現場を知らない僕などは当然であるが、お互いの情報交換がとても役に立ったようだ。例えば、こうだ。

 若い職長さんから、若者教育の悩みの話が出された。新しく入った若者がすぐやめてしまうというのは共通の問題である。仕事をさせずに、重いものを運ばせたり、後片づけばかりやらしてるからじゃないか、という意見がすぐさま出た。大半の職長さんは心当たりがありそうな反応だった。しかし、そう簡単ではない。

 新しく入ったある若者を職業訓練学校に通わせた。もちろん、給料を払いながらである。一年して実際に仕事を始めると先輩とうまくいかない。先輩が仕事を教えないのだという。それに対しては、仕事は教えるものではない、盗むものである、という反論がすぐ出た。教えていたら仕事がはかどらないというのである。また、そういうときは、ひとつ上のランクのヴェテランにつければいい、というアドヴァイスもあった。若者が建設産業に定着しない大きな原因に初期教育の問題があるのである。

 ある鳶さんの話が面白かった。原子力発電所の建屋専門の鳶さんである。何故、鳶になったか、という話である。高い足場に登って見ろ、と言われて、ついやってやる、と言ったんだそうである。意外にすいすい登れたんだけど、降りるときは怖くて怖くて足が震えたのだという。しかし、その経験が結局は鳶になるきっかけになったのである。今日本の社会において、そんな機会はほとんどなくなりつつあるかもしれない。職人が仕事をしている様子はなかなか伺えないのである。

 この四月に入ったばかりの若者の話も面白かった。失敗談である。トイレが詰まって、掃除を命じられたけど、水の代わりに灯油を流してしまった。以後、ことある毎にからかわれているのだという。明るい職場のようであった。

 技術についての交流も当然あった。斜張橋の現場をひとりで取り仕切った話には次々に質問もでた。収入の話も出た。最初は、躊躇いがあったけれど、全てオープンにということで、みんなが年収を言い合った。情報公開である。かなりのばらつきがある。能力さえあれば、若くても年収一千万円をとっても少しもおかしくない感じであった。

  講義として迫力があるのは超ベテランの講師陣の話である。現場学、リーダー学は経験の厚さが滲み出る。また、体験に裏つ けられた安全学はなんといっても説得力がある。ロープの結び方やワイヤロープの架け方など、次々と実践的知識を畳み掛けるように話した藤野功氏の講義など実にすばらしかった。

 総括の様子を後で聞くと、受講生全員にとって、とても有意義であったようである。最後の夜、真渡の会という一期生の同窓会が結成されたのだという。これからも交流を続けようというのである。実にすばらしい。こうしたスクーリングを続けていけば、SSFも確実に成長していく筈だ。職人大学の教授陣は、同窓会の中から出ることになろう。

 ところで、職人大学の構想はどうか。是非成功させて欲しい、成功させようと言うのが第一期生の声である。九月末には、職人大学設立発起人会が行われる。具体的に基金集めに向かおうという段階である。果たして、どれだけの賛同者が得られるか。どれだけの基金が得られるか。それが将来の鍵になる。

 まず、第一段階として、現場校を考える。全国の建設現場の中から、認定指導者が配置されている、しかるべき条件を備えた現場を認定し、現場での実習を中心に養成訓練を行なう。

 第二の段階として、地域校を考える。現場校において資格を得た職人を県または地域ブロックレヴェルに開設する地域校で、専門職人たちのチームを指導コントロールできる技術的知識や処理能力を身につけた職長(リーダー)を養成する。

 第三の段階として、本部校を考える。地域校で資格を得た職長が指導者としての教育を受ける最高学府で、全国に一ケ所設立する。建設業を文化的、技術的、あるいは経営的に幅広くとらえる教養やマネージメントの力を身につけた指導者を養成する。

 以上の全てが「職人大学」である。およそのイメージができるであろうか。大変な構想であるが、本部校一校だけつくればいいというのではないのである。

 まずは、職人大学教育振興財団といった財団法人を設立するのが先決である。九月の発起人会はそのための第一歩である。皆様のご支援をお願いしたい(連絡先 SSF事務局)。

 

 


2023年1月17日火曜日

北朝鮮都市建築紀行,雑木林の世界47,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センター,199307

 北朝鮮都市建築紀行,雑木林の世界47,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センター,199307

雑木林の世界 

北朝鮮都市建築紀行

                       布野修司

 

 一九九三年四月二九日から五月四日まで、日本建築学会の朝鮮都市建築視察団の一員として、北朝鮮を訪問してきた。朝鮮建築家同盟との学術交流が主目的であったが、平壤、開城、板門店、妙香山などを訪れる機会があった。限られた見聞にすぎなかったのであるが、その印象を素朴に記してみたい。北朝鮮の都市、建築については極めて情報が限られている。誤解も多いかもしれないけれど、南北建築界の理解の一助になればと思う。

 一時間遅れで名古屋空港を発った高麗航空のチャーター便は、日本列島を北上、新潟上空を通過してウラジオストックへ、一旦ロシア領へ入って平壤へというコースをとった。直線的に飛べば二時間足らずであろうが、三時間半かかる。まさに近くて遠い国である。

 降り立った飛行場が閑散としてやけに寂しい。実は、着いたのは平壤の南、黄州の軍用飛行場であった。核査察の問題、チームスピリット(日韓合同軍事演習)の問題で、平壤空港が閉鎖されていたのである。帰国時には、平壤空港から飛べたのであるが、国際関係の緊張を否応なしに感じさせられる旅の始まりであった。

 黄州から平壤へ向かうバスの車窓からうかがう農村の風景が珍しい。一ケ月前に見てきたばかりの韓国の農村風景と比べるとやけにすっきりしている。あたり一面赤い土の田圃が広がり、小高い丘の上に集落がつくられている。集落はいくつかのスタイルの住宅からなる。目につくのは、三層から五層の集合住宅である。もちろん、伝統的なスタイルと思われる平屋の農家もあるけれど、時代によってモデルを変えながら供給されてきたようだ。所々に小さな水力発電所がある。地域毎に電力をまかなっているという。

 夜の平壤は暗かった。街灯が少なく、ネオンもほとんどない。雨のせいか人通りも少なかったのである。翌朝、早速、ホテルの回りを歩く。ホテルは、高麗ホテルという平壤でも最高級のホテルで、ツインのタワーが何となく東京新都庁舎を思わせる。未完成の柳京ホテルとともにまちのここそこから望める。平壤の新しいシンボルである。近くに、平壤駅があって、通勤、通学の人々でごったがえしていた。通勤の足は、バス、トロリーバス、地下鉄である。大人の間に子供の姿が多い。都心に職住近接で居住するからであろう。子供の手を引いた女性の姿も目立つ。何よりも気づくのはゴミが落ちていないことである。早朝に一勢に掃除をする人々を毎朝見かけたのであるが、通りは実にきれいである。

 ゴミのないことが象徴するように平壤の街は実にきれいな街であった。市の中心にある主体(チュチェ)塔の上から俯瞰すると柳の緑が美しい。朝鮮戦争で壊滅的な打撃を受けた後、見事に復興したのである。電線の地中化が徹底して行われているのが都市の景観として大きい。日本の都市の猥雑さに見慣れていると随分すっきりした印象を受ける。看板や広告塔がほとんどないこともそうである。

 ただ、洗濯物が全く見られないのはいささかとまどう。洗濯物はバルコニーや室内に干すことが決められているのであるが、それはそれとして、あまりにも生活の臭いが感じられないのである。たまたま、五月一日のメーデーの様子を見ることができた。特に行事があるわけでなく、休日なのである。遊園地でくつろぐ人々、輪になって歌い踊る女性達、泥酔する何人もの男性、いずこも変わらない風景であった。

 今回のツアーの一つのハイライトは、開城(ケソン)であった。開城は、平壌の南西六〇キロに位置し、板門店へは一〇キロ弱のところにある。高麗(九一八年から一三九二年)の都が置かれた歴史都市である。実に驚いたことは、子男山の麓に歴史的な街区が相当分厚く残っていたことである。子男山から見おろすと、黒い瓦屋根の家並が一杯に広がる。韓国のソウルや慶州でもこんな街区は残されていない。歴史的な痕跡を一切破壊された高句麗の首都、平壌の様子からは想像できないことであった。

 開城は実は三八度線の南にある。戦災を免れたのはあるいはそのことが関係するのであろうか。停戦協定の締結時点の戦力の配置によって国境が決定され、その結果、ある意味では偶然、開城は北朝鮮の領域に組み入れられたのである。開城は、最も離散家族の比率が高いという。南北分断を象徴する都市である。

 開城の歴史的佇まいが残されていることはなんとも言えない感慨を呼び起こす。韓国の人々は、開城のこんな様子を知っているのであろうか。韓国の友人達にすぐさま知らせたい、とまず思った。これは世界歴史遺産とすべき都市ではないか、というのが続いての思いである。

 『朝鮮と建築』(一九二一年創刊)に、野村孝文先生の「開城雑記」(一)~(五)(一九三二年~三三年)という連載記事がある。開城雑記といっても、後に『朝鮮の民家』(一九八一年)にまとめられることになる朝鮮全体についての記述を含んでいるのであるが、開城については、池町、北本町、東本町の八つの住宅を紹介した上で、「開城が朝鮮に於ける住宅建築に於いて、可成りの発達をなして居た事を知る事が出来る」と結んでいる。写真やスケッチからは、六〇年前の開城の様子を伺うことができる。今もその面影が残っているのである。

 板門店からはソウルの北にある、風水説で言う祖山に当たる北漢山が見える。この近さはやはり不思議である。ベルリンの壁なき後、板門店は唯一特異な空間として存在し続けていくのであろうかと、ひとつの線を南北に跨ぎながら考えた。

 妙高山へは観光客用の専用列車であった。国際親善展覧館で、各国の元首などから贈られた贈り物を厭というほど見せられたのはうんざりであったが、普堅寺は面白かった。スパン割の不均一な観音殿があって随分首をひねったものである。

 白頭山建築研究所での朝鮮建築家同盟での交流会は短い時間ではあったが、北朝鮮の建築界を垣間見る貴重な機会であった。中心は、建築家の養成、教育であったのであるが、まず、さもありなんと思ったのが、設計教育の七割が実践教育だという点である。設計製図の優秀作品はそそまま建設される、なかなかいいシステムである。もちろん、実践家の教授、助手が指導にあたり、外部事務所がついてのことである。人民大学習堂もそうして建設されたという。

 大学を出ると設計員の資格を受験する。六級から一級まであって、一級上がるのに三年の経験がいるという。かなり厳しい。二級以上になると、功勲設計家、さらには人民設計家となる資格ができるという。人民設計家というのが最高位である。

 全体は限られた見聞でしかない。集合住宅の内部や農村住宅が見たいというわれわれのいくつかの希望も叶えられなかった。全体として、見せられているという感じは拭えない。しかし、それにしても貴重な経験をしたと思う。実に多くのことを考えさせられた。


2023年1月16日月曜日

布野修司:多様化する家族のかたちと住まいのかたち,区政会館だよりNo.129,東京都特別区協議会,200008

 布野修司:多様化する家族のかたちと住まいのかたち,区政会館だよりNo.129,東京都特別区協議会,200008

 多様化する家族のかたちと住まいのかたち

布野修司(京都大学)

 

 日本の家族が揺らいでいる。しばらく以前から、「逆噴射家族」、「漂流する家族」、「家庭内別居」、「疑似家族」、「ホテル家族」、「ポストモダン・ファミリー」といった言葉がジャーナリズムを賑わせるように、これまでにない様々な暮らし方、様々な家族のかたちが現れ始めている。相次ぐ少年による凶悪犯罪、学級崩壊、カルト教団の跋扈・・・。いささか乱暴だけれど、こうした日本社会の病理の根っこにも社会の基礎単位としての家族の揺らぎがあるのかもしれない。

  高齢化、晩婚化、少子化、女性の社会進出、熟年離婚・・・等々、日本の家族と家族を取り巻く環境がこの間大きく変化しつつあるのは事実である。家族の基礎である男女(個人と個人)の結びつき(婚姻)が流動化しつつある。親子関係も様々だ。介護制度の導入の背景には明らかに家族関係の変化がある。総じて家族のかたちは多様化しつつある。家族は個人化しつつある、といってもいい。はっきりしているのは、高齢単身者も含めて単身居住の形態が増えることである。

 日本の家族がどうなるのか、正直言ってわからない。確かなのは、これまでの家族のかたち、すなわち核家族を基本とする家族(近代家族)モデルは近代国民国家の形成と密接に関連しており(西川祐子『近代国民国家と家族モデル』)、その変化はグローバルに認められる大きな歴史的変化(落合恵美子『近代家族の曲り角』)だということである。

 この家族のゆらぎに対して、どのような居住空間を用意すべきか。予め言えるのは、多様な家族形態を受け入れる空間が日本にはほとんど用意されていないことである。

 戦後日本の住宅のモデルとなったのは51c型住宅である。51cとは、1951年の公営住宅の標準プラン(間取り)abcのうち、cのタイプということだ。51c型住宅が歴史に記録されるのは、そのプランにおいて、日本の戦後(近代)住宅の象徴となるダイニング・キッチン(DK)が生み出されたからである。

 DKと4.5畳と6畳の二部屋からなるこの小住宅(2DK)のプランを生み出したのが食寝分離論(西山夘三)である。狭くても食事の場所と就寝の場所は分ける。そのために食堂が台所と一緒になってもやむを得ない。朝はDKで簡単に食事をして夫婦共に働きに出かける、そんな家族像が戦後日本の出発点である。

 その後の展開もわかりやすい。戦後復興から高度経済成長期にかけて住宅の規模は拡大していく。食寝分離が保証された後は公私室の分離が目指される。リビングの誕生である(2LDK)。そして次は、個室の確保が目指される。1960年を過ぎた頃、3DKとか3LDKが日本の標準住宅となった。興味深いのは、この形式が農家住宅にも一気に普及していったことである。こうして日本の住宅と言えばnLDKである。

 nLDKとは核家族n人の住居である。今でも住宅の立地と形態(集合住宅か戸建住宅か)を知って、nLDKと聞けば、家族のかたちはイメージできる。驚くべき画一化であるといっていい。しかし、それだけ家族のかたちも一定であったのである。nLDKという空間が家族の形式を表現した。だから日本の戦後家族はnLDK家族である。

 しかし、これからはそうは行かない。多様な家族のかたちを許容する空間の形式はどのようなものか。前提となる単位が個人ということであるとすると、空間の単位は個室である。建築家としては、全て個室をつくればいい、というのであれば楽である。その場合、ワンルーム・マンションのような、全て個室群からなる建物で都市ができあがるであろう。

 問題は、個と個がどのような関係をとるかである。節税のために、縁もゆかりもない赤の他人が一緒に暮らす例だってある。どんな関係でも許容する形式というのは難しい。都市によって、地域によって、場所によって様々な形式が作り出される必要がある。それが真の多様性であろう。

 具体的な例として、コレクティブ・ハウスと呼ばれる形式がある。北欧などのコレクティブ・ハウスは、老若男女、誰でも集まって住む。厨房、居間を共用して、順番に料理を行う。高齢単身者の場合、ケア付き住宅、老人ホームに住むのでなければ、集まって住むかたちはメリットが多い。日本では、グループ・ホームという名で定着しつつある。

 世界を見渡せば様々な空間形式がある。インドネシアでは、厨房、バス・トイレを共用し、廊下を共通の居間として使う集合住宅(ルーマー・ススン)が建てられている。様々な事例に学ぶながら、日本でも日本なりの形式が生み出される必要がある。共用空間をどうつくるか、何を共有し、共用するかによっていくつかの形式が分かれる筈である。

 しかし、いずれにしても、個と個の関係は変化しうる。全てを予測して空間を用意するのは不可能である。そこで、建築家にはもうひとつ別のアプローチがある。まちにはまちの街区のかたち、居住空間のかたちがあるのではないか、ということだ。家族が社会の基礎単位であるとすれば、都市にも基礎となる空間単位があるのではないか。いずれにしろ、nLDKに代わる、多様で生き生きとした家族のかたちを受け入れる空間が早急に必要であることは間違いない。 





2023年1月15日日曜日

シンポジウム:司会:歴史的街並みの活用とコミュニティ創生に関する東南アジア(ASEAN)専門家会議, 梶山秀一郎 木下龍一 東樋口護,京都市景観・まちづくりセンター・日本建築学会 第三世界歴史都市・住宅特別研究委員会,19991106ー07

 シンポジウム:司会:歴史的街並みの活用とコミュニティ創生に関する東南アジア(ASEAN)専門家会議, 梶山秀一郎 木下龍一 東樋口護,京都市景観・まちづくりセンター・日本建築学会 第三世界歴史都市・住宅特別研究委員会,19991106ー07 











 

2023年1月14日土曜日

飛騨高山木匠塾93年度プログラム,雑木林の世界46,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センター,199306

 飛騨高山木匠塾93年度プログラム,雑木林の世界46,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センター,199306


雑木林の世界 

飛騨高山木匠塾93年度プログラム

                        布野修司

 飛騨高山木匠塾の93年度プログラムが煮詰まってきた。

 岐阜県の住宅課長に赴任した井上勝徳氏の強力なサポートもあって大きく飛躍しそうである。井上勝徳氏と言えば、知る人ぞ知る、建設省でも指折りの木造大好き人間である。また、木造に関することは井上に聞けと言われる専門家である。四月七日には、芝浦工業大学の藤澤先生、東洋大学の秋山先生と一緒に岐阜県庁へお邪魔して打ち合せを行ってきた。

 今年は、過去二年のインター・ユニヴァーシティー・サマースクールを主体とするプログラムに、今年二年目を迎えた茨城ハウジングアカデミーのサマー研修と岐阜県の「木の匠」シンポジューム、高山一般セミナーおよび地元高山の工業高校生へのセミナー・プログラムが加わる。相当に賑やかになりそうである。

 カリキュラムを組むのが難しいほどで、秋山哲一先生を中心にプログラムを練った。以下、細部は変更されるかもしれないのであるけれど、木匠塾本体のスケジュールを中心に紹介しよう。奮って参加されたい。とはいえ、宿舎の設備に今のところ限界がある。八〇人を超えると苦しい。早めに連絡頂ければと思う。

 宿舎といえば、塾の拠点となる旧野麦峠製品事業所を払い下げて頂く問題が急速に進行中である。そもそも木匠塾の構想は、使われなくなった野麦峠製品事業所を何か有効に使えないかということから生まれたのであるが、維持管理の問題があり、所有者、管理主体を明確にする必要があった。特に、飛騨高山木匠塾の恒常化、長期的プログラムのためには、拠点となる場所をしっかり保持する体制が不可欠である。冬季の雪下ろしの問題もあるし、アプローチ道路の管理の問題もある。

 そこでどうするか。日本住宅木材技術センターに間に入って頂き、地元の高根村に営林署から払い下げて頂く。その基金は飛騨高山木匠塾が主体となって集め、高根村に寄付する。そのかわり、施設を使わせて頂く。夏期以外の使用については、高根村でも考えて頂く。細かい打ち合わせはこれからであるが、うまく行けば、来年以降、さらに様々なプログラムが展開されることになろう。春期や秋期、冬季の利用も具体化するかもしれない。

 高根村といえば、「日本一かがり火祭り」である。今年は、

 八月七日(土曜日)

である。当然、塾のプログラムもこの日を中心に組まれている。昨年約束した「かがりび祭り」への参加も決まった。軽音演奏の前座出演もあるが、前日までに模擬店用の屋台を製作し、当日は屋台を手伝うのである。当日、人手が足りなくて、食べ物がすぐ無くなるので応援してほしいという。もうけがでれば木匠塾で使って頂いて結構とのことで、高根村の村役場の人たちとも打ち合わせ済みである。

 さて、サマースクールは八月一日から一一日の予定である。スケジュールは以下のようだ。

 一日 集合 会場設営

 二日 会場設営+施設整備実習 オープニング式典 オープニング・レクチャー

 三日 大学別ゼミ 測量実習 施設整備実習 レクチャー①

 四日 林業経営レクチャー+見学 草刈・伐採実習 屋台製作実習 仮設計画レクチャー

 五日 仮設計画レクチャー 足場組立実習 レクチャー②

 六日 家具製作レクチャー+見学 屋台製作実習 模擬店準備 レクチャー③

 七日 模擬店準備 模擬店・かがりび祭り参加

    「木と匠」シンポジューム(高山市)

 八日 特別講義① 特別講義② ロシアンルーレット・ゼミ

 九日 交流野球大会 レクチャー③

一〇日 大学別ゼミ 高山市内見学 フェアウエル・パーティー

一一日 片付け・清掃 解散

 レクチャーは、次の予定である。

 オープニング・レクチャー 「すまいとまち」 布野修司(京都大)/レクチャー① 「世界の木造住宅」 太田邦夫(東洋大)/レクチャー② 「木造住宅の担い手育成」 藤澤好一(芝浦工大)/レクチャー③ 「地域のすまいづくり」 秋山哲一(東洋大)特別講義① 降旗隆信(予定) 特別講義② 奥村昭雄(予定)

 その他に次のレクチャーも予定されている。

 レクチャー④ 「住宅の生産供給システム」 浦江真人(東洋大)/レクチャー⑤ 「すまいの設計と人間工学」 安藤正雄(千葉大)/レクチャー⑥ 「都市と森林のネットワーク」 三澤文子(大阪芸大)/レクチャー⑦ 「高山の民家」 桜野攻一郎

 実習内容は、以下の通りである。

 ①施設整備計画実習 

 ②測量実習

 ③森林視察 製材見学

 ④草刈実習

 ⑤伐採実習

 ⑥家具製作実習

 ⑦模擬店屋台製作実習

 ⑧仮設計画実習 足場組立実習

 ⑨施設整備実習 シャワー室整備

 ⑩高山祭り模型製作実習

 実習担当の講師陣としては、昨年に引き続いて藤野功(日綜産業)氏が参加。ロープの結び方から足場組立、現場の心得全般について御指導願う。また、森林匠魁塾の佃、庄司の両先生にもお世話になる。さらに、久々野・高山営林署には、森林見学等で講義と見学指導を例年通りお願いしている。施設整備実習がどう進むかはわからないけれど、本格職人を目指す茨城ハウジングアカデミーの生徒?諸君に大いに期待する次第である。

 短い期間だけれど、自然に触れ、身体を動かし、木について学ぶ、学生にとってはいい体験である。また、大学間の交流は滅多にない機会である。特に、日本各地の学生が直接情報交換し、議論するのは極めて貴重である。レクチャーや実習は、まだまだたどたどしいのであるが、後々にまで記憶に残る、夏になるとやってきたくなるような、そんなサマースクールにしたいものである。

 

飛騨高山木匠塾連絡先 

 芝浦工業大学 藤澤研究室 03ー5476ー3090

 東洋大学 秋山研究室 0492ー31ー1134

 京都大学 布野研究室 075ー753ー5755