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2025年11月15日土曜日

天津:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日

 天津:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日

J10 天子の津―中国北方海運拠点

天津Tianjin,直轄市,中華人民共和国People’s Republic of China

 

 

 


 天津は、北京の東南約120km、華北平野を流れる海河が子牙河、大清河、永定河など5つの支流を集めて渤海湾に流れ込む河口に位置する。北に丘陵部があるが、最も高いのは標高約1000mも九山で、全体的に平坦であり、沿岸部は湿地となる。今日では、首都北京から高速道路、新幹線で1時間程の距離にあり,中国の一大首都圏を形成する。 中華人民共和国の成立とともに直轄市となるが、市人口は約1550万人(2015年)、北京と合わせた首都圏人口は15400万人にも及ぶ(2018年)。

 しかし、20世紀末の天津は、未だ第二次世界大戦以前に遡る建物がそこここに残っており、欧米諸国の租界そして日本租界のそれぞれの趣ははっきり維持されていた。また、天津古城内にも胡同の雰囲気が色濃く残っていた(図1)。この間の天津の発展には著しいものがある。

 天津の起源は必ずしもはっきりしないが、その名は天の津(浅瀬、渡し場)である。天津の名が現れるのは明代であり、朱棣(永楽帝)が皇位簒奪(靖難の変)の際に渡河した場所に因むという。星座の名、川の名という説もあるが、いずれにせよ、海河の河口に成立した漁村、港市が起源と考えられる。天津の発祥の地は、北運河と南運河が交差する現在の金鋼橋近辺(三岔河口)とされている。

 天津が歴史の舞台に登場するのは、随の煬帝による大運河の建設以降である。随を建国した文帝(煬堅)の淮水と長江を結ぶ邗溝に続く大運河建設構想を引き継いだ煬帝は、まず、黄河と淮水を結ぶ通済渠を建設、続いて黄河と天津を結ぶ永済渠を建設する。そして長江から杭州へ至る江南河が作られ大運河が完成するのは610年である。永済渠建設のひとつの目的は高句麗遠征であったが、中国南部からの物資輸送に大きな役割を果たすことになる。

 後に北京と杭州総延長2500Kmを結ぶことになる京杭大運河は、中国の南北をつなぐ大動脈である。中国歴代王朝が大いに活用してきた中国の歴史的インフラストラクチャーであり、現在も中国の大動脈として利用されている。この大運河は、2014年に、シルクロードなどと共に世界文化遺産に登録されている。

 京杭大運河は、こうして天津発展の大きな基盤である。唐代には、長江下流域からの食糧を中原へ輸送する基地となった。また、食糧輸送以外にも軍事拠点としての要衝とされ、金代には直沽寨、元代には海津鎮が設置されている。

 天津が大きく発展する上で決定的であったのは、クビライ・カーンによる大都の建設である。モンゴル・ウルスがユーラシアの東西をつなぎ、さらに大元ウルスが海の交易ネットワークを押さえるその玄関口になったのが天津なのである。

 明代には、軍事基地としての衛が設置され、天津左衛と天津右衛が設置された。清代には天津衛(1652年)、天津州(1725年)、天津府(1731年)が置かれた。天津府は、下部の行政単位である天津県、静海県、青県、南皮県、塩山県、慶雲県、滄州を管轄した。清末には天津は直隷総督の駐在地となる(図2)。

 そして、天津がさらに大きく転換することになるのは清末である。アロー号戦争(第2次アヘン戦争)(1858年)で清朝は英仏連合軍に敗北し、北京条約(1860年)によって天津は開港されることになるのである。そして、19世紀末から20世紀前半にかけて、英、仏、米、独、墺・洪(ハンガリー)、白(ベルギー)、伊、露、日本が相次いで租界を設置することになった。結果として、天津は旧城区、租界、新開区がモザイク状に隣接する極めてユニークな都市となる。

 天津城のすぐ南を占めたのが日本租界であり、さらに南へ向かって海河の西岸に仏、英、独、日本(第二)の租界が形成された。そして、天津城の東、海河東岸に墺・洪、伊、南に向かって露、白の租界形成された(図3)。旧仏租界は金融街であり、アパート、オフィス、銀行が通りに面して建ち並んだ。パリとまではいかなかいけれど、立派なヨーロッパ風の街並みである。中国人民銀行、中国銀行などがかつての植民地建築を使い、横浜正金銀行も仏租界にあった。租界ごとにそれぞれ多彩な街並み景観が形成され、今日にその姿を今日に伝える。中でも、伊租界は現代風にリノヴェーションされて「意太利風情旅游区」となり、多くの観光客を集める人気スポットとなっている(図4)。

 中華民国が成立すると天津市となるが、日中戦争の間は1937年から1945年まで日本軍に占拠された。また、戦後1945年から1947(までアメリカ軍基地が設置され。

 中華人民共和国の設立以降、直轄市として中国の工業及び貿易の拠点として発展し現在に至る。天津は、中国北方最大の対外開放港であり、コンテナターミナルの他工業地帯も建設された渤海新区は、環渤海湾地域の経済的中心地である。経済規模は、上海、北京、広州、深圳に次ぐ中国第5位である。 

                              孫躍新+布野修司


図1:天津旧城 1995 写真:布野修司

図2:天津城図構成

Antique Map Of Tianjin, China, 1899 is a drawing by Studio Grafiikka

図3:天津市街地図 

天津の租界

Madrolle's Guide Books: Northern China, The Valley of the Blue River, Korea. Hachette & Company, 1912. 

天津 1919

図4:意太利風情旅游区 写真:布野修司

 

【参考文献】

孫躍新1993中国都市における近代空間の形成過程及びその特性に関する研究―天津の旧城空間、租界空間、新開空間の形成及び相互関連を中心に―』学位論文(京都大学)

 


2025年11月14日金曜日

成都:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日

 成都:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日


J11  四川の古都

成都 Chengdu,四川省Sichuan,中国China

 

四川省の省都成都は、三国時代の蜀の都として知られ、唐代から蜀錦を産してきたことから錦城、芙蓉の花で知られることから蓉城とも呼ばれる。市内には、劉邦、諸葛孔明、杜甫など、中国史を彩る人物や事績に所以のある寺廟などが維持されている。

その起源は古く、成都の北30kmの広漢市にある新石器時代末から殷初にかけての都城址とみられる三星堆遺跡(1986年)に続いて金沙遺祉(2001年)が発掘され,中原とは異なる古蜀文明の存在が着目されてきている。現在までの考古学の成果によると,その拠点は都江堰付近から南東へ移動し,成都市内の十二橋遺祉は殷代,金沙遺祉古城は殷末から周初に比定され,開明都城が建設されたのは春秋戦国時代だとされる。この開明都城の拠点としていた古蜀を滅ぼして建設されたのが秦成都である。

興味深いのは、秦の恵王(BC.337311)が蜀を滅ぼした後,張儀(?~BC.310)らに命じて,国都咸陽にならって成都を築城したとされていることである。

現在の成都の都市形態を俯瞰すると整然とした街区割りを確認できるが(図①),実にユニークなのは,正南北軸をもとにしたグリッドと35度ほど東に傾いた軸をもとにしたグリッドが交差していることである。正南北軸が採られるのは三国蜀(屬漢)以降で,それ以前は東に傾いた軸線を基にしていたと考えられている。張蓉(2010)がこの開明都城を『周礼』「考工記」をもとにして復元しているが,具体的な手掛かりは少ない。四川省文史館(1987)の復元によれば,西に小城,東に大城を連結する形態である (図②)

唐代の成都は養蚕、絹(蜀錦)そして紙を特産品として大いに栄えた。人口は50万人にも達し、揚州と並ぶ商業都市であった。宋代の成都の商業も引き続き発展し、以降、四川さらには西南中国の中心地となる。明代には四川布政使が駐在し、清代に四川省に改称された。清初期の抵抗運動や軍の反乱などで清前半までは荒廃が続いたが、湖北省、湖南省、広東省などから移民を受け入れ、徐々に復興を遂げた。

1928年に中華民国国民政府は成都市を設立するが、1949年に成都が解放されると、四川省が復活する(1952年)。

現在の成都市内には、清末から民国期にかけての古街で「寛窄巷子」と呼ばれる歴史的街区が保存再開発されている(図③)。寛窄とは、広い、狭いという意味であるが、住居の基本型となるのは、中国の伝統的都市住居の「四合院」と狭小間口の店舗併用住宅「店屋」である。

「店屋」と呼ばれる都市住居の形式は、成都の店屋には江南地方から中国南部にかけての地域で成立したと考えられている。そして内陸に位置する四川地域に、廊坊(アーケード、亭仔脚)を伴う住居形式をもつ集落が多数存在している(図④)。このアーケード付の「店屋」の形式は東南アジアに拡がっていったと考えられているが、「寛窄巷子」の「店屋」にはアーケードはない。

成都は歴史的遺産が豊富で、1982年に国家歴史文化名城に指定され、周辺には峨眉山と楽山大仏(1997年)青城山と都江堰(2000年)などの世界遺産もある。一方2000年以降、西部大開発の拠点都市として経済発展を遂げている。








 

2025年11月13日木曜日

平遥:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日

 平遥:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日



J03亀城-清の金融中心

平遥 Pingyao,山西省 Shanshi,中国 China

平遥古城は、山西省の省都である太原から南へ95km,中部にある晋中市平遥県に位置する。平遥古城は、明清時代の城壁とその街並みが極めて良い保存状態で残されていることが評価され、1997年にユネスコ世界文化遺産として登録された。平遥古城の周辺には、古い歴史をもつ名刹の他、喬家大院をはじめとする山西商人の大邸宅も点在している。世界文化遺産には城の外にある仏教寺院の鎮国寺と双林寺および孔子廟である平遥文廟が含まれている。

平遥古城は、漢民族が中原に形成した城壁都市の典型であり、その築城構成には漢民族の都市文化の伝統をうかがうことができ、建築史はもちろん、当時の文化、社会、経済を研究する上でも非常に価値のある貴重な現存資料といえる。

平遥古城の城壁の基礎は、2700年前の西周時代に造られたといわれ、春秋時代には晋国、戦国時代に趙国の城塞であった。秦の郡県制の下では平陶県、漢の郡国制の下では中都県が置かれた。そして、北魏時代に平遥県と改称されている。

平遥は、「龜城」と呼ばれるが、明清時代に各地に築かれた県城の原型をよく保存している。城壁(城牆)は明王朝の洪武三年(1370年)に築かれたものである。城壁は内部を土で固めて外部をレンガで築く版築で造られ、外周6.4km、高さ約12mある。現在は6つの城門と瓮城、4つの角楼、72の敵楼が残る。南門の城壁は2004年に倒壊したため再建されたが、その他の部分は明王朝のままである。これは中国に残る都市の城壁の中でも規模が比較的大きく、歴史も古く、保存状態が完全に近いものであり、世界文化遺産の核心を構成している。

城壁内部は、政務を司った建物を中心に4本の大通り、8本の裏通り、72本の路地によって巨大な八卦の図案を形成している。すなわち、城内の街路は「土」字形をなし、建築は八卦の方位に準じて配置されており、明清時代の都市計画の理念と基本を示すとされる。

清王朝末期の平遥は、中国全土の票号の半分以上の大きな票号(近代以前の金融機関)が20数家集中する金融の中心地であった。これらの票号は各地に支店を置いて金融業を営んだが、なかでも19世紀初の清王朝道光年間に設立され「匯通天下」として19世紀後半に名をはせた中国最大の票号「日昇昌」は有名である。これらの票号は辛亥革命で清王朝が倒れると債権を回収できず没落していった。これらの票号の建物は現在でも残り観光地となっている。

平遥には、以上のように、城内外には数多くの旧跡や古建築が300か所以上あり、その他明清時代の民家邸宅が4000軒近く残り保存状態も良い。街路に建ち並ぶ商店などはかつての姿を残しており、中国近世の商都の街並みの生きた見本となっている。

通りから一歩外れると、静かな住宅街へと一転して、中国北部の伝統的な建築様式である「四合院」が建ち並ぶ。古城内に学校、工場、病院なども備わっており、現代においても旧市街だけで都市機能を有しているユニークな都市であり続けている。


【参考文献】

中国古建築叢書ー山西古建築 雍振華 2015 中国建築工業出版社

平遥―古城と民居 宋昆

2000 天津大学出版社









2025年11月12日水曜日

マカオ:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日

マカオ:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日


J20 ポルトガル最後の植民都市―東アジア布教の拠点

マカオMacau澳門特別行政區Macao Special Administrative Region,中華人民共和国People's Republic of China

 

 

 

 


ヨーロッパの海外進出の先鞭をつけたのはポルトガルである。1488年にバロトロメウ・ディアス(?~1500)が喜望峰に到達し、1498年にヴァスコ・ダ・ガマ(c.14691524)がインド、カリカットに至る。以降、ゴア占領(1510)、マラッカ占領(1511)、とポルトガルはアジアに次々と植民拠点を築いた。そして、南シナ海に回りこんでマカオに到達するのは1513年、広州到達が1517年である。明朝との交渉役に指名されたのが『東方諸国記』を書き記すトメ・ピレス(1466頃~1524頃)である。知られるように、種子島漂着が1543年、中国、日本を最初に訪れたのもポルトガルである。

ポルトガルは植民拠点をシダードcidades(都市)と呼んだ。コーチンとゴアには早くから市参事会が設けられ、本国と同様の権利が与えられている。インディア領最大の都市はゴアであり、いち早く周辺地域も含めた領土支配を確立している。そして続いてシダードとなったのが、1557年に永久居住権を明朝から与えられ、1579年に司教区が設けられていたマカオである(1582年)。17世紀初頭にはコロンボとマラッカにも市参事会が置かれるが、この5つの都市以外は、商館や要塞を核とする居住地あるいは集落規模の拠点にすぎない。

 シダードとなるとともに都市建設が開始される。また、日本布教はマカオを拠点に行われることになる。イエズス会士フランシスコ・ザビエル(15021552)がゴアを訪れるのは1541年であり、1548年に宣教監督となって、翌年、洗礼を受けたばかりのヤジロウとともに薩摩半島の坊津に上陸、以降2年間滞在したが「日本国王」との謁見を果たせず、帰途、広州沖の上川島で死去している。そして、続いて日本布教に向かったのが、マニラに赴任し(1578)アジア全域を統括したA.ヴァリニャーノである。

 中国布教に当たったのは、M.ルッジェーリ(15431608)であり、『坤輿万国絵図』を日本にも伝えるマテオ・リッチ(利瑪竇)(15521610)である。マテオ・リッチによる西欧の書物の漢訳出版は中国に大きな影響を与えることになるが、明王朝そして清王朝の「天主教」への対応は厳しく、ポルトガル人の居住はマカオに限定され続ける。清朝初期には、台湾の鄭氏政権との関係を断つためにポルトガル船は閉め出され、マカオは一時期衰退する。鄭氏が清朝に降伏すると、貿易は再開されるが、日本の海禁政策もあり、ポルトガルがスペイン王の支配下に置かれることによって、交易は太平洋経由のガレオン船によるルート、すなわち、アカプルコーセブ・マニラそしてマカオ・彰州へというルートに変わる。17世紀初頭の絵地図(図1)が残されているが、小高い丘にギア要塞と城壁を建設、沿岸に城壁をめぐらすポルトガル流のシダ-ドである。ギアの聖母礼拝堂は1622年の建設とされる。

 ポルトガルがマカオの行政権を中国人官吏から奪取し、ここを完全に植民地化するのは1849年のことである。清朝が統治権を認めるのは1862年、友好通商条約を締結してマカオを永久的に占有することを承認したのは1887年である。

 第二次世界大戦中は、ポルトガルは中立を宣言、マカオ港は中立港として繁栄するが、日中戦争の激化とともに中国人難民の大量流入を受け入れている。戦後、ポルトガルはマカオを海外県とするが、マカオ暴動(1966年)など中国の反ポルトガル闘争による返還の圧力が高まり、1979年に、中華人民共和国とポルトガルの国交が樹立され、マカオの本来の主権が中華人民共和国にあることが確認された。そして、中華人民共和国が英国との香港返還交渉と平行してマカオ返還交渉が行われ、1999年に行政権が中華人民共和国に譲渡されることが決定、マカオには一国二制度が適用され、中華人民共和国の特別行政区となった。これによってアジアから欧米の植民地は完全に姿を消すことになる。

 マカオ歴史地区は、2005年に世界文化真に登録される(図2)。数多くの建築物や広場が構成遺産とされるが、中心となるのは1784年に建設され1874年に改修された民政総署(旧マカオ政庁)(図3)のあるセナド広場である。周辺には、1569年にマカオ初代司教が創設した聖母慈善会の仁慈堂(現博物館)(図4)、メキシコのドメニコ会によって1587年に建設された聖ドメニコ教会などがある。そして、ハイライトとなっているのは1602年から1640年にかけて建設され、1835年の大火で焼失、ファサードのみが残っている聖天主堂跡(図5)である。ここには聖母教会、聖ポール大学も建てられていた。聖母教会には長崎で殉教した26聖人も埋葬されている。(布野修司)


【参考文献】

Bocarro, Antonio (text) & Pedro Barreto de Resende (plans)1635, ”Livro das Plantas de todas as fortalezas, cidades e povoacoens do Estado da India oriental (Book of the Plans of fortresses, cities and boroughs in the State of Eastern India)”.

布野修司編:近代世界システムと植民都市,京都大学学術出版会,20052


1 マカオ 1635  Bocarro, Antonio (text) & Pedro Barreto de Resende (plans)1635

2 マカオ歴史地区 2005

 

3 民政総署(旧マカオ政庁)


2025年11月11日火曜日

布野修司:アジア諸都市の都市組織と都市住宅のあり方に関する比較研究,文部科学省科学研究費基盤(B),2006ー2009年, 2010

アジア諸都市の都市組織と都市住宅のあり方に関する比較研究,文部科学省科学研究費基盤(B),2006ー2009年, 2010


平成22年 331日現在

研究種目: 基盤研究(B)

研究期間: 20102012

課題番号: 18360295

研究課題名(和文) アジア諸都市の都市組織と都市住宅のあり方に関する比較研究

 

研究課題名(英文) Comparative Study on Urban Tissues and Town House in Asian Cities

 

研究代表者  

布野 修司(FUNO SHUJI

滋賀県立大学・環境科学部・教授

 研究者番号:50107538

 

 

 

 研究成果の概要(和文):

 第一に、アジアの都城の系譜について、『曼荼羅都市―ヒンドゥー都市の空間理念とその変容―』(2006年)、“Stupa & Swastika” (2007)、そして『ムガル都市--イスラーム都市の空間変容』(2008)をまとめることによって、大きな見取り図を描くことができた。また、第二に、アジアの都市組織研究の原点としてきたスラバヤのカンポンについて、四半世紀後に全く同じフォーマットで臨地調査を行い、都市組織の持続力と変容について貴重な知見を得ることが出来た。第三に、特に店屋(ショップハウス)の起源と広がりについて、中国南部、台湾、東南アジアの調査によって、これまでの仮説を確認できた。第四に、西安の回民居住地区の調査によって、中国都城とイスラーム都市の重層関係について明らかにすることができた。以上は、アジア都史研究の大きな基礎を築くことになったと考える。

 

研究成果の概要(英文):

 The study firstly discussed the urban traditions in Asia based on the previous study and showed the scope of the research strategy by publishing “The City as Mandala”, “Stupa & Swastika” and “Mughal Cities”. The field study of kampungs in Surabaya carried out by the same format of a quarter century ago was valuable to clarify the sustainability of urbantissues. The confirmation of the origin and the distribution of shophouse is also the important outcome of the study. The survey of Muslim quarter in Xian gave us the clue to consider the differences between Islam city and Chinese gridiron city. The results of the study is sure to strengthen the base of urban studies of Asian cities.

 

交付決定額

                                 (金額単位:円)

 

直接経費

間接経費

合 計

18年度

4,300,000

1,290,000

5,590,000

19年度

3,200,000

960,000

4,160,000

20年度

3,600,000

1,080,000

4,680,000

21年度

3,400,000

1,020,000

4,420,000

  年度

 

 

 

総 計

14,500,000

4,350,000

18,850,000

 

研究分野:工学

科研費の分科・細目:建築計画・都市計画

キーワード:アジア、都市組織,都市住宅,街区,ショップハウス,植民都市,都城,グリッド

 


1.研究開始当初の背景

本研究計画は、研究者の四半世紀に及ぶアジア都市研究の具体的実践をもとにしており、これまで展開してきた多くの研究テーマが関わっている。インドネシア(スラバヤ)のカンポンkampung(都市内集落)についての臨地調査をもとにハウジング計画論を展開した『インドネシアにおける居住環境の変容とその整備手法に関する研究』(学位請求論文、1987年)以降、大きくは都市形成史に関する研究とエコハウスのモデル開発に関する研究に分かれる。都市形成史研究としては、まず、格子状(グリッド)パターンの都市に焦点を当て(チャクラヌガラ(インドネシア))、続いてヒンドゥー都市(ジャイプル、マドゥライ、ヴァーラーナシー(インド)、バクタプル、パタン(ネパール)など)について臨地調査を展開してきた。さらに、インド・イスラーム都市(ラホール、アーメダバード、デリーなど)を対象とし、両者の差異をテーマとしてきた。また、東アジアの都市(北京、台北)について、都市住居と街区組織を問題にしてきた。それぞれの地域に、それぞれの都市型住宅が成立していることを明らかにしたことは、本研究の大きなベースになっている。また、近年展開した植民都市に関する研究(布野修司編著:『近代世界システムと植民都市』、京都大学学術出版会、2005年)は、ますます、アジアの諸都市のそれぞれに応じた独自の都市型住宅モデル、居住地モデルの必要性を痛感させることになった。都市組織と都市住居のあり方に焦点を当てた本研究によってこれまでのアジア都市研究の集大成を試みたいと考えた。

すなわち、アジアの都市についての建築学、都市計画学における研究はこれまで拡散的に行われてきており、体系化することで今後の研究展望を示す段階にある、というのが背景にあった。

現在も変わらないが、アジアの諸都市についての欧米における研究は極めて薄い。アジアの数多くのユニークな都市の空間構成を明らかにすること自体に大きな意義があり、さらにアジア都市研究の体系化への道筋を示すことが本研究の大きな役割であると考えた。我が国におけるアジア都市研究の基礎を固めるとともに、その水準を世界に示すことが大きなねらいとして意識されていた。

 

2.研究の目的

本研究は、アジア諸都市における都市組織と都市住宅のあり方を、臨地調査によって明らかにし、一定の型の形成とその変容について体系的に明らかにすることを大きな目的にしている。

アジアの大都市、とりわけ発展途上地域の大都市では、深刻な都市問題、居住問題を抱えており、その克服のためのひとつの対応策として、それぞれの都市において新たな都市型住宅、都市居住地モデルが求められている。本研究を支える問題意識は、大袈裟に言えば、21世紀半ばには深刻な事態を迎えると予想されるグローバルな居住問題である。

本研究は、もとより歴史研究にとどまるものではなく、植民地化のインパクトとその後の変化がより大きなテーマである。都市の形成、変容、転成の過程を、都市組織、都市住宅のあり方に即して明らかにすることは、個々の都市におけるこれからの都市住居あるいは街区のあり方を考えるための大きな手掛かりである。都市組織と都市住宅の関係を明らかにすることによって、スラバヤ・エコハウス以来追求してきたエコハウス、エコ街区モデルへの展開を考えるのが本研究のユニークな点と考える。

 

3.研究の方法

 本研究を、一貫(一環)するものとしてまとめあげるために、まず、以下のACを基礎作業とした。

A アジアの都市組織および都市住居に関する文献・資料の収集とリストの作成

文献収集は、各年度継続して行うが、現地での収集とともに、かつての宗主国における収集が中心となる。具体的には、大英図書館、ハーグの国立公文書館(ARA)、王立図書館(KB)、ライデン大学王立民族文化研究所(KITLV)等、セヴィージャのインディアス公文書館などを集中的に収集したい。これまでフランス、ポルトガルについての情報が薄いので重視する。アウトプットとして、「アジア都市組織研究文献リスト・解題」をまとめ、今後の研究展開のために供する。

B 地図資料のインヴェントリーの作成

文献資料の収集と平行して、地図資料も引き続いて収集する。これまで、植民都市研究に関連して、オランダ、イギリスにおいてかなりの地図を収集してきたが、さらに収集対象を拡大し、一般に利用可能な形(CD-Rom等)にまとめる。

C 都市組織図の作成

これまで調査してきた都市、また本研究計画で臨地調査を行う都市を中心として、各都市について共通のフォーマット(GIS)で比較可能なかたちにまとめたい。建物の用途、階数、構造、・・・・など調査項目に基づく施設分布図、住居類型分布図などが基本となる。A,Bによって得られる資料から作製可能な都市も可能な限り含める。

また、最終的なまとめのために、また、重点調査都市の位置づけを明確にするために、以下のDEの作業を平行して行う。

D アジア各都市の都市組織と都市住宅の類型化

アジア全体を広く見渡すと、前近代については、大きくイスラーム都市の系譜と中国・インド都城の系譜に分けることができる。あるいは、グリッド系と非グリッド系といってもいい。この類型はあまりにも大雑把であるが、少なくとも街区組織の名称に関わる語彙の分布を明らかにすることにおいて、ある程度のフレームを得ることができるという見通しがある。最終的に、アジア全体について類型と分布図を作成する。

E ショップハウスの類型とその分布図の作製

Dのうち、ショップハウスについては東南アジアについてはかなりのデータの蓄積がある。文献による補足も合わせて、最終的に、今後の研究を加速するような分布図が作成可能である。

臨地調査の対象都市は、AEの作業から、典型的な都市を選ぶことになるが、研究計画としては、各研究年度、重点調査と広域調査(文献調査を含む)を組み合わせて行う。

臨地調査における調査内容は、各都市共通である。これまで積み重ねてきた調査手法を共通としたい。都市全体についての基礎的情報を整理した上で、典型的街区を選定、詳細なベースマップを作製した上で、各種分布図を作製するとともに、住居の実測、ヒヤリングを行う。

 臨地調査は、毎年一都市を重点的に行う。ヒンドゥー都市の系譜/イスラーム都市の系譜/中国都市の系譜/ショップハウス都市の系譜から、各年一都市を選定することとし、予備的広域調査を次年度のために行う。研究計画段階において、重点調査都市(地域)と考えているのは、カトマンズ盆地都市、ミャンマー諸都市(古都)、タイ・コーラート高原クメール都市、ラージャスタン諸都市、グジャラート諸都市、福建・広州諸都市、台湾諸都市、ジャワ諸都市である。初年度:ヒンドゥー都市重点調査+中国系都市予備調査、第2年度:中国系都市重点調査+インド・イスラーム都市予備調査、第3年度:インド・イスラーム都市重点調査+ジャワ都市予備調査、最終年度:ジャワ都市(スラバヤ)重点調査+補足調査というのが研究プログラムであった。

 

4.研究成果

以下、年度別に記したい。

平成18年度

第一年度として、まず、当初の計画通り、『曼荼羅都市』(20062月)を取りまとめた上での、ヒンドゥー都市の系譜についての補足作業として、“Stupa & Swastika”の刊行(20072月)にかなりの時間を割いた。カトマンズ盆地を含めることによって、南アジアについて大きな見通しを得ることができた。一方、全体を見通すべく、基本文献の収集については、中国を中心として行った。

 臨地調査は、イスラーム圏についての見通しを得るために、計画より先行する形で、デリー、ラホールをターゲットとした。当初計画では、中国の「店屋」の系譜について予備調査を行う予定であったが、第二年度に向けて、研究者も参加を求められた、国立歴史民俗博物舘の共同研究「東アジア比較建築文化史」が中国を対象として展開されることから、イスラーム圏を先行させることとした。また、タイのホンナンを臨地調査の対象と考えていたが、タイ人留学生を博士後期課程の学生として受け入れることとなったため、これの次年度以降に先送りすることとした。

 以上のような経緯から、第一年度の主調査対象として、最終年度に予定していたスラバヤを選定し、研究の大きなまとめを展望することを優先することになった。スラバヤについては、4つのカンポンについて、1982年に詳細調査を行っているが、本年度は、そのうち、カンポン・サワプロとカンポン・サワハンの二つについて、同じ方法で調査を行った。四半世紀を経た同じ年の居住地を調査することによって極めてユニークなデータを得ることができた。初年度の大きな成果である。また、最終的なとりまとめを得ることができたことも大きい。

 平成19年度

臨地調査については、まず、滋賀県立大学の特別研究プロジェクト(「東アジアの城郭都市の比較研究」)に参加することを求められた関連で、予定外であったが、中国都城の系譜に関して、西安-洛陽-開封について、回民地区を中心とした調査を行うことが出来た。また、倭城の調査に関連して研究室で続けている韓国都市の都市型住宅についても短期間の調査を行った。インド・イスラーム都市の系譜として、サマルカンド、ブハラなど中央アジアについて、短期間の調査を行うことが出来た。また、研究室ではヴァーラーナシー調査を行った。さらに、都市型住宅の典型としてショップハウス(店屋)をめぐって、当初は、福建、広州を主ターゲットとする予定であったが、台湾の蓄積があることから、台湾と福建の間を探るべく膨湖島に焦点を当てた。ショップハウスという意味では馬公が中心であったが望安島の集落調査も比較のために行うことができた。

インド・イスラーム都市をめぐって、調査と併行して、『ムガル都市―イスラーム都市の空間変容―』(京都大学学術出版会)のまとめに多くの時間を割いた。イスラーム都市の原型として、オアシス都市の系譜を明らかにし、西アジアについてもある程度見通しをもつことができた。昨年行った、最終年度に想定していたスラバヤのカンポン(都市村落)調査については、研究室の学生の修士論文としてほぼまとめることができた。来年度には論文として公表を考えたい。四半世紀を経た同じ都市の居住地を調査することによって極めてユニークな論文となる

 平成20年度

臨地調査については、重点調査として、中国・福建をターゲットとし、泉州について予定通り行った(20088月下旬)。また、福州、アモイについても資料収集を行った。昨年度の膨湖島調査と合わせて、中国福建と台湾との都市組織に関する関係についてある程度の見通しを得ることが出来た。イスラーム都市の系譜として、マグリブの諸都市について、臨地調査を行う計画であったが、イエメンの高層住宅の系譜を優先し、マグリブについては断念した。イエメンでは、サナア、シバームの他、ムカッラにおいても調査をおこなった。さらに、東南アジア大陸部について見通しをつけたいとしていたが、ラオスのヴィエンチャン、ルアンパバンについて調査を行った。ベトナムからチャイニーズによってショップハウスが持ち込まれていることがはっきりし、ひとつの系譜を明らかにすることが出来た。

前年度の研究成果は、6編の審査論文(ヴァーラーナシー、西安、タイ、インドネシアのカンポン)他、学会発表論文として速やかにまとめた。また、布野修司・山根周、『ムガル都市--イスラーム都市の空間変容』(京都大学学術出版会、20085月)を上梓することができた。

 平成21年度

最終年度として、まとめの作業を集中的に行った。

当初研究計画において、重点調査都市(地域)と考えていたのは、カトマンズ盆地都市、ミャンマー諸都市(古都)、タイ・コーラート高原クメール都市、ラージャスタン諸都市、グジャラート諸都市、福建・広州諸都市、台湾諸都市、ジャワ諸都市であった。そして、初年度:ヒンドゥー都市重点調査+中国系都市予備調査、第2年度:中国系都市重点調査+インド・イスラーム都市予備調査、第3年度:インド・イスラーム都市重点調査+ジャワ都市予備調査、最終年度:ジャワ都市(スラバヤ)重点調査+補足調査というのが研究プログラムであったが、上述のように、調査都市の順序は、状況に応じて変更してきた。最終年度に予定していた、ジャワ都市、スラバヤにおけるカンポン調査をいち早く行ったことによって、全体の見通しを得ることが出来たことが大きい。ミャンマーについては調査環境が整わず断念せざるを得なかったのであるが、それに変わって予定外ではあったが、中国・中原および朝鮮半島について調査することが出来た。最終年度の臨地調査は、まず、昨年度の補足として、ラオス南部の集落調査を行い、メコン中流域について、ほぼ把握することが出来た。また、カトマンズ盆地について当初の予定を果たすことが出来た。また、必ずしも当初の予定にはなかったが、福建・広州諸都市、台湾諸都市についてのショップハウス研究が進展したことから、フィリピンの諸都市の中国人街について調査を行った。

 

5.主な発表論文等

(研究代表者、研究分担者及び連携研究者には下線)

〔雑誌論文〕(計22件)

[126]J.R.ヒメネス・べルデホ,布野修司:サント・ドミンゴ(ドミニカ共和国)の都市形成と空間構成に関する考察Considerations on the Urban Process and Space Formation of the City of Santo Domingo(Dominican Republic),日本建築学会計画系論文集,20102,75,648, pp.385-393

127川井操,布野修司,山根周:西安旧城・回族居住地区の棲み分けの特性に関する考察,Considerations on Characteristics of Habitat Segregation of  Hui’s Residential District in Xi’an Old Castle, 日本建築学会計画系論文集,75巻,第651,pp1097-1102,20105

128チャンタニー・チランタナット*,布野修司**,額田直子***:バーン・パーク・シー村(ルアンパバーン,ラオス)の空間構成に関する考察Considerations on Spatial Formation of Ban Paksy Village in Luangprabang, Lao,日本建築学会計画系論文集, 第75巻 第651号,1117-1123 20105

129J.R.ヒメネス・べルデホ,布野修司,「セブ市(フィリピン)の都市形成とその都市核の空間構成に関する考察」,日本建築学会計画系論文集,76,No.668,pp1867-1874201110

130趙冲,布野修司(2011),川井 操,「泉州鯉城区(福建省)の住居類型とその分布に関する考察」,日本建築学会計画系論文集,77,No.669pp2033-2040201111

131ハイルル・フダ,山本直彦,牧紀男,布野修司‘On-Site Permanent Housing Supply in the Reconstruction Stage after 2004 Indian Ocean Tsunami-The case of UN-Habitat in Banda Aceh municipality in Indonesia-’,日本建築学会計画系論文集,77,No.675pp959-96820125

132J.R.ヒメネス・べルデホ,布野修司, 若松堅太郎,「ハバナ旧市街の都市形成と街路体系に関する考察 Considerations on Urban Formation and Street System of Habana Vieja」,日本建築学会計画系論文集,77,No.675pp1069-107620125

133趙冲,布野修司,川井 操,山田香波,張鷹,「福州上下杭社区(福建省)の住居類型とその変容に関する考察 CONSIDERATIONS ON SPATIAL FORMATION AND TRANSFORMATION OF HOUSE TYPES IN SHANGXIAHANG NEIGBOURHOOD DISTRICT (FUZHOU, FUJIAN)」 日本建築学会計画系論文集,77,No.682pp2689-2695201212

134J.R.ヒメネス・べルデホ,布野修司, 若松堅太郎,「ハバナ旧市街の街区構成と住居類型に関する考察 Considerations on Block Formation and House Types of Habana Vieja」,日本建築学会計画系論文集,77,No.682pp.2781-2788201212

135趙冲、布野修司(2012、川井操『泉州鯉城区(福建省)の住居の平面構成とその変容に関する考察』日本建築学会計画系論文集、pp2499-2506、第77巻、NO.6812012.11

136塩田 哲也,J.R.ヒメネス・ベルデホ,布野 修司(2012「イントラムロス(マニラ)の形成と街路体系に関する考察」,日本建築学会計画系論文集,77,No.681pp2545-2552201211

[137]趙冲,布野修司(2012,川井 操,山田香波,張鷹,「福州上下杭社区(福建省)の住居類型とその変容に関する考察」 日本建築学会計画系論文集,77,No.682pp2689-2695201212

[137] J.R.ヒメネス・べルデホ,布野修司(2012, 若松堅太郎,「ハバナ旧市街の街区構成と住居類型に関する考察」,日本建築学会計画系論文集,77,No.682pp.2781-2788201212

[138] 布野修司2012),「地域の死と再生―建築の遺伝子 建築類型・地形・所有と所有・街区組織」「場所性・地域継承空間システムと都市建築のフロンティア」『総合論文誌』第10号,2012

[139] 趙冲,于航,布野修司(2013,川井操「開封旧内城の空間構成とその変容に関する考察―文殊寺・学院門社区の都市組織―」,日本建築学会計画系論文集,第78,No.685pp519-52620133

[76]Chong Zhao, Shuji Funo2012Considerations on Transformation of House Plan of Licheng District (Quanzhou, Fujian)The 9th International Symposium On Architectural Interchanges in Asia, Kwngju, Korea, 2012.10.22-25

[77]Natsumi Kono, Shuji Funo2012A Consideration on Spatial Formation of Xiangcheng District in Zhangzhou City, Fujian:’ The 9th International Symposium On Architectural Interchanges in Asia, Kwngju, Korea, 2012.10.22-25

[78]Keizo Umetani, Shuji Funo2012’Considerations on the Urban Formation of Binondo and San Nicolas Disarict in the City of Manila’: The 9th International Symposium On Architectural Interchanges in Asia, Kwngju, Korea, 2012.10.22-25

[79]Kanami Yamada, Juan Ramón, Jiménes Verdejo, Shuji Funo2012‘Considerations on Spatial Formation and Transformation of House Types in Shangxiahang Neighbourhood Area(Fuzhou, Fujian)’: The 9th International Symposium On Architectural Interchanges in Asia, Kwngju, Korea, 2012.10.22-25

 

〔学会発表〕(計25件)

①中川雄輔,前田昌弘,布野修司(2006)「コロンボ近郊における津波被災シャンティ・セツルメントの復興過程 その1 スリランカにおける居住政策の変遷と津波復興政策の位置づけ」,pp195-196,日本建築学会学術講演会梗概集,神奈川大学,200697日~9日.
②前田昌弘,中川雄輔,布野修司(2006)「コロンボ近郊における津波被災シャンティ・セツルメントの復興過程 その2 沿岸居住地の被害状況と復興の実態」,pp197-198,日本建築学会学術講演会梗概集,神奈川大学,200697日~9日.
③朴重信,趙聖民,金泰永,布野修司(2006)「日本植民地期における韓国の河川の日本人移住漁村について その1密陽の三浪津邑の事例」,pp197-198日本建築学会学術講演会梗概集神奈川大学200697日~9日.
④趙聖民,朴重信,布野修司(2006)「韓国密陽市三浪津邑鉄道官舎の形成と空間変容に関する考察三浪津鉄道官舎の形成と空間変容を中心として」,pp139-140,日本建築学術会学会講演会梗概集,神奈川大学,200697日~9

⑤前田昌弘(京都大)・中川雄輔・布野修司・高田光雄(2007)「スリランカにおける津波被災地居住地の再定住事業の実態に関する研究 その1 再定住事業のプロセス」,日本建築学会大会(福岡)学術講演梗概集5003

⑥中濱春洋(滋賀県立大大学院)・趙聖民・布野修司2007)「韓国安東における旧鉄道官舎地区の居住空間の変容に関する考察 その1 安東旧鉄道町の街区構造について」,日本建築学会大会(福岡)学術講演梗概集5016

⑦趙聖民(滋賀県立大大学院)・中濱春洋・布野修司2007)「韓国安東における旧鉄道官舎地区の居住空間の変容に関する考察 その2 -旧鉄道官舎の居住空間変容-,日本建築学会大会(福岡)学術講演梗概集5017

⑧朴光成(滋賀県立大大学院)・川井操・布野修司2007)「西安城における回族居住地区の空間構成に関する考察 その1 社区構成と施設分布」,日本建築学会大会(福岡)学術講演梗概集7336

⑨川井操(滋賀県立大大学院)・朴光成・布野修司2007)「西安城内における回族居住地区の空間構成に関する考察 その2 街路体系と街区構成」,日本建築学会大会(福岡)学術講演梗概集7337

⑩柳沢究(神戸芸術工科大)・中濱春洋・岡村知明・布野修司(2008)「ヴァーラナシー(インド)旧市街における住居の平面構成と類型」, 日本建築学会大会(広島)学術講演梗概集2008年,E-2分冊,p.185

⑪小川哲史(滋賀県立大)・川井操・布野修司,「西安旧城・回族居住地区の住居類型に関する考察 その1 住居の概要,宅地類型」,日本建築学会大会(広島)学術講演梗概集2008年,E-2分冊,p.187

⑫中濱春洋(滋賀県立大大学院)・柳沢究・岡村知明・布野修司,「ヴァーラーナシー(インド)における居住区の比較に関する研究   ヒンドゥー教徒地区とイスラーム教徒地区について」,日本建築学会大会(広島)学術講演梗概集2008年,E-2分冊,p.353

⑬高橋俊也(滋賀県立大)・陳春名・川井操・岡崎まり・美和絵里奈・鮫島拓・山田協太・布野修司,「台湾・澎湖群島の集落および都市の空間構成に関する研究 その3 望安島の集落の基本構成と各集落の空間構成」, 日本建築学会大会(広島)学術講演梗概集2008年,E-2分冊,p.359

⑭鮫島拓(滋賀県立大)・陳春名・高橋俊也・川井操・岡崎まり・美和絵里奈・山田協太・布野修司,「台湾・澎湖群島の集落および都市の空間構成に関する研究 その4 望安島・中社の集落空間構成」, 日本建築学会大会(広島)学術講演梗概集2008年,E-2分冊,p.361

⑮陳春名(滋賀県立大)・高橋俊也・川井操・岡崎まり・美和絵里奈・山田協太・布野修司・鮫島拓,「台湾・澎湖群島の集落および都市の空間構成に関する研究 その1 澎湖群島の発展と集落,都市の概要」, 日本建築学会大会(広島)学術講演梗概集2008年,E-2分冊,p.369

⑯美和絵里奈(滋賀県立大)・陳春名・高橋俊也・川井操・岡崎まり・山田協太・布野修司・鮫島拓,「台湾・澎湖群島の集落および都市の空間構成に関する研究 その2 馬公市の都市空間構成および中央里付近の社区構成」,日本建築学会大会(広島)学術講演梗概集2008年,E-2分冊,p.369

⑰渡辺光一郎(滋賀県立大大学院)・川井操・布野修司2009)、北京牛街・回族居住地区の街路変遷に関する考察、日本建築学会大会(仙台)学術講演梗概集 5754

⑱若松堅太郎(滋賀県立大)・川井操・布野修司2009)、北京内城・朝陽門地区の街区構成とその変容に関する考察、日本建築学会大会(仙台)学術講演梗概集 5755

⑲山根周(滋賀県立大学)・岡村知明・西村弘代・深見奈緒子・布野修司2009)、インド洋海域世界における港市の形成と変容に関する研究その1 ムカッラー旧市街(イエメン,ハドラマウト州)の都市構成と集住形式、日本建築学会大会(仙台)学術講演梗概集5756

Chantanee chiranthanut(滋賀県立大大学院)・山田愛・額田直子・布野修司2009)、ヴィエンチャンにおける都市空間の変容と住居形式に関する考察 その1 都市形成とショップハウスの分布、日本建築学会大会(仙台)学術講演梗概集5758

21山田愛(滋賀県立大大学院)・CHANTANEE CHIRANTHANUT・額田直子・布野修司2009)、ヴィェンチャンにおける都市空間の変容と住居形式に関する考察 その2 植民地住居の形態と変容について、日本建築学会大会(仙台)学術講演梗概集5759

22趙沖(滋賀県立大大学院)・川井操・布野修司・石川智章(2009)、福建・泉州市における鯉城区の空間構成に関する研究 その1 街路体系および施設分布、日本建築学会大会(仙台)学術講演梗概集5772

23石川智章(滋賀県立大大学院)・川井操・趙沖・布野修司2009)、福建・泉州市における鯉城区の空間構成に関する研究 その2 騎楼型住居の空間構成、日本建築学会大会(仙台)学術講演梗概集5773

24美和絵里奈(滋賀県立大大学院)・陳春名・高橋俊也・川井操・岡崎まり・山田協太・布野修司2009)、台湾・澎湖群島の集落および都市の空間構成に関する研究その5 将軍島・将軍村の集落空間構成、日本建築学会大会(仙台)学術講演梗概集 5774

25川井操(滋賀県立大大学院)・布野修司2009)、西安旧城・回族居住地区の住み分けに関する考察、日本建築学会大会(仙台)学術講演梗概集5778

 

〔図書〕(計3件)

①布野修司、『曼荼羅都市・・・ヒンドゥー都市の空間理念とその変容』京都大学学術出版会,2006225

Shuji Funo & M.M.Pant, Stupa & Swastika, Kyoto University Press+Singapore National University Press, 2007

③布野修司+山根周『ムガル都市--イスラーム都市の空間変容』京都大学学術出版会,2008530

〔その他〕

ホームページ等

www.ses.usp.ac.jp./lab/funo

 

6.研究組織

(1)研究代表者

布野修司(滋賀県立大学環境科学部・教授)

 研究者番号:50107538


布野修司 履歴 2025年1月1日

布野修司 20241101 履歴   住所 東京都小平市上水本町 6 ー 5 - 7 ー 103 本籍 島根県松江市東朝日町 236 ー 14   1949 年 8 月 10 日    島根県出雲市知井宮生まれ   学歴 196...