このブログを検索

2025年10月31日金曜日

講演「都市の類型をめぐって――世界都市(計画)史の構想」オンライン研究会「都市の世界史」第11回、2023年4月17日(月)

 講演「都市の類型をめぐって――世界都市(計画)史の構想」オンライン研究会「都市の世界史」第11回、2023417()

「都市の類型をめぐって――世界都市(計画)史の構想」

 

布野 修司

日本大学客員教授。専門は、建築計画学、地域生活空間計画学。主要著書に、『曼荼羅都市』『ムガル都市』『大元都市』『近代世界システムと植民都市』『世界都市史事典』『アジア都市建築史』『スラバヤ:コスモスとしてのカンポン』など多数あるほか、主要論文に、“Ancient Chinese Capital Models: Measurement System in Urban Planning” Proceedings of the Japan Academy Series B: Physical and Biological Sciences93 (9), 2017)がある。また、『インドネシアにおける居住環境の変容とその整備手法に関する研究』(東京大学学位請求論文、1987年)で日本建築学会賞、『近代世界システムと植民都市』(編著、2005年)で日本都市計画学会賞論文賞、『韓国近代都市景観の形成』(共著、2010年)および『グリッド都市:スペイン植民都市の起源、形成、変容、転生』(共著、2013年)で日本建築学会著作賞など、受賞歴も多数。

 

内容紹介

(案1)

*『世界都市史事典』(昭和堂、2019年)を編纂された都市史研究の第一人者であられる布野修司先生に、「都市の類型」をはじめ、「都市のかたち」の世界史であるところの「世界都市史」、すなわち「都市を構想・計画・建設するホモ・サピエンスの世界史」の基本的な枠組や視点について、時空間を超えてダイナミックにお話しいただきます。
























2025年10月30日木曜日

クスコ:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日

 アヴィラ:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日


L22インカ帝国の聖都

クスコCuzco,クスコ県、ペルー共和国República del Perú

 

 

 

 

 


先スペイン期あるいは先コロンビア期の最後にアンデスを統治したのがインカである。インカは,もともとクスコ(ケチュア語でQusqu'Qosqo周辺を拠点とする集団で,12世紀頃部族として成立,クスコに小規模の都市国家(クスコ王国)を築いたとされる。インカは,ケチュア語でインティ(太陽)の子という意味で,王の名称である。

 ケチュア族自らはタワンティンスーユTawantin Suyu, Tahuantinsuyoと呼んだ。「タワンティン」は「4,「スーユ」とは,,地方,クニ(国)を意味する4つの「スーユ」とは,クスコの北,チムー王国領やエクアドルを含む北海岸地方のチンチャ・スーユ Chinchasuyu(北西),クスコの南,ティティカカ湖周辺,ボリビア,チリ,アルゼンチンの一部を含むコジャ・スーユ Collasuyu (南東),クスコの東,アマゾン川へ向かって下るアンデス山脈東側斜面のアンティ・スーユAntisuyu(北東),クスコの西側へ広がる太平洋岸までの地域のクンティ・スーユ Contisuyu(南西)の4つを指す。

スペイン人は,占領の過程でクスコを徹底して破壊したとされる。しかし,ハトゥン・ルミヨック通りやロレト通りなど,剃刀の刃も通さないと言われるインカ時代の石壁は現在もそここに存在しており,かつての街区割りを復元できる(図1)。

クスコの平面形態について,しばしばプーマの形をしていると指摘される。北西のサクサイワマンSacsayhuamanの丘がプ-マの頭,2つの川が合流するプマチュパンPumachupan地区が尻尾で,中心広場ハウカイパタHuacaypataが腹部にあたる。

古代アンデスでは,猫科のプーマあるいはジャガーは聖獣とみなされ,神として,権力と支配のシンボルとして崇拝されてきており興味深いが,予めプーマの形を前提にして設計がなされたという確証があるわけではない。

このプーマ説の当否はともかく,クスコがインカの人々の一定のコスモロジーに基づいて計画されていたことははっきりしている。クスコ,タワンティンスーユ全土を縮小するミニチュアと見立てられ,アナンHanan(上)クスコとウリンUrin(下)クスコ2つに,そしてさらに4つの地区に,チンチャ・スーユ(北西),アンティ・スーユ(北東),コンティ・スーユ(南西),コラ・スーユ(南東)に分けられるのである。フワカイパタを中心に,,そして高官など身分の高いものが居住し,それぞれの地区にはそれぞれのスーユ(地方)の出身者が住んだ。素朴には,クスコは,フワカイパタという世俗的王権の中心,コリカンチャは宗教的中心という2つの中心をもつと理解できる。

ピサロはクスコ市設立を宣言すると,兵士たちおよび入植者たちのための街区を計画するが,クスコの市街地全体を大きくグリッド街区に改変することはしていない。教会あるいは修道院といった象徴的な建物は中心広場ハウカイパタ周辺に建設された。カテドラルが建設されたのはかつてインカの宮殿ヴィラコチャViracochaの場所である。ハウカイパタは 3つに分割された。一番大きいプラサ・マヨールはほぼ300ヴァラ四方である。

ピサロはリマを首都とするが,クスコは聖なる都市として,スペイン人とインカ人の統合の象徴であり続ける。しかし,クスコはインディオの襲撃を度々受け,また内戦が続いたために,さらに飲料水の問題があって,16世紀半ば頃は数百人のスペイン人が居住していたにすぎない。クスコが安定的に発展するようになるのは,フランシスコ・デ・トレドが着任して,インカ帝国を完全に滅亡させて以降である。リマの外港であったカジャオとポトシ銀山を結ぶ中継地となって以降である。1556年に,実に整然としたグリッド・パターンの都市として描かれたクスコの都市図が残されている(図2)。

17世紀初めにクスコ11の教区に分かれていたが,そのうちの8つはインディオの教区であり,人口は2万人に達しており,インディオはスペイン人の4倍であったと推計されている。1643年の地図が残されているが,市の北西の教区(サン・ペドロとサンタ・アナ)には草葺きのインディオの住居が建ち並んでおり,入植後100年を経てもインディオの町の雰囲気が維持されていたことがわかる(図3)。

クスコは,メキシコ・シティのように先住民の土着の都市を破壊せず,改造利用するかたちのスペイン植民都市のユニークな1類型である。

現在は人口約30万人の県都として、その歴史的景観を維持してきている(図4)。クスコ市街は、1983年、世界文化遺産に登録されている。

 

【参考文献】

『ペデロ・ピサロ・オカンポ・アリア-ガ ペル-王国史』大時代航海叢書第Ⅱ期16(岩波書店,1984年)

シエサ・デ・レオンCieza de Leon『インカ帝国史El Senorio de los Incas』(大時代航海叢書第Ⅱ期15,岩波書店,1979年)

ホセ・デ・アコスタJose de Acista『新大陸の自然文化史Historia natural moral de las Indias

ベルナベ・コベBernabe Cobo『新大陸の歴史Historia del Nuevo Mundo







2025年10月29日水曜日

アヴィラ:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日

アヴィラ:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日



 【アヴィラ】時を超えた城壁の都市

スペイン,カスティーリャ・イ・レオン州


  マドリードの西北西約90kmに位置するアヴラは、「城壁と聖人の町」として知られる(図1)。その起源は,スペインの先住民であるイベロ人とケルト人が混血したケルティベロの時代に遡り、紀元前500年頃の石像が発見されており、ヴェトン族が定住していたと考えられている。ギリシャ神話の英雄ヘラクレスによって建設されたという伝承をもつ。その名は、「イベロ人の土地」に由来するというが、ローマ帝国時代に「白い小部屋(Alba cella)」と呼ばれていたワインセラーの名が転訛したという説もある。

 プトレマイオスがその地理書に記すアブラAbulaAbla)がその起源と考えられ、ヒスパニアで最初にキリスト教化された都市である。ローマの植民都市となってアビラAbila(Abela)と呼ばれるが、典型的なローマ・クアドラータ(正方形のローマ)である。すなわち、カルドとデクマヌスという南北、東西の大通りが中央で交差し、中心にフォーラムが置かれる形態をしていたことは、現在も残されているローマ時代の城壁、東門、南門の遺構からうかがうことができる(図2)。

 西ローマ帝国が崩壊すると、西ゴートの支配下に入るが、714年にイスラームに占拠されると、北方のキリスト教国によって繰り返し攻撃され、無人の地と化した。住民が再居住するのは、1088年にレコンキスタが完了して以降である。この時、城壁を再建した建築家としてカサンドロ・ロマーノとフローリン・・デ・ピトゥエンガの名が知られる。旧市街の範囲は東西約900m、南北約450m、高さ平均12m、厚さ約3mの城壁で囲まれており、城壁はローマ帝国時代に建造された石塀の跡に沿って建てられている

 以降、アヴィラはカソリック王の下で、羊毛業を中心に栄えた。スペインの黄金時代、カルロスⅤ世とフェリペⅡ世のもとで全盛期を迎えている。

 17世紀になると低迷し、人口は4000人にまで縮小する。19世紀に入って、鉄道が敷設され、マドリードとフランス国境の町がつながれるとやや持ち直し、歴史的建造物を残しながら今日に至る。アヴィラは,ヨーロッパでも最もよく中世の城壁を保存する都市の1 つである。「アヴィラ旧市街と市壁外の教会群」は1985年に世界文化遺産に登録されている。

 旧市街の東端東門に位置するカテドラルは、1107年に創建され、その後増改築が行われてきたものである。創建当初のマスタービルダーとしてフランス人G.フルチェルの名前が知られる。東側のアプスは市壁の一部をなしている。翼廊は1350年の建設である。初期ルネッサンスの部分は、赤白の石灰岩でつくられ、ゴシック期の部分は白岩でつくられている。

 旧市街の東北市壁外に位置するサン・ヴィセンテ・バジリカは12世紀から14世紀にかけて建設されたものである4世紀に聖ヴィセンテとその姉妹が殉教したとされる場所に建てられており、イスラームの進出後は荒廃していたが、町を奪回したアルフォンソⅥ世によって再建されたものである。同じくG.フルチェルのデザインとされるが、基本的にはラテン十字のバジリカ様式を踏襲するものである。

サン・ホセ修道院は、1562年に建設された最初の修道院であるが、中心となるのは1607年に建築家フランシスコ・デ・モラ(15531610)によって設計された教会である。

サン・ペドロ教会は、市壁外に1100年に建てられたもので、サン・ヴィセンテに類似するラテン十字の教会である。他にサン・トマス、サン・セグンドなどロマネスク様式の教会が登録リストに挙げられている。

旧ローマ時代のフォーラムがあったプラザデルメルカドチコが市の中心である。市庁舎とサン・フアン教会がその中心に面している。近くに現在は美術館として用いられるドン・ディエゴ・デル・アギラの宮殿(ポレンティノス宮殿)がある(図4)。13世紀以降、時代ごとに手を加えられてきた4 つの住居で構成され それぞれ16 世紀から18世紀にかけて建設された邸宅、中庭式住宅である。すなわち、都市住居の基本は、スペインの他の都市同様、パティオ住宅である。

                                                                      (山口ジロ・布野修司)


参考文献

 志風恭子「アビラ旧市街と市壁外の教会」『スペイン文化事典』収録(丸善, 20111月)

増田義郎「地理」『スペイン』収録(増田義郎監修, , 新潮社, 19922月)

渡部哲郎「アビラ」『スペイン・ポルトガルを知る事典』収録(平凡社, 200110, 新訂増補)









 

 

 

布野修司 履歴 2025年1月1日

布野修司 20241101 履歴   住所 東京都小平市上水本町 6 ー 5 - 7 ー 103 本籍 島根県松江市東朝日町 236 ー 14   1949 年 8 月 10 日    島根県出雲市知井宮生まれ   学歴 196...