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2021年5月13日木曜日

 「京町家」再生というプロブレマティーク  京都型住宅モデル 魚谷繁礼(開拓者06)+魚谷みわ子(開拓者07)

 進撃の建築家 開拓者たち 第8回 開拓者0607 魚谷繁礼・魚谷みわ子(前編) 「京町家」再生というプロブレマティーク「京都型住宅モデル」『建築ジャーナル』 20174(『進撃の建築家たち』所収)


 

 「京町家」再生というプロブレマティーク 

京都型住宅モデル

   魚谷繁礼(開拓者06)+魚谷みわ子(開拓者07

布野修司

 

僕が魚谷繁礼君に出会ったのは、彼が京都大学2回生の時の設計演習である。本人によれば、その夏(1997年)、僕の誘いで布野研究室のスラバヤ調査を手伝ったという。それは覚えていて、帰りにブルネイに寄るというから変わってるなと思った記憶がある。魚谷君と言えば「鳥人間コンテスト」である。京都大学鳥人間チームShooting Starsのパイロットで飛行距離175.70m(10)の記録をもつ(1998年)。あっという間に琵琶湖に落下したと思っていたから、ウエブ・サイトで記録を確認して驚いた。毎日、自転車で比叡山に登るトレーニングを続けていて腿の太さに驚嘆したことを覚えている。1997年は、スラバヤ・エコ・ハウスの設計のために2度スラバヤを訪れているが、2度目のスラバヤから田園都市研究の一環でオーストラリアに行った時(917日~101日)だから9月末である。その時、安藤正雄、佐藤圭一、角橋彩子といったメンバーと一緒にオーストラリアで合流したのが、後に魚谷夫人となる正岡みわ子さんである[1]。みわ子さんは「家づくりの会」の藤原昭夫さんの「結設計」での修業経験がある。魚谷君の強力なパートナーである。

2005年に滋賀県立大学に異動してから頻繁に顔を合わす機会はないのだが、実はACup[2]仲間である。現在、僕は「フノーゲルズ」と「ブレーメン」という2つのチームに所属しているけれど、「れある・間取り・どう」(宮本佳明チーム)に属していた魚谷君はいつのまにかフノーゲルズのメンバーである。今でもグランドを走り回るスタミナはすごい。毎年会うたびに、いつか作品をみてくださいと言われ続けてきたが、ようやくその機会を得た(201611月)(図⓪ab)。


 

京都への拘り

五条の事務所を訪れると、滋賀県立大学出身の若松堅太郎君が仕事中であった(図①)。一緒にフィリピンのセブ、ヴィガンを調査した仲である。

ところで修士を終えてどうしたんだっけと切り出すと、いきなり手渡されたのが、上梓されたばかりの魚谷繁礼建築研究所『住宅リノベーション図集』(Ohmsha20168月。図②)と『地方で建築を仕事にする』(五十嵐太郎編、学芸出版社、20169月)である。後者には、これまでの仕事を振り返る一文が収められていた。後で眼を通して驚いた。20件ものプロジェクトが進行中である(http://www.uoya.info/ao/project.html)。しかも、既に図集が出る実績がある。この『図集』の内容がすごい。設計を始めて13年、約40にのぼるプロジェクトを手掛けてきた。そのうち8割強が京都の仕事である。そして感嘆するのが受賞の数々である[3]。その仕事が時代を射抜いている証左である。案内に従って、「京都西部教会」(X)と発表前の北区の「旧A家住宅+湯堂」(図③ab)、そして自邸である「永倉町の住宅」(図Yab)を見せてもらった。その仕事は、住宅のリノベーションから住宅以外の設計に、そして京都以外の仕事へと拡がり、多様化しつつある。



しかしそれにしても、京都への拘りはすごい。

その執念は、修士論文『京都のグリッド(街路と街区)に関する研究』(2003年)に遡る。先の一文によれば「大学院を修了する際、布野先生から、じゃああなたはどのような建築を京都に設計しますか、問われた時にまとまった考えを返せなかったことが悔しく、まずは現代の京都でモデルとなる建売住宅や集合住宅を設計しようと考えた」という。魚谷君は、安藤忠雄のところでアルバイトをしていて、事務所に欲しいと誘われていたから、ちょっと意外である。そう言ったかどうか具体的な記憶はないけれど、京都を拠点とする研究室が京都をターゲットとするのは当然ではある。



 

グリッド都市・チャクラヌガラ

 布野研究室にいてアジアの都市を歩くうちにグリッド都市に関心を持つようになったというが、僕自身が当初からグリッド都市に興味があったわけではない。研究室の流れにはそれなりの前史がある。いささか遠回りになるけれど、魚谷君の圧倒的な作品群を位置付けるためにも振り返っておこう。

19791月に東南アジアを歩き出して、その一応の成果として学位論文をまとめたのは1987年である。思いもかけず日本建築学会論文賞を受賞する[4]。そして、京都大学に招かれることになった(19919月)。直接のきっかけとなったのは、文科省の重点領域研究「比較の手法によるイスラームの都市性の総合的研究(イスラムの都市性)」(198890年、代表:板垣雄三)である[5]。すなわち、布野の原点はカンポン(都市村落)研究である。

京都大学でカンポン(アジア都市建築)研究のさらなる展開が求められたことは当然であるが、すぐさまインドネシアのロンボク島に向かうことになる。「ロンボク島の都市・集落・住居とコスモロジ-」というテーマで応募して採択されていたのである[6]。当時修士1回生であった脇田祥尚(現近畿大学教授),牧紀男(現京都大学教授)の両君を連れてロンボク島に行ったのは京都に移住して半年も経たない1991年の12月である[7]。そして、ロンボク島で発見したのがチャクラヌガラという格子状の都市であった(図④⑤)。



 何故、ロンボク島なのか。掲げたのは、イスラームの空間原理とヒンドゥーの空間原理を比較するといういささか大胆なテーマであったが詳細を決めていたわけではない[8]。脇田祥尚、牧紀男の両君はそれぞれロンボク島の集落と都市すなわちチャクラヌガラについて修士論文を書いた[9]。今や2人とも当時の僕の年齢を越えるがロンボク島は思い出深いと思う。

東洋大学時代から京都大学にいくつか持ち込んだことが他にもある。「木匠塾」[10]がそのひとつであり、そのベースとなった住宅生産組織研究もそうである。木匠塾は現在も続けられているが、魚谷君は、「デコン」風の神社の拝殿を設計し、自力建設している。変なもの作るなあと当時は思っていたけれど、なかなか味がある作品である(図⑥ab)。秘めたる表現への原初的欲求を窺うことができるように思う。

   



僕が勝手に位置づけるとすると、カンポン―チャクラヌガラーグリッド都市ー京都-住宅生産組織-木匠塾の流れを実践的に統合しているのが魚谷君の仕事である。

 

建都1200年の京都

 チャクラヌガラについて驚いたのは、街区割(坊の宅地分割)が平安京(四行八門制)に似ていることであった。平安京の都市計画、街区(坊)構成、町家の成立をめぐって俄か勉強したことを思い出す。当時、足利健亮、高橋康夫の両先生の間で、「筋」、「辻子」そして「突き抜け」の位置づけをめぐる論争も展開されてもいた[11]。京都という世界でも有数のグリッド都市で暮らすことになり、チャクラヌガラというグリッド都市と遭遇したことによって、グリッド都市は、思いもかけず、その後一貫して追いかけるテーマとなる[12]

 グリッド都市・京都は、しかし、一筋縄ではいかない古都であった。

 1990年代初頭、建都1200年を迎える京都は、京都ホテル、そして新京都駅ビルの建設をめぐって景観問題で揺れていた。この間の京都をめぐるホットなテーマは、研究室あげて『建都1200年の京都』(布野修司+アジア都市建築研究会編,建築文化,彰国社, 19942月)にまとめることになった。また、京都の将来をめぐるグランドヴィジョンのコンペにも関わった(図⑦)。


まず、調べたのは祇園である。バブル経済の残り火がまだ暖かく、特に祇園北には、ポストモダン風の店舗ビルがどんどん建ち並ぶ状況であった。法務局に行って土地登記簿を調べると東京資本が流れ込んでいることが歴然としていた。祇園南はそのほとんどの土地を八坂如紅場学園が所有しており、大きな動きはない。土地所有の形、土地の形が大きく都市を変えることを具体的に学んだ。祇園については、都築知人君(現JR西日本)が修士論文『京都祇園における歴史的環境保全に関する研究―遊住空間の構造とその変容―(2003)を書いた。

  

町家再生のための防火手法

 一方、都心の山鉾町(田の字地区という呼称はまだなかった)では、そこら中に空地があり、駐車場となっていて、町家の建て替えによるマンション開発が大きな問題になっていた。魚谷君は京都の町中を隈なく歩いたというが、僕もまた京都を歩き回ったことは言うまでもない。母胎となったのは、西川幸治先生のグループを中心とする「保存修景計画研究会」である。「保存修景」そして「地域文化財」という概念を確立するとともに日本の伝統的町並みの保存を先導したといってもいい西川スクールのOBOGを含めた研究会が定期的に開かれていて、京都の景観問題は中心的テーマであった。京都市役所にいてその最前線にいたのが、後に文化庁に異動することになる苅谷勇雄さんである。また、町家再生のための「町家防火手法研究会」(委員長 西川幸治)が横尾義貫、堀内三郎といった重鎮をもメンバーに結成され、並行して、阪神淡路大震災後にはNPO法人となる「京町家再生研究会」(会長 望月秀祐)が立ち上げられた。いずれも、委員に指名され、否が応でも京都の景観問題、町家再生問題と向き合わざるを得なかったのであった。

 「町家防火手法研究会」がずばりテーマとしたのは、伝統的な京町家をそのまま現代の京都で建て続けるためにはどうすればいいか、ということである。すなわち、京都の都心には建築基準法の防火規定があって、防火材料を用いなければならないのだが、耐火被覆したり、新建材を用いるのは京町家ではないという、いかにも「京都的」な問題設定ではあった。僕が主査として担当したのは、町家再生のための制度手法である(前提条件等の整理WG)。室崎益輝先生を主査とする別のグループが担当したのは防火そのものの手法である。火災が発生した場合には水をかければいいではないかと、外付けのスプリンクラーをつけることを提案、耐火試験を行った。水をかければ燃えない、のは当然である。実験は成功である。橋弁慶山の町会所には外付けのスプリンクラーを実装することになった(図⑧abc)。しかし、スプリンクラーの作動について担保性がないから、建築基準法上認められないというのが建設省の対応であった。


京町家再生不可能論

 制度手法の検討の詳細については、報告書(『町家再生に係る防火手法に関する調査研究』(19843月)図⑨)もしくは『裸の建築家』(「第6章 建築家とまちづくり」「4 京町家再生論」)に譲るが、文化財保護法98-2あるいは83-3による方法、建築基準法3-1-3の「その他条例」の制定による方法、38の大臣認定による方法など、要するに、京町家を「文化財」として位置付ける必要があった。いまでは、特区制度や緩和規定が使えるようになったが、防火規定は如何ともしがたい。建設省の住宅局(建築指導課)にも掛け合ったが打つ手なし、「木造亡国論」は根強く、一国二制度はまかりならん、というのみであった。いいささかヤケクソの結論は、都市計画区域を変更してしまう、というものであった。その理論構築を行ったのは鎌田啓介(現大阪市)君の修士論文『京町家街区再生論』(1995年)である。建築基準法の防火規定を守ったからといって文化財が火災から守れるわけではない。火災が起きたら消さなければならないというのが消防署の立場である。街区で防火を担保すればいい、というのがその骨子である。













  しかし、阪神淡路大震災が起きた。

  防火規定を外すなどとんでもない、という流れになるのであった。

昨年25周年を迎えた「京町家再生研究会」についてはここで触れる余裕がない(http://www.kyomachiya.net/saisei/[13]。「京町家」をめぐる課題は一貫している。そもそも「京町家」とは何か、そして再生とは何か、報告書では原理的にも考えた。ただ保存修復すればいいのか、単体でいいのか、街区で考えるべきか、・・・。そもそも「京町家」を再生させる職人がいないではないか。「京町家再生研究会」が「京町家作事組」を発足させたのはそうした問題意識からである。

 

京都型住宅モデル

さてようやく魚谷君の仕事である。

初めての仕事は神戸三宮駅近くのビルの一室に開業するマッサージ店の内装であったというが、デビュー作となったのは、「京都まちなかこだわり住宅設計コンペ」の一等入選作(20052007年)である(図⑩abcde)。魚谷繁礼・正岡みわ子・池井健の3名による応募である。3人はそれ以前から京都市内の架空の敷地に現代にふさわしい京都型住宅の設計案を勝手に検討していたのだという。

先の一文には、他案が「庇や格子など街並みを表面的に形成するデザインコードのあり方や、通り土間や坪庭を現代風にアレンジしたプランニング」をテーマにする中で、「京都特有の地割りの現況を読み解き、その敷地における建物配置について重点的に提案し、それが評価された」という。具体的には、「街路側(オモテ)に建物を建て、街区中央側(ウラ)に庭をとり、そのような建て方が集合することで、オモテに壁面線が整った街並みが形成され、ウラにまとまった空地が連坦する、その空地を街区居住者の共有地に当てる。そこで年寄りが子供の面倒をみて子供が年寄りの世話をするような相互扶助の場となることを期待する」という提案である。

「京町家」再生論も再生不可能論も「京町家」を前提にしての議論であった。先の報告書も京町家独特の類型を確認している京町家のデザイン・ヴォキャブラリーを列挙している。しかし、それを再生するのは最早不可能であるというのが町家再生不可能論である。魚谷チームの提案は「眼から鱗」の感がある。

しかし、敷地の使い方という提案だけであればいくつもの解答がありうる。そして、それは必ずしも「京都特有の地割り」というわけでもない。「京町家」によく似た都市型住居はにほんのみならず世界中に見ることができるのである。これまでの仕事を振り返る一文のタイトルは「特殊解ではない、社会的な提案を孕む建築」である。いかにも魚谷君らしいが、果たして、一般的な解といえるのか。見るところ、この提案のオリジナルは2間間隔の壁柱による壁構造システムにあると思う。建築確認がそのままには得られなかったというが、ひとつの構法システムの提案である。

「伝統的」「京町家」に拘らないとすれば、いくつかの提案は他にもありうるし、事実、町家型集合住宅モデルのような型が提案されてきた。問題は、京都のまちなかの未来像が分裂していることであり、今でもそうではないか。あるものは「京町家」をそのまま再生せよと言い、あるものは通りに面する部分は2階立てに押さえ、「アンコ」の部分は高くしていい、という。







[1] 魚谷君は今年40歳、昨年から母校京都大学建築学科の非常勤講師を務めている。僕が京都大学に異動したのは42歳、僕が最初に出会った時2回生だった渡邊菊真(開拓者01)や平田晃久(京都大学准教授)のような建築家の卵たちと魚谷講師は出会っていることになる。まさに時はめぐる感がある。

[2] 2001年創設の建築界のサッカー大会。事務局長馬場正尊。滋賀県立大学を中心とするフノーゲルズは、2006年より参加。準優勝2回。布野はBOPBest Old Player)賞を2回獲得。https://www.facebook.com/ACUP2001/

[3] 2016年 京都デザイン賞2016 京都市長賞/2015年 京都デザイン賞2015 京都府知事賞/2013年 京環境配慮建築物顕彰制度 優秀賞/2012年 日本建築家協会関西建築家新人賞/2011年 大阪ガス住宅設計アワード2011 特別賞/2011年 京都デザイン賞2011 京都府知事賞/2009 SDレビュー2009 入選/2009年 環境デザインアワード2009 環境デザイン優秀賞/2009年 環境デザインアワード2009 ベターリビングブルー&グリーン賞/2008年 田舎暮らし構想究極の住まい設計コンペ 優秀賞/2008年 日本建築家協会優秀建築選2008 入選/2008年 木材活用コンクール 住宅部門賞/2007年 臼野古民家村構想デザインコンペ 最優秀賞/2007年 都市住宅学会賞 業績賞(現代京都都市型住居研究会)/2007年 地域住宅計画賞 奨励賞(現代京都都市型住居研究会)/2006年 京都まちなかこだわり住宅設計コンペ 最優秀賞。

[4] 『インドネシアにおける居住環境の変容とその整備手法に関する研究-ハウジング計画論に関する方法論的考察』(東京大学)。198711日に書き始めて、毎日書き続けて、3月末には仕上げた。最後は2週間ぐらい研究室に泊り込みで、布野研究室メンバーが図表の作成など総出で手伝ってくれた。当時、パソコンがようやく使えるようになっていたが、『群居』と同じやり方で、印字16ドットでプリントアウトして切り貼りするスタイルであった。手書きの原稿を朝渡すと夕方プリントアウトされて手直しするという突貫工事であった。M2の北川実君が自分の修士論文そっちのけでタイプしてくれた記憶がある。何故、そんなことになったかというと、提出する指導教官である鈴木成文先生が1987年度で退官することが決まっており、学位を得たければ3月末までに提出するようにという厳命を受けていたからである。運よく198712月には学位を得ることができた。いわゆる「駆け込み博士」である。思いもかけず日本建築学会賞を受賞するのであるが応募したわけではない。現在と制度が異なり、公募制ではなかった。また、40歳以上が受賞資格になった最初の年であるが、僕の論文は38歳の時のものである。心当たりは、古川修(当時京都大学教授)に学位論文をお送りしたことぐらいである。学会で知り合って、同じ山陰、米子と松江の出身というので親しくして頂いて、年一回、国立のお宅に、住宅生産組織研究会のみんなでお邪魔していたのであるが、古川先生がその年の建築学会論文賞の審査委員長であることを知ったのは受賞後のことであった。学位論文の内容を一般的向けにまとめた『カンポンの世界 ジャワの庶民住居誌』(Parco出版、図①)を上梓するのも19917月である。出版を勧め、編集の労をとってくれたのは寄せ場学会をともに立ち上げた元朝日新聞編集者中西昭雄(1941年東京生れ。1965年、朝日新聞社入社。『アサヒグラフ』『週刊朝日』『朝日カメラ』などの編集に携わる。1980年、朝日新聞社退社。1983年、月刊誌「ペンギン・クエスチョン」(現代企画室)創刊。1985年、編集工房「寒灯舎」設立。著書に『名取洋之助の時代』(朝日新聞社、1980年)、『シベリア文学論序説』(寒等舎、2010年)。)さんである

[5] 研究グループは数人の班で構成されたが、僕が属したのは「C班 景観」で、班長は応地利明先生であった。応地先生には、その後数多くのフィールドワークをともにし、様々な教えを受けることになるが、開始の年(1988年)はアフリカのマリ、トンブクトゥを中心とする長期の臨地調査で不在で、班長代理を務められたのが、3年後に僕を京都大学の地域生活空間計画講座に招くことになる西川幸治先生(1930年彦根生まれ。京都大学名誉教授。滋賀県立大学名誉教授・元学長。著書に『日本都市史研究』『都市の思想保存修景への指標』『仏教文化の原郷をさぐる-インドからガンダーラまで-』『彦根の町の歴史-都市の記憶を読む-』『近江から望みを展く』『城下町の記憶-写真が語る彦根城今昔』など)である。

[6] 3年間、「イスラームの都市性」研究で数多くの研究会に参加して実に楽しく多くを学んだけれど、一度も研究発表しなかった。その罰として最後の総括シンポジウムでC(都市と景観)班代表のパネリストに指名されて、「イスラームはわかりません。スラムのことなら多少わかります」とやって大爆(苦)笑されたことを思い出すが、あまりに楽しかったので、C班メンバーの応地利明(1938年大阪生まれ。当時京都大学文学部教授。人文地理学、地域研究。専攻は人文地理学で、アジア・アフリカ地域研究を主要な研究領域とするが、最近は地理学史・地理思想史に関する著作も多い。『絵地図の世界像』(1996年、岩波書店)『「世界地図」の誕生 地図は語る』(2007年、日本経済新聞出版社)『都城の系譜』京都大学学術出版会 2011『生態・生業・民族の交響』中央ユーラシア環境史 臨川書店 2012))、金坂清則(1947年滑川市生まれ。当時大阪大学教授。都市歴史地理学、地域構造、イザベラ・バード論。1970京都大学文学部史学科人文地理学専攻卒業。1975京都大学大学院文学研究科地理学専攻博士課程単位取得退学。1975福井大学教育学部講師、助教授、1987大阪大学助教授、1993教授、1996京都大学人間・環境学研究科教授、2012に定年退職、名誉教授。2013年度 イザベラ・バード『完訳 日本奥地紀行』で日本翻訳出版文化賞受賞。)、坂本勉(1945年山梨県生まれ。当時慶応大学教授。トルコ史、中東史学1969年慶應義塾大学文学部東洋史専攻卒業、75年同大学院文学研究科博士課程満期退学。1974年慶大文学部助手、81年助教授、91年教授、2011年定年退職、名誉教授。『トルコ民族主義』『イスラーム巡礼』『ペルシア絨毯の道 モノが語る社会史』『トルコ民族の世界史』『イスタンブル交易圏とイラン 世界経済における近代中東の交易ネットワーク』など)を中心に研究助成を探したのであった。

[7] 199112061225 インドネシア Nagoya Denpasar Mataram Surabaya Denpasarロンボク島調査1:ロンボク島の都市・集落・住居とコスモロジ-(住宅総合研究財団):応地利明・布野修司・脇田尚祥・牧紀男   199209080925 インドネシア Nagoya Denpasar バリ島調査Mataram Surabayaロンボク島調査(2)チャクラヌガラ調査(牧紀男 修士論文)デサ・バヤン調査(脇田尚祥修士論文)スラバヤ調査 ジャカルタ調査(堀喜幸修士論文):ロンボク島の都市・集落・住居とコスモロジ-(住宅総合研究財団):布野修司・脇田尚祥・青井哲人(Ujung Pandang Badui)・牧紀男 ・松井宣明・堀喜幸・神吉優美

[8] ロンボク島は、イスラームが支配的なインドネシアで今なおヒンドゥー教が優勢なバリ島のすぐ東に位置する。近接するけれど両島の間の海峡は深く、ウォーレス線が走って、東西の動植物の生態はアジア区とオセアニア区で大きく異なることで知られる興味深い島だということは知っていた。しかし、チャクラヌガラの存在など全く知らなかった。ロンボクへ向かう飛行機の中で、どの集落をターゲットにしましょうかと応地先生が拡げた京都大学地理学教室所蔵の印のある地図(日本陸軍陸地測量部作製1942年、図⑥)に実に整然とした都市が描かれている。これですねと即決したのであった。18世紀初頭にバリのカランガセム王国の植民都市として建設されたこのチャクラヌガラについては、その後インドにフィールドを拡大することになる重要な意味をもつのであるが、その成果についてはここではおこう。

[9] 牧 紀男『インドネシア・チャクラヌガラの都市構成に関する研究―ヒンドゥー都市理念の比較考察』(京都大学修士論文、1993年)、脇田祥尚 修論『住居集落の構成原理に関する研究―インドネシア・ロンボク島を事例として―』(京都大学修士論文、1993年)。

[10] 当初は飛騨高山木匠塾と称した。1991723日~29日に第1回インターユニヴァーシティ・サマースクールを岐阜県高根村で開催、以降、加子母村に移転するが今日も継続されている。

[11] 『京都新聞』に求められて最初に書いた原稿が「ロンボク島の格子状都市」(19921021日)である。

[12] チャクラヌガラがヒンドゥー文化圏の東端に位置するとすれば西端で同じ18世紀前半に建設された都市がジャイプル(インド・ラージャスタン)であると知るやフィールド調査に出かけていって、さらに南インドのマドゥライを調査して、結局『曼荼羅都市』という本を書いた。さらには、西欧のグリッド都市のシステマティックな展開であるスペイン植民都市の系譜を追いかけて『グリッド都市』を書いた。そしてとうとう平安京のモデルである中国都城の系譜を突き詰めて『大元都市』を書くのである。

[13] 1号は平成7年2月1日発行と記されており、あとがきにはその年1月17日の阪神淡路大震災のことが書かれています。当時の編集担当であった会員の磯野英生氏が西宮北口駅から新神戸駅までを、同じく会員であった布野修司氏とその研究室学生さんと歩かれた様子が記されており、激しい破壊と感じておられたことに加え、これが京都で起こったなら壊滅的な状況になることは明らかであると書かれています。あわせて、京町家の再生を目指す我々は重い課題を背負い込んだとされ、だからこそ我々は進まねばならないとの意思表明をされています。京町家再生研究会のはじまりは震災が大きくかかわり、木造の構造が課題となり、京町家の安全と防災は今も継続した大きな課題です。」(小島 富佐江(京町家再生研究会理事長))

2021年5月12日水曜日

追悼 毛綱毅曠・・・始源の形態言語へ

 始源の建築言語へ,追悼毛綱毅曠,建築文化,200112

 

追悼 毛綱毅曠・・・始源の形態言語へ

布野修司

 


 毛綱さんの葬儀の日はシンガポールへの機上であった。南シナ海の上空で冥福を祈った。

 毛綱さんとは浅からぬ縁である。

 しかし、最初に会ったのはいつだったかはっきりしない。印象的な記憶の断片を辿ってみると、新宿の安酒場で、石山さんの紹介ではなかったか、と思う、けれど確信はない。神戸大の後輩、平山さんが一緒だった。当時、石山、毛綱は、六角、石井を加えて、婆娑羅の会などという不穏な四人組を結成したころではなかったか。石山さんは、毛綱さんと組んで、『建築』誌に奇怪な建築を連載していて既に知り合いだった。あるいは、最後まで毛綱さんの同志であった渡辺豊和さんを通じて知り合ったのかもしれない。

 もちろん、それ以前から、毛綱モン太の名前は僕たちには有名だった。今でも『都市住宅』誌で見たプロジェクト「給水塔の家」は鮮烈である。「日吉台の協会」なども印象に残る。生前告白したことはなかったが、学生時代には毛綱ファンであったのだ。僕だけではない。関西に三馬鹿(渡辺豊和、安藤忠雄、毛綱モン太)あり!と東京の学生たちの間では囁いていたのである。 

 毛綱と言えば「反住器」(1972年)であろう。僕は、この傑作「反住器」の最下層に泊めて頂いたことがある。このキューブが三重に入れ子になった建築のプランを読むのはなかなかに大変で、何度も学生の課題(平面図から断面図を起こす)に出したものだ。実際は実にこじんまりと心地よい空間であった。極寒の釧路なのに随分と暖かったことを思い出す。「釧路市立博物館」で日本建築学会賞を受賞し、釧路三部作(弟子屈博物館(アイヌ資料館)、湿原資料展望館)が完成したころである。10年の間、背広をつくる余裕もなかった、と母上がふともらされた。母上自ら仕事をお願いしにいったこともあると聞かされた。オイルショック以降の十年、当時の若い世代の建築家にはほんとに仕事がなかった。バブル期に育った建築家にはおそらく想像できないだろう。食うことより表現に賭けた世代が日本建築のモストモダンを切り開いたのである。

関西では食えない、と上京した頃であろうか、本格的につき合いだしたのは。最初に事務所に行くと、ヨーロッパ帰りの高崎正治がいた。上京まもなく、下北沢の永正寺を見せて頂いて批評を書いた記憶がある。 

 毛綱さんの毒舌は筋金入りだった。『新建築』誌の月評での罵詈雑言は評判であったが、実際はあれ以上だった。罵倒するかと思うと、全く素面なのに、雑踏の中でいきなり土下座して「よろしくお願いします」などとやる。ほんとに婆娑羅大名のような人であった。また、知る人ぞ知るだけれど、人相、骨相、手相など人を読むのは達人であった。姓名判断もやる。毛綱さんと話していて見透かされているという思いをしたのは一度や二度ではない。怖いお兄さんだったけれど、何故か人なつこいところもあった。本名は一裕だけど、また、毅曠に改名しても、「モンちゃん」と呼ばせて頂いた。

建築を読むのももちろん達人であった。風水師、風水建築師ということでは六角鬼丈や渡辺豊和も一目置くだろう。そのコスモロジーの展開にしばしば口を挟む機会があったがいつも煙に巻かれる思いをした。阿部清明についての著作もあるが、時空を瞬時に行き来する役小角のような存在でもあった。毛綱さんは随分一般向けの本を書いた。早い段階で、狭い建築の世界を突き抜けてしまったようにも思える。

建築の形態をその根源において考える、その発想は終生変わらなかったように思う。始源の形態言語に毛綱さんは興味を抱き続けていた。そして、古今東西の建築をその眼で読み解いていた。ジャイプルのジャンタルマンタル(天文台)などへの興味は当然として、あれは金鶏抱卵形だよという平等院の解釈になるほどと思ったことがある。下田菊太郎に興味をもっていたことも思い起こされる。単なる丸三角四角を操作する次元ではない。形態にはコスモスが想定されているのである。とにかく、建築(デザイン)の商品化を峻拒する形態の迫力が魅力であった。

 東洋大時代に、何年か、設計製図の授業を二人で持った。夫人はその時の学生、智恵子さんである。「地球の臍をデザインせよ」などという課題を出すので、それを言葉で学生につなぐのに四苦八苦した記憶がある。それはしかし僕にとっても随分いいトレーニングであった。建築については随分多くを教わった。いくつかの作品について批評させてもらったけれど、彼の建築は何よりも面白かった。技術や収まりを超越した建築の論理が魅力であった。

 京都に移って、さすがに会う機会は減ったが、豊和さんとはいつも「モンちゃん」の動向が酒の肴であった。「最近のモンちゃんの作品、力がないねえ」といった会話である。ポストモダンの時代が去り、時代は、ネオモダニズムなどと称する小綺麗な工業バラック作品が支配する。毛綱さんは何を考えていたのであろうか。

一度大病をされたと聞いて心配していたけれど、二年前に講演に見えて京都で会ったときには、相も変わらず毒舌の毛綱さんであった。

 日本におけるコスモロジー派の命脈をこれからさらに太く築くそんな期待があっただけに実に無念である。合掌。

 


2021年5月11日火曜日

 ソーシャル・ファイナンスト・デザインの可能性 「ミツハマル」プロジェクト

 進撃の建築家 開拓者たち 第7回 開拓者05 岡部友彦(後編) ソーシャル・ファイナンスト・デザインの可能性 「ミツハマル」『建築ジャーナル』 20173(『進撃の建築家たち』所収)


 

 ソーシャル・ファイナンスト・デザインの可能性

「ミツハマル」プロジェクト

布野修司


 

「地域を活性化するのに建物や特産物など“モノ”を再生することは第一義的な課題ではないだろう・・・地域の現状に対し、まず何が“資源”となりえるかを再発見することにより、その地域特有のビジネスやしくみなどの“コト”を創り出し、無理なく継続できる環境作りをすることで、その地域に活力を取り戻すことが大切なのではないか。そして、その“コト”が、継続して行なわれることにより、物質的な“モノ”が築き上げられていく。このように元来の街やコミュニティの形成過程とも考えられる一連の流れを、地域や建築に再投入することによりデザインしていくことが必要なのではないか。」(「影のデザイン」10+1 Ten Plus One No.45 200612

全ての地域が共有すべき指針と言っていい。全く異議なし、である。30歳を前にした岡部友彦の達観に脱帽である(図⓪)。

 


地の人、風の人、火の人

『裸の建築家』(2001年)で「タウンアーキテクト」制を提起し、コミュニティ・アーキテクト制のシミュレーションとして京都CDL(コミュニティ・デザイン・リーグ)の活動を展開したこと、そしてその運営委員長を務めたのが渡辺菊眞(開拓者01であったことについては既に触れたが(第2回、201610月号)、実はその活動を支援してくれたのはゼロ・コーポレーションという京都を拠点とする地域ビルダー(住宅開発建設会社)であった。『京都げのむ』という機関紙を発行することができ、通常の大学の研究室活動を超える展開ができたのはその支援があったからである。

コミュニティ・アーキテクトの仕事というのは本来自治体の仕事である。当初イメージしていたのは、「タウンアーキテクト」すなわち地域のヴィジョンを計画立案実施していく存在であり、また、その方向をリードしていくマスターアーキテクトのような存在であった。しかし、都市計画審議会とか建築審議会など形式的な審議会システムを前提とする日本で、そのいきなりの実現は望むべくもなく、既存の制度をそれぞれに活用しながら、多様な仕組みができればいい、というのが本音であった。しかし、「コミュニティ・アーキテクト」制といった仕組みを行政システムに組込むことがなんとなく前提とされていた、と振り返って思う。コミッショナーであった広原盛明先生が京都市長選に打って出たのもそうした流れである。山本理顕さんが仕掛けた国交省の「(仮称)建築・まちなみ景観形成ガイドライン」検討委員会[1]2007年度)に期待したが、制度先行ではなかなかうまくはいかない。

京都CDLの後、滋賀県立大学で「近江環人コミュニティ・アーキテクト」という大学院の人材育成プロジェクト(図①②)に関わることでより具体的に問われることになったのは、コミュニティ・アーキテクトというプロフェッションは如何に成立するか、という問題である。要するに、どうやったら食えるか、報酬はどこから得られるのか、という問題である。




そして、もうひとつは、コミュニティ・アーキテクトは、「地の人」(地域に土着し生活する人なのか)、「風の人」(地域を繫ぐ人、伝道師なのか)、「火の人」(焚きつける人、アジテーター)なのか、ということである。

ひとつの答えとして、コミュニティ・アーキテクトの具体像として考えられたのは首長である。嘉田由紀子知事が政治塾(未来塾)を立ち上げたときには連携しようという話もでた。滋賀県には県を含めて20の自治体があるのだが、まずは20人の首長を育成すればいいというわけである。建築学科の同級生の森民夫が長岡市長を務めていることも念頭にあった。

コミュニティ・アーキテクト=自治体の職員ということにはならないであろう。また、自治体の仕事を補助するということならば、各種シンクタンクやコンサルタント会社と同じである。コミュニティ・ビジネスというけれど、どうすればビジネスが成り立つのか。コミュニティ・アーキテクトという理念はいいとしても、現実的には余暇や片手間の、あるいは老後のヴォランティア活動の域を抜けれきれず、突破口が見つからない。とにかく動きながら考えよう、意義が認められれば職能として成り立つであろうというのが結論にならない結論であり続けた。

 

BBBCCGC

「影のデザイン」と題された文章で、岡部は、寿町の生活に関わる医・衣・食・職・住という5つの全ての分野について、複数の企業体がそのミッションを共有しながら連携するNPO法人「さなぎ達」の活動と組織体制を評価した上で、さらに2つの海外グループについて触れている。

ロンドン郊外の難民居住地区ブロムリー・バイ・バウ・センター(BBBC1984年設立:https://en.wikipedia.org/wiki/Bromley_by_Bow_Centre)(図③)のコミュニティ再生の試みとニューヨークのコモングラウンドセンター(CGC1983年設立:http://www.commonground.org http://www.breakingground.org/)のホームレスの社会復帰支援の活動である(図④)。岡部が着目するのは、2つのグループとも活動資金を自ら得る経済的仕組み、すなわち企業活動を前提としていることである。



ブロムリー・バイ・バウは、ロンドンの東部にある、戦争や紛争で、東欧や中東、アフリカなどから逃れてきた難民が暮らしている地域として知られる。多くの民族が住み、失業率も高く、治安の悪化も深刻な地域であったという。この地域の環境改善のために1980年代に組織化されたのがBBBCである。「さなぎ達」と同様、学童保育、セラピーなどの福祉サービスのために複数の企業体、グループが連携する。いずれもビジネスとして行われ、その収益の一部が、センターの運営資金にまわされる仕組みである。

アーティスト・オリエンティッドのBBBCは、デザイン活動で得た資金を基に、子供たちの学童保育や、カルチャー教室、セラピーなどの福祉サービスを行う。地域、街路などのランドスケープデザインやカフェテリアなどの建築デザイン、グラフィックデザイン、遊具のデザインやパブリックアートを手掛ける。センターに併設されたアトリエを廉価に提供するかわりに、カルチャー教室の先生や、デザインなどの指導をしてもらう。さらに、ストリートファニチャーや家具など、質の高い製品を作成、販売を行なう[2]

コモングウランドCGCは、ニューヨークのタイムズスクエアを本拠地とする(図④)。NPO法人であるが、その活動はディヴェロッパー的である。ホームレスの社会復帰のために、タイムズスクエア周辺にあるホテルを購入、宿泊機能、健康管理施設、カウンセリング室などを持つ総合的な施設へと変貌させたのである。そのホテルは、かつては高級ホテルであったが、80年代以降荒廃し、閉鎖された後ホームレスのたまり場となっていたものである。その活動は、行政が区域内の不動産所有者から改善のための負担金を税金として徴収する地域経済改善地区制度BIDBusiness Improvement District)と結びつき、地区の清掃、警備、プロモーション等を地区に委ねる仕組みにつながる。そして、CGCはさらに2軒のホテルを買収、他地域へ活動を展開しつつあった。このBBBCそしてCGCの活動は寿町再生プロジェクトに大きなヒントを与えてきた。 

ミツハマル

  寿町でのまちづくりが多様に拡がりを見せる中で、新たな展開の機会が訪れた。愛媛県松山市の三津浜に呼ばれるのである。三津浜への展開は、寿町再生プロジェクトに関わったスタッフが生まれ故郷に拠点を移したのがきっかけという。古くから松山の玄関口として知られるが、全国の地方都市と同様少子高齢化とシャッター商店街に悩む。昭和初期の民家が残るが、空き家だらけである。

岡部友彦が採ったアプローチは基本的には寿町と同じである。少なくとも、「地域の現状に対し、まず何が“資源”となりえるかを再発見することにより、その地域特有のビジネスやしくみなどの“コト”を創り出し、無理なく継続できる環境作りをすること」という基本姿勢は変わらない。まず、「ミツハマル」という拠点をつくった(図⑤⑥⑦)。ミツハマルは、コトラボ合同会社が松山市から受託して運営する事務所およびウエブ・サイトの名称で、「三津+ハマル」=三津にハマる人を増やそうという意味が込められているという。そして、ここでもプロモーション・ヴィデオをつくった。コトより始めよ、である。地域住民を主体とすることは原則である。自治体とも連携する。「ミツハマル」の取り組みも「三津浜にぎわい創出事業」や「地域における草の根活動支援事業」といった助成金と連携しながらの展開である。




三津浜再生プロジェクトは、古民家活用のまちづくりによる低炭素社会の実現をうたう。また、里山・里海を含めた地域循環をうたう。古民家を自ら修復、回収するためのDIYワークショップや伝統的な空間の良さを体感する古建築見学ツアーなどのメニューからなるが、中核となるのは三津浜町家バンクである。地域の空間資源としての町家を発掘し、見直し、リノヴェーションし、その空間を利用するユーザーとのマッチングを行う。昭和戦前期に建てられた医院を買い取って自前で改修してテナントに貸し出した(図⑧⑨⑩⑪)。今のところ順調に滑り出したというが、他の地域の同様の試みをみても必ずしも楽観はできない。地方の再生もまた容易ではないのである。

しかし、「ミツハマル」の強みは、自前で拠点となる場所をつくり、自己資金で町家を改修し、テナント収入などで資金を回収する、そして活動を持続する仕組みをつくりあげつつあることである。






 

ソーシャル・ファイナンス・システム

 寿町の抱える問題の位相と地方の少子高齢化に悩む市町村の問題の位相は、考えてみれば、そうかけ離れているわけではない。日本社会の東京一極集中構造の「影」が地方であり、大東京の「影」が寿町(であり山谷)であるとすれば、寿町は日本の「影」の縮図である。ということは、寿町のまちづくりについて考え、実践してきたことは、地方都市のまちづくりについても多大なるヒントになる筈である。三津浜再生プロジェクトの進行がそれを具体的に示していると言えるだろう。

 岡部友彦が今考えているのは、ソーシャル・インパクト・ボンドのような仕組みである。

そうした状況に対して、岡部は、社会的課題に対してきちんと報酬を払って仕事として成立させる仕組みをつくる必要があるという。イギリスのソーシャル・インパクト・ボンドは、財政難に悩む官からの発想である。社会的インパクトある仕事に対して投資を募り、投資家から調達した資金を基に、行政サービスを民間のNPOや「社会的事業者」に委託し、事業が成果を挙げた場合にのみ削減された行政コストに基づいて投資家に報酬を支払うという仕組みである。寿町の場合、行政にとっても大きな課題であるだけに大いに可能性があると言えるだろう。ただ、制度とするのであれば、対象とする社会課題の性質、施策を行う事業者、目標の設定、評価機関など、ややこしい手続きが必要となる。

問題は、そうした仕組みをより一般的に民間ベースで成立させうるかどうかである。コミュニティバンクやソーシャルバンクという発想も欧米にはある。ある限られた地域社会を拠点とし、その地域の企業や事業に融資を行ない、その地域で資金循環を行なうのである。今日では、ネット・ファンディングという方法もある。地域を超えたネットワークによって預金者自らが、融資先を選んで預金をすることができるような仕組みを作り上げるのである。

 

岡部友彦は、われわれがなんとなく前提にしてきた建築家がいる場所とは異なる地平に立ちつつあるようにみえる。「99%社会が建築をつくる」といったのは村野藤吾であり、事実そうなのであるが、建築が社会とともにあるのであれば、建築家が社会的な仕組みを要求することがあってもいい。まだ日本に建築家という概念も職能も成立しない頃、「明治生命保険会社」「大阪中央公会堂」などの傑作で知られるが、市街地建築物法、都市計画法に尽力した建築家でもあった岡田信一郎が書いた「社会改良家としての建築家」という一文を想い起すが、上から社会を改良するのではなく、「影」すなわち「寄せ場」から世界を変えていく、そんな力技に寄り添っていきたいと思う。



[1] 布野修司「タウンア-キテクトの役割とその仕事地区建築士(コミュニティ・ア-キテクト)制の構想」(2007124日、国交省)。イギリスのCABECommittee of Architecture and Build Environment)の仕組の導入を検討した。補助金の仕組が一応できたが、東日本大震災によって霧散した。

[2] ストリート、地域、校庭などのランドスケープデザイン(Green dream)、ストリートファニチャーや家具などの製作販売(the furniture group)、グラフィックデザイン(Lekker Design)。カフェテリア(PIE IN THE SKY)、子供による遊具のデザインやパブリックアート製作(sign of life)、地域ツアーガイド(tour & seminars)の6部門がある。