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2021年6月28日月曜日

集落の形式 京都大学東南アジア研究センター編:事典 東南アジア 風土・生態・環境,布野修司:住

 京都大学東南アジア研究センター編:事典 東南アジア 風土・生態・環境,布野修司:住,弘文堂,1997

 集落の形式

 

  



   集落を構成する諸要素がどのように配列されるかについては様々なパターンがある。一般には、地域毎に、民族毎に、ある共通の配列規則が認められるが、集落が立地する地形や気候など自然環境の条件によって多くのヴァリエーションがある。東南アジアに見られる集落の形式を分類するのは必ずしも容易ではないのであるが、いくつかわかりやすい構成原理を見ることができる。住居や集落の構成にヒンドゥーのコスモロジーが密接に関わっているバリ島のように、コスモロジーと集落の構成原理との対応関係が見て取れる地域が少なくないのである。

 

  リニア・パターン(平行配置)

   集落形式について東南アジア全体を見るとき、各地に見られ、その原初的形態と思われるパターンがある。住居と倉が、あるいは倉、家畜小屋、作業小屋など他の施設が平行に向き合って直線的に並べられるパターンである。リニア(線状)パターンとか、クラスター(房状)・タイプと呼ばれる。直線状の広場を中心に諸要素が配列されるパターンである。

 極めて明解なのが、バタック・トバ族の集落形式である。土塁で囲われた矩形の敷地に、一方に住居が一方に倉が、妻を向き合わせて平行に並べられている。中央の広場は様々な用途に使われる。住居はワンルーム(一室空間)であるが、中二階のブリッジをもち、広場側には簡単なベランダが設けられ太鼓などの楽器が置かれる。広場での儀礼時に使われる。米倉の下部は高床になっており、これもまた多様に使われる。住居の構造と広場など公共的空間の配置には密接に関連があるのである。

 バタック・トバ族の集落形式とよく似ているのがサダン・トラジャ族の集落形式である。住居と倉が妻を向き合わせて並ぶパターンは全く同じと言っていい。ただ、中央の広場空間が地形に合わせて緩やかにカーブする場合がある。もちろん、その場合もトポロジカルな関係は同じである。

 さらに、極めて素朴にこのリニア・パターンを残しているのが、マドゥラ島の住居集落である*[1]。北側に住居棟が南側に作業小屋、家畜小屋等が平行に並べられる。この場合は、平側を対面させる形で、ニアス島の集落の場合と同じである。西側にランガールと呼ばれるイスラームの礼拝棟が置かれるが、イスラーム化以前の原型を残すのがマドゥラ島のパターンである。

 

 ロンボク島の集落

 住居棟と他の施設群が平行に配される集落形式は、ロンボク島のササック族の間にも見られる*[2]。ただ、ロンボク島全体を見ると三つの地域類型がある。1)住居とブルガ(露台)が平行に配列されるパターン 2)住居と穀倉が平行に配列されるパターン 3)住居が丘陵の等高線に従って配置されるパターン。北部山間部のワクトゥー・テル(ササック族のうちイスラーム化ののちも土着の信仰を保持する種族。敬虔なムスリムであるワクトゥ・リマに対比される)が居住するバヤン、スゲンタール、スナル、ロロアンは1)のパターンをとる。住居がブルガを両側から挟み込むかたちで、それぞれ平行に並べられる。一つのブルガは、一世帯ないしは二世帯によって所有される。穀倉の配置には、それぞれ特徴が見られる。バヤンの場合、穀倉はまとめて集落の周縁部に配置されるのが一般的である。スナル、ロロアンの場合は、住居・ブルガと同様平行に配置される。スナルの場合、集落の内部にも穀倉が配置されるのに対し、ロロアンは集落の端部にのみ配置される。スゲンタールには独立した穀倉は見られない。住居内に貯蔵するのが一般的である。

 2)のパターンが見られるのは、サジャン、スンバルン、サピット、レネックなど北東部から東部にかけての諸集落である。ほとんどの穀倉は、その床下部分が居住部分にあてられている。穀倉の周囲を壁で囲い、内部に炉をきり、床下に露台を設置しそこで寝起きする。

 それに対し、3)のパターンの南部に位置するサデ、ルンビタン、スンコールでは丘陵地に集落が築かれている。乾燥地帯であるロンボク島南部において耕作の可能な平地は貴重であり、耕作の不可能な丘陵に居住するのが望ましいと考えられているのである。形態は非常に特徴的で、丘陵の等高線に沿って住居が配置されるのが極めて特徴的である。

 この1)2)3)の分類は単なる形態的な分類にとどまらず、それぞれ地域的な分類になっていることがわかる。そしてそれぞれの地域は、それぞれ特徴をもった建築形式をもつ。すなわち、ロンボク島北部では、イナン・バレ(6本柱)を持つ住居の存在やカンプ(祭祀集団の居住する区画)の存在が、その特徴となる。それに対し、ロンボク島南部では、独特の形をした穀倉アランの存在が、その特徴となる。

 

 バリ島の住居とコスモロジー

 バリ島の集落形式とバリ・ヒンドゥーのコスモロジーの関係については、諸文献が明らかにするところである*[3]。天上界、地上界、地下界という宇宙の三層構造は、バリ島全体→集落→屋敷地→住棟→柱へ、大きな空間構成からディテールに至るまで貫かれている。バリ島は山ー平野ー海という三つの部分からなる。住棟は、屋根ー柱・壁ー基壇に分かれる。柱も柱頭ー柱身ー柱脚の三つに分けて認識され装飾が施されている。それぞれミクロコスモスとしての身体の頭部ー胴体ー足部の三つの分割に擬せられるのである。

 集落のレヴェルでも、頭ー胴ー足という三分割が意識される。その象徴がカヤンガン・ティガである。集落は、プラ・プセ(起源の寺)、プラ・バレ・アグン(集会の寺)、プラ・ダレム(死の寺)という三点セットの寺(プラ)を必ずもち、北から南へ(バリ島の南部の場合)順に配置されて三つの部分に分けられるのが基本である。

 また、ナワ・サンガと呼ばれる方位観(オリエンテーション)が住居、集落の構成を大きく規定している。山の方(カジャ)が聖、海の方(クロッド)が邪、日の昇る方向(東 カンギン)が聖、日の沈む方向(西 カウ)が邪、という方位に対する価値付けがなされ、住居や他の施設の位置が決められるのである。バリの南部では、北東の角が最もヒエラルキーの高い場所で、屋敷地には屋敷神が置かれる場所(サンガ)である。

 しかし、以上のような集落形式は、ヒンドゥー化以降のもので、バリには他の形式も見られる。その形式が、また、住居と倉などその他の施設が平行に配置されるパターンである。バリ・アガ(バリ原住民)の集落といって、バリ・マジャパイトの集落とは区別されるのである。具体的には、風葬で知られるバトゥール湖のトゥルーニャンや東部のトゥガナンがそうである。極めて単純なリニア・パターンが東南アジアで見られる原初的な集落形式であると考えられるのは、バリ・アガの集落やササック族の集落の存在からである。

 

 環状パターン

 リニア・パターンに対して、広場を環状に取り囲む形式もある。アフリカや南アメリカののコンパウンド型の集落には綺麗な円形のパターンが見られる。東南アジアの場合、自然の地形に従って配置されるパターンが多く、環状パターン少ないが無くはない。スンバの集落がそうである。スンバではリニアな集合形式も見られるが、多くが求心的パターンである。また、スンバにはジャワのジョグロに似た住居形式が見られるのは興味深い。スンバが高床であるのに対してジャワのジョグロは地床式なのである*[4]

 集落形式について注目すべきは、中央の広場を囲んで環状に住居などが配置される形式が三つ連なって一つの集落となるパターンである。この形式はヌサ・トゥンガラの他の島々にも見られた。フローレスの集落は、前方部、中央部、後方部の三つに分かれていた。例えば、マンガライでは三つの部分に対する特別な呼び方が残っていて、それぞれアバン、ベオ、ンガウンと呼び、三つの部分それぞれに「聖なる場所」があったという*[5]

 

 オリエンテーション

 明確な集合形式を持たない場合も、個々の住居や施設の配置についてその向き(オリエンテーション)が意識されることが多い。建物の棟の方向、妻・平の方向が何らかの基準に合わせられるのである。その場合、東西南北の絶対方位が特に日の出・日の入りの方向として意識されることも少なくないが、多くの場合参照されるのは、山や川(上流下流)である。アチェやバタック・カロの場合のように、多くの建物の棟は平行に並べられる。伝統的な集落が調和ある景観をつくってきたのはこのオリエンテーションの感覚に依るところが大きい。

 

 



*[1] 山本直彦、『マドゥラ島の住居集落の構成原理に関する研究』、京都大学修士論文、1995年

*[2] 布野修司他、「ロンボク島の住居・集落・都市とコスモロジー」、『研究年報』、住宅総合研究財団、1993年、1995年

*[3] 布野修司他、『地域の生態系に基づく住居システムに関する研究(Ⅱ)』、住宅総合研究財団、1991年

*[4] 高床と土間参照

*[5] クンチャラニングラット 「フローレスの文化」


2021年6月27日日曜日

都市居住の変容  京都大学東南アジア研究センター編:事典 東南アジア 風土・生態・環境,布野修司:住

 京都大学東南アジア研究センター編:事典 東南アジア 風土・生態・環境,布野修司:住,弘文堂,1997

都市居住の変容

 

 





都市村落

  東南アジアには都市的集住の伝統は稀薄である。東南アジア世界が人口の希少性を特徴としてきたことは強調される所である。

  ただ、香辛料を求めて東インド諸島にやってきたヨーロッパ人たちが最初に滞在した地域の大規模な貿易中心地、都市的中心は、16世紀のマラッカ、アユタヤ、デマックにしても、17世紀のアチェ、マッカサール、スラバヤ、バンテンなどにしても、当時のヨーロッパの水準からいうと極端に大きく、およそ五万人から十万人の人口をもっていた。ナポリとパリを除くヨーロッパのほとんどの都市よりも大きかったのである。しかし、その相貌はヨーロッパの都市とは全く異なっていた。

 都市といっても、庭に茂るココナッツやバナナなどの果樹のなかに半分隠れて、木造の高床式の風通しのいい住居が並び農村的生活パターンが都市においても続けられていたのである。小さな屋敷地の集積からなっている都市は、広大な領域に広がっていて、地中海や中国の典型的な都市にみられる、城壁のような明確な境界線はないのである。

 初期の旅行者は、アチェの田園的な風景をこんなふうに書いている。「森のなかにあって、とても広々としており、家の上にのらないと家々が見えない。我々はどこにも入ることはできなかったが、確かに家々があるのとたくさんの人が集まっているのはわかった。街はずっと全土に広がっているのだと私は思う。」。あるイエズス会の宣教師は、「籐や葦や樹皮でできた信じられないほど多くの家」が、「ココナッツや竹やパイナップルやバナナの木々のなかに沈んでいる」と書いている。港に着いても、都市の全体は見えない。岸に沿って生えた大きな木々がすべての家を隠してしまっていたのである。

  都市においても、農村的生活が展開される。これは、今日の都市についてもよく言われる。東南アジア諸国のみならず、発展途上地域の都市についても一般的に、都市村落(アーバン・ヴィレッジ)という概念が用いられてきているのである。

 

 カンポン

  インドネシア(マレー)語でカンポン kampung というとムラのことである。行政村ではなく自然村のニュアンスがある。というより、一般的に村、農村を意味する言葉として使われる。カンポンガンというと田舎者のことである。ところが、都市の居住地もカンポンと呼ばれる。インドネシアの都市の居住地の特性をよく示す言葉である。すなわち、コミュニティ意識は一般的に強固で、共同体的組織原理を維持しているのがカンポンである。日本軍が持ち込んだとされる隣組ー町内会(RT-RW)システムは、相互扶助の組織として様々な意味で大きな役割を担っているのである。

 このカンポンがどのように形成されてきたかについては、植民地化の歴史、植民都市の形成過程に遡る必要がある。バタヴィアにしても、スラバヤにしても、マレー・カンポン、チャイニーズ・カンポン、アラブ・カンポン、ジャワーニーズ・カンポンといって諸民族毎の棲み分けが当初からなされる。まさに植民によって、バリ人、ブキス人等のカンポンが形成された。その歴史は、それぞれの都市の通り名やカンポン名に残されている。諸民族が棲み分け、モザイク状に都市の居住地を形成するという特性は植民都市に共通である。現代都市においては、さすがに棲み分けの構造は崩れ、モビリティ(流動性)は高くなりつつあるが、それでも、スラバヤにおけるマドゥリーズのように一定地域のカンポンに居住する例も見られる。カンポンの社会は複合社会であり、諸民族が共住するのがカンポンである。

 

 アーバン・インヴォリューション

 カンポンの生活を支えるのはインフォーマルな経済活動である。その象徴がロンボン(屋台)とピクラン(天秤棒)である。カンポンに一日座っていると、ありとあらゆる物売りがやってくる。焼き鳥、焼きそば、かき氷、果物といった食料品から日用雑貨、植木や玩具、建材まで売りに来る。市場やスーパーにでかける必要がない。考えようによっては、実に便利な、居ながらにして全てを手に入れることができる高度なサービス社会である。

 こうしたサービスの体系を支えるのが過剰な人口である。様々なサービスを可能な限り細分化し、限られたパイを分配し合う(貧困の共有)原理がそこにある。C.ギアツの農業のインヴォリューションという概念を借りて、アーバン・インヴォリューションという概念が用いられる。

 カンポンは、従って、単なる居住地ではない。カンポンの内部には様々な家内工業が立地し様々な物が生産されている。生産と消費はそこでは一体化しているのである。

 インドネシアの居住問題を解決するのは、カンポンの存在そのものである、という言い方がなされる。カンポンは、都心に寄生する形でしか成立しないのであるが、極めて自律的なのである。また、カンポン自体が多様であり、ひとつのカンポンも多様な層によって構成される。どんな収入階層でも居住する場所を見いだすことができるのである。

 

 KIP(カンポン・インプルーブメント・プログラム)

 以上のような興味深い特性をもつカンポンもその居住環境は極めて劣悪である。カンポンと言えばスラムの代名詞であった。

 20世紀に入って、特に第二次世界大戦後、急激に膨れ上がった東南アジアの大都市は、その人口増加を支えるインフラストラクチャー(基幹設備)をもたず、深刻な環境問題に直面するに至ったのであった。

 そうした中で各国は様々な対策を展開してきたのであるが、必ずしも有効な手だてを見いだし得なかった。先進諸国におけるハウジング(住宅供給)の理念や手法は必ずしも有効ではないのである。そこで、各国は、オン・サイト(現場)の居住環境を改善することにウエイトを移すことになる。最低限、上下水道を設置し、歩車道を整備することを始めたのである。70年代から80年代にかけて、各国の大都市の整備がほぼ終わる。その代表例がインドネシアのカンポン・インプルーブメント・プログラム(KIP)である。しっかりしたコミュニティ組織をベースに大きな成果を上げるのである。

 しかし、それにも関わらず、飲料水、下水・排水、ごみ処理、交通などの都市問題、居住問題は今日猶大きな問題である。さらに21世紀には百億に達すると予測される世界人口は、深刻なエネルギー問題、食糧問題、資源問題を引き起こすとされる。

 

 都市型住居

 80年代から90年代にかけて、東南アジアの大都市は急速に変化しつつある。ひとつには都心地区がほぼ建て詰まり、その再開発が大きな課題になって来た。また、加速する流入人口に都心からのJターンも含めて、都市周縁部(フリンジ・エリア)が急激に変化しつつある大きな問題がある。

 さらに、住民のモビリティが高まり、都市居住地の性格が変容しつつあるという点がある。カンポンの場合、KIPのインパクトは大きい。車道の整備によってコミュニティが分断され、車道沿いに所得階層の高い層が移入して来るという現象が各地で起こってきた。インドネシアでは、グドゥンガンとカンポンガンと言って、その階層差が意識され始めるのである。コミュニティの共同体的性格は一般的に弱まりつつあると言えるであろう。

 都心部の再開発という課題とともに、都市型住居をどうデザインするかが各国とも大きなテーマとなりつつある。中高層の集合住宅による高密度化が不可避である。例えば、インドネシアでは、コモン・キッチン、コモン・リビングといった形の共有部分を多くとった積層住宅(ルーマー・ススン)のモデルがつくられつつある。カンポンの生活を立体化するのがねらいでカ・スンと呼ばれたりする。

 首都の変容はさらに激しい。目覚ましい経済発展とともに新たな都市文化が生み出されつつあるのである。先進諸国の大都市の風俗、ファッションも瞬時に取り入れられるようになる。新たな都市居住文化の創出には情報テクノロジーの発展が大きいインパクトを与えている。 


2021年6月26日土曜日

間取り・・・住居の平面形式 京都大学東南アジア研究センター編:事典 東南アジア 風土・生態・環境,布野修司:住,弘文堂,1997年

 京都大学東南アジア研究センター編:事典 東南アジア 風土・生態・環境,布野修司:住,弘文堂,1997



 間取り

  ・・・住居の平面形式

 




 家社会

 住居の形式は様々な要因によって規定される。ひとつの大きな規定要因は親族組織のあり方である。家族の形と住居空間の形は相互に関連を持っている。親族集団の形は住居の空間の形式を決定づけるが、逆に、住居は親族集団に形とアイデンティティーを与える。

 東南アジアの場合、一般的に「双系」的な親族原理を持つと言われるが、「父系」や「母系」の親族原理を持つ民族もあり多様である。というより、伝統的な人類学上の概念としての家系の観念の枠組みにはほとんど当てはまらないという指摘さえある。「父系」や「母系」、「双系」といった分類は不安定で崩れる傾向にあるのである。

 そうした中で、R.ウオータソン*[1]は、住居と親族集団との同一視が究極的に東南アジアの住居を理解する真の鍵であるという。逆にいえば、親族体系の分析の問題は、親族体系を住居に基づく体系としてみることによってある程度明らかにされる。北アメリカの北西海岸の親族体系の分析によってクロード・レヴィ=ストロースが提示した「家社会」という概念で表現することがもっともふさわしい組織形態が東南アジア、特にインドネシアには存在する。住居を親族体系の主たる組織原理であると捉えた場合のみ、親族体系のあらゆる多様性を網羅する形でもっともうまく理解できるというのである。

 

 サパルイクーミナンカバウの住居

 住居の平面形式(間取り)を決定するもうひとつの大きな要素はビルディング・システムである。住居を物理的に組み立てる技術的な制約条件、あるいは物理的な構成システムが平面(空間)のシステムを決定するという側面がある。そして、その空間システムは極めて単純であることが少なくない。空間の単位をどう組み合わせていくか、がそこでの視点となる。

 ミナンカバウは、世界最大の母系制社会を構成することで知られる。母系のミナンカバウ社会におけるもっとも重要な単位は、サパルイク、つまり「子宮を同じくする人びと」であり、ひとつのルーマー・アダット(慣習家屋)もしくはルーマー・ガダン(大きな家)に住む人びとの集団である。その水牛の角を模したような屋根は特徴的であるが平面構成の原理は以下のようである。基本形は9本柱の家、あるいは12本柱の家と呼ばれる。梁間方向のスパン(間)がラブ・ガダンと呼ばれ、桁行き方向のスパンがルアンと呼ばれる。規模が大きくなると、梁間も桁行き方向のスパンも多くなる。母系に属する3世代が住むのであるが、基本的には、後方部の一間が既婚女性の家族によって占められ、全面はオープンな共用部分として使われる。家族数が増えれば桁行き方向にスパンを伸ばしていけばいい。極めてわかりやすいシステムである。

 

 ロングハウス

 ロングハウスは、それ自体ひとつの集落とみていい。あるいは東南アジアの伝統的住居としては珍しい集合住宅である。ただ、この住居形式は東南アジア各地にみられ、ボルネオだけでなく、ムンタワイやベトナムの高地にも広がっている。それは、イバン族やサクディ族のような平等主義の社会と、ケンヤー族やカヤン族のようなより位階的な社会の両方に見られる。

 ロングハウスというと大家族が居住すると考えられるが、複数家族が居住形態を共有している家族の実際の構成はかなり多様である。ボルネオの古典的なロングハウスは、長い廊下や開放されたベランダでつながっている多くの独立した部屋で構成されている。それぞれの部屋には、1世帯、すなわち1つの核家族が住む。平面形式はしたがってひとつの単位を横につなげる形をとる。

 ベランダを見ると各住戸単位で切れている。個々の住居がそれぞれ造るのである。屋外のベランダ→共有の廊下→居室→厨房という空間がワンセットになって長屋形式となるのである。

 

 ワンルーム住居

  バタック諸族の場合、住居の居住スペースは基本的にワンルーム(一室空間)である。しかも、複数家族が居住する。空間は壁によって仕切られることはないのであるが、基本的には炉の配置によって区分される。ひとつの炉を1~2の家族で共有するのである。バタック・カロの場合、ひとつの住居に4~6の炉が設けられ、数家族から十数家族が居住することになる。4つの炉で8つの家族で住むのが慣習法上のルールという報告もある。青年男子は食事は家族とともにし、夜は米倉に寝泊まりする。未婚の女性は夜はまとまって別棟(若衆宿)で就寝する。

 居住スペースにはヒエラルキーがあり、家長の場所など秩序に従って決められる。バタック・トバの場合、平面は、中央の階段(バラトゥク)に続く中央通路部分と左右のスペースにまずわけられる。そして左右のスペースは家族の数によって4~6に分けられる。中央部分はテラガと呼ばれ、各家族の共有スペースとなる。入口から入って右奥がジャブ・ボナと呼ばれる家長のスペースとなる。家の中で一番ヒエラルキーが高い。また、入口の左手はジャブ・スハットと呼ばれ、長男の家族の場所とされる。入口右手は客用の場所であり、奥左は既婚の娘のスペースといった具合である。

 

 分棟式住居・・・ユニット住居

 住居を一つの平面形式としてシステム化するパターンに対して、小さな建物を空間単位をとして配置するパターンがある。一般に分棟式と言われる形式である。基本的には母屋と釜屋を分けて屋敷地を構成する。日本でも沖縄・南西諸島から西南日本の太平洋沿岸に点々と分布している。また、いくつかの建物で屋敷地を構成するのはかなり一般的である。タイの村落の場合、バーンと呼ばれる住居は分散しており、同族の家族の住居は、それぞれ柵に囲まれて独立した居住地を形成している。バーンは住居の敷地そのものや村落を指す言葉でもある。日本では「屋敷地共住結合」という専門用語が用いられたりする。一般的な妻方居住の婚姻パターンでは、居住地内の住居は普通、結婚した娘たちの住居である。

 そうした中でその配置の原理が極めて概念的に理解されるのがバリの住居である。ウマ・メテンと呼ばれる主屋をはじめ、屋敷神の場所サンガ、厨房、倉などの各棟の位置、隣棟間隔は、人体寸法に従って決められるのである。

 大きなスパンの建物がつくれない場合、小さなユニットを組み合わせて住居をつくることが多いが、タイの平野部がそうである。一般には、二棟並べてひとつの住居とする。三つ並べたり、ロの字型に並べて真中に中庭を採るパターンもある。

 

 男の空間・女の空間・・・象徴的二分法

 基本的な空間分割が性と関係していると一般的にいわれる。住居のシンボリズムに関する人類学的分析として最もよく知られているのがカニンガムのインドネシア、チモール島のアトニ族に関する研究である*[2]。カニンガムは空間的な対比(高/低、内/外、右/左)と社会的なカテゴリー(男性/女性、年長/若年、親族関係/姻戚関係、子供/結婚可能な若者、身分の高い人/低い人、儀礼的な優/劣)に明解な関係があるという。例えば、地位の高い人が右側の高床に着座し、地位の低い人は左に着座する。男は外部で食事をし、女性は内部で食事をする、といった具合である。カニンガムは、横方向の原則(右/左)と集中方向の原則(中心/周縁)の双方の秩序について図式化するのであるが、女性は住居の内部及び左側と結びついており、男性は外部及び右側と結びついている、という。

 こうしたアトニ族に見られる男/女のディコトミー(二分法)、双分観あるいは象徴的二元論と呼ばれるものは、東南アジアの他の社会においても指摘される。島嶼部、特に東インドネシアの社会がそうだ。同じチモール島エマ族*[3]場合の、住居の内部は、「男」の側と「女」の側という二つの質の異なった部分に分けられるている。また、「男」柱、「女」柱と呼ばれる 2本の柱が、棟持柱が据えられる水平梁を支えている。「男」の側は、儀礼のために使用され、先祖の宝物や家宝がここに収められる。儀礼の物品のほとんどは、東側の壁すなわち「男の」柱の側にかけられる。

 スンバ島東部のリンディ族の場合も特徴的である。フォース*[4]によれば、日常生活においては、住居は特に女性の場所である。女性は家を賄う責任を担い、適切な理由がなければ住居を離れられないとされている。ここでも、内部/女、外部/男という区分が行われるのである。ただ、儀礼の場合、男性が主役である。儀礼の場合、「内部」は「男性」と結び付けられ、女性は周縁的な存在となる。住居は、内部の露台を中心に構成され、その露台は象徴的に「男性の」部分である右手と、「女性の」部分である左手とに分けられる。中央部の四本の柱もまた「男性」、「女性」に分けられている。

 囲炉裏の右側の二本の中央部の柱は「男性の柱」、左側の柱は「女性の柱」と呼ばれる。囲炉裏の左側の炉石は「女性の炉石」と呼ばれ、日常の食事の準備において唯一使用される炉である。一方「男性の炉石」と呼ばれる右側の炉石は、鶏の羽を占いのために内臓を使用する前に焼いたり、生け贄の動物を調理するために、儀礼時に使用されるのみである。

 空間の象徴的区分については、既に様々な議論がある。空間の解釈としては、余りにも図式的であるという批判もそうした議論のひとつである。確かに、以上のような断片的な要約だけ取りあげれば、また、図式のみとりあげるとすれば、そう意味がない。何も象徴的な秩序やコスモロジーを持ち出さなくても、料理や家事をする女性が炉や内部に結びつけられ、外で仕事をする男性が外部に結びつけられるのはある意味では当然のことである。性的分業が空間の利用と意味を限定づけていると考えてもいい。

 問題は性のシンボリズムではなく、分業の諸形態であり、空間利用の諸形態である。重要なのは、住居の内部と外部が日常時と儀礼時でそれぞれ男/女の結びつきを変えるといった例があるように、空間利用の形態は必ずしも固定的ではないということである。





 



*[1]

*[2] C.Cunningham,'Order in the Atoni House',Bijdragen tot de Taal-,Land-, en Volkenkunde,1964

 *[3] B.Clamagirand,'La Maison Ema(Timor Portugais) ',Asie du Sud-Est et Monde Insulindien,1975

*[4] G.Forth,Rindi;An Ethnographic Study of a Traditinal domain in Eastern Sumba,The Hague,1981

2021年6月25日金曜日

住居の原像 事典 東南アジア 風土・生態・環境

 京都大学東南アジア研究センター編:事典 東南アジア 風土・生態・環境,布野修司:住,弘文堂,1997



 住居の原像

 

 



地域の生態系に基づく多様な住居

 東南アジアには地域毎に多様な住まいの伝統がある。

  タイの山間部には、樹木の葉で葺いた、小さな屋根の様々な形態の少数民族の民家がある。平野部に降りると、間口の狭い切妻屋根の高床の小屋を繋げていく形態が見られる。デルタに人が住み出して以降だから伝統としては新しい。チャオプラヤ川には多くの水上住居が見られる。

 マレー半島を南下すればいわゆるマレーハウスがある。高床の寄せ棟の形態である。装飾には中国の影響も見られる。マラッカ周辺、ヌガリ・スンビランには、西スマトラから移住してきたミナンカバウ族の住居があって少し変わっている。カンボジアには、タイのデルタの住居によく似た二連の高床式住居が見られる。屋根の勾配は緩やかだ。ヴェトナムの海岸部には地床式の住居が見られるが、山間部は高床式である。東マレーシア、サラワク、サバには様々なロングハウス(長屋)の形態がある。大陸部にもかってロングハウスが一般的に見られた。

 島嶼部に眼を写すと、住居の多様性はさらに広がる。ひとつの島毎に固有の形態があるかのようだ。否、小さな島でも地域毎に民族毎に住居の形態が異なっていることも多い。

 フィリピンのルソン島の山岳地方には、日本の南西諸島の高倉形式の建築構造のヴァリエーションとして小さな住居の多様な架構形式がある。平野部にはスペインの影響を受けた高床住居がある。ミンドロ島のアランガン族の住居の高床はかなり高い。ムスリムであるモロ族の住居はまた独特である。

 インドネシアの島々には、それこそ島毎に異なった住居がみられる。円形、楕円形の住居も珍しくない。ニアス島から西イリアンまで点々と分布している。また、ひとつの島でも地域によって異なる。スマトラ島など全長二千キロもあり、北海道から沖縄まで日本列島がスッポリ入ってしまうのだから当然といえば当然である。

 東南アジアは、大きく、大陸部、島嶼部に分かれ、生態学的にはさらに細かく区分されるのであるが、それぞれの地域の生態区分に基づいて、多様な住居の形態を見ることができる。

 

 木造文化

 しかし一方、今日見られる東南アジアの住居に共通する特徴も指摘できる。まず、木造あるいは竹造が基本であることがある。赤道直下でも標高が高ければ針葉樹も育つ。建築用の木材が採れるところに木造文化の花が咲くのは道理である。ヒンドゥー教や仏教の建築などモニュメンタルな建築には石造や煉瓦造が見られるが、住居となると植物材料で造られるのが一般的である。バリなどで、基壇や壁に日干し煉瓦も使われるけれど例外だ。東欧や北欧、日本と並んで木造建築の宝庫といえるのが東南アジアである。

 また、かって、またごく最近まで高床式であったのもほぼ共通である。日本の住居の伝統は、北方、あるいは西方の竪穴住居の系譜と南方の高床式住居の系譜の二つによって説明されるが、寝殿造や書院造など貴族住宅や伊勢神宮など神社建築は南方系とされ、東南アジア世界と共通性をもつことになる。

 東南アジアには都市住居の伝統は希薄である。それも共通の特徴である。ただ、ロングハウスと呼ばれる長屋形式の集合住居は大陸部にも、島嶼部にも点々とある。

 さらに、東南アジアの住居に特徴的なのが屋根の形態である。転び破風屋根、あるいは船型屋根、鞍型屋根といわれる大屋根が特に印象的である。棟が大きく反り、端部は妻壁から大きく迫り出している。もちろん、切妻、寄棟、方形、円屋根など東南アジアに様々な屋根形態はあるけれども、この転び破風の形態は東南アジアの住居のひとつの典型である。バタック諸族の住居、ミナンカバウ族の住居、トラジャ族の住居を代表例とし、大陸部ではカチン族の住居など、島嶼部ではパラオなどオーストロネシアに見られる。東南アジアの住居というとひとつの共通のイメージを抱くことができるのは、この鞍型屋根の存在があるからである。

 

 ドンソン銅鼓の家屋紋・・・住居の伝統と変容

 東南アジアのほとんどの各地域は、まず、インド化の波を被り、イスラーム化の波を受けた。基層文化としてインド文化、ヒンドゥー文化があり、土着の文化と混淆する。中国文明の影響は継続的にある。そして、西欧列強による、住まいの伝統を考える上で決して無視し得ない植民地化の長い歴史がある。住居の形態にもそうした大きな文明の影響が様々に及んでいる。そして、住居の形態もこの間大きく変容してきた。

  東南アジアの伝統的住居はどのようなものであったのか。今現存する住居の形態はいつごろ成立したのか。ヴァナキュラーな(土着の)形態はどのようなものであったのか。こうした問いに答えるのはそれ故難しい。

 しかし、相当以前から各地域の住居は同じ様な形態をしていたのではないか、また、東南アジアの住居が共通な起源と伝統を持つのではないかと思われる事実がある。

 手がかりになるのが、ドンソン銅鼓と呼ばれる青銅の祭祀用の鼓の円形の表面に描かれた家屋紋である。また、アンコールワットやボロブドゥールの壁体のレリーフに描かれた家屋図像がある。そしてまた、中国雲南、石寨山などから発掘された家屋模型と貯貝器がある。石寨山は、1950年代後半に発掘された前漢時代の墓葬群で、数多くの家屋銅器、家屋紋が出土し、住居の原像を考える大きな手がかりを与えてくれている。

 描かれた家屋を並べてみると、例えば、石寨山の家屋模型や貯貝器の取手は、西スマトラのミナンカバウ族の住居にそっくりである。また、ドンソン銅鼓に描かれた家屋紋も同様である。上述した転び破風の屋根形態が相当古くから東南アジアに存在してきたことを示しているのではないか。また、古くから高床式住居が一般的であったことが明らかである。ジャワのボロブドゥールに描かれたレリーフの住居も全て高床式なのである。

 ドンソン銅鼓はインドネシア各地でも発見されている。ジャカルタの国立博物館も一部屋全部を銅鼓に当てている。全ての銅鼓に家屋紋があるわけではないが、インドネシアで有名なのは、ヌサトゥンガラ諸島のスンバワ近くのサンゲアンで発見された銅鼓である。高床で、基礎柱にはネズミ返しらしきものがある。床下には動物がいる。屋根は、妻飾りがあって、棟束のようなものが描かれた屋根裏には家財のようなものが置かれている。

 サンゲアンの青銅鼓の家屋紋と雲南省の石寨山前漢墓から出土した彫鋳模像は実に似ている。華南と東南アジアが直結することは誰もが直感するところである。しかし、不思議に思うのは、銅鼓、貯貝器などに表現された家屋像が、それが発見された中国の少数民族の居住地域には見られないことである。何故、遠く離れた東南アジアの住居が雲南出土の銅鼓などに描かれているのか、東南アジアの住居の原像をうかがう大きな手がかりである。

 


2021年6月24日木曜日

現代建築家  宮内康・布野修司編・同時代建築研究会著:ワードマップ『現代建築ーーーポスト・モダニズムを超えて』

  宮内康・布野修司編・同時代建築研究会著:ワードマップ『現代建築ーーーポスト・モダニズムを超えて』,新曜社,1993


 現代建築家

 

 





 「建築家は文章の学を解し、描画に熟達し、幾何学に精通し、多くの歴史を知り、努めて哲学者に聞き、音楽を理解し、医術に無知でなく、法律家の所論を知り、星学あるいは天空理論の知識をもちたいものである」 ヴィトルヴィウス 『建築十書』 第一書第一章。

 

 「建築家 名詞 あなたの家のプラン(平面図)を描き、あなたのお金を浪費するプランを立てるひと」 アンブローズ・ビアズ 『悪魔の辞典』

 

 「建築家の定義 自分の創造力を崇拝するたたき上げの男」 リチャード・イングランド

 

 「偉大な彫刻家でも画家でもないものは、建築家ではありえない。彫刻家でも画家でもないとすれば、ビルダー(建設業者)になりうるだけだ」 ジョン・ラスキン

 

 「建築について知っている建築家はほとんどいない。五〇〇年もの間、建築はまがいものであり続けている。」 フランク・ロイド・ライト

 「ローマの時代の有名な建築家のほとんどがエンジニアであったことは注目に値する」 W R レサビー

 

 「エンジニアと積算士(クオンティティー・サーベイヤー)が美学をめぐって議論し、建築家がクレーンの操作を研究する時、われわれは正しい道に居る」 オブアラップ卿

 

 「建築家は社会的に有用であるとともに視覚的に美しい何かを作り出すべきだ」 チャールズ ウエールズ皇太子 

 

 「歴史と文学を知らない弁護士は、機械的な単に働く石工にすぎない。歴史と文学についての知識をいくらかでももてば、自分を建築家だといってもいいかもしれない。」 ウォルター・スコット卿

 

 「人間の命の短さは建築家という職能を憂欝にさせる」 ラルフ・ワルド・エマーソン

 

 「芸術のヒエラルキーにおいて、ボスは明らかに建築家である」 エリック・ギル

 

 「建築家とは、・・・  確実ですばらしい理性とルールに基づき、まず第一に、心のなかで知性に従って物事を如何に分割するかを知っていること、続いて第二に、実際の仕事において、物体を組み合わせたり積み上げたり、重量を配分することによって、人間の要求に極めてうまく適合するような材料を如何に統合するかを知っている人である」 レオン・バティスタ・アルベルティー

 

 「建築家とは、今日思うに、悲劇のヒーローであり、ある種の落ちぶれたミケランジェロである。」 ニコラス・バグナル

 「もし建築家の職能に未来があるとすれば、人々に自分たちの問題を自分で解くことができるようにするすぐれた理解者としてである」 コリン・ウオード

 

 「建築家と一緒に仕事をすることより悪い唯一のことは、建築家なしで仕事をすることである」 ジョン・パーカー

 

 「われわれはテクノロジーの盲目の司祭に問わねばならない、いったい全体、彼らは自分のしていることをどう考えているのかと」 「専門家の世界の自己満足は囚人の幻影である。扉を開く時だ。」 ルイス・マンフォード

 

 「ほとんどの建築家は建築について何も知らない。五百年もの間、建築はまがいものであり続けている。」 フランク・ロイド・ライト

 「建築家も医者や弁護士と同様色々である。いいのもいれば、悪いのもいる。ただ、不幸なことに、建築の場合、失敗がおのずと見えてしまう。」 ピーター・シェパード

 

 「建築家の仕事は、デザインを作り、見積をつくることである。また、仕事を監督することである。さらに、異なった部分を測定し、評価することである。建築家は、その名誉と利益を検討すべき雇主とその権利を保護すべき職人との媒介者である。その立場は、絶大なる信頼を要する。彼は彼が雇うものたちのミスや不注意、無知に責任を負う。加えて、労働者への支払いが予算を超えないように心を配る必要がある。もし以上が建築家の義務であるとすれば、建築家、建設者(ビルダー)、請負人の仕事は正しくはどのように統一されるのであろうか。」ジョーン・ソーン卿

 

 「建築家は、社会の、様式の、習俗の、習慣の、要求の、時代の僕である。」「建築家の人生は四五に始まる」 フィリップ・ジョンソン

 

 建築家とは何か。以上のように、昔から多くの定義や金言、椰揄や賞賛がある。いずれも、建築家についてなんらかの真実をついている。

 建築家という職能は、そうとう古くから知られている。ごく自然に考えて、ピラミッドや巨大な神殿、大墳墓などの建設には、建築家の天才が必要であった筈だ。実際、いくつかの建築家の名前が記録され、伝えられているのである。最古の記録は紀元前三千年ということだ。例えば、故事によれば、ジェセル王のサッカラ(下エジプト)の墓(ピラミッド複合体)は建築家イムホテプによるものである。もっとも、彼は単なる建築家ではない。法学者であり、天文学者であり、魔術師である。伝説の上では、ギリシャの最初の建築家はクレタの迷宮をつくったダエダルスである。かれもただの建築家ではない。形態や仕掛の発明家といった方がいい。ダエダルスというのは、そもそも技巧者、熟練者を意味するのだという。

 建築家は、全てを統括する神のような存在としてしばしば理念化される。ヴィトルビウスの言うように、建築家にはあらゆる能力が要求されるのである。この神のごとき万能な造物主としての建築家のイメージは極めて根強い。ルネッサンスの建築家たちが理念化した万能人、普遍人(ユニバーサル・マン)の理想がそうだ。レオナルド・ダヴィンチやミケランジェロ、彼らは、発明家であり、芸術家であり、哲学者であり、科学者であり、工匠である。多芸多才で博覧強記の建築家像は今日でも建築家の理想である。近代建築家を支えたのも、世界を創造する神としての建築家像であった。彼らは、神として理想都市を計画することに夢中になるのである。

 そうしたオールマイティーな建築家像は、実は、今日も実は死に絶えたわけではない。時々、誇大妄想狂的な建築家が現れて顰蹙をかったりする。建築家になるためには、強度なコンプレックスの裏返しの自信過剰と誇大妄想が不可欠という馬鹿げた説が建築界にはまかり通っている程である。

 A.ヒトラーがいい例である。彼は、二流の建築家であった。彼の建築狂いはA.シュペアーの『ナチス狂気の内幕』に詳しい。かって、建築家はファシストか、と喝破した文芸評論家がいたのだけれど、建築家にはもともとそういうところがあるのだ。

 一方、もうひとつ、広く流布する建築家像がある。フリー・アーキテクトである。フリーランスの建築家という意味である。この幻想も根強い。幻想というか、今でも建前として最も拠り所にされている建築家像である。すなわち、建築家は、あらゆる利害関係から自由な、芸術家としての創造者としての存在である、というのである。神ではないけれど、自由人としての建築家のイメージである。

 もう少し、現実的には、施主と施工者の間にあって第三者的にその利害を調整する役割をもつのが建築家という規定がある。上のジョン・ソーンの定義がほぼそうだ。施主に雇われ、その代理人としてその利益を養護する弁護士をイメージすればわかりやすいだろう。医者と弁護士と並んで、建築家の職能もプロフェッションのひとつと欧米では考えられているのである。

 まことに結構な理念なのだけれど、現実は、特に日本の現実は、そうはいかない。建築家というと土建屋というのが一般的イメージではないか。あるいは、山師のたぐいと思われている。高名な建築家が利権をめぐってスキャンダラスな週刊誌のネタになったりするのだから、自業自得の感もある。設計料をダンピングしたり、施工業者にバックペイを求めたりする建築家があとをたたないのだから、言語同断である。もちろん、そういうことを求める施主の風土もよくない。日本の場合どうも建築家の職能を認める社会の成熟がないのである。日本の場合、請負業の力が強かったということもある。そうした職能を制度化する法はいまだかってできない。建築家という職能は今日に至るまで未確立であるといっていいのだ。

 今日、建築家といっても、千差万別である。日本の場合、一級建築士、二級建築士、あるいはインテリアプランナーとかインテリアコーディネーターといった資格があるにすぎない。合わせると、七〇万人にものぼる。スター・アーキテクトから、建築確認申請の代願設計を専ら業とする町場の建築士まで色々なのである。

 フリー・アーキテクトというけれど、実態は全くそうではない。中小企業の社長にすぎない自称建築家も多いのである。また、ゲネコンの設計部や住宅メーカーといった企業内の建築家も多いのである。設計と施工を分離すべきかどうか、という問題は、戦前から問われ続けているのであるが、日本では、設計施工一貫の請負体制が支配的である。それ故、建築家の存在も実に複雑なのである。

 面白い本がある。『アーキテクト』という本だ。アメリカの建築界が実によくわかる。日本の建築家は、欧米の建築家の社会的地位の高さを口にするけれど、そうでもないのである。その最後に、建築家のタイプが列挙してある。日本でも通用しそうである。ひとりひとりの建築家を思い浮かべて当てはめてみるといい。

 名門建築家 エリート建築家  毛並がいい

 芸能人的建築家 態度や外見で判断される 派手派手しい

 プリマ・ドンナ型建築家   傲慢で横柄   尊大

 知性派建築家  ことば好き 思想 概念 歴史 理論 

 評論家型建築家  自称知識人 流行追随

 現実派建築家  実務家 技術家

 真面目一徹型建築家  融通がきかない 

 コツコツ努力型建築家  ルーティンワーク向き

 ソーシャル・ワーカー型建築家  福祉 ボトムアップ ユーザー参加

 空想家型建築家  絵に描いた餅派

 マネジャー型建築家 運営管理組織

 起業家型建築家  金儲け

 やり手型建築家  セールスマン

 加入好き建築家  政治 サロン

 詩人・建築家型建築家  哲学者 導師

 ルネサンス人的建築家

 

 今日、建築家といっても、ひとりで建築のすべてのプロセスに関わるわけではない。建築というのは、基本的には集団作業である。その集団の組織のしかたで建築家のタイプが分かれるともいえるだろう。そうした中で、注目されるのがC.アレグザンダーのアーキテクト・ビルダーという概念である。誤解をおそれずに言えば、現代における中世のマスタービルダーのような存在として理念化されるものだ。建築家は、ユーザーとの緊密な関係を失い、現場のリアリティーを喪失してきた。それを取り戻すためには、施工を含めた建築の全プロセスにかかわるべきというのである。上述したように、日本では設計施工の一貫体制が支配的であり、アーキテクトという概念が根付いていないから複雑なのであるが、アーキテクト・ビルダーという概念は検討に値しよう。建築家は単なるデザイナーでも、不動産屋でも、コピーライターでも、ドラフトマンでも、芸能人でもないのである。 

 



 

 

 

2021年6月23日水曜日

キッチュ Kitsch 宮内康・布野修司編・同時代建築研究会著:ワードマップ『現代建築ーーーポスト・モダニズムを超えて』

  宮内康・布野修司編・同時代建築研究会著:ワードマップ『現代建築ーーーポスト・モダニズムを超えて』,新曜社,1993


キッチュ Kitsch

 

 





 キッチュとは何か。まず簡潔に定義しておこう。それには、A.A.モルの一冊が手頃である。A.A.モルは冒頭に次のように言っている。

「キッチュという言葉が新しい意味で使われ始めたのは、1860年頃のミュンヘンである。南ドイツで広く使われたこの言葉は、「かき集める、寄せ集める」といった意味を表すのだが、さらに狭い意味では、「古い家具を寄せ集めて新しい家具を作る」という意味に使われていた。そして、キッチュという言葉から派生したフェアキッチュン(Verkitchen)という語は、「ひそかに不良品や贋物をつかませる」、「だまして違った物を売りつける」といった意味に使われていた。それ故、キッチュという言葉には、もともと、「倫理的にみて不正なもの」、「ほんものではないもの」という意味合いが含まれていたのである。

 十九世紀後半のドイツにおいて、まがいもの、不良品、贋物、模造品、粗悪品、といった意味合いで使われていたキッチュという言葉は、次第に広範に使われ始め、より一般的な概念となっていくのであるが、そこでは、キッチュは必ずしも具体的なもの-ニセモノやコピー-を意味するわけではない。また、単に一つの様式-一定の様式にこだわらない寄せ集めの形式-をさすわけではない。キッチュとは、一つの態度、すなわち、人が物に対してとる関係のあり方の一パターンでもある。さらに人々の存在の仕方、人間の精神や心理のあり方の一タイプをいったりする。キッチュとは、一つの現象なのである。

 そうしたキッチュをめぐる様々な問題については、A.A.モルの書物にまかせよう。手っとり早く、キッチュを理解するためには、具体例を挙げた方がいい。例えば、ディズニーランドはキッチュである。例えば郵便配達夫、シュヴァルが堂々とつくりあげた館がそうである。壮大な寄せ集めのキッチュである。J.ワンプラーの本には、シュヴァルのような名もない人々のキッチュの傑作が沢山集められている。あるいは、靴の形をした家だの、車の形をした店舗だの、そこらの中にキッチュはある。近代建築史の教科書の中にだって、キッチュを見いだすことができる。そうは教えられないのであるが、A.ガウディーやR.シュタイナーの建物はどうみてもキッチュである。アール・ヌーヴォーも全体としてそういっていい。自然を、植物や波のモチーフを鋳鉄で模倣する精神はまさしくキッチュの精神なのである。意外と思われるかもしれないのであるが、構造合理主義の祖と見なされるヴィオレ・ル・デュクもまたキッチュの天才である。彼の建築は、中世の城をイメージさせる様々な歴史的な断片からなっているのである。こうしてみると、折衷主義(エレクティシズム)、あるいはリヴァイヴァリズムと呼ばれる運動や精神には、深く、キッチュの精神が関わっているといえるであろう。H.ブロッホに依れば、キッチュは芸術における悪の体系と表現されるのであるが、「一滴のキッチュは、どんな芸術にも混入している」のである。

 何も難しく考える必要はない。そこら中にあるものはキッチュであり、あなたの部屋を見回せばそこにキッチュがある。外国旅行の土産物が壁にかかっていたり、大事にとってあったりすれば、あなたは、キッチュが何であるかを既に理解している筈である。ある種のエキゾティシズム、様々なものを所有しようという欲望はキッチュのものである。アイドルのポスターが貼ってあったり、レースのカーテンがかかっていたり、要するに部屋を飾りたてようとするところにはキッチュが潜んでいる。装飾、機能性を超えたある種の過剰はまさにキッチュの現れるところである。

 ところで、キッチュという言葉や概念が何故現代建築にとって重要なのかといえば、まさに建築のポストモダンと呼ばれる状況をキッチュ-ネオ・キッチュ-という概念で捉えられるからである。あるいは、アンチ・キッチュとして成立したのが新即物主義(ノイエ・ザッハリッヒカイト)であり、機能主義(ファンクショナリズム)であったと言えば、歴史的経緯を含めてわかり易いであろう。そしてさらに、キッチュという現象が現代社会の根本に関わっていると言えば、その重要性を強調できよう。

 キッチュという概念の発生は、市民社会の成立、そして市民(ブルジョワジー)の美学と密接に結びついている。十九世紀ドイツにおけるビーダーマイアー様式の発生はその象徴である。さらに、キッチュは大衆社会、消費社会という概念と密接に関わりをもつのであるが、言ってみれば、キッチュは芸術の大衆化、俗化の現象である。また、日常生活への芸術の取り込みであり、それへの判断でもある。例えば、百貨店やスーパーマーケットの成立とキッチュは大いに関係がある。群衆が集う、駅や商店街とも関わりをもつ。そこでは超越的なるものではなく、大衆の欲望に根ざした流行とコマーシャリズムが支配するのである。

 大衆消費社会における物のあり方、そしてキッチュについては、J.ボードリヤールの一連の著作が参考になるであろう。彼は盛んに、ガジェットとともにキッチュについて語っている。



 

 



2021年6月22日火曜日

インターナショナル・スタイル 宮内康・布野修司編・同時代建築研究会著:ワードマップ『現代建築ーーーポスト・モダニズムを超えて』

 宮内康・布野修司編・同時代建築研究会著:ワードマップ『現代建築ーーーポスト・モダニズムを超えて』,新曜社,1993


インターナショナル・スタイル

 

 




 インターナショナル・スタイル(国際様式)とは奇妙な言葉である。我々は現在この言葉を、ほとんど建築と同じ意味で使っている。しかし近代建築とは、それまでの様式建築を否定して生まれた建築である。したがって様式(スタイル)という言葉は嫌われたはずの言葉なのだ。

 ではなぜ近代建築が嫌ったスタイルという言葉が、当の近代建築を呼ぶ際に使われているのか。この謎解きをするには、この言葉が初めて使われた原典にさかのぼってみると良い。実はこの言葉が初めて使われたのは、近代建築運動が起こってからおよそ十年後、当初の運動の担い手とは一世代近く離れた若者達によって名付けられたのである。しかも彼らはアメリカ人であった。彼らは近代建築が起こったドイツやオランダを外側の人間として、謂はば旅行者の目で見てまわったのである。

 一九三二年、ヒッチコックとジョンソンの二人によって企画された展覧会がニューヨーク近代美術館で開かれた。これはヨーロッパの新しい建築をアメリカに紹介する展覧会だった。この時使われたインターナショナル・スタイルという言葉は、戦後アメリカが世界の建築の中心となったこともあって近代建築の同義語のようになった。しかしインターナショナル・スタイルという言葉は、既にこのときから、一九二〇年代のヨーロッパの近代建築運動とはあるずれを持った言葉なのである。

 一九三〇年前後は、近代建築の歴史の上で重要な時期であるように思われる。インターナショナル・スタイルという言葉が象徴しているように、この時期近代建築は大きく変質をとげたように思われるのである。まず第一に近代建築が始まって約十年という時の経過によって、第二に発生地であるドイツ、オランダ、ロシアなどから、イタリア、アメリカなどのまわりの国々へ空間的にも移植されることによって。

 インターナショナル・スタイルという言葉は我々に、近代建築の歴史を連続的に見ることを強いている。しかしここでは逆にインターナショナル・スタイルという言葉が持っている奇妙なずれを手がかりに、この言葉が発せられた一九三二年前後を境としての近代建築の変質を見てゆきたい。

 

 一九二〇年代の建築を考える時、我々は現在の目から、現在の建築のもととなったものだけ採り出して評価する傾向がある。こうして一九二〇年代は、インターナショナル・スタイルが形成される過程として描かれる傾向があるのである。しかし一九二〇年代を独自の時代として、現在と切り離して考えてみれば、この時代は新しい建築の在り方を模作する様々な実験の場であったと言えよう。それ自体としては玉もあれば石もある、様々な試行錯誤の場である。こうした視点から、この時代を次の四つに分けて考えてみる。

 

 一、表現主義、構成主義、機能主義等々

 二、ジードルンク

 三、バウハウス

 四、政治と革命

 

 第一番目は、形の構成の方法に関する様々な試みである。二〇世紀に入ると、それまでの組石造にかわって、鉄筋コンクリート造や鉄骨造の新しい構造方法が普及しだす。組石造は自由に開口部をとれないから、極端に言うと建築家の役割は、あらかじめ与えられた構造体の表面に、様々な様式の中から自分の好みにあった様式を張りつけるということにあった。新しい構造方法を手にした建築家達が否定したのは、そうしたそれまでの建築の在り方である。彼らは表面の意匠だけにかかわっていた建築家の仕事を三次元的、全体的な構成という仕事に転換させた。また様々な様式のうちから恣意的に選ぶという在り方を否定して、一意的に形態が決まるという理論を提示した。機能から形態が決まるという機能主義の理論はその典型で、そのうちの極端なものは決定論に近い性格を持っている。

 二番目のジードルンクとはドイツ語で集合住宅という意味である。十九世紀までの建築家とは結局のところ、形の追求をするというのが仕事であり、生きがいであった。それにはパトロンに恵まれなくてはならない。またもともと建築家とは宮殿や大邸宅、教会などを設計するのが仕事であって、一握りの国王の芸術家であった。一九二〇年代が建築にとって画期的なのは、このとき初めて建築家の側から主体的に何を建てるべきかが問題にされた点である。ジードルンクという労働者のための集合住宅が大きなテーマとなった。形の問題よりも誰の為のものか、今何を社会は必要としているのかが重要視された。

 三番目にあげたバウハウスは教育の問題である。十九世紀まで、そして今でも何ら変わらないが、建築教育の問題は政治や行政の側の問題であった。それに対してほとんど唯一の例外として一九二〇年代のバウハウスがある。ヴァルター・グロピウスという一人の建築家が理想としての建築家像を想定し、実現のための教育方法を考案し、さらに実際に予算をとりつけて実行に移したのであった。バウハウスは、建築家の想像力がどこまで遠く及びえたかを示す里程標となっている。

 最後に、この時期の建築家の行動の典型として、美を追求することより先に政治的な活動に直接関係していった事例を挙げておこう。彼らにとって、自分の設計した建築の造形を誇ることよりも、社会はどうあるべきか、そのために自分は何をなし得るかが問題だった。一九一八年、ドイツで結成された芸術労働評議会は、建築教育の国家統制撤廃、建築家への国家的名誉称号廃止などの建築綱領をかかげ、政治的実現のための政府への働きかけ、あるいは自ら閣内に入ろうという活動を行っている。またこの頃、多くの建築家が革命後のロシアの社会建設に参加するためにでかけていったのである。

 (一九三〇年代以降の形態への自閉化)

 一九二〇年代が、建築家の意識が社会全般まで拡大し、社会の中での建築の在り方を問い直す様々な試みが行われた時代であったとすれば、一九三〇年代は、建築家の意識が後退し、自己の職分を忠実にこなしていく実務家と化していった時代だと言える。そしてこの傾向は戦後に引き継がれたのである。ここでは次の三つの面から、それを検討しよう。

 一、第三帝国様式と社会主義リアリズム

 二、イタリアのラショナリズム

 三、アメリカと戦後の建築

 一九三〇年代に入ると、ドイツとロシアという近代建築の主要な舞台において、主に政治的な圧力による役者の交替が行われた。ヒトラーとスターリンによって、第三帝国様式と社会主義リアリズムというそれぞれモニュメンタルな様式が採用されたのである。新しく舞台に登った建築家は、自己の職分を能率良くこなすテクノクラートであった。しかし同時に、この頃多くの建築家が転向している。またさらに、こうした変化は一部の政治的圧力によるだけでなく、民衆をも含んだ全世界的な判断だったとも言えるのである。たとえば住宅について言えば、インターナショナル・スタイルの陸屋根よりも、ナチスのすすめた切妻屋根の伝統的な住宅の方が人々に好まれた。社会全般の問題として、自らの社会の混乱の原因を分析し、そのための処方を下していくという精神態度自体が放棄され、民族の伝統に同一化することで問題をやりすごそうとする傾向にあった。

 このように一九三〇年代に入るとドイツでは、ナチスのもとで建築の方向転換が行われたのに対して、同じファシズム下のイタリアでは、逆に近代建築の花が開くことになる。しかし一九二〇年代のドイツやロシアの建築と比べると、外見上はインターナショナル・スタイルの建築であるが、その内実はだいぶ異なっている。一九二〇年代の建築が社会の中での建築の在り方を問う試みの結果としてあったのに対して、ラショナリズムの建築は当初から、形態の問題としてのみ考えられて造られているからである。したがってむしろその精神としては、ラショナリズムの建築は同時代の第三帝国様式や社会主義リアリズムに似ているのである。

 最後にアメリカについて述べておこう。インターナショナル・スタイルという言葉の説明を通して初めに述べた通り、アメリカにおける近代建築の移植は一九三〇年代のことであった。この頃、ナチスドイツを逃れた多くの建築家がアメリカに疲れきってきているが、彼らが活動を始め、インターナショナル・スタイルが建築の主流になるのは戦後のことである。戦後、アメリカは世界経済の中心となるので、建築においてもアメリカは世界の中心となった。インターナショナル・スタイルは、一九二〇年代の建築とある断絶を持っているように思われる。一九二〇年代の試行錯誤の実験に対して、戦後の建築は、戦後の安定した経済基盤の上で量の供給と美的洗練だけを追求してきた。インターナショナル・スタイルという言葉を口にするとき、我々はこうした差異を見落として、思わず連続性のみ考えてしまいがちであるが、いま必要なのは、一九三〇年前後の、現在と一九二〇年代を隔てる切断を再確認することなのだと思う。




 

2021年6月21日月曜日

プレハブリケーション 宮内康・布野修司編・同時代建築研究会著:ワードマップ『現代建築ーーーポスト・モダニズムを超えて』

 宮内康・布野修司編・同時代建築研究会著:ワードマップ『現代建築ーーーポスト・モダニズムを超えて』,新曜社,1993



 プレハブリケーション

 

            




 プレハブと言えば、まず想起されるのが工事現場の「現場小屋」である。あるいは、庭先に置かれる「物置」である。すなわち、「仮の」、「仮設の」、「現場ですぐ組み立てられる」建造物のイメージがある。

 また、プレハブというと一般的に「プレハブ住宅」のことであり、極めて具体的なイメージがある。わが国で最初に販売されたプレハブ住宅は大和ハウスの「ミゼットハウス」である。一九五九年のことなのであるが、それに続いた「セキスイハウスA型」(一九六〇年)、「松下1号型」(一九六一年)、「ダイワハウスA型」(一九六二年)など初期のプレハブ住宅は、平屋建てで一部屋程度のいわばバラックである。そのイメージが強烈なのである。「安普請」で、「画一的」だというのがプレハブ住宅のイメージである。

 しかし、プレハブというのはもともとプレハブリケイティッド(              )の略であり、「前もって予め工場生産された」というのが原義である。「仮の」とか、「安っぽい」といったニュアンスはない。しかし、実際、「安上がり」の建築の代名詞として流布したのは極めてアイロニカルなことであったと言えるかもしれない。

 わかりやすいイメージをまず手に入れておこう。ユニット住宅あるいはユニット構法とよばれるプレハブ住宅がある。日本では「セキスイハイム」が有名であるが、要するに、内外装まで工場で仕上げた直方体のユニットを積み重ねるだけで住宅になるそんな構法である。この構法だと現場ではほとんど作業は要らない。在来構法による木造住宅、大工さんを主体に数ヶ月かけてつくられる住宅と比べてみればその違いは明かであろう。プレハブ建築というのは現場でつくられるのではなく、別のところ(工場)でつくられて運ばれてくるものなのである。

 建築というのは本来一品生産が基本である。そして、現場生産が原則である。建築というのは、古来、それぞれの場所で、一個一個つくられてきた。しかし、このプレハブという建築の形態は違う。プレハブリケーションという概念は、建築の概念を全く転倒させるものと言っていいのである。

 プレハブリケーションという概念が生み出され、プレハブ建築が現れたのは言うまでもなく産業革命以降のことである。すなわち、建築生産の工業化、産業化(                 )とプレハブリケーションとは密接に関わる。建築生産の工業化の進展の指標となるのがプレハブリケーションである。そうした意味では、プレハブリケーションという概念と近代建築の理念とは不可分に結びついているのである。

 現場から自由であるということは、どこでも同じように生産が可能だということである。ということは、現場の条件、例えば天候などに左右されることなく生産が可能だということである。その分工期が短縮できる。また、それぞれの現場で職人など建設労働者をその都度組織する必要はない。すなわち、工業生産化によって、現場生産における不確定要素をできるだけ排除し、工程を合理的にコントロールすることが可能となるのである。建築生産の合理化はまさに近代建築の目指したものであり、プレハブリケーションはその大きな手段となるのである。

 さらにプレハブリケーションの前提のひとつは量産化(               )である。もし一品生産を基本とするならば、プレハブリケーションは必ずしも意味がない。その都度工場をつくっていたんではむしろコストアップにつながるのは当然であろう。コストダウンを計るためには一つの工場、一つのシステムを繰り返し使用する必要があるのである。最も有効なのは、同じ住宅を大量生産するような場合である。この量産化によるコストダウンという理念は、近代建築家の「大衆のための」建築を!というスローガン、建築の大衆化の主張と結びつく。安価で大量の住宅を大衆に供給するためにプレハブリケーションの手法は様々に追求されるのである。

 最も有名なのは、  グロピウスのトロッケン・モンタージュ・バウ(               )と呼ばれた組立て式構法である。一九二七年のワイセンホーフ・ジードルングにおいて始めて試作されたのであるが、厚さ一五センチの金属パネルをボルト接合によって組み立てる方式である。w.グロピウスのこの試作住宅をもとに一九三〇年代にはカッパーハウスというプレハブ住宅が商品化されたのであった。

 レンガ造りやコンクリート造りと違って、モルタルや漆喰など水を使わないことからトロッケン(乾いた)・モンタージュ(組立)・バウ(建築)と名付けられたのであるが、「乾式構法」と訳され、日本の建築家にもすぐさま大きな影響を与える。市浦健、土浦亀城、蔵田周忠らによって同様の試みがなされるのである。また、日本の建築家による試みとして先駆的な位置づけを与えられるのは、前川國男と   同人によるプレモス(      )である。戦後まもなく山陰工業と組んで開発され、北海道、九州などで炭坑住宅として建設されたのであるが、この場合は木造のパネルによる組立住宅であった。

 またもうひとつ、プレハブリケーションの前提となるのは、建築の標準(               )、規格化である。そして、さらに、部品化である。量産化のためには同一のものを繰り返し生産することが基本となるのであるが、建築の場合、されは理念としてはあり得ても、必ずしも一般性があるわけではない。しかし、量産のメリットを追求するためには何らかの規格化が必要である。現実的には、標準型を考えておき、そのヴァリエーションによって個別需要に対応するのが自然である。さらに、建築を様々な部品に分けて構成し、建物は異なっても、できるだけ部品を共通とすることで量産のメリットを追求するのが普通の発想である。部品化という手法もそうした意味では建築生産の建物でも一般的使うことができ市販されるものをオープン部品、特定の建物にしか用いられない部品をクローズド部品という。

 建築生産の工業化、量産化、標準化、部品化といった概念とプレハブリケーションという概念はおよそ以上のようである。プレハブリケーションの手法は様々に進展してきた。もちろん、百パーセントのプレハブリケーションということはあり得ない。どんな建築でも具体的な敷地に建つ以上、わずかでも現場での作業は残るからである。しかし、逆に、今日、プレハブリケーションと全く無縁な建築も存在しない。プレハブ化率とか仕上現場依存率といった指標がよく用いられるのであるが、工場生産された部品を用いない建築は産業社会においてはあり得ないのである。

 こうしたプレハブリケーションという手法によって支えられる建築のあり方に対して、われわれはどのような建築のあり方を展望できるのか。極めて大きなテーマである。近代建築批判の根底に関わるといってもいい。

 プレハブリケーションは、建築を場所(土地)との固有な関係から切り離すことを前提とする。そして、そのことにおいて建築のインターナショナリズムと分かち難く結びつく。しかし、やはり本質的に建築というのは具体的な場所に建つことにおいてのみ意味を持つのではないのか。地域地域で固有な建築の表現が成立するのが本来適ではないのか。建築におけるヴァナキュラリズムやリージョナリズムの主張は、建築の概念そのものに関わっていると言えるであろう。

 プレハブリケーションは、建築を容器としての空間に還元する。すなわち、建築は計量化された空間となる。その空間はどこでも生産可能であり、それ故、どこにも移動可能である。またいつでも交換可能である。こうした建築のあり方、空間のあり方を最もシャープに主張したのはメタボリズム・グループの建築家たちである。すなわち、極めてわかりやすく言えば、諸装置のビルトインされたカプセルによって建築や都市は構成され、その空間単位の移動、交換によって建築や都市の新陳代謝が行われるというのがメタボリズムの思想である。

 しかし、建築は必ずしも計量可能な容器ではない。交換可能な商品でもない。建築の本来的なあり方を考えるために、このプレハブリケーションという概念は極めて重要であり、この概念を如何に解体し、また建築という概念を如何に再構築するかはわれわれの大きな課題といえるであろう。