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2023年6月15日木曜日

2023年6月11日日曜日

難波和彦著 建築的無意識 書評、産経新聞、19910528

難波和彦著 建築的無意識 書評

                布野修司

 

 先端技術(ハイテクノロジー)を積極的に用い、表現しようとする建築をハイテック・スタイルの建築という。ポストモダンのデザインと言えば、様式や装飾の復活を唱う歴史主義的なデザインが主流となってきたのであるが、ハイテック・スタイルもその一翼を占めている。しかし、ハイテック・スタイルといっても、それこそスタイルだけ、形態だけがもてはやされてきただけのような気がしないでもない。世にばっこするのは、きらきらと金属パネルを多用しただけの「ハイテック」風・デザインである。

 著者は、そうした風潮を批判しながら、建築とテクノロジーの関係を基本的に問おうとする。建築生産の技術、設計計画の技術、生活環境の技術と、いくつかの回路について考察が深められるのであるが、著者の力点は、感性や意識、あるいは身体のありようとテクノロジーの関係に置かれているようにみえる。SF映画と建築をめぐる論考が生き生きしている。

 「建築的無意識」というのは、無意識が言語によって構造化されているように、空間やモノによっても構造化されているという前提に基づいた著者の造語である。建築と人間との相互作用のシステムを深層において明らかにし、設計計画の方法論として展開するのが著者のプログラムである。

 極くわずかな例外を除いて、建築家の書く文章はわかりにくいとよく言われる。文章の能力はそれぞれのものとして、どうも、専門の枠の内に議論を閉じる癖があるのである。あるいは、建設の仕事に追われて忙しく、あまり考える暇がないのを糊塗するために、ことさら難しく書くという説もある。

 そうした建築論が氾濫する中で、本書はいささか趣を異にする。決してわかりやすいというのではないけれど、建築とテクノロジーの関係を真摯に考え抜こうとした本だ。好感がもてる。

 



 

2023年6月10日土曜日

AERA編集部編:建築学がわかる,AERA Mook,朝日新聞社,1997年9月10日

AERA編集部編:建築学がわかる,AERA Mook,朝日新聞社,1997910
AERA編:建築学がわかる,AERA Mook新版,朝日新聞社, 2004810

建築学の20

住居論

●どんな学問領域か

  住居を対象とする学問分野はとてつもなく広範囲にわたる。人がいかに住むかというテーマであればほとんど全ての分野が関わるといっていいのではないか。アリストテレスは『政治学』の中で、ポリスを村々の連合体、村をオイコスの共同体と定義し、オイコスすなわち家を社会生活の最小単位とした。このオイコスの学の系譜を考えると、エコノミー、エコロジーといった言葉がオイコスを語源とするように、住居論は政治経済社会の全般に関わってきたことがわかる。

 建築学における住居論は、まず住居の物理的な特性を考えることを出発点とする。すなわち、住む場所を形づくる諸要素、物や空間(部屋)の配列にまず関心をもつ。そして、具体的に住居を建てること、居住空間を創り出すこと、計画・設計・建設のための諸技術に関わっている。建築学は、およそ、骨組みの性能に関する構造系、音、熱、光、空気、水などの運動に関わる環境系、間取りや意匠に関わる計画系という三つの分野からなるが、住居論についても三つの系から様々なアプローチが行われている。

 住居論は決して個々の住居を対象にするのではない。住居がどう集合するか、そしてどういう町を形づくっていくかも大テーマである。都市計画、地域計画の分野にも必然的に広がりをもつ。さらに特に社会的弱者の住宅問題をどう解決するかは住居論の中心的課題であり続けている。住居論は、住宅政策、社会政策の分野にも当然関わりをもつのである。

●その面白さ 、魅力は

 なんといっても面白いのは一筋縄ではいかないことである。とても工学や建築学の枠内におさまりきらない。また、住居は全ての人に身近である。誰もが考えることができ、そして建てることができるのも魅力的である。

 住宅の間取りを考えてみる。間取りは一体どうして決まるのか。例えば、家族関係によって異なる。職業によって異なる。親族原理や、生業形態、社会的関係によって様々に規定されている。住宅の形を思い思いに考えるのは実に楽しいことである。住宅の形は、雨や雪、台風といった自然条件によっても規定されるが、個々人の好みにもよる。住居のあり方は住み手の自己表現である。世界中の住居や集落、都市のあり方を調べて、住居をめぐる多様な原理を学ぶのが最大の楽しみである。

 住居や集落は地域の生態系に基づいてそれぞれ一定の原理によってつくられてきた。例えば、それぞれ規模や意匠は違うけれど家並みとしては調和のとれた景観をつくりだしてきた。地域で採れる同じ材料でつくるからである。町並み景観は土地の住文化の表現である。そうした地域に固有な住居集落の成り立ちを明らかにすることはまちづくりを考える大きなヒントになる。

 住宅を実際建ててみることはさらに楽しい。様々な創意工夫が建築家の一番の楽しみである。誰でも建築家になりうる。ところが、いま、日本で住宅は建てるものではなく、買うものになってしまっている。カタログや展示場で選ぶだけになっている。残念なことである。 

●目下のテーマは

 この一〇数年間、インドネシアのスラバヤを中心として都市カンポン(集落)について調査研究してきた。人々が密集して住む地区を歩き回って住居の図面を描いたり、インタビューしたりする。文化人類学的手法に近いかもしれない。調査結果をもとに新しいタイプの集合住宅を実験的に建ててみた。スラバヤ工科大学のJ.シラス教授のチームとの共同研究である。

 また、都市だけでなく、時間を見つけては山間部など東南アジアの各地に残る民家を調べて回った。日本の住居の伝統と比較するのは実に刺激的である。さらにここしばらく、ロンボク島のチャクラヌガラという都市とインドのジャイプールという都市の比較を試みつつある。ヒンドゥー教徒とイスラーム教徒がどう棲み分けするかその原理を明らかにするのがテーマである。また、二つの都市は格子状の街路パターンをしており、京都のような日本の都市を含めた中国やインドの都城との比較研究が目的である。もうひとつの視点は、都市型の住居をどう考えるかである。アジアには集合住宅の伝統は比較的希薄であるが、ヨーロッパとは違った伝統がある。そうした研究のためにカトマンドゥ盆地やイスラーム圏にも足をのばしつつある。これからは住居研究も国際的な共同研究が不可欠である。21世紀には危機的な状況を迎えるとされる居住問題、エネルギー問題、環境問題にどう対処するかは大問題である。そうした大テーマに関連しては、湿潤熱帯用の環境共生住宅(エコサイクル・ハウス)についての実験を開始したところである。

 

私の好きな日本の建築家

 新居照和・ヴァサンティ

 徳島で活躍する建築家夫妻。といってもまだ住宅作品がいくつかできたところだから無名に近い。石山修武、大野勝彦、山本理顕、渡辺豊和、毛綱毅曠、元倉真琴といった好きな建築家は数多いけれどそれぞれエスタブリッシュメントになってしまった。最近好きなのはこのご夫妻のように地域で頑張る建築家たちである。ヴァサンティさんはインド人。共にアーメダバードの建築学校でドーシに学んだ。ドーシはL.コルビュジェやL.カーンのインドでの仕事を助けたことで知られる。インド第一の建築家といっていい。期待するのは、インドという風土で建築を学んだ体験と培われた眼である。単に地域に埋没するのではなく、世界と地域を同時に視野におさめながら表現する方法である。同じ意味でアジア人に限らず日本で仕事する若い欧米人にも期待したい。新居さんはインドで徹底して絵画を学んだオーソドックスな建築家である。一方、新居夫妻は合併浄化槽の設置運動など環境問題にも積極的に関わる。実にユニークである。


プロフィール

Shuji Funo、 京都大学建築学科助教授、1949年島根県生まれ、東京大学大学院博士課程中退、著書に『スラムとウサギ小屋』『住宅戦争』『カンポンの世界』『住まいの夢と夢の住まい』など








 

2023年6月7日水曜日

清渓川「再生」の衝撃,居酒屋ジャーナル2,建築ジャーナル,200608

   清渓川「再生」の衝撃,居酒屋ジャーナル2,建築ジャーナル,200608

 清渓川[再生]の衝撃

 布野修司

 

清渓川[再生]事業は、想像以上に衝撃的であった。

「実際見るまでは?」、と疑心暗鬼であったわけではない。既に日本語で清渓川プロジェクトについての本も出ているし、実際見てきた人の話も聞いていた。小池百合子環境相が絶賛し、伝え聞いた小泉首相が、「東京の日本橋の高速道路もなんとかならないか」と発言、影響は日本にも及んでいる。日本橋界隈のまちづくりをめぐって委員会が立ち上げられているのである。首都の都心から高速道路を撤去するという、その事業がとてつもなく画期的であることは直感を通り越して確信するところであった。しかし、これほどまでに複合的かつ重層的なねらいを持った錬りに錬られた計画とは思わなかったのである。「ソウルの革命」は、決して大袈裟ではない。

 

アジアに学ぶーー都市・建築の再生という課題

日本建築学会の建築計画委員会の委員長に選出されて(200510月)最初の仕事が、委員長担当マターだという2006年度春季研究集会の企画(62日~4日)であった。秋の研究発表大会とは別に、春には建築計画委員会独自に、例年、話題の作品やプロジェクトの行われた地域に出掛けて見学会や講演会、シンポジウムなどを行うのが恒例である。すぐさま思いついたのは、春季研究集会を国外、アジアのどこかで行うことである。この間、アジア建築交流委員会の委員長を務めていて(20012006年)、アジア国際建築交流シンポジウム(ISAIA)への日本人研究者の参加を組織してきており(2002年:第4回重慶大会、2004年:第5回松江大会、2006年:第6回大邱大会)、また、日中韓の三建築学会が発行する英文論文集(JAABE)委員会のフィールド・エディター(日本委員長:2005年~)としても、建築計画委員会のアジアへのフィールドへの参画が必要だと痛切に感じていたからである。

結果として、ソウルにおいて行うことにしたのは、第一に、講師に御願いした朴勇換(火ヘン)教授(韓陽大学)、金泰永教授(清州大学)をはじめ、韓三建准教授(蔚山大学)など韓国の研究者たちとのパイプ(研究交流)があったことが大きい。朴勇換教授は、東京大学の建築計画講座(鈴木成文研究室)の出身で、共に学んだ学友(先輩)である。金泰永教授は、朴重信(滋賀県立大学客員研究員)を通じて、日本人移住漁村に関する共同の調査研究を行ってきた。また、韓三建准教授とは、京都大学で慶州、蔚山の都市形成史について共同研究したことがあり、現在、その弟子である趙聖民君(滋賀県立大学博士後期課程在籍)と一緒に鉄道官舎を核とする旧日本人町の調査研究を展開中である。そして第二に、ソウル周辺で、面白いプロジェクトが陸続と行われているという、このネットワークから得られた情報によるところが大きい。

そして第三に、もちろん、この清渓川の復元再生事業が最大の関心としてあった。琵琶湖の辺(ほとり)にある滋賀県立大学(彦根)の環境科学部に属していることもあり、また、最近、宇治川(京都府)の平等院および塔の島周辺の景観委員会、また、故郷でもある松江(島根県)の、宍道湖と中海を繋ぐ大橋川改修に伴う景観まちづくりにコミットし始めたこともあって、川について学びたいという願望が個人的に強かった。しかし、建築計画委員会であるから、清渓川だけでは企画にならなかったであろう。ソウル市立美術館(旧京城裁判所のコンヴァージョン)、ソウルの森(浄水場の再生)、サンスン財団のリウム博物館(クールハウス、ボッタ、ヌーベル)などのメニューがあって、企画が可能となった。

当初は、安藤正雄、宇野求、松村秀一の各先生の予定を押さえ、十人程度でも密度の濃い研究集会ができればと思っていたのであるが、参加者は50人を超えた。それほど、清渓川[再生]事業についての関心は高かったのだと思う。

 

ソウルと清渓川

最初にソウルを訪れたのは、1976年のことである。当時は戒厳令が布かれ、24時を回ると外出禁止であった。明洞のホテルに泊まっていて、大慌てで帰宅する酔客を目撃したことを思い出す。二度目は、79年、地下鉄で写真を撮って、フィルムを寄こせと警察官にものすごい形相で難詰された。それから30年、何度もソウルを訪れているが、隔世の感がある。

1995年には北朝鮮を訪問(5月)した直後(7月)、空間社のサマー・スクールに出掛けて、スライド・レクチャーをしたりしたこともあるー日本の当局から不審がられて問い合わせを受けた。空間社を金壽恨の死(1987年)後、その跡を継いだ張世洋が呼んでくれたのであるが、彼とは同い年で飲み友達であった。実に惜しいことに、彼も師と同様、釜山でのアジア大会競技場の建設中に、過労死したー。

この1995年は、太平洋戦争後50周年の節目の年であった。前年、旧朝鮮総督府(国立博物館)を爆破解体する、という報道がなされ、その帰趨が注目されていたが、結局、このデ・ラランデによる傑作は、解体されて今はない。「日帝断脈説」という。日本帝国主義が、「大韓民国」の命脈を断つために、風水上の要地(脈)に杭を打ち込むがごとくに建設したと考えられていたのが旧朝鮮総督府である。保存を訴えた日本人研究者もいたが、どんな傑作であれ、壊されるべき建物はある(ポリティカル・コレクトネス)と僕は思っていたし、今でもそう思う。朝鮮総督府建設の際に、柳宗悦と今和二郎がその解体を惜しんだことが救いであったが、そのため移築され難を逃れていた光化門は元の位置に戻され、景福宮周辺はかつての姿を想起させるかたちに復元されている。

清渓川の水源(漢江の水をポンプ・アップする)が置かれたのは、この景福宮とそう離れてはいない。風水上の祖山である北岳山を焦点とする南北軸上、景福宮の南に位置する。そして、その南、西側には徳寿宮、東側向かいにはソウル市役所がある。このソウルの目抜き通りは、李氏朝鮮王朝の太祖が首都と定め、第三代太宗が遷都した時から、ソウルの中心である。市庁舎前広場は、ほんの小さな広場だけれど、ワールド・カップ・サッカー(2002)の時に、パブリック・ビューイングの場所となって以来、ことある毎に数十万人が蝟集する韓国一の国民統合の象徴的場所になった。

清渓川は、北の北岳山、仁王山、漢江を背にする南山、そして東に位置する駱山(駱駝山)から流れる小川を集めて東流する。その名がかつての姿を思わせるが、朝鮮時代初期から、乾期の汚染が酷く、洪水を繰り返すことから、埋立て論があったという。偉いのは、太宗で、河川を埋めるのは自然の摂理に反すると、そうしなかったという。治水、利水の悪戦苦闘があって、清渓川の原型が出来上ったのは、第十代英宗の頃(18世紀半ば)という。

この首都のど真ん中を流れる清渓川が人びとの生活において大きな意味を持ってきたことは言うまでもない。そして、日本統治期、さらに独立後の都市発展の過程で、その意味を失ってきたであろうことも想像に難くない。日本統治時代に、暗渠化の提案がなされ、一部実施されている。また、1958年から1978年にかけて実際暗渠化が行われたのである。清渓川は、上下水道、電気設備他のインフラを収めるトンネルとなるのである。それと並行して(19671976年)建設されたのが清渓高速道路である。清渓川は、ソウルの都市発展の軌跡をものの見事に象徴していたのである。そして、清渓川[再生]事業は、また、ソウルのみならず多くの都市の行方を指し示しているように思える。

以下、研究集会(「韓国における建築計画の現状」朴勇換(ひへん)、「近代化遺産の保存と再生」金泰永、「韓国における都市再生の試みー清渓川復元ー」許火英(ひへん))での、清渓川復元プロジェクトを陣頭指揮した許火英(ひへん)・現ソウル市住宅局長のパワー・ポイントによるプレゼンテーション(Cheong Gye Cheon Restoration Project- a revolution in Seoul -)の要点を記してみたい。プロジェクトの概要は、春季研究集会のために、朴重信、趙聖民および滋賀県立大学の学生諸君によって用意された資料に委ねたい。

 

ソウルの革命―清渓川【再生】事業の目的

許火英(ひへんに英)のプレゼンテーションは、「ソウルの革命」をサブタイトルとする。まさに「革命的」事業である。

何故、復元かについて次の4つの理由があげられる。

1 Paradigm shift of urban management

Development à High quality of life

Functionality and Efficiency

Environmental protection and preservation

Human-oriented and Environment-friendly city

2 Recovery of 600 year-history and culture

Rediscover of Seoul’s historical roots and original look

Cultural space for all citizens

3 Fundamental solution to safety problem

Structures (covering and elevated highway) beyond repair

Deterioration accelerating severe pollution of stream

4 Revitalization of downtown area

Stimulate urban redevelopment of neighborhood around CGC stream, a slum due to dilapidated buildings aged 40-50yrs

機能性や効率ではなく環境保護と保存を唱い、都市管理のパラダイムシフト(1)を第一に掲げるプロジェクトの目的はわかりやすい。これが単なるお題目ではないことは事業内容が充分示している。加えて、600年の歴史的環境、景観を復元する、という目的(2)も、上述のような、ソウルの歴史文化的核心に位置することから明快である。景福宮の復元から連続する事業と言っていい。景福宮から昌徳宮(秘園)の間には、旧漢城の北村がある。約860棟の韓屋が残っている。「冬のソナタ」の撮影地となったことから、日本でもよく知られるようになった。事業に先立って、歴史文化遺跡調査が行われ、かつての石橋など遺構が発掘されてもいる。

一方、実際には、環境再生を目指さざるを得ない直接的な理由があった。

清渓高速道路(南山1号トンネルから馬場洞まで全長5.8km)は、建設後20年を経て、劣化が明らかになり(19911992年調査)、補修が必要となっていたのである。高速道路撤去決定の段階では、一時しのぎの補修、改修ではとても経済的にも物理的にも間に合わない状況であった。加えて、清渓川の汚染、クロム、マンガン、鉛など重金属による汚染が大きくクローズアップされていた。すなわち、安全の問題(3)の理由が発端である。

しかし、だからといって、高速道路の撤去、暗渠の撤廃という、ことにすぐさまつながるわけではない。莫大な損失と過去の失政を認めて、しかも、さらに大きな投資を行う決断は並の政治家にはできないだろう。清渓川復元を公約に掲げて当選した李市長の豪腕がすごい。次期大統領候補の噂もさもありなんである。このプロジェクトが真にねらいとするのが清渓川周辺の町の活性化(4)である。清渓川周辺には、50坪未満の建物が密集しており(6,026棟)、露店も多い(約500店)。清渓川[再生]を都市[再生]へと結びつけられるかどうか、これが今後の展開を含めて、真の評価の鍵となるだろう。

こうして1~4の目的が整理されるが、プロジェクトの実施に当たっては、さらに大きな問題がある。高速道路を撤去することが果たして可能か。交通問題が解決されなければ、絵に描いた餅である。

 ソウル市が採ったのは、迂回道路の新設、駐車場の整備、一方通行システムの導入、曜日毎の運転自粛制、バス、地下鉄など公共交通機関の輸送能力の増強など多岐に亘る。公共交通機関利用、不法駐停車禁止のキャンペーンも展開された。

今回の事業で、清渓川に架かる22の橋のうち、7つは歩行者専用とされた。すなわち、車依存から、歩ける都市への転換という方向も含意されているとみていい。いずれにせよ、清渓川復元は、第5の目的、都心交通システムの再編管理を前提とすることになる。清渓川[再生]事業が可能となったのは、この前提条件をクリアできたからである。どんな都市でもできるというものではおそらくない。

 さらに、清渓川の河川(流域面積61km2、総延長13.7km、幅2085m)としての再生も大きな問題である。清流が蘇るのでなければプロジェクトは台無しである。清渓川は、上述のように、集中豪雨の際には溢れる危険性があり(実際20017月、市庁周辺の中心部が洪水被害を受けている)、逆に干上がる時もある。内水処理の断面を充分考慮し(200年確率で、118mm/時を想定)、自ら水量を確保できない清渓川への用水は、高度に浄水処理を前提として漢江の水(120,000t/日)および地下鉄からの地下水(22,000t/日)が用いられることになった。この条件も、プロジェクトの成否には決定的である。漢江の存在が無ければ、成り立たなかった事業である。都市河川(平均水深40cm)ではあるが、随所にビオトープや湿地、緑地、魚道が配され、自然生態の再生も目指されている。撤去解体工事で発生する残滓物のほとんどもリサイクルされている。

 そして、以上に加えて、5.84㌔にも及ぶ清渓川周辺住民(60,000店舗、200,000人)の合意が必要である。20027月の計画発表から着工(200371日)までに、4000回を超えるヒヤリング、説明会が行われたというが、驚くべき短期間での合意形成である。もちろん、工事中の不便のために駐車場料金を補償したり、融資による支援、移住希望者や露店商への対応など、きめ細かい具体的な対策もとられた。目的というより、合意形成は事業の前提であり、ソウル市民にとって大きな経験となりつつある。市民が一本、一本植樹する「ソウルの森」(20056月開園)が市民参加型の公園として実現しつつあるのも、この経験と無縁ではない。行政当局にとって、真の「住民参加」「市民参加」の実現は最大の目的なのである。それにしても、事業担当者の、この事業にかけたエネルギーは想像を絶する。

 

清渓川[再生]事業の評価

火英・ソウル市住宅局長は、2003年1月から20063月まで、この三年間の事業前後についてのモニタリング(影響評価)結果について報告してくれた。

交通状況は、朝のピーク時で1718km/時、夕方のピーク時で12㎞/時、酷く悪くなってはいないという。流入出台数は、ソウル全体の数字であるが、156万台から127万台に減った(18.6%源)。清渓川高速道路を利用していた車は一日平均102,746台(清渓道路が65,810台)で、10万台の減少以上の効果があったことになる。中心業務地区の地下鉄乗降客は13.7%増えたという。周辺住民からの大きな反発はなく、むしろ、歩行者、商店の顧客は増えているともいう。

交通量が減れば、環境も大きく改善されるのは道理である。大気中の二酸化窒素NO2濃度は、69.7ppb.から46.0 ppb.に減った(34%減)という。水質も100250ppm12ppmBOD)となり、川がまさに蘇った。騒音レヴェルも減少、風の道が創出された。7月の気温は、一日だけの測定であるが、清渓川の街区側(36度)と川辺(28度)で大きく異なり、8度も低くなった。環境改善は、諸指標によるまでもなく、一目瞭然である。大気、水質、騒音、臭い、昼光、風などについての世論調査も8割は改善されたと判断しているという。

自然生態環境も大きく改善されつつある。魚類は、3種から14種に、鳥類は18種に、昆虫は7種から41種に、それぞれ増えたという。生物多様性は、環境評価の大きな指標である。

そして、許火英・ソウル市住宅局長がプロジェクトの効果として掲げたのが以下である。

1 Changes in the urban management paradigm

2 Historic restoration

3 Nature & ecological restoration

4 CBD regeneration

5 Good example of

solving conflicts over a public project

 ほぼ目的に掲げたことを確認するかたちであるが、5にあげるプロジェクト・マネージメント、合意形成についての経験がいい先例になったというのは、プロジェクト担当者の実感でもあり、自負でもある。

 プロジェクトの具体的内容については、様々に評価すべきことがある。ランドスケープ・デザイン、照明デザインなど、様々な議論があるだろう。また、沿線各地区のまちづくりについてはこれからである。残念ながら、今回は全区間について見て回る時間がなかった。

 

 さて、以上が、舌足らずであるが、清渓川[再生]事業の衝撃のいくつかである。事業の最終評価は、もちろん、後世に属すことになる。しかし、現時点で、日本が学ぶべきことは少なくない。

 何よりも評価するのは、事業の総合性である。言うまでもなく、単なるランドスケープ・デザインの先例なのではない。都心の骨格に関わって、インフラストラクチャーも含めた、歴史・文化・環境の総体に関わる事業であることである。清渓川からかつての橋の石材が次々に掘り起こされたことが象徴するように、都市の起源、その発祥の原点に触れる事業である。また、都市の依拠する自然を再発見する事業である。これこそ真の「都市再生」事業というべきである。

 「都市再生」とは名ばかりで、規制緩和による都市「再」開発が喧伝される日本の「都市再生」とは次元が違うと言わざるを得ない。

 また、驚くべき短期間に事業が実施されたことは驚嘆に値する。この強烈なトップダウン方式と合意形成の手法は、大いに研究する必要がある。長い時間をかけて、結局は、理念的にも空間的にも中途半端な結果にしかつながらないのが日本の都市再開発である。

 清渓川という川の特性、その規模や機能、立地などがプロジェクトの「成功」に関わっていることは言うまでもない。大阪や東京など、直接海につながる河川ではおそらくさらに複雑である。交通問題にしても、単純ではないだろう。

しかし、環境再生の試みについては、日本でも、すぐさま直接的に大いに参考になるのではないか。日本の河川、とりわけ都市河川が、その本来的な姿を失って久しい。一方、都市洪水が頻発する。異常気象もさることながら、都市環境そのものが「おかしくなっている」という他ない。各地で河川[再生]の試みが成されているが、単に景観意匠の問題に矮小化されている場合が少なくないのではないか。宇治川、大橋川で考えているのは、河川改修(治水)に絡んだ環境[再生]、さらには都市[再生]への筋道である。問題は、環境[再生]が、清渓川の場合のように、地区の経済活性化にもつながる、という条件が多くの都市の場合見出せないことである。

 

successful project management


2023年6月2日金曜日