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2024年12月4日水曜日

ダイニング・キッチンからnLDKへ、早川和男編:講座 現代居住全5巻 第2巻 家族と住居,東京大学出版会1996年7月

 早川和男編:講座 現代居住全5 2 家族と住居,東京大学出版会19967


12.ダイニング・キッチンからnLDKへ

 

 核家族の器

  戦後日本の住宅のモデルとなったのが「51c型」住宅である。いわゆる2DKの原型である。51cとは、1951年の公営住宅の標準プラン(間取り)abcのうち、cのタイプ(吉武泰水・鈴木成文)を意味するi。「51c型」の計画にあたっては以下の3点がテーマであった。①小住宅でも寝室は2部屋以上確保すべきである。②食寝分離のために少なくとも朝食がとれるような台所とする。③バルコニーや行水や洗濯のできる場所、物置、水洗便所といった生活を支える部分の重視。「51c型」住宅が歴史に記録されるのは、そのプランにおいて、日本の戦後(近代)住宅の象徴となるダイニング・キッチン(DK)が生み出されたからである。

 ダイニング・キッチンと戦後の日本人の生活は密接に関わる。ひとつには女性の立場の変化を象徴する。戦前の住宅では台所は裏側に隠されていて、そこで働く女性も家族の中では裏方であり社会的にも表にたつことは稀であった。ダイニング・キッチンの導入により、台所が生活の表舞台に現れることになる。核家族を基本とする住居には女中部屋がなくなり、女性の社会進出を促す生活スタイルが、家事の軽減を図るために間取りの変化を要求したのである。また、高度経済成長を支えた労働力の編成の問題として考えると、核家族の器として2DKは産業社会のニーズに応え、大いなる貢献したことになる。

 

 台所革命

 台所が食堂と並んで明るい位置に配置されたことは大きな革命である。そして、1950年のステンレス流し台の登場は2DK公団住宅にさらなる魅力を付加した。それまでの流し台はコンクリートに御影石のかけらを入れて磨き上げた人研ぎ流しであった。あるいは、タイル張りであり、トタンであった。住宅公団(1955年設立)による住宅建設とステンレス流し台の生産普及は同時進行であるii。当初、椅子式生活に慣れないことを考慮してダイニング・キッチンには食事用テーブルが備え付けられていた。「ステンレス流し台」と「食事用テーブル」はダイニング・キッチンには欠かせない要素として定着していくのである。ブームは「団地族」という言葉まで生んだ。2DK公団住宅での生活は、サラリーマンの憧れであった。ダイニング・キッチンを新しい生活の象徴として扱い、そこに積極的にモダンリビングのイメージを重ね合わせようとした意図があったのであるiii

 ダイニングとキッチンの一体化から誕生したダイニング・キッチンは、後にリビングが加わることで、家庭生活の中心的地位を確立していく。その過程で、台所に電化製品が次々に導入される。冷蔵庫、電子レンジ等調理器具だけでなくテレビが持ち込まれ、ダイニングには本棚が並んだ。ダイニング・キッチンは南面するよう計画されていて家族が必然と集まるように、そう仕向けられていた。ダイニング・キッチンは茶の間の役割も担うことになる。

 

 nLDK家族

 ダイニング・キッチンと4.5畳と6畳の二部屋からなるこの小住宅(2DK)のプランを生み出したのが食寝分離論(西山夘三)である。狭くても食事の場所と就寝の場所は分ける。そのために食堂が台所と一緒になってもやむを得ない。朝はダイニング・キッチンで簡単に食事をして夫婦共に働きに出かける、そんな家族像が戦後日本の出発点である。

 その後の展開もわかりやすい。戦後復興から高度経済成長期にかけて住宅の規模は拡大していく。食寝分離が保証された後は公私室の分離が目指される。リビングの誕生である(2LDK)。そして次は、個室の確保が目指される。1960年を過ぎた頃、3DKとか3LDKが日本の標準住宅となった。興味深いのは、この形式が農家住宅にも一気に普及していったことである。こうして日本の住宅と言えばnLDKという記号になる。

 nLDKとは核家族n人の住居である。今でも住宅の立地と形態(集合住宅か戸建住宅か)を知って、nLDKと聞けば、家族の形はイメージできる。驚くべき画一化であるといっていい。しかし、それだけ家族のかたちも一定であったのである。nLDKという空間形式が家族のかたちを表現した。だから日本の戦後家族はnLDK家族なのである。

 高齢化、少子化、女性の社会進出、熟年離婚・・・等々、家族を取り巻く環境はこの間大きく変化しつつある。そうした流れの中で総じて家族のかたちは多様化しつつある。家族の基礎である男女(個人と個人)の結びつき(婚姻)が急速に流動化しつつあるのである。家族は個人化しつつある、といってもいい。はっきりしているのは、高齢単身も含め独身期間が長期にわたり、単身居住が増えることである。

 この家族のゆらぎに対して、どのような居住空間を用意すべきか。予め言えるのは、多様な家族形態を受け入れる空間が日本にはほとんど用意されていないことである。

 

i 鈴木成文「住まいにおける計画と文化」

ii 公団仕様のステンレス流し台は1956年、浜口ミホらによって共同開発された。

iii ⅰに同じ

 

2024年12月3日火曜日

ヴァージニア工科大学とのワークショップ 「木の移築」プロジェクト,SSF NEWA,1997

 SSF NEWS 

ヴァージニア工科大学とのワークショップ 「木の移築」プロジェクト

布野修司

 

 6月4日、ヴァージニア工科大学の学生たちと京都大学京都造形大学の学生たちが、「ピラミッド匠の広場」(滋賀県八日市市)でワークショップを開いた。

 レイ・キャス教授率いるヴァージニア工科大学のプログラムは実に興味深い。近い将来日本の民家を解体してアメリカに移築しようというのだ。「木の移築」プロジェクトという。プロジェクトの中心は、京都で建築を学ぶピーター・ラウ講師である。まず、初年度は民家を解体しながら木造の組み立てを学ぶ。そして、次年度はアメリカで組み立てる。敷地もキャンパス内に用意されているという。米国の大工さん(フレーマー)も協力する体制にあるという。SSFとして協力したらと思う。

 今年は、とにかく何か共同製作しようという話になった。指導は彫刻家大倉次郎氏である。木彫で海外にも知られる。作業は簡単といえば簡単であった。墨で線を引くだけである。とにかく筆の赴くままに無心に引け、という。意識してパターンをつくってはいけない、という。交代して順番に引いていく。前の人の線が気になる。ルールは、前の人の線に接してはいけない、ということである。

 まず、紙の上に木や竹、石などを置く。これも構成を意識せずにばらまく。置かれたものをよけて線を引くのもルールである。

 やってみると意外に面白い。筆の太さによって線は規制されている。個々の線に個性はでるけれど、全体として統一感は自然にでてくろ。一心不乱に引いて、共同でひとつの作品ができる。貴重な体験であった。「木の移築」プロジェクトもなんとか成功させたいものである。

 

2024年11月30日土曜日

構造工学からみる建築設計・都市設計・都市計画、和田章・神田順 佐々木晶二・松田達 司会宇野求、第5回けんちくとーろん/建築を巡るディスカッション、建築討論、2014

 5回けんちくとーろん/建築を巡るディスカッション

第5回けんちくとーろん (aij.or.jp)

 

 

宇野:今日の「けんちくとーろん」のタイトルは「構造工学からみる建築設計・都市設計・都市計画」です。ゲストは、和田章先生と神田順先生をお迎えしました。お二方とも構造工学のオーソリティーです。和田先生は、若い頃、日建設計で超高層建築を日本のパイオニアとして設計をされて、その後、東京工業大学で研究・教育に従事されてきた先生です。神田先生も構造分野のエンジニアであり大学教授です。鋼構造が専門で風や地震など様々な形の外力が加わったときの構造物の応答挙動について研究してきました。

 

今回は、構造工学と都市計画という普段はあまり見られないコンビネーションのテーマで討論できないだろうか、と考えました。現代の都市計画の状況あるいはこれからの都市開発の方向性について、構造工学の専門家として、個人として、どのような考えをお持ちなのか、ゲストの先生方に率直に話し合っていただこうと思います。

 

なお、今日は、都市計画の専門の方お二人にも、ゲスト・コメンテーターとして参加していただいています。ご紹介します。まず、佐々木晶二さんです。佐々木さんは、東日本大震災が起きた時に都市局総務課長をされていた方です。文官の立場から復興に尽力されてきました。もう一人は、松田達さんです。東大の都市工学科の出身で、大学院は建築学専攻に進まれました。都市と建築と両方をまたいで勉強する人が少なくなっている時代にあって、ユニークなポジションを取っている若手建築家だといえると思います。東大都市とし工学系のセンターで助教もやっています。松田さんは、建築学会の「建築文化週間」という催しで、新国立競技場の問題についてのシンポジウムを企画プロデュースする等、多方面で活躍している人です。お二人からは、構造工学の先生方のお話を聞いて、後ほどコメントをいただければと思います。

 

はじめに、私からスライドを用いて今日のテーマの大枠をお示しします。これは、ニューヨークのマンハッタン島の航空写真です。ミッドタウンとダウンタウンに、超高層建築が集中して立ち並んでいます。地下の浅いところに岩盤があるので、重い建築を堅固に経済合理的に建てることができるからだと説明されています。一方、日本の大都市では地盤のよくない低地や臨海部の埋め立て地に超高層が建ち並んでいます。最近の東京ですと、谷と名前の付くようなところに超高層建築が建設されています。丘を切り崩して巨大なビル群が建設されたり、そういうことがこの30年ほどのあいだに次々と行われました。それなりに理由はあるのですが、足元がいいとは言えない所に造っているのです。建築物だけ見ると、アメリカにならって耐震工学を学習研究して、日本の地震にも堪える建築物をつくってきたと言い得るのかもしれませんけども、いい街を創ろうとする観点、つまり自然環境の中に人工物環境をどのように造るべきかという観点からすると、ニューヨークと東京はだいぶ違うことをやってきたのだということができます。構造工学の先生方から見た時に、現在のそのような日本の都市計画や都市開発はどのように見えるのか、そういうお話しを聞かせていただけたらと考えました。

 

例えば、大都市でなくても日本の鉄道駅は、一般的に、地盤のあまりよくないところに位置しています。もともとは、駅は町のはずれに造られたからです。現代の都市開発は土地利用と地表で展開される経済活動等に力点が注がれていて、いわば経済優先の開発が推し進められているわけですが、これを構造工学の観点から見るとどのように考えることができるのか。もちろん技術の進歩によって、地盤地質のよくないところに巨大な建築や複合建築を造ることはできるようになってはいるのですが、地形、地質、地盤が多様で複雑で、しかも大きな地震が多発する島々にわれわれは暮らしていますから、地表面の土地利用だけでは語れないことも多々あろうかと思います。技術と資本を投じて都市をつくっているわけですから、どのように都市を設計するのがより妥当なのか?構造工学の専門的な観点から、いろいろお話いただけたらと思います。

 

少し前振りのお話しをさせていただきます。100年ほど前に高層建築が建ち始めたのはアメリカ合衆国のシカゴからでした。20階建てほどの鉄骨造建築を建てることができるようになり、少し遅れてニューヨークのマンハッタンに超高層建築が建てらるようになります。それから、100年経った現在、世界各都市に超高層建築が建てられるようになりました。シカゴはアメリカ中西部の代表的な都市で、五大湖のうちの一つミシガン湖のほとりにあります。時代時代に造った建築を建ち並べて、100年間の建築の意匠と技術を同時に眺めることができる都市景観を造り上げてきています。日本の街の造りかたとは、だいぶ違っていて、大切に造って大切に使っていこうというわけです。ミース・ファン・デル・ローエ設計の鉄とガラスのコンドミニアムがレイク・ショア・ドライブという自動車道路沿いに建てられたのが、1951年ころ。近代建築の代表的なメルクマールになって、今日の世界の都市の鉄とガラスの超高層建築がつくられるようになりました。

 

プレーリー(大平原)が広がる360°水平線を見渡す水辺にシカゴという都市は位置しています。周辺は低層ですが、集中的に高層をつくっています。人口がどんどん減って荒廃していた時期もありますが、この10年間ほどで都市再生のムーブメントが推進され、それが結実して、新しいランドスケープ、新しい超高層が、既成の都市にうまく上書きされて見事な美しい現代ならではの都市空間を創出して、世界から注目を集めています。

 

初期の高層建築であるシカゴ・トリビューンという新聞社のビルを見て分かるように、シカゴの高層建築は、パブリックなオープンスペースと共につくることが、はじめから、プログラムされています。レイク・ショア・ドライブ・アパートメントもまた超高層建築とオープンスペースが対になって設計されています。シカゴは、平坦な大平原と大きな湖の際に位置する都市ですから湿地帯でもあり、地盤もいいとはいえず、運河を造り川を繋ぎ街は造られてきました。治水利水の役割りがとても大切です。その意味では日本の都市と似た条件を持っていて、高層建築、超高層建築を建てるにはいいところとは言いにくい面もあります。しかし、集中的に街を造り高層建築を造ることが合理的だとシカゴの人たちは考えたのでしょう。運河と道路と橋梁と鉄道と人工地盤と超高層建築を一体化した複合都市をつくりあげてきている。日本でいうところの土木分野と建築分野が、共に協力して統合的に都市を造っています。都市建設にとって必ずしも自然条件は有利とは言えないけれども、技術者はシビル・エンジニアリングの力を尽くして、建築家が都市計画と建築設計に力を注ぎ、両者が協力して街を造っています。水害に襲われたり、大火災に襲われることもある土地柄ですが、その度に不屈の精神で都市建設に挑んできているのです。そこが、いい点です。

 

もう一点、興味深いのは、シカゴが商業都市であることです。日本の大阪に近いのですが、民間がインフラやパブリック・スペースを造ることにとても熱心です。寄付を集め基金を作り、市民と民間企業が協力して、都市建設の事業が行われています。もちろん、シカゴ市が強力に都市政策、都市計画を推し進めているわけですけれども、それを支えているのは民間です。日本でも官と民は恊働してとか、言葉では言いますが、かなり違う形態で都市建設は進められています。これは1954年に建った建築の銘板の写真ですが、こうしたものを実に大切にしています。こちらの銘板には、SOMという世界的に有名な建築設計会社の名前が彫られています。高速道路脇のペデストリアン・ブリッジには、寄付した人の名前が彫られた銘板がずらりと並べられています。あるいはプライベート・セクターの開発でも、川沿いの空間は市民に公開してきれいに設えて管理もしています。アメリカのシカゴでは、このように土木技術や建築技術がトータルに都市開発に寄与しています。対して、日本については、どういうことがいえるのか? 多少長くなりましたが、以上が、「構造工学からみる建築設計・都市設計・都市計画」の討論のための土台であり大枠です。

 

この半世紀で、構造の技術は大きく発展して建設に用いられ、東京は大きく変わりました。よかった面とよくなかった面が、あるのかもしれません。構造工学の立場からどのようなことをお考えなのか、お話を聞かせていただきながら、討論を進めたいと思います。

和田先生からお話をお願いします。

 

 

和田: 私は東日本大震災が起きた2011年の6月に建築学会長になりました。ちょうど、そのころ、横浜駅西口の超高層建築の構造設計をしている会社の方から「横浜駅にこれほど高い建物を建てたら危ないと思うから、もう少し低くするように協力してくれないか」と言われて、お手伝したことがあります。地震が起きた前年の8月の日経新聞に「高さ200mの超高層建築が計画される」という記事が出ました。しかし、構造工学的にみると、地下の鉄道となった東横線横浜駅のボックスの上に荷重をのせることはできるけれども、このボックスは地震の力で横から押されたら困るわけです。地下3階くらいにある線路のレベルより下に超高層の基礎をつくることになりますが、建物が揺れて地下鉄のコンクリートの箱を押してはいけない。地下20mくらいに地表があると思って造らないと力学的には成り立たない。そうすると実質的に220230mの超高層ということになります。東横線とタクシー乗り場の間で幅がとても狭い1:7の形状の土地に建てることになり、どうしても大きく揺れて無理がある。構造設計者の中には私の研究室の卒業生もいまして、「制振装置を付ければ、どうにかなります。」といっていましたが、そうはいきません。横浜駅は乗降客がとても多い駅です。大地震があればオフィスと商業のこの超高層建築にいる人たちが逃げ出すでしょうし、相鉄線とか東急とかJRとかから溢れてきた人もいっぱいになってしまう。交通の大きな結節点のようなところに大勢の人を入れるべきではないという考えもあって、低くしろ低くしろと言いました。私が言ったことばかりではありませんが、現在は135mまで低くなってJRが設計案を検討しています。構造工学と都市計画がこのように結びつくことは多いにあります。

 

もうひとつ別のエピソードです。あるお祝い事があって、渋谷の「ヒカリエ」のこけら落としに招待してくれました。私の大好きなウエストサイドストーリーを4人で見に行ったのですけど、まず始まるときに「この建物は地震があっても壊れないように作ってありますから、揺れても逃げ出さないで下さい」とアナウンスがありました。ちょうど飛行機に乗る時に「シートベルトしていますか」とかいうのと同じです。建築物の中にいるのにそうした注意が流されるのですが、地震の際は大きく揺れますから、たとえば、小さい女の子がキャーとか泣き叫んだりしたら、どうなるかわかりません。その上、ビルのプランニングは、ブティックがあって、レストランがあって、なるべく人が一気に降りていけないような設計になっているのですね。なるべく途中で、お店に人が引っかかるように引っかかるようにと計画されています。私はニューヨークやロンドンでミュージカルに行くのが大好きです。ニューヨークのマリオットホテルの高層部にあるミュージカル劇場以外、ほとんどの劇場は1階にあります。始まる前は立派なエントランスから入っていくのですけど、芝居が終わった時は脇の扉が開いて5分もあれば全員が外に出て行けるように設計されています。おそらく、昔、火事でもあったのだと思うのですけど、非常時の避難計画がしっかり考慮されているのです。もともと岩盤の上に建っている街ですから地震なんか来ないのですが、それでも都市計画上でも安全の面で妥当な設計になっています。ところが、渋谷では、100mの高さに大きな劇場をもってきている。これでいいのかと思います。

 

一年くらい前のことですけれど、同じ設計事務所が東急渋谷駅の跡に高さ200mのビルを建てるというのです。構造設計者に「一日の乗降客数を知っていますか?」と聞いたら「そんなことは知りません。それは事業者が決めることですから」と言っている。「帰宅困難者が大勢溢れた時,この建物に何人位収容するつもりですか」と聞いたら3000人と言っていました。そこは、天井と一方に壁面がありますが、他方には壁面がないような、そういう通り道に設けられた、かろうじて雨だけ防げるようなスペースです。本当に、それで足りるのでしょうか。渋谷の駅には、楽しさいっぱいみたいな計画がよく出てきますし、まだまだビルが建つようです。渋谷の駅をデザインして、雑誌に華々しく載ると、良いことをしているように思われていますけれど、実はとてもよくないことがいっぱいあるのではないかと思います。私が一人で渋谷のプロジェクトはおかしいと言っても、せっかく楽しくやっているのに、なんで冷や水かけるのって言うことになると思います。(しかし、やはり、工学的にはおかしい。)このようなことが、いっぱいあります。

 

新宿駅は乗降客数がもっとも多い駅です。新宿には超高層ビルのキャンパスの大学があるのですが、地震時には、新宿の超高層が揺れて避難に困る人が多く出るだろうから、普段から、車椅子に乗せたままどうやって地上に降ろすといいのか、学生の訓練をしていますとその大学の地震の先生がいっていました。避難訓練など良いことやっているって皆さん言いますけれど、どうなのでしょうか?若者が大学に入る目的は数学や物理や建築を学ぶためであって、避難訓練の為に入った訳ではないでしょう。乗降客がそれほど多いところに大学をつくったために、こうした問題が発生したのではないですかと言っています。

 

東日本大震災の後、布野先生や宇野先生が担当した建築学会の復興支援への対応は、全部を網羅的にはできませんでしたけれど、数々の現場の状況をとらえつつ全体を俯瞰してバランスがとれていたように思います。しかし、一方、お二人は別として、大津波に襲われて街の建物が全て流されたところに、あたかも新しくキャンバスをもらった画家のように、さあ僕たちの考えた街を造りましょうというような建築家や都市計画の人がいたように見受けられて、僕ら技術者から見ると、いかがなものかと思いました。都市計画を専門とする人たちが、どれくらい東日本のことを反省しているのかとも思います。津波が来ると分かっているところに村やまちだけでなく都市も作ってきたのですから、もちろん建築にかかわって多くの人も反省が必要です。防災や減災のセンスのない人たちが、東京都心の規制を緩めて大手町のビルをどんどん壊して、次々と建て直したりしている。構造工学と都市計画は一番離れているようで、もっと関連をもって都市計画が行われるといいなと思います。構造工学からみると、都市計画はずいぶん危ないことをやっているなと思えるのです。

 

30年ほど前にシアトルにある大学に行っていたとき、ニューヨーク育ちの先生がいました。その先生に、「一週間ほどニューヨークに遊びに行くけれど、ニューヨークは怖いところですか」って聞いたら、「五番街をまっすぐ歩いていれば危なくなんてないよ」といってました。「日本人は、危ないところに行くから危ないんだ」とも、、、。ニューヨークの路地に入るのも危ないし、渋谷に巨大なビルを造ってオフィスにしてしまうのも危ない。安全性を高めるためには、危ないことを止めるのが一番早いとさえ思います。

 

宇野:どうもありがとうございました。お話を伺って思うのは、この半世紀で、街が大きく変わりましたし、建物も変わりました。我々の着ているもの、格好も変わった、ライフスタイルが大きく変化したということです。あまりに急激に変わったために、あちこちにいろいろな不整合が起きているのではないか。中でも今日は構造工学と都市計画ということで考えてみたいと思うのですが、構造工学の観点からすると、わぁ、すごい建物ができたとか、なんか新しい街になったとか、表面的に見ていることには、工学的に説明がつくリスクを含んでいる、そういったご指摘だったと思います。一つ一つの事例がどうなのかということは置いておくとして、総じて、我々は科学技術の発展によって、豊かな自由な生活ができるようになったけれども、同時にリスクも抱え込む事態になっている、やはり工学的な視点で、もっとちゃんと考えなくてはならないだろうとご指摘をいただきました。それでは、次に、神田先生お願いします。

 

神田:自己紹介をします。私は竹中工務店に8年ほど在籍して、4年ほど構造設計をやりました。その後、東大に戻り、最初は風の研究が中心でしたが、建物に加わる力として、地震も風も対象にしました。それから設計法に移って、今一番興味を持っているのは安全です。裏返せば防災です。安全にもいろんな安全がありますが、自分がいままでやってきた守備範囲からすると、やはり地震とか竜巻とか雪とかそういった自然現象に対してどういう風にしたら我々が快適に、あるいは気持よく生活できるのかといったことです。滅多に来ないことかもしれないけれども、かならず来ることに対してどう対応するのかは構造設計のテーマです。それが都市設計や地域計画のなかでは、ほとんど考えてこなかったのではないかということを思ったりします。そのため今日はその辺のことをお話しようと思います。

 

プリント(建築雑誌Vol.106, No.1301, 1990年7月号pp134)が用意してあると思いますが、これは今から25,6年前、私が40歳の時の文章です。言葉遣いとか、あまりものをよくわからないで勝手に書いているなあと今の目から見たら思わなくもありません。終わりの方に都市環境についても別の視点から論ずることもあるのではないかとちらっと書きました。今日の話題に全く関係なくはないと思って用意しました。竹中にいた時に、我孫子の駅の近くにスーパーの計画があって、その構造をやったのですけれど、やはり地盤がとても大変でした。あそこは利根川の氾濫原です。非常に深く杭を打たなくてはならないだけではなくて、倒れた木などがたくさん土壌に入っています。倒木が入っているところをドリルで揉むことはとても大変なことで、杭の位置を変更しなければなりませんでした。色々苦労した時に思ったのは、そのスーパーはその土地が安かったから買ったのだろうけど、土地の値段というものに対して構造設計でどれくらい基礎に余分なお金がかかるかということと全く関係なく決められていると改めて思いました。

 

また、少し前に、大学の先生の仲間で新潟の信濃川の河口に視察に行きました。やはり頻繁に洪水が起きるところです。巨大なポンプが用意してあって、溢れた水をまた川に戻せるというものです。洪水に備えた整備がされているのですが、洪水になるところは田んぼだったり畑だったりにすればいいわけです。ナイル川でも、ナイル川の肥沃な地が農地を豊かにしたようなものです。しかし、そういうところにも、ところどころ住宅がありました。大変だろうなと思っているのですが、巨大な病院も建っていました。これは類推ですが、土地の値段が安くて、今大きな病院がまちに近いところに建てられるとするとそういった形になるのではないかと思いました。洪水のときは誰も行かれなくなってしまうし、病院はそういったところに本当に建てていいのかちゃんと考えてやったのかと思いました。都市を計画する時や、どういう地域にどういうものを造るかという時に、自然災害のことを考えたら、もう少し違う答えが出てくるのではないかということが申し上げたいことです。

 

ニューヨークは岩盤の上に超高層が建っているということですけれども、日本の場合も初期の超高層ビルは必ず東京礫層の上にベタ基礎で建てました。どういうことかと言いますと、東京礫層はそんな浅いところにはないので、地中20mくらいです。地中20mくらいをベタ基礎でやるためにはそのために地下を掘るので、かなりしっかりした地下の箱ができるわけです。初期の霞が関ビルとか、新宿の超高層もだいたいそれくらいの深さのところに比較的いい地盤が出てくるわけです。それに対して、海に近いところや埋立地は深さ30mから40mです。ちょっと重たいものを乗せたらそのまま沈んでしまうような地盤に住宅を造るようになると、(杭基礎による)地下のない超高層建築を造ります。

 

現在の建築基準法による仕組みができる前、建築センターの時代から超高層ビルが建てられてきましたが、個々に構造評定を行っていました。現在の仕組みだと、ある地震波を使って、ある計算法をやって、ある条件を満足すれば、同じように安全だいうことになっています。以前の仕組みも現在の仕組みでも、双方のアプローチは違っているけれど、同じように安全ということになるのですが、ほんとにそうなのかとずっと思っています。安全ということに対して、あるルールを決めて、それを満足すればいいとしておけば、今では技術が相当進んでいますから、なんでもクリアできてしまう。しかし、そこで決めたルールが本当に適切なルールだったのかということは、あまり問われることがありません。

 

例えば、霞が関ビルを東京礫層の上にああいう形で造って、当時のエル・セントロの  波を使い計算したものであるルールが出来上がり、そのルールを使えばいいよとなってしまって本当にそれでいいのかという問題が残されているのです。建物単体もそうですが、街なかにどういう施設をどのように造り、街をどのように造っていくのか、ということに対して、構造、防災、安全など地区計画の段階でしっかり考えていくべきことを、あまりにもないがしろにしているのではないか。もちろんお金をかければ、同じようなことができる面もあります。しかし、一度線を引いてしまったら、あとは全部同じでよいというようにやってしまうと、気が付かないうちにかなり危険なものが放置されているような状態ができてしまうのではないかと思います

 

Disasters by Design」という本があります。著者はD. Miletiという社会学系の先生で、エンジニアなどいろいろな人を集めて書かれた本です。建築というのは何もないところにものを建てるわけで、建てれば危険性を伴うことにもなるわけです。そこにはちゃんと設計者と施工者がいるのだから、ものを建てるという段階で、どのくらいのDisaster災害)が起きるかを設計していることにもなるわけです。これくらい安全なものを建てましたという分の裏返しは、これくらい危険なものを建てましたということにもなっているわけです。そういう視点は大切にしなくてはならないと思います。「Disasters by Design」のなかでも地形をどう読むか、土地に応じた住み方使い方が、そもそもサスティナブルな生き方であり大切だと書いてあります。

 

宇野:どうもありがとうございました。構造工学分野のオーソリティーのお二人から大切なご指摘をいただきました。20世紀に科学技術は非常に進歩しましたし、自然科学の成果をもちいて構造工学も高度に発展した。科学技術の成果を駆使すれば安全な建築物を設計することはできますが、しかし、建築物は個別固有の土地の上に建てるものですから、場所場所によって条件が違った場合に安全をどのように考えるべきか、そうした点について、もう一度検証する必要があるのではないかというお話でした。基準に合格すれば安全だということが一般化してしまうのは違うのではないかということでもあります。日本の建築基準法は、戦後復興が急がれた時代に急場をしのぐために制定された法律で、もともとは都市復興における建築物の最低基準を定めた法律でした。個別の土地のもつ条件や都市計画の合理性妥当性をはかる検証とは違う次元で建築物の安全性が定義されています。自然環境に人工物を作るのですから個別に検証する方がより合理性があるといえるのですが、建設される数が膨大なので一律の基準を設けて対処したというわけです。そして、新しく建築を造ることは新しいリスクをつくることでもあるから、そのことを社会が認識して、安全/危険の評価を何らかの形で個別の建築にフィードバックする仕組みが必要なのではないかということでもあります。

 

これは後半の議論にきっとつながっていくと思います。現在の都市計画や構造物の建ち方について、両先生から工学的観点からみた課題についてご指摘をいただきました。しかし、世間一般に伝わっていないと思われますが、そのことについては、どうお考えですか?

 

和田:本当の一般人については難しいですね。日本の建築は、建築基準法を最低基準として設計されて建てられています。地震で壊れては困ると誰でも思うのですが、完全に壊れない物を建てなさいと国としては言えない。よくくる地震にはまっすぐ建ち続け、何百年に一回に起きる大地震には傾いてもいいという耐震設計の考え方は、アメリカも日本も同じです。お配りした資料の写真にあるのですが、2011年の東日本大震災の20日前にニュージーランドで地震がありました。地震の前と後で、街の様子はまったく異なります。地震後では建築物がひび割れ、傾き、2400棟のうち1700棟がすでに取壊され、廃墟のようになっています。東京でも何百年に一回の大地震が起きると、ギリギリの設計の30階、40階のビルは傾いてしまいます。建築基準法では、傾いたままになっても良いことになっているのです。さらに、日本は首都域に人が多く密集しすぎていて大災害になる可能性が高い。ドイツの人口はおよそ8000万人ですが、ベルリンに住んでいるのは200万人程度。ドイツのように国土を広く上手に使うことが、防災上好ましいのではないかと思います。フランスで地震が起きたと聞いたことは、生まれてこのかた、一度もありません。それでも、地中海側にあるすべての原子力発電所は免震構造の上に建っています。それに対して、地震の頻発する日本の原子力発電所は、すべて基礎が固定されています。1700年代に造られたイングランドの「アイアンブリッジ」は、部分的に座屈してしまった部材があっても修繕・補強して現在も使用されています。そこには、構造物を使い続ける覚悟が見受けられます。構造物を蓄積する覚悟もあるのだと思います。ニュートンを生んだヨーロッパが近代科学を使って、いかに真面目に、国や都市の建設に取り組んでいるかが分かります。対して、日本は江戸大火、関東地震、空襲で街が燃えたのにかかわらずに、まだ同じように街をつくり続けています。残念なことに、科学技術や都市建設の知見を蓄積してよりよい都市を造ろうといった覚悟を感じることができません。

 

宇野:ヨーロッパの人たちは、ルネサンス以来、近代的な科学の知見を得て、自分たちの環境を構築的に建造し適応していこうとする意思をもち、それを都市として蓄積をはかろうとしてきましたし、それを継続している。それに対して、日本は科学技術の知識は得たものの、欧米のように意志をもって構築的に都市を造ろうとはしていないのではないかというお話でした。神田先生は今の和田先生のお話を受けてどう思われますか?

 

神田:話が変わるかもしれませんが、僕が今気になっていることは、三陸復興のことです。今日もこういう話をして、都市計画とかまちづくりの反省を考えてみると、例えば、アメリカと日本を比べれば、土地も違うし、アメリカの場合は新しい国をつくるということをみんなで考えているけれども、いま日本で問題になっていることは戦後焼け野原になった時に、いかに早くキャッチアップするかということで建築基準法のようなルールをつくったものの、自分たちがどういう住み方をして、どういうまちに住みたいのかをゆっくり考えて話し合っていくということが、十分には行われてこなかったのではないかということでしょう。そういうことが、本当に必要な時期にきていると思います。三陸でもそうしたことが十分議論されているのか不安に思います。たしかに、大津波に流された後は大変だからと、67m土を盛って居るところが多数あります。さらには嵩上げして15mの防潮堤を造ろうと、復興予算を出すことにはなりました。しかし、本当のところ、街がどうなるのかが気になります。皆でこの町をこうしていこう、というトータルな議論はあまりなくて、基本的に縦割りで個別個別に復興が行われている。防災に関しても、どこにどのような施設を造ったらよいのか、なにを地元の町で考えたらいいのか、そうしたことを、まさに今考えるべき時期ではないかと思います。

 

宇野:両先生からご指摘あったことは、日本社会にとってたいへん重要なことだと思います。一方で建築という構造物を造って、街や暮らしを整えよう、綺麗にしよう、あるいはより優れた美しいものをつくってみたいという想いを建築界の人間は持っていると思いまますが、その想いは、街で暮らす一般の人には伝わっていないと思います。そこで、次は、建築側の反省についてお話頂きたいと思います。例えば、構造の先生が街の話や復興の話をこういう形で話すことは珍しい機会だと思います。コンピューターの発達もあって、建築学分野にかぎっても専門は細分化され議論は高度になっていますが、建築を造る際に求められる全体性や街をつくろうといった共同の意志や共通感覚のようなものが薄れてきているように思います。会場に若い学生さんがいますが、おそらく、彼ら彼女らが受けている教育も細分化され完成された知識と技術を伝える授業が多く、今回のように構造の先生が都市のお話をされることは、ちょっとした驚きなのではないかと思います。

 

そこで、二点ほどお伺いします。建築構造分野で細分化されて内省化してきた議論や知見を、広く開いて一般に伝えていくには、どうしたら良いでしょうか?

 

また、日本では明治以来、土木と建築が分離して発達したために、別々の技術体系をつくってきました。基準も違います。そのため都市建設の現場では、ご指摘のあったようにインフラと土地利用と建築の間の相互関係にさまざまな不整合が見受けられ、全体として多大なロスとリスクが生じているようにも思われます。都市建設を合理的整合的継続的にに維持し修正をはかるためには、土木と建築が協力連携が必要と思われますが、どのようなことが考えられるでしょうか?

 

神田:答えになっているか分かりませんが、一つは、建築は、設計や材料等、一つ一つ手作りしていく面があると思います。工業製品のように決まったやり方で効率良くつくるだけではなくて、ここをどうしたらいいかという設計者自身の個別の視点があり、やはりそういったところが大切でしょう。そうした大切さに、近年、皆が気付きはじめたのだと思います。免震構造の建物の設計を最初期に行った山口(昭一)さんというエンジニアが「確かに免震は一般化されてきたけれども、もう少しゆっくり時間をかけてやっていく必要があるのではないか」といってます。私もその通りだと思います。日本は基準をつくると、その基準を使ってすぐに建築を建てることができる仕組みになっています。超高層ビルでも、国土交通省の業務方法書に従えば、自動的に確認申請をおろさなくてはならなくなってしまいます。それに従ってどんどん建っていきます。本当にそれでいいのか?そうした超高層建築の構造設計の仕事をしている人たちも、果たしてこういうことをやっていていいのかと思って仕事をしているようです。

 

昔のような手計算まで帰れ、ということではないですが、自分で一つ一つ手作りのようにものをつくることはとても大切だし魅力的でもあります。先程、シカゴの高層ビルが大切に使われているという話がありましたが、それはやはり建築にそういう味、つまり建主、設計者、施工者による各時代の手作り的な固有性が建築の個性を生み出しているからだと思います。ルールを決めてその通りにやっていけば良いというわけではないと分かっているのですが、日本では中々そこから抜け出せません。もう一つは、国が定めた建築基準法では計算されたものを安全と見なすと書いてありますが、それに従ってるだけではだめだということです。それは建物をつくる人、そこを利用する人が、自分で「これは安全だ」と考えるものが安全なのであって、法律を満たしているからといって、安全だとは限らないということです。そのことが、とても大事だと思います。丁寧にやっていたら、戦後復興して都市建設するのに何百年も時間がかかっていたかもしれません。それを五十年でやり遂げたというのは上手くやってきたからだと思います。しかし、今はもうそういう時期ではありません。ですから、すべて基準に頼って一律に建設していることについて、これから変えていかなければならないもっとも大切な点だと考えています。

 

和田:その通りだと思います。「建築雑誌」10月号で対談をしましたが、話題となったのは「新宿住友三角ビル」(代表的な初期超高層建築のひとつ)でした。私が会社に入った1970年頃に設計が始まり、私自身はコンピューターを使った計算のお手伝いしかしていませんが、そのビルの設計をされた方は自分で構造設計して設計監理までやっていた。その方は、東京のこのような場所にこのような建築を建てていいのか?とずっと悩んでいました。その前には、六本木の「IBMビル」も担当されました。最近、IBMは解体されたのですが、その方に反対運動をしなくてもいいのかと聞いたところ、「壊してくれてけっこうだ。(新しい基準や設計技術からみると)不安なこともあるから。」といってました。東日本大震災のとき、超高層ビルの最上階のレストランが大きく揺れてたいへんだったと聞きました。これは設計の時に建物の高さの1/100は揺れるという計算をしていますから、高さ200mのビルは±4mまで揺れることを覚悟で設計されています。大きな地震がきたら大変なことになるのは分かっていたことです。基準を満たし倒壊しないけれど、こんなに揺れても安全といいうるのかどうか、あらためて大きな課題になっています。

 

土木と建築については、設計のアプローチに違いがあります。建築の構造設計でも教育でも、まず梁の計算、次は柱の計算をします。部材から考え、設計を始めるのです。それらをつなぐと中に空間ができて、さらにそれらを積み重ねるとビルができます。三角屋根にすれば工場もできます。ロバートソンとIMペイが設計した香港のバンク・オブ・チャイナは、始めての2人のミーティングでペイの事務所から見える「クイーンズ・ボロ」というマンハッタンに架かるトラス橋を縦にしてビルにすれば建築になると考えたそうです。建築の力学の学び方は部分から組み立てていくようにできています。一方、都市計画や土木の方は全体から考えはじめるという違いがあるのだと思います。

 

宇野:つまりアプローチの仕方が違うので、構造物としてできあがっているものを解析すれば工学的に同じだといえるけれども、設計の観点、つくる観点からすると、建築とシビル・エンジニアリング、都市工学とは、アプローチの仕方が違うということですね。日本では、土木と建築の分野が分離して近代化を果たしてきたために、都市建設の仕組みが縦割りになっていて、シカゴのように高速道路と人工地盤とハイライズのビルディングと運河などを、調整しながら、全体として統合的に都市を建造することがとても困難です。それでも、日本の仕組みにあわせながらなんらかの方法で、街を点検して統合的に安全と美観を高めていけないかと思います。様々な困難はありますが、自然災害は今に始まったことではありませんし、温暖化の影響があったとしても、ここでくじけていてはいけないと思います。さて、一方、ここで話ししていることは建築学会の中でも少数派意見として扱われやすく、また一般社会ではマイノリティなのではないかと思います。しかし、今日の話題は、人がどう思うかではなくて科学を元にした工学的な議論だと考えたい。人間がどう言おうと、壊れるものは壊れますし危ないものは危ないでしょう。そういう点では、工学をベースに都市を語りあって、ディスカッションを社会に広く発信していくことがあってもよいと思います。発信することに関して、思うところをお聞きしたいと思います。

 

神田:僕らは建築を学んで、建築を建てるということを一生懸命やってきたのですが、なぜこの日本が、他国ほど住みよい街になっていないのか考えたときに、とにかく経済的に発展するためにあるルールをつくって、それに従っていくということをやりすぎてしまったのではないかと思います。それを全部否定するわけではなく、それによって失ってしまったものがたくさんあるということに気付いたならば、それを戻せないかなと考えています。例えば、東北の復興が中々見えない、建築として何ができているのか中々見えないいままでとは違うやり方が必要だなと思います。そのやり方をどうやっていくのかというときに、私たちの住むまちをもう一度考え直すのは良い時期だと思います。今東南海の地震に切迫性があるとかいうようなことがあるので、人々がそっちに目を向けがちですが、一つ一つ、どういうところに家を建てて、そういうところに住んでという原点を見つめ直す時期に来ているのかなと思っています。三陸の復興を見ているときに本当にこれでいいのかと思う反面、スピードアップして復興しましたよというのも、それもやはり違うなと思います。本当に自分たちのまちを考える時期がきたと思うのですが、それを変えることもできていないというのにもどかしさを感じます。

 

宇野:どうもありがとうございます。震災の復興や今の開発が急展開すぎるのではないかというご指摘、それから個別にみていくと工学的になおしていく部分があるというようなお話をいただきました。さて、この辺で都市計画分野の専門家のゲスからコメントを頂けたらと思います。では、佐々木さん、お願いします。

 

佐々木:私は国土交通省の法律事務官なので場違いな気がするのですが、お話を聞いてとても驚いています。建設省のなかで制度設計や法律設計をしている私に都市計画や土木建築の構造工学の面における深刻なところを話してくれる仲間がいないのを残念に思いました。都市計画の土地事情はざっくりしているのですが、形態とか意匠、地形学といったミクロな制約規制ができてきました。ISO設計をするとき実は先ほどありました密集とかの話につながるのですが、構造とか上乗せの基準法を作りたかったのですが、それは建築基準法が許してくれなかったのです。それはそもそも単体規定をミクロで考えるのがおかしいという理由でした。今日の話を聞いて、ミクロに見ることの重要さを感じ、再び話をしてみようかと思いました。

 

また、渋谷の話も特設法特別地区でおまけをしているのですが、東京の都市計画の人間がおまけの出し方がオープンスペースぐらいしか見ていないのです。渋谷と池尻大橋の間は非常に込むのですが、大開発するものの駅を改造することはないのです。都市計画を運用する人が都市交通に関心がないことが非常に問題だと感じています。同じようなことに対していうと、地震に対する問題やエネルギー、治水に対する問題があります。いままではデベロッパーやハウスメーカーに事前確定性などで押されて、都市計画は後退してきたのですが、これからはやたらめったら作る時代でないので、都市計画のときデザイン、計画論の話だけでなく、構造とか安全性も含めて協議体などを作って、その協議のプロセスを明らかにして、引き継いでいく必要があると考えている。

 

また、復興の話は私もいろいろ問題意識があるのですが、土木構造物と広い意味での地域計画がバラバラに考えられたことが問題だと感じています。住民のために行っていることなので、市町村が主導権をとるべきなのに、県がどんどん決めていってしまったことが問題です。都市計画もフレームの議論をせずに、事業を始めてしまったのが問題でしたが、国費が100%だったのでストップをかけるところがなく進んでしまいました。いまからでも遅くないので、先行地区などを決めて、そこから遣って行くようにしていく必要があると思います。

 

宇野:ありがとうございます。建築、都市の設計のためには人も自然も相手しなければならないのですが、構造工学のフレームワークで建築計画や都市計画について議論できることは少なくありません。佐々木さんの話を伺って、社会制度を相手にしているがゆえの、むずかしさやご苦労があるのだろうと思いました。ありがとうございました。次に松田さん、コメントをお願いします。

 

松田:松田です。非常に興味深くお話を拝聴しました。

和田先生のお話で都市の面積について解説がありました。建築の分野で都市地理学や都市の形態論など都市を幾何学的に解析することが日本ではあまり行われていません。私は都市工学科というところにいます。我々は知識として学生のときにオーソドックスなことを学習してきたかというとそうではありませんでした。例えばシカゴ派からの都市論の系譜などはあまり知られていません。私は日本で都市工学科に在籍し、そのあとフランスの都市計画研究所で初めて体系的に都市地理学を教わりました。その経験から日本ではそういったことを教えていかなくてはならないと思います。また、特に建築の分野の中で広域的な都市の分散や配置についてもあまり知ることがありません。ただ、地理学はとても大切でありオーソドックスな都市論について教えられていないことが問題だと思います。

神田先生のお話で建築基準法の問題点の解説は大変興味深く聞かせていただきました。建築基準法は1950年に制定されましたが、このままでは複雑になりすぎてどうにかしないといけない状況になっており同時に都市計画法も考え直す必要があると考えています。というのも、1919年に建築基準法の前身である市街地建築物法と都市計画法(旧法)がヨローパの状況を凝縮し2年ほどの勉強会でつくられました。そのあと改正されましたが基本的には当時のままほぼ100年たってきました。神田先生から3.11のお話があり、考え直すのにちょうど良いタイミングであると思います。

三陸の話についてです。去年、建築文化習慣の中でアーキテクトand / vsアーバニストというタイトルでシンポジウムを開催させていただきました。私は往復するような形で両方に在籍していたので思うのですが建築科と都市計画科があまりに分離していて、一番の大きなことは人脈的に分離していることです。建築の学生はネットワークで繋がっていますが都市計画の学生は建築の学生となかなか繋がっていません。それは科の中に建築の先生が少なく建築のことを教えていない状況があるからです。50年たって都市と建築が分離していますが、建築と都市が結びついていかないといけないと思いシンポジウムを開催させていただきました。そして三陸の話というのはまさに建築と都市がまだ分離していて、どうしたら融合できるのかが見えていない。それが復興を遅らせている原因の一つであると思いました。

宇野先生からシカゴの話がありました。ヨーロッパでは民間の人が都市計画や建築に興味を持っていることが日本と決定的に違います。ヨーロッパの人は建築や都市的にまちをとらえていることから日本はどうしてそうならないのかと思います。都市といっても都市計画法も複雑ですし、都市の成り立ちも複雑で細分化されています。もうひとつインテグレーションしていかなくてはならない状況にあります。そこからで思ってことは3つで、高さと配置の問題と地理的なものです。日本だと超高層をできるところにつくり、どこにつくるかという話がありません。ヨーロッパでは高い建築物をつくることに人々の注意と注目がありなかなか建てられません。そして建てるときは限定し集中して建てます。日本は建築の高さに無関心であることが問題だと考えています。それは地盤の話と絡んできて、都市のどこに建築物を建てられるかを日本こそ考えなくてはならないと思います。都市のどこの地盤がしっかりしているかということも含めて都市づくりをしないといけないのに今までそういった議論がなかったところを今日はこういった討論の場があることを面白いと思って参加しました。それから都市の中でいかに建物を配置するかということをもう一度考えるというお話がありました。日本は19世紀に西洋から都市計画を輸入してきました。まずドイツとイギリスの都市計画法を輸入しましたが、そのまえにフランスのオスマンの都市計画を参考にしようとした時期があります。それは都市配置の問題についてでした。対象的にドイツはいかに道路をつくるかというところから都市をつくってきました。結局日本はドイツの都市計画を学びました。そこでもう一度フランスの都市計画のよさがどこにあったのかということを考えないといけません。長くなりましたが以上です。

 

宇野:どうもありがとうございます。松田さんの場合は、立場として世代論に関わる点がるのかなと思います。都市系と建築系が分離したあとの世代として、現時点でそうした経過も踏まえて状況を俯瞰しつつ、ふたつの分野にブリッジを架けている、ユニークかつ大切なポジションに立っている人です。私が学生だったのは30年以上も前ですが、そのころは、建築家の槇(文彦)さんや磯崎(新)さんが都市工学科に講師として来られていて、建築学科の学生は都市工学学科を羨ましがっていたものでした。しかし、そういう建築と都市を自在に往来するスタンスといいますか、文化といいますか、そういうことが継承されないまま今日に至っています。そうした状況について松田さんからお話がありました。役所でも、その時代の問題意識、知見、専門的な技術といったものがうまく継承されているとはいいにくいのではないか、、、。現在の日本社会のステージからいえば、土木、建築、都市計画ほかの各専門分野が集まり話し合って、各地域と相談して、まちをつくっていくのがいいのではないかと思います。地域の諸条件が多様ですから、個別性を見据えた丁寧な検討と議論が好ましいでしょう。そうした場が普段から様々な場所で行われるといいと思います。それでは最後に一言ずつコメントをいただいて会を閉じたいと思います。

 

神田:今日はこういった場をつくっていただきありがとうございました。戦後からのありかたが今の日本をつくっていることがあります。それは教育の世界でも建築やいろんなところでもそうなのですが、やはり効率よくやるためには縦割りにすることがどうしてもあると思います。それは経済活性化や経済的な豊かさというものがひとつの指標になってやってきたのだと思います。

 

今持っているものでも、いいものや悪いものがあってどうしたらいいのかそのようなことを30年前に考える余裕はなかったわけです。そういうことをようやく考えることができる今になって経済的な価値だけでなく他に考えることもあるのだろうと言われると、建築はそういったときに出番があります。構造やっていれば様々な案を持っています。しかし縦割りになっている現状では今までの枠の中ででしか答えを見つけないとなるとなにもできなく、経済論理に押し切られてしまうというような閉塞感が現状だと考えます。今日のような機会をきっかけにしていろいろなことを考えていけると思います。

 

和田:本当に今日はありがとうございました。もっといろいろな分野の人が議論できる場になると良いと思います。

 

宇野:それでは今日の討論を終わりたいと思います。どうもありがとうございました。

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