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2025年8月13日水曜日

建築時評,建築討論002,日本建築学会,201409

  建築時評,建築討論002,日本建築学会,201409

 

 

 「アジアの都市組織の起源、形成、変容、転生に関する総合的研究」(科学研究費助成)と題する研究の一環として中国東北地方を巡った。大連・旅順-瀋陽-集安―長春という行程で、清(大清国)の起源となる都城・盛京と高句麗の都・丸都城、国内城を巡ることを目的とする旅であったが、建築行脚となると、「偽満州国」の建築を見て回ることになる。西澤泰彦著『「満州」都市物語 ハルビン・大連・瀋陽・長春』(河出書房新社、1996年)を携えての旅である。

 大連は19953月以来、ほぼ20年ぶりの再訪である。その変貌ぶりは予想通り激しかった。このところ中国の古都を中心に歩いているのであるが、北京オリンピック、上海万博を開催したこの10年の中国都市の変貌はどこでもドラスティックである。

20年前、大連を訪れたのは、南山地区の住宅の保存改修の調査が目的であった。南山地区は、満鉄社宅地区、共栄住宅地区、そして個人住宅地区の3つからなっていたが、満鉄社宅の特甲住宅が建てられたのは1910年であり先行するが、他は1920年代に開発された住宅地である。調査は容易ではなく苦労したことを思い出したが、多くの住宅に多数の世帯が居住し、とても良好な居住環境とは言えない状況であった。通りには屋台が並んでいたし、道路は舗装されていなかったように思う。今回訪れて、見違えるようであった。風景区に指定されて、保存の措置がとられていた。

ただ、見覚えのある住宅は残っているのであるが、ここだ!という記憶が蘇って来ないのがもどかしかった。周りの環境がすっかり変わってしまっているのである。港近くの旧ロシア人街も観光客向けの店舗が建ち並ぶテーマパーク風の通りにすっかり変貌していた。

大連の中心、中山広場の大連賓館(旧ヤマトホテル)にも寄ってみたが、広場の周りには、かつての雰囲気はない。広場に面したコロニアル建築をさらに2重に高さおよそ2倍のビル群に囲まれる形になっていた。これは瀋陽でも長春でも同じであるが「偽満州国」時代の建物は現代建築群の中に埋もれつつあるのが印象的であった。そして、そうした中でそうしたかつての植民地建築だけを見て歩くことの意味を考えさせられた。

 高層化の流れは留まる気配をみせないようである。大連駅のすぐ近く、かつての日本人町である旧連鎖街に接して、実に垢抜けた超高層ビルが建設中であった。

 大連中心裕景。香港の裕景地産(陳承裁)による不動産開発である。1987年創設という。この間の中国における都市再開発を先導してきたディベロッパーである。さすがの中国建築界もかつての勢いを失いつつあるようであるが、まだまだ余力がありそうである。設計はアメリカのシアトルに本拠を置くNBBJ、構造はOve Arup

NBBJは、Floyd Naramore, William J. Bain, Clifton Brady, and Perry Johanson4人によって1943年創業され、当初は Naramore, Bain, Brady & Johansonと称していたという。今や、ボストン、ニューヨーク、サン・フランシスコ、ロスアンジェルスなどアメリカだけでなく、ロンドン、そして北京と上海に事務所をもつ。そしてインドのプネにも事務所を開設している。唯一、建築設計事務所として世界経済フォーラムのグローバル成長企業に選ばれたという、世界をリードする設計集団のようである。

 60階と80階の2本のタワーが捩れるようにほぼ立ち上がりつつある。足元は既に完成しているが本格オープンは先のようである。中をみることはできない。一大コンプレックスである。完成すれば大連駅周辺は一変するであろう。2層の連棟の商店街、旧連鎖街との対比は際立っている。NBBJ2009年にシンガポールにThe Sail @ Marina Bayという2本ペアの超高層ビルを建てている。今や世界の超高層のニューファッションということであろうか。

 興味深いのは、NBBJが、温室効果ガス排出量50%削減をうたう「建築2030チャレンジ」を受け入れ2030年までにカーボン・ニュートラルを実現すると宣言していることである。アメリカ合衆国でも最もグリーン建築企業のひとつという。残念ながら、その実現の技術的裏づけについての情報は得られなかったのであるが、デザインのインパクトと共に受け入れられる要素をもっているのであろう。

 注目すべきは、プネに既にオフィスを構えていることである。中国の次にインドの建設市場が開く、それを明確にターゲットにしていることは間違いないのである。

 ゴローバリゼーションの先頭をいくファッショナブル・デザインの超高層ビルとその足元に埋もれる歴史的街区、しかも、そのほとんどが植民地遺産である、こうしたコンテクストにおいて、どういう別のオールタナティブがあるのか、議論してみる価値はありそうである。

 

 大連・旅順、そして瀋陽、撫順・集安、長春とめぐって、帰国前に大連で時間がとれたので、大連・南山地区を再び1時間ほど歩くことができた。全体は景観保存地区に指定され、高さ規制はなされているのであるが、もとの満鉄社宅はほとんど残っていない。確認できたのは1棟のみ。全体は再開発で、コロニアル風の建物が並ぶ。日本の建設会社も関わり、2000年に第一期が行われていた。地区の中心にはゲートが設けられ、いわゆるゲーティッドコミュニティとなっていた。こうした住宅地の歴史も議論の素材である。









2025年8月12日火曜日

小泉龍人『都市の起源 古代の先進地域=西アジアを掘る』講談社新書メチエ 2016年3月10日:布野修司 | 2016/05/14 | 書評, 『建築討論』008号:2016年夏(4月ー6月)

 小泉龍人『都市の起源 古代の先進地域=西アジアを掘る』講談社新書メチエ 2016310日:布野修司 | 2016/05/14 |  書評『建築討論』008号:2016年夏(46月)

http://touron.aij.or.jp/2016/05/1744




『建築討論』008号  ◎書評 布野修司 書評008号(2016年夏号(4-6月))

 

── By 布野修司 | 2016/04/05 | 書評, 008号:2016年夏号(4-6月) 

 

小泉龍人『都市の起源 古代の先進地域=西アジアを掘る』講談社新書メチエ、2016310

 

都市や国家はどのようにして生まれたのか、そして、何故、西アジアで「世界最古」の都市が誕生したのか、古来多くの論考が積み重ねられてきているが、本書は、西アジア考古学の最新の成果を踏まえた「都市の起源」論である。前著『都市誕生の考古学』(同成社、2001年)は、西アジア考古学のそれまでの成果を堅実にまとめたアカデミックな諸として評価が高いが、上梓されたのは2001年であり、15年の時が経つ。本書には、その成果も当然盛り込まれているが、新たな知見とともに、都市誕生のシナリオについての新たな提起が含まれている。

これまで世界最古の都市遺跡と考えられてきたのは,パレスティナのエリコ(イェリコ,ジェリコJericho (註1)あるいは小アジアのチャタル・ホユック Çatalhöyük(註2である。しかし,現在では,いずれも集落であって都市ではないとされる。

それでは、そもそも都市とは何か、数多くの住居址など古代の遺構が発見された場合,都市かどうかは一体どう判定されるのか。

本書でも冒頭に引かれるが(序章)、よく知られるのが“アーバン・レボリューションUrban Revolution(都市革命)(註3)を書いた考古学者のG.チャイルドの定義である。G.チャイルドが,発見された遺跡を「都市」とする条件として挙げるのは、次の10項目である。

1.規模(人口集住),

2.居住者の層化(工人,商人,役人,神官,農民),

3.租税(神や君主に献上する生産者),

4.記念建造物,

5.手工業を免除された支配階級,

6.文字(情報記録の体系),

7.実用的科学技術の発展,

8.芸術と芸術家,

9.長距離交易(定期的輸入),

10.専門工人



1 ウルク遺跡

規模が大きいと言っても相対的であり,人口何人以上が都市ということにはならないだろう。G.チャイルドは,分業と階層分化(2.5.8.10)を重視している。租税,文字,長距離交易といった社会経済関係に関わる要素も注目される。多くの議論があるが、評者なりに一般的に大きく整理すれば,Ⅰ.高密度の集住,Ⅱ.分業,階層化と棲み分け,Ⅲ.物資,資本,技術の集中とそのネットワーク化,Ⅳ.権力(政事・祭事・軍事・経済)の中心施設と支配管理道具(文字・文書,法,税,・・・)の存在が都市の本質,基本特性と考えられる。

著者は、「都市計画」「行政機構」「祭祀施設」の3つの存在を、古代西アジアの都市を一般集落や都市的集落(都市的な性格をもつ集落)から区別するための必要十分条件とする。「行政機構」(指導者の館、軍事施設、ドア封泥(部屋の扉を封印する粘土塊)、市場、絵文字的記号など)「祭祀施設」(街の守護神を祀る神殿など)というのは、Ⅳ.権力(政事・祭事・軍事・経済)の中心施設の存在ということである。「都市計画」というのは、都市が定義されないと同義反復であり、計画性ということであれば集落でも計画性のある集落もあるが、具体的には、城壁、目抜き通り、街路、水利施設の存在をいう。特に、都市成立の第一歩として城壁は欠かせない条件である、とする。この城壁の存在という条件は、例えば日本の都市には適用できないが、著者の3要件は、あくまで西アジアに限った要件とする。「都市的集落」とは、3要件の全てをみたさないものをいう。『都市誕生の考古学』では、その点については、より周到に議論されている。


2 ハブーバ・カビーバ南遺跡

エリコは、城壁をもつ。しかし、都市ではないとされる。では、「世界最古」の都市は何か。本書によれば、その最有力候補はウルク遺跡(図1)であり,ハブーバ・カビーラ南遺跡(図2)である。いずれもウルク後期とされる約5300年前の遺跡である。『都市誕生の考古学』では、ウバイド期(紀元前5500年頃~4,000年頃)に集落であったウル(現代名テル・アル・ムカイヤル),ウルク(ワルカ),エリドゥラガシュなどが「都市国家」となるのはウルク期(紀元前4,000年頃~3300年頃)後期のことであるとし、3要件をすべて満たす最古期の都市はハブーバ・カビーラ南としていたが、本書では、ハブーバ・カビーラ南はウルクのコピーとして建設されたとする。すなわち、都市誕生段階で都市と呼べる町はウルクとハブーバ・カビーラ南の2都市しかないという。この間の新たな知見に基づく見解である。

ハブーバ・カビーバ南は、ウルクの北西約900km、ユーフラテス河のはるか上流に位置する(図3)。何故、そうした地に、ウルク同様の都市が建設されたのか。ハブーバ・カビーバ南の周辺には、銀成分の含まれた方鉛鉱の産地があり、銀の開発が絡んでいるというのが著者の推理である。

楔形文字資料に「銀の山」と呼ばれる場所が記されており、それは南東アナトリアのタウルス山脈であったと推測され、ハブーバ・カビーバ南遺跡から銀を抽出する灰吹法の確実な証拠として最古級の工房跡が発掘されているという。すなわち、ハブーバ・カビーバ南は銀を精製し、ウルクへ輸送する中継地であった。

古代西アジアでは、銀の入手と安定的な供給のために、都市が計画的につくられていった、原料入手から製品流通に至るまでの一連の流れは都市になって具現化された、そして、都市誕生後、都市国家が分立する段階で、遠隔地から錫を輸入して、青銅が発明された、青銅の開発には、銀以上に、原料の確保から生産、流通にいたるまで複雑な工程と周到な人的配置が必要であり、組織化された仕組みが必要となる、すなわち、国家権力が必要となる、西アジアの都市の指導者は、銀とともに権力を掌握して、その権力を行使して青銅の武器を開発することになった、というのが本書の大きな見取図であり、興味深い提起である(序章 二つの「世界最古」の都市-神と銀の街)。

西アジアにおける都市誕生について、一般的に考えられてきたのは、灌漑農業との関係である。遠距離交易の成立も都市革命の条件としてG.チャイルドも挙げるところであるが、具体的に、銀の生産、流通に着目して都市誕生の地域連関を提起するのが本書である。

西アジアで農耕が開始(紀元前80007500年頃)されたのは、一帯に野生のムギが生育するレヴァント回廊で、定住的狩猟採集民による低湿地小規模園耕という形態であった。すなわち,レヴァントでは定住が栽培農耕に先行し、この段階ではまだ家畜を伴っていない。低湿地の栽培農耕は,やがて丘陵部の粗放天水農耕へ移行し、大規模な集落が出現するとともに,ヤギ,ヒツジの家畜化された。メソポタミア北部で成立したヤギ,ヒツジ,ウシ,ブタの四大家畜を伴う粗放天水農耕,農耕牧畜の混合農業は,ユーフラテス中・上流域を起点とし,西アジア各地に拡散していく。メソポタミア中・南部の低湿地に農耕牧畜が及んだのは,ザグロス山脈よりやや遅れ,紀元前5500年頃だとされる。年間降水量が200mmに足らない乾燥地域において農耕が成立するためには灌漑技術の確立が不可欠であった。平原・ステップ地域の南部で灌漑農業がまず開始され,シュメールに及ぶ。農耕牧畜の開始は最も遅れるが,農業技術の革新,灌漑農業技術によって,南部地域はメソポタミア全域に対して優位に立つ。これが都市革命の引き金となる。淡水での漁労,採集狩猟に加えて,農業遊牧による穀類の生産,ヒツジ・ヤギ・ブタの飼育によっても豊かな食糧を確保することができるようになったこと,瀝青(アスファルト),石灰岩以外には資源には乏しい地域であったが,鉱物資源を得るためにメソポタミア北部,トルコ,イランなどとの遠距離交易ネットワークを確立したこと,本書が強調するのはこの点であり、着目するのが銀である、灌漑農業そして紡糸,織布のために,分業による労働の組織管理システム,生産物の貯蔵管理システムを発達させたこと,そして,粘土板による文字記録システムを発明したこと,など都市成立の要件が出そろうのである。

本書では、以上を含めて、西アジアにおける農耕の発生と都市誕生のシナリオを前提にしながら、考古学的遺構をもとにして、古代都市の諸相を描き出す。全体は、序章と終章、第一章~第五章からなる。

第一章「川、墓、神殿―自然環境と祭祀儀礼」では、水利、舟運、墓の画一性と鍵なし倉庫にみる平等原理―これについては『都市誕生の考古学』でも強調される、神殿祭祀が記述される。第二章「「よそ者」との共存―街並みの変貌」では、約8000年前の気候変動、地球温暖化によるペルシア湾の海進とそれによる移住に焦点が当てられる。よく知られた事実であるが、この移住、「よそ者」の侵入が都市誕生のひとつの引き金になったというのは本書の強調するところである。第三章「安心と快適さの追求―都市的集落から都市へ」では専ら都市計画、都市形態に焦点が当てられる。これまでは、メソポタミアの諸都市には明快な計画原理はないとされてきたが、ハブーバ・カビーバ南が極めて整然とした構成をしていることが示唆するように、一定の計画性があることは、本書は重ねて強調するところである。第四章「人と人の拡散―「都市化」の拡散」は、都市間の関係、都市のネットワークに焦点が当てられるが、北メソポタミアでは「目の文様」が、南メソポタミアでは「ヘビの文様」が祭祀儀礼のシンボルとして共通にみられる精神世界のネットワークも銅、錫といった資源などの物流システムも合わせて扱われる。第五章「神を頂点とした秩序―都市の「陰」の部分」では、支配-被支配、都市の巨大化、戦争である。

3 メソポタミアの主要遺跡

近接するエジプト文明とインダス文明の比較は随所において行われる。また、都市の起源ということでは、中国、日本も視野におかれている。本書は、以上のようにアカデミックに多くの提起を含んでいるが、都市について多角的に考える様々な手掛かりを与えてくれる。ユニークなのは、都市を「陽」と「陰」の両面から捉えるとしている点である。「陽」とは、都市での暮らしの快適さや便利さ、出会いの刺激などであり、「陰」とは、様々な格差、差別、希薄な人間関係、支配構造などである。ただ、いささか現代都市の抱える問題に引きつけ過ぎという気がしないでもない。第五章に「陰」の側面をまとめるという構成もしっくりこない。その視点が構成にうまくいかされていない印象である。都市が「陰」「陽」を合わせ持つひとつの装置であることは、終章の「都市と権力―国家的な組織による秩序の維持」が示す通りである。

 

1 エリコ,ジェリコ。ヨルダン川西岸地区,死海の北西部に位置する。『旧約聖書』には繰り返し現れ,「棕櫚の町」として知られる。1952に,イギリスのキャスリーン・ケニヨンKathleen Kenyonらによって,遺跡の先土器新石器A期の層(前8350年頃~前7370年頃)から,広さ約4ヘクタール・高さ約4m・厚さ約2mの石の壁で囲まれた集落址が発掘された。初期の町は新石器時代の小規模な定住集落で,メソポタミアの都市文明とはつながらないとされている。

2 アナトリア南部の都市遺構。1958に発見され,19611965にかけてジェームス・メラート James Mellaartによって発掘調査されて,世界的に知られるようになった。最古層は紀元前7500年に遡るとされる。最古の都市遺構ともされたが,メラートは巨大な村落とする。2002年,世界文化遺産に登録された。

3  Childe, V. Gordon (1950) The Urban Revolution, Town Planning Review 21:3-17.

S.F.

 

 

著者

小泉龍人:1964年東京都生まれ。早稲田大学第一文学部卒業、同大学院文学研究科博士課程単位取得満期退学。博士(文学)。早稲田大学、明治大学、日本大学等で講師、国士舘大学イラク古代文化研究所共同研究員。西アジア考古学、比較都市論、古代ワイン。著書に『都市誕生の考古学』(同成社)、訳書に『考古学の歩み』(朝倉書店)など。


2025年8月11日月曜日

いるか設計集団編著『よみがえった茅葺の家』建築ジャーナル 2016年1月31日:布野修司 | 2016/04/01 |『建築討論』 008号:2016年夏(4月ー6月)

書籍紹介 岩本弘光『ジェフリー・バワの建築 スリランカの「アミニズム・モダン」』 彰国社 2016110日/前田昌弘『津波被災と再定住 コミュニティのレジリエンスを支える』京都大学学術出版会 2016229日/応地利明『トンブクトゥ 交界都市の歴史と現在』臨川書店 2016131日/いるか設計集団編著『よみがえった茅葺の家』建築ジャーナル 2016131日:布野修司 | 2016/04/01 |『建築討論』 008号:2016年夏(46月)


『建築討論』008号 201641日刊行  

◎書籍紹介 布野修司 書籍紹介008号(2016年夏号(4-6月))

 

いるか設計集団編著『よみがえった茅葺の家』建築ジャーナル2016131[布野修司1] 

 

神戸市の登録有形文化財第一号に登録されている大前家(神戸市北区道場町)の移築・再生の記録集である。大前家は江戸時代後期に建てられた農家であり,所有者である大前延夫さんは22歳まで,この農家で育った。高速道路の建設に伴い壊すか移転するかを迫られた大前延夫さんは,同じ町内日下部に土地を取得,いるか設計集団に移築・再生を依頼,本書は,その依頼から竣工までの記録集である。

実測調査(第1章 出会い」→基本計画~実施設計(第2章)→解体(第3章 茅葺き民家解体)→工事(第4章 家づくり工事)→移築(移築・再生後の暮らし)という経緯が,豊富な写真,図面とともに振り返られ,記録されている。

移築・再生であって,文化財をそのまま移築ということではない。移築前の住宅は江戸後期に遡る母屋と増築部分(洗面,風呂,トイレ,納戸)からなっていた。その大前家の歴史は,実測調査をもとに,神戸の民家の伝統,地域特性における位置づけとともに明らかにされているが(黒田龍二,佐藤定義),何を移築するのか,ということが,当然テーマになる。基本計画に当たって,大前家の何を引継ぎ,何をどう再生するかが,様々に議論される。その議論は,1.茅葺き屋根を尊重するデザイン,2.お墓のある山への美しい風景を活かしたプランにする,3.週末の農的暮らしの場にするため,畑も引っ越す,4.念仏講,御茶会など人が集まれる家にする,5.街道沿いの町家としての佇まいを残す,6.可能なかぎり古材を再利用する,7.茅葺き棟以外の部分は,現代の建築材料や工法でつくる,という基本計画の指針に集約されるが,言うまでもなく,こうした作業と議論はあらゆる建築の設計において問われることである。地域を読み,敷地を読み,その場を支える集団を考えるのは,いるか集団の基本的方法でもある。このプロジェクトでも,上述の指針を確認した上で,A案~K案が検討されている。現代生活に対応するために,茅葺き棟以外の部分は,現代の建築材料や工法でつくる(7)という方針が敢えて挙げられるが,移築・再生の結果は,草葺き民家+現代的付属屋という新たな建築の提案となっている。一言で言えば,「循環型社会への一つの提案として受け止めていただきたい」(有村桂子「あとがき」)ということである。

興味深いのは,「文化財」としての扱い,である。高速道路建設に伴う移転費用と文化財としての移転費用の問題など,本書には,極めて具体的に経緯が書かれている。概算見積もり,コスト削減,そして施工会社の決定の経緯についても同様である。茅葺き体験会から職人さんたちの仕事ぶりまで,細かく記録される。こうした記録に値する丁寧な仕事が各地域で積み重ねられることを大いに期待したい。S.F.

 

いるか設計集団:代表:有村桂子,吉村雅夫 会長:重村 力:19788Team ZOO 象設計集団神戸アトリエとして発足,19812月いるか設計集団に改名。 脇町立図書館1987年,第12回 吉田五十八賞), アーサヒルズ1993年,日本建築学会 霞が関ビル賞),出石町立弘道小学校1994年,ARCASIA AWARD FOR ARCHITECTURE GOLD PRIZE(第6回アジア建築家会議金賞)),出石町ひぼこホール1997年,日本建築学会作品選奨), 緒方町立緒方中学校2004年,日本建築学会作品選奨),豊岡エコハウス2010年), 城崎国際アートセンター2015年,兵庫県 人間サイズのまちづくり賞)など。

 

2025年8月10日日曜日

前田昌弘『津波被災と再定住 コミュニティのレジリエンスを支える』京都大学学術出版会 2016年2月29日:布野修司 | 2016/04/01 |『建築討論』 008号:2016年夏(4月ー6月)

 書籍紹介 岩本弘光『ジェフリー・バワの建築 スリランカの「アミニズム・モダン」』 彰国社 2016110日/前田昌弘『津波被災と再定住 コミュニティのレジリエンスを支える』京都大学学術出版会 2016229日/応地利明『トンブクトゥ 交界都市の歴史と現在』臨川書店 2016131日/いるか設計集団編著『よみがえった茅葺の家』建築ジャーナル 2016131日:布野修司 | 2016/04/01 |『建築討論』 008号:2016年夏(46月)


『建築討論』008号  ◎書籍紹介 布野修司 書籍紹介008号(2016年夏号(4-6月))

 

── By 布野修司 | 2016/04/05 | 書籍紹介, 008号:2016年夏号(4-6月)

 

 

 

前田昌弘『津波被災と再定住 コミュニティのレジリエンスを支える』京都大学出版会、2016229

 

本書のもとになっているのは、学位請求論文『津波被災者の再定住地への移住関係の再編に関する研究―スリランカのインド洋津波からの復興を事例に』(京都大学、20121月)である。そして、この論文の執筆の最中に発生した東日本大震災の復興支援に論文執筆を中断して関わったその後の経験を踏まえて、大幅に加筆、修正したものが本書である。

 本書が焦点を当てるのは、スリランカのインド洋大津波(20041226日)の被災地と被災者の再定住地、その後の復興過程である。著者は、インド洋大津波後の20054月に最初にスリランカを訪れて以来、10年以上通い続けて、10次にわたる臨地調査と支援活動を行ってきた。本書が迫力を持って、復興計画論を展開し得ているのは、フィールドでの経験の厚みである。

 全体は、序論の第1章から結論の第7章までの7章と補章1,2からなる。また、topics-16ということで、東日本大震災の問題も含めた議論が挿入される、立体的な構成をとっている。

 本書が依拠する重要な概念とされるのは、副題が示唆するように、レジリエンスである。東日本大震災の復興とともに、国土「強靭化」などという脈略で盛んに用いられるのであるが、著者が着目するのは、レジリエンスの基盤としての「社会関係」である(序論)。

 課題1 被災者の生活・仕事の継続に影響する物的環境要素の解明(第2章、補償)、課題2 被災者の生活・仕事、社会環境、物的環境の関係を捉えるフレームの構築(第3章、補章2)、課題3 被災者を取り巻く社会的環境に対する物的環境の規定性の解明(第4章、第5章)、課題4 被災者の生活・仕事の継続における社会環境の役割の解明(第6章、補償2)という4つの課題を明らかにするとする。課題2のフレームの構築というのは、いささか次元が異なるように思えるが、「暮らしの再建をはかるフレームの構築」(第3章)という意味である。また、課題4の「社会環境の役割」も一般的に思えるが、具体的に論じられるのは、マイクロクレジットの活用である。

 結論の最後には、自然災害後の再定住計画の原則が的確にまとめられている。

 遅々として進まないかに思える、東日本大震災の被災地の復興をさらに考えるために、読まれるべき多くの示唆を含んでいる労作と言っていい。S.F.

 

前田昌弘:1980年奈良県生まれ。2004年、京都大学卒業。京都大学大学院工学研究科博士過程、京都大学グローバルリーダーユニット養成研究員、日本学術振興会特別研究員を経て、2013年~、京都大学大学院工学研究科建築学専攻助教


2025年8月9日土曜日

応地利明『トンブクトゥ 交界都市の歴史と現在』臨川書店 2016年1月31日:布野修司 | 2016/04/01 |『建築討論』 008号:2016年夏(4月ー6月)

 書籍紹介 岩本弘光『ジェフリー・バワの建築 スリランカの「アミニズム・モダン」』 彰国社 2016110日/前田昌弘『津波被災と再定住 コミュニティのレジリエンスを支える』京都大学学術出版会 2016229日/応地利明『トンブクトゥ 交界都市の歴史と現在』臨川書店 2016131日/いるか設計集団編著『よみがえった茅葺の家』建築ジャーナル 2016131日:布野修司 | 2016/04/01 |『建築討論』 008号:2016年夏(46月)


『建築討論』008号 201641日刊行  

◎書籍紹介 布野修司 書籍紹介008号(2016年夏号(4-6月))

 

応地利明『トンブクトゥ 交界都市の歴史と現在』臨川書店,2016131[布野修司1] 

 

 稀代のフィールドワーカーによる珠玉の都市モノグラフである。建築,都市計画の分野における住居,集落,都市研究にとっても,必読書と言っていい。

 トンブクトゥTombouctouとは,西アフリカ,マリ共和国のニジェール川の中流域に位置する都市である。現在は,人口5万人ほどの1地方都市に過ぎないが,古来,地中海世界とブラック・アフリカを結ぶサハラ縦断交易の要衝として発展し,リ帝国,ソンガイ帝国時の中心都市として繁栄したことが知られる。交易の主要な商品は,塩と金であり,サハラ縦断のキャラバン・ロードは「塩金の道」と呼ばれた。西欧では,トンブクトゥを「黄金郷」とするトンブクトゥ幻想が19世紀まで人々を引きつけてきた。モスクや聖廟を含むトンブクトゥの歴史地区は,1988年,世界文化遺産に登録されている。

 著者は,このトゥンブクトゥについて,1988年以降,10度にわたるフィールドワークを行う。本書はその集大成である。

 著者は,トゥンブクトゥを「交界都市」の典型だとする。「交界都市」とは,「2つの異質な世界が接触・交渉する」「インター・フェイスとしてのフロンティア」を体現する都市である。アジア,アフリカでは,他に,中国の張家口,成都,インド亜大陸のペシャワール,ジョドプル,サヘルのアガデズ,そしてトンブクトゥなどが「交界都市」である。グローバルな視野でトンブクトゥを位置づけた上で,実に多彩な角度からトンブクトゥの特性を明らかにするのが本書である。人文地理学を出自とする著者であるが,農業,住居・集落・都市,経済,・・・などその視点は様々な分野を越境していく。というより,それぞれの地域に,それぞれの場所に,それぞれの出来事に世界(の構造)を見るのが著者の基本アプローチである。本書には,この間著者がフィールドで考えてきたことが,トンブクトゥに即して全て収められている。

 全体は,15章からなる。「Ⅰ トンブクトゥ幻想―カタローニア図からルネ・カイエまで―」では,地図そして歴史的資料に現れるトンブクトゥが分析される。背景には『「世界地図」の誕生 地図は語る』がある。すなわち,トゥンブクトゥの世界史的な像が明らかにされる。「Ⅱ砂丘列のなかの構築港市」は,遠隔地交易の生態学的基盤が明らかにされる。「Ⅲ 都市編成の構造分析―形態論からのアプローチ―」は,都市空間構成,市壁と袋小路の欠如というマグリブ都市との違い,植民都市のグリッド・パターンの導入に焦点があてられる。「Ⅳ サハラ縦断塩金交易―シルク・ロードとの対比―」そして「Ⅴ 「黒人たちの国々」への道―成立と西遷―」は,交易の歴史を明らかにする。「Ⅵ トンブクトゥ簡史―栄光と凋落―」「Ⅶ 最盛期のトンブクトゥ―歴史地理と施設配置―」「Ⅷ 近現代のトンブクトゥ―植民都市への改変―」と歴史が詳細に振り返られ,「Ⅸ 人口構成とエスニシティ―諸集団共住の実態―」では,現代のトゥンブクトゥの棲み分け状況が明らかにされる。そして「Ⅹ トゥンブクトゥ町家論―「住まい」と「住まう」―」は住居,「Ⅺ 家族の職業―大区別・エスニシティ別特性―」は生業,「Ⅻ 市場活動のエスニシティ・ジェンダー(Ⅰ)―「大市場(ヨブ・ベル)」―」「ⅩⅢ 市場活動のエスニシティ・ジェンダー(Ⅱ)―「小市場(ヨブ・カイナ)」―」「ⅩⅣ 市場活動のエスニシティ・ジェンダー(Ⅲ)―「近隣市場(アルバメ市場)」―」は市場に焦点をあてる。そして,「ⅩⅤ トンブクトゥ周辺の農耕―ニジェール川と砂丘の賜物―」で,トンブクトゥが一方で農耕によって支えられていることが明らかにされる。

 大部で,いささか高価ではあるが,地域研究の方法,視点について,実に多くを学ぶことができる。

 

 応地利明 京都大学名誉教授。1938大阪生まれ。1960年京都大学文学部史学科地理学専攻卒業,1964年同大学院文学研究科博士課程退学,名古屋大学文学部助手,1966年名古屋工業大学講師,1969年愛知県立大学助教授,1973年京都大学文学部助教授 ,1986年教授,同年「南西アジアにおける農業的土地利用の地理学的比較研究」で京大文学博士。94年同東南アジア研究センター教授,98年同アジア・アフリカ地域研究・研究科教授,2000年滋賀県立大学・人間文化学部教授,2005年立命館文学部教授(2008年退職)。著書に,『絵地図の世界像』(1996年,岩波書店),『「世界地図」の誕生 地図は語る』(2007年,日本経済新聞出版社),『都城の系譜』(2011年,京都大学学術出版会),『生態・生業・民族の交響』中央ユーラシア環境史(2012年,臨川書店)など。



布野修司 履歴 2025年1月1日

布野修司 20241101 履歴   住所 東京都小平市上水本町 6 ー 5 - 7 ー 103 本籍 島根県松江市東朝日町 236 ー 14   1949 年 8 月 10 日    島根県出雲市知井宮生まれ   学歴 196...