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2025年10月10日金曜日

ドゥブロヴニク:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日

 布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日


B06 アドリア海の真珠

ドゥブロヴニク Dubrovnik、ダルマチアDalmacijaクロアチア共和国 Republika Hrvatska

 

ドゥブロヴニクは,アドリア海東岸,クロアチア共和国の南端―クロアチア本土とはボスニア・ヘルツェゴビナのネウム港に遮られていて飛び地になるがーに位置する。その起源は古くローマ帝国時代あるいはそれ以前に溯るとされるが、古来、鉱物資源を産する後背地と地中海各地をつなぐ交易拠点として栄えた。美しい海に接する旧市街地の景観は,「アドリア海の真珠」と称される。1979年に世界文化遺産に登録され、現在は地中海有数の観光地となっている。

イタリア語ではラグーサと呼ばれるが、ラテン語名ラグシウムに由来する。ラヴェンナに都を置いてイタリア半島を支配した東ゴート王国が崩壊した後、7世紀にバルカン半島に侵入してきたアヴァール族を避けて南方から移住してきたラテン系住民によってその基礎がつくられた。彼らは当初,本土から海峡で隔てられた岩島の一角に定住した。これがラグシウムである。9世紀の中頃までに、ラグシウムは城塞で囲われる。新たに11世紀にかけて城壁が建設されていく(図1)。中心に位置したのは聖マリア教会である。その後,本土からスラヴ系の民が流入し,市域は島全体,さらには本土側に拡大していく。海峡であった現在のプラカ通りが埋め立てられるのは12世紀後半のことである。



   

a .9 世紀                     b. 1011世紀                       c.21世紀

1 都市の形成         出典: B・クレキッチ(2005)

ラグーサはビザンティン帝国保護下の都市国家となり、十字軍の時代を経てヴェネチアの支配下に入る。ラグーサはラテン系とスラブ系の対立を内包しながらも共存共栄の自治都市として発展することになる。1667年の大地震で人口の半分を失う大打撃を受けるが、歴史的建造物や市壁は再建されて今日にもその姿を伝える。14世紀中葉に市壁の建設や防御施設の造営、建築物の建設に従事した建築家として、フィレンツェ人のミケロッツォ・ミケロッツィやクロアチア人のユーライ・ダルマティナッツ、地元建築家のパスコイェ・ミリチェヴィッチなどが知られる。ラグーサ共和国は、以降1808年まで存続する。15から16世紀にかけての最盛期には、アマルフィ、ピサ、ジェノヴァ、ヴェネチアなどの海洋都市国家と覇を競う存在となる

   図2 ドゥブロヴニクの歴史的建造物と市壁 作図:高橋謙太  B・クレキッチ(2005)

ラグーサの名前はこうして19世紀に至るまで用いられるのであるが、スラヴ語系のドゥブロヴニクの名も一方で用いられてきた。最も古い記録は12世紀後半であり、16世紀後半から17世紀にかけて広く用いられるようになったのがドゥブロヴニクである。ケルト語の水ドゥブロンdubronに由来するという説がある。ラグーサの名がドゥブロヴニクに変えられるのは、オーストリア・ハンガリー帝国下の1918年のことである。オスマン帝国によって東ローマ帝国が滅亡するとドゥブロヴニクはオスマン帝国の支配下に置かれる。キリスト教を基盤とする都市国家であったドゥブロヴニクは、イスラーム化されることになる。

ドゥブロヴニクの旧市街は、6地区から成り立っている。島の西南に当たる高い岩場のカステロ区は、当初から要塞化されていたが、島の南側に聖ペテロ区とプスティエルナ区、プラカ通り南側のやや平らな土地に聖ヴラホと聖マリア区、陸側の斜面に聖ニコラス区が順次設けられていく。14世紀半ばまでには6地区全体は13の角(櫓)塔を備えた市壁で囲われる。16世紀初頭には、オスマン帝国が強大になったため、東の城門外に急遽レヴェリン要塞を建設。11世紀からあった島の西方の聖ロヴェリナッツ要塞と併せて町の外側を固めるとともに、市壁を厚さ4.9~6.1m、高さ20mに増強し、アドリア海随一の城塞都市へと町を整えていった(図2)。

.3 旧市街の町並み 出典:Enciklopedija Jugoslavije

ドゥブロヴニクの中心施設は、すべてプラカ通りに面している。街路は、南北からプラカ通りに向かい直角に交わる街路と、プラカ通りに平行に引かれ東西に延びる街路が数本ある。大通りと直角に配された新市街地の街路は南北の行き来を促し、町を活性化させていった。住居は、市街地拡大の際に木造家屋が大量に作られたが、度重なる火災によって、木造家屋は焼失し、石造の建物に建て替えられた。その際に、大理石が貴族の建物や塗装に込んで使われたことが、現在の町並みを作り出している。(高橋謙太・布瀬修司)

 


参考文献

1)B・クレキッチ(1990)『中世都市ドゥブロヴニク アドリア海の東西交易』田中一生訳、彩流社

2) Boto Letunic (ed.), “7th  RESTORATION OF DUBROVNIK 1979-1989”, Dubrovnik, 1990

3) Suad Ahmetovic(2008), “Curiosities of Dubrovnik from the Past Two Millennia

4) Robin Harris(2003), “DURROVNJK A HIS1VRY SA”

5) Antun Kararnan(2008)ドゥブロヴニク 歴史・文化・芸術山本憲夫訳、観光出版社 (Zagreb)

6) Antun Travirka(2008)ドゥブロヴニク 歴史・文化・芸術遺産』桂南紀訳  FORUM ZADAR 

7辻知衆、羽生修二、「城塞都市ドゥブロヴニクの都市形成について ~起源(7世紀)から共和国崩壊(1808年)までの転換期に着目して~日本建築学会大会学術講演梗概集20109 

 


2025年10月9日木曜日

エルサレム:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日

 布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日


A10 一神教の聖都

エルサレムJerusalem、エルサレム県、イスラエルIslael

 

現在のエルサレムは,ユダヤ,キリスト,イスラームの3つの一神教の聖都である。世界の都市のなかでも実にユニークな都市である。その歴史は,メソポナミア文明の中枢に位置するその立地からして世界都市史の起源に遡るが,考古学的遺構としては紀元前18世紀に築かれた城郭址が最古である。また,古代エジプトの第18王朝のファラオ,ツタンカーメンの父であり,多神教の古代エジプトにあって,太陽神を唯一神とする宗教改革を行ったことで知られるアメンホテプⅣ世(位, 紀元前13771358)の残した『アマルナ文書』にエルサレムの名前が記されていることが知られる。当初の町はオフェルの丘にあったとされる。

『旧約聖書』創世記に拠れば,アブラハムとその一族は,ウルの地から「カナンの地」すなわち「約束の地」パレスティナへ移って来た。アブラハムの孫ヨセフの時代にエジプトに移り住み、やがて奴隷化されたイスラエルの民は,紀元前13世紀ごろモーゼに率いられて脱出,シナイ半島を流浪した末に再びカナンの地に侵入する。

紀元前1000年頃,イスラエルの民十二支族を統合し,ヘブライ王国を建てて王となったのがユダ族出身のサウルであり,エルサレムを攻略,ユダヤの拠点としたのが第2代ダビデである。3代目ソロモンによって王国は絶頂期を迎える。ソロモンは,自ら神殿や宮殿を建設した大建築家として知られる(図1a)。

ソロモンの死後,紀元前932年頃に王国は南北に分裂,エルサレムはユダ王国の都となった。王国はその後300年存続するが,新バビロニア王国のネブカドネザルⅡ世によって滅ぼされた(紀元前586年)(1b)。エルサレムは完全に破壊され,住民はすべてバビロンへと連行された(バビロン捕囚)。

新バビロニアがハカーマニシュ朝に滅ぼされると(紀元前539年,ユダヤ人のエルサレムへの帰還が認められ,エルサレムは再建された。その後は,アレクサンドロス帝国,プトレマイオス朝,セレウコス朝シリア,そしてローマ帝国の支配下に置かれる。この間,ユダヤを弾圧したことで知られるヘロデ大王が出て(紀元前37年),精力的に建設活動を行っている。ユダヤは,ローマ帝国に執拗に抵抗し続けるが,紀元66年に勃発したユダヤ戦争に敗北,エルサレムは陥落,ユダヤ人の居住は禁止される。

紀元132年にも第二次ユダヤ戦争と呼ばれる叛乱(バル・コクバの乱)を起こすが再び敗北,以降,ユダヤ人はディアスポラの民として流浪することになる。エルサレムはローマ植民市アエリア・カピトリナとして再建された。313年にはローマ帝国がキリスト教を公認し(ミラノ勅令),キリスト教の聖地として市名はエルサレムに戻され,聖墳墓教会が建てられた。そして,ユリアヌス帝の時代には,ユダヤ人のエルサレムへの居住が許可されるようになった(図1c)。

イスラームの成立まもなく,エルサレムはイスラームの支配下に置かれる(638年)。エルサレムを第三の聖地とするイスラームは,岩のドーム,アクサー・モスクなどを建設していった(図1d)。

1099年に第一十字軍が占拠,エルサレム王国を成立させ,ムスリムやユダヤ人は居住を禁止された(図1e)。しかし,1187年にはアイユーブ朝のスルタン,サラーフッディーンがエルサレムを奪回し,再びイスラームの支配下に入った。このときカトリックは追放されたが,正教会やユダヤ人の居住は許可された(図1f)。以降,マムルーク朝(1250-1517)(図1g、図2),そしてオスマン朝(15171918)(図1h)の支配下に置かれた。

19世紀後半になると,聖都エルサレムへユダヤ人の移住が急増していく。そして,第一次世界大戦でオスマン帝国が敗れると,英委任統治領パレスティアとなり,第二次世界大戦後,国際連合のパレスティナ分割決議(1947年),そして,イスラエルの建国独立宣言以降,パレスティナは,今日に至る紛争状況にある。

エルサレム旧市街は、アルメニア人地区、キリスト教徒地区、ユダヤ教徒地区、ムスリム地区の4地区からなる(図3)。最大のムスリム地区は旧市街の北東端に位置し、ライオン門、ヘロデ門とともに神殿の丘の北壁と接している。北西端に位置するのがキリスト教徒地区で、十字架を背負って歩いたとされる「悲しみの道」があり、その終着点がキリスト教徒たちにとっての最大級の聖所のひとつ聖墳墓教会がある。南に接するのがアルメニア人地区である。アルメニア人はキリスト教徒であるが、その総司教座は一定の独立性を保っている。かつては混住が行われていたが、60世帯程度のユダヤ人家族が居住するのみである。ユダヤ人地区は、アルメニア人地区の東、旧市街の南東部に位置し、嘆きの壁があって神殿の丘に接する。エルサレムの旧市街とその城壁群は、1981年に世界文化遺産に登録されたが、翌年危機遺産リストにも挙げられ、そのままの状況が続いている。

 

主要参考文献

Cohen, A.1973, “Palestine in the Eighteenth Century: Patterns of Government and Administration”, Jerusalem

高橋正男(1996,『イェルサレム』,文藝春秋

Armstrong, Karen1996, “Jerusalem One City, Three Faiths”, Ballantine Books, New York

高橋正男(2003)『図説 聖地イェルサレム』河出書房新社

布野修司+山根周(2008)『ムガル都市-イスラ-ム都市の空間変容』京都大学学術出版会

臼杵陽(2009)『イスラエル』 岩波書店

笈川博一(2010)『物語 エルサレムの歴史』 中央公論新社






 


2025年10月8日水曜日

ダマスクス:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日

布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日


01 ダマスクス 興亡のオアシス都市 旧約聖書・ローマ・イスラーム

シリア、ダマスクス県

Damascus, Syria


ダマスクスは、地中海からわずか80km、レバノン山脈を越えた東斜面、シリア砂漠を見下ろす聖なるカシオン山の麓に位置する。山からの水流には恵まれ、内陸河川が潤すオアシスのなかに、はるか古代から都市が営まれてきた。旧約聖書創世記はカシオン山の斜面でカインがアベルを殺害したとする。そして、ダマスクスのオアシスはエデンの園のモデルとされる。「最古の都市」ともされるダマスクスの地は、北東に向かってはユーフラテス川沿いの諸都市をつなぐ隊商路が伸び、南へはエジプト、イエメン、インドへ向かう紅海の港へ向かう街道がある交通の要所でもある。

トトメスⅢ世(古代エジプト第18王朝第6代,在位:紀元前1479年頃~1425年頃)時代の碑文に既にその存在が記されているというが、その名はアラム語のダルメセク(灌漑された場所)に由来するという。

紀元前10世紀にはアラム人の王国の首都が置かれたとされるが、その後、新バビロニア、ペルシア、セレウコス朝、そしてローマ帝国の支配下に置かれる。ローマ時代に建設されたダマスクスは、地下数メートルに埋まっているが、カルドとデクマヌスの南北、東西の中心軸によって構成されるローマン・タウンの伝統、「正方形のローマ」の系譜に属していたと考えられる。ササン朝ペルシアとビザンツ帝国の抗争の舞台となり、ムスリムに占領されて(636年)、ウマイヤ朝の首都(661年)となることによってイスラーム都市へと変容するのであるが、東西の大通りは今日にまで引き継がれている(図①)

ローマ人が「ヴィラレクタ」と呼び、アラブ人が「スーク・アル・タウィル」と呼ぶ「真っ直ぐな道」の西門にはユピテル神殿があり、東門は「バブ・シャルキ」(太陽の門)と呼ばれる。そして、この道の北側には、ゼウス神とユピテル神が合体して融合したバール・バクダード神を祀る神殿があった。この神殿は、4世紀後半にテオドシウス帝(位379395)によって破壊され、代って聖ヨハネを祀るバシリカが建てられた。

ムハンマドの没後、各地の叛乱を治めるジハードが開始され、各地にミスル(軍営都市)が建設されていくが、その拠点となったのがダマスクスである。ウマイヤ朝を創始してカリフの地位に就いたムアーウィア(位661680)は、さらにジハードを継続し、カイラワーンなどを建設している。メッカを占領し、ウマイヤ朝の正統性が確立するのはアブド・アルマリク(位685705)の治世であり、ダマスクスがムスリムの首都としての威容を整えるのは、ワリードⅠ世によるウマイヤ大モスクの建設によってである。

ウマイヤ・モスクが建てられたのはかつての古代神域、キリスト教のバシリカ(聖ヨハネ教会)が建てられていた場所である。東西に長い礼拝室(幅136m、奥行40m)と南に接する柱廊で囲われた中庭からなるが、中心軸は南北軸であり、マッカのある南壁にミフラーブがつくられている。礼拝室は三列の身廊からなり、中央にドームを頂いている。その構成については、キリスト教会のバジリカの構成との関係が指摘される。ムスリムは西側、キリスト教徒は東北、ユダヤ教徒は東南に居住する棲み分けが行われる。アッバース革命(750年)によって、ウマイヤ朝の宮殿は徹底的に破壊されたが、ウマイヤ・モスクだけは破壊を免れている。ウマイヤ・モスクの幅広横長の空間は、以降のモスクの形式に大きな影響を与えることになる。

イスラームの帝都から一夜にして一商都に転落することになったダマスカスであるが、やがて、十字軍の暴虐から逃れてくる難民たちを受け入れることで再生を果たしていく。11世紀末以降、大いに繁栄し、イスラーム都市としての街区形成がなされ、城壁も楕円形に変じていく(図②③)。

1300年にモンゴル軍、1400年にティムール軍の襲撃によってダメージを受けたが、オスマン帝国の支配下で中庭式住居が密集する街区形態がさらに形成されていった(図③④)

1920年以降のフランス統治下において、西側に西欧風の新市街が建設される。独立後、新市街を中心に、歴史都市を取り囲むように近代都市が建設されていくが、中東情勢が揺れ動く中で、ダマスクスをとりまく環境は不安定である。

 

陣内秀信・新井勇治編『イスラーム世界の都市空間』法政大学出版局、2002

三浦徹『イスラームの都市世界』山川出版社、1997

K.Wulzinger & C. Watzinger, “Damaskus”, Berlin, 1924

J. Sauvaget, “Les monuments historiques de Damas”, Beyrout, 1932








図① Kostof, S1991“The City Shaped: Urban Patterns and Meanings through History” Thames and Hudson, London

図② 1968 Master Plan for Damascus

図③ 陣内秀信・新井勇治編(2002

図④ 陣内秀信・新井勇治編(2002


2025年10月6日月曜日

ヴィガン:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日

布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日



K26バハイ・ナ・バトの都市-東西の融合

ヴィガンVigan,イロコスIlocos, 北ルソンNorthern Luzon,フィリピンPhilippines

 

バハイ・ナ・バトbahay na bato(タガログ語で「石batoの家bahay」)とは,フィリピンの伝統的建築形式である,先住民,スペイン人,中国人の技術が混合した,木骨で,石・煉瓦造の一階と木造の二階からなる都市住宅のことである。カピスCapiz貝がはめ込まれた格子状の窓が特徴的で,フィリピン・スペイン植民都市のなかでは唯一ヴィガンがその美しい姿を今日に伝えている(図1 世界文化遺産登録(1999年))。

ヴィガンは,セブ (1565),パナイ (1569),マニラ (1571)に次いでスペインによって建設されたフィリピン第4の都市である。スペインの当初のターゲットは,中国,台湾,カンボジアなどとの交易に重要な拠点であり,広東,漳州,福州などから来航船が数多く訪れ,倭寇も根拠地としていた南シナ海に面するルソン島最大の河川カガヤン川の河口部のヌエヴァ・セゴビアであったが,その足掛かりとしたのがヴィガンであった。ヴィガン建設に当たったのはレガスピの孫,フアン・デ・サルセドであり,実際に建設を担当したのは小教区担当のスペイン人宣教師である。

17世紀前半には,カトリックに改宗した中国人の移動が許され,スペインが建設した植民拠点に中国人が移住し始める。18世紀になると,東アジア海域世界の交易中継拠点としての台湾の成長もあって,ルソン島北部の司教座はヌエヴァ・セゴビアからヴィガンに移される。1778年には行政上でも町(ヴィジャvilla)から都市(シウダードciudad)に昇格し,シウダード・デ・フェルナンディナに改称される。司教座となりシウダードに昇格したことによってヴィガンは急速に成長を遂げる。ヴィガンを中心としたイロコス地方の人口は増え続け,1810年のイロコスの人口は36万人を超えている。

一時期,退去が命じられた中国人であるが,1850年に中国人の地方在住が再び認められ,中国系メスティーソがヴィガンを拠点に,彼らはタバコの生産・集散・輸送を掌握する。しかしながら,後背地の人口減少に伴い,徐々にヴィガンの繁栄にかげりが見えはじめる。そして、1890年代末には,フィリピン革命軍,その後1899年にはアメリカ軍によって占領される。

世界文化遺産登録のための公式申請書は「インディアス法に準拠したスペイン的都市計画を明示するフィリピン唯一の現存例」を強調しているが,この「インディアス法に準拠」という点については疑問なしとしない。ヴィガンの建設は1572年に開始されており,直接「フェリペⅡ世の勅令」(1573)を参照して建設されたとは考えられない。それに、インディアス法を逸脱しているように思われる点が少なくとも2つある。ひとつは,広場が近接して2つあること,そして,街区が,他のスペイン植民都市ではあまり例がない,3×39のナイン・スクエアの分割パターンが見られることである。それに加えて,ヴィガンの建設に、中国人あるいはチャイニーズ・メスティーソが積極的参加していること,その象徴として,バハイ・ナ・バトという都市型住居が生み出されたことは,ヴィガンの大きな特徴である。

ヴィガンは現在,イロコス・ス-ル州の州都である。現在のヴィガンの中心部は,北をゴヴァンテス川,東をメスティーソ川によって区切られている2。当初,南東部に港と要塞が設けられその後,北側に中心部が移動したと考えられている。北側中央に,サルセド広場があり,その東に聖パウロ大聖堂,西に州庁舎,北に司祭館と修道院,南に市役所などが配されている。大聖堂の南にはブルゴス広場がある。伝統的なバハイ・ナ・バトは,街の東側に位置し,スペイン植民地時代の中国系メスティーソの居住区内であるクリソロゴ通り沿いに多く残されている。バハイ・ナ・バト1階には物置や車庫,湿気の少ない2階に接客用階段ホールcaida・サラsala(居間,広間)・食堂 comedor・台所cocina・寝室cuarto・祈祷室oratorio・アソテアazotea(奥行きのあるバルコニ-)などが設けられ,1階と2階は屋内大階段で結ばれる。2階を居住空間とするのは高床式住居に似ているが,梯子や簡単な階段ではなく,見せ場としての大階段はスペインの影響だと考えられている。


ヴィガンの街路体系・街区構成については,旧市街の街区規模が80m85mの正方形をしていることが注目される。スペイン植民都市で用いられた単位ヴァラを元にすると,街区は心々で100ヴァラ四方,街路幅は10ヴァラとしていたと考えられる。各街区がどのように宅地分割されていたかについて,現況の宅地割りをもとに考察すると街区の各辺は3分割される例が多く3×3のナイン・スクエアの分割が基本であったことが考えられる。寸法体系としても,100ヴァラから街路幅の計10ヴァラを引いた90ヴァラを三分割した30ヴァラ×30ヴァラの宅地に分割する計画理念は考えやすい。しかし,中南米の植民都市の場合,2×24分割が基本となっており,40ヴァラ×40ヴァラもしくは20ヴァラ×20ヴァラ(1ロアン)が単位でなった可能性もある。

 

参考文献

 布野修司・ヒメネス・ベルデホ,ホアン・ラモン(2013)『グリッド都市-スペイン植民都市の起源,形成,変容,転生』京都大学学術出版会(「第Ⅵ章 フィリピン―マニラ・アウディエンシア 4 バハイ・ナ・バトの都市―ヴィガン」)。













2025年10月5日日曜日

セブ:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日

布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日



K23フィリピン最古の都市-スペイン東インドの橋頭保

セブCebu、中央ヴィサヤCentral Visaya、フィリピンPhilippines

 

セブは、スペインがフィリピンを植民地化するに当たって最初に拠点を置いた都市であり,スペイン東インド最初の植民都市,土着の都市の伝統のないフィリピンにおいては、最古の都市となる。

スペインが到来する以前,セブ島は中国・ムスリム・東南アジアの商人たちが定期的に来航する交易中心であった。13世紀~16世紀,セブには,ラージャ(ダトゥ)と呼ばれる首長によって率いられるヒンドゥー教徒,ムスリム,そしてアニミズムを信仰する先住民などいくつかの集団が存在していたことが知られる。フィリピン諸島に到達した最初のヨーロッパ人はマガリャンイスとその船団員であるが、セブには多くの高床式住居からなる多くの集落があったという記述が残されている。

マガリャンイス以後, ヌエヴァ・エスパーニャ総督が4度にわたって編成したメキシコからの遠征隊はいずれもフィリピンに到達できなかったが、ようやく1565年になって、レガスピが訪れたのがセブ島である。レガスピは、セブの町を破壊し,最初の植民拠点を建設する。しかし、スペインは,続いてパナイPanay(1569)を拠点とし,ムスリムの攻撃を警戒してマニラ (1571)に拠点を移す。セブは、その後2世紀以上に亘ってそのまま放置されることになる。いわゆるガレオン貿易は1565年以降19世紀初頭まで存続するが,セブは1590年代に独自のガレオン船をメキシコに送るなど短い期間栄えた後は,中国及び東南アジアとの伝統的な交易拠点としての役割を維持することになった。

19世紀になると,セブは,ネグロス,パナイ,レイテ,サマル,ミンダナオの農業生産物を集積する重要な港市都市に成長する。1860年代には,蒸気船の登場とともに,英国,米国,スペインとつながって世界経済に包摂され,経済的にも発展し,都市化も進展した。米西戦争(18991902)によってフィリピンは米国に服属することになるが,セブは1936年に信託統治市の地位を獲得し,フィリピン人によって独立的に運営された。

セヴィージャのインディアス総合古文書館AGIに収蔵されたフィリピン関係の地図や史料などによると、レガスピが来島した頃,沿岸部には1415の集落があり,セブには300を越える住居が密集している状況であったが,16世紀末頃には,スペイン人が居住するシウダードCiudad(都市)の西に先住民の集落, 北に三角江によって海につが中国人居住区パリアンが形成されている。パリアンが形成されるのは1590年頃で,1595年に,イエズス会が学校を設置し,1599年までに中国人は自前のキリスト教会を建設している(図1)。

 17世紀末(1699)の都市図にはグリッド状の街区に主要建造物,土地の所有者が書き込まれている。サント・ニーニョSanto Niño (アウグスティノ会),カテドラル(イエズス会)そして市政府(シウダード)の土地で市街地の70%を占めている。要塞の西に広場が設けられ,広場の北にカテドラル,その西に総督邸が置かれる。スペイン植民都市の基本的構成であるが,要塞が近接するのは初期の形である(図2)。

18世紀に入ると,セブは停滞し、1738年までは,行政官と軍人,司祭を除くと一般のスペイン人はほとんど居住していなかったとされる。19世紀半ば以降,蒸気船の時代となり,マニラ,イロイロに次ぐ港市都市となると、港湾部を中心に都市改造がなされ,市域も拡大する。1850年以降,中国人の移住が急増し,経済活動の中心を担うことになる。

セブが大きく変化するのは19世紀末以降である。鉄道が敷設され,シウダード,パリアン,サン・ニコラスの三地域は連坦し,港湾部も建てづまる。刑務所と市場は市役所に建て替えられ(1885),新たなプラサ・マヨールがその前に形成された。

セブは,アジアにおける最初のスペイン植民都市であるが,その都市計画は完全なかたちでは実施されず、当初の計画図も残されていないが,17世紀末までにはある程度計画的な整備がなされた。グリッド・パターンの街区が構成され,そのパターンは今日にまである程度維持されている(図3)。現在の街区の縦横幅をみると,残された歴史地図が明快に示すような厳密なグリッド・パターンによる街区割りはなされておらず、要塞の建設,広場の設定と教会の建設が先行して行われる素朴なやり方がとられたと考えられる。インディアス法の規定が成文化される以前の都市計画を示す例であり、同じような立地が選択されたマニラの予行演習であったと位置づけることができる。残念ながら,特にパリアンにおける変化は激しく,伝統的な住宅バハイ・ナ・バトはほとんど残っていない。

 

参考文献

Kiyoko Yamaguchi. Philippine Urban Architecture History. Transformation of the Poblacion Architecture from the late Spanish Period of the American Period. Dotoral thesis dissertation. 2004.

Lucy Urgello Miller. Glimpses of old Cebu. The University of San Carlos Press. Cebu. 2010. ISBN 9789715390200.

Maria Lourdes Diaz-Trechuelo Spinola. Arquitectura Espanola en Filipinas 1565-1800. Publicaciones de la Escuela de Estudios Hispano-Americanos de Sevilla. 1959.

Concepcion G. Briones. Life in Old Parian. University of San Carlos. Cebu. 1983.

Bruce L. Fenner. Cebu under the Spanish Flag 1521-1896. San  Carlos Publications. Cebu. 1985. ISBN 971100044x.






 


布野修司 履歴 2025年1月1日

布野修司 20241101 履歴   住所 東京都小平市上水本町 6 ー 5 - 7 ー 103 本籍 島根県松江市東朝日町 236 ー 14   1949 年 8 月 10 日    島根県出雲市知井宮生まれ   学歴 196...