京都大学東南アジア研究センター編:事典 東南アジア 風土・生態・環境,布野修司:住,弘文堂,1997年
床・・・高床と土間
ジャワ・バリ・ロンボク
東南アジアの住居の共通の特徴のひとつは高床式であることである。高床式住居は世界中に分布するのであるが、東南アジアの場合、集中的に分布することにおいて際立っている。東南アジアの大陸部と島嶼部のみならず、ミクロネシア、メラネシアにも見られる建築形式である。しかし、例外がある。ジャワである。そして、バリであり、ロンボク西部である。また、大陸部のヴェトナムの南シナ海沿岸部がそうだ。他の例外はあんまり知られていないかもしれない。西イリアンとティモ-ルの高地もそうだ。もう一つ、モルッカ諸島の小さな島、ブル島が高床式住居の伝統を欠いている。
ジャワ(中部ジャワ、東ジャワ)の住居は、全て地床式である。バリにおいては、米倉を除いて、一般的には高く築かれた土壇の上に造られるが、地床式である。18世紀初期からバリのカランガセム王国によって統治された西ロンボクにおいてもバリ式住居が見られる。ロンボクの土着民であるササック族は、地床式の住居に住むが、興味深いことに、内部空間を約
一メートルの高さの土壇で高くする場合がある。その土壇は、牛の糞と藁を土に混ぜて作り、表面が滑らかになるまで磨かれる。この土壇は、主要な部屋の床になる。寝るとひんやりして気持ちがいい。米倉は高床式で、独特の屋根と共にバリの米倉に類似している。高床式、地床式といっても様々であるが、何故か、ジャワ・バリ・ロンボクは地床式である。土間を主要な生活面としている。
ところが不思議なことがある。ボロブドゥールやプランバナンなど、中部ジャワ、東部ジャワの 9世紀から14世紀に建てられたチャンディー(ヒンドゥー寺院)の壁のレリーフには多くの種類の高床式住居が刻まれているけれど地床式の建物はないのである。この事実は、ジャワの歴史において、かつては高床式建物が一般的であったことを示しているのではないか。同じジャワ島でも、スンダ(西部ジャワ)の伝統的住居は高床である。今日では、ジャカルタ、バンドンといった大都市を中心とした地域では地床式住居が一般的となりつつあるのであるが、もともとは高床式である。それを示すのが、ジャワ島西部のバンテンのバドゥイ*1の集落であり、プリアンガン(バンドンを中心とする地域)のナガの集落である。
何故、ジャワ、バリ、ロンボクが地床式なのか。一般的にはインドの影響と考えられる*2のであるが、果たしてどうか。南インドの住居が地床式であることから、その相互関係が指摘されるのであるが、その装飾などへの影響が明らかなことから、中国の影響を考えるものもいる。イスラムの平等主義がヒンドゥー・ジャワのカースト的社会を攻撃する上で、高床式住居を禁止したという説もある*3。興味深いテーマである。
東南アジア大陸部の大部分の地域もまた高床式である。例えば、タイ北部の山間地方においては、地床式住居はごく稀だ。高地の寒気に対応するためか、もしくは、ヤオの例のように中国の影響を受けている場合のみである。
”干闌”式建築
しかし、中国といっても広い。そこには多様な住居がある。浅川滋男によれば、漢代以前に長江流域・以南にひろく高床式住居が分布していたことが明らかになったのは、安志敏の「”干闌”式建築的考古研究(高床式建築の考古学的研究)」という論文(1963三年)が出てからである*4。興味深いことにその論文以降、中国でも、北方=竪穴、南方=高床という図式が定着してきている。ところが、実態はどうも違う。華南といっても、高床式だけではない。地床式住居も共存する。現在の西南少数民族の住居も高床式住居は多い。タイ系の諸族(壮洞(チワン・トン)語族)がそうである。また、近年の百越史研究では、チワン族、プイ族、トン族、スイ族、リー族などのタイ系稲作農耕民を百越の後裔とみる主張が有力で、干闌式(高床式)建築は百越文化の重要な構成要素とみなされている。
ところで、高床式住居といっても色々ある。地面から一メートルにもならない日本の高床など揚げ床と言われたりする。かと思うとはるか見上げるロングハウスの床もある。東南アジアといっても、大陸部と島嶼部では環境条件は違うし、自然条件や生態学的条件をみると地域毎に実に多様である。高床式住居というのは、そうした多様な各地域でそれぞれ独自に造られるようになったのであろうか。それとも、どこかに起源があり、それが次第に伝播していったものであろうか。高床式住居はどのようにして生み出されたのか、その起源は何か、あるいは、何処か、興味深いテーマである。
オーストロネシア世界
湿気を防いだり、猛獣からの防御のために、湿潤熱帯において高床式の建物が多くの利点をもつことははっきりしている。しかし、それだけではその起源を説明するには十分ではない。北方にも高床式建物の伝統はあるのである。
高床式住居はどこから来たのかという問題に手がかりとされるのが言語である。東南アジア諸島の大部分で用いられる諸言語は、言語学者の間でオ-ストロネシア語と呼ばれる、世界で最も大きな言語族を構成している。最西端のマダガスカルから最東端のイ-スタ-島まで、地球半周以上にわたって分布し、東南アジア諸島全体、ミクロネシア、ポリネシア、そしてマレ-半島の一部、南ベトナム、台湾、加えてニュ-ギニアの海岸部までにもわたる。この広大な地域の諸言語は、全て、プロト・オ-ストロネシア語と言語学では呼ばれる、少なくとも6,000年前までは存在していたらしい言語を起源として発達してきたとされる。言語学的な足跡は自然人類学や考古学の分析結果ともかなりよく一致し、新石器時代の東南アジア諸島における初期移住の状況を物語っている。
プロト・オ-ストロネシア語の語彙の分布を復原することによって、人々の生活様式が色々とわかる。住居は高床式であり、床レベルには梯子を用いて登ること、棟木があったことから屋根は切妻型であり、逆ア-チ状の木や竹の雨仕舞いによって覆われていたこと、そして、おそらく、サゴヤシの葉で屋根が葺かれていたこと、炉は壺やたき木をその上に乗せる棚と共に床の上に作られていたことなど、語彙から窺えるのである。
新石器時代に高床式住居が発達したことはタイの考古学的資料によっても裏づけられている。西部タイで、3千数百年前から 2千数百年前頃の重要な土器群が発見され、バンカオ文化と呼ばれる。言語学者ポ-ル・ベネディクトは、東南アジア大陸部のオ-ストロネシア語族の最初期の祖先達はオ-ストロネシア語とタイ語の両方の祖語になる言語を用いていたという説を提起し、このプロト・言語をオ-ストロ・タイ語と名付けた。彼が復原したプロト・オ-ストロ・タイ語は、「基壇/階」、「柱」、「梯子/住居へ導く階段」といった単語を含んでいるという*5。すなわち、高床式住居がオーストロネシア語族、特に、そのサブ・グループとしてのマラヨ・ポリネシア語族と密接に関わりをもっているのある。
オーストロネシア語族の源郷はどこか、ということについては中国華南あるいはインドシナに求めるのが定説である。しかし、考古学的な根拠があるわけではないし、決着がついたわけではない。1980年代には、台湾にその源郷を求める見方も提出されている。
註1 バドゥイについてはリー・クーンチョイが「文明を拒否するバドゥイ族ーージャワ先住民説」(『インドネシアの民族』 伊藤雄次訳 サイマル出版会 一九七六年)として触れている。それによれば、バドゥイは、インドネシアにイスラム教が進出して以来、外界との接触を絶って生きている少数民族である。パジャジャラン王国の子孫であるといわれる。バドゥイ族の葬儀は非常に簡単で、死体は棺も墓石もなく葬られ、すぐさま忘れ去られる。バドゥイ領内には個人所有の土地はなく、労働に応じて分配を行う社会主義的なシステムをとる、というが分かっていないことが多い。バドゥイについては以下の論文がある。
P. M. Sargeant,'Traditional Sundanese
Badui-Area, Banten, West Java'. Masalah Bangunan, 1973
註2 R.Waterson(1990), THE LIVING HOUSE-An Anthropology of Architecture in South-East Asia,Oxford
University Press,1990
註3 D. Sumintardja,'Central Java -Traditional Housing in Indonesia', Masalah Bangunan,
1974
註4 浅川滋男、「第7章 漢代までの高床式住居」(『住まいの民族学的考察-華南とその周辺』、京都大学学位請求論文、1992年)。「南中国の先史住居ー発掘遺構にみる住まいの多様性」(奈良国立文化財研究所 公開講演会資料 1992年11月7日)
註5 Benedict,P.(1975),Austro-Thai
Language and Culture:With a Glossary of Roots,New Haven:Human Relations Area
Files Press.
Benedict,P.(1986),Japanese/Austro-Thai,Michigan:Karoma