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2021年6月10日木曜日

西洋近現代建築家 西洋近現代建築用語 西洋近現代建築作品 TBSブリタニカ 

                      

西洋近現代建築家

 

 

                     

 

 

ロッシアルド

ロッシ・アルド▼Rossi,Aldo▼《1931ミラノ~.》◇建築家。ミラノ工科大学でE.N.ロジェルス、ジュゼッペ・サモナに師事し、59年卒業。ヴェネツィア大学、ミラノ工科大学の建築計画コースで教鞭をとる。60年代末の大学闘争には積極的に関わった。主著『都市の建築』《L'Architectura della Cita(66)で類推、記憶といった概念で建築と都市の世界を構築。その理論は「ガッララテーゼ地区の集合住宅」(6977)などの作品に直結。71年にチューリヒに移り、連邦工科大学で教職に就くが、75年にイタリアに戻り、同年ヴェネツィア建築大学教授となる。ヴェネツィア・ヴィエンナーレにおける「世界劇場」(79)、福岡の「ホテル・イル・パラッツォ」などを設計。

 

ホラインハンス

ホライン,ハンス▼Hollein,Hans▼《1934ウィーン~.》◇建築家。56年ウィーン美術大学建築学科卒、5859年イリノイ工科大学でヒルベルザイマー教授に師事、5960年カリフォルニア大学で環境デザイン専攻。その後、F.カイザーの下で働く。64年に独立、ウィーン、デュッセルドルフで活躍。65年にウィーンの「レッティ蝋燭店」が最初の実施作品。世界的な反響を呼ぶ。建築を総合的な芸術として捉え、家具や宝飾のデザインも含め幅広く活動している。都市計画の一環として「メンヘングラートバッハ美術館」(197282)を設計するなど数々の大規模なプロジェクトも手がける。

 

 

ボフィルリカルド

ボフィル,リカルド▼Bofill,Ricardo▼《1939バルセロナ~.》◇建築家。バルセロナ建築学校、ジュネーブ建築大学に学ぶ。60年タリエル・デ・アルキテクトゥラを結成。以後バルセロナ及びパリを中心として設計活動を展開。若く、スペイン国内で「マンサネーラの集合住宅」(63)、「ウォールデン-7(70)などを手がけ、実現をみないが、74年からのパリ・レアール再開発計画で世界的に注目を集める。その後フランス各地に「パレ・アブラクサス」(7883)に見るような古典主義的なモティーフを用いた集合住宅を次々に設計。建築理論と実践とを説いた『リカルド・ボフィル 建築を語る』《L'Architecture d'un homme》(78)がある。

 

スカルパカルロ

スカルパ,カルロ▼Scarpa,Carlo▼《1906.6.2ヴェネツィア~1978.11.28仙台》◇建築家。1922年よりV.リナルドと協働、26年に王立ヴェネツィア建築大学の教職に就く。「ヴェネツィア・ヴィエンナーレヴェネズエラ館」(54-56)以降、建築作品多数。作品の多くは、64年の「カステルヴェッキオ美術館」のような、既存建築の美術館などの改修計画であり、古い建物を土台に彼独自の工芸的な造作をもって新たな調和を試みる点に特徴がある。終生イタリア・ヴェネト地方を本拠に活動した。数少ない新築作品のひとつ、6972年の「ブリオン・ヴェガ墓地」はその代表作である。

 

 

アレグザンダークリストファー

アレグザンダー,クリストファー▼Alexandar,Christpher▼《1936ウィーン~》◇建築家。カリフォルニア大学バークレー校環境デザイン学部建築学科教授。イギリスで学び、58年ケンブリッジ大学で建築および数学の学位をとる。ハーバード大学ではデザインの問題を合理的かつ数学的な方法で扱った研究を64年に博士論文「形の合成に関するノート」にまとめ博士号を受けた。さらに65年「都市はツリーではない」を発表し、建築理論家として知られるようになる。67年環境構造センターを設立、研究および実作成果を一連の著作、「パタンランゲージ」、「住宅の生産」、「まちづくりの新しい理論」などにまとめ上げている。代表作は「盈進学園東野高校」。

 

 

ペイI.M.

ペイ,I.M.▼Pei,Ieoh Ming▼《1917.中国》◇建築家。1935年にアメリカへ留学。MITおよびハーバード大学院で学ぶ。この頃ル・コルビュジエに傾倒し、W.グロピウスらと知り合う。1948年ハーバード大学助教授の時、ニューヨークのディヴェロッパー・ゼッケンドルフに建築部長として就任。そこで教え子ヘンリー・コブを含むチームを結成、そのチームを基礎に1955年設計事務所を設立。アメリカ国内で「ジョン・ハンコック・タワー」(1973)、海外で「ラッフルズ・シティ」(1986)、「中国銀行香港支店ビル」(1990)などの近代的オフィスビルを設計。また1988年にルーブル美術館の前に建設したガラスのピラミッドはセンセーショナルな話題を呼んだ。

 

スターリングジェームス

スターリング,ジェームス▼James Stirling▼《1926イギリス~1992》◇建築家。リヴァプール大学でコーリン・ロウに師事する。195663年ジェイムズ・ガワンと、1971年以降、マイケル・ウィルフォードとパートナーを組む。60年代は「レスター大学工学部」(1963)など大学の設計が多く、ガラスとレンガ壁を組み合わせた荒々しい表現を試みている。70年代は「ケルン美術館」(1975)など美術館計画を多く発表、その中で、実現した「シュトゥットガルト美術館」(197784)や「クローギャラリー」ではコンテクチュアリズムによる表現を追求した。戦後イギリスを代表する建築家であり、日本ではJR京都駅ビル競技設計に参加している。

 

ロジャースリチャード

ロジャース,リチャード▼Richard Rodgers▼《1933フィレンツェ~.》◇建築家。1937年にイギリスに移住。ロンドンのAAスクールで学び、イェール大学に留学。そこでN.フォスターと知り合い、チーム4を設立(63年)。この頃の作品には映画「時計仕掛けのオレンジ」のロケに使われた「ジェッフィ邸(通称スカイブレイク・ハウス)」がある。70年、R.ピアノと共にピアノ・アンド・ロジャースを設立。国際コンペによって機会を得て「ポンピドゥーセンター」(1977)を完成させる。77年にJ・ヤング、M・J.P.デイヴィスらとリチャード・ロジャース・パートナーシップを設立。コンペ一等入選には、「ロイズ・オブ・ロンドン」(1986)、「ロンドン第3空港」(1988)などがある。

 

アンウィン,レイモンド

アンウィン,レイモンド▼Unwin,Raymond▼《18631940》◇都市計画家、建築家。E・ハワードによる著作「明日の田園都市」の影響のもとにハワードと共に、1902年最初の田園都市をロンドンから34マイル離れたレッチワースに設計した。彼とバーリー・パーカーが全体計画を担当。単なる郊外のベットタウンというのではなく、職住一体の自律的都市を目指すものであった。彼がイメージしていたのは、中世の小都市であり、ラスキンやモリスの提唱したアーツ・アンド・クラフツ運動の影響を色濃く持ったものであった。他にハステッド田園郊外住宅地なども設計している。

 

 

レヒネルエデン

レヒネル,エデン▼Lechner,Odon▼《1845ハンガリー、ペスト~1914》◇建築家。ハンガリーにおけるアール・ヌーボー建築を代表する作家。その作品は、ゼツェッションの影響を色濃く示している。代表作として「ブタペスト郵便貯金局」(1901)がある。表面はカラフルなセラミックでおおわれ、二次元的な曲線表現が特徴である。また、アーツ・アンド・クラフツ運動の影響を受けた手仕事によるその独特な造形は、独自の民族文化への強い関心と志向を表すものであり、ナショナル・ロマンティシズム的傾向を表している。この他には、オリエントやアジアへのロマン的傾倒をしめす「応用美術館」(1896)などがある。

 

ヴァン・ド・ヴェルドアンリ

ヴァン・ド・ヴェルド,アンリ▼Vann De Velde, Henry▼《1863ベルギー、アントワープ~1957》◇建築家。1881年、アントワープ・アカデミーで絵画を学ぶ。94年に自邸を設計し、統一した様式で、家具、食器、カーペット、そして夫人の衣装にいたるまでデザインし、建築家として世に名が知られる。1901年にザクセン=ワイマール大公美術顧問として招かれ、「ワイマール応用美術学校」(1906、後のバウハウス)を設立した。ドイツ工作連盟では中心的役割を果たし、工芸や手仕事の重要性を主張、ヨーロッパのデザイン界に深く影響を残した。代表作として「フォルクヴァンク美術館」(1902、ハーゲン)、「ドイツ工作連盟ケルン博」(14)などがある。

 

ヘーリングフーゴー

ヘーリング,フーゴー▼Harinng,Hugo▼《18821958》◇建築家。シュトゥットガルト工科大学、ドレスデン工科大学に学ぶ。1912年、ベルリンで事務所を開設。ドイツ工作連盟に名を連ね、機関誌「フォルム」の第一号に「形態への道程」を発表(25)するなど、理論家としてワイマール時代の建築界で活躍。28年には、第一回CIAM(近代建築国際会議)総会にドイツの代表として参加。曲線を多用する有機的なプランがその特徴で、代表作には、「ガルガウの農場」(25、リューベック)、「ジーメンスシュタトの大ジートルンク」(31)などがある。

 

ヘットガーベルンハルト

ヘットガー,ベルンハルト▼Hoetger,Bernhard▼《18741949》◇建築家。デュッセルドルフ芸術アカデミーで彫刻を学ぶ。1910年ダルムシュタッドの芸術家コロニーに参加。1915年、40歳にして自邸を設計し、建築家としての第一歩を踏み出す。1917年の製菓工場とその従業員宿舎の計画案である「TET都市」は、ドイツ表現主義の建築として最初に世に認められた。20年代の作品は、北ドイツの民家をモチーフとしている。曲がった樫の幹を露出させ、煉瓦と組み合わせる独特の表現である。その他には、北ドイツ神話をモチーフとした「ハウス・アトランティス」(31)などがある。

 

 

ヘーガー,フリッツ

ヘーガー,フリッツ▼Hoger,Fritz▼《1877ホルシュタイン~1949》◇建築家。ハンブルグ、ハノーバーなど北ドイツにて活躍。ドイツ表現主義の建築家とされる。その作品のほとんどはゴッシク的な煉瓦建築であり、北ドイツにおける煉瓦建築の新時代を開いた。ドイツ工作連盟に名を連ねる。その代表作「チリ・ハウス」(24、ハンブルク)は、不整形な敷地を生かし、剃刀のような鋭さをそのファサードに表現している。他に、「ホテル・ラマダ」(27、ハンブルク)、晩年の作品、「ホーヘンツォレルン広場の教会」(33、ベルリン)などがある。

 

 

リシツキーエル

リシツキー,エル▼Lissitzky,El▼《1890ポルシノク,旧ソ連~1941モスクワ》◇画家,建築家。ダルムシュタット工科大学で建築を学んだ後A・マレービッチと親交を深め、構成主義運動に参加した。彼は「雪の支柱」という提案を行い、反重力を目指した建築形態を目指している。「レーニン演壇設計計画」は、コラージュであるが、構造体と宙に漂う形態を、激を飛ばすレーニンをモンタージュしながらまとめている。また、「プロウン」と題する一連の絵画作品やその他多くのグラフィックデザインやディスプレイデザインがある。

 

チュミベルナール

チュミ,ベルナール▼Tschumi,Bernard▼《1944スイス~》◇建築家。69年チューリッヒ工科大学卒業。その後、ロンドンのAAスクール、プリンストン大学で教鞭をとる。。理論家として知られ、空間に機能を与えることが建築だという考え方に意義を申し立てる。チュミにとって建築とは、社会を治療するための一つの方法である。その方法としては、建築を恣意的に接続し、重ね合わせたりして建築全体の姿や社会や歴史の総体を想起させる。また映画的手法に倣って身体のイメージをコラージュし、各シーンのショットのつながりをボードの上にプロットしていき、内的論理で完結する建築を構想する。89年、パリの「ラ・ヴィレット公園」を設計。反都市を作るためのモデルを提示し、機能主義や、伝統的な造園法を打ち破る斬新な提案を行った。

 

フライオットー

フライ,オットー▼Frei,Otto▼《1925西ドイツ、ジーグマ~.》◇建築家。それまで仮設的に用いられていた「テント構造」を恒久的建築物に採用し、いわゆる「膜構造」技術を完成したとされる。構造体にプレクシガラスパネル、ポリエステルシートなどの膜、ケーブル、そして木を用いる張力構造で広大な内部空間と変化に富む外観を可能にしている。従来の静的建築物に動的なものを導入したということで、すぐれた現代建築家、構造家の一人に数えられる。「ミュンヘンオリンピック競技場」(72)、「マンハイムの多目的ホール」(74)そしてミュンヘン・ティアパーク動物園の「鳥の家」(76)などの作品がある。

 

アイゼンマンピーター

アイゼンマン,ピーター▼Eisenman,Peter D.▼《1932.》◇建築家。コーネル大学卒業。コロンビア大学、ケンブリッジ大学で教鞭をとる。理論家として知られる。初期の一連の住宅計画では、敷地や機能などの与件を排除した形式的な建築を理論的に考察。その中でチョムスキーの変形生成文法の概念を引用しつつ純粋なプラトン立体から複雑な建築物に到る方法を統語論的に展開した。80年代の脱構築的アプローチでは建築における開かれたテクスト性を追求し、いかなる特定の意味をも具象化しないデザインを目指した。従来の近代主義的な形態を「ストロング」な形態とし、それに対し「ウイーク」な形態を採用。「住宅1号」(68)、「ウェクナー視覚芸術センター」、「布谷ビル」(92)等の作品がある。

 

OAP

OAP▼Ove Arup and Partners▼◇構造設計組織、技術コンサルタント会社。構造設計家オヴ・アラップ(Ove Arup,1895-1988)により46年に創設される。ロンドンを中心とし、世界各国に支社を持つ。特に、ロンドン本社は最高の技術力を誇る。J.ウッツォンの「シドニー・オペラハウス」の構造設計で世界的な名声を得る。その他「ポンピドゥ・センター」、「香港上海銀行」など、有名現代建築の構造面をサポート。創設者アラップの亡き後、ピーター・ライス(58年入所)により引き継がれている。組織の巨大化にも関わらず、技術者として建築の設計に参加し、いかに建築的価値を高めるかという基本思想とパイオニア精神は変わらず、20世紀最高の構造設計組織と評価を受けている。

 

サンテリア,アントニオ

サンテリア,アントニオ▼Sant'Elia,Antonio▼《》◇イタリアの建築家。詩人マリネッティが主宰した未来派運動設立の5年後、191481日に「未来派建築宣言」を発表。著書『新都市』などに未来都市、未来建築のイメージを数多く発表した。サンテリアの建築ドローイングには、古典主義的な建築構成法が色濃くみられるが、発電所、自動車道路、エレベーターといった当時最先端の技術のダイナミズムを表現している。1914年にサンテリアが残した発電所のスケッチをもとに、イタリアの建築家ジュゼッペ・テラーニが「戦没者記念碑」として実践に移した。

 

テラーニジュゼッペ

テラーニ,ジュゼッペ▼Terrani,Giuseppe▼《1904ミラノ、メーダ~43》◇イタリアの建築家。アダルダルト・リベラとともに建築家集団グルッポ7の主要メンバー。イタリア合理主義運動を展開。テラーニの純粋な幾何学形態を用いたその作風を、アカデミックな規範は受け入れなかったとされる。彼のそしてイタリア合理主義の最高傑作がカサ・デル・ファッショ(36、コモ)である。これは、一辺332mの正方形平面と非シンメトリーな4つの立面によって構成されており、規則的な構造の枠組みに従いながら、感覚的な操作によって奥行きや内部のヴォリュームを感じる作品となっている。

 

ニューヨーク・ファイブ

ニューヨーク・ファイブ▼New York Five▼ニューヨークの5人の建築家、P・アイゼンマン、M・グレイブス、C・グワスミイ、J・ヘイダック、R・マイヤーを指す。グレイ派に対してホワイト派とも呼ばれる。行動を共にした訳ではないが、彼らの初期の作品のモチーフがル・コルビュジェの初期の作品を操作するという共通性があったことから命名された。その中で最も観念的な形態操作を行ったのが、P・アイゼンマンであり、彼はチョムスキーを引用しつつ形態を統語論的に組み立てていく方法をとった。M・グレイブスは形態の視覚的な効果とコラージュに興味を示したが、近年では作風をがらりと変え、歴史的モチーフを引用したポスト・モダニズムの代表的建築家となっている。

 

カーンルイス

カーン,ルイス▼Kahn,Louis I.▼《1901.2.20.エストニア、サーレマ島~74ニューヨーク、ペンシルベニア駅》◇アメリカの建築家。1905年にフィラデルフィアへ移住。20年、ペンシルベニア大学に入学し、古典的伝統を重視するフランスのボザール流教育を受ける。「イェール大学アートギャラリー」(53)の設計により注目され、「ペンシルベニア大学リチャーズ医学研究所」(61)の設計により広く世界の注目を浴びる。「建築の始まりを求める」建築的思想を展開し、設計活動と同時に自己の思想を深化させる。その実践的作品として「バングラデシュ首都計画」(63)、「ソーク生物学研究所」(65)、「キンベル美術館」(72)、「エクセター大学図書館」(72)などがある。9110月~942月、大回顧展が世界を巡回。

 

ヴェンチューリロバート

ヴェンチューリ,ロバート▼Venturi,Robert▼《1925アメリカ、フィラデルフィア~.》◇建築家、建築理論家。47年プリンストン大学を卒業。AIAの学生メダル、パーマー奨学金などを獲得し、64年と65年にはローマ賞を得、ローマのアメリカンアカデミーに留学。この時、ルイス・カーンとの知遇を得る。57年ウィリアム・ショーと事務所を設立。64年ジョン・ローチとヴェンチューリ・アンドローチ事務所を設立。69年、都市計画家であり夫人でもあるデニス・スコット・ブラウンを加え、現在のヴェンチューリ・スコット・ブラウン・アンド・アソシエイツとなる。66年、ニューヨーク近代美術館より出版された『建築の複合性と対立性』によって、近代建築のもたらした純粋主義に意義を唱え、後のポスト・モダン建築への道を開いた。代表作に「ヴァナ・ヴェンチューリ邸」、「ギルドハウス」、「フランクリンコート」などがある。

 

チームΧ

チームΧ▼チーム・テン▼Team X1956年ドゥブローヴニクの第10回CIAM(近代建築国際会議)において若手建築家達が結成したグループ。これを期にCIAMは事実上解体した。およそ10年の活動の後、66年のウルビノ会議において解散。組織者は、ヤコブ・バケマ、アリソン・アンド・ピーター・スミッソン夫妻、ジョルジュ・キャンディリス、シャド・ウッズ、アルド・ファン・アイク他である。主題としたのは「クラスター」、「モビリティー」、「成長と変化」、「都市と建築」であり、技術への絶対賛美であったCIAMに対し、技術との成熟した関係性の構築に力点をおいた。

 

 

フォスターノーマン

フォスター,ノーマン▼Foster,Norman▼《1935イギリス・マンチェスター~.》◇建築家。1961年にマンチェスター大学卒業。イェール大学建築学部で修士号を取得。イェール大学在学中、R.ロジャースと知り合い、チーム4を設立(63年)。67年にフォスターアソシエイツを設立。作品に「英国ルノー社部品配送センター」(1983)、「香港上海銀行」(1986)など。人間のための環境を創造しようとする姿勢があり、ハイテックなデザインを用いながら、人間と環境の融合を試みる。1983年、RIBAロイヤルゴールドメダル建築賞受賞。東京に「センチュリータワー」がある。

 

ローチケビィン

ローチ,ケビィン▼Kevin Roche▼《1922.6.14ダブリン(アイルランド)~.》◇建築家。1945年アイルランド国立大学卒業。49年イリノイ工科大学大学院修了。50年サーリネン事務所入所。サーリネン亡き後事務所を統括。66年ケヴィンローチ・ジョンディンケル・アンド・アソシエイツと事務所名を改称、現在に至る。作品に「マサチューセッツ大学美術センター」(196474)、「フォード財団本部」(1968)、「ジェネラル・フーズ本社」(197782)など。一つ一つのプロジェクト毎に多彩なデザインを展開している。その多様性、都市的スケールのモニュメンタルな表現に特徴がある。

 

ソレリパオロ

ソレリ,パオロ▼Paolo Soleri▼《1919年イタリア、トリノ~.》◇建築家。都市計画家。トリノ工科大学で建築学博士号を取得。47年にアメリカに渡り、フランク・ロイド・ライトに師事する。56年非営利教育機関であるコサンティ財団を設立。アーキテクチャーとエコロジーの造語である独自の都市理論「アーコロジー」を唱え、アリゾナの地に人口200万人を想定して構想されたメサ・シティ計画を始めとする数々のアーコロジー・プロジェクトを手掛ける。70年以来アリゾナ州の高地砂漠に自己充足型の省エネルギー都市アーコサンティの建設を進める。著書に「生態建築論」他がある。

 

クロールルシアン

クロール,ルシアン▼Kroll,Lucien▼《1927年ベルギー、ブリュッセル~.》◇建築家。51年ブリュッセルの国立美術学校を卒業後、ヴァン・デ・ヴェルデに師事。1970年に学生の参加を得て設計したブリュッセルの「ルーヴァン・カトリック大学学生寮」において注目される。モダニズム、ポストモダニズムとも異なる新たな建築の方向性を模索し、主として住民参加による集合住宅の設計を手がける。一方で、コンピューターを利用した独自の計画プログラミングを開発し、多様な部分からなる建築のあり方を目指す。代表作として「ユトレヒトの演劇学校」(1979)、マルヌ・ラ・ヴァレの「エムランヴィル集合住宅」(1986)などがある。

 

ペリシーザー

ペリ,シーザー▼Ceasar Pelli▼《1926年アルゼンチン~.》◇建築家。49年ツクマン国立大学建築学科卒。52年にアメリカに渡り、54年イリノイ大学で建築修士号を取得後、64年までエーロ・サーリネン事務所に勤務。77年にイェール大学建築学部長となる。ヒューストンの「フォー・オークス&フォー・リーフ・タワーズ」、ミネアポリスの「ノーウエスト・タワー」、ニューヨークの「ワールド・ファイナンシャル・センター」などの超高層ビルを多数手掛ける。他に代表作として東京の「在日アメリカ大使館」(1972)、カリフォルニアの「パシフィック・デザイン・センター」(1976)などがある。

 

ゲーリーフランク・O.

ゲーリー,フランク・O.▼Gehry,Frank O.▼《1929カナダ、トロント~.》◇建築家。49年、南カリフォルニア大学芸術学部入学後、建築学科に転科。62年に設計事務所を開設し、ロサンゼルスを中心に活動する。「ファミリアン邸」(1978)や「ゲーリー自邸」(1979)といった作品において整合的、完結的な形態の排除、安価でありふれた工業的素材の使用といった手法でディコンストラクティヴィズムの先駆的建築家となる。代表作に「カリフォルニア航空宇宙博物館」、「ロヨラ法科大学」などがある。89年、第12回プリッツカー賞を受賞。

 

ヌーヴェルジャン

ヌーヴェル,ジャン▼Nouvel,Jean▼《1945年フランス、フュメル~.》◇建築家。都市計画家。71年にエコール・デ・ボザール卒業。70年に設計事務所を設立し、多くの設計競技に参加する。代表作に「ドーム文化センター」(1986)、「セント・ジェームス・ホテル」(1989)などがある。87年に、金属フレーム、ガラスのスクリーンを用い、ガラスの壁面に240個のダイヤフラムという調光用の絞りを挟み込むというメカニカルでハイテック・スタイルの表現をもったパリの「アラブ世界研究所」を設計する。この設計で、その年にフランスに建てられた最も優れた建築に送られる「銀の定規賞」を受賞。

 

ムーアチャールズ

ムーア,チャールズ▼Moore,Charles▼《1925.》◇建築家。アメリカ、ミシガン州ベントン・ハ-バ-に生まれる。47年、ミシガン大学卒業、プリンストン大学で学ぶ。1962年に北カリフォルニアに週末共同住宅の「シ-ランチ」を設計し一躍有名になる。「シ-ランチ」は24フィートを基本とする立方体群に片流れの屋根をかけたものであるが、それらが中庭を取り囲み形態をとっている。その後、R・ヴェンチュ-リとともに1970年代のポスト・モダンの主導者として活躍する。その代表作に各種の歴史的モチ-フをふんだんに引用した「イタリア広場」の設計(1978)がある。

 

グレイヴスマイケル

グレイヴス,マイケル▼Graves,Michael▼《1934.》◇建築家。シンシナチ大学卒業、ハーバード大学大学院、ローマのアメリカン・アカデミーで学ぶ。初期の活動では、P.アイゼンマンらとともにニュ-ヨ-ク・ファイヴもしくはホワイト派と呼ばれ、ル.コルビュジエの用いた建築言語を操作的に用いる住宅作品を多く設計した。建築を意味作用の体系と考え、建築の形態と、その形態を生み出す建築的表象あるいは理念の複雑な体系との間のつながりを示すことをテーマとしたが、歴史的モチ-フを大胆に引用する作風へと転換し、ポスト・モダニズムの中心となった。「ポ-トランド市庁舎」(1982)では、基壇・胴部・頭部という古典的三分割構成を強調し、建築に象徴的意味を付与している。他に「スワンホテル」、「ドルフィンホテル」(1990)を設計。そこでは、白鳥などのモチ-フが直喩として使われ、非日常的な雰囲気を作り出している。

 

ピアノレンゾ

ピアノ,レンゾ▼Piano,Renzo▼《1937ジェノヴァ~.》◇建築家。64年ミラノ工科大学建築学部卒。6264年までフランコ・アルビーニ、6570年までルイス・カーン、Z.S.マコウスキーの下で働いた。1971R.ロジャースと共同でポンピドゥーセンターの設計競技に一等入選。現在はパリとジェノヴァにアトリエを持つ。彼の作品に一貫しているのはクラフトマンシップとテクノロジーの融合である。ハイテク建築と称されるポンピドゥセンターにおいてその究極を表現した。主な作品にメニルコレクション美術館(86)IBM巡回展示パヴィリオン(84)などがある。また、日本では関西国際空港旅客ターミナルビルの指名設計競技(90)に一等入選している。

 


                     

西洋近現代建築用語

 

 

                     

 

 

ジードルンク

ジードルンク▼Siedlung▼ドイツ語。定住地ないし入植地の意味だが、特に近代の郊外住宅団地を指すようになった。産業革命後の都市問題を改善するために、ドイツで1920年代から大都市に近接する郊外に計画された大住宅団地のこと。都市の密集を拡散し、経済的・衛生的な住宅を労働者に提供することを目的とした。社会民主主義勢力の拡大にともない、特にベルリン市、フランクフルト市などが積極的にこれに取り組んだ。エルンスト・マイ設計の「レーマーシュタット」(フランクフルト1929)、カール・エーン設計の「カール・マルクス・ホーフ」(ウィーン1927)などはよく知られる。また、ベルリンでは、B.タウト、W.グロピウス、ミース、H.シャロウンなどもジードルングの設計に取り組んでいる。

 

ファシズム建築

ファシズム建築▼Fascistic(?) Architecture▼第二次世界大戦中のドイツ、イタリアのファシズム政権によって計画された建築。ただ、その建築の形態は、前者では古典主義的、後者では近代主義的と、採用され、推奨されたスタイルが異なる。ドイツでは、建築家志望であり、都市、建築に大きな興味をもっていたヒトラーのもと、建設総監アルバート・シュペーアによって数々のプロジェクトが試みられる。1934年の党大会のための「ツェッペリン広場」計画、「ベルリン南北大道路計画」などがそうである。イタリアでは、ムッソリーニが1942年のファシスト革命20周年を記念し、ファシズムの回生、誇示を目的としてローマ近郊に 新都市EUR(Esposizione Universale di Roma)A.リベラによって計画させた例が著名である。

 

イタリア合理主義

イタリア合理主義▼Italian Rationalism192040年代にイタリアにおいて建築を主導した運動。26G.テラーニやA.リベラ等の組織するグルッポ7がヨーロッパ諸国の近代主義建築運動を後ろだてに新建築を目指す論文を発表したのが始まりとされる。28年創刊の建築雑誌『カサベッラ』が合理主義の論陣を張り、リベラ等はMIAR(イタリア合理主義建築運動)を組織して、28年より展覧会を開く。イタリアにおける政治的、文化的な論争を背景に、他国とは異なる特異な近代主義運動が展開された。規範ともいえる作品が、規則的な構造の枠組みに従った立面の構成が特徴的な、テラーニの「カサ・デル・ファッショ」(ファシストの家)である。

 

ニューブルータリズム

ニューブルータリズム▼New Brutalism1950年代から1960年代にかけて現れたコンクリートの肌を剥き出しにする荒々しい建築表現の傾向。その中心はアリソン・アンド・ピーター・スミッソン夫妻で、代表的な作品は「ハンスタントンの学校」(1954)とされる。あらゆる建築素材が飾ることなく現されることを特徴とする。この運動の総括として、イギリスの批評家レイナー・バンハムが『ニューブルータリズム、それは論理?それとも美学?』(66)を著している。近代建築の英雄時代の終幕時に登場した次世代モダニズトによるモダニズムの延命運動と評されたりする。

 

 

スペース・フレーム

スペース・フレーム▼Space Frame▼工業化された規格部材によって大きな空間を架構する方式。コンラット・ワックスマン(Konrad Wachsmann)が、米空軍の依頼で開発した、格納庫の架構システムにおいて試みたのが最初とされる。寸法の組み合わせが可能なように設計された部材を使用し、短期に、しかも希望する大きさの空間を覆うことができる。1970年の大阪万博覧会お祭り広場には、幅108m、長さ291.6mの大屋根がスペースフレームを用いて架けられた。

 

メタボリズム

メタボリズム▼Metabolism▼生物学の用語で新陳代謝の意。建築・都市計画の分野では、1960年の世界デザイン会議のために結成されたグループ(川添登、菊竹清訓、槙文彦、黒川紀章、大高正人ほか)とその設計理論、都市理論を表す言葉として用いられる。永久不滅な建築を否定し、また近代建築のスタティックな機能主義を批判し、建築とそれによって構成される都市はダイナミックに変化するべきであるというのがその主張。提案されたプロジェクトとしては菊竹清訓の「海上都市」「塔状都市」、黒川紀章の「空間都市」「農村都市」、槙文彦・大高正人の「新宿副都心計画」等がある。

 

デコンストラクティヴィズム

ディコンストラクティヴィズム▼Deconstructivism1988年ニューヨーク近代美術館で「デコンストラクティビスト建築 Deconstructivist Architecture」と題された展覧会が開かれ、F・ゲーリー、D・リベスキンド、R・コールハウス、P・アイゼンマン、Z・ハディド、コープ・ヒンメルブラウ、B・チュミが共通の傾向を持った建築スタイルを提示した。そのスタイルは、不安定感や、動的なダイナミズムを前面に打ち出すものであり、ロシア構成主義との形態的類似も指摘される。基本的には建築形態に対する名称であるが、P・アイゼンマンやB・チュミの様にフランスの哲学者、J・デリダの提唱する「脱構築」という概念に深く関連し、それを建築的言語において実践し、形而上学的価値と結び付け、近代主義観念をつき崩す試みを目指すという建築家もある。

 

ロシア構成主義

ロシア構成主義▼Russian Constructivism▼第一次世界大戦後ロシアに興った革新的芸術運動。シュプレマティスム(至高主義)を基盤としながら過去の文化と断絶して技術時代に見合う美的文化を提唱し展開させようとした。絵画・彫刻・建築等の幅広い領域にわたっている。タトリンの「第三インターナショナル」やエル・リシツキーの「レーニン演壇計画」が主要な作品である。またその基本的造形概念は、1920年、A・ペブスナーとN.ガボンにより宣言として表された。革命当初は時代の流れを敏感に捉えたものであったが、後にスターリンの独裁政治のもとで形式主義と批判され、運動としては終息する。しかし、近代主義建築に多大な影響を与え、また現代美術の中にも根強く生き続けるインパクトをもった運動であった。

 

ドミノ・システム

ドミノ・システム▼Domino House1914年にル・コルビュジェの提唱した鉄筋コンクリートの構造システム。建築は、スラブ、それを支える柱、階段の三つからなるとする。住宅を大量生産するために、鉄筋コンクリートの構造をプレファブ化するシステムとしての提案につながる。当時、コルビュジェはまだパリで活動を行っておらず、スイスのラ・ショードフォンの美術教師をしていたのであるが、その発想の大胆さは人々を引きつけ、近代建築の方向を予感させることになった。

 

 

ブラジリア

ブラジリア▼Brasilia▼旧首都リオデジャネイロから約940km離れた内陸部、ゴイアス州の二つの河川の合流点に建設されたブラジルの新首都。都市計画は、1957年にコンペに当選したルシオ・コスタが、建築はオスカー・ニーマイヤーが担当。十字形に交差した巨大な軸線をもとに構成されており、まるで大きな鳥が翼を広げたようなプランである。翼の付け根にはオフィスゾーン・文化ゾーンなどが、翼にあたる部分には住居地区が、また頭の部分には国会議事堂・最高裁判所・行政庁が三権広場を囲んで配置されている。CIAM(近代建築国際会議)の目指した近代都市計画の総決算とされている。

 

アムステルダム派

アムステルダム派▼▼20世紀初頭から、主にアムステルダムを活動の場として展開した建築家集団の総称。「アムステルダム株式取引場」(1903)の設計者ベルラーヘの影響の下に、公衆の生活と美術の融合を現実的な社会に目指した。煉瓦を素材としたその手工芸的な作風は、有機的な表現に富む。主に、集合住宅の設計にその手腕を発揮し、ミケル・デ・クラークが中心となって活躍。彼の代表作に「エイヘンハールトの集合住宅」(13)や「ヘンリエット・ローネルプレインの集合住宅」(20)などがある。また他に、J・M・ファン・デル・メイの海運協会ビル」(16)などがある。経済恐慌とともに、煉瓦の高騰などから30年頃にはその活動力は衰えていった。

 

モデルニスモ

モデルニスモ▼Modernisumo19世紀末から20世紀初頭にスペイン、特にカタロニア地方で興った芸術運動。ヨーロッパにおけるアール・ヌーボーやユーゲントシュティールに通じる運動とみられている。1888年のバルセロナ博を期に、経済的な新興階級が自らのスティタスシンボルを様式に求めたことがこの芸術運動のバックボーンとなっていた。1930年頃にはその活動の火は消えた。主な作品に、ドメーネック・イ・モンタネルの「カタロニア音楽堂」(08)、ルイス・モンタクニルの「マシア・フレイシア」(07)、J・M・ジュジョールの「ジャサ・コマラット」(11)などが挙げられる。


シカゴ派

シカゴ派▼Chicago ?▼-は▼19世紀末のシカゴで活躍したウィリアム・ル・バロン・ジェンニー、ルイス・サリバンなどの建築家のグループ。当時、ニューヨークではエレヴェーターを備えた高層建築が実現しつつあったが、1871年の大火で市街地の大部分を失ったシカゴは高層建築のパイオニアたちの表舞台になる。鉄骨骨組構造と美学的表現が様々に追求されたのである。ジェンニーは「ライター・ビル」(79)「ホーム・インシュアランス・ビル」(85)などで耐火被覆を持った鉄骨構造を用いた。サリヴァンはその代表作である「オーディトーリアム・ビル」(89)のファサードにおいて何層かごとに異なる表現を与えた。

 

                     

西洋近現代建築作品

 

 

                     

 

 

キンベル美術館

キンベル美術館▼-びじゅつかん▼Kimbell Art Museum▼アメリカ、テキサス州フォートワースの広大な公園の一画に建つ、古代と19世紀美術のための小美術館。設計者は、ルイス・カーン。1966年、アートコレクターであったキンベル氏の遺志により、同年10月、設計契約がかわされた。6910月の建設開始までに細かくは8度の設計変更がなされ、現在のものは第9案にあたる。7210月完成。ここでのカーンのテーマは光の扱いであり、それは彼の最晩年の思惟である「沈黙と光」と密接な関連がある。サイクロイドヴォールトの天井の上部のスリットから、アルミのルーバーを通して美術館全体に自然光が取り入れられ、内部にはそれぞれ、ブルー、イエロー、グリーンと名付けられたコート(中庭)が設けられており、差し込む光によってそれぞれ異なった雰囲気をかもし出している。カーンの代表作として世界的な評価を受けている。

 

クライスラービル

クライスラービル▼Chrysler Building1930完成。ニューヨーク。ウィリアム・ヴァン・アレン設計。古典主義とモダニズムの間に生まれた形式アール・デコ・スカイスクレーパーの代表的なビル。元来、自動車会社クライスラーの自社ビルとして設計されたものでそのデザインは宣伝的。外壁の一部にステンレスが用いられており、自動車を連想させるレリーフが外壁に配列されている。当時、マンハッタンを舞台に争われていた「世界一の高さ競争」のさなかに建設され、物理的だけでなく感覚的にも高さによる表現を明確にするため、先細りにセットバックし、頂部に鋭角的な尖塔がつけ加えられた形態が特徴となっている。

ノートルダム・デュ・ランシー教会

ノートルダム・デュ・ランシー教会▼Notre Dame du Raincy1923年完成。フランス。オーギュスト・ペレの設計。その処女作であり、最高傑作の一つに挙げられる。色ガラスで四周を囲まれた内部空間の荘厳さは、ゴシック建築に通ずるものがある。ペレは鉄筋コンクリートを積極的に建築に採り入れたことで知られるが、ここでも直径43cm、高さ11mの鉄筋コンクリートの円柱28本のみで支持する構法をとり、近代的な素材を如何に高貴にみせるかということに苦心している。この教会が創建当初から「鉄筋コンクリートのサント・シャペル」と呼ばれたことはよく知られている。

 

 

IITキャンパス計画クラウンホール

IITキャンパス計画,クラウンホール▼Master Plan for the Illinois Institute of Technology , Crown Hall▼-けいかく,-.1939年~58年。イリノイ州シカゴ。当時の建築学科の教授であったミース・ファン・デル・ローエが設計を担当。彼は敷地全体を24フィート(7.3m)のグリッドに載せる手法を用いた。「クラウンホール」(58)「鉱物金属研究棟」(43)、「アルミニメモリアルホール」(46)、「礼拝堂」(52)、「コモンズビルディング」(53)などの他、全部で22棟を手掛けた。中でも、クラウンホールの柱をガラス面の外部に配し、屋根を大トラスによって釣り下げるなどの工夫によって得られた大空間は、彼のいう均質で方向性の無い空間を実現したものとなった。

 

ポートランドビル

ポートランドビル▼Portland building▼アメリカ、オレゴン州のポートランド市役所の別棟。1982年完成。1979年から80年にかけてのコンペで一等入選したマイケル・グレイヴス設計。ポスト・モダニズムの作品の代表例。立面は、基壇、中間部、頭頂部という古典的な三分割によって構成され、基壇部には店舗、中間部には市の業務施設、頭頂部にはレンタルオフィスが充てられ、形態と機能がそれぞれ対応している。正面の一対のピラスターが象徴的。グレイヴスは、この建築において近代主義によって失われた象徴的な意味の復権を意図している。

 AT&Tビル

AT&Tビル▼AT&T Building▼ニューヨーク、マディソンアヴェニュー。オフィスビル。1984年完成。フィリップ・ジョンソン設計。全体は、ルネッサンス様式の基壇部分と垂直線の強調されたゴシック風のファサードを持つ中間部、そして切妻風のペディメントを備えた頂部の三つの部分からなる。ペディメントの頂部に円形の切れ目が入っており、全体を特徴づける。近代建築をリードしてきたフィリップ・ジョンソンが古典様式への回帰を示したとして大きな反響を呼んだ。建築のポスト・モダンの時代を象徴し、それを代表する作品とされる。

        


2021年6月9日水曜日

韓国朝鮮建築 TBSブリタニカ 宗廟・・・・・

                      

韓国朝鮮建築

 

 

                     

 

宗廟

宗廟▼そうびょう▼Jongmyo▼李氏朝鮮王朝の歴代王と王妃のための祭祀を行う場所。李朝時代、精神世界の秩序を支配した礼制の頂点に立つ場所である。ソウルの昌慶宮の南側に接し、敷地面積は66191坪に及ぶ。斉宮領域、正殿領域、永寧殿領域が順に配置されている。1395年(太祖4年)に完成された宗廟は、創建から200年が経った1592年に豊臣秀吉の軍隊によって防火、焼失する。1608年再建。その後、安置される位牌が増えるにつれて、1668年、1726年、1834年と増築がなされている。正殿は25間(101m)×3間(12m)の規模で、切妻屋根をしている。単純、素朴な空間構成であるが、エンタシス式の列柱が並んだ長大、かつ厳粛な建築である。朝鮮時代には正殿前の廟庭で毎年4回の祭礼を行っていたが、1971年以後は毎年5月第一日曜日に宗廟祭礼を催している。

 

                          

孫東満氏家屋

孫東満氏家屋▼そんとうまんしかおく▼Sondongman-si-kaok▼韓国、慶尚北道慶州郡江東面良洞里所在の住宅。1458年に建てられた数少ない李朝初期の上流住宅。建築規模は約70坪。月城孫氏の大宗家の家である。行廊棟、主屋(内棟)、家廟(祠堂)の三つの領域で構成される。敷地全体は南向きだが、小高い丘の裾野に位置しているため、道からは行廊棟しか見えない。また、斜廊棟は主屋とつなげられて中庭を持つ□の字の平面となっている。特に祠堂は、斜廊マダン(庭)から正面に見えるように最も重要な位置に置かれ、宗家であることを象徴している。全体的に単純な架構と装飾のない素朴な表情は、当時の士大夫住宅の節制をよく示している。

 

 

玉山書院

玉山書院▼ぎょくさんしょいん▼Oksan-seowon▼韓国、李朝時代の大学者晦斉李彦迪(14911553)を奉祀する書院。慶尚北道慶州郡安康邑玉山里所在。1572年に建立された。書院は、儒学研究の「斎」と儒賢配亨の「祠」の機能を併せ持つが、進入部、講堂部、祠堂(廟)部、付属舎の4つの領域から構成されている。進入部に位置する無邊楼の楼下を通って入ると、大きさ12m×18mの中庭があり、これを取り囲む講堂領域が書院の中心空間となる。中庭は、両側にある斎の縁側、前後にある門楼と講堂の板の間(マル)など、開放的である。全部で17棟の建物からなるが、主要建物が進入部から、講堂部、続いて祠堂部が一列の軸線上に配置される全体の構成に特徴がある。

             

 

ソウル文廟成均館

ソウル文廟成均館▼-ぶんびょうせいきんかん▼Seoul-Munmyo-seongkyunkwan▼朝鮮儒学の最高機関。韓国、ソウル市所在。1398年に建立されたが、その後、火事や戦争で度々焼失し、1606年に現在の建物が再建された。成均館は、中国聖賢17位を奉る大成殿及びその左右にある中国と韓国の諸賢182位を奉る「廡」からなる宗教領域と、国立大学の性格を持つ明倫堂のある学校領域によって構成されている。大成殿は5間×4間の大きさで入母屋造りである。正面の1間は吹放しとして開放されている。地方の文廟は郷校ともいい、教育的機能が優先したのに対して、ソウル文廟成均館は宗教的機能を優先し、大成殿を前面とする前廟後学の配置が特徴的である。

 

演慶堂

演慶堂▼えんけいどう▼Yeonkyeongdang▼韓国、ソウル市の、朝鮮時代の王宮昌徳宮の庭園、秘苑の中にある住宅。1828年(純祖28年)建設。1500坪の敷地を持つ99間規模の、王が一般士大夫の生活を真似するために建てた住宅である。内棟、舎廊棟、行廊棟、別棟によって構成されている。女性の空間である内棟と男性の空間である舎廊棟は一般にははっきり区画されるが、ここでは全体的につながっており、大きな特徴になっている。家廟がないことなど、機能的にも通常の住宅とはいえないが、空間の構成、視覚的配慮と技巧は韓国住宅建築中最も秀でたものといわれる。

 

 

密陽客舎嶺南楼

密陽客舎嶺南楼▼みつようきゃくしゃれいなんろう▼Milyang-geksa-Yeongnamru▼韓国、李氏朝鮮時代の密陽邑城の中心施設であった客舎の密州館付属の楼閣。1844年建立。慶尚南道密陽市所在。南原の廣寒楼、清風の寒碧楼とともに朝鮮時代の代表的な楼閣建築である。密陽江の絶壁上に南面する3棟の建物からなり、東側より陵波堂、嶺南楼、枕流閣と呼ばれる。嶺南楼の構造は二高柱五梁(桁)で、前後左右に退(庇)を巡らした建物である。2列の内部高柱に4面の側柱が退梁(繋虹梁)と衝梁で連結され、「退間」が形づくられている。本楼は5間×4間規模で、3棟ともに入母屋の建物である。繋虹梁の木鼻に竜頭を彫刻した点などは、李朝時代後期の装飾的傾向を示し、中期以前の素朴な楼亭建築とは対照的である。

2021年6月8日火曜日

イスラーム建築 TBSブリタニカ デリーの金曜モスク・・・・・・

                       

イスラーム建築

 

 

                      

 

 

デリーの金曜モスク 

デリーの金曜モスク▼Friday Mosque, Delhi▼ムガル帝国第5代皇帝、シャー・ジャハンによって164458年に建てられたインド最大のモスク。市のほぼ中央部に位置する小高い丘を利用して建設され、地上約9mの高さで、回廊を巡らした100×100mの広い中庭を持つ。礼拝室は中庭に面して、回廊から独立して建つ。正面中央には大イーワーン、両脇には2本の、4段からなるミナレットがある。赤砂岩によって縞模様が施された3つの球根形の大理石のドームを戴く。装飾は赤砂岩と大理石のみの簡素なものである。内部には赤砂岩の壁にニッチがうがたれ、白大理石によるアラベスク模様が施されている。

 

カーブース廟

カーブース廟▼Gunbad-iQabus▼イラン北部のゴルガーンに、1006年、ジャール朝君主カーブース・ブン・ヴァシュムジールによって建設された彼自身の墓塔。高さは約50mあり、11m程の人工的な小丘の上に建っている。円筒形の胴部のまわりに三角形状に鋭く突き出た10本の稜角があり、基層部と、円錐形の屋根を支えている持ち送り状の張り出しとを垂直に結び付けている。装飾は、クーフィー文字による2本の碑銘帯と、入口の上部の半ドームを支える鍾乳石紋のペンデンティブのみとなっている。

 

預言者のモスク

預言者のモスク▼Mosque of the Prophet▼メッカの聖モスクに次いで歴史的・宗教的に重要なモスク。622年、預言者ムハンマド自身によりメディナの住居に隣接して建造された。707年にはウマイヤ朝のカリフ、ワリードⅠ世がモスクを増築し、以後、改築・再建を重ね、現在のモスクは、1483年、マムルーク朝のスルタン、カーイト・ベイの時代に再建され、オスマン・トルコ時代に修復されたものである。現在、方形のモスクの中には5本のミナレットがあり、キブラ壁の前に緑のドームを戴いている。最初は、荒石、日乾煉瓦、ナツメヤシの葉などでつくられた素朴な礼拝室にすぎなかったが、後代のモスクのモデルとなった点で極めて重要なモスクである。

 

セリムⅡ世のモスク

セリムⅡ世のモスク▼Complex of Selimiye157074年にかけてオスマン朝スルタン、セリムⅡ世の命を受け、建築家シナンによってトルコのエディルネに建設されたモスク。八角形のプランの上に大ドームを戴き、前面には柱廊で囲まれた幅広矩形の中庭を置き、キュリエの建造物でとりまかれている。ドームは直径32m、床面からの高さは45mあり、ドームの下には4面の半円壁と4基のコーナー・スキンチが交互に並ぶ。ドームを囲んで四隅にそびえるミナレットは太さ7.5m、高さは85mにおよぶ。ドームには40の開口部が開けられ、四周の半円壁にはそれぞれ14の窓、半円突起の半ドームには9面の開口部を見せ、礼拝室は光に満ちあふれている。

 

長老ロトフォッラーのモスク

長老ロトフォッラーのモスク▼Mosque of Shaykh Lutfallah160216年にシャー・アッバースⅠ世が建築家ムハンマド・レザー・ヴン・ウスタッドに命じてイスファハーンに建設したモスク。王の広場に面して、アリー・カプー宮殿の向かい側に建っている。ミナレットを持たない単一の礼拝室のみの構成で、枝模様の彩釉タイルで飾られたそのドームの位置は、正面から見ると南側に約3分の1偏心しているため、見るものにダイナミックな印象を与える。入口のイーワーンの半円壁には、蜂の巣状の見事なスタラクタイトが施され、くまなく繊細な彩陶タイルで覆われている。

 

クトゥビーヤ・モスク

クトゥビーヤ・モスク▼Kutubiyya Mosque12世紀に、アルモアデ朝のカリフ、アブド・アルムーミン(在位113063)がモロッコのマラケシュに建てたモスク。西方イスラームの中で最も美しいといわれるミナレットは115795年にかけて建設され、北アフリカ及びスペインのミナレットの特徴である方形プランをとり、その上部に頂塔を戴く。高さは69mにも達し、その壁面の装飾は四面全てが異なり、開口部は半円形や馬蹄形のアーチで縁どられ、レリーフ状の絡み合った装飾が施されている。

 

ウハイディルの宮殿

ウハイディルの宮殿▼Palace of Ukhaydir778年にアッバース朝第2代カリフ、マンスールの甥、イーサー・ブン・ムーサーがイラクのウハイディルに建てた城塞化した大宮殿。アッバース朝時代のメソポタミアの建築のうち、現存する最古のもので、モルタルで固められた石積みの建物である。175×169mの外城壁と、宮殿の建物群を囲む112×82mの内城壁と持つ。内部は35×25mの中庭広場と、それに隣接する諸室が公的部分をなし、そのまわりに小中庭を囲む4グループの居室群が配置される。宮殿の東側、外城壁との間に建てられた離れは、王子の住居となっていた。

 

トプカプ宮殿

トプカプ宮殿▼Topkapi Palace▼イスタンブール旧市街の東端、マルマラ海につき出した小高い丘の上に、1475年から18世紀にかけて数次にわたって建設されたオスマン朝の宮殿。その名は大砲を備えた「大砲の門(トプカプ)」に由来する。3つの中庭を囲むように構成され、庭園には建物が散在し、ドームで覆われた行政庁は、謁見室や殿舎、園亭などを配した中庭をとり囲んで、キュリエのような構成を見せている。

 

マスウードⅢ世のミナレット

マスウードⅢ世のミナレット▼Minaret of Mas'ud Ⅲ▼ガズナ朝の首都であった、アフガニスタンのガズナに1099年から1115年にかけて建設されたミナレット。八角星形のプランで、表面にはテラコッタの浮き彫りや、幾何学模様の煉瓦積みが緻密に施されている。当初は円筒形の塔がその上に建っていたが、現在は崩れ去っている。近くには後の時代に同じスタイルで建てられたバハラーム・シャーのミナレットがある。

 

ムスタンシリーヤ学院 

ムスタンシリーヤ学院▼Al-Mustasnsir Madrasa (Mustansiriyya)▼アッバース朝カリフ、ムスタンシル(在位122641)によって1233年、バグダードに造営されたマドラサ。中央に泉水のある中庭をもった、4イーワーン形式のプランをした建物で、礼拝室、厨房、学生の宿泊施設および浴場をそなえる。煉瓦造の2階建で、8つのグループの小室が、2層にわたって中庭をめぐるように対称形に配置されている。1階は小室への入口の扉となっている尖頭アーチからなり、2階は同様のアーチのかかった回廊が中庭の周囲をめぐっている。各辺の中央にイーワーンがある。アーチのスパンドレルの部分と、扉の上部は幾何学的な煉瓦積みやテラコッタに彫られたアラベスク模様で装飾されている。

 

ジャイプールの観測所

ジャイプールの観測所▼Astronomical Observatory of Jaipur▼ラージプート族のマハラジャ(藩王)ジャイ・シングⅡ世(在位16991743)が、インドのジャイプールに1728年から33年にかけて建設した天文観測所。宮廷地区の中心に造営され、高さ30mの三角形の大きな日時計や、ラチと呼ばれる種々の天体を観測するための照準器群、天文学者用の坑道や部屋を備えた地下建築などを含んでいる。

2021年6月7日月曜日

 進撃の建築家 開拓者たち 第28回 最終回 「戦後建築」の初心とその遺伝子201812(『進撃の建築家たち』所収)



28回 結章                                    建J  201812

 

 「戦後建築」の初心とその遺伝子-

布野修司

 

 


「進撃の建築家」という連載タイトルは編集部から与えられたものである。瞬時に思い浮かんだのが『進撃の巨人』(諫山創)と東大全共闘の機関誌『進撃』であり、それを枕に「いま、若い建築家たちは何に対して「進撃」しようとしているのか?何に向かって闘おうとするのか、「進んで」「撃つ」「闘う」べき「巨人」とは何か?「進撃の建築家」の作品と活動を取り上げながら、自らの半世紀の歴史を重ねてみたいと思う」と連載主旨を記した(序章「闘う建築家」20169月号)。


 

 『進撃の巨人』

 『進撃の巨人』については、「巨人とそれに抗う人間たちの戦いを描く」という謳い文句と累計数千万部というネット情報を知るだけで、その内容についてはずっと気になってきた。そもそも、誰が何に「進撃」するのか、何と「闘う」のか、「進撃の巨人」とは巨人が「進撃」するということであろう、しかし、巨人と闘う人間の物語といい、英語タイトルは「アタック・オン・タイタン(巨人への攻撃)」である。

 『進撃の巨人』について折に触れて口にしていたのであろう、つい最近、全巻持っているというA-Forumの麓絵理子さんから、読みますか?と最初の10巻手渡された。一気に読んで、続きが早く読みたいと思っていたら、なんと、わが息子もe-bookで全冊購入済という。かくして、全26巻(200910月~(120129月~2620188月)(図①)を読んで全容を把握するに至った。「巨人」の描写に違和感があり(気味が悪い)、動画風の音表現とコマ割に戸惑い、登場人物の錯綜する関係に混乱したけれど、物語の重層的な構造には引き込まれた。確かに多くの読者を惹きつける魅力がある。




 物語は、巨人vs人間という単純な設定ではなかった。主人公(エレン・イェーガー)そのものが巨人化する能力をもち、人間対巨人の戦いという構図は、巨人化する人間同士の戦い(巨人戦争)、さらに巨人を操る国家間の戦争という2重、3重の構図となる。すなわち、自立的に営まれてきた三重に囲われた城壁内(パラディ島)と巨人の支配する外部(大陸部)という単純な構図ではなく、外部にもエルディア国とマーレ国の対立があり、収容所がある。エルディア国が立て籠もったパラディ島には王政が敷かれているが、始祖の血を受け継ぐ王家が「不戦の契り」をたてたという。日本の象徴天皇制や平和憲法を想起させ、エルディア国とマーレ国の対立は米ソ(冷戦構造)、米中の対立構造を思わせる。9人の巨人は、核兵器(遺伝子技術、ITC技術)を独占する大国を象徴するかのようである。様々な寓意を読み取ることができる。いまやNHKでアニメの放映が始まっている。宇宙へと、あるいは超未来へと物語を展開すれば、さらに連載は続くであろう。と思いながら、待てよとこの連載を始めた20169月の段階へ『進撃の巨人』の連載を戻ってみたところ(20巻)、その時点では、未だエルディア国の起源やマーレ国の存在は明らかにされていないのであった!

 「進撃の巨人」の主人公たちは104期生である。既に「巨人」化能力をもつものがいるが、誰もが「巨人」となりうる。「進撃の建築家」についても同じであろう。物語の展開は予測不能である。

 

 「第二の戦後建築」:『戦後建築論ノート』 

 「進撃の建築家」としてとりあげてきた建築家たちは30数名となる。なお、その作品を実際に見てその仕事について考えてみたい建築家は少なくない。連載中に、直接間接の情報によって取り上げるべくリスト化した建築家はさらに30数名に上る。当初の依頼は、1616作品、16ヶ月16号の連載であった。

 「311以後の建築家とは。自分語りと重ねつつ、これまでにない建築家像を実践する新世代に焦点を当てる」というリード文が付されてきたのであるが、編集部には、もう少し思惑があった。指令書には「新しい動き方をしている30代、40代の建築家を取り上げる。一見、突然変異的、異端の16人だが、成長時代から成熟時代と大きく劇的 に変化した日本社会では、20世紀的昭和型建築家職能はもはや通用しない。歴史の必然で生まれたミュータントと位置づける。特に311の原発事故後は、拡大型成長的価値観の崩壊と反省という点で日本社会の歴史的分岐点となるであろう。そういう意味で第二の戦後建築が始まったとも言えそうだ。そこで、『戦後建築論ノート』の布野修司がこの16人、16作から何を読み取るか、見ものである。建築への絶望から建築を始めたという布野修司、計画学への問いかけ、建築史の検証、アジアへのまなざし、スラム・寄せ場・セルフビルドへの共感、タウンアーキテクト待望など、布野修司の自分語りも重ね合わせて16人の建築家 像、建築家職能論を展開する。  とあった。

 1616作品というのは予め無理でありーそれこそ「20世紀的昭和型建築家職能」に拘っていることになろうー、新しい動きをする若い建築家たちを「歴史の必然で生まれたミュータントと位置づける」つもりはない。しかし、『戦後建築論ノート』の著者が若い建築家の新しい仕事をどう位置づけうるかは著者自身も興味があった。「計画学への問いかけ、建築史の検証、アジアへのまなざし、スラム・寄せ場・セルフビルドへの共感、タウンアーキテクト待望」などについては語れるだろう。『戦後建築論ノート』(図②)にしても、それを増補した『戦後建築の終焉』(図③)にしても、戦後建築の行方を展望しているのである[1]

 

 近代建築批判以後:『建築少年たちの夢』 

 身近に出会ってきた若い建築家たちの仕事に触れようというのが出発点である。それぞれの建築家たちが、同世代の誰の仕事を注目しているか、誰をライバルと考えているかを聞いて紹介してもらう、「進撃の建築家」の輪をつないでいくというのが方針であった。最初に渡辺菊真を選んだのは、アジア・アフリカでの活動、セルフビルドへの共感、太陽建築の展開、京都コミュニティデザインリーグ(CDL)など、連載の軸を体現している建築家だと思ったからである。渡辺菊真(開拓者01)が推薦してくれたのは、Studio Architect増田信吾・大坪克亘、UID Architectsの前田圭介・高橋一平といった面々であった。また、キュレーター・アーキテクトを目指す香月真大(開拓者15)君は実に情報通で、度々リストを示してくれた。女流建築家として活躍している人は誰ですか?と問うと、すぐさま岡野道子、中川エリカ、金野千恵、アリソン理恵、今村水紀+篠原勲、大西麻貴、瀬川翠、冨永美保、永山佑子、古市吉乃、常山未央、岩瀬諒子、植村遙といった面々の連絡先を送ってくれた。しかし、いずれも仕事に触れる機会はつくりだせなかった。東京にいるので、地方に足を運ぶ機会がほとんどつくれなかったのは心残りである。

 もうひとつ下敷きにしてきたのは、『建築少年たちの夢 現代建築水滸伝』(2011年)である。「現代建築家批評 メディアの中の建築家たち」と題して20081月から201012月までの3年間、36回にわたって本誌に連載したものをまとめたのだが、実は、最後の3回は「建築の新しい世紀―建築家の生き延びる道」と題して、若い世代について触れている。本にする段階で分量の問題もあって、結局、20世紀前半生まれの世代に限定し、近代建築批判の建築家たち、安藤忠雄、藤森照信、伊東豊雄、山本理顕、石山修武、渡辺豊和、象設計集団、原広司、磯崎新という9の建築家(集団)のみについて絞った。藤本壮介、ヨコミゾマコト、馬場正尊、佐藤淳、西沢立衛、芦澤竜一、森田一弥、坂口恭平、岡部友彦、藤村龍至、山崎亮といった名を既に挙げている。布野スクールについても、森田一弥の他、渡辺菊真、山本麻子、丹羽哲也、丹羽大介、吉村理、黒川賢一、松岡聡、柳沢究、魚谷繁礼、正岡みわ子、水谷俊博、北岡伸一などがいる、と書いている。すなわち、本連載は、「現代建築家批評」の続編でもあった。

 渡辺菊真が渡辺豊和の遺伝子を引き継ぐように、岡啓輔が石山修武の高山建築学校を引き継ぐように、安藤忠雄、藤森照信、伊東豊雄、山本理顕ら9人の「建築少年たちの夢」の遺伝子を確認しようとしたのが本連載である

         

 311 以後

 東日本大震災が日本を襲ったのは『建築少年たちの夢』の2校を終えた直後であった(図⑤)。「あとがき」には次のように書いた(2011411日付)。

2011311日、1446分、東日本大震災が日本を襲った。M9.0、史上最大規模の地震である。本書の二校を終えた直後であった。・・・その後一月を経て、福島の第一原発が未だ収まらない。日本は、あるいは世界は人類始まって以来の経験を共有しつつある。2011311は少なくとも日本の歴史にとって永久に記憶される年月日となるであろう。・・・・この国難ともいうべき日本の危機を前にして、敗戦後まもなくの廃墟の光景がまず浮かんだ。振り出しに戻った、という感情にも襲われた。そして、戦災復興からの同じような復興過程を再び繰り返してはならないと震えるように思った。戦後築きあげてきた日本列島のかたちがそのまま復元されることがあってはならないのではないか。エネルギー、資源、産業、ありとあらゆる局面で日本を見直し、再生させていく、世界に誇れる建築と都市が新たに創造されなければならない。そのために必要なのが「建築少年たちの夢」である。建築を学ぶものはすべてが日本再生のまちづくりに取り組もう。そして、現場で深く考えよう。そこに建築の未来を見出そう。次の世代として、世界をまたにかける建築家が生まれるとしたらその中からである。それは夢などでは決してない。」(図⑤)                 






 日本の戦後建築の歴史を、日本を代表する建築家の足跡を軸に、自らの個人史にも引きつけながら辿ろうとしたのが『建築少年たちの夢』である。後は、続く世代に期待したい、新たな建築の未来を「建築少年たちの夢」にかけたい、というのが『建築少年たちの夢』に込めた思いであった。

 

 アンシャン・レジーム

 311直後、多くの建築家たちはすぐさま動いた。アーキエイドArchi-aidグループの建築家の活動や伊東豊雄などの「みんなの家」がその象徴であるが、身近にも竹内泰グループの番屋建設(図⑥)、滋賀県立大学の木匠塾グループの番屋(図⑦)、陶器浩一グループの「竹の会所」(図⑧)「浜の会所」(図⑨)など、建築の新たな展開を夢見させる動きが展開されてきた。

 しかし、311から7年、事態は、期待していたようには動いてはいないように思える。とりわけ「フクシマ」は止まったままだ。先日、仙台で開かれた日本建築学会大会で「祈りを包む建築のかたちー福島・世界を念いながらー」(司会:大沼正寛、副司会:竹内泰 記録:新井信幸:解題:鈴木浩、基調講演:安田菜津紀:渡辺和生、青井哲人、MC: 坂口大洋)と題する、ある意味画期的な協議会が開催されたのであるが(図⑩)、報告と議論を聞いていて、福島の復興はまだ始まったばかりだ、そんな思いに囚われた。「解題」と題する鈴木浩先生の講演は、地域評価の基本を根底から見直す必要を訴えるものであったし、青井哲人+青井研究室が監修するNPO法人福島住まい・まちづくりネットワークの「福島アトラス」(010203)(図⑪)の刊行は、福島の過去・現在・未来を少なくとも江戸時代に遡って見つめ直そうとするものである。「原発問題」がはるかに長期的な歴史のプログラムを要求していることははっきりしている。





 大災害が露わにするのは、社会に潜在する諸対立、諸差別の構造である。被災地においてそれを一気に克服することはそもそも容易ではない。復興バブルの影響がたちまち日本全体に及んだことが示すように、問題は、被災地にのみあるのではない。あらゆる地域の建築家の日常の仕事のなかにある。それにしても、次々に大災害が日本列島を襲う。気候変動、地球環境問題も含めて、津波被害、原発、すべて人為すなわち人の営みがもたらしたことでもある。「エネルギー、資源、産業、ありとあらゆる局面で日本を見直し、再生させていく、世界に誇れる建築と都市が新たに創造されなければならない」「 戦災復興からの同じような復興過程を再び繰り返してはならない」「戦後築きあげてきた日本列島のかたちがそのまま復元されることがあってはならない」のである。

 しかし、露わになってきたのは、建築産業界のアンシャン・レジーム(旧態依然たる構造)である。重層下請構造の問題は、建設業界だけの問題ではないが、正規―非正規、外国人労働者といったより複雑で鵺(ぬえ)的な支配構造が成立している。戦前戦中の連続・不連続の問題は、「戦後建築」の出自に関わるが、「戦前の国体」が「戦後の国体」に引き継がれてきたように(白井聡『永続敗戦論』(2013)『国体論』(2018))、建設産業のアンシャン・レジームは、戦後も存続してきた(潜在し復活再生してきた)。「建築家」の存在は、ほとんど建設産業の巨大な構造に埋没しつつあるかのようである。「進撃の建築家」たちが挑んでいるのは、この巨大な構造である。

 

 デザイン・ビルド

 四半世紀ぶりに東京に帰ってきて、斉藤公男先生が代表となって2014年に立ち上げられたA-Forumアーキニアリング・デザイン フォーラム(ArchiNeering Design Forum 略称 A-Forum)に、AB(アーキテクト/ビルダー「建築の設計と生産」)研究会をつくっていただいた。斉藤先生、安藤正雄先生、そして広田直行先生らとともに、建築の生産と設計をめぐる様々な問題について議論してきた。まず問題となったのは「新国立競技場」の設計者選定、設計施工をめぐる問題である。続いて「デザイン・ビルド」そして「公共建築の設計者選定(コンペ)」の問題を問い続けてきている。

 日本における建築家の職能確立の過程は、ある意味では挫折の連続の歴史である。戦前の帝国議会に重ねて上程されて成立しなかった建築士法をめぐって争われたのはいわゆる「専兼問題」である。すなわち、建築設計業を専業とするか、施工も合わせて兼業を認めるか、と言う問題であった。背景にあったのは、「建築家」vs「請負」の対立である。第二次世界大戦の敗戦によって、再び、建築家の職能法の成立がGHQ体制下で議論されるが、結局、資格法として建築士法が成立することになる(1950年)。建築界の「アンシャン・レジーム」は維持されることになる。

 そして、設計施工の分離か一貫かという問題は、1960年代を境に大きく転換していく。アトリエを基盤とする個人の建築家では対応できない大規模なプロジェクトが出現してくるのである。建築の危機、建築家の危機が叫ばれたのは1960年代末から1970年代にかけてのことである。そして、1970年代末には、日本で建築家の職能確立を目指す団体である日本建築家協会JIAが公正取引委員会から独占禁止法違反の審決を受けるに至り、改組、会員数の拡大を迫られることになる。

 こうした経緯の詳細は『戦後建築論ノート』『裸の建築家―タウンアーキテクト論序説』(2000年)(図⑫)に譲るが、AB研究会における議論を通じて明らかになるのは、1990年代以降、デザイン・ビルドあるいはPFI事業が一般化しつつあり、ますます、「建築家」の存在基盤は縮小してきたように思える。JIA所属の建築家は約4000人、最盛期の半分であり、平均年齢は60歳を超えるという。

 

 そうした中で、本シリーズでとりあげてきた「進撃の建築家」たちは、それぞれに「闘い」、道を開きつつある。それぞれに評価してきたけれど、一言で言えば、彼らは全て「戦後建築」の初心、そして、近代建築批判の声をあげた「建築少年たちの夢」を確実に引き継いでいるように思える。JIAにしても相坂くんたち若い世代が新たな動きを始めている。彼らがミュータントと見えるとすれば、戦後日本の社会が変質(戦後レジームの総決算)してきたからである。戦後建築の初心を引き受けようとしてきたものには、「巨人の壁」に挑む「進撃の建築家」たちの活躍の場を用意する仕事が残されている。

 『戦後建築論ノート』の末尾には次のように書いた。

 「建築が様ざまな制度を通じてしか自己を実現することがないとすれば、制度と空間、制度とものの間のヴィヴィッドな関係をつねに見続けていく必要があるはずである」

 

  



[1] 日本の建築界の戦中戦後を問うたのが『戦後建築論ノート』(1981615日)である。第二次世界大戦に突入していった15年戦争期と建築の1960年代を重ね合わせて、近代建築の行方、産業社会の乗り越えの方向を展望したのであった。そして、1995117日の阪神淡路大震災は、日本の戦後建築の依って立ってきた根底を揺るがすものであり、その乗り越えの必要をますます意識させるものであった。阪神淡路大震災の大きなショックをバネに『戦後建築論ノート』を増補したのが『戦後建築の終焉―世紀末建築論ノート―』(1995831日)である。