西洋近現代建築家
ロッシ,アルド
ロッシ・アルド▼Rossi,Aldo▼《1931ミラノ~.》◇建築家。ミラノ工科大学でE.N.ロジェルス、ジュゼッペ・サモナに師事し、59年卒業。ヴェネツィア大学、ミラノ工科大学の建築計画コースで教鞭をとる。60年代末の大学闘争には積極的に関わった。主著『都市の建築』《L'Architectura
della Cita》(66)で類推、記憶といった概念で建築と都市の世界を構築。その理論は「ガッララテーゼ地区の集合住宅」(69~77)などの作品に直結。71年にチューリヒに移り、連邦工科大学で教職に就くが、75年にイタリアに戻り、同年ヴェネツィア建築大学教授となる。ヴェネツィア・ヴィエンナーレにおける「世界劇場」(79)、福岡の「ホテル・イル・パラッツォ」などを設計。
ホライン,ハンス
ホライン,ハンス▼Hollein,Hans▼《1934ウィーン~.》◇建築家。56年ウィーン美術大学建築学科卒、58~59年イリノイ工科大学でヒルベルザイマー教授に師事、59~60年カリフォルニア大学で環境デザイン専攻。その後、F.カイザーの下で働く。64年に独立、ウィーン、デュッセルドルフで活躍。65年にウィーンの「レッティ蝋燭店」が最初の実施作品。世界的な反響を呼ぶ。建築を総合的な芸術として捉え、家具や宝飾のデザインも含め幅広く活動している。都市計画の一環として「メンヘングラートバッハ美術館」(1972~82)を設計するなど数々の大規模なプロジェクトも手がける。
ボフィル,リカルド
ボフィル,リカルド▼Bofill,Ricardo▼《1939バルセロナ~.》◇建築家。バルセロナ建築学校、ジュネーブ建築大学に学ぶ。60年タリエル・デ・アルキテクトゥラを結成。以後バルセロナ及びパリを中心として設計活動を展開。若く、スペイン国内で「マンサネーラの集合住宅」(63)、「ウォールデン-7」(70)などを手がけ、実現をみないが、74年からのパリ・レアール再開発計画で世界的に注目を集める。その後フランス各地に「パレ・アブラクサス」(78~83)に見るような古典主義的なモティーフを用いた集合住宅を次々に設計。建築理論と実践とを説いた『リカルド・ボフィル 建築を語る』《L'Architecture d'un homme》(78)がある。
スカルパ,カルロ
スカルパ,カルロ▼Scarpa,Carlo▼《1906.6.2ヴェネツィア~1978.11.28仙台》◇建築家。1922年よりV.リナルドと協働、26年に王立ヴェネツィア建築大学の教職に就く。「ヴェネツィア・ヴィエンナーレヴェネズエラ館」(54-56)以降、建築作品多数。作品の多くは、64年の「カステルヴェッキオ美術館」のような、既存建築の美術館などの改修計画であり、古い建物を土台に彼独自の工芸的な造作をもって新たな調和を試みる点に特徴がある。終生イタリア・ヴェネト地方を本拠に活動した。数少ない新築作品のひとつ、69~72年の「ブリオン・ヴェガ墓地」はその代表作である。
アレグザンダー,クリストファー
アレグザンダー,クリストファー▼Alexandar,Christpher▼《1936ウィーン~》◇建築家。カリフォルニア大学バークレー校環境デザイン学部建築学科教授。イギリスで学び、58年ケンブリッジ大学で建築および数学の学位をとる。ハーバード大学ではデザインの問題を合理的かつ数学的な方法で扱った研究を64年に博士論文「形の合成に関するノート」にまとめ博士号を受けた。さらに65年「都市はツリーではない」を発表し、建築理論家として知られるようになる。67年環境構造センターを設立、研究および実作成果を一連の著作、「パタンランゲージ」、「住宅の生産」、「まちづくりの新しい理論」などにまとめ上げている。代表作は「盈進学園東野高校」。
ペイ,I.M.
ペイ,I.M.▼Pei,Ieoh
Ming▼《1917~.中国》◇建築家。1935年にアメリカへ留学。MITおよびハーバード大学院で学ぶ。この頃ル・コルビュジエに傾倒し、W.グロピウスらと知り合う。1948年ハーバード大学助教授の時、ニューヨークのディヴェロッパー・ゼッケンドルフに建築部長として就任。そこで教え子ヘンリー・コブを含むチームを結成、そのチームを基礎に1955年設計事務所を設立。アメリカ国内で「ジョン・ハンコック・タワー」(1973)、海外で「ラッフルズ・シティ」(1986)、「中国銀行香港支店ビル」(1990)などの近代的オフィスビルを設計。また1988年にルーブル美術館の前に建設したガラスのピラミッドはセンセーショナルな話題を呼んだ。
スターリング,ジェームス
スターリング,ジェームス▼James Stirling▼《1926イギリス~1992》◇建築家。リヴァプール大学でコーリン・ロウに師事する。1956~63年ジェイムズ・ガワンと、1971年以降、マイケル・ウィルフォードとパートナーを組む。60年代は「レスター大学工学部」(1963)など大学の設計が多く、ガラスとレンガ壁を組み合わせた荒々しい表現を試みている。70年代は「ケルン美術館」(1975)など美術館計画を多く発表、その中で、実現した「シュトゥットガルト美術館」(1977~84)や「クローギャラリー」ではコンテクチュアリズムによる表現を追求した。戦後イギリスを代表する建築家であり、日本ではJR京都駅ビル競技設計に参加している。
ロジャース,リチャード
ロジャース,リチャード▼Richard Rodgers▼《1933フィレンツェ~.》◇建築家。1937年にイギリスに移住。ロンドンのAAスクールで学び、イェール大学に留学。そこでN.フォスターと知り合い、チーム4を設立(63年)。この頃の作品には映画「時計仕掛けのオレンジ」のロケに使われた「ジェッフィ邸(通称スカイブレイク・ハウス)」がある。70年、R.ピアノと共にピアノ・アンド・ロジャースを設立。国際コンペによって機会を得て「ポンピドゥーセンター」(1977)を完成させる。77年にJ・ヤング、M・J.P.デイヴィスらとリチャード・ロジャース・パートナーシップを設立。コンペ一等入選には、「ロイズ・オブ・ロンドン」(1986)、「ロンドン第3空港」(1988)などがある。
アンウィン,レイモンド
アンウィン,レイモンド▼Unwin,Raymond▼《1863~1940》◇都市計画家、建築家。E・ハワードによる著作「明日の田園都市」の影響のもとにハワードと共に、1902年最初の田園都市をロンドンから34マイル離れたレッチワースに設計した。彼とバーリー・パーカーが全体計画を担当。単なる郊外のベットタウンというのではなく、職住一体の自律的都市を目指すものであった。彼がイメージしていたのは、中世の小都市であり、ラスキンやモリスの提唱したアーツ・アンド・クラフツ運動の影響を色濃く持ったものであった。他にハステッド田園郊外住宅地なども設計している。
レヒネル,エデン
レヒネル,エデン▼Lechner,Odon▼《1845ハンガリー、ペスト~1914》◇建築家。ハンガリーにおけるアール・ヌーボー建築を代表する作家。その作品は、ゼツェッションの影響を色濃く示している。代表作として「ブタペスト郵便貯金局」(1901)がある。表面はカラフルなセラミックでおおわれ、二次元的な曲線表現が特徴である。また、アーツ・アンド・クラフツ運動の影響を受けた手仕事によるその独特な造形は、独自の民族文化への強い関心と志向を表すものであり、ナショナル・ロマンティシズム的傾向を表している。この他には、オリエントやアジアへのロマン的傾倒をしめす「応用美術館」(1896)などがある。
ヴァン・ド・ヴェルド,アンリ
ヴァン・ド・ヴェルド,アンリ▼Vann De Velde, Henry▼《1863ベルギー、アントワープ~1957》◇建築家。1881年、アントワープ・アカデミーで絵画を学ぶ。94年に自邸を設計し、統一した様式で、家具、食器、カーペット、そして夫人の衣装にいたるまでデザインし、建築家として世に名が知られる。1901年にザクセン=ワイマール大公美術顧問として招かれ、「ワイマール応用美術学校」(1906、後のバウハウス)を設立した。ドイツ工作連盟では中心的役割を果たし、工芸や手仕事の重要性を主張、ヨーロッパのデザイン界に深く影響を残した。代表作として「フォルクヴァンク美術館」(1902、ハーゲン)、「ドイツ工作連盟ケルン博」(14)などがある。
ヘーリング,フーゴー
ヘーリング,フーゴー▼Harinng,Hugo▼《1882~1958》◇建築家。シュトゥットガルト工科大学、ドレスデン工科大学に学ぶ。1912年、ベルリンで事務所を開設。ドイツ工作連盟に名を連ね、機関誌「フォルム」の第一号に「形態への道程」を発表(25)するなど、理論家としてワイマール時代の建築界で活躍。28年には、第一回CIAM(近代建築国際会議)総会にドイツの代表として参加。曲線を多用する有機的なプランがその特徴で、代表作には、「ガルガウの農場」(25、リューベック)、「ジーメンスシュタトの大ジートルンク」(31)などがある。
ヘットガー,ベルンハルト
ヘットガー,ベルンハルト▼Hoetger,Bernhard▼《1874~1949》◇建築家。デュッセルドルフ芸術アカデミーで彫刻を学ぶ。1910年ダルムシュタッドの芸術家コロニーに参加。1915年、40歳にして自邸を設計し、建築家としての第一歩を踏み出す。1917年の製菓工場とその従業員宿舎の計画案である「TET都市」は、ドイツ表現主義の建築として最初に世に認められた。20年代の作品は、北ドイツの民家をモチーフとしている。曲がった樫の幹を露出させ、煉瓦と組み合わせる独特の表現である。その他には、北ドイツ神話をモチーフとした「ハウス・アトランティス」(31)などがある。
ヘーガー,フリッツ
ヘーガー,フリッツ▼Hoger,Fritz▼《1877ホルシュタイン~1949》◇建築家。ハンブルグ、ハノーバーなど北ドイツにて活躍。ドイツ表現主義の建築家とされる。その作品のほとんどはゴッシク的な煉瓦建築であり、北ドイツにおける煉瓦建築の新時代を開いた。ドイツ工作連盟に名を連ねる。その代表作「チリ・ハウス」(24、ハンブルク)は、不整形な敷地を生かし、剃刀のような鋭さをそのファサードに表現している。他に、「ホテル・ラマダ」(27、ハンブルク)、晩年の作品、「ホーヘンツォレルン広場の教会」(33、ベルリン)などがある。
リシツキー,エル
リシツキー,エル▼Lissitzky,El▼《1890ポルシノク,旧ソ連~1941モスクワ》◇画家,建築家。ダルムシュタット工科大学で建築を学んだ後A・マレービッチと親交を深め、構成主義運動に参加した。彼は「雪の支柱」という提案を行い、反重力を目指した建築形態を目指している。「レーニン演壇設計計画」は、コラージュであるが、構造体と宙に漂う形態を、激を飛ばすレーニンをモンタージュしながらまとめている。また、「プロウン」と題する一連の絵画作品やその他多くのグラフィックデザインやディスプレイデザインがある。
チュミ,ベルナール
チュミ,ベルナール▼Tschumi,Bernard▼《1944スイス~》◇建築家。69年チューリッヒ工科大学卒業。その後、ロンドンのAAスクール、プリンストン大学で教鞭をとる。。理論家として知られ、空間に機能を与えることが建築だという考え方に意義を申し立てる。チュミにとって建築とは、社会を治療するための一つの方法である。その方法としては、建築を恣意的に接続し、重ね合わせたりして建築全体の姿や社会や歴史の総体を想起させる。また映画的手法に倣って身体のイメージをコラージュし、各シーンのショットのつながりをボードの上にプロットしていき、内的論理で完結する建築を構想する。89年、パリの「ラ・ヴィレット公園」を設計。反都市を作るためのモデルを提示し、機能主義や、伝統的な造園法を打ち破る斬新な提案を行った。
フライ,オットー
フライ,オットー▼Frei,Otto▼《1925西ドイツ、ジーグマ~.》◇建築家。それまで仮設的に用いられていた「テント構造」を恒久的建築物に採用し、いわゆる「膜構造」技術を完成したとされる。構造体にプレクシガラスパネル、ポリエステルシートなどの膜、ケーブル、そして木を用いる張力構造で広大な内部空間と変化に富む外観を可能にしている。従来の静的建築物に動的なものを導入したということで、すぐれた現代建築家、構造家の一人に数えられる。「ミュンヘンオリンピック競技場」(72)、「マンハイムの多目的ホール」(74)そしてミュンヘン・ティアパーク動物園の「鳥の家」(76)などの作品がある。
アイゼンマン,ピーター
アイゼンマン,ピーター▼Eisenman,Peter D.▼《1932~.》◇建築家。コーネル大学卒業。コロンビア大学、ケンブリッジ大学で教鞭をとる。理論家として知られる。初期の一連の住宅計画では、敷地や機能などの与件を排除した形式的な建築を理論的に考察。その中でチョムスキーの変形生成文法の概念を引用しつつ純粋なプラトン立体から複雑な建築物に到る方法を統語論的に展開した。80年代の脱構築的アプローチでは建築における開かれたテクスト性を追求し、いかなる特定の意味をも具象化しないデザインを目指した。従来の近代主義的な形態を「ストロング」な形態とし、それに対し「ウイーク」な形態を採用。「住宅1号」(68)、「ウェクナー視覚芸術センター」、「布谷ビル」(92)等の作品がある。
OAP
OAP▼Ove
Arup and Partners▼◇構造設計組織、技術コンサルタント会社。構造設計家オヴ・アラップ(Ove
Arup,1895-1988)により46年に創設される。ロンドンを中心とし、世界各国に支社を持つ。特に、ロンドン本社は最高の技術力を誇る。J.ウッツォンの「シドニー・オペラハウス」の構造設計で世界的な名声を得る。その他「ポンピドゥ・センター」、「香港上海銀行」など、有名現代建築の構造面をサポート。創設者アラップの亡き後、ピーター・ライス(58年入所)により引き継がれている。組織の巨大化にも関わらず、技術者として建築の設計に参加し、いかに建築的価値を高めるかという基本思想とパイオニア精神は変わらず、20世紀最高の構造設計組織と評価を受けている。
サンテリア,アントニオ
サンテリア,アントニオ▼Sant'Elia,Antonio▼《》◇イタリアの建築家。詩人マリネッティが主宰した未来派運動設立の5年後、1914年8月1日に「未来派建築宣言」を発表。著書『新都市』などに未来都市、未来建築のイメージを数多く発表した。サンテリアの建築ドローイングには、古典主義的な建築構成法が色濃くみられるが、発電所、自動車道路、エレベーターといった当時最先端の技術のダイナミズムを表現している。1914年にサンテリアが残した発電所のスケッチをもとに、イタリアの建築家ジュゼッペ・テラーニが「戦没者記念碑」として実践に移した。
テラーニ,ジュゼッペ
テラーニ,ジュゼッペ▼Terrani,Giuseppe▼《1904ミラノ、メーダ~43》◇イタリアの建築家。アダルダルト・リベラとともに建築家集団グルッポ7の主要メンバー。イタリア合理主義運動を展開。テラーニの純粋な幾何学形態を用いたその作風を、アカデミックな規範は受け入れなかったとされる。彼のそしてイタリア合理主義の最高傑作がカサ・デル・ファッショ(36、コモ)である。これは、一辺33・2mの正方形平面と非シンメトリーな4つの立面によって構成されており、規則的な構造の枠組みに従いながら、感覚的な操作によって奥行きや内部のヴォリュームを感じる作品となっている。
ニューヨーク・ファイブ
ニューヨーク・ファイブ▼New York Five▼ニューヨークの5人の建築家、P・アイゼンマン、M・グレイブス、C・グワスミイ、J・ヘイダック、R・マイヤーを指す。グレイ派に対してホワイト派とも呼ばれる。行動を共にした訳ではないが、彼らの初期の作品のモチーフがル・コルビュジェの初期の作品を操作するという共通性があったことから命名された。その中で最も観念的な形態操作を行ったのが、P・アイゼンマンであり、彼はチョムスキーを引用しつつ形態を統語論的に組み立てていく方法をとった。M・グレイブスは形態の視覚的な効果とコラージュに興味を示したが、近年では作風をがらりと変え、歴史的モチーフを引用したポスト・モダニズムの代表的建築家となっている。
カーン,ルイス
カーン,ルイス▼Kahn,Louis
I.▼《1901.2.20.エストニア、サーレマ島~74ニューヨーク、ペンシルベニア駅》◇アメリカの建築家。1905年にフィラデルフィアへ移住。20年、ペンシルベニア大学に入学し、古典的伝統を重視するフランスのボザール流教育を受ける。「イェール大学アートギャラリー」(53)の設計により注目され、「ペンシルベニア大学リチャーズ医学研究所」(61)の設計により広く世界の注目を浴びる。「建築の始まりを求める」建築的思想を展開し、設計活動と同時に自己の思想を深化させる。その実践的作品として「バングラデシュ首都計画」(63)、「ソーク生物学研究所」(65)、「キンベル美術館」(72)、「エクセター大学図書館」(72)などがある。91年10月~94年2月、大回顧展が世界を巡回。
ヴェンチューリ,ロバート
ヴェンチューリ,ロバート▼Venturi,Robert▼《1925アメリカ、フィラデルフィア~.》◇建築家、建築理論家。47年プリンストン大学を卒業。AIAの学生メダル、パーマー奨学金などを獲得し、64年と65年にはローマ賞を得、ローマのアメリカンアカデミーに留学。この時、ルイス・カーンとの知遇を得る。57年ウィリアム・ショーと事務所を設立。64年ジョン・ローチとヴェンチューリ・アンドローチ事務所を設立。69年、都市計画家であり夫人でもあるデニス・スコット・ブラウンを加え、現在のヴェンチューリ・スコット・ブラウン・アンド・アソシエイツとなる。66年、ニューヨーク近代美術館より出版された『建築の複合性と対立性』によって、近代建築のもたらした純粋主義に意義を唱え、後のポスト・モダン建築への道を開いた。代表作に「ヴァナ・ヴェンチューリ邸」、「ギルドハウス」、「フランクリンコート」などがある。
チームΧ
チームΧ▼チーム・テン▼Team X▼1956年ドゥブローヴニクの第10回CIAM(近代建築国際会議)において若手建築家達が結成したグループ。これを期にCIAMは事実上解体した。およそ10年の活動の後、66年のウルビノ会議において解散。組織者は、ヤコブ・バケマ、アリソン・アンド・ピーター・スミッソン夫妻、ジョルジュ・キャンディリス、シャド・ウッズ、アルド・ファン・アイク他である。主題としたのは「クラスター」、「モビリティー」、「成長と変化」、「都市と建築」であり、技術への絶対賛美であったCIAMに対し、技術との成熟した関係性の構築に力点をおいた。
フォスター,ノーマン
フォスター,ノーマン▼Foster,Norman▼《1935イギリス・マンチェスター~.》◇建築家。1961年にマンチェスター大学卒業。イェール大学建築学部で修士号を取得。イェール大学在学中、R.ロジャースと知り合い、チーム4を設立(63年)。67年にフォスターアソシエイツを設立。作品に「英国ルノー社部品配送センター」(1983)、「香港上海銀行」(1986)など。人間のための環境を創造しようとする姿勢があり、ハイテックなデザインを用いながら、人間と環境の融合を試みる。1983年、RIBAロイヤルゴールドメダル建築賞受賞。東京に「センチュリータワー」がある。
ローチ,ケビィン
ローチ,ケビィン▼Kevin Roche▼《1922.6.14ダブリン(アイルランド)~.》◇建築家。1945年アイルランド国立大学卒業。49年イリノイ工科大学大学院修了。50年サーリネン事務所入所。サーリネン亡き後事務所を統括。66年ケヴィンローチ・ジョンディンケル・アンド・アソシエイツと事務所名を改称、現在に至る。作品に「マサチューセッツ大学美術センター」(1964~74)、「フォード財団本部」(1968)、「ジェネラル・フーズ本社」(1977~82)など。一つ一つのプロジェクト毎に多彩なデザインを展開している。その多様性、都市的スケールのモニュメンタルな表現に特徴がある。
ソレリ,パオロ
ソレリ,パオロ▼Paolo
Soleri▼《1919年イタリア、トリノ~.》◇建築家。都市計画家。トリノ工科大学で建築学博士号を取得。47年にアメリカに渡り、フランク・ロイド・ライトに師事する。56年非営利教育機関であるコサンティ財団を設立。アーキテクチャーとエコロジーの造語である独自の都市理論「アーコロジー」を唱え、アリゾナの地に人口200万人を想定して構想されたメサ・シティ計画を始めとする数々のアーコロジー・プロジェクトを手掛ける。70年以来アリゾナ州の高地砂漠に自己充足型の省エネルギー都市アーコサンティの建設を進める。著書に「生態建築論」他がある。
クロール,ルシアン
クロール,ルシアン▼Kroll,Lucien▼《1927年ベルギー、ブリュッセル~.》◇建築家。51年ブリュッセルの国立美術学校を卒業後、ヴァン・デ・ヴェルデに師事。1970年に学生の参加を得て設計したブリュッセルの「ルーヴァン・カトリック大学学生寮」において注目される。モダニズム、ポストモダニズムとも異なる新たな建築の方向性を模索し、主として住民参加による集合住宅の設計を手がける。一方で、コンピューターを利用した独自の計画プログラミングを開発し、多様な部分からなる建築のあり方を目指す。代表作として「ユトレヒトの演劇学校」(1979)、マルヌ・ラ・ヴァレの「エムランヴィル集合住宅」(1986)などがある。
ペリ,シーザー
ペリ,シーザー▼Ceasar
Pelli▼《1926年アルゼンチン~.》◇建築家。49年ツクマン国立大学建築学科卒。52年にアメリカに渡り、54年イリノイ大学で建築修士号を取得後、64年までエーロ・サーリネン事務所に勤務。77年にイェール大学建築学部長となる。ヒューストンの「フォー・オークス&フォー・リーフ・タワーズ」、ミネアポリスの「ノーウエスト・タワー」、ニューヨークの「ワールド・ファイナンシャル・センター」などの超高層ビルを多数手掛ける。他に代表作として東京の「在日アメリカ大使館」(1972)、カリフォルニアの「パシフィック・デザイン・センター」(1976)などがある。
ゲーリー,フランク・O.
ゲーリー,フランク・O.▼Gehry,Frank O.▼《1929カナダ、トロント~.》◇建築家。49年、南カリフォルニア大学芸術学部入学後、建築学科に転科。62年に設計事務所を開設し、ロサンゼルスを中心に活動する。「ファミリアン邸」(1978)や「ゲーリー自邸」(1979)といった作品において整合的、完結的な形態の排除、安価でありふれた工業的素材の使用といった手法でディコンストラクティヴィズムの先駆的建築家となる。代表作に「カリフォルニア航空宇宙博物館」、「ロヨラ法科大学」などがある。89年、第12回プリッツカー賞を受賞。
ヌーヴェル,ジャン
ヌーヴェル,ジャン▼Nouvel,Jean▼《1945年フランス、フュメル~.》◇建築家。都市計画家。71年にエコール・デ・ボザール卒業。70年に設計事務所を設立し、多くの設計競技に参加する。代表作に「ドーム文化センター」(1986)、「セント・ジェームス・ホテル」(1989)などがある。87年に、金属フレーム、ガラスのスクリーンを用い、ガラスの壁面に240個のダイヤフラムという調光用の絞りを挟み込むというメカニカルでハイテック・スタイルの表現をもったパリの「アラブ世界研究所」を設計する。この設計で、その年にフランスに建てられた最も優れた建築に送られる「銀の定規賞」を受賞。
ムーア,チャールズ
ムーア,チャールズ▼Moore,Charles▼《1925~.》◇建築家。アメリカ、ミシガン州ベントン・ハ-バ-に生まれる。47年、ミシガン大学卒業、プリンストン大学で学ぶ。1962年に北カリフォルニアに週末共同住宅の「シ-ランチ」を設計し一躍有名になる。「シ-ランチ」は24フィートを基本とする立方体群に片流れの屋根をかけたものであるが、それらが中庭を取り囲み形態をとっている。その後、R・ヴェンチュ-リとともに1970年代のポスト・モダンの主導者として活躍する。その代表作に各種の歴史的モチ-フをふんだんに引用した「イタリア広場」の設計(1978)がある。
グレイヴス,マイケル
グレイヴス,マイケル▼Graves,Michael▼《1934~.》◇建築家。シンシナチ大学卒業、ハーバード大学大学院、ローマのアメリカン・アカデミーで学ぶ。初期の活動では、P.アイゼンマンらとともにニュ-ヨ-ク・ファイヴもしくはホワイト派と呼ばれ、ル.コルビュジエの用いた建築言語を操作的に用いる住宅作品を多く設計した。建築を意味作用の体系と考え、建築の形態と、その形態を生み出す建築的表象あるいは理念の複雑な体系との間のつながりを示すことをテーマとしたが、歴史的モチ-フを大胆に引用する作風へと転換し、ポスト・モダニズムの中心となった。「ポ-トランド市庁舎」(1982)では、基壇・胴部・頭部という古典的三分割構成を強調し、建築に象徴的意味を付与している。他に「スワンホテル」、「ドルフィンホテル」(1990)を設計。そこでは、白鳥などのモチ-フが直喩として使われ、非日常的な雰囲気を作り出している。
ピアノ,レンゾ
ピアノ,レンゾ▼Piano,Renzo▼《1937ジェノヴァ~.》◇建築家。64年ミラノ工科大学建築学部卒。62~64年までフランコ・アルビーニ、65~70年までルイス・カーン、Z.S.マコウスキーの下で働いた。1971年R.ロジャースと共同でポンピドゥーセンターの設計競技に一等入選。現在はパリとジェノヴァにアトリエを持つ。彼の作品に一貫しているのはクラフトマンシップとテクノロジーの融合である。ハイテク建築と称されるポンピドゥセンターにおいてその究極を表現した。主な作品にメニルコレクション美術館(86)IBM巡回展示パヴィリオン(84)などがある。また、日本では関西国際空港旅客ターミナルビルの指名設計競技(90)に一等入選している。
西洋近現代建築用語
ジードルンク
ジードルンク▼Siedlung▼ドイツ語。定住地ないし入植地の意味だが、特に近代の郊外住宅団地を指すようになった。産業革命後の都市問題を改善するために、ドイツで1920年代から大都市に近接する郊外に計画された大住宅団地のこと。都市の密集を拡散し、経済的・衛生的な住宅を労働者に提供することを目的とした。社会民主主義勢力の拡大にともない、特にベルリン市、フランクフルト市などが積極的にこれに取り組んだ。エルンスト・マイ設計の「レーマーシュタット」(フランクフルト1929)、カール・エーン設計の「カール・マルクス・ホーフ」(ウィーン1927)などはよく知られる。また、ベルリンでは、B.タウト、W.グロピウス、ミース、H.シャロウンなどもジードルングの設計に取り組んでいる。
ファシズム建築
ファシズム建築▼Fascistic(?)
Architecture▼第二次世界大戦中のドイツ、イタリアのファシズム政権によって計画された建築。ただ、その建築の形態は、前者では古典主義的、後者では近代主義的と、採用され、推奨されたスタイルが異なる。ドイツでは、建築家志望であり、都市、建築に大きな興味をもっていたヒトラーのもと、建設総監アルバート・シュペーアによって数々のプロジェクトが試みられる。1934年の党大会のための「ツェッペリン広場」計画、「ベルリン南北大道路計画」などがそうである。イタリアでは、ムッソリーニが1942年のファシスト革命20周年を記念し、ファシズムの回生、誇示を目的としてローマ近郊に
新都市EUR(Esposizione Universale di Roma)をA.リベラによって計画させた例が著名である。
イタリア合理主義
イタリア合理主義▼Italian Rationalism▼1920~40年代にイタリアにおいて建築を主導した運動。26年G.テラーニやA.リベラ等の組織するグルッポ7がヨーロッパ諸国の近代主義建築運動を後ろだてに新建築を目指す論文を発表したのが始まりとされる。28年創刊の建築雑誌『カサベッラ』が合理主義の論陣を張り、リベラ等はMIAR(イタリア合理主義建築運動)を組織して、28年より展覧会を開く。イタリアにおける政治的、文化的な論争を背景に、他国とは異なる特異な近代主義運動が展開された。規範ともいえる作品が、規則的な構造の枠組みに従った立面の構成が特徴的な、テラーニの「カサ・デル・ファッショ」(ファシストの家)である。
ニューブルータリズム
ニューブルータリズム▼New Brutalism▼1950年代から1960年代にかけて現れたコンクリートの肌を剥き出しにする荒々しい建築表現の傾向。その中心はアリソン・アンド・ピーター・スミッソン夫妻で、代表的な作品は「ハンスタントンの学校」(1954)とされる。あらゆる建築素材が飾ることなく現されることを特徴とする。この運動の総括として、イギリスの批評家レイナー・バンハムが『ニューブルータリズム、それは論理?それとも美学?』(66)を著している。近代建築の英雄時代の終幕時に登場した次世代モダニズトによるモダニズムの延命運動と評されたりする。
スペース・フレーム
スペース・フレーム▼Space Frame▼工業化された規格部材によって大きな空間を架構する方式。コンラット・ワックスマン(Konrad Wachsmann)が、米空軍の依頼で開発した、格納庫の架構システムにおいて試みたのが最初とされる。寸法の組み合わせが可能なように設計された部材を使用し、短期に、しかも希望する大きさの空間を覆うことができる。1970年の大阪万博覧会お祭り広場には、幅108m、長さ291.6mの大屋根がスペースフレームを用いて架けられた。
メタボリズム
メタボリズム▼Metabolism▼生物学の用語で新陳代謝の意。建築・都市計画の分野では、1960年の世界デザイン会議のために結成されたグループ(川添登、菊竹清訓、槙文彦、黒川紀章、大高正人ほか)とその設計理論、都市理論を表す言葉として用いられる。永久不滅な建築を否定し、また近代建築のスタティックな機能主義を批判し、建築とそれによって構成される都市はダイナミックに変化するべきであるというのがその主張。提案されたプロジェクトとしては菊竹清訓の「海上都市」「塔状都市」、黒川紀章の「空間都市」「農村都市」、槙文彦・大高正人の「新宿副都心計画」等がある。
デコンストラクティヴィズム
ディコンストラクティヴィズム▼Deconstructivism▼1988年ニューヨーク近代美術館で「デコンストラクティビスト建築 Deconstructivist Architecture」と題された展覧会が開かれ、F・ゲーリー、D・リベスキンド、R・コールハウス、P・アイゼンマン、Z・ハディド、コープ・ヒンメルブラウ、B・チュミが共通の傾向を持った建築スタイルを提示した。そのスタイルは、不安定感や、動的なダイナミズムを前面に打ち出すものであり、ロシア構成主義との形態的類似も指摘される。基本的には建築形態に対する名称であるが、P・アイゼンマンやB・チュミの様にフランスの哲学者、J・デリダの提唱する「脱構築」という概念に深く関連し、それを建築的言語において実践し、形而上学的価値と結び付け、近代主義観念をつき崩す試みを目指すという建築家もある。
ロシア構成主義
ロシア構成主義▼Russian
Constructivism▼第一次世界大戦後ロシアに興った革新的芸術運動。シュプレマティスム(至高主義)を基盤としながら過去の文化と断絶して技術時代に見合う美的文化を提唱し展開させようとした。絵画・彫刻・建築等の幅広い領域にわたっている。タトリンの「第三インターナショナル」やエル・リシツキーの「レーニン演壇計画」が主要な作品である。またその基本的造形概念は、1920年、A・ペブスナーとN.ガボンにより宣言として表された。革命当初は時代の流れを敏感に捉えたものであったが、後にスターリンの独裁政治のもとで形式主義と批判され、運動としては終息する。しかし、近代主義建築に多大な影響を与え、また現代美術の中にも根強く生き続けるインパクトをもった運動であった。
ドミノ・システム
ドミノ・システム▼Domino House▼1914年にル・コルビュジェの提唱した鉄筋コンクリートの構造システム。建築は、スラブ、それを支える柱、階段の三つからなるとする。住宅を大量生産するために、鉄筋コンクリートの構造をプレファブ化するシステムとしての提案につながる。当時、コルビュジェはまだパリで活動を行っておらず、スイスのラ・ショードフォンの美術教師をしていたのであるが、その発想の大胆さは人々を引きつけ、近代建築の方向を予感させることになった。
ブラジリア
ブラジリア▼Brasilia▼旧首都リオデジャネイロから約940km離れた内陸部、ゴイアス州の二つの河川の合流点に建設されたブラジルの新首都。都市計画は、1957年にコンペに当選したルシオ・コスタが、建築はオスカー・ニーマイヤーが担当。十字形に交差した巨大な軸線をもとに構成されており、まるで大きな鳥が翼を広げたようなプランである。翼の付け根にはオフィスゾーン・文化ゾーンなどが、翼にあたる部分には住居地区が、また頭の部分には国会議事堂・最高裁判所・行政庁が三権広場を囲んで配置されている。CIAM(近代建築国際会議)の目指した近代都市計画の総決算とされている。
アムステルダム派
アムステルダム派▼▼20世紀初頭から、主にアムステルダムを活動の場として展開した建築家集団の総称。「アムステルダム株式取引場」(1903)の設計者ベルラーヘの影響の下に、公衆の生活と美術の融合を現実的な社会に目指した。煉瓦を素材としたその手工芸的な作風は、有機的な表現に富む。主に、集合住宅の設計にその手腕を発揮し、ミケル・デ・クラークが中心となって活躍。彼の代表作に「エイヘンハールトの集合住宅」(13)や「ヘンリエット・ローネルプレインの集合住宅」(20)などがある。また他に、J・M・ファン・デル・メイの海運協会ビル」(16)などがある。経済恐慌とともに、煉瓦の高騰などから30年頃にはその活動力は衰えていった。
モデルニスモ
モデルニスモ▼Modernisumo▼19世紀末から20世紀初頭にスペイン、特にカタロニア地方で興った芸術運動。ヨーロッパにおけるアール・ヌーボーやユーゲントシュティールに通じる運動とみられている。1888年のバルセロナ博を期に、経済的な新興階級が自らのスティタスシンボルを様式に求めたことがこの芸術運動のバックボーンとなっていた。1930年頃にはその活動の火は消えた。主な作品に、ドメーネック・イ・モンタネルの「カタロニア音楽堂」(08)、ルイス・モンタクニルの「マシア・フレイシア」(07)、J・M・ジュジョールの「ジャサ・コマラット」(11)などが挙げられる。
シカゴ派
シカゴ派▼Chicago ?▼-は▼19世紀末のシカゴで活躍したウィリアム・ル・バロン・ジェンニー、ルイス・サリバンなどの建築家のグループ。当時、ニューヨークではエレヴェーターを備えた高層建築が実現しつつあったが、1871年の大火で市街地の大部分を失ったシカゴは高層建築のパイオニアたちの表舞台になる。鉄骨骨組構造と美学的表現が様々に追求されたのである。ジェンニーは「ライター・ビル」(79)「ホーム・インシュアランス・ビル」(85)などで耐火被覆を持った鉄骨構造を用いた。サリヴァンはその代表作である「オーディトーリアム・ビル」(89)のファサードにおいて何層かごとに異なる表現を与えた。
西洋近現代建築作品
キンベル美術館
キンベル美術館▼-びじゅつかん▼Kimbell Art Museum▼アメリカ、テキサス州フォートワースの広大な公園の一画に建つ、古代と19世紀美術のための小美術館。設計者は、ルイス・カーン。1966年、アートコレクターであったキンベル氏の遺志により、同年10月、設計契約がかわされた。69年10月の建設開始までに細かくは8度の設計変更がなされ、現在のものは第9案にあたる。72年10月完成。ここでのカーンのテーマは光の扱いであり、それは彼の最晩年の思惟である「沈黙と光」と密接な関連がある。サイクロイドヴォールトの天井の上部のスリットから、アルミのルーバーを通して美術館全体に自然光が取り入れられ、内部にはそれぞれ、ブルー、イエロー、グリーンと名付けられたコート(中庭)が設けられており、差し込む光によってそれぞれ異なった雰囲気をかもし出している。カーンの代表作として世界的な評価を受けている。
クライスラービル
クライスラービル▼Chrysler Building▼1930完成。ニューヨーク。ウィリアム・ヴァン・アレン設計。古典主義とモダニズムの間に生まれた形式アール・デコ・スカイスクレーパーの代表的なビル。元来、自動車会社クライスラーの自社ビルとして設計されたものでそのデザインは宣伝的。外壁の一部にステンレスが用いられており、自動車を連想させるレリーフが外壁に配列されている。当時、マンハッタンを舞台に争われていた「世界一の高さ競争」のさなかに建設され、物理的だけでなく感覚的にも高さによる表現を明確にするため、先細りにセットバックし、頂部に鋭角的な尖塔がつけ加えられた形態が特徴となっている。
ノートルダム・デュ・ランシー教会
ノートルダム・デュ・ランシー教会▼Notre Dame du Raincy▼1923年完成。フランス。オーギュスト・ペレの設計。その処女作であり、最高傑作の一つに挙げられる。色ガラスで四周を囲まれた内部空間の荘厳さは、ゴシック建築に通ずるものがある。ペレは鉄筋コンクリートを積極的に建築に採り入れたことで知られるが、ここでも直径43cm、高さ11mの鉄筋コンクリートの円柱28本のみで支持する構法をとり、近代的な素材を如何に高貴にみせるかということに苦心している。この教会が創建当初から「鉄筋コンクリートのサント・シャペル」と呼ばれたことはよく知られている。
IITキャンパス計画,クラウンホール
IITキャンパス計画,クラウンホール▼Master Plan for the Illinois Institute of Technology , Crown Hall▼-けいかく,-.▼1939年~58年。イリノイ州シカゴ。当時の建築学科の教授であったミース・ファン・デル・ローエが設計を担当。彼は敷地全体を24フィート(7.3m)のグリッドに載せる手法を用いた。「クラウンホール」(58)「鉱物金属研究棟」(43)、「アルミニメモリアルホール」(46)、「礼拝堂」(52)、「コモンズビルディング」(53)などの他、全部で22棟を手掛けた。中でも、クラウンホールの柱をガラス面の外部に配し、屋根を大トラスによって釣り下げるなどの工夫によって得られた大空間は、彼のいう均質で方向性の無い空間を実現したものとなった。
ポートランドビル
ポートランドビル▼Portland building▼アメリカ、オレゴン州のポートランド市役所の別棟。1982年完成。1979年から80年にかけてのコンペで一等入選したマイケル・グレイヴス設計。ポスト・モダニズムの作品の代表例。立面は、基壇、中間部、頭頂部という古典的な三分割によって構成され、基壇部には店舗、中間部には市の業務施設、頭頂部にはレンタルオフィスが充てられ、形態と機能がそれぞれ対応している。正面の一対のピラスターが象徴的。グレイヴスは、この建築において近代主義によって失われた象徴的な意味の復権を意図している。
AT&Tビル▼AT&T Building▼ニューヨーク、マディソンアヴェニュー。オフィスビル。1984年完成。フィリップ・ジョンソン設計。全体は、ルネッサンス様式の基壇部分と垂直線の強調されたゴシック風のファサードを持つ中間部、そして切妻風のペディメントを備えた頂部の三つの部分からなる。ペディメントの頂部に円形の切れ目が入っており、全体を特徴づける。近代建築をリードしてきたフィリップ・ジョンソンが古典様式への回帰を示したとして大きな反響を呼んだ。建築のポスト・モダンの時代を象徴し、それを代表する作品とされる。