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2025年10月30日木曜日

クスコ:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日

 アヴィラ:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日


L22インカ帝国の聖都

クスコCuzco,クスコ県、ペルー共和国República del Perú

 

 

 

 

 


先スペイン期あるいは先コロンビア期の最後にアンデスを統治したのがインカである。インカは,もともとクスコ(ケチュア語でQusqu'Qosqo周辺を拠点とする集団で,12世紀頃部族として成立,クスコに小規模の都市国家(クスコ王国)を築いたとされる。インカは,ケチュア語でインティ(太陽)の子という意味で,王の名称である。

 ケチュア族自らはタワンティンスーユTawantin Suyu, Tahuantinsuyoと呼んだ。「タワンティン」は「4,「スーユ」とは,,地方,クニ(国)を意味する4つの「スーユ」とは,クスコの北,チムー王国領やエクアドルを含む北海岸地方のチンチャ・スーユ Chinchasuyu(北西),クスコの南,ティティカカ湖周辺,ボリビア,チリ,アルゼンチンの一部を含むコジャ・スーユ Collasuyu (南東),クスコの東,アマゾン川へ向かって下るアンデス山脈東側斜面のアンティ・スーユAntisuyu(北東),クスコの西側へ広がる太平洋岸までの地域のクンティ・スーユ Contisuyu(南西)の4つを指す。

スペイン人は,占領の過程でクスコを徹底して破壊したとされる。しかし,ハトゥン・ルミヨック通りやロレト通りなど,剃刀の刃も通さないと言われるインカ時代の石壁は現在もそここに存在しており,かつての街区割りを復元できる(図1)。

クスコの平面形態について,しばしばプーマの形をしていると指摘される。北西のサクサイワマンSacsayhuamanの丘がプ-マの頭,2つの川が合流するプマチュパンPumachupan地区が尻尾で,中心広場ハウカイパタHuacaypataが腹部にあたる。

古代アンデスでは,猫科のプーマあるいはジャガーは聖獣とみなされ,神として,権力と支配のシンボルとして崇拝されてきており興味深いが,予めプーマの形を前提にして設計がなされたという確証があるわけではない。

このプーマ説の当否はともかく,クスコがインカの人々の一定のコスモロジーに基づいて計画されていたことははっきりしている。クスコ,タワンティンスーユ全土を縮小するミニチュアと見立てられ,アナンHanan(上)クスコとウリンUrin(下)クスコ2つに,そしてさらに4つの地区に,チンチャ・スーユ(北西),アンティ・スーユ(北東),コンティ・スーユ(南西),コラ・スーユ(南東)に分けられるのである。フワカイパタを中心に,,そして高官など身分の高いものが居住し,それぞれの地区にはそれぞれのスーユ(地方)の出身者が住んだ。素朴には,クスコは,フワカイパタという世俗的王権の中心,コリカンチャは宗教的中心という2つの中心をもつと理解できる。

ピサロはクスコ市設立を宣言すると,兵士たちおよび入植者たちのための街区を計画するが,クスコの市街地全体を大きくグリッド街区に改変することはしていない。教会あるいは修道院といった象徴的な建物は中心広場ハウカイパタ周辺に建設された。カテドラルが建設されたのはかつてインカの宮殿ヴィラコチャViracochaの場所である。ハウカイパタは 3つに分割された。一番大きいプラサ・マヨールはほぼ300ヴァラ四方である。

ピサロはリマを首都とするが,クスコは聖なる都市として,スペイン人とインカ人の統合の象徴であり続ける。しかし,クスコはインディオの襲撃を度々受け,また内戦が続いたために,さらに飲料水の問題があって,16世紀半ば頃は数百人のスペイン人が居住していたにすぎない。クスコが安定的に発展するようになるのは,フランシスコ・デ・トレドが着任して,インカ帝国を完全に滅亡させて以降である。リマの外港であったカジャオとポトシ銀山を結ぶ中継地となって以降である。1556年に,実に整然としたグリッド・パターンの都市として描かれたクスコの都市図が残されている(図2)。

17世紀初めにクスコ11の教区に分かれていたが,そのうちの8つはインディオの教区であり,人口は2万人に達しており,インディオはスペイン人の4倍であったと推計されている。1643年の地図が残されているが,市の北西の教区(サン・ペドロとサンタ・アナ)には草葺きのインディオの住居が建ち並んでおり,入植後100年を経てもインディオの町の雰囲気が維持されていたことがわかる(図3)。

クスコは,メキシコ・シティのように先住民の土着の都市を破壊せず,改造利用するかたちのスペイン植民都市のユニークな1類型である。

現在は人口約30万人の県都として、その歴史的景観を維持してきている(図4)。クスコ市街は、1983年、世界文化遺産に登録されている。

 

【参考文献】

『ペデロ・ピサロ・オカンポ・アリア-ガ ペル-王国史』大時代航海叢書第Ⅱ期16(岩波書店,1984年)

シエサ・デ・レオンCieza de Leon『インカ帝国史El Senorio de los Incas』(大時代航海叢書第Ⅱ期15,岩波書店,1979年)

ホセ・デ・アコスタJose de Acista『新大陸の自然文化史Historia natural moral de las Indias

ベルナベ・コベBernabe Cobo『新大陸の歴史Historia del Nuevo Mundo







2025年10月29日水曜日

アヴィラ:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日

アヴィラ:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日



 【アヴィラ】時を超えた城壁の都市

スペイン,カスティーリャ・イ・レオン州


  マドリードの西北西約90kmに位置するアヴラは、「城壁と聖人の町」として知られる(図1)。その起源は,スペインの先住民であるイベロ人とケルト人が混血したケルティベロの時代に遡り、紀元前500年頃の石像が発見されており、ヴェトン族が定住していたと考えられている。ギリシャ神話の英雄ヘラクレスによって建設されたという伝承をもつ。その名は、「イベロ人の土地」に由来するというが、ローマ帝国時代に「白い小部屋(Alba cella)」と呼ばれていたワインセラーの名が転訛したという説もある。

 プトレマイオスがその地理書に記すアブラAbulaAbla)がその起源と考えられ、ヒスパニアで最初にキリスト教化された都市である。ローマの植民都市となってアビラAbila(Abela)と呼ばれるが、典型的なローマ・クアドラータ(正方形のローマ)である。すなわち、カルドとデクマヌスという南北、東西の大通りが中央で交差し、中心にフォーラムが置かれる形態をしていたことは、現在も残されているローマ時代の城壁、東門、南門の遺構からうかがうことができる(図2)。

 西ローマ帝国が崩壊すると、西ゴートの支配下に入るが、714年にイスラームに占拠されると、北方のキリスト教国によって繰り返し攻撃され、無人の地と化した。住民が再居住するのは、1088年にレコンキスタが完了して以降である。この時、城壁を再建した建築家としてカサンドロ・ロマーノとフローリン・・デ・ピトゥエンガの名が知られる。旧市街の範囲は東西約900m、南北約450m、高さ平均12m、厚さ約3mの城壁で囲まれており、城壁はローマ帝国時代に建造された石塀の跡に沿って建てられている

 以降、アヴィラはカソリック王の下で、羊毛業を中心に栄えた。スペインの黄金時代、カルロスⅤ世とフェリペⅡ世のもとで全盛期を迎えている。

 17世紀になると低迷し、人口は4000人にまで縮小する。19世紀に入って、鉄道が敷設され、マドリードとフランス国境の町がつながれるとやや持ち直し、歴史的建造物を残しながら今日に至る。アヴィラは,ヨーロッパでも最もよく中世の城壁を保存する都市の1 つである。「アヴィラ旧市街と市壁外の教会群」は1985年に世界文化遺産に登録されている。

 旧市街の東端東門に位置するカテドラルは、1107年に創建され、その後増改築が行われてきたものである。創建当初のマスタービルダーとしてフランス人G.フルチェルの名前が知られる。東側のアプスは市壁の一部をなしている。翼廊は1350年の建設である。初期ルネッサンスの部分は、赤白の石灰岩でつくられ、ゴシック期の部分は白岩でつくられている。

 旧市街の東北市壁外に位置するサン・ヴィセンテ・バジリカは12世紀から14世紀にかけて建設されたものである4世紀に聖ヴィセンテとその姉妹が殉教したとされる場所に建てられており、イスラームの進出後は荒廃していたが、町を奪回したアルフォンソⅥ世によって再建されたものである。同じくG.フルチェルのデザインとされるが、基本的にはラテン十字のバジリカ様式を踏襲するものである。

サン・ホセ修道院は、1562年に建設された最初の修道院であるが、中心となるのは1607年に建築家フランシスコ・デ・モラ(15531610)によって設計された教会である。

サン・ペドロ教会は、市壁外に1100年に建てられたもので、サン・ヴィセンテに類似するラテン十字の教会である。他にサン・トマス、サン・セグンドなどロマネスク様式の教会が登録リストに挙げられている。

旧ローマ時代のフォーラムがあったプラザデルメルカドチコが市の中心である。市庁舎とサン・フアン教会がその中心に面している。近くに現在は美術館として用いられるドン・ディエゴ・デル・アギラの宮殿(ポレンティノス宮殿)がある(図4)。13世紀以降、時代ごとに手を加えられてきた4 つの住居で構成され それぞれ16 世紀から18世紀にかけて建設された邸宅、中庭式住宅である。すなわち、都市住居の基本は、スペインの他の都市同様、パティオ住宅である。

                                                                      (山口ジロ・布野修司)


参考文献

 志風恭子「アビラ旧市街と市壁外の教会」『スペイン文化事典』収録(丸善, 20111月)

増田義郎「地理」『スペイン』収録(増田義郎監修, , 新潮社, 19922月)

渡部哲郎「アビラ」『スペイン・ポルトガルを知る事典』収録(平凡社, 200110, 新訂増補)









 

 

 

2025年10月28日火曜日

インド洋大津波 スリランカで遭遇記 2004年12月26日

 二〇〇四年一二月一九日 コロンボ

東西の交流刻む土地の名はスレイブランドにシナモンガーデン

二〇〇四年一二月二十日 コロンボージャフナ

インド洋遥かに円い地平線くっきり浮かぶ(スリ)()()()

降り立つと見渡す限りの草の原検問ばかりのまるで戦場

ココヤシの樹々の間に点々と民家が見える焼け落ちた屋根

にぎやかな通りの中にエアポケット迷彩服が抱える銃

在りし日の栄華を偲ぶ城塞が近代兵器に見るも無惨

荒れ果てて草むす古城に兵士の影戦い続ける人の定めか

美しき海岸線を遠ざける鉄条網の棘や悲しき

ジャフナ城地雷注意の立て札に古の思い後ずさりする

整然と区画割られた旧市街無数の弾痕廃屋の壁

二〇〇四年一二月二一日 マンナール

一本のビール取り持つ縁かな軍事施設も平気で入る

君知るや自ずと滲む我が臭い見知らぬ人が酒場へ誘う

まれびとを鋭く捉える悲しい眼一期一会を飲んで語らん

二〇〇四年一二月二二日 アヌラーダプラ

耳慣れぬ鳥の囀り木霊する植民住居の庭の深さよ

傘竿を空に突き刺す大覆鉢仏の教え今も変わらず

樹々の間に岩の連なり息を飲むここに棲みしか穴を穿ちて

時を超え生きながらえるボーディー・ツリー祈りを捧ぐ信者は絶えず

森の中ひっそり眠る精舎址深い思索に思いを馳せる

久々に蚊に襲われて思い出す熱く楽しい調査三昧

二〇〇四年一二月二三日 アヌラーダプラーコロンボ

スリランカ 二〇〇四年一二月一八日―二九日

 

 

マヒンドラティッサと問答山の上見下ろす先に大覆鉢

シーギリア天上の館何故につぶやきながら階段登る

ダンブッラ何故おわす仏たち窮屈すぎはしませんか

シーギリア比丘尼の姿はトップレス誰に見せんとこの崖の上

天上の館が仮にありとせばああそはここかああシーギリア

ナーランダヒンドゥー仏教ナーランダ二つの神々親戚同士

キャンディーの王につかまり二十年数奇の体験歴史に残る

二〇〇四年一二月二四日 コロンボーゴール

由緒あるコロニアルホテルで式挙げる新郎新婦の晴れがましき顔

道問えば笑って答える子どもたちトライリンガルアンビリーバブル

たそがれに紳士淑女が群れ集うゴールフェイスに夕日が沈む

シンプルに自然にデザイン力まずに心豊かなジェフリーバウア

列柱と椰子の林のその向こう見通す海はああインド洋

荒波がゴールロードにふりそそぐ船乗り運ぶ南西モンスーン

二〇〇四年一二月二五日 ゴール

ゴール・フォート二本のマストが海に浮くライトハウスにクロックタワー

着飾った西洋人が群れ集うクリスマス・イブのニュー・オリエンタル

あれはゴムブトゥル・ナッツにビンロウ樹お茶の畑にココナツ林

二〇〇四年一二月二六日 ゴール 大津波

突然に水が溢れる晴天にこれが津波と知る由も無し

高波が襲ったという人の声あるわけないよこの晴天に

城壁に人が連なり海を見る氷のように一言も無し

道端に座り込んでる母子の眼宙を彷徨い震えるのみ

一瞬に召された命数知れずああ大津波神のみが知る

口々に逃げろと叫ぶ声空し迫り来る二波後ろに気づかず

大津波バスを転がし押し流すビルに突っ込みようやく止まる

気がつけばクリケット場に舟浮かぶフェンス破ってバスもろともに

大車横転後転繰り返す押し流されて皆スクラップ

シュルシュルと獲物を狙う蛇のよう運河を登る津波の早さよ

気がつくと昨日撮った橋がない津波に飲まれ跡形も無し

海岸線全てズタズタ引き裂かれ大型バスが山道塞ぐ

救急車サイレン鳴らし向かい来る命を思って皆道を空ける






二〇〇四年一二月二七日 コロンボ 大津波

転がった列車の中から幼児が生還名前名乗るも住所を知らず

 

二〇〇四年一二月二七日 コロンボ空港

怪我人でごった返しの飛行場痛々しげにその時を語る

パスポート荷物もろとも流されて出国できない空港ロビー

傷ついて緊急帰国安堵の顔全員揃ってチケット獲れて

 

 

 

2025年10月27日月曜日

ハバナ:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日

ハバナ:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日



 ハバナ―スペイン植民都市の原像

ハバナは初期スペイン植民都市の代表であり、サント・ドミンゴ(ドミニカ共和国)とともに、インディアス法(『フェリペⅡ世の勅令』1573)に理念化されることになる都市計画以前に都市建設が行われた都市である。サント・ドミンゴにアウディエンシア(聴訴院)が設置された1511年以降、ディエゴ・コロン総督の命でディエゴ・ヴェラスケス・デ・クエリャルによってキューバへの入植が本格的開始される。ヴェラスケスに先立って、セバスチャン・デ・オカンポがキューバ沿岸部を全て探索し(1508)、良港となる湾としてカレナスとジャグアシエンフエゴスを発見している。このカレナスが今日のハバナとなっている。ヴェラスケスがキューバの6番目の拠点としてカレナスを築くのは1515年のことである(定礎815)。カレナスはメキシコ湾への入口に位置し、湾流に乗りやすいことからスペイン植民地の主要な港湾都市に成長していくことになる。

都市全体が描かれているものとして、形成過程の変化をわかりやすく示していると思われるものを図1に示す。最も古い地図は1567年に描かれたものである(1-1)。街区割りが示される最も古い地図は、1603年に描かれた図で、市の拡張と市壁計画を示している(1-2)。今日のハバナの骨格が示される図は1691年のものが最も古い(1-3)。歴史地の地図の中で最も新しいのは、1866年のもので、スペイン植民地期の都市拡張のほぼ全体を示している(1-4)


1515年に拠点建設の定礎がおこなわれた最初の場所は現在のギネスに近い島の南岸であった。最終的にパンフィロ・デ・ナルヴァエスにより,1519年現在の位置に移された。広場を中心に,南北街路・東西道路が計画される。初期には,破壊再建が繰り返されるが,街路は東西南北のグリッド状に形成されていく。サンティアゴ・デ・キューバに代わってキューバの首都となった(1553)ことで,ハバナは大きく発展していくことになる。北部は地盤が悪かったため,建設は当初南部に行われたが,16世紀後半に小さい橋が建設され,ハバナは北方へ拡大していく。1584年,南北街路・東西街路に囲まれるとコロニープラサ・ヌエヴァ(現プラサ・ヴィエハ)が建設された。この第2のプラサは,都市発展の次の核としてつくられたと考えられる。

1558年には,ハバナは,広場周辺の住居を撤去し,「新世界」で最初の本格的石造要塞建築であるレアル・フエルサ城塞を建設する。以降,広場はアルマス広場と呼ばれる。ハバナ17世紀に入って大きく拡張する。教会や病院などの公共施設も広場とともに建設されていった。アルマス広場,プラサ・ヴィエハに加え,1628年に船着き場として整備されたサン・フランシスコ広場,さらに1640年西側市壁付近にサント・クリスト教会と広場が建設された。多くの宗教施設や公共施設が,隣接するプラスエラと呼ばれる小広場とともにつくられた。インディアス法「フェリペⅡ世の勅令」1573)第118条に「市街地のところどころに小広場を設け,その広場に付随して教会を設置する」と規定するが,ハバナでも実施される。

ハバナ湾の入り口の警備を強化するため要塞が次々に建設されていく(図2)。まず、西岸にプンタ要塞(15891600、図中2),東岸にモロ要塞 (15891630、図中3)が建設された。さらにラ・チョレラ (1645、図中4)とサン・ラザロ (1665、図中5)も続いて建設された。そして,1674年に市壁建設が計画され,1740年に完成する。完成した市壁は,計画よりも広く,市壁の全長は約1700m,高さ10m9の砦,180の砲台を備え,城門は,建設当時は2つであった(1998)。18世紀半ばのハバナの人口は7万人以上であったと推測されている。カリブ海域の交易拠点として栄え,リマ,メキシコについでイベロアメリカ3の都市であった。シルベストレ・アバルカとペドロ・デ・メディナにより建設されたカバ-ニャ要塞 (17631774、図中8)は,「新世界」で最も大きいスペインの要塞である。西部には,造船所を防御するために,アタレス城塞(1767、図中7)、続いてプリンシペ要塞 (17671779,図中8)が建設された。東部には,サン・ディエゴ要塞(1770、図中6)が建設され,ハバナの防衛は次々に強化されていった。人口の増加とともに,市壁の外にも建物が建設され始める。1777年にカテドラルが完成し,前面にカテドラル広場が建設されている。1863年から1875年にかけて,市壁が壊され,市街地はさらに西へ拡大し,1859 年から1883 年にかけてラ・コレーラ城周辺が市街地化される。この時の計画図によると,新しく計画する道路は全て15m,新築の建物は間口12m以上,敷地面積の半分は庭もしくは中庭としており,これが都市計画規定となった(1865).ハバナ,スペイン植民地時代の最後(1889)頃の骨格を今日までとどめている。

街路体系における寸法の単位として、ヴァラ (0.848m)が用いられていたと考える。キューバ通りからビリェガス通り間は,ほぼ一定で,およそ90ヴァラである。初期に計画された街区より小さく計画されているが,街路幅を10ヴァラとみれば,80ヴァラが街区の単位になっていたのではないかと推測できる。

住居の基本要素として,通りに面するエントランスの空間(CM),一般の部屋(Cm),中庭(P),台所(K)があり、大きいスパンと小さなスパンが一般に区別される。奥行に応じて裏庭(TP)が設けられる。裏庭には,井戸,浴室,トイレが配置され、また中庭と裏庭の間の部屋が台所と食堂(C)が設けられる。中庭に接して半屋外のガレリア(G)が設けられる場合がある。二階建ての住居には,その上部にバルコニ-が設けられる。各室から中庭へのアプローチはガレリアを介する。街路に面する出入口としてザファン (Z)という部屋が配置される場合がある。ザファンは内部空間と外部空間を結ぶための主動線となる。2階建ての場合,クルヒア・マヨールに階段が設けられる場合と,ガレリアに階段が設けられる場合がある。また,集合住宅の場合には,ヴェスティブロ (V)と呼ばれる階段室が設けられる場合がある。以上のような基本要素に着目すると,図3のように住居類型を区別することができる。

A:原型=CMCm+K

B:基本型=A+ガレリア

C:標準型XB+ザフアン、(2階建て)

D:標準型YCCMCmが付加されて中庭型となるもの。ギャラリーは中庭の一面のみに設けられる。

E:標準型Z=中庭の周囲にギャラリーが設けられる。

F:集合住宅=専用の階段室ヴェスティブを持つものF1

Fについては、集合住宅として共用のザファンを持つものF2、や直階段で2階以上とつながるものF3に分類する事ができる。







2025年10月26日日曜日

シエンフエゴス:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日

シエンフエゴス:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日


L15 スペイン・グリッド植民都市の理念型

シエンフエゴスCienfuegos,シエンフエゴス州,キューバ Cuba


シエンフエゴスは,スペインの上陸当初から北海岸のハバナ湾と並ぶ良港として知られるハグア湾に面して立地する。18世紀初頭に港湾都市として北海岸に建設されたカルデナスが「北の真珠」呼ばれるのに対して,「ペルラ・デル・スルLa Perla del sur:南の真珠」と呼ばれ、カリブ海に面する。

シエンフエゴスへの入植は16世紀初頭から行われ、1512年には,ラス・カサスがハト・アリマオ近くに入植地を建設している。1738年に総督グエメス・イ・オルカシタスが湾の入口に小さな要塞を建設し,1742年に拡張している。1762年から1802年の間に,王立グアンタナモ委員会による開発計画がモポックスMopox侯爵によって行われ,ハグア湾の開発も候補に選ばれている。1798年に,その委員会のメンバーであったアナスタシオ・エチェヴァリアAnastasio Echevarriaが,シエンフエゴスの最初の計画図を描いている(図①)。 この最初の計画案で,注目すべきは,プラサ・マヨール2街区分とっていることである。これは今日まで引き継がれており,シエンフエゴスの特徴になっている。

 シエンフエゴスに関する18世紀末以降の都市計画図(図②)によると,およその都市発展過程を明らかにすることができる。1839年には市域の拡大が始まっている。さらに大きく市域が拡大し始めるのは19世紀末以降であり,順次4期(1879188219051914.)の計画案が立てられる。いずれも,100ヴァラ×100ヴァラの街区を基本としており,1820年当初の基本計画におけるシステムが一貫して用い続けられている。市域の拡張は,グリッドを延長する形で行われ,1839年に斜めに直行する道路が造られ,1879年にほぼ45度回転した街区が東北部に作られた(図③)。

1824年の最初のセンサスによると人口1283であった。1831年には公営の屠殺場と刑務所が建てられている。以後,街灯(1832),教会(1838),墓地(1839),劇場(1843),市立学校(1846)が順次建設された。鉄道がパルミラPalmira,まで敷かれたのは1851年のことであり,1860年にサンタ・クララまで延びている。人口センサス・データとして,13381861),3381899),31001907),372411919),52501931),529101943),579911953)という記録が残されている。1981年の人口は102791人である。

都市核の現況は(図④)、2街区分のプラサ・マヨールの東に教会,南に市議会と博物館,北に劇場と学校,西に文化センターと市場,というように公共施設が位置する。

キューバの植民都市の場合,長さを幅の1.5倍とするインディアス法の規定(112条)にもかかわらず,プラサ・マヨールは正方形とすることが多い。シエンフエゴスの場合も,上述のように,100ヴァラ×100ヴァラという単純均一なグリッドを用いているが,プラサ・マヨールを二街区分としている点,また公共施設をプラサ・マヨールの周辺に配置している点,インディアス法が前提とされていたことははっきりしている。建物の高さは平屋もしくは2階建てが基本で,モニュメンタルな建物でも現在も四層以下に押さえられている。かつての景観をよく残しているといっていい。

 シエンフエゴスは,キューバのスペイン植民都市のうち19世紀初頭に建設された都市の典型と言っていいが,以下のような特性をもつ。

 ①シエンフエゴスは,古くから南岸の良港として知られてきたが,本格的に都市建設が行われたのは,1819年のフランス人デ・クルーエの入植以降である。基本的に,100ヴァラ×100ヴァラを街区の単位として,街路幅も15ヴァラの単純なグリッド・システムが採用された。また,最初の都市モデルとしては5×525の街区が想定されていた。

 ②街区モデルとして,1000ヴァラ平方を単位とする10分割システムが採用されている。フランスのヴォーバンが採用した分割パターンで18世紀末以降他の地域でも見られる。

 ③市域の拡張は,グリッドを延長する形で行われ,1839年に斜めに直行する道路が造られ,1879年にほぼ45度回転した街区が東北部に作られた。

 ④発展をコントロールする都市計画法は,1856年に作られ,改定を繰り返すかたちで今日まで維持されている。

 ⑤街区分割,宅地分割は一貫して進行してきている。しかし,街区全体の影響を及ぼす合筆などは起こらず,大きな景観上の変化は少ない。

 ⑥宅地の細分化は角地において著しい。それに対して,他の宅地に挟まれる一面のみ接道する宅地は変化に対する抵抗力は強い。②の街区分割パターンは,④とも関連するが,比較的安定性が高いと考えられる。

 ⑦宅地の再分割のかたちとして新しく現れてきたのが共同住宅シウダデラスの形である。伝統的な中庭式住宅とともに密度が高まるとともに生み出されてきたのがシウダデラスである。

シエンフエゴスは、都市核としてグリッドが次々に延長されてきた。その歴史的中心地区は,19世紀初頭におけるスペイン植民都市計画の典型例として世界文化遺産に登録(2005)されている。

 

【参考文献】

シエンフエゴスを直接対象とする植民都市関連論文はない。本稿で用いる文献資料は,全て臨地調査において入手したものである。地図の大半と都市計画法(1856年)条文はシエンフエゴスの歴史博物館(MHCMuseo de Historia de Cienfuegos:館長:Iran  Millan氏)において入手したものである。

布野修司・ヒメネス・ベルデホ,ホアン・ラモン2013)『グリッド都市-スペイン植民都市の起源,形成,変容,転生,京都大学学術出版会






 

 


布野修司 履歴 2025年1月1日

布野修司 20241101 履歴   住所 東京都小平市上水本町 6 ー 5 - 7 ー 103 本籍 島根県松江市東朝日町 236 ー 14   1949 年 8 月 10 日    島根県出雲市知井宮生まれ   学歴 196...