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2021年4月30日金曜日

中部スラウェシ地震復興と文化遺産 JCIC-Heritage 文化遺産国際協力コンソーシアム 国際協力調査(インドネシア)


JCIC-Heritage 
文化遺産国際協力コンソーシアム 
国際協力調査(インドネシア) 2020.0118-26 中部スラウェシ地震復興と文化遺産 報告書

国際協力調査(インドネシア) 2020.0118-26 報告

 

はじめに

 本報告書は,中部スラウェシ地震の復興と文化遺産に関して、以下を目的として行った現地調査および関係機関調査について報告し,文化遺産をよりコミュニティに根差した存在にしていくためにどういった国際協力があり得るか,その新しい可能性国際協力の可能性について、考察するものである。

 「インドネシア・スラウェシ島中部の都市パルは,2018年に発生した地震・津波により甚大な被害を受けた。同地は活断層上に位置することから,これまでも数十年おきに地震・津波に見舞われており,インフラや生活基盤の復旧とともに,より災害に強い社会を目指す復興計画が進められている。

わが国でも2011年に東日本大震災が発生し,沿岸部では津波が未曽有の被害をもたらした。被災地は過去にも津波による被害を受けていることから,災害の記憶を地域で継承し,教訓として今後の防災・減災に活かしていこうとする取り組みが続けられている。

この調査では,現地及び中央政府等へのヒヤリングを通して,地域の復興に文化遺産がどのような役割を果たし得るのか,またその際に,我が国がどのような国際協力を行えばより効果的であるかを考察する。

特に,東日本大震災後の経験を他国に共有し,文化遺産としての震災遺構の取り扱いについて考えることで,地域を災害から守るための文化遺産の役割について。さらには調査全体を通して,文化遺産をよりコミュニティに根差した存在にしていくためにどういった国際協力があり得るか,その新しい可能性を探りたい。

調査目的

1.      現地の被害・復興における課題等を把握する。

2.      地域の復興に文化遺産がどのように貢献できるか考察する。

3.      災害の記憶の継承に文化遺産が果たす役割について考察する。

4.      被災地における文化遺産とコミュニティとの関係について考察する。」

調査メンバー

 布野修司(文化遺産国際協力コンソーシアム 東南アジア・南アジア分科会長/日本大学生産工学部建築工学科 特任教授) 

・田代亜紀子(文化遺産国際協力コンソーシアム 東南アジア・南アジア分科会委員 /北海道大学大学院メディア・コミュニケーション研究院 准教授)

 ・久保田裕道(東京文化財研究所 無形文化遺産部 無形民俗文化財研究室長)

・斎藤里香(東日本大震災津波伝承館いわて TSUNAMIメモリアル 学芸員)

・松保小夜子(文化遺産国際協力コンソーシアム アソシエイトフェロー)

 調査協力

 荒 仁 国際協力機構JICA 平和構築部  古市久士 国際協力機構JICA パル事務所  沼沢うらら 通訳家・翻訳家






 Ⅰ 中部スラウェシ地震の概要

 

20189281702分,インドネシア共和国中部スラウェシ州の州都パル市の北方80km,深さ10Kmを震源とするM7.5の地震が発生した(図Ⅰ0)。同震災(以下,中部スラウェシ大地震)によって,沿岸部への津波の影響,内陸部の液状化に起因する地滑り,パル渓谷沿いの土石流によって,パル市,ドンガラ県,シギ県中心に甚大な被害が生じた。発災1年後の段階で確認されたのは(公式発表),死者2101人,行方不明者1373人,負傷者4438人,避難者221450人,被害地区122箇所,損傷住宅68451戸,損傷店舗362,損傷モスク327,損傷橋梁7,損傷ホテル5,損傷学校265,損傷事務所78である(201910月現在。図Ⅰ0②③)

図Ⅰ0① パル市およびシギ県,ドンガラ県の位置 

 

図Ⅰ0② 被害状況 Sumedi Andono Mulyo(2019) 荒仁(2019) インドネシア国『中部スラウェシ州復興計画策定及び実施支援プロジェクト』プロジェクト資料

被災地域は,沿岸部,内陸液状化地滑り地区,パル川沿い渓谷農村部に分けられる。



 1① 津波被害地区 


1.沿岸部 津波被害

 沿岸部において,津波高さは約5mで,侵水域は深くはなく,被害地はパル湾沿岸に沿って,幅10mから数10m程度で広がる。河口部の橋が破壊された他,市の文化的催しが行われる文化センター地区,湾を眺望する2つのホテル,観光客を呼んでいた海上モスク,塩田など大きな被害が出ている。また,地盤沈下が起こって,墓地が海中に沈んだ箇所もある。ドンガラ県北部の造船所も被害を受けている(図Ⅰ1①)。

パル市北部沿岸部は,パル川西岸のパル王国の王宮,王墓なども位置した歴史的地区であるが,王宮には被害がなかったものの,幅数十メートルにわたって大きな被害を受けている。


 文化センターは,近年建設され,500席のオーディトリアムをもつ,市の文化的催しの中心施設として期待されていた施設である。発災当日も市制40周年を祝う,また,毎年持ち回りで行われるインドネシア各地の王家が集まる集いが開かれていた施設である(図Ⅰ1②)。周辺施設も大きなダメージを受けており,再開の目途はたっていない。隣接するホテルも閉鎖されたままである。




沿岸部は,文化センターに近接して,夕涼みに訪れる市民のための公園が続いており,レストランや店舗,屋台などが流された。また,多くの漁船が失われた(図Ⅰ1③)。湾上に浮かぶモスクが観光客を集めていたが,このモスクは傾いたままとなっている。また,近接するモスクのミナレットも傾いたままである(図Ⅰ1④)。パル川東岸には塩田があるが,これも大きな被害を受けており,再建中である。




図Ⅰ1③ 被災した沿岸部の現況(2020年1月) 援助によって再建された漁船が並ぶ沿岸部。撮影 布野修司 2020120

沿岸部近くの海底は沈下し,北東部沿岸には水没した歴史的な墓地がある。沿岸北東部はやや高台になっており,津波被害を受けたのは幅10mほどの区域である。発災によって多くの船舶が打ち上げられたが,現在はドンガラ港付近に一艘残されている。




 図Ⅰ1④ 被災を象徴的に示す建造物など 撮影 布野修司 2020120

 


図 







2.内陸部 液状化地滑り被害 

内陸部の液状化地滑りは,地域の代表的民族であるカイリKaili族はナロドNalodoと呼んでおり,これまでも地元では知られてきた、という。20世紀に入ってからも,1907年,1909年,1938年,1939年,1968年,1996年そして2018年にナロドNalodoに見舞われている。全体が扇状地として形成されており,様々な場所で地滑り,断層のずれが確認されるが,特に大規模なのは,バラロアBalaroa,ペトボPetobo,ジョノ・オゲJono Oge3地区である。ペトボ地区は,幅1km,距離2kmにも及ぶ地滑り起こしている(図Ⅰ2①②)。今回の液状化地滑りは,世界に類例を見ないものとされる。

図Ⅰ2② Nalodo大規模発生地区 JICA Study Team2019


 バラロア地区は,パル川左岸,西部地区に位置するが,被災面積は他と比べて小さいが,密集市街地であり被災住戸は930戸と多い。もともとの集落があった高台は液状化を免れており,液状化による地滑りを起こしたのは扇状地上に形成された新たな住宅地である。225m(①),375m(②),250m(③)移動した事例が確認されている(図Ⅰ2③)。もともとの集落は高台にあり,被災した地域は,扇状地の下方に新たに造成された住宅地である(図Ⅰ2④)。




バラロア 地滑り開始地点 右(西)は旧村落  バラロア 地滑り開始地点 右(東)へ地滑り

ペトボ地区は,パル川右岸東部地区に位置し,幅約1kmが約2kmにわたって地滑りした最大規模の被災地で1.63㎢ある。ここで1255戸の住宅が失われた(図Ⅰ2⑤)。


 ジョノ・オゲ地区は,同じくパル川右岸,ペトボ地区の南に位置するが,1,75㎢,238戸が失われた図Ⅰ2⑥)。さらに,20戸が被災したシバラヤSibalaya地区(0.5㎢)の他,パル市内でも10m30m規模で液状化地滑りを起こした地区がある。

発生のメカニズムについては,①地表面液状化理論と②地盤流の水膜理論が考えられるが,a地下水レヴェルが浅く,b傾斜地面,c閉鎖帯水層d積層された軟弱砂層,e低透過性キャップ層が存在していることが指摘されている。

パル川に沿って南北に走る活断層がずれて地震が起こると,それとともに液状化が発生(2),さらに土砂崩れが起こった(3)。閉じ込められていた帯水層から水が噴出,液状化がさらに継続され(4),長距離の地滑りが起こったと考えられている。

発生のメカニズムについては,①地表面液状化理論と②地盤流の水膜理論が考えられるが,a地下水レヴェルが浅く,b傾斜地面,c閉鎖帯水層d積層された軟弱砂層,e低透過性キャップ層が存在していることが指摘されている。




  地表面液状化理論                地盤流の水膜理論

図Ⅰ2⑦  Nalodo発生のメカニズム JICA Study Team2019

 

パル川に沿って南北に走る活断層がずれて地震が起こると,それとともに液状化が発生(2),さらに土砂崩れが起こった(3)。閉じ込められていた帯水層から水が噴出,液状化がさらに継続され(4),長距離の地滑りが起こったと考えられている(図Ⅰ2)

3.山間部 土石流被害


図Ⅰ3① パル渓谷 地形図 JICA Study Team2019

     



 パル市の南に接するシギ県は,パル川に沿うパル峡谷を行政区域とするが,パル川に沿って,点々と液状化,土石流が起こり,道路そして灌漑用水路が分断された(図Ⅰ3①)。176村落の内160村が被害を受け,死者453人,損壊住宅30236戸にのぼる。灌漑用水路などインフラストラクチャーの82%が被災し,農業生産に大きな支障をきたしている。また,中小企業300256の協同組合のうち33が影響を受けた。

  パル市から南へ直線距離で約70km,シギ県クチャマタン・クラウィKulawiは,平屋の小学校が全半壊するなど山間部でも大きな被害を受けた。発災から2週間孤立し,2週間後にヘリコプターで救援物資を受け取ったという。一般的に伝統的住宅に被害は少なく,伝統的構法に従って近年建築した村の集会所ロボloboには被害がなかった。 

4.建造物被害


表Ⅰ4① JICA資料

表Ⅰ4② JICA資料

表Ⅰ4③ JICA資料

 被災地域はおよそ図Ⅰ③に、被害建造物の概数は図Ⅰ②に示されるが,公共建築についてやや詳しく見ると、表Ⅰ4①②③に示される(図Ⅰ4)。ドンガラ県のデータはないが、学校建築(小学校SD、中学校SMP)については、パル市とシギ県合わせて、全424校のうち、113校が全壊、160校が損傷している(表Ⅰ4①)。シギ県の山間部クチャマタン・クラウィの小学校についてみたが(図Ⅰ3③)、震源部から相当距離離れた地域でも鉄筋コンクリート造で建てられており、全壊被害がある。建築の耐震性に問題があったことがはっきりしている。公共建築については、重度の損傷(政府関係12、村事務所3、加工場1、健康センター2、地域健康センター12)が20施設にあった(表Ⅰ4)。全130施設の15.4%である。全体の8割近く101施設に何らかの損傷があり、特に政府関係施設30のうち12施設、4割に重度の損傷があることは、耐震基準に問題があることを示している(表Ⅰ4②)。全壊した建築には、パル市立病院ANUTAPURA、パル市消防署、空港管制塔、アパート1棟である(表Ⅰ4③)。

 民間建物について、大きな被害は,パル川河口の両側部分に集中してみられるが,市街地に点々と損傷建物が発生している。およそ,平屋の被害は少なく,2回以上のRC造の建物の被害が大きいことが指摘される。また,地区によって小規模の液状化地滑りが起こっており,被害建造物がモザイク的に見られることが指摘される。

 指摘されるのは、被害を受けた建物のなかにプロトタイプ(標準設計された建築類型)があることである。これは公共建築に限らず、マンションやガソリンスタンドなどもそうである。この標準設計によって建設された建造物、すなわち、同じ設計の建物は、地震リスクゾーニングに関係なくインドネシア全地域に建設されている。

パル市の場合、地震リスクゾーニングマップの最も重要なエリアに分類され、パル市のスペクトル加速度(SA)は、期間(T )約0.2秒から1.0秒でジャカルタ北部地域の値のほぼ2倍である。 耐震基準についてより配慮が必要であったと考えられる。


 

 Ⅱ 中部スラウェシ地震の復興計画と復興状況

1.復旧・復興の体制・枠組

中部スラウェシ地震の復旧復興は,インドネシア中央政府―中部スラウェシ州―パル市・シギ県・ドンガラ県など地方自治体の連携のもとに行われつつある。インドネシア政府による復旧・復興は,国家開発企画庁BAPPENASおよび公共事業・国民住宅省PUPRが中心となっている。復興計画は,日本のJICAをはじめとする国際機関による支援のもとに立案され,大きく,①災害リスクの評価及びハザードマップの作成(Task Force1),②災害リスクに基づく空間計画の策定(Task Force2),③インフラ・公共施設の強靭化の促進(Task Force3),④生計回復,コミュニティ再生の実現(Task Force4)からなる。

発災直後は,国家防衛庁BNPBを中心に捜索救助活動が行われたが,日本政府は,ジャカルタおよびカリマンタンのバリクパパンから救援物資をパルへ輸送する支援を行っている。そして,国家開発企画庁BAPPENASは,現地調査をもとに復興基本計画(Dokumen Rencana Induk Pembangunan Kembali Wilayah Terdampak)を早急に完成させるために,日本政府に協力を依頼,正式要請が2018111日に行う。それを受けて,JICAはインドネシアに調査団を派遣,復旧・復興支援計画に関わる情報を収集するとともに,国家開発企画庁BAPPENASをはじめとする関係機関と復興計画に関する協議を実施する(201812月)。この協議において,日本政府は,第三回国連防災世界会議(仙台市,20153月)で採択された「仙台防災枠組2015-30」(20154月)及び日本政府が公表した「仙台防災協力イニシアティブ」をもとに,災害の発生後の復興段階において,次の災害発生に備え,よりレジリエントな地域づくりを行うというBBBBuild Back Better)コンセプトを紹介,理解を得ている。また,日本政府は,被災地のインフラ・コミュニティの復興支援が,SDG11「包摂的,安全,強靭で,持続可能な都市と人間居住の構築」に資するものと位置づけている。

インドネシアは,インド洋大津波(200412月)の復旧・復興の過程で,様々な国,団体等の支援調整に混乱した経験を踏まえ,復興基本計画の立案については日本政府のみに依頼を行った。日本以外では,世界銀行WBおよびアジア開発銀行ADBがそれぞれ10USDの支援を表明,受け入れられている。それぞれの担当も,カタール・チャリティを加えて,調整されている。

図Ⅱ1① 支援国・団体等の担当地域 Sumedi Andono Mulyo(2019)


 JICAが担当するのは,パル市における防潮堤・道路建設,環状道路建設,橋梁の修復,建設,農業灌漑システムの改善,河川改修,病院再建,シギ県における道路再建,農業灌漑システムの改善,沈下防止,パリモ県における橋梁改修である。世界銀行は,パル市とシギ県で恒久住宅の建設を担当する。アジア開発銀行は,パル市における空港再建,港湾再建,上水設備復旧,恒久住宅建設,国立イスラーム研究所再建,ドンガラ県における浄水施設復旧,シギ県における上水設備復旧,恒久住宅建設,国立イスラーム研究所再建,海外施設復旧,ダム建設を行う。カタール・チャリティは,パル市における病院再建,シギ県における恒久住宅供給,病院,モスク,学校,診療所建設である(図Ⅱ1①)。

 インドネシアにおける復興計画の実施体制,その実施体制におけるJICAの位置づけは図Ⅱ1②のようである。



図Ⅱ1② インドネシアの復旧・復興実施体制 荒仁(2019)インドネシア国『中部スラウェシ州復興計画策定及び実施支援プロジェクト』プロジェクト資料

 

2.復興計画の実施状況 

A 災害リスクの評価及びハザードマップの作成(Task Force 1

 復興計画の前提として,各地区の災害リスクの評価が不可欠である。


図Ⅱ2① ハザードマップと掲示版 Sumedi Andono Mulyo(2019)


 Nalodo(液状化地滑り)の発生については,上述のように,a地下水レヴェル,b傾斜地面,c閉鎖帯水層,d軟弱砂層,e低透過性キャップ層が関係していることが明らかとなった。そこで,a~dの状態を考慮して,各地区の災害リスク(危険度)を判断することが考えられる。しかし,それぞれ調査した上でハザードマップを作製するには時間もコストもかかることから,JICAは,今回の被災状況をもとに,各地区の災害リスクを4段階に設定,ハザードマップを作成した。大きくは,人的被害に関わる50m以上の地滑りが起こるレヴェル4(レッド・ゾーン),150mの地滑りが予想されるレヴェル3(オレンジ・ゾーン),液状化が予想され,地下水レヴェルが浅いレヴェル2(イエロー・ゾーン)である。

ただ,土地の権利が関係することから,所有者との合意形成が不可欠である。JICA作成のハザードマップに自治体の意向を加味したものが現在公表されているもので,既に各所に掲示されている(図Ⅱ2①)。 

 

B 災害リスクに基づく空間計画の策定(Task Force 2

図Ⅱ2② マスタープラン 建築制限ゾーニング Sumedi Andono Mulyo(2019)



 そして,このハザードマップをもとにマスタープランのゾーニングが決定され既に告知されている(図Ⅱ2②)。

レヴェル4は,建築禁止地区(ZRB4)とされ,建築の再建,新築は禁止され,住民は移住を義務づけられる。緑地,保全地区,記念地区として利用する。

レヴェル3は,建築限定地区(ZRB3)とされ,新築住宅,新設公共住宅は禁止され,住宅の再建については一定の基準を充たしたもののみ許可される。非建設地区,液状化,地滑りの危険が高い地区については,保護地区あるいは農地として利用する。

レヴェル2は,建築制限地区(ZRB2)とされ,新築については一定の耐震基準を充たすことが義務付けられる。津波あるいは洪水が予想される地区は,そのリスクへの対応(堤防など)を求められる。土地利用は低密度とする。

     

図Ⅱ2③ 建築制限地区における住宅再建 撮影 布野修司 2020120-21日 

移転,建築制限に伴う補償など合意形成には時間がかかるため,建築禁止地区あるいは建築限定地区でも許可なく建築がところどころで行われる状況にある(図Ⅱ2③)。

 

C インフラ・公共施設の強靭化の促進(Task Force 3

道路,灌漑水路,空港,港,上下水道,電気などのインフラストラクチャー,病院などの公共施設の復旧は急務であり,これまである程度実施されてきている。パル川の河口の橋は,実施設計も終了し,入札直前にある。また,医療施設の再建も決定されている。しかし,灌漑水路は,ようやく,1年余り過ぎて一水路が復旧された程度で,本格的な復旧は行われていない。土地利用が未定で,復旧自体が決定されていない地区もある。また,沿岸部にある文化センターなど再建の目途が全く立っていない施設も少なくない。

既に決定し,実施されつつあるのは,復旧・復興の体制枠組(Ⅱ1)で触れたように,以下である。

パル市

   アル・ジュフリAl Jufri空港(パル市)の修復・再建 アジア開発銀行ADB 修復完了

   防潮堤・湾岸道路の建設(パル市) JICA 計画協議中

   パル市環状道路新設 JICA

   パルⅡ橋,Ⅳ橋,ⅣA橋,ブルリBuluri橋建設 JICA

   タリセTalise1橋,2橋修復 JICA

   アヌタプラAnutapulaパル病院修復・再建 JICA+カタール・チャリティ

   国立イスラーム研究所改修 アジア開発銀行ADB

   パントロアン港改修 アジア開発銀行ADB

   パル市上水設備改修 アジア開発銀行ADB

   河川改修 JICA

   農業灌漑システム改修 JICA

シギ県

   カラワラ・クワリKalawara-Kuwali道路の再建 JICA

   農業灌漑システム改修 JICA

   地盤改良・液状化防止 JICA

   グンバサGumbasa地区 灌漑用水路再建 アジア開発銀行ADB JICA

   ウォノWuno地区水供給改善 ダム建設 アジア開発銀行ADB

   国立イスラーム研究所改修 アジア開発銀行ADB

   診療所建設 カタール・チャリティ

   小学校建設 カタール・チャリティ

ドンガラ県


D 仮設住宅 災害公営(再定住・恒久)住宅建設

 住宅再建は,発災直後から大きな課題であり続けている。仮設住宅は,必要な住宅数は用意されたが,未だテントの仮設住宅に居住する世帯もある。恒久住宅建設は100戸足らずが建設された段階で,これからという段階である。




         図Ⅱ2⑤ バラロアの仮設天幕住宅 撮影 布野修司 2020121


 インドネシアは,この間,スマトラ島沖地震(インド洋大津波)(200412月),ジャワ島中部地震(20065月),西スマトラ州パダン沖地震(20099月)など大地震に見舞われ,中部スラウェシ地震直前にもロンボク島地震(2018年7月,8月)に見舞われている。応急仮設住宅の建設については,一定の対応システムが構築されてきた。具体的に,仮設住宅は一戸当たり36㎡が供給されるのが原則とされている。インドネシアには,低所得者向けの住宅供給としてコアハウジングの伝統があり,基本的にはその方法が用いられる。コアハウジングとは,コアハウスと呼ばれる36㎡の一室住居+カマール・マンディ(バス・トイレ)(多くの場合骨組(スケルトン)のみ)を供給し,内装,増改築は居住者に委ねる供給方式である。ただ,その住宅形式,集合形式については,建設主体によって様々である。

中部スラウェシ地震の場合,仮設住宅は,各地に設置され,パル市では,大規模Nalodo(液状化地滑り)地区の近くに建設されている。仮設住宅の形態は,公共事業・国民住宅省PUPRによるものとシギ県によるもの,また,NGO,慈善団体(台湾の仏教慈善団体ツチTsu Chi)によるものによって,異なる。PUPRによる仮設住宅は,左右に6戸ずつ設け,中央にトイレ・バス,洗濯場,厨房を設けるユニークなものである。

パル市内で大規模な液状化地滑りが起こったバルロア地区には,液状化が起こった地点より高台に仮設住宅が建設されている。仮設住宅は,大きく分けて,天幕住宅と木造仮設住宅の2種に分けられ,様々な主体によって供給されている。14ヵ月経過した段階で多くが天幕住宅に居住しているが,限定されたヒヤリングで確かではないが,天幕住宅に居住するのは従前には借家住まいをしていた世帯である。天幕は,国連難民高等弁無化事務所UNHCRによるものが多いが,トルコのKIZILAYIなど国際的な支援団体によって供給されている。UNHCRによる天幕は,パル川沿いに山間部に点々と建設されている。




図Ⅱ2⑥ バラロアの木造住宅と共用施設(トイレ・クリニック・給水タンク) ブロック別居住者名簿 撮影 布野修司 2020121
木造仮設住宅は,一室住宅で,これもいくつかの主体によって供給されている。従前の町内会組織,RW,RT毎に入居者が選定されたわけではないが,従前のネットワークは維持されている。





図Ⅱ2⑦ ドゥユ地区の恒久住宅(バラロア居住者向け) 撮影 布野修司 2020121


 さらに,この仮設住宅地に隣接するさらに高台に恒久住宅が建設中であった。恒久住宅は,表Ⅱ2①のように77戸(計200戸)建設が決定されているが,建設はようやく開始された段階であり,バラロア居住者向けが先行している。このドゥユ地区の恒久住宅は,PCフレームのコンクリート・ブロック造で,公共事業・国民住宅省PUPRの他に例のない(おそらく最初の)プロトタイプである(図Ⅱ2⑦)。6m×6m=36㎡で内部空間は,3m×6mLDK),3m×3mの2寝室の3室+トイレという構成である。宅地にそう余裕はなさそうに見えたが,必要に応じて居住者が増築することが想定されている。

  


    

図Ⅱ2⑧ ペトボの毛摂住宅地 撮影 布野修司 2020121

 最大の液状化地滑りが起こったペトボ地区については,近接した高台に建設された仮設住宅地を見ることができたが,木造でトタン屋根の連棟式の仮設住宅の建築としての質は高くない。稲作・畑作には向かない牧草地の広大な敷地に疎らに建てられ,トイレ,給水施設などは別に設けられているが,仮設住宅地の共同生活についての配慮が希薄である。井戸が掘られているが,活断層が近く温泉で,飲料水には用いられない。既に,空き家が見受けられ,仕事のためにパル市内に引っ越した世帯もある。

 スラバヤ ルスン・ソンボの平面形

     

図Ⅱ2⑨ クチャマタン・ビロマル デサ・ムパナウの仮設住宅地 撮影 布野修司 2020121

 シギ県には,76箇所の仮設住宅地が設けられているが,ペトボの南には,公共事業・国民住宅省PUPRによるKec.ビロマルBiromaruのデサ・ムパナウMpanau(図Ⅱ2),また,Integrated Community Shelter (HUNIAN NYAMAN)TERPADU)などいくつかのドナーによるクチャマタンKec.・シギのデサ・ロルLolu(図Ⅱ2⑩)の仮設住宅地がある。

 公共事業・国民住宅省PUPRによる仮設住宅は,中央にダプール,カマル・マンディ・トイレを置き,左右6戸ずつ計12戸を1棟とする共同住宅形式である。これは,スラバヤでJ.シラスSilasらが提案建設してきたルスンRusun(積層住宅=中層集合住宅)(ルスン・ドゥパ,ルスン・ソンボ,ルスン・プンジャリンガン)の各階モデルと基本的に同じである。ただ,一戸は,スラバヤのルスンが3m×6m=18mであるが,ここでは4.5m×4m=18mである。以下に見るクチャマタンKec.・カラウィの仮設住宅も同じモデルに従っている。デサ・ムパナウの仮設住宅地は,JICAが生計回復・地域再生モデル事業を展開するサイトのひとつである。

       


 シギ県の最南部に位置するクチャマタン・クラウィには,公共事業・国民住宅省PUPRによる仮設住宅地(図Ⅱ2⑪)と,それと対照的に全て竹を用いた仮設住宅(バンブー・シェルター)を建設した村(デサ・ナモNamo)(図Ⅱ2⑫)がある。公共事業・国民住宅省PUPRによる仮設住宅地は,そのコンセプトはクチャマタン・クラウィと同様であるが,ディテールのデザイン(特に共用部分)は異なり,外壁がカラフルに仕上げられている。また,居住者の増築が前者には全く見られなかったが,ここではここそこで行われている。










図Ⅱ2⑪ クチャマタン・クラウィの仮設住宅団地 撮影 布野修司 2020121

 クチャマタンKec.・シギのデサ・ロルの仮設住宅地は,デサ・ロルに近接して建設されている。小規模であるが,液状化地滑りが起こっており,建設制限地区に指定されている。仮設住宅地は,マーケットの建設予定地で,既に一部建物の建設が開始されていたが,仮設住宅建設に転用された。広場を中心として,ショッピング・センター,共同食堂,モスクなどが計画的に配置されるモデル仮設団地となっている。仮設住宅は,14.5m×4m=18m背割りした連棟住宅である。

 




図Ⅱ2⑫ クチャマタン・クラウィのバンブー・シェルター 撮影 布野修司 2020121

  バンブー・シェルターの村(デサ・ナモ)は,オン・サイトで,倒壊した住戸の傍に建てるもので,KUN Humanity System+IMC(International Medical Corpus)によるユニークなアプローチである。屋根はアラン・アラン(茅)葺きであるが,躯体も壁(バンブー・マット)も他は全て竹である。伝統的な構法というわけではないが,豊富な建築材料として竹に着目した,集落景観に配慮したプロジェクトである。


 
 以上,仮設住宅,仮設住宅地については,限られた視察にとどまるが,日本の経験からみてもそん色ないアプローチが様々に採られたことが窺える。

恒久住宅建設を行う再定住地として,パル川西地区のドゥユ地区38.6ha,パル市東北部ドンガラ県トンド・タリセTondo-Talise地区146.8ha,パル市東南部,シギ県ポンベウェPombewe地区104ha,そして,その他被災地周辺が予定されている。パル市に6596戸,シギ県に2490戸,ドンガラ県に2008戸,計11099戸の建設が決定されている(表図Ⅱ①)。パル市では,ドゥユに190戸,トンド・タリセに4906戸,ペトボに1300戸,そしてうえで見たバラロアに200戸建設される。トンド・タリセは,大きく3つの地区からなる。シギ県は,ポンベウェに1500戸,その他7ヵ所に990戸を予定している。そしてドンガラ県は,13ヵ所2008戸を計画している。


図Ⅱ2⑬ 再定住地 公共事業・国民住宅省PUPRによる恒久住宅建設用地


 そのうち,公共事業・国民住宅省PUPRが建設するのは,パル市に1939戸(第一期639戸),シギ県に1495戸(第一期725戸),ドンガラ県に1795戸(第一期1600戸)計5229戸(第一期1600戸)である(図Ⅱ⑦)。具体的には,ドゥユ地区に230戸,トンド・タリセ地区332戸,バラロア地区77戸,シギ県のデサ・ロルLoru75戸,デサ・ランバラLambara100戸,デサ・サルスSalus50戸,ドンガラ県クルラハン・ガニGani66戸,デサ・ランピオLampio170戸である。第二期に,多くのデサでの建設が計画されている。地方自治体が建設するのは,一期のみのパル市123戸,ドンガラ県30戸,計153戸であり,約半数は中央直轄で建設される。寄付団体による建設は,計3004戸にのぼる。



 

 


E 生計回復,コミュニティ再生の実現(Task Force 4

図Ⅱ⑭ 生計回復支援

復興計画の中心に置かれるのは,被災者の生計回復であり,地域の経済的復興である。住宅再建のために第一に必要とされた建築技術研修,織物,陶器制作のための工具の提供および訓練,漁船を失った漁民への支援,また,震災トラウマに対するヒーリングなどが展開されつつある(図Ⅱ⑧)

 JICAは,パル市バラロア地区,ドンガラ県,シギ県の3ヵ所でモデル事業を実施中である。その詳細を把握することはできなかったが,たまたま,上述のクチャマタン・ビロマル デサ・ムパナウの仮設住宅地を視察した際にその活動の一旦に触れることができた。以下のシギ県の中小企業局支援の一環で,被災者グループの仮設居住者のための食堂経営,ベーカリー,クリーニング屋を支援する(建物建設,調理具,道具などの提供)ものである。ドンガラ県では,伝統的な漁船の製造支援を行っているという。

   

 

   

図Ⅱ⑮ クチャマタン・ビロマル デサ・ムパナウの生計回復支援

 

シギ県では,中小企業局SMEを中心に,発災直後から被災者支援が行われてきた。

発災直後は,全ての予算執行を停止し,復旧復興に全力を投じることになる。中小企業,協同組合の被害状況を把握し,緊急度の高い被災企業について,被災建物の修復とともに,工具や機材などを提供し,営業再開のための支援が行われた。まず行われたのは,建物修復のための建築技術についてのトレーニングである。たまたま,州の職業訓練所に日本で2年間研修を受けた教員がおり,その教員を中心に研修が行われたという。JICAはこの段階から支援を開始している。建設技術トレーニングには24名が参加,2週間にわたって行われ,修了者には中部スラウェシ職業訓練所から修了証が与えられた。修了者は45グループに別れ,地元の建設業者に加わって,各地の建物復旧に従事している。そして,営業再開支援は,当初,キオスク(小店舗),自動車修理工場,食堂(ワルン屋台),コーヒー店(ワルン)について行われた。

         

図Ⅱ2⑯ シギ県中小企業SMEセンター

続いて,中小企業支援の拠点として,フンタラHuntaraSMEセンターが設立された。被災者の支援のための施策を一ヵ所に統合し,また,仮設居住者について集中的に支援することが目的である。JICASMEセンターを支援している。また,仮設居住者支援として行っているのが,クチャマタン・ビロマル デサ・ムパナウの仮設住宅地における支援である。カフェ,小工場,食堂,販売所などが設置されている(図Ⅱ2⑯)。

   

図Ⅱ2⑰ シギ県クチャマタン・クラウィ 復興拠点計画

シギ県は,こうしたSMEセンターを拡大すべく,4つの仮設住宅地に同様のセンターを設置することを計画中である。そのうちのひとつは,上で触れた(Ⅰ3,Ⅱ2D),クチャマタン・クラウィである。損壊した小学校跡地に,復興拠点として再建すべく計画が練られている。その核としての市場はすでに着工されているが,その一部にNalodoミュージアムを設置する構想がある(図Ⅱ2⑰)

 Ⅲ 中部スラウェシの文化遺産

1.中部スラウェシの概要

 中部スラウェシは,北はスラウェシ海とゴロンタロGolontalo, 東はマルクMaluku,南は西スラウェシと南スラウェシ,南東は東南スラウェシ,西はマカッサル海峡に接し,囲われている。赤道が中部スラウェシの北部半島を横切っており,熱帯気候であるが,ジャワ,バリ,スマトラと異なり,雨季は4月~9月,乾季は10月~3月である。平均年間降雨量は8003000㎜で,インドネシアでは最も少ない。気温は2531°C(高原部は1622°C)で,沿岸部の湿度は7176%である。

 

図Ⅲ1b 中部スラウェシの行政区分(出所)http://adepedia3.blogspot.com/2018/01/peta-administrasi-sulawesi-tengah-2018.html

 

スラウェシは,アジア・オセアニア地域の動植物相が大きく変わる極めてユニークな境界域に位置する。すなわち,ボルネオからアジアを横断するアジア区とオーストラリアからニューギニア,チモールに至るオセアニア区の境界区域である。その境界線は,チャールズ・ダーウィンの進化論のための動植物資料を提供したアルフレッド・ウォーレスに因んでウォーレス・ラインと呼ばれ,ウォーレシアと呼ばれる。島のユニークな動物として水牛に似たアノア anoaバビルサ babirusa , トンケナtonkenaサル, 色とりどりの有袋類カサス,熱い砂の上に卵を産むマレオmaleo鳥などが生息する。

スラウェシ島の森林にも独自の特性があり,アレカナッツareca nut(ロドデンロン種)が優占する大スンダ諸島とは異なるアガティスagatisの木が優勢である。 動植物の多様性は維持し,保護するために,ロアリンドゥ国立公園,モロワリ自然保護区,タンジュンアピ自然保護区,バンキリアン野生生物保護区などの国立公園,自然保護区が設立されている。中部スラウェシにも,いくつかの自然保護区,野生動物保護区,森林保護区が指定されている。

中部スラウェシは,州都パル市Kota Palu12の県からなる。総人口は304万人(2019年推計),パル市はその約1割(34.3万人(2015年))を占める。

中部スラウェシの先住民として多くの民族が知られる。最も主要なカイリKaili族は,中部スラウェシ州のほとんど,特にドンガラDonggala県,パリギ・モウトンParigi Moutong県,シギSigi県,パルPalu市に居住する。その他,クラウィKulawi族(シギ県),ロレLore族,パモナPamona族(ポソPoso県),モリMori族,ブンクBungku族(モロワリMorowali県),サルアンSaluan(あるいはロイナンLoinang)族,ママサMamasa族,タアTaa族,バランタックBalantak族(バンガイBanggai県),バレエBare’e族(ポソ県,トジョ・ウナーウナ県),バンガイBanggai族(バンガイ島県,バンガイ・ラウト県),ブオルBuol族(ブオル県),トリトリTolitoli族,ダンパルDampal族,ドンドDondo族,ペンダウPendau族(トリトリ県),トミニTomini族(パリギ・モウトン県),ダンペラスDampelas族(ドンガラ県)が知られる。加えて,ドンガラ県やシギ県の山岳部に居住するダアアDa'a族など数部族がいる。言語としては22程度の言語が区別されるが,基本的にはすべてオーストロネシア語族に属する。もちろん,現在では,南スラウェシのマンダール,ブギス,マカッサル,トラジャなどの移住者をはじめ,バリ,ジャワ,東西ヌサトゥンガラからの移住者が居住する。2010年のセンサスによると,ムスリムが77.72%,プロテスタントが16.98%,ヒンドゥー教徒3.78%,カトリック教徒0.82%,仏教徒0.15%などである。

主産業は農業であり,灌漑による稲作が行われている。また,野菜作物として,トウモロコシ,トマト,カブ,キャッサバ,シャロット(玉葱),ナスが生産される。果樹は,タンジェリン,スカッシュ,ジャックフルーツ,ドリアン,バナナを産する。また,中部スラウェシはコーヒー産業で知られる。中でも,シギ県とポソ県のコーヒーの歴史が古く,オランダ植民地時代から生産されてきた。コーヒー園は,ロレ・リンドゥ国立公園,クラウィ,ピピコロ,パロロ,およびポソ周辺の渓谷に広がるが,中心はポソ県であるが,最も広大なコーヒー農園はシギ県にある。ドンガラ県は,涼しい高地で栽培されるアラビカ種のコーヒーで知られる。シギ県のピピコロには,ジャコウネコによるコピ・ルワクと異なる,コウモリ,ネズミ,リスの自然発酵製品コピ・トラティマtoratimaというコーヒーがある。

中部スラウェシには付加価値の高い金属鉱物が10種類以上産出し,鉱業も盛んである。モロワリ県,バンガイBanggai県にニッケル,トリトーリ県,ドンガラ県,パリギ・モウトン県に方鉛鉱(亜鉛),ポソ県,バンガイ県に金,クロム鉄鉱石,クロム鉱石の産出がある。銅鉱石は,パレレ山地のブノボグ地区のブラギドゥン地域に産し,トリトリ県,ドンド地区,マララ村の西の山地ではモリブデンが発見されている。その他,可能性として,鉄砂,赤鉄鉱,磁鉄鉱,チタン,マンガンの埋蔵も期待されている。

マカッサル海峡とスラウェシ海,トミニ湾,トロ湾など海洋に接していることから漁業も盛んである。特にモロワリ県は,海藻生産で著名で,近い将来インドネシアで最大の海藻生産県になると予測されている。

 

2.中部スラウェシの歴史

 中部スラウェシの植民地化以前の歴史は古く,紀元前3000年から1300年に遡る巨石文化の存在が知られる。

シギ県のロレ・リンド国立公園周辺に400を超える巨石が残っており,その3割は人間像で,最大のものは高さ4.5m,東南アジア最大とされる。また,カランバKalambaと呼ばれる蓋(トゥトゥナTutu'na))つきの石棺が発見されている。

また,中部スラウェシには多くの洞窟があり,近年,少なくとも4万年前に遡る,ヨーロッパ最古のスペインのモンテ・カスティージョの洞窟画(1985年ユネスコ世界文化遺産に登録)に匹敵する世界最古級の洞窟画がインドネシア・オーストラリアの合同研究隊によって発見されている(2011年)。南スラウェシでは,マカッサルから北へ30km,マロスの町の近郊のマロス・パンゲップ・カルスト台地にある洞窟から洞窟画が発見されている。中でも,手形の洞窟画はやはり4万年前に遡るとされている。スラウェシは,人類の拡散(グレート・ジャーニー)を跡付ける人類史上重要な地域であり,洞窟画の世界文化遺産登録が期待されている。

    図Ⅲ2① スラウェシの洞窟画  https://www.bbc.com/news/world-asia-50754303

青銅器時代については,紀元1世紀のマカッサル斧が知られている。また,シギ県ではタイガニアtaiganjaと呼ばれる東インドネシアで類似のものが発見される装飾品が知られる。しかし,その後,イスラーム期に至るまでの歴史については不明のことが多い。

 カイリ族の名は,この地域の森林,特にパル川とパル湾の沿岸部にみられるカイリの木に由来するという説がある。カイリ族は,パル峡谷で一般的に稲作を行うが,高地ではココナッツ,キャンドルナッツなどの森林作物を栽培するし,沿岸部では漁業を行い,カリマンタンなどの島々との貿易も行ってきたと考えられている。カイリ族は文字をもたず,その起源は不明であるが,14世紀のブギス族の碑文に言及されており,南スラウェシとの関係は深く,当初はヒンドゥー文化の影響下にあり,インドとの関係は深かったと考えられている。

 中部スラウェシにイスラームが需要されるのは,南スラウェシのゴワGowa王国を通じてであるが,マジャパヒト王国の年代記『ナガラクルタガマ』(1365年)によれば,マカッサル族のゴワ王国は14世紀半ばには存在していた。ゴワ王国はその後,ゴワ王国とタロTallo王国の2つに分裂し,16世紀初頭に再統一される。イスラームの到来は,1320年代に遡るとされるが,ゴワ王国のイスラームへの改宗は17世紀初頭である。西スマトラのミナンカバウの3人の導師(ウラマー)(Datuk Ri BandangDatuk ri Tiro and Datuk Patimang)の到来がスラウェシのイスラーム化の起源とされる。

ゴワ王国は,16世紀半ばにカイリからトリトリに至る中部スラウェシ西海岸を占領するが,イスラームは,南スラウェシの勢力の拡張に伴って受け入れられていく。パル湾周辺は,ココナツ油のなど中部スラウェシ内陸部との交易拠点であった。

並行して,ヨーロッパ勢力が現れる。東海岸のトミニ湾を支配下に置いていたパリギParigi王国は,1515年に建国されるが,1555年には,1511年にマラッカを攻略したポルトガルが要塞を建設している。

   

図Ⅲ3① インドネシア共和国法律2017年第5号 「文化振興に関する法律」

 その後,17世紀に入って,オランダ東インド会社VOCがパリギ付近にいくつかの要塞を建設し,以降,オランダの支配下に置かれる。当初,オランダ植民地政府はこの地域にほとんど注意を払わなかったが,19世紀に入るとバナワ王国とパル王国と協定を結び(1824年),トミニ湾の南部と頻繁に交易を行い始める。パル王国が建国されたのは1796年であるが,内陸部は必ずしも開かれたわけではない。現地人がオランダ植民地政府と接触を開始するのは1888年以降である。オランダ植民地政府が,拠点としたのはポソとバナワである。内陸部がキリスト教化されていくのは19世紀末から20世紀にかけてである。この間,中部スラウェシは,ゴロンタロに拠点を置く支部の管轄下にあった。

20世紀に入って,スラウェシ全土を併合しようとするオランダ植民地政府に対する反乱がポソで勃発(1905),以降,オランダ植民地支配に対する抵抗する動きが現れ,1928年にはインドネシア国民党の支部がブオルBuolに設立されている。第二次世界大戦勃発後,日本軍がバンガイ県のルウクLuwukに上陸したのは1942515日である。そして,司令部はパルの王宮に置かれた。

独立後,中部スラウェシは当初マナドに首都がある北スラウェシの一部であったが,1964413日に分離されている。

 

3.中部スラウェシの文化遺産

 インドネシアの文化遺産については,教育文化省の文化保護局(文化総局を20201月改組)において,法令に基づいて指定する一定の仕組がある(2010年法令No.11)。無形文化財についても2017年の法令No.5でその基本方針が示されている。無形文化財については,文化振興の対象として,a 口頭伝承,b 手稿 c慣習 d 儀式 e伝承 f 伝統技術 g 芸術 h 言語 i玩具 j伝統的ゲームの10分野が想定されている(図Ⅲ3①)。 

     

図Ⅲ3② 中部スラウェシ博物館の被害 被災した移動巡回車

     

 

図Ⅲ3② 中部スラウェシ博物館 特別展「災害と自然史」 パフレットの一部

 文化財保護局は支局を各州に置くが,中部スラウェシについては,支局はゴロンタロに置かれている。また,建造物担当の事務所として建築研究所がマナドManadoに置かれている。教育文化省の博物館局は,国立博物館と各州博物館の連携をもとに,文化財の収集,保管,展示,スタッフの研修などを行っているが,中部スラウェシについてはパル市にある州立博物館が文化行政のひとつの中心である。州には,教育文化局がある。

 教育文化省の文化保護局は,文化財の災害対策について,災害の危険のある文化財のマッピング,関連機関との連携,人材育成などについてのガイドラインを作成中ということであるが,今回の中部スラウェシ地震に対する対応は,中部スラウェシ州立博物館が中心である。博物館自体が損傷を受けており,新たに購入し,活動を開始する直前であった移動巡回車も廃車となっている(図Ⅲ3②)。損傷した収蔵品の陶器の補修については,ユネスコ・ジャカルタ事務所の支援でスタッフの日本での研修が実現している。特筆すべきは,特別展「災害と自然史」(201910月3日~3日)を開催し,市民に今次の災害と地域の自然との関係を考える機会としたことである(図Ⅲ3③)。

     

図Ⅲ3④ 中部スラウェシ博物館の収蔵品カタログ

 中部スラウェシにおける文化遺産についての主要なものは中部スラウェシ博物館に収蔵され,展示されるが,地震による損傷で閉館中であり,具体的に鑑賞することはできなかったのであるが,2019年度に収蔵品について,『中部スラウェシの先史時代Prasejarah di Sulawesi Tengah』『有機物Koleksi Organik』『無機物Koleksi Anorganik』『陶器Koleksi Gerabah』という4様のブックレット,カタログが作成されている(図Ⅲ3④)。中部スラウェシ博物館には,図書館が併設されており,中部スラウェシの歴史と文化に関する内外の文献がある程度収集されている。

       

     

図Ⅲ3⑤ 中部スラウェシ博物館の巨石像 撮影 布野修司

 『中部スラウェシの先史時代』で取り上げられるのは,ロレ・リンド国立公園周辺に残る巨石文化である。多くは花崗岩の立石(ドルメン)であるが,上述のように,3割程度は人物像である。最大のパリンド像(パダン・セペ・レンバ・バダ)は東南アジア最大で4.5mあることも前述のとおりである。立石像の他,大小の石棺が発見されている。さらに,臼などもある。その一部,また,レプリカは,中部スラウェシ博物館の屋外展示場に常設展示されている。巨石を囲むレリーフが本館の正面のファサードに掲げられ,敷地の一角には,村の様子が再現されている(図Ⅲ3⑤)。巨石文化は,中部スラウェシの起源に関わり,その文化的アイデンティティの第一の象徴となっている。中部スラウェシ博物館の学芸員イクサムIksam氏によれば,洞窟画の発見もあって,オーストロネシア文化の原郷を中部スラウェシのポソ湖周辺に求める説があり,インドネシア,オーストラリアの共同研究が行われている,という。

無機物の収蔵品には,石器,石やすり,ブロンズの腕輪,ランプ,ポット,砲筒,宝石箱,鉄製槍先,ゴングなどがある。有機物の収蔵品というのは,伝統的儀礼を記した水牛の角,草葉編帽子,竹製ポット,貝殻の器,木製器,竹製籠,ゲーム用具などである。陶器には甕棺も含めて,様々な食器が収蔵されている。

中部スラウェシといっても,多くの民族集団が居住しており,古来一体的な地域として形成されてきたわけではないし,一体的な地域として認識されてきたわけでもない。ドンガラ県西部の人々は南スラウェシのブギスの人々とゴロンタロの人々とが混ざりあっている。スラウェシ東部の人々は,ゴロンタロとマナドの強い影響下にある。また,上述のように,イスラームの伝来については西スマトラとの関係が深く,その影響も,例えば結婚式の装飾形式などにみられる。織物文化の中心は,ドンガラ・コディDonggala Kodi, ワトゥサンプWatusampu, パルPalu, タウェリTawaeli ,バナワBanawa. であるが,ドンガラ県の織物には,バリ同様,ヒンドゥー時代からの伝統をみてとることができる。山岳民族の文化には南スラウェシのトラジャ族の影響があるが,衣服や住居の伝統はトラジャとは異なっている。彼らはカジュマルの樹banyan treeの皮を衣服に用いる。ブヤbuyaと呼ばれるサロン(腰巻)は,ブラウスにはヨーロッパの影響がみられる。また,彼らの住居は木造板壁,萱葺の大きな一室住居である-建築類型として,ロボLoboあるいはドゥフンガ duhunga と呼ばれる集会施設とタンビ Tambiと呼ばれる住居, ガンピリGampiriと呼ばれる米倉がある。

伝統的な音楽や舞踊についても,中部スラウェシ各地で異なる。カイリ族のワイノWainoと呼ばれる伝統的音楽は葬式で演奏される。伝統的舞踊は,宗教的な祭礼で演じられる。中でも有名なのはポソ県のパモナ族のデロDeroと呼ばれる踊りで,ドンガラ県のクラウィ族も行う。収穫期,来客歓迎,感謝祭,特定の祝日にデロが行われる。

 

図Ⅲ3⑥ 中部スラウェシ博物館の蔵書とGhazali Lemba Doni SetiawanEds(2016)ANALISIS KONTEKS PENGETAHUAN TRADISIONAL DAN EKSPRESI BUDAYA TRADISIONAL (PTEBT) SULAWESI TENGAH”カヴァー

伝統的な食,料理についても地域差はあるが,自然の恵みに大きく規定されることから,典型的な料理には一定の特徴がある。主食は米であるが,補完的に様々な塊茎が食され,スパイシーな味と酸味で知られる。最も一般的な果物はマンゴーで,他にパパイヤ,マンゴー,バナナ,グアバが食される。中部スラウェシで最も有名な料理は,ドンガラ県の伝統的な牛のスープ,カレドKaledoである。また,パルのサゴヤシ料理カプルンKapurungも著名である。パルには,魚とエビのコーンスープ,ミル・シラム Milu Siramまたはビンテ・ビルフッタBinte biluhutaもある。

中部スラウェシのカイリ族,クラウィ族,ロレ族,パモナ族,モリ族,ブンク族,サルアン (あるいはロイナン)族,ママサ族,タア族,バランタック族,バレエ族,バンガイ族,ブオル族,トリトリ族,ダンパル族,ドンド族,ペンダウ族,トミニ族,ダンペラス族,ダアア族など先住民の伝統文化については,教育文化省文化総局から『コンテクスト分析 中部スラウェシの地域に基づく伝統的な知識と伝統的な文化の表現ANALISIS KONTEKS PENGETAHUAN TRADISIONAL DAN EKSPRESI BUDAYA TRADISIONAL (PTEBT) SULAWESI TENGAH(Ghazali Lemba Doni SetiawanEds(2016))が出版されている(図Ⅲ3⑥)。執筆に当たったのはタドラコTadulako大学の人類学のスタッフを中心とするチーム(Sulaiman Mamar Rosmawaty Hendra M. Junaidi Hasan Muhamad M. Nasrun)である。

序章を含めて以下の全16章からなる。Ⅰ.序,Ⅱ.伝統儀礼,Ⅲ.民話,Ⅳ.伝統的遊び,Ⅴ.ことわざ,Ⅵ.伝統的治療,Ⅶ.伝統食物・飲料,Ⅷ.伝統武器,Ⅸ.伝統機器,Ⅹ.伝統建築,ⅩⅠ.伝統衣服,ⅩⅡ.伝統織物,ⅩⅢ.社会組織,ⅩⅣ.芸術,ⅩⅤ.伝統的知識,ⅩⅥ.地域の知恵(ローカル・ナレッジ,ローカル・ウィズダム)。

伝統儀礼(Ⅱ)では,民族毎に,バトゥイ族,モリ族,カイリ族の儀礼が扱われている。そして伝統的葬送儀礼一般が扱われている。伝統的知識(ⅩⅤ)で扱われるのは,1.天文学,2.漁師の自然知識,3.森林と土地環境の利用,4.農業知識,5.水田耕作に関する知識である。地域の知恵(ⅩⅥ)では,森の神話・パル渓谷,水田耕作の儀礼と慣習,クラウィ族の意思決定と問題解決の慣習的メカニズム(Molibu),シギ県リンドゥ人の環境と社会の知恵(Ombo),ドンガラ,パル,シギ,パリギ・モウトンのカイリ族の社会規範である。

     

トンプTompu人の住居sou  米蔵gampiri      釜屋kalampa   露台barunju

   

図Ⅲ3⑦ 中部スラウェシ山間部の伝統住居

Ghazali Lemba Doni SetiawanEds(2016)ANALISIS KONTEKS PENGETAHUAN TRADISIONAL DAN EKSPRESI BUDAYA TRADISIONAL (PTEBT) SULAWESI TENGAH

伝統建築については,南スラウェシのトラジャ族のように際立った住居形式は見られない。専ら,文献をもとに,シギ県山岳部のトンプTompu人の住居sou,米蔵gampiri,釜屋kalampa,露台barunju,そして,集会所ロボloboを紹介している(図Ⅲ3)。

 

4.パル市の文化遺産

 パル市では,教育文化局において,法令(2010年法令No.11)に基づいて,文化財のリストアップ作業が行われてきた。そのリストは,有形文化財230件(内建造物7件),無形文化財240件,人材53人,伝統的コミュニティ101件である(表Ⅲ4①)。

しかし,問題は,そのリストをもとに文化財を指定する委員会が組織できておらず,リストアップにとどまっていることである。文化財指定は,教育文化省の研修を受けて試験に合格した判定官,市レヴェルでは5名か7名,州レヴェルでは9名か11名で,組織される文化財委員会によって行われる仕組があるが,委員会が成立していないという。教育文化省の文化保護局によれば,全国でも,この委員会が置かれているは州レヴェルで15,市県レヴェルで59にとどまる状況である。

表Ⅲ4① 有形文化財リストの一部

 パル市は,文化財の活用については極めて意欲的であり,震災直前に『パル市の文化遺産と史跡の活性化に関する報告書 LAPORAN PENELITIAN KAJIAN REVITALISASI CAGAR BUDAYA DAN SITUS BERSEJARAH KOTA PALU』(文化観光局DINAS KEBUDAYAAN DAN PARIWISATA)という調査報告書を2017年に公刊している(図Ⅲ4①)。その目次は以下のようであるが,文化遺産の単なる保護ではなく,その活用,開発をめざすという,その目的,視点はしっかりしている。

 最初に,パル市の文化遺産と史跡の活性化に関する調査研究の背景として,11945年インドネシア共和国憲法第32条第1項「国家は,その文化的価値の維持と発展におけるコミュニティの自由を保証することにより,世界文明の中でインドネシア国民文化を促進する」,2)文化遺産オブジェクト(BCBBenda Cagar Budaya)に関する法律1992No.53)法律1992No.5の施行に関する199310月政府規制 ,4)文化遺産に関する法律2010No.115)パル市政府のビジョンとミッション2016-2021を法的根拠としてあげ,「かつては活気があり,生きていたが,その後は後退/劣化した地域または地域の一部を活性化する」ことをめざすとする。そして,地域の活性化プロセスには,身体的側面,経済的側面,社会的側面の改善が含まれるとし,再生のアプローチは,環境の可能性(歴史,意味,場所の独自性,場所のイメージ)を認識して利用する必要があるとする。保護は文化遺産の保存システムで最も重要な要素であるが,文化遺産の保護のみを目的とするのではなく,利用,開発の要素を取り込むことをうたう。具体的に県としているのは,1)文化遺産と史跡の再

図Ⅲ4① 『パル市の文化遺産と史跡の活性化に関する報告書』

第1章     はじめに (1.1背景. 1.2法的根拠 1.3権限1.4調査対象 1.5調査目的 1.6調査過程 1.7調査意義 1.8調査方法)

第2章     文献レビュー(2.1社会と文化 2.2文化 2.3地域の文化と知恵  2.4地域の知恵の形)

第3章     文化遺産と史跡の再活性化(3.1 パル市の簡単な歴史 3.2パル市の地域区分 3.3 Pue Njidiの概要 3.3 English Pueの概要 3.4 Pue Mpasuの概要 3.5MantikulorePue Mpoluku)の概要 3.6 Tondate Dayo AliasTuvunjagu / Jaguri Sampilaiの概要 3.7 Lasatande Dunia (Baligau)の概要 3.8 Raja Meili (Mangge Risa)の概要 3.9 Daesalemba (Madika Bakatolu)の概要 3.10 Pue Bulangisiの概要)

第4章     史跡およびインフラストラクチャーの再活性化(4.1一般 4.2 墓地施設とインフラストラクチャーの現状)

5章 おわりに(5.1結論, 5.2勧告)

マッピング,2)文化遺産と史跡の面積の分析,3)文化遺産および史跡の社会への社会化/普及のパターン,4)文化遺産と史跡の保存/維持戦略,5)文化遺産と史跡の促進のための戦略である。

興味深いのは,地域の文化と知恵に大きな焦点を当てていることである。それには,中部スラウェシ州ではコミュニティの慣習法(アダット)と伝統的な権利がまだ生きており,法律に違反していない限り,それらを認めてきている背景がある。パル市のなかには,カイリ族のレドKaili Ledo慣習法地区が25クルラハンkelurahan,rai,ライKaili Rai慣習法地区が8クルラハン,タラKaili Tara慣習法地区が7クルラハン,アドKaili Ado慣習法地区が4クルラハン,ウンデKaili Unde慣習法地区が2クルラハン存在している(第33.2)。

伝統的コミュニティの慣習法に関わる文化遺産については,別に調査が行われ,リストが作成されている(表Ⅲ4②)。

『パル市の文化遺産と史跡の活性化に関する報告書』が焦点を当て,提言するのは,史跡としての墓地の活用についてである。文化観光を奨励するために,その建設および改善,すなわち,墓門,墓の中核,巡礼室,待合室,ペトラサン施設(KM / WC),ムショラ室,警備室,エリア駐車場,露天商エリア,水と照明/電気設備,墓へのアクセス道路などを具体的に提言している(第5章)。パル市には,史跡として重要な墓地Makamが8ヵ所あり(図Ⅲ4②),それぞれの地区の特徴が分析され(第3章),再活性化の方策が提言されるのである(第4章)。

図Ⅲ4② パル市の墓地史跡

そのうちのひとつパル湾の西沿岸に位置したプエ・パス墓地は,今回の地震津波によって海中に没する被害を受け,その復旧再生が課題となっている。


 

表Ⅲ4② パル市に存在するカイリ族コミュニティ(文化遺産)の慣習 一部

1は,カイリ族古来の治療儀礼


 

 Ⅳ 文化遺産と地域再生,そして災害復興支援(国際協力)

 

1.中部スラウェシ地震と文化遺産                          布野修司

 

巨石文化と洞窟画―人類の起源と中部スラウェシ

40年もインドネシアを歩いてきたのだけれど,スラウェシは初めてであった。パルに着いて,最初に訪れた中部スラウェシ州立博物館のキュレーター・イクサムIKSAM氏に聞いたのは,専ら,パル市,中部スラウェシの歴史である。トラジャ族あるいはマカッサル(ウジュン・パンダン)については多少知るところはあったけれど,パルを訪れるにあたって,その歴史についてはほとんど予備知識がなかったのである。事前に興味を持ったのは,同行予定であった佐藤浩司(元国立民俗博物館)の,中央スラウェシには「巨石文化」が残っていますよ,という一言であった。また,スラウェシとカリマンタンの間,バリ島とロンボク島の間にウォーレス線が走っており,その東西で動植物の生態区(東洋区とオーストラリア区)が異なっているという事実であった。中部スラウェシ州立博物館に着くと,屋外展示場にいくつも石柱が展示されているではないか(図Ⅲ3⑤ 中部スラウェシ博物館の巨石像)。イクサム氏への質問は,地域の起源についての理解のためである。中央スラウェシの歴史(Ⅲ2)については,イクサム氏の説明をもとにまとめたものである。

 4万年前に遡る洞窟画の存在もある。出アフリカ(12万年~7万年前)を果たしたホモ・サピエンスがオーストラリア大陸へ到達するのが4.5万年前,K字形をしたスラウェシは,スンダランドとオーストラリア区を分ける位置にある。言語学的には台湾が原郷とされているオーストロネシア語族がポソ湖から四周に広がっていったという説がある,というイクサム氏の話に否応なく引き込まれることになった。人類が100kmを海を渡る技術をみにつけたのは,インドネシアにおいてであり,ホモ・サピエンスが台湾に到達するのは約3万年前である。オーストロネシア語族がスラウェシから拡散していったという説も決して荒唐無稽ではない。

 そして,今回の中部スラウェシ地震による世界に類例のない液状化地滑りは,人類史をはるかに超える地球の鼓動を思い起こさせてくれた。調査に同行して頂いた古市久士さんの地球の成り立ちにまでさかのぼる解説は,この地域の重要性を思い知らせてくれた。

 すなわち,中央スラウェシは,人類史の上で注目すべき地域である,というのが現地を訪れて最初に得た印象である。インドネシア政府は,観光開発のためにも,南スラウェシの洞窟画を含めて世界文化遺産への登録に意欲的であるというが,大いに期待できると思う。

     

図Ⅳ1① パル市の地殻・地表の運動 古市久士提供 断層,集水域などが細かく記入されている

 


 

 

①中部スラウェシ地震の復興計画とその課題

中部スラウェシ地震の概要(Ⅰ),復興計画と復興状況(Ⅱ)については上述のとおりである。今回の調査は,地震復興を直接担当する国家開発企画庁BAPPENAS,地方開発企画庁BAPPEDAへの直接的ヒヤリングの機会はもてず,被災者に直接話を聞く機会はほとんどもてなかったから,専ら,JICAの現地スタッフからの情報を基にしたものである。

被災自治体の人口はパル市36.8万人,ドンガラ県29.3万人,シギ県22.9万人,計約90万人である。死者2101人,行方不明者1373人という被災規模は,インド洋大津波,東日本大震災には比べるべくもないが,避難者数は221450人に及んでおり地域に与えたダメージははかりしれない。パルの町を車で走っただけの限られた見聞であるが,大きな被害を受けなかった建物はそれぞれ自力で修復され,ある程度,復旧された印象を受ける。しかし,大規模な液状化地滑りが起こった地区,津波被害を受けた沿海部などは,被災したまま放置されたままである。また,復興恒久住宅は建設が始まったばかりであり,河口の倒壊した橋梁,防潮堤の建設,病院の再建など,復興はこれからという段階にある。

復興における課題と考えられるのは以下である。

①第一に,液状化地滑り地区の将来をどうするか,その復興計画の問題がある。行方不明者の多くが土砂に巻き込まれていると考えられ,その救出が断念された経緯がある。地区のほとんどは建築禁止地区に指定されたが,その土地利用計画は未定である。メモリアル公園,墓地公園,Nalodo伝承施設などが考えられている。

②一方,建設禁止区域などを定めたゾーニングの線引きをめぐっては,従前の居住者,土地所有者との合意が必ずしもなされていない,という問題がある。復興計画の決定と合わせて,中央政府,州政府,地元自治体,そして住民との間の調整が残されている。

③インフラストラクチャーの復旧について,パル川河口の橋梁については設計が完了,入札段階にあるということであったが,防潮堤・湾岸道路の建設は計画協議中である。どのような防潮堤にするかについては議論が残されている。また,パル市環状道路の新設についても必ずしも進展していない。

④農業復興については,灌漑用水路の復旧が不可欠であるが,①の計画とも絡んで,協議が残されている。

⑤仮設住宅居住者に対する生計回復支援は急務である。JICA3ヵ所におけるモデル事業,シギ県の中小企業局の復興支援の活動は,以下の④とも絡んで極めて重要と思われる(Ⅱ2E)。課題は,このモデルをいかに拡大していくかである。

⑥仮設住宅地については,公共事業・国民住宅省PUPRによる共用施設を組み込んだ住棟モデル,バンブー・シェルターなどユニークなアプローチが見られる。インド洋大津波以降の経験が生かされていると思われるが,店舗や共同食堂など共同生活のための施設を予め設置する配慮は評価できる。被災地の近くの数多くの場所に仮設住宅を建設した点も評価できる。ただ,課題と思われるのは復興恒久住宅地への移住のマネージメントである。特に,南東郊外のポンベウェ地区1500戸の計画には周到なコミュニティ計画が必要と思われる。また,交通体系の整備も必要と思われる。

⑦建造物については,耐震基準の見直しが必要と考えられる。また,既存建物についての耐震補強も必要と考えられる。

 

②震災復興と文化遺産

被災地における文化遺産についてはⅢにまとめた通りであるが,第一に,文化財について必ずしもオーソライズされたかたちにはなっておらず,また,一般的に共有されていない状況にある。また,パル市についてリストアップされた文化財の被災状況についても,詳細な調査はなされていない状況である。

第一に,

A 文化財(候補)の被災状況についての調査と文化財の現状と評価が必要とされている。パル市の教育委員会では,ワヒドHERMAN WAHID S, S.Sos氏を中心に,写真撮影やビデオ撮影が行われてきているが,組織的にアーカイブする体制は構築されていない。文化財の指定,登録,アーカイブ化については,支援要請があった。

具体的に被災した文化遺産の復旧再建は当然課題となっている。

パル市は,上述のように(Ⅲ4),文化財の活用については極めて意欲的であり,震災直前に『パル市の文化遺産と史跡の活性化に関する報告書』(文化観光局)をまとめていた。イスラーム墓地Makamを梃とする観光開発を主とする構想である。

B パル王国の王宮に隣接したマカムPue Nggariにはほとんど被害はなかったが,沿岸部のマカムPue Pasuは水没する被害を受けている。このマカムをどう復旧するかは大きな課題となっている。

文化振興の拠点としてのパル市の文化センターは大きな被害を受けた(図Ⅰ1②)。震災・津波当日(2018928日),パル市の市制施行40周年記念の式典とそれに合わせた毎年持ち回りで行われている王家の集いが行われており,多くの人が被災した。500席のオーディトリアムをもつ施設が失われたことは大きなダメージである。

C 震災復興の拠点としても,文化センターで行われてきた様々な催し,集会,展示会などを行う場所の必要性は高い。中部スラウェシ州の教育文化局で,JICA支援への期待を示唆された。中部スラウェシ州立博物館では,活動開始直前の新車であった移動巡回車が被災した。この復活再開が期待される。

文化センターの再建については,JICA支援のプロジェクトには含まれていない。沿海部の復興計画が未確定であり,同じ場所での再建については難しいことも予想されている。

D 文化財の修復については,既に,ユネスコ・ジャカルタ事務所を通じての研修支援が行われたが,日本の東京文化財研究所,奈良文化財研究所などの研究機関を通じた支援は当然考えられる。

今次の調査において,各所で聞いたのは,地震津波の予兆,言い伝え,伝承の存在である。上述のように(Ⅰ2),被災地域は,20世紀に入ってからも,1907年,1909年,1938年,1939年,1968年,1996年そして2018年にナロドNalodoに見舞われている。「晴れた日が何日か続いて,風がやんだ時にナロドが起こる」といった伝承や古来からの伝統に則った儀礼を簡易化したのが問題であるといった噂話が広く人口に膾炙しているという。伝統的なコミュニティにおけるアダット(慣習法)は,無形遺産としてリストアップされている(Ⅲ4,伝統的コミュニティ101件)。「地域の知恵local wisdom」への関心は極めて高いという印象を受けた。

すなわち,復興の前提として,

E ハザードマップの上に,有形・無形の文化遺産をプロットする作業が大きい。これについては,東日本大震災を経験した日本との経験交流は大きな役割を果たす可能性がある。こうした作業は,あらゆる地域で,特に災害が予想される地域で事前に行われる必要がある。

ユネスコと世界銀行は,ポジション・ペーパー「CURE都市再建と回復における文化CUlture in City REconstruction and Recovery」(UNESCO+The World Bank, 2019)のフレームワークとして4段階の第1段階(Phse 1)にあげるが,損害と需要の評価そして展望の段階である。そのコンポーネントとして挙げられるのは,1.1有形文化遺産,1.2無形文化遺産,1.3創造文化産業,1.4文化観光,1.5歴史的住宅ストックと土地資産,1.6データ収集と分析,1.7資産マッピング,1.8権利者マッピング,1.9ヴィジョン開発である。1.3創造文化産業,1.5歴史的住宅ストックと土地資産については,調査に基づく作業が残されている。これについては,共同の調査研究の展開による支援が考えられる。

ユネスコ・ジャカルタ事務所では,中部ジャワ地震を経験した中部ジャワでそうした作業を現在行っていると聞いたが,中部スラウェシでも,今回の経験を継承していく上でも同様の作業が必要とされている。

 

③震災遺構と記憶の継承

 震災津波,液状化地滑りの記録とその経験記憶の継承については,いくつかの構想がある。

 ひとつは,

 

図Ⅳ1② タドゥラコ大学 人類学博物館オーディトリアム構想

F タドゥラコ大学人類学部および建築学部による人類学博物館オーディトリアム構想である(図Ⅳ1②)。上述のように(Ⅲ3),コンテクスト分析 中部スラウェシの地域に基づく伝統的な知識と伝統的な文化の表現ANALISIS KONTEKS PENGETAHUAN TRADISIONAL DAN EKSPRESI BUDAYA TRADISIONAL (PTEBT) SULAWESI TENGAH(Ghazali Lemba Doni SetiawanEds(2016))出版の実績があり,具体的な計画案も作成されている(図Ⅳ1②)。実際の建設はインドネシア政府,大学本部で検討されるが,予算書もつくられている。そのコンテンツについては,協力支援が考えられる。文化遺産の保存活用をめぐる国際シンポジウムの開催と参加について要請を受けた。

また,

G シギ県山間部のクルラハン・クラウィでは,地域復興の拠点計画の一環として,被災した小学校の震災ミュージアムとしての再生が計画されている。この構想は,シギ県中小企業局のポンギSamuel y. Pongi氏が気仙沼の事例を視察したことが大きなきっかけとなっており,経験交流,支援の要請を受けた。以下の④のひとつのモデル事業としての展開が期待される。

そして,

H ナロド被災地区のナロド伝承記念公園,博物館構想がある。ナロドの発生地点には,大きな段差が残されている。また,断層がずれた地点がある(Ⅰ2,図Ⅰ2⑥)。そうした,地点を保存しながら,液状化地滑りの記憶と経験を伝承していくことが考えられるが,必ずしも議論は進んでいない。

I 震災遺構として保存が考えられるのは,以上の液状化地滑りの地形そのものの他,以下のようなものが考えられる(Ⅰ1,図Ⅰ1④)。

 a 海上のモスク

b 傾いたミナレット

c 水没したイスラーム墓地

d 陸に打ち上げられた船

e

全く地域を知らない,しかも,ほんの視察にすぎないかってなリストアップであるが,海上のモスクは,観光客が訪れる場所になっている。陸に打ち上げられた船については,つい最近まで何艘かあったけれど現在は一艘になったという。

震災以降の保存をめぐる議論は,一部でなされているけれど,復興計画に位置付けられているかどうかは不明である。

 

④地域コミュニティと文化の継承

 災害復興の中心は,被災者の生活再建であり,地域の再生である。基本となるのは,コミュニティを主体とする復興であり,地域再生である。

 筆者は,2009930日に発生した西スマトラ地震によって大きな被害を受けた歴史的文化遺産および歴史的街区について,UNESCOおよびインドネシア政府の要請に基づいて,被害状況調査を行うとともに,歴史的建造物についての復旧および歴史的街区の復興計画のための指針および短期,中期,長期の行動計画を立案する専門家チームの一員として加わった経験がある。その報告書は,National Research Institute for Cultural Properties 2009, “Damage Assessment Report of Cultural Heritage in Padang, West Sumatra”, December 2009, Tokyoとしてまとめられているが,筆者らが担当したのは,‘Chapter 2City Planning Survey Report Towards the Reconstruction of Historic Urban Landscape in Kota Lama Padang: Recommendations and Action PlanHanding on the Urban Landscape (Historic Cultural Heritage) and Revitalizing the Community’, Shuji FUNO, Yasushi TAKEUCHI)である。

 その復興地区計画のための1.指針としたのは以下である。

 

1 コミュニティ主体の復興計画

復興を全て公的な援助に頼ることはできないし,財政の問題もあって現実的ではない。しかし,被災者が自力で復興に取り組むには限界があるし不可能である。また,こうした復興をすべて自助にゆだねることは公的責任の放棄である。ただ,国,自治体が各個人の,また各地区の事情や要求に細かく対応することができないとすれば,復興計画の主体として考えるべきはコミュニティであり,コミュニティによる共助がベースとなる。パダンのアーバン・コミュニティにはそうした相互扶助の精神と仕組みが維持されている。

2 参加による合意形成

 復興計画の立案,実施に当たっては地区住民の参加が不可欠である。計画に当たっては様々な利害調整が必要であり,地区住民の間で合意形成がなされなければ,その実効性が担保されない。コミュニティは,地区住民の参加による合意形成をはかる役割を有している。

3 スモール・スケール・プロジェクト

合意形成のためには,大規模なプロジェクトはなじまない。身近な範囲で復興,居住環境の改善をはかるためには,小規模なプロジェクトを積み重ねるほうがいい。

4 段階的アプローチ

すなわち,ステップ・バイ・ステップのアプローチが必要である。実際,被災地では,様々な形で自力で復興がなされつつある。個々の動きを段階ごとに,一定のルールの下に誘導していくことが望まれる。

5 地区の多様性の維持

地区に地区の歴史があり,また,住民の構成などに個性がある。復興計画は,地区の固有性を尊重し,多様性を許容する方法で実施されるべきである。すなわち,市全体に画一的なやり方は必ずしもなじまない。

6 街並み景観の再生:都市の歴史とその記憶の重要性

地区の固有性を維持していくために,歴史的文化遺産は可能な限り復旧,再生すべきである。阪神淡路大震災の場合,被災した建物の瓦礫を早急に廃棄したために,町の景観が全く変わってしまった地区が少なくない。都市は歴史的な時間をかけて形成されるものであり,また,住民の一生にとっても町の雰囲気や景観は貴重な共有財産である。人々の記憶を大切にする再生をめざしたい。

7 コミュニティ・アーキテクトの活用

復興地区計画のためには,コミュニティ住民の要望を聞いて,様々なアドヴァイスを行うまとめやくが必要である。既に,地元大学の教官と学生たちが現地にオフィスを開いて住宅相談にのるヴォランティア活動を行う例が見られるが,そうした人材を各地区に配置する仕組み,援助の仕方が望まれる。

 

 そして,2.行動計画の冒頭に次のように書いている。

 「以上のような指針も,具体性を欠いては意味がない。問題となるのは,予算であり,人材である。以下に,しかし,できることから一歩ずつ進めるというのが以上の指針である。以下に,パタン旧市街の復興計画についていくつかの具体的行動計画を示したい。」

ここで復興計画の主体として念頭に置くのは,パダン市など自治体とコミュニティ組織であり,中央政府の各部局がそれをサポートする体制である。それらが立案する以下の行動計画を,UNESCOなど国際機関,文化遺産国際協力コンソーシアム,JICAなど各国政府機関,NGOグループ,国際ヴォランティア・グループ,インドネシアとの大学間交流など様々なレヴェルの協力体制が支える,というのが前提となる。

西スマトラ地震から1年半,東日本大震災の発災(2011311日)後,筆者は,日本建築学会の復興部会の部会長(201113年)として,復興支援に当たった経験がある。基本方針としたのは,西スマトラ地震の際の指針と基本的に同じである(「東日本大震災復興計画 地域社会を主体とするまちづくり制度(コミュニティ・アーキテクト制)の確立」など)。この指針のさらにもとになっているのは阪神淡路大震災の経験である。

5 地区の多様性の維持,6 街並み景観の再生:都市の歴史とその記憶の重要性,7 コミュニティ・アーキテクトの活用という指針に照らすとき,JICAの支援スキーム,生計回復,コミュニティ再生の実現(Task Force 4)が基本となる。そして,シギ県の中小企業局の復興支援の活動は極めて興味深い。問題は,地域コミュニティ再生をオルガナイズし,リードしていく人材(7 コミュニティ・アーキテクトの活用)である。

西スマトラ地震の際には,パタン旧市街の復興計画について,実際に被災した街並み調査を踏まえて,住宅修復・再建技術基準・マニュアルの作成,重要歴史的建造物のモデル復元,景観形成地区の制定と建景観築ガイドラインの作成,地区の景観イメージの作成, コミュニティ・アーキテクトの活用を提案したのであるが,今回の調査は,具体的な行動計画,支援について提言するには,情報収集が不十分である。

とりあえず,言えるのは,

J 経験交流を深める中で,特に,地区の形成過程,街並み景観,文化遺産,人材などに関する調査を共同で展開することである。JICAの支援スキームのなかには,復興まちづくりについては,東日本大震災の被災自治体(釜石市,東松島市など)との経験交流が含まれている。 

具体的に提案できるのは,

K シギ県クルラハン・カラウィ(G)のような試み,クルラハン単位の生計回復,コミュニティ再生のプロジェクトを拡大していくことである。ここにはJICAヴォランティアの参加も考えられる。ユネスコ・ジャカルタ事務所では,ロンボク地震後に伝統的な織物を生業とする村の復旧復興を支援を展開するが,地域の伝統を踏まえ,その文化遺産を様々に活用していく,多様な試みが期待される。

そして,コミュニティ・アーキテクトの参加については,

L タドゥラコ大学などの学生たちの参加が考えられる。タドゥラコ大学の学生たちは,発災後の復旧に当たって,多くがヴォランタィアとして参加している。その連携関係を持続的なものとして構築していくことが考えられる。また,大学の教育研究活動の展開としては,Eの作業と並行して展開していくことが考えられる。

繰り返すことになるが,どんな指針や提言も,具体性を欠いては意味がない。問題となるのは,予算であり,人材である。

ユネスコと世界銀行のポジション・ペーパー「CURE都市再建と回復における文化CUlture in City REconstruction and Recovery」(UNESCO+The World Bank, 2019)は,第3段階(Phse 3)で,資金調達に触れている。資金源の確保,土地資源管理,地価の把握,区画整理,自治体の予算措置については,本調査ミッションを超えた問題である。


参考文献・入手資料

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