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2023年5月27日土曜日

集まって住む原理ー元倉真琴論,建築思潮Ⅴ,学芸出版社,199703

 集まって住む原理ー元倉真琴論,建築思潮Ⅴ,学芸出版社,199703

元倉真琴論

集まって住む原理

布野修司

 

 コンペイトウ

 元倉真琴はいわゆる派手な建築家ではない。奇を衒った造形を弄んだり、流行の哲学用語をまぶした難解な建築論を振り回したりする建築家とは資質が違う。

 熊本アートポリスの竜蛇平団地で日本建築学会賞を受賞することがなければ一般にはそう着目されなかったかもしれない。こつこつと作品を作り続ける堅実な建築家であり、そうだと思われてきた。

 同世代の建築家と比べてみるとわかりやすいだろう。元倉は東京芸術大学の出身だ。例えば、東大の石井和紘。彼の場合、口八丁手八丁の建築家(?)のイメージがあるが、建築家としてのデビュー以前になにがしかのスターであった。学生時代から建築ジャーナリズムでその名を轟かせていて、直島小学校による幸運なデヴューも二〇代半ばと早い。例えば、早稲田の重村力。彼は建築家’70行動委員会の闘士であり、やがて象グループのスポークスマンの役割を任じることになる。東京芸術大学の修士課程を終えて槙文彦の事務所へ入所することになる元倉の場合、ごくオーソドックスに建築を学ぶ道を選んだように思える。

 見るところ、東京芸大系の建築家には文章書きは少ない。いわゆる、寡黙に器用に建築を作り続けるタイプの建築家が多いという印象がある。吉村順三スクールと言えばわかりやすいのだろうか。良質のモダンリビング住宅を作る「うまい」住宅作家のイメージがある。『住宅建築』誌が比較的そうした作家の動向をフォローしているところだ。住宅の設計をベースにしてきた元倉真琴も基本的にはそうした住宅作家の系譜に位置づけられるのであろうか。

 しかし、僕の見る元倉真琴は少し違う。ただ、質の高い住宅を寡黙に作り続けるといったタイプでは決してない。僕は元倉真琴の少し下の弟の世代として接してきたのであるが、彼もまた石井和紘や重村力と同様、「スター」であった。彼は、井出健、松山巌らと「コンペイトウ」というグループを結成していて、真壁智治、大竹誠らの「遺留品研究所」とともに、なにやら面白そうなフィールド・スタディーを『都市住宅』誌などにたて続けに発表していたのである。僕ら(三宅理一、杉本俊多、千葉政継ら)が、「雛芥子(ひなげし)」と名乗るグループを結成したのは多分に「コンペイトウ」の影響であった。そして、「コンペイトウ」の書斎学派と言われた井出健、松山巌の二人と僕らは、すぐに出会うことになった。雑誌『Tau』を通じて知り合い、同時代建築研究会などで親しく交わることとなったのである。「コンペイトウ」という若き建築集団は七〇年代初頭の建築ジャーナリスムにその初々しい足跡を鮮やかに残している。

 

 「最近代式住宅の作り方」

 元倉真琴について、まず指摘すべきはその驚くべき一貫性である。その初心に拘り続ける軌跡になるほどと思う。もちろん、その初心が何で、一貫性が何かが問題である。元倉真琴の初心は、幸いなことに、『アーバン・ファサード』(住まいの図書館出版局 一九九二年)にうかがうことができる。自ら、その初心を振り返る一書をものしてくれているのである。

 初出の日付を見ると、一九七一年から七二年にかけての『都市住宅』誌がその舞台だったことがわかる。記憶が蘇ってくる。「雛芥子」のメンバーは、その頃大学の三,四年生だ。建築を学び始めた僕らは元倉の作品を貪るように読んだのである。その内容の中心は元倉真琴の修士設計であった。

 強烈な印象に残っているのは「最近代式住宅の作り方」である。

 」その作法は主に二つである。「置くこと」と「くっつけること」である。」。単純な言い切り方が新鮮だった。

 1.まず始めにキュービックなBOX 2.屋根を斜めにカットする 3.床を空間に自由に置く 4.はしごをかける 5.床を持ち上げる 落とし込む 6.装置を置く 内部空間完成 7.外皮に穴をあける 8.外部に出っ張り装置をつける 9.内部外部のペインティング

 ああこうやって住宅は設計するのか、簡単なんだ、などと受け止めたわけではない。チャールズ・ムーアなど当時話題を呼んでいた建築家の作法を見事に分析して見せた鮮やかさに何か(皮肉めいた意図)を感じたのだと思う。

 いずれにせよここにあるのは原理的な思考である。この原理的思考は、今日の「FH(フューチャー・ハウジング)保谷2」まで変わらない。そして、その思考がフィールド・サーヴェイに基礎を置いて組み立てられるところに大きな特徴がある。街を歩きながら、元倉真琴は考え始めた。変わるものと変わるもの、変転する表層と都市の構造を読みながら、ある原理、作法を求めてきたのである。

 

 アーバン・ファサード 

 「なぜ、「私の街」を歩いたかについて」の中で元倉は書いている。

 「当時私は何というテーマを持てないまま、ただ興味のあるものだけをひたすら身近に集めてくるということをやっていた。C.ムーアやR.ヴェンチューリのやり方。B.ルドフスキーの扱うようなプリミティブな世界。C.アレグザンダーの方法論。自分たちで建築をつくってしまうこと(セルフビルド)。ドーム・クック・ブックやホール・アース・カタログ。そして街を歩いて採集すること。キッチュ。ポップ。マンガ・・・など。」。

 ここで挙げられている世界は僕らの世代が共有していたものだ。セルフビルド、ヴァナキュラー建築、・・・建築の問題をごく身近な日常の身体感覚において捉えるのが僕らの出発点であった。

 元倉は、さらに次のように言う。

 「製図板に向かうより、街を歩くことがよりラジカルであった。街頭闘争や新宿西口のフォーク集会のように、街は状況によって全く違った者になることを知った。そして、街は対象化されるものではなく、自分たちで獲得できるものだと考えた。みんな都市について考えていた。そして多くの人たちが街を歩き、街に参加し、考え、そして表現した。屋台を採集する者。木賃アパートを調査する者。・・・・」。

 「都市は巨大な着せ替え人形だ!」というサブタイトル、あるいは『アーバン・ファサード』というタイトルにしても、元倉の関心が建築の表層にのみあるかのような誤解を与えるかもしれない。自ら明言するように、元倉の方法は、R.ヴェンチューリに大きな触発を受けたものだ。『コンプレッキシティ・アンド・コントラディクション・イン・アーキテクチャー』(『建築の多様性と対立性』 伊藤公文訳 鹿島出版会 一九八二年)『ラーニング・フロム・ラスベガス』(『ラスベガス』、石井和紘、伊藤公文訳 鹿島出版会、一九七八)は、僕らのバイブルであった。

 その理論が、表層デザインに拘る多くのポストモダン建築を産んだのは確かだ。しかし、元倉の立脚点は、以上のように異なる。「街は自分たちで獲得できるものだ」という認識があってアーバン・ファサードなのである。

 

 ブリコラージュの世界

 「実際の都市を見ると、日常的に変化をしているのは、基本的システムに無関係な表面であり、置かれたり、付加されたりしたところであることがわかる。」という認識は、都市のマイナーなエレメントとその集合の形態へ眼を向けさせる。しかし、だからといって基本的システムに無縁な要素に集中すればいい、というわけではないのである。「日常的な個々の意識によって個別的に変化し、その変化の集合体が都市全体を変化させていると認識したとき、私たちが都市環境について考えねばならないことは明確になると考えているのである。つまり、都市の日常的変化の内容と人の生活の現象との関係だ。」と書いているのである。

 「中心テーマは「個の自律性」「個から全体へ」「日常性へ」そして「解放」であった」。

 ブリコラージュだと松山巌はいう(「ブリコラージュの街」『アーバン・ファサード』解説)。

 「元倉が街で見ようとしたものも、確立した何か、単一な価値の中にある何かではなく、人々が参加し、補完し、それ自体は消えても、連綿として痕跡を伝える何かではなかったろうか。たとえば、看板やポスター。決まった大きさなどなく、手元にある材料で作られる。例えば、植木鉢。何かを梱包していた発泡スチロールの箱が鉢に替り、みかん箱が棚になる。人々が街のなかで、見つけ出し、みずから器用に工作する。すなわちブリコラージュする世界である。」

 松山もこのブリコラージュの世界を共有していた。元倉と松山の交流については、松山巌の『闇のなかの石』(文芸春秋 一九九五年)が触れている。「カオス」の章だ。コンペイトウの仲間で蓼科にセルフビルドの小屋を建てたこと、東京上野の「アメ横」調査のことなどが追想されている。五階建ての共同ビルに建て変わった「アメ横」について、松山はつぶやく。

 「調査し、分析しその上でビルを考えても結局はこうした白らけた箱を造ったに違いないとも、いや、全く別のものが造れた筈だとも想う。アメ横の中を歩き廻って求めていたものは一体何であったのか。」

  文筆家と建築家に二人の道は分かれた。松山の方が建築を突き抜けたというべきであろうが、建築以前に何かが共有されていたことは間違いない。

 

 集合住宅から街へ

 元倉真琴は、一貫して自らの仕事の奇跡を振り返る。

 一戸から二戸へ、二戸から四戸へ、四戸から八戸へ、その作品は徐々に拡がってきた。「岸上邸」(一九八一年)、「高橋邸」(一九八二年)、「小田原の住宅」(一九九五年)は、都市型住宅の原型としてのコートハウス(中庭型住宅)の試みである。「星龍庵」(一九九三年)は、テラスハウスの系列として連続的に街並みをつくる試みである。「巣鴨の二世帯住宅」(一九九四年)は、集合住宅の原型である。「QUAD」(一九九〇年)は四戸の集合住宅である。そして、「池上の集合住宅」(一九八九年)は八戸の集合住宅である。

 個が集まって街をつくるというテーマが執拗に試みられているのは一目瞭然である。小さなエレメントがどう集まると街になるのか、それが一貫するテーマである。

 「静宏荘」(一九九三年)では、三階建て五八戸のアパートメントハウスとなった。そして、日本建築学会賞を受賞することになった「熊本県営竜蛇平団地」(一九九三年)がある。街のモデルへと到達したとみていい。「S市営住宅団地案」(一九九四年)、「長野市今井ニュータウンF2ブロク」(一九九六年)、「大阪府営なぎさ団地」(一九九六年)とプロジェクト案が続く。

 建築家としてのトレーニングの上では、槙文彦を師としたことも一方で大きいと思う。建築家による集合住宅作品として評価の高い「代官山ヒルサイドテラス」に一貫して関わってきた経験は決定的である。その数期にわたる建設プロセスは、都市的なコンテクストにおける住居集合のあり方のひとつの解答、モデルとなっているのである。その仕事の全容は、『ヒルサイドテラス白書』(住まいの図書館出版局、一九九五年)にまとめられるところである。

 元倉を自らの以上のような奇跡を振り返るにあたって、しばしば、九龍城の写真を引く。いまや解体されて跡形もないのであるが、個々ばらばらに増改築を繰り返したような高層ビルのファサードである。あるいは、ニーベルソンという彫刻家の多様な形態がつまった箱を積み上げた作品を取りあげる。個々はばらばらで、それが集まってひとつの街をつくりあげる、その方法を一貫して追及してきたのである。

 元倉は最近「アジア的な住まい環境のモデル」ということを口にし出している。下町育ちらしい身体感覚に基づいているのだと思う。次のステップのテーマは見えているらしい。

 

 FHプロジェクト

 一方でたどり着いたのが「FH(フューチャー・ハウジング)プロジェクト」である。大成プレファブとの協同による「工業化工法による集合住宅のプロトタイプ」設計の試みである。

 もちろん、以上のような一貫するテーマの延長にFHプロジェクトはある。しかし、工業化工法を前提とすることにおいて、ひとつの制約を与えられると同時に、別の可能性も開くものである。集合住宅生産の工業化という課題は日本においてようやく現実に問われ始めたところであり、建築家が真に取り組むべき課題である。元倉は、ごく自然にその課題に向かったのだといえる。繰り返すように、元倉はもとより単なる住宅作家としてなど出発していないのである。

 FHプロジェクトにおける元倉の提案はさすがと思わせるものだ。集合住宅についてじっくり考え続けてきた建築家ならではのコンセプトの提示がある。例えば、立体ユニットの提案がある。各ユニットを媒介するインターフェイシング・ユニットの提案がある。住戸ー集合住宅ー街あるいは住居ー道ー集合住宅のヒエラルキーをこれまでのスタディーに従ってシステム化するのである。

 FHプロジェクトの特徴は、例えば、大阪ガスの「NEXT21」プロジェクトと比べてみればはっきりするであろう。「NEXT21」の場合、基本的なコンセプトは立体的な人工地盤である。諸インフラがビルトインされたスケルトンとして躯体が構築され、そこに既存の生産システムによる個々の住宅が組み込まれる。オープンなシステムが目指されている。

 それに対して、FHプロジェクトは、居住空間は領域ユニットとして予め限定される。建築家として空間の型を提案する構えは崩されていない。そして、サブシステムも空間の分節として意識され、街をつくっていく表現の問題として捉えられている。

 もちろん、元倉真琴のプロトタイプが唯一の正解ということではないだろう。また、それが日本の風土に根づいていくかどうかは別問題である。しかし、こうした試みこそ建築家の仕事ではなかったか。そうした意味では元倉の仕事は際立っているといえはしないか。もっと数多くの実験が繰り返されるべきなのである。

 コンペイトウの仲間たちと街を歩き回って考え続けたことを具体的にプロジェクトとして展開しうる、そんな時代がようやく訪れた。その地に足のついた持続する志をつくづく頼もしく頼りに思う。

 


2023年5月26日金曜日

2023年5月25日木曜日

41 凝固剤の問題,周縁から41,産経新聞文化欄,産経新聞,19900604

 

41 凝固剤の問題,周縁から41,産経新聞文化欄,産経新聞,19900604

41 凝固剤           布野修司

 

 御徒駅前の新幹線の工事現場での道路陥没事故以来、土壌を固める凝固剤がクローズアップされている。凝固剤の注入量不足が陥没の第一の原因とされたからである。

 事故以降、各地の地下トンネル工事現場で抜取り調査が行われたが、凝固剤が注入してあっても強度が足りない例が多いのだ。まず、指摘されるのは、注入量不足が起こる慢性的な構造である。凝固剤そのものの単価は安いのであるが、なにせ量が莫大である。その量を節約すれば、かなりの費用をうかすことができる。つい手抜きをしてしまう、というのが一点である。残念ながらここでも業界の重層的な下請構造がそうした手抜きを生む原因でもある。

 また、事故さえなければ凝固剤の効果が問われないという問題もある。設計においては、ある強度を想定し、凝固剤の使用を前提とするだけである。そうした現場と設計の解離の問題がもう一点である。地盤は決して等質ではないし、理論のみでは扱えない面をもつのである。

 凝固剤の問題がクローズアップされることにおいて、否応なく考えさせられるのがこのところの地下開発ブームである。大規模な地下空間を利用する様々なプロジェクトが華々しく打ち上げられているのであるが、なんとなく砂上の楼閣ならぬ、砂の中の楼閣のように思えてくるのだ。

 凝固剤の大量使用については、何故かあまり指摘されないのであるが、もうひとつ別の問題がある。地下水汚染などの問題である。凝固剤そのものは、水ガラスといわれる珪酸ナトリウムが主体でそれ自体人体に影響はない。しかし、凝固のスピードをコントロールするために加えられる物質に有害なものが含まれる場合があった。また、人体に影響なくても、塩分など、水に溶けてコンクリートなどの劣化を招くものが含まれる可能性がある。大規模な地盤改良はそんなに容易なことではないのである。



2023年5月24日水曜日

「象設計集団」北へ,周縁から40,産経新聞文化欄,産経新聞,19900528

 「象設計集団」北へ,周縁から40,産経新聞文化欄,産経新聞,19900528


40 「象設計集団」北へ行く         布野修司

 

 「象設計集団」が本拠地を東京から北海道の十勝平野へ移した。「象設計集団」といえば、今帰仁公民館(七五年)、名護市庁舎(八一年)など、七〇年代における沖縄の仕事で知られる。もちろん、その後、各地ですぐれた作品をつくり続けてきているのであるが、地域空間の古層を掘り起こしながら独特の表現を生み出した沖縄の一連の作品は今なお強烈である。しかし、その「象設計集団」が、何故、今、北海道なのか。

 細かいいきさつは知らない。「象設計集団」にしてみれば、「常に現場にむかうだけ」ということだろう。「象設計集団」は、もともと、チーム・ズー(動物園)と総称し、各地に「いるか」とか「龍」とか「ガルーダ」とかいうネットワークの拠点を持っているのである。本拠地はどこにあってもいい、本拠地はあらゆる地域にありうる、ということなのだ。

 中央にいて各地の建築を手掛けるというスタイルをとる建築家は数多い。というより、著名な建築家は全てそうだろう。一方で、地域に拘り続ける建築家も無くはないけれど数は少ない。建築界にも中央集権的構造は根強い。仕事の流れにしても、情報の流れにしても、中央が地方に対して優位にたつ、そんな構造は揺らいでいないのだ。そうした中で、東京を離れる「象設計集団」の姿勢は、大きなものを建築界に突きつけていると言えはしないか。

 東京は忙しすぎる、じっくり考えてじっくり造る時間が無い、経費もかかる、いっそ雄大な自然のなかで仕事をしよう、きっかけはただ単にそういうことであったのかもしれない。仕事がきっかけとなっただけかもしれない。「象設計集団」ほどの実績とパワーがあってはじめてなしえることかもしれない。しかし、地域に拘りながら南から北へ日本列島を駆け上がるその軌跡には何か新しい建築家集団のイメージがある。ネットワークは海外にも広がっている。「象設計集団」の今後にますます期待が膨らんでくる。



2023年5月22日月曜日

未来の読者は無数,建築雑誌,200801

 未来の読者は無数,建築雑誌,200801


未来の読者は無数

布野修司

 成功も失敗もない、どの号にも全力投球したから、「成功した一冊」と言われるといささか考え込むが、印象深いのは2002年1月号「建設産業に未来はあるか!?」であろうか。いきなりメガトン級の批評が寄せられた。その記事を取り上げるについて、理事会で問題にされかけるなど、不愉快な思いもしたけど、実にうれしかった。反応があるということは読まれているということである。いきさつは「編集長日誌(ブログ)」に全て書いたー以降の編集長が「編集長日誌」を引き継がないのは遺憾であるー。

1月号から「カラー頁」を導入したーこれは編集長の意向というより事務局の強い要請であったー、「顔写真」はやめた、短い文章に「はじめに」「おわりに」はやめた、「ニュース欄」の頁数を大幅に削減した、「総合論文集」なるものに一号分差し出した、「月初めに届く」ように締め切りをどんどん早めた・・・まずやったのは紙面刷新であった。

 もうひとつ印象に残っているのは、1200??●号記念のアジア特集{20032月号●?}であろうか。第4回ISAIA(アジア国際学術交流シンポジウム、重慶)に乗り込んで、座談、対談と自らかなりの記事をつくった。

 根っからの編集好きである。『同時代建築通信』『群居』『京都げのむ』と編集に携わり、今も『traverse 新建築学研究』に関わる。9.11が起こり、小泉内閣が船出した、そんな時代に、3万数千部の雑誌の編集長になれたのは実に光栄であった。とにかく楽しんだ。

 だらだらと編集会議はやらない。会議は二時間と決めて、あとはビールを片手に、建築をめぐって色んなことを話した。議論は弾み、多くを学んだ。編集委員が第一に楽しむこと!が編集方針であった。

 ジャーナリズムは所詮その日暮らしのジャーニー(旅)である。しかし、その日暮らしをしっかりと記録するのが最低限の役割である。読者は未来にも無数にいるのだから。





2023年5月21日日曜日

ローコストの美学,周縁から39,産経新聞文化欄,産経新聞,19900521 

 ローコストの美学,周縁から39,産経新聞文化欄,産経新聞,19900521 

 39(死語となった)ローコスト        布野修司

 

 地価狂乱もさることながら、建築費の値上がりもひどい。職人さんが足りず、建設期間が延びる。建設ブームで資材も足りない。値上がりも当然なのであるが、東京都区内で坪(三・三平方㍍)単価が百万円を超えると聞くと唖然としてしまう。そして、さらに驚くのはこの建築費の値上がりがそう異常なこととは思われていないことである。建築の価格を下げる努力をすることが無意味なほど土地の価格が高く、建築に少々お金をかけてもたいしたことはないという感覚がかなり広まっているのである。

 できるだけ安く、できるだけ質の高い建築をというのは、戦後建築家の指針であった。しかし、ローコストというのは今やテーマになりえないようにも思える。プレファブ住宅を見てみると、その事情がわかりやすい。ローコスト住宅というと、かえって売れないのである。豊かなイメージだけがそこでは求められているのだ。

 しかし、ローコストといっても、ただ単に安ければ安い方がいい、というわけではないだろう。安かろう悪かろうでは敢えてローコストをうたう意味はない。建築というのは、ただお金さえかければいいということはないのである。建築の評価が坪単価によってなされるのは馬鹿げたことだ。

 ローコストというのは、必ずしもコストの問題ではない。ひとつの美学であった。豊かにものを付加していこうというのではなく、余計なものをできるだけそぎ落とそうとする、「レス・イズ・モア」(少なければ少ないほどいい)というモダニズムの美学がそうである。そうするために、かえってお金がかかったりする。一方、その禁欲的な美学を批判し、過剰なデザインを競うのが、ポストモダンの建築である。

 だがしかし、単にデザインの問題としてではなく、もう少し、素朴にローコストということを考えてみる必要があるのではないか。思想も美学もなく、漫然とお金を使うのは愚かなことだと思う。





2023年5月20日土曜日

GLショー、夢と現実,周縁から38,産経新聞文化欄,産経新聞,19900507

 GLショー、夢と現実,周縁から38,産経新聞文化欄,産経新聞,19900507

38 GLショー(の豊かさと貧しさ)     布野修司

 

 毎年、連休前半にGLショー(東京国際グッドリビングショー)が開催される。今年は、「新しい時代の住まいが見える」をテーマに四月二七日から六日間開かれ、三〇万人を超える人々を集めた。大変な人気である。

  リビングショーがこうも人々をひきつけるのは、住まいの豊かさが真に求められ始めたからだといわれる。もちろん、連休中、狭い家で所在なく、遠出もおっくうだというので、せめて豊かな住まいの夢でも見ようという層も多い。しかし、気に入ればその場でモデル住宅や別荘用のログハウスを買ったりする層も増えているのだ。今年印象的だったのは、やたらにアトラクションやパーフォーマンスが増えていることである。次第にお祭りのようになっていくのかもしれない。

 人々をひきつけるのは、まずハイテック機器である。コンピューター制御の電脳台所、ハイビジョン画面のホームシアター、様々なホーム・セキュリティーやホーム・オートメーションのシステムだ。一方、それと対比的に求められているのが、自然の肌触りである。桧のお風呂や木製の建具、木や瓦、石など自然の材料(あるいはそのイミテーション)によるインテリア・エクステリア用品が数多く展示されているのである。空気清浄器や浄水器など健康のための機器も目立つ。外国からの出品もぐんと増えている。

 しかし、一方、住宅事情の貧困をそのまま示すような商品も目につく。例えば、まるで床下収納のような地下室である。ワンルームマンションの一室である。地下車庫である。収納皿が回転するなど様々な工夫を施した収納家具である。半坪ほどのサウナである。異常に小さいバスタブである。よくよくみるとハイテクをうたう機器もサイズはこぶりのものが多いのだ。

 最新住設機器を見てみれば、日本の住まいの豊かさと貧しさが同時にみえてくる、そんなGLショーであった。



2023年5月19日金曜日

建設業界の構造的体質,周縁から37,産経新聞文化欄,産経新聞,19900430

 建設業界の構造的体質,周縁から37,産経新聞文化欄,産経新聞,19900430

37 (非関税障壁としての)談合体質     布野修司

 

 日米構造協議において、建築業界の構造的体質もまた大きく問題とされている。建設市場の解放が強く求められているのであるが、法規制、日本的慣行、業界の体質などがそれを阻んでいるというのだ。

 ツーバイフォー工法(木造枠組壁構造)による三階建木造住宅の輸入拡大のための建築基準法の改正がひとつの焦点である。建材などの様々な規格や基準も問題とされる。要するに建設に関する様々な法規制、基準が非関税障壁とされるのである。また、関西新空港など大規模プロジェクトの建設にあたって、米国企業の入札参加が求められている。具体的に、米軍施設の建設で談合が行われたと裁判沙汰も起こっている。

 日本の建設業界は独自のシステムと慣行をもっている。何も米国流のシステムを導入する必要はない。内政干渉だ、という意見もある。しかし、その体質を見直すいい機会であろう。業界が多くの問題を抱えてきたことは事実なのである。また、国際的な日本の立場から、その体質改善が強く求められていることも確かなのだ。

 日本の建設業界は、既に久しく世界のトップレベルにあるとされるのであるが、それを支えるのは依然として重層的な下請け構造である。不透明な談合体質もある。今日では独特のシステムとして評価されたりするのであるが、建設費が曖昧となって施主の利益を保護できないとか、ダンピングによって建築の質が落ちるとかで、設計施工一貫の請負体質に問題があるという指摘はずっとなされてきた。

 思い起こせば、戦後まもなく建設業界の封建的体質がGHQによって徹底的に問題とされたことがある。設計と施工の兼業の禁止も真剣に検討されている。外圧によらなければ、構造改革ができない体質は実に情けない。内政干渉という以前にやるべきことが山ほどありそうな気がするのである。



2023年5月18日木曜日

2023年5月17日水曜日

講演:都市美とアーバンアーキテクト,都市美協会,宇治市,19961031

 講演:都市美とアーバンアーキテクト,都市美協会,宇治市,19961031

平成8年度近畿地方都市美協議会 都市景観研修会

テーマ:都市美とアーバン・アーキテクト

1996年10月31日  13:00~

宇治市産業会館


布野修司(ふのしゅうじ)

京都大学工学部助教授/工学博士



経歴

1949年 島根県生まれ

1972年 東京大学工学部建築学科卒業

1976年 同大学院博士課程中途退学 同助手

1978年 東洋大学講師

1984年 東洋大学助教授

1991年 京都大学助教授~至現在

「インドネシアにおける居住環境の変容とその整備手法に関する研究」(学位請求論文)で、日本建築学会賞(論文賞)受賞(1991年)。現在、建築フォーラム(AF)、サイト・スペシャルズ・フォーラム(SSF)などで活動。建築同人誌『群居』編集長。


著書

『戦後建築の終焉・・・世紀末建築論ノート』      れんが書房新社  1995年

『戦後建築論ノート』                                     相模書房      1981年

『スラムとウサギ小屋』                                   青土社        1985年

『住宅戦争』                                             彰国社    1989年

『カンポンの世界』                                       パルコ出版   1991年

『これからの中高層ハウジング』              丸善          1992年

『建築・町並み景観の創造』                              技報堂    1993年

『十町十色』                       丸善          1994年

『戦後建築の来た道行く道』         東京都設計者厚生年金    1995年

『見知らぬ町の見知らぬ住まい』(布野修司編)       彰国社    1990年

『現代建築ーーーポスト・モダニズムを超えて』       新曜社    1993年

『見える家と見えない家』                 岩波書店    1981年

『建築作家の時代』(布野修司 藤森照信 柏木博 松山巌)   リブロポート  1987年

『悲喜劇・1930年代の建築と文化』 (同時代研究会編)  現代企画室  1981年

『作法と建築空間』(日本建築学会編)                     彰国社    1990年

『新建築学体系1 建築概論』(大江宏編)                 彰国社        1982年

『建築計画教科書』(建築計画教科書研究会編)             彰国社        1989年他


主な委員

1991年~        建築文化・景観問題研究会座長(建築技術教育普及センター)

1991年~        出雲市まちづくり景観賞審査委員長

1993年 8月~1995年 7月 滋賀県景観審議会委員

1993年 8月~1997年 3月 島根県しまね景観賞審査委員

                        島根県景観審議会委員

専門

 地域生活空間計画(建築計画 都市・地域計画)

平成8年度近畿地方都市美協議会  都市景観研修会

テーマ:都市美とアーバン・アーキテクト

1996年10月31日  13:00~

宇治市産業会館


  はじめに

 京都の景観問題 : 建築文化景観問題研究会

 島根県・滋賀県景観審議会委員  出雲まちづくり景観賞委員

  全国景観会議 


  ●テーマと結論

  アーバン・アーキテクト シティ・アーキテクト タウン・アーキテクトをアーバン・デザインの仕組みの中で位置づけたい その日本的コンテクストの中で考えたい

 

      マスターアーキテクト制

     :熊本アートポリス CTOクリエイティブ・タウン岡山 富山のまちの顔づくりプロジェクト:コミッショナー制

      シティ・アーキテクト:ベルリン

   建築市長:シュヴェービッシュ・ハル市34、000人

    大市長・・市長2 建築市長と財政担当市長 企画局が建築市長補佐

     ローテンブルグと違って新しいデザインも

   都市デザインコミッティー:ミュンヘン市 月一回

    フリーの建築家4 都市計画課3 建築遺産課1 州の建築遺産課1

    3年毎にメンバー入れ替え 権限は勧告のみ 否定拒否はしない

    →景観アドヴァイザー制度 景観パトロール


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    景観問題とは

  なぜ都市デザインか

  なぜ景観問題か:まちのアイデンティティーか。

   景観とは何か:landshaft:landscape 土地に固有な

       風景 風情 風水 景色 風光 ・・・

   まちのアイデンティティを消すもの:近代建築の理念

       ポストモダン 入母屋御殿


 1.景観形成の基本原理

      ・・・・『建築・まちなみ景観の創造』(技法堂)


   景観形成の指針ー基本原則

       地域性の原則

    地区毎の固有性

        景観のダイナミズム

    景観のレヴェルと次元

    地球環境と景観

        中間領域の共有

   景観形成のための戦略

    合意形成

    ディテールから

    公共建築の問題

    タウンアーキテクト

    まちづくり協議会

    景観基金制度


 2.景観形成の手法と問題点・・・具体的な事例を通して



 素朴な疑問

   ・京都の景観問題→高さのみが問題か


   ・景観条例と景観マニュアル・・・規制と規制緩和→誘導

     60年代後半 66金沢 倉敷 高山 京都     全国200→400

     1975 伝統的建造物保存地区 神戸 景観形成地区

     80年代 モデル事業 

     →伝統的建造物の登録制1996

    景観条例→地区詳細計画の日本版という位置づけ

     形態規制の問題 法的根拠 

     規制の根拠

      美観地区、風致地区は1919年より 屋外広告物取締法とリンク

      美観地区が生きているのは京都だけ 東京は条例をつくっていない

     →市街地景観整備条例 千代田区 鎌倉←法的根拠もつ

     ←専門家がどう関わるか


   ・公共建築の発注方式

     

     ・景観審議会は何をするのか:

    湖畔の高層建築:景観基準を守ればいいのか:視点場

      建築的配慮:立地が既に問題

      建築家の姿勢:コンセプトの稀薄性      


 ●SRIC DESIGN FORUM PROJECT 95 について

  『明日の都市デザインへーーー美しいまちづくりへの実践的提案』


意識醸成○調査

   ・デザイン・サーベイ

   ・景観評価 現状把握

    建築士によるモニター:写真撮影 記録

    町並みウオッチング 景観百選 景観記録

    ・・・ユニークな地域把握 校歌 方言 湧水分布 海からの景観

   ・景観賞  →マンネリ化

       各種イヴェント、啓発事業とのリンク

       アーバン・デザイン行政とのリンク

       顕彰委員会の構成の問題

    →アーバン・デザイン・コミッティーとのリンク


企画・計画

  

   ・街づくりの主体・・・縦割り行政の弊害

        駅前再開発:補助金制度:所有区分

    


   ・「伝統」と「地域」のステレオタイプ化

              出雲大社と古都慶州

              植民地建築・・・バタビア城と朝鮮総督府

              オーセンティシティと世界遺産

        本物 真実性 コピーとレプリカ  木造と石造

        維持管理のシステム/セッティング・周辺環境


   ・立体模型・・・ファーレ立川

   

    ・百年計画のすすめ・・・奈良町百年計画

                          京都グランドヴィジョン


実践○


  ○環境と建築のコラボレーション

   ・隙間のデザイン

     土木と建築 高架下のデザイン 空き地のデザイン


  ○工業製品

   ・景観材料・・・アジアの景観を探るーー材料の未来

    THINK GLOBALLY,DESIGN LOCALLY

        生態的側面、形式美学的側面、文化的側面、経済的側面

        PRESERVATION OF LANDSCAPE , CREATION OF URBAN LANDSCAPE 

        MANAGEMENT OF URBAN SPACE

    HOLISTIC APPROACH , LONG-TERM LANDSCAPE MASTER PLAN ,

    ECOLOGICALLY SOUND AND SUSTAINABLE DEVELOPMENT(ESSD)

    VISUAL COMPLEXITY

        SENSE OF LANDSCAPE   SENSE OF PLACE 

        サラダ・ボール: 一元的理論 アダプタブリー・リユース

        水の文化 アジアの多様性


    ○法制

      ・町家再生という課題・・・防火規制

    木造建築の再生手法

     ①文化財保護法98ー2 83ー3

     ②建築基準法3ー1ー3

     ③建築基準法67ー2

     ④都市計画区域の変更

  ○保存

    伝健地区42箇所

       登録文化財

    美観地区・風致地区

    屋外広告物法 禁止区域 自家用広告物は除外 創意工夫がない企業がつくる

    国立公園内

 

  ○アート構築物

    ファーレ立川


    ○調整


   ・公共事業の発注方式・・・公開ヒヤリングコンペの経験


      ・パートナーシップ方式・・ワークショップ方式



 3.景観形成と「アーバン・アーキテクト」


   ・「アーバン・アーキテクト」とは

    「シティ・アーキテクト」「タウン・アーキテクト」

    「コミュニティ・アーキテクト」


   ・地と図・・・・何故、アーバン・アーキテクトか


   ・アーバン・アーキテクトの仕事






2023年5月16日火曜日

近代の空間システム・日本の空間システム:都市と建築の21世紀:省察と展望特別研究41, 布野修司,建築類型と街区組織ープロトタイプの意味ー近代的施設=制度(インスティチューション)を超えてーー,日本建築学会,2008年10月 

 近代の空間システム・日本の空間システム:都市と建築の21世紀:省察と展望特別研究41, 布野修司,建築類型と街区組織ープロトタイプの意味ー近代的施設=制度(インスティチューション)を超えてーー,日本建築学会,2008年10月 

「建築類型と街区組織ープロトタイプの意味ー近代的施設=制度(インスティチューション)を超えてー」

                               布野修司(滋賀県立大学)

1.19791月以来、アジアの諸都市を歩き回っている。当初、東南アジア地域(アセアン諸都市)をフィールドとして、「地域の生態系に基づく住居システム」をテーマとした[i]。ハウジング計画の分野における近代日本のパラダイム(マス・ハウジング、51C、プレファブリケーション)に対する批判的検討がその大きな研究動機である。そして、サイツ・アンド・サーヴィス(宅地分譲)事業におけるコアハウス・プロジェクト、そしてセルフヘルプ・ハウジング(フリーダム・トゥー・ビルド、ビルディング・トゥゲザーなど東南アジアのNGOグループ)によるセルフ・エイド系を含んだ参加型のハウジング手法に強い示唆を受けた。

2.「地域の生態系に基づく住居システム」に関する研究は、「近代」以前の、地域に固有な住居集落の空間構成原理を解明する試みであり、その現代的再生への模索である。また、異文化理解の方法を問うことにつながった[ii]。この間、グローバルに、各地域を圧倒してきたのは、近代世界(空間)システムである。

 3.以上の研究遂行の過程で、スラバヤの「カンポンkampung(都市内集落)」に出会った[iii]。カンポンの空間構成原理を明らかにし、カンポン・ハウジング・システムを提案した[iv]

 4.カンポンについての調査研究は、「ルーマー・ススン(カンポン・ススン)」というインドネシア型「都市型住宅」の提案に結びついた。また、「スラバヤ・エコ・ハウス」の提案に結びついた。臨地調査―都市組織・街区組織の解明―型・モデルの提案―評価のサイクルは建築計画学研究の前提である。

 5.カンポンは、コンパウンドcompoundの語源であるという説(OED)が有力である。大英帝国が世界の陸地の1/4を占めていく過程でその言葉が世界中に広がった。一方、今日の世界中の都市の計画原理の基礎になっているのは、英国を中心として組み立てられた近代都市計画の理念であり、手法である[v]

 6.英国近代植民都市は、ニューデリー、キャンベラ、プレトリアの計画―建設(1910年代~30年代)において完成したと考える。しかし、近代植民都市の系譜には、それに遡るいくつかの系列がある。近代世界システムの形成にあたって最初にヘゲモニーを握ったオランダ植民都市に焦点を当てて植民都市計画を総覧することになった[vi]。さらに、スペイン植民都市もターゲットとなりつつある[vii]

 7.カンポンの調査研究は、「イスラームの都市性」[viii]に関する共同研究によって、もうひとつの展開に導かれることになった。イスラーム都市への関心は、西欧列強による植民都市以前に遡るアジアの都市、集落、住居の構成原理に関する関心に重なり合う。アジアの「前近代」における都市空間システムの系譜は、大きく、中国都城の系譜、ヒンドゥー都市の系譜、イスラーム都市の系譜に分けられる。

8.アジアの「前近代」における都市空間システムの系譜に関する研究のきっかけとなったのは、ロンボク島のチャクラヌガラという都市の発見である。以降の展開を集大成したのが『曼荼羅都市』[ix]であり、カトゥマンズ盆地のパタンに焦点を当てた『Stupa & Swastika[x]である。また、イスラーム都市について、まとめつつあるのが『ムガル都市』[xi]である。

 9.以上の広大な研究フィールドをつないで一貫するのが、都市組織urban tissue, urban fabric、街区組織、都市型住居に関する関心である。「アジアの諸都市における都市組織および都市型住宅のあり方に関する研究」[xii]、とりわけ「ショップハウスの世界史」が近年のテーマである。

10.戦後建築計画学の出発においてテーマとされたのは、それぞれの地域における生活空間の全体である。大都市の住宅問題が大きくクローズアップされたのは、それが大きな問題であったからである。公共施設の整備についても同様である。銭湯に関する調査研究も、貸し本屋に関する調査研究も、地域空間のあり方から掘り起こされたテーマであった。

11.しかし、一方、施設=制度=institutionを前提にしてしか自己を実現することのない「計画学」研究のアポリアがある。建築計画学の成立は、近代的な施設の成立、病院、学校、監獄・・・の成立(誕生)と無縁どころか密接不可分である。

12.以上のメモが明快にメッセージとするのは、タウンアーキテクト、コミュニティ・アーキテクトとして、フィールドから、地域から、街の中から、問題を立て、返せということである。コミュニティ・アーキテクト[xiii]については京都CDL(コミュニティ・デザインリーグ)[xiv]、そして「近江環人(コミュニティ・アーキテクト)地域再生学座」(滋賀県)によって試行しつつある。

13.「建築家」あるいは「都市計画家」、ここでいう「コミュニティ・アーキテクト」の役割とは何か。プロトタイプかプロトコルか、執拗に問う必要がある。



[i] 『地域の生態系の基づく住居システムに関する研究(Ⅰ)()(主査 布野修司,全体統括・執筆,研究メンバー 安藤邦広 勝瀬義仁 浅井賢治 乾尚彦他),住宅総合研究財団, 1981年、1991

[ii] 『住居集落研究の方法と課題Ⅰ 異文化の理解をめぐって』,協議会資料, 建築計画委員会,1988年。『 住居集落研究の方法と課題Ⅱ 異文化研究のプロブレマティーク(主査 布野修司分担 編集 全体総括),協議会記録,建築計画委員会, 1989

[iii] 『カンポンの世界』,パルコ出版,1991

[iv] 学位請求論文『インドネシアにおける居住環境の変容とその整備手法に関する研究---ハウジング計画論に関する方法論的考察』(東京大学)1987  日本建築学会賞受賞(1991)

[v]  『植えつけられた都市 英国植民都市の形成』,ロバート・ホーム著:布野修司+安藤正雄監訳,アジア都市建築研究会訳,Robert Home: Of Planting and Planning The making of British colonial cities、京都大学学術出版会、2001

[vi] 『近代世界システムと植民都市』、京都大学学術出版会、2005

[vii] J.R.ヒメネス・ベルデホ、布野修司、齋木崇人、スペイン植民都市図に見る都市モデル類型に関する考察、Considerations on Typology of City Model described in Spanish Colonial City Map,日本建築学会計画系論文集,616pp91-97, 20076月他

[viii] 日本における今日におけるイスラーム研究の基礎を築いたといっていい,「比較の手法によるイスラームの都市性の総合的研究」という共同研究(研究代表者板垣雄三 文部省科学研究費 重点領域研究1988-90)は,まさにイスラームの「都市性」に焦点を当てるものであった。

[ix] 『曼荼羅都市・・・ヒンドゥー都市の空間理念とその変容』,京都大学学術出版会,2006

[x] Shuji Funo & M.M.Pant, “Stupa & Swastika”, Kyoto University Press+Singapore National University Press, 2007

[xi] 山根周、布野修司、『ムガル都市-インド・イスラーム都市の空間変容』、京都大学学術出版会、近刊予定

[xii] 科学研究費補助研究、2006年~

[xiii] 『裸の建築家・・・タウンアーキテクト論序説』,建築資料研究社,2000

[xiv]  『京都げのむ』01-06、京都CDL

 


2023年5月15日月曜日

ワンルームマンション,周縁から36,産経新聞文化欄,産経新聞,19900423

 ワンルームマンション,周縁から36,産経新聞文化欄,産経新聞,19900423

36 ワンルームマンション         布野修司

 

 四月は新しい生活の始まる月である。新入生や新入社員も、引越しであわただしかった生活がようやく落ち着く頃である。

 若いひとたちの住まいというと、最近、木賃アパートというのは流行らない。専らワンルームマンション(一室形式の住戸を主体とする共同住宅)である。シャワー室かバスが付き、洒落たデザインの鉄筋コンクリート・マンションでないと若者にはうけない。仕送りする親はたまったものではない。

 ワンルームマンションというと、一頃大問題になった。その建設量が第一次ピークになった一九八四年頃のことだ。八八年頃第二次ピークとなり、その後、建設は減りつつあるのであるが、この地価高騰のあおりをうけて、郊外へとその建設は広がりつつある。それとともにワンルームマンション問題も郊外へ波及しつつあるのだ。

  ワンル-ムマンションは何故問題か。もちろん、ワンルームマンションが全て悪いというわけではない。若い単身者の住まいとしてなくてはならない役割を果たしている。ただ、問題の第一は、ワンルーム形式ということであまりにも狭小な住宅が供給されているという点である。

 また、問題の第二は、ワンルームマンションが、地域に対して極めて閉鎖的な形で建設されるという点である。ワンルーム居住者の単身者だけで閉じている。深夜に騒ぐ、ゴミを決められた日に出さない、自転車やバイクを路上にとめる、など、地域社会との軋轢は、その点から派生する。

 問題の第三は、特にワンルーム・リース(賃貸)・マンションの場合、その仕組みに問題があるという点である。すなわち、投機目的の所有者と入居者が全く匿名の関係であることである。大家さんが近くに居住する場合はまだ問題は少ないのであるが、管理がしっかりしないものも多いのである。

 そんな問題で、四月そうそうトラブルに巻き込まれるようでは困ったものである。若い層にとっても、住宅問題は実に深刻なのだ。



2023年5月14日日曜日

画期的な「作品選集」発刊,周縁から35,産経新聞文化欄,産経新聞,19900416

画期的な「作品選集」発刊,周縁から35,産経新聞文化欄,産経新聞,19900416

35 作品選集                布野修司

 

 日本建築学会から『作品選集』の第一号が発刊された。今後、毎年出されることになる。いささか皮肉めくかもしれないけれど、画期的なことである。

 『作品選集』というのは、近年竣工した会員の建築作品を選考し、作品集として編んだものだ。第一号には八〇作品が掲載されている。見開き二頁で一作品が扱われ、カラー写真、図面、設計主旨、選評によって構成される。

 カラー写真のせいで、『作品選集』は、一見、商業雑誌風に見える。『建築雑誌』(日本建築学会の機関誌)でカラーで作品が扱われるのはなかったことである。画期的なのは、日本建築学会が建築作品を『作品選集』ということでその評価も含めて扱ったことである。皮肉めくかもしれないというのは、建築学会だというのに、建築作品の評価について議論する場が、日本建築学会賞の選考の場などをのぞいて、これまでなかったからである。

 日本建築学会は、建築についての学術、芸術、技術の総合をうたうのであるが、明治期に造家(ぞうか)学会として創立されて以来の伝統で、技術に偏してきたきらいがある。また、作品の評価については、論文にならないということで、まともに扱ってこなかった歴史がある。専ら、作品の批評を展開してきたのは建築ジャーナリズムの側である。

 『作品選集』というのは、論文集と同じように、作品を発表する場と考えることによって発案されたという。建築ジャーナリズムに対して単に新たな権威づけをねらったものにすぎないとすればそう興味はない。期待するのは、建築批評の言語がその場を通じて鍛えられていくことである。建築批評の世界は決して豊かとはいえない。極論すれば、好きか嫌いかといった全体批評、漠然とした印象批評、また、使い勝手が悪いといった素朴機能主義的批評、あるいは、収まりがうまいかどうかといったディテール批評にとどまっているのである。



 

2023年5月12日金曜日

「ふるさと創生」のこと,周縁から34,産経新聞文化欄,産経新聞,19900409

  「ふるさと創生」のこと,周縁から34,産経新聞文化欄,産経新聞,19900409

34 ふるさと一億円             布野修司

  ふるさと出雲で、町づくりについて話す機会を得た。ふるさとで話すのはやりにくいけれど、ふるさとに対しては愛着もあり、それ故、期待もある。いまをときめく岩国哲人市長の出雲である。国際派市長の誕生で、出雲は活気にみちていた。トップダウンのリーダーシップにとまどいはあるにせよ、なにかが生み出されるそんな予感がしたのである。

 ところで、ふるさとというと、一億円である。各自治体で一億円はどう使われているのか。日本一のすべり台をつくろうとか、なかなかユニークなものがある。兵庫県津名町の金塊を買うというのは随分と話題になった。もちろん、実にかしこい、というのと、露骨でアイディアの貧困以外のなにものでもない、というのと、賛否両論があった。

 しかし、総じて言うと、一億円の使い方はワンパターンである。利子をプールして顕彰制度をつくるとか、奨学金制度をつくるというのは、金塊を買うのとそう違いはないのではないか。アイディアを探しに海外に視察にいくというのはあまりに物見遊山ではないか。最も多かったのは、アイディアが出なくてアイディアを募集するというものであった。

 ふるさと創生、町おこしに村おこし、ということで日本全国で地域活性化の試みが展開されているのであるが、不思議なのは、地域の独自性をうたいながら、全国似たようなことが行われていることである。

 住まいや町をみてもよくわかる。これはこの地域の伝統的な住まいです、地域に独特の住まいです、といいながら、全国一律、同じように、入母屋(いりもや)屋根の御殿風の家が建てられていく。どういうことだろう。ワンパターンの発想に問題がありはしないか。

 それぞれに固有な、地域毎に独自の町があればいい。ふるさとというのは、どこにもない、独自の町であって欲しい、そんな話をしてきたのだけれど。




2023年5月11日木曜日

日本にも都市型住宅,周縁から33,産経新聞文化欄,産経新聞,19900402 

 日本にも都市型住宅,周縁から33,産経新聞文化欄,産経新聞,19900402 

33 都市型住宅                           布野修司

  都市型住宅という言葉がある。じゃあ、田舎型住宅とか農村型住宅という言葉があるのかと言われると困るのだけれど、都市には都市にふさわしい住宅の型がある、という程の意味で使われる。

 都市型住宅として普遍的といっていいほど世界中で一般的にみられるのが中庭式住居(コートハウス)である。ギリシャ・ローマの時代に既に型として存在するし、イスラム圏の住居はコートハウスが基本である。中国の四合院、三合院と呼ばれる住居形式も中庭式である。

 中庭は光や通風など自然環境を保証すると同時に、内部の部屋を連結する機能をもつ。また、それ自体様々な作業のスペースとなる。都市的集住状況で中庭式住宅が生み出されるのは自然であり、よく理解できる。

 しかし、日本の場合、そうした都市型住宅の伝統は希薄である。坪庭をもった町屋の形式はあるのであるが、どうも一般的ではない。住宅の原型になっているのは、それこそ農家住宅なのだ。庭付き一戸建ての住宅に日本人は拘り続けているようにみえるのである。

 都市型住宅の対極にイメージされるのはそれだけで自律できる、例えば、自給自足とはいわないまでも、ゴミなども敷地内で処理できる自己完結的な住居形式であろう。庭付き一戸建ての住宅には、どうもそうした唯我独尊的なイメージがある。猫の額ほどの庭ではどうしようもないのに、「家庭とは家と庭です」といった意識にとらわれ続けているのは困ったものである。

 一方、建築家もまた責められていい。何故なら、都市型住宅のモデルを創り出すことをどうもさぼってきたと言えるからである。特に、中高層の都市型住宅についてそうである。ただ住戸を積み重ねただけの集合住宅があまりにも多い。また、様々な法規制から敷地の中央に塔のように立つパヴィリオン形式のものがほとんどである。

 都市の町並みをつくっていく上で、それにふさわしい都市型住宅が成立することは不可欠である。しかし、都心に庶民が住めない状況ではそんなことは望むべくもない。




2023年5月10日水曜日