このブログを検索

2025年10月25日土曜日

サント・ドミンゴ:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日

サント・ドミンゴ:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日 


L13 「新世界」最初の植民都市

サント・ドミンゴ Santo Domingo、ドミニカ共和国República Dominicana 

 サント・ドミンゴは、ニコラス・デ・オヴァンドによって建設された(1502年)アメリカ大陸最初の植民都市である。

現在のサント・ドミンゴは,ドミニカ共和国の首都で人口955000人(2010),カリブ海域でもキューバのハバナに次ぐ第2の都市である。東をオサマ川,南をカリブ海,北と西はかつての市壁で囲われた旧市街(ソーナ・コロニアルZona Colonial)は,約90ha116の街区からなり約15000人が居住する。

サント・ドミンゴの都市形成の過程は以下のようである。

クリストバル・コロンは、グアナハニGuanahani(サン・サルヴァドル)島へ到達し(1492年),最初の植民都市として,イスパニョーラHispaniolaEspañola島にナヴィダー要塞を建設する。「新世界」最初の砦であったが、,翌年訪れるとインディオの襲撃によって破壊されており,新たな拠点としたのがイサベラである。次弟のバルトレメオ・コロンによって,1496年から1498年にかけてヌエヴァ・イサベラが建設されるが、これもハリケーンにより破壊され、対岸にサント・ドミンゴが建設されるのである。オヴァンドはスペイン国王からスペイン人たちを集住させる要塞都市建設を命ずる勅許状と指図書を受け、ヌエヴァ・イサベルに分散居住していたインディオたちを集住させ,鉱山Sony_8GT:レポート済み世界都市史:Ⅲ-1-8 サント・ドミンゴの歴史的都市図:drake 1586001.jpg近郊にもインディオたちの集落を建設している。

サント・ドミンゴ(オサマ)要塞の建設は1505年より開始され,1507年にイタリア人建築家フアン・ラベJuan Rabeの設計によって,サント・ドミンゴ(「新大陸」)現存最古の建築であるオメナヘ塔Torre del Homenajeが完成している。都市建設について,具体的な指示が出されるのは1513年で,その指令を受けたのはペドラリアス・ダヴィラである。都市とその地域に命名すること,交通の便を考慮し,川,海などに接すること,そして,教会,広場,街路,私有地に土地を割り当てることなどが指示されている。

ラス・カサスがインディオの拷問・虐殺に対する良心の呵責から「回心」した場所として知られる聖ドミニコ会修道院(1510)や,サン・フランシスコ修道院(15241535)などの修道院・教会,サント・ドミンゴの中心に位置し「新大陸」すなわちアメリカ最初のカテドラルであるサンタ・マリア・ラ・メノール Santa María la Menor (1514着工~1540竣工)が建設される。また,アメリカ最初の病院・大学であるサン・ニコラス・デ・バリSan Nicolás de Bari病院 (15331552),サント・ドミンゴ大学 (15181538)も建設されている。

サント・ドミンゴの最も古い都市図は,1585年のフランシス・ドレイク Francis Drake (15401595)の遠征の時 に描かれたものである。(図1) この地図を見ると,市街地は矩形の街区によって構成されており、全体は市壁で囲われている。東南部に要塞が完成し,市街中央にはカテドラルが見える。西側の市壁には3つの門が設けられ,近郊の集落が描かれている。

サント・ドミンゴは,港湾に接する広場とプラサ・マヨールの2つを核としており、広場,教会など主要施設をグリッド状に配置するが、完全なグリッド・パターンをしてはいない。プラサ・マヨールの規模は124ヴァラ×124ヴァラで、都市図の残されたスペイン植民都市全体のほぼ標準である。

20世紀以前の住居は,ほとんどが2層以下の石造もしくは煉瓦蔵の中庭式住宅(パティオ・ハウス)である。最初期,15021509年に建設された住居はラス・ダマス通りに見られるパティオをもつ中庭式住宅である。当初,16世紀の間は二階建てが基本であったとされるが,17世紀以降平屋建てもみられる。邸宅を除けば,一定の形式をもった都市型住宅として,間口と奥行きによって類型化できる。

16世紀末期から18世紀半ばにかけて,サント・ドミンゴもイスパニョーラ島全体も,衰退と貧困の時代を迎える。ハリケーンや地震により建物が被害を受けるが修復する余裕はなかった。18世紀以降19世紀半ばまではほとんど発展はない。植民地時代が終わると市壁が市の発展の障壁になり,南西部にシウダード・ヌエヴァ(新都市)が建設され現在の都市形態に至る。Macintosh HD:Users:furutahirokazu:Desktop:casas.jpg








2025年10月24日金曜日

2025年10月23日木曜日

サン・クリストバル・デ・ラ・ラグーナ:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日

 サン・クリストバル・デ・ラ・ラグーナ:布野修司編:世界都市史事典,昭和堂,2019年11月30日


B48 サン・クリストバル・デ・ラ・ラグーナ-イベロ・アメリカへの発進基地

スペイン,カナリア諸島,テネリフェ島

   San Cristobal de La LagunaTenerife Islas CanariasSpain

 カナリア諸島は、北アフリカのモロッコ沖100km500kmの大西洋上に浮かぶ島々である。7つの島からなり、諸島全体でスペインの自治州を形成する。カナリアの名は、その原産地として鳥の名になっているが、ラテン語の「犬」に由来するという。7つの島のひとつテネリフェ島にアロンソ・フェルナンデス・デ・ルーゴ(?1525)によって1496年から97年にかけて建設されたのがサン・クリストバル・デ・ラ・ラグーナである。アロンソ・フェルナンデス・デ・ルーゴは、スペインのコンキスタドーレであり、ラ・パルマ (14921493)に続いてテネリフェ島 (14941496)を征服し、サン・クリストバル・デ・ラ・ラグーナの他サンタ・クルス・デ・テネリフェ、サンタ・クルス・デ・ラ・パルマを建設している。

 その建設は、クリストバル・コロンが第2次航海を終えて帰国し、第3次航海へ出立しようとする頃であり、アメリカ最初のスペイン植民都市、イスパニョール島のサント・ドミンゴの建設はまだ緒に就いたばかりの頃である。

 カナリア諸島には、古来、ベルベル系のグアンチェ族が居住してきた。その後、アラブ人、ノルマン人、ポルトガル人が往来し、領有してきた。1402年にカスティーリャ王国が入植を開始し、ポルトガルとの抗争となる。王位継承問題も絡み、1476年のアルカソヴァス条約によって、アゾーレス諸島などの航海権はポルトガルが獲得、カナリア諸島の支配権のみスペインが得ることになる。コロンの「新大陸」発見とともに、イベロ・アメリカへの発信基地として建設されたのが、サン・クリストバル・デ・ラ・ラグーナである。

 テネリフェ島には火山島であり、スペインで最高峰となるテイデ山(3,718 m) が南西部にそび える。島の北東の海岸から14km内陸に入った標高550mの平地に建設された街には城壁がない。初期のスペイン植民都市は、サント・ドミンゴにしろ、ハバナにしろ、城壁をもつが、先住のグアンチェ族と大きな抗争は想定されていなかったことを示している。また、後にスペイン植民都市の代名詞となる直交座標によるグリッド・パターンの街路体系を厳密に採用しているわけでもない。チェーザレ・ヴォルジアが1499年に占領し、レオナルド・ダ・ヴィンチに詳細な地図を描かせた北イタリア・ボローニャ県のイモラ(1502)(図①)を基にしたというが、年代は合わないし、そもそも城壁はない

 1588年のトリアーニの地図(図②)と現在の地図(図③)は突き合わせることが可能であり、当初の計画を窺うことができる。アデランタド広場を中心に、市庁舎、レルカリオ宮殿、コンセプシオン教会サンタ・カタリナ・デ・シエナ修道院、市場などによって構成される。 現在のサン・クリストバル・デ・ラ・ラグーナは、18世紀までに築かれた山の手地区とラグーンに接する下町地区からなる。1701年には、カナリア諸島初の大学(ラ・ラグーナ大学)も開学した。1819年にはヌエストラ・セニョーラ・デ・ロス・レメディオス大聖堂が建設され、司教座が置かれている。

 木製のバルコニーが特徴的な中庭式住居の街並みが残されており、1999年には、ユネスコの世界文化遺産に登録されている。

【参考文献)】

 布野修司・ヒメネス・ベルデホ,ホアン・ラモン(2013)『グリッド都市-スペイン植民都市の起源,形成,変容,転生』京都大学学術出版会










布野修司 履歴 2025年1月1日

布野修司 20241101 履歴   住所 東京都小平市上水本町 6 ー 5 - 7 ー 103 本籍 島根県松江市東朝日町 236 ー 14   1949 年 8 月 10 日    島根県出雲市知井宮生まれ   学歴 196...