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2023年7月30日日曜日
2023年7月29日土曜日
女性と建築,周縁から66,産経新聞文化欄,産経新聞,19910128
女性と建築,周縁から66,産経新聞文化欄,産経新聞,19910128
66 女性と建築 布野修司
女性の建設労働者がこの間話題になっている。男女雇用機会均等法と現場の労働者不足を背景にしてのことだ。女性の鉄筋工のチームをつくったある工務店は応募者が殺到しているのだという。
女性は建設現場には向かないというのが定説であったが、実際やってみるとそうでもない。作業能率は男性にまさるともおとらない。現場の機械化で、力仕事が必ずしもいらなくなったせいだ。大型クレーンを自在に扱う女性オペレーターも出現し始めている。実に格好いい。
女性が現場に入り出すことによって現場は変わりつつある。まず、現場がきれいになる、喧嘩が減る、無茶が減って事故が少なくなる、そんな変化はすぐに現れるのだという。現場の魅力がないのは、現場の環境が快適でないことも大きいのである。
労働者不足問題の解決を、外部にもとめること、すなわち、これまで現場の戦力と考えられなかった外国人や高齢者に期待することはいささか安易である。女性についてもそうだ。労働者不足の問題は、もう少し本質的である。問題の本質は若い人たちの新規参入であり、出生率が低下する中で、職人不足の問題は構造的だからである。
しかし、労働者不足の問題と離れて、女性の建築界への進出はもっと歓迎されていい。もともと大学の建築学科は工学部のなかでは女子学生の数が多いのであるが、各大学ともこのところいっそう増えつつある。好ましい傾向だ。住まいの設計を考えても、女性の視点は欠かすことはできないのである。
しかし、例えば、女流建築家というとまだまだ少ない。女性の社会進出を阻む一般的な社会環境に加えて現場が女性を排除してきたからである。数が少ないから、特定の女流建築家には光があたるのであるが、女性が建築界で活躍する裾野は全体的にみるとまだ狭い。建築界は、ここでも二重、三重に閉じているのである。
曽田さんへの手紙
曽田 忠宏 様
前略
応答が遅れました。事情は以下。何か運命的なものを感じました。
抗癌治療を始められたとのこと、びっくりしましたが、実は、当方も、6月に大腸癌が発覚、7月3日に抗癌治療を開始し、7月24日に2回目の点滴をしたところでした。
きっかけは近所のかかりつけの医者に貧血気味だ、一度検査をしたほうがいいと言われて、東京都多摩総合医療センター隣接のがん検診センター(西国分寺駅からバス5分。自宅から歩こうと思えば歩いて行けます)で胃と大腸の内視鏡検査を受けたのですが、直腸とS字結腸に2箇所癌が見つかった次第です。
6月16日のCTスキャンの結果、幸い、肺、肝臓などに転移はなく、とりあえず、抗癌治療を3ヶ月4クール続けたうえで、手術(10月頃?)、さらに3ヶ月の抗癌治療ということです。
XELOX療法(あるいはCAPOX療法))というのですが同じでしょうか?
7月3日は、初回ということで一泊しましたが、以降、3週間に一度点滴(オキサリプラチンDNA増殖抑制)+2週間の服薬(ゼローダ(カベシタピン)細胞増殖抑制)(1週間休み)ということで、7月24日に2回目の点滴を受けた次第です。
点滴後、冷えた缶、ビン、コップ・・・を持つとビリビリと感電したような痛さ?が走ります。それと飲むと口の中がぴりぴりします。びっくりしたのですが、同じですか?
末梢神経症状といってほぼ全員に起こる副作用で2日から数日で収まると書いてありましたが、その通り、数日で治まり、幸い、その他の副作用はいっさいありませんでした。今、2回目の点滴で、多少ビリビリが残っているのですが、ほぼ治まりました。
親父が丁度同じ年で胃癌を切除したのですが、まあ、その歳になったんだなあ、まあじたばたしても始まらない、というのが心境です。この6月にお袋の三回忌を終え(6月25日)、松江の実家の処分も開始しました。死に向かって生きることがはっきり意識されたことで、むしろ、仕事がはかどるような気もしています。
医者に酒はダメなんでしょうね?と聞いたら、ぐびぐび飲まなきゃ問題ないよ!というので、飲み会にも出かけて普通に飲んでいます。全く以前と変わらない調子なので、うちのカミさんも、本当は心配してくれているんでしょうが、変わらない応対です。月末から半月、死んだ娘の孫二人が来ます。数少なくなる機会を楽しく過ごそうと思っています。
ということで、全く一方的に、当方の状況を綴ることになりました。
肝臓癌であればわかりますが(近所に昨年切除して全く元気な同い年の一橋大名誉教授がいます)神経内分泌性腫瘍というのがわかりません。抗癌治療で癌が縮小・消滅する場合もあると当方の主治医も言っていました。抗癌治療が功を奏することを祈っています。
早々
2023年7月28日
2023年7月28日金曜日
東京フロンティア,周縁から65,産経新聞文化欄,産経新聞,19910121
東京フロンティア,周縁から65,産経新聞文化欄,産経新聞,19910121
65 東京フロンティア 布野修司
さしもの不動産マネーブームも終息しつつあるのであろうか。不動産による財テクに走った企業の倒産が目立ちはじめている。しかし、一方、必ずしも予断を許さないという見方も依然として根強い。骨抜きになったかにみえる土地保有税案がなにやら暗示的である。
そうした中で注目されるのが「東京フロンティア」である。東京湾のまん中、東京テレポートタウンを主会場として、一九九四年に開かれる博覧会である。「世界都市博」として構想されたものだ。
二一世紀の世界都市にふさわしい開かれた都市像を都民及び国の内外に示すこと、快適性と利便性の高い開発を進め、早急に東京の抱える課題の解決に役立てること、世界の英知を集め、人間と技術と自然が融合した都市フロンティアのモデルを示すこと、その成果を内外の諸都市に発信し、世界の都市問題の解決と未来都市の形成に貢献することを目的にうたう。
その目的や壮大である。その目的が実現するとすればすばらしいに違いない。しかし、まてよと思う。まず、何故、博覧会なのか。問題は二百日程度の博覧会でお茶を濁してすむようなことではないはずだ。もし、すばらしい未来の都市像が示しうるのであれば、むしろ、東京そのものがモデルとなるようなそうした方向を示すべきではないのか。
東京フロンティアというのもいささか興味深い。何故なら、東京がその発展のフロンティアを失いつつあることが背景にあるからである。東京のウオーターフロントが主会場とされるのもまさにそうだし、大深度の地下や超々高層の開発が主題になるのもそうだ。未来の都市を語る場合、いつまでも同じようにフロンティアを求める発想で果していいのか。
しかし、こうした危惧を並べてもはじまらないだろう。新年の夢にもふさわしくない。しかし、もう少し、「東京フロンティア」をめぐって議論が巻き起こっていい。東京問題にはみんなもうしらけっぱなしなのだろうか。
2023年7月27日木曜日
違反建築,周縁から64,産経新聞文化欄,産経新聞,19910107
違反建築,周縁から64,産経新聞文化欄,産経新聞,19910107
64 駅前再開発 布野修司
普段よく利用するJRの駅の駅前に違反建築がある。気づかない人も多いのであるが、建築基準法の用途地域制を知っている専門家であればすぐわかる。容積率および建ぺい率違反だ。通りかかる度に釈然としない。
問題は、まず、その駅前が、駅前であるにも関わらず第一種住居専用地域ということにある。その駅ができたのは七三年のことだが、再開発を見越しての乱開発を避けるために市当局は用途地域を変更しなかったのである。
それにも関わらず、スーパーなどが入る明らかに違反の二つのビルが建てられたのは何故か。建主にもおそらく言い分がある。駅前だから商業地域であってもおかしくない、いずれ用途地域が変更されるのであれば、先に建てたっていいではないか、ということなのであろう。
しかし、違反は違反だ。建築基準法がザル法といわれてもしかたがない。実はこんなケースは多いのだ。何故、違反が黙認されているのか。駅前全体に再開発構想があるからである。皮肉なことに、その違反建築の隣に市の駅前周辺整備室があることから窺える。再開発をめぐって、もう随分もめているのである。再開発後に用途変更されれば違法性はなくなる。難しいところだ。
これまたよく利用するとなりの駅の再開発も遅々として進まない。駅前の混雑が誰の眼にも明らかなのに、そのケースは何人かの地権者のゴネ得ねらいがみえみえだ。駅前の再開発はどこでも難しい。権利変換がスムースにいかないのだ。
駅前という空間は、極めて公共性の高い空間である。単なる商業空間ではない。駅前が同じ様な表情につくられるのは、私の利益のみの追求がその背後にあるからかもしれない。それにしても、私利私欲のために再開発が遅れるとすればいささか不愉快だ。違反建築を毎日のように見ながら、釈然としない気分になるのは、駅前の一等地に対するやっかみもあるかもしれない。
2023年7月26日水曜日
風の通る家,周縁から63,産経新聞文化欄,産経新聞,19901231
風の通る家,周縁から63,産経新聞文化欄,産経新聞,19901231
63 台風 布野修司
今年は日本列島を襲った台風が実に多かった。とりわけ一一月末の台風には驚かされた。地球はやはりどこかおかしくなりつつあるのではないか、と思う。建築の内部空間は次第に人工環境化しつつあるのだけれど、都市や地球規模の環境は完全にコントロールすることはできない。台風はいまさらのようにそのことを思い知らせてくれる。
先頃、ビル風を防ぐために中程に風穴を設けた高層ビルが竣工して話題となった。超高層ビルが林立する地区を歩くとビル風は相当ひどい。ビル風が問題になって久しいけれど、現代都市は風のことを忘れつつあるような気がしないでもない。
伝統的な民家は、本来、風に対する備えをもっていた。台風銀座と呼ばれるような毎年台風が上陸するような地域では当然のことだ。防風林や石垣を設けたり、屋根に石を置いたり、瓦を風向きに合わせて左右違えて葺いたりしてきたのである。
極めて興味深いのは、そうした地域の住宅が、他の地域より必ずしも丈夫につくられているわけではないことだ。梁を二重にしたりして構造を強化する工夫もあるけれど、むしろ、家の周囲に樹木を植える効果が大きい。住宅の構造を強くするだけでは限界があるのだ。
強風に対するのと同様、さわやかな風をとりいれるためにも、住まいの周囲の環境が重要である。夏を旨とすべしという、日本の住まいは、もともと風が抜けるそうした構造をしていた筈だ。しかし、日本の、とりわけ都市の住居は、ますます自然の風とは無縁になりつつある。内に閉じ、内部だけを空調設備によって制御する、そんな考え方が支配的である。
地球規模の環境や都市全体を考えるとき、もう少し自然の風通しをよくすることが必要ではないか、と思う。台風が吹き荒れるのは困るのだけれど。
2023年7月25日火曜日
ミニ地球,周縁から62,産経新聞文化欄,産経新聞,19901224
ミニ地球,周縁から62,産経新聞文化欄,産経新聞,19901224
62 ミニ地球 布野修司
パオロ・ソレリがやってきた。「地球環境時代」を考えるシンポジウムへ出席するためである。パオロ・ソレリといえば、アリゾナの砂漠にアーコサンティーと呼ばれる都市を延々と建設していることで知られる。僕も十年ほど前に訪れたことがあるのであるが、そのスケールの大きさに度肝を抜かれた記憶がある。エコロジカルな観点から建築を考える巨匠だ。
ところで、その同じアリゾナのツーソンに「バイオスフィア2」と呼ばれる「ミニ地球」がつくられ、八人の研究者が外部との接触を一切断って二年間暮らす実験が開始されたのだという。一年半ほど前、そうしたニュースを読んで興味深く思っていたのであるが、実際に実験が開始されたとなるとますます興味がつのる。
「バイオスフィア2」とは、「第二の地球」という意味だ。建物の中には、砂漠やサバンナ、海や熱帯雨林、農地がつくられている。このミニ地球のなかに、世界各地の植物や小動物、昆虫が生息する。海のなかには魚もいる。そこで八人は、家畜を育て、耕作し、完全に自給自足の生活をするのである。
パオロ・ソレリの試みが、雄大で厳しい自然のなかで生きるという素朴な実験であるのに対して、「バイオ・スフィア2」は、ハイテックな科学技術をベースとする壮大な実験である。
果して、この実験は成功するのか。スペース・コロニーの建設や地球環境の保全の問題に多くのデータを得るのが目的なのであるが、建築の問題としても貴重である。もちろん、二年程度では、あくまで実験にすぎないとはいえる。広大な施設に、たった八人というのも問題かもしれない。しかし、様々な示唆が得られるかもしれない、そうした期待がある。エコロジカルにこの施設が自立できるとすれば、建築や都市についての考え方は大きく変わる筈なのである。
2023年7月24日月曜日
地域職人学校,周縁から61,産経新聞文化欄,産経新聞,19901210
地域職人学校,周縁から61,産経新聞文化欄,産経新聞,19901210
61 地域職人学校 布野修司
職人不足、建築技能者不足は建築界にとってますます深刻化しつつある。しかし、ではどうすればいいのか。方策は今のところまとまっていないのではないか。外国人労働者に頼ればいい、職人のいらない新たな建築工法を開発すればいい、という主張はあるのであるが、議論としてはいささかイージーだ。
自分たちの生活環境を形づくる、その実際の建設を直接担う職人さんたちを自ら養成訓練していく仕組みをもたなければ、建築文化の行く末は相当怪しい。何故、若者が職人になりたがらないか、それははっきりしている。今こそ新しい仕組みをつくるべきではないか。
例えば木造住宅を考えてみると、今なら伝統的な技術を教えうる職人さんたちは各地に存在するのであるが、もう五年もすればその伝達の場がほとんど失われてしまうのだ。
職業訓練校のような公的な機関に期待するのにも限界がある。大工技術のようなコースは、コンピューターを使うコースに置き換えられ、各地で閉鎖されつつあるのである。
そういう中で、地域で職人の養成訓練を行おうという試みがある。問題は、ただ教育訓練機関をつくって、建築技能者を養成すればいいというわけではないということだ。建築技能者がそれにふさわしい待遇を受け、生きていける条件が地域毎にできなければならない。そのためにはどうすればいいか。
かって、建築職人の養成訓練は、地域毎に行われてきた。徒弟制ということで、戦後は否定されてきたのだけれど、建築の技能というのは、やはり現場が基本ではないか。座学では限界がある。野の学校がどうしても必要だ。学校という施設をつくるより、師匠のいるところへ行って学べばいいのではないか。
地域でそんな師匠の野の教室を結ぶネットワークができないか、そしてそこで育った職人さんたちが一生地域で生きて行ける条件を創り出せないか、そんなことを少しずつ考え始めているところである。
大腸癌 第二回点滴 2023年7月24日
2023年21日 金曜日 午後 東京都多摩総合医療センター 外科 12番からTEL
「診察に当たって採血があるが、7:40分には並んでほしい」。
8:40分に大塚英男先生の診察、9:30 化療センターとあって、それ以前に検体検査(血液検査)と書かれているが、時間が書いてない。「了解」と返事。
以上の経緯があって、
2023年7月24日 朝
朝4:30前に起きて、Mail,Facebook等に応答。「アジア海域世界の港市」に手を入れる。
朝食は、レタス・トマト・ハム+野菜ジュース+ミルク+コーヒー+豆腐・納豆+1/2トースト
血圧 149-80
6時45分ごろ歩いて家を出る。西国分寺まで25分、バスで5分で、
7:30には東京都多摩総合医療センターに着いた。再診受付は8:00からという。受付番号は22番。仕方ないので「アジア海域世界の港市」に手を入れる。一昨日から50頁はカットした!
8時2分に最新呼出し器を受け取ろうとしたのだけど、診察券の磁気トラブルで、受け付けない。しかし、バックアップシステム抜群で、補助要員でいた女性に訴えると2分ぐらいで再発行してくれた。
すぐに採血室に、スムーズに採血して⑫番窓口外科へ 7:20 30分から受付という。問診票記入、血圧測定。体温測定要。
8:40 女医。問診。体温測定。
8:50 大塚英男医師 問診。点滴指示。
9:30 点滴室へ案内。
10:00前 点滴開始。50近くのリクライニング。30人ぐらいが抗癌点滴。若い人も少なくない。帽子被った人もいる。
13:30終了。
西国分寺に出て、歩いて帰る。
2023年7月23日日曜日
犯罪防止と建築,周縁から60,産経新聞文化欄,産経新聞,19901203
犯罪防止と建築,周縁から60,産経新聞文化欄,産経新聞,19901203
60 建築と犯罪
布野修司
ある県の警察本部から、建築界に、今後の新しい団地づくりや街並みの整備、住宅の新築、改築に際して、「犯罪のない安全な街づくり必携」を参照して欲しいとの要望が出されている。最近になってその要望書と必携を手にしたのであるが、建築と犯罪についていささか考えさせられた。
犯罪に対する抑止機能の高い街並みは、第一に、その地域の住民には自分達の街という感じを抱かせ、外来者には遠慮感を抱かせる、領域性の高い街であり、第二に、いつどこで誰に見られているかわからないという感じを抱かせる、監視性の高い街であるという。そして、必携は、領域性、監視性のそれぞれを高めるための方策を列挙している。
ざっとみてまず感じたのは、領域性を高めることと監視性を高めることは、場合によると矛盾しはしないかということである。宅地を道路より高くし、塀や生け垣で囲い、門を設け、窓に格子を付け、雨戸を付け、というのだが、領域的に閉じることは、その領域内に一旦入れば、逆に外部からの監視の眼からはのがれることになる。だから、必携は、塀にはできるだけ多くの開口部を設けるともいう。問題は、どれだけ閉じ、どれだけ開くか、そのバランスではないのか。
必携はまた街並に見通しのきかない凹凸をできるだけ少なくするとか、団地内への入口をできるだけ少なくするとか、行き止まりの道路を多く設けるとか、いうのであるが、景観やサービス、他の防災などの側面を考えると一概にそうだといえない。考えるに、建築のあり方と犯罪発生の関係を立証するのは難しいのではないか。領域性とか監視性の問題は、まずはコミュニティーの問題であって建築の問題ではないのではないか。
犯罪を前提として設計するとなると、日本の街や住まいは相当変わっていく筈だ。あるいは、日本も犯罪という点で欧米に近づきつつあることをこうした要望や必携は示しているのであろうか。
2023年7月22日土曜日
西山夘三の計画学ー西山理論を解剖する,建築雑誌,200804
西山夘三の計画学ー西山理論を解剖する,建築雑誌,200804
建築計画委員会「「シンポジウム+パネル展示 西山夘三の計画学—西山理論を解剖するー」西山夘三の計画学—西山理論を解剖するー」報告
建築計画本委員会主催の「シンポジウム+パネル展示 西山夘三の計画学—西山理論を解剖するー」(
建築計画本委員会では、年に一度は、建築計画学、建築計画研究の全体に関わるその時々のテーマをもとにしたシンポジウムを行うことにしているが、昨年2月の「公共事業と設計者選定のあり方―「邑楽町役場庁舎等設計者選定住民参加型設計提案競技」を中心として」に続く今年のテーマ設定の鍵になったのは、住田昌二+西山文庫編『西山夘三の都市・住宅理論』(日本経済評論社、2007年)である。西山夘三は、吉武泰水とともに建築計画学の祖とされる。その大きな足跡のもとに建築計画学は成立し、発展してきた。建築計画委員会の「隆盛」もその業績の基礎の上にある。
しかし、一方、建築計画学研究の限界も様々に指摘されてきた。施設毎の縦割り研究、専門分化、研究のための研究、・・・・等々の研究と実践との乖離の問題、また建築計画固有の手法、方法などをめぐる諸問題はこの間一貫して議論されてきている。
『西山夘三の都市・住宅理論』の上梓を機会に、建築計画学の原点に立ち戻って検討するのは必然である。建築計画委員会では、『建築計画学史』(仮)をまとめる構想をあたためている。その大きな柱となると考えた。かねてから不思議に思ってきたが、西山スクールによる西山夘三論が無かったことである。吉武研究室出身であり、西山夘三が開いた「地域生活空間計画講座」に招かれたかたちの報告者(布野修司)は、その戦前期の活動のみに焦点を当てるにすぎないが、「西山論」を書いたことがある(「西山夘三論序説」『布野修司建築論集Ⅲ 国家・様式・テクノロジー』、彰国社、1998年)。建築計画委員長という立場ではあるが、西山夘三の計画理論を広く検討したいという個人的な思いもあった。実際に、西山文庫との協賛、展覧会との併催など全てを切り盛りしたのは田島喜美恵委員であり、ポスターデザインは滋賀県立大学の学生諸君(高橋渓)、受付など事務作業を担ったのは日本大学生産学部の学生諸君である。また、パネル展示については西山文庫の松本滋(兵庫県立大学)先生に大変ご尽力を頂いた。プログラムは以下であった。
主旨説明:布野修司(建築計画本委員会委員長・滋賀県立大学教授)
問題提起:西山夘三の都市住宅理論 住田昌二(大阪市立大学名誉教授・現代ハウジング研究室)/西山夘三の目指したもの 広原盛明(龍谷大学教授、京都府立大学名誉教授)/西山夘三と吉武計画学 内田雄三(東洋大学教授)
ディスカッション:五十嵐太郎(建築雑誌編集長・東北大学准教授)・中谷礼仁(早稲田大学准教授)・司会:布野修司
住田昌二の問題提起は、ほぼ『西山夘三の都市・住宅理論』の総論「西山住宅学論考」に沿ったものであった。まず、「1.研究活動の輪郭」を①戦前・戦中期(1933~44)住宅計画学とマスハウジング・システムの体系化②戦後復興期(1944~61)住宅問題・住宅政策論から住宅階層論へ③高度成長期(1961~74)都市論の展開④低成長期(1974~94)『日本のすまい』(3巻)の完成、まちづくり運動に分けて振り返った上で、西山夘三の研究活動の特徴として、時代の転回、研究上の地位変化、研究テーマのシフトが見事に一致していること、研究を建築論から住宅論、都市論へと発展させた「ジェネラリスト」「啓蒙家」であること、20世紀をほぼ駆け抜けた象徴的な「20世紀人」であること、常に時代の先頭に立ち、≪近代化≫の「大きな物語」を描き続けた「モダニスト」であること、研究スタンスは、体制の外側にあって体制批判したのでなく、批判しつつ体制に参加提案し改革をはかろうとした。Revolutionistでなく“Reformer”であったことを指摘する。そして、西山は、「計画」と「設計」は峻別したが、研究=政策とみていたのでないか、卒論の序文に掲げた「史的唯物論」が生涯通じて研究の倫理的規範であった、という。続いて、「2.西山計画学の成果」として、1)住宅の型計画の展開、2)マスハウジング・システムの構築、3)住様式論の提起、4)住宅階層論による分析、5)構想計画論の提唱を挙げる。西山の研究が目標としたのは、①住まいの封建制を打破し、②低位な庶民住宅の状態の改善向上をはかり、③前近代的な住宅生産方法を改めていく、の3点であった。政治的には民主化、経済的には産業化、社会的には階層平準化の同時進行を近代化と規定するなら、西山の研究は、「近代化論」であった。西山の学問は、徹底して「問題解決学」的性格をもち、計画学としての体系は、空間を機能性・合理性基準によって解析し、社会をシステム論的に構築することで一貫していた、というのが評価である。さらに「3.西山計画学の歴史的考察」として、1)西山計画学の原点――15年戦争との対峙、2)西山計画学の発展の背景――国際的に50年続いた住宅飢餓時代、3)西山計画学のフェード・アウト――1973年の歴史転回をそれぞれ位置づけた上で、「4.「小さな物語」としての西山理論の超克」の方向として、①マスハウジングからマルチハウジングへ②階層から地域へ③計画から文化へ、を強く示唆した。
実に明快であった。西山理論の歴史性を明確化し、そのフェード・アウト確認したこと、西山夘三を近代的システム論者と規定したことは大きな指摘である。
広原盛明の問題提起もまた西山夘三を歴史的に位置づけるものであった。ただ、その限界についての評価は異なる。まず、「西山の生涯を通底するキーワード」として①「20世紀の実践的思」「社会主義」(マルクス主義)②「体制型思考」③「反中央権力精神」の源泉となった「大阪の西九条が育てたハビトゥス(社会的出自や生活体験などに裏打ちされた慣習的な感覚や性向の体系:プルデュー)」を挙げる。そして「1.西山のライフコースとライフスタイル」について、①大きくは第2次世界大戦を挟んでの前期(青壮年期)と後期(壮熟年期)に分け、住宅生産の工業化と大量建設を実現しようとした「革新テクノクラート」の時期と住宅問題・都市問題・国土問題等に関する啓蒙活動に邁進した「社会派研究者・大学知識人」としての時期をわける。また、②西山のライフスタイル(活動スタイル)は、戦前期は基本的に「改良主義」、戦後期とりわけ高度成長期以後は「批判対抗」だとする。さらに、③西山の啓蒙活動の重点は、戦後初期の住宅問題解決や住生活近代化を強調する路線から、高度成長期の「開発批判路線」に急速にシフトしていった、とする。続いて「2.西山にとっての計画学研究の意味」として、①「計画的思考」、「近代工業化システム」、②「戦時統制経済」「戦時社会主義」との密接な関係を指摘した上で、戦後については、③「もし日本が戦後に開発主義国家への道ではなく福祉国家への道を歩んでいたならば、西山は「体制協力型」のテクノクラートとして活躍し、また「計画技術的研究」を推進していたかもしれない」という。全体としては、西山と時代、体制が密接不可分であったという確認である。「3.学会・建築界に対して西山の果たした役割」として、研究領域の細分化と専門化をめぐる学会批判や建築界批判の意義、「外部評価機能」「日本学術会議をはじめ異分野の研究者との学際的研究プロジェクトの重視」「社会運動への参加」の意義を強調する。歴史的限界、その歴史的位置づけの中で、「学」「学会」への批判的機能・役割を大きく評価するという構えである。
内田雄三は、西山夘三の住宅計画学と吉武・鈴木研究室の建築計画学を対比する。まず、「1.西山夘三の研究領域とその立場」、その幅広さ、庶民住宅の対象化と住み手の発展プロセスの重視などを確認した上で、「西山夘三の建築計画学」を「システム科学」「方法論としてはシステム分析である」と言い切る。この点、ほぼ住田先生の西山評価に沿っている。そして、吉武・鈴木研究室の建築計画学を西山の「システム分析の方法論を多くの公共建築の分野に適用」したものと位置づけ、より計画よりに展開したとする。すなわち、「新しい生活に向けて建築から働きかけていく志向」が強かったのが吉武・鈴木計画学だとする。そうした規定の上で、建築計画学の限界として、①近代化・合理化こそ資本の要求(利潤の拡大)であり、建築計画学はこの役割を担ってきたこと、②2DKも労働者のより廉価な再生産費を保証したという側面があること、③個々の建築の近代化・合理化にもかかわらず都市スケールで混乱が発生している点などをあげる。そして新しい建築計画学の方向として、生活者との連携、アドボカシー・プランニングを挙げ、C.アレグザンダーに触れ、空間づくり、モノづくりへの展望を述べた。
きちんとレジュメを用意した3人の問題提起は議論の土俵を見事に用意したのであるが、如何せん、時間が足りない。早速議論に入った。コメンテーターとして期待したのは若手の論客としての中谷、五十嵐の両建築史家・批評家である。
どちらが先に発言するか壇上でジャンケンするといったノリであったが、ジャンケンに負けて最初に発言した中谷礼仁のコメントは、場を張りつめたものにするに十分であったように思う。まず、自分の名前は、左翼(マルキスト)であった親が、時代がどう転んでもいいように「レーニン」とも「アヤヒト」読めるようにつけたそうだ、と冗談めかしながら、自分はだから「・・・すべし」「・・・すべき」という扇動家、啓蒙家の立場はとらないという。戦後まもなく「これからの時代は民主主義の時代だ」と板書した東京大学教授の例を引いて、そうしたプロパガンディストにならないことを肝に銘じているという。そして続いて、西山理論、その食寝分離論には「性」と「死」がないという。対比的に提起するのは、今和次郎との比較である。
五十嵐は、直接西山理論に切り込むことをせず、大きくは1936年の東京オリンピックを用意した戦前の過程と大阪万博に行き着く戦後の過程には同じサイクルがあるのではないかという。そして、西山の設計をみてみたいという。また、景観論の立場から見直してみたいという。
西山理論をもっぱら歴史的、社会的なフレームにおいて位置づけて見せた3人に対して、中谷の提起はより内在的に西山理論を評価する契機を含んでいるように思えた。中谷の西山批判は、豊かな世代の時代の実相を知らない批判だ、その時代を踏まえて歴史的評価を行うべきだと、時代の制約、社会の貧困と西山の限界を説明しようとした広原に対して、一定程度それを認めながら、必ずしも、時代の問題だけではない、と中谷は切り返す。
西山の軌跡における転換をめぐっては、1970年の大阪万博か、1973年のオイルショックか、あるいはそれ以前か、という議論がまず浮かび上がった。また、戦前と戦後の連続非連続の問題が指摘された。そして、西山夘三個人の資質、ハビトゥス(大阪下町気質)の問題が指摘された。西山は「食」にも興味がなかった、コンパクトな空間とその集合システムに興味があった、明治気質で、細かくて、資料マニアであったといった発言も飛び出した。
建築計画という土俵を設定していたから当然であるが、西山夘三の全体像については留保せざるを得なかった。また、都市論、都市計画論についても同様である。まず、フロアから、『西山夘三の都市・住宅理論』の共著者である中林浩(地域生活空間計画論と景観計画論)、海道清信(大阪万博と西山夘三)の両先生に発言を求めた。西山スクールにおいても西山評価は様々であり、批判的距離のとり方の全体が西山夘三の大きさを物語っている。
延藤安弘先生は全体を延藤流に総括して「西山夘三の計画学」の精髄を「「構想計画」を新しい状況のもとにブラッシュアップする」「「住み方調査」から「フィールドワークショップ」へ」「「小さな物語」づくりの計画学」という三つの方向に結びつけようという。
限られた時間はあっという間に過ぎた。最後に鈴木成文先生に「面白かった」と総括頂いたけれど、手前みそだけれど、司会しながらも面白かった。問題を掘り下げる時間はなかったけれど、掘り下げるべき問題のいくつかは明らかになったと思う。主催者として、いささか驚いたことは、この地味なシンポジウムに百人を超える聴衆の参加があったことである。かなりの数の若い世代も見えた。このシンポジウムをひとつのきっかけとして「建築計画」をめぐる議論がさらに広がることを期待したい。布野修司(建築計画委員会委員長、滋賀県立大学)
2023年7月21日金曜日
都市デザイン賞の問題点,周縁から59,産経新聞文化欄,産経新聞,19901126
都市デザイン賞の問題点,周縁から59,産経新聞文化欄,産経新聞,19901126
59 都市デザイン賞 布野修司
多くの都市で、毎年建てられる建築を対象として、都市デザイン賞、まちづくり景観賞、建築文化賞、街角スポット賞等々、様々に呼ばれる表彰制度が設けられ始めている。
日本建築学会賞のような作品賞と違って、そうした賞の場合、常に街全体との関係が問題となる。作品そのものを自立したものとして評価するのではなく、各都市の街づくりの方針に照らして評価が行われる。あるいは、作品の評価をめぐって街づくりの方向を見出していくというのが共通のテーマとなる。
継続的に、毎年、あるいは二年に一度、賞を出していく。そうした意味でも、評価の指針が共有されている必要がある。審査員の構成が変わるとよくあるのであるが、前の年と次の年の評価基準がまるっきり異なってしまうといささか問題なのである。しかし、一方、評価基準が固定的になると、街づくりのダイナミズムが失われてしまう恐れもある。よくあるのは、伝統的な建築様式や建築の地域性に拘りすぎる場合である。ある特定の傾向のみに偏った評価がなされると、応募も減るし、せっかくの賞なのに該当作品なし、ということになりかねない。そのあたりが難しい。
ほとんどの場合、賞といっても、多額の賞金や建築の維持費が出るわけではない。賞を与えられたのだけれど、もう壊されて跡形もないという例が実際にある。そうなるとなんのための賞か問われかねない。
建築の評価というのは、本来多様であるべきである。しかし、その多様性は、それぞれの都市の、それぞれの地区において、ゆるやかに統合される必要がある。そして、全体として、都市毎に独自の表現としての街並みが生み出されていくことが期待される。都市デザイン賞の試みは、市民を巻き込んだ、街づくりの方向をめぐる議論を続けていく場として大きな意味をもっている。全国同じような街並みは御免である。しかし、街並みは一朝一夕にできるものではない。歴史をかけた取り組みとして、表彰制度も粘り強く続けて欲しいと思う。
2023年7月20日木曜日
サイト・スペシャリスト,周縁から58,産経新聞文化欄,産経新聞,19901105
サイト・スペシャリスト,周縁から58,産経新聞文化欄,産経新聞,19901105
58 サイト・スペシャリスト 布野修司
サイト・スペシャリストという言葉がつくられようとしている。日本語にすれば現場専門技能家ということになろうか。耳慣れないのは当然である。まだ建築界のほんの一部で使われ始めたばかりだからである。
サイト・スペシャリストという言葉をあえて用いようとしているのは、ゼネコン(総合建築業)に対してサブコン(下請建築業)と呼ばれる専門工事業者の集まりである。建築業界は重層的な下請構造からなっているのであるが、実際に現場を担っているのはサブコンである。3K(きたない、きけん、きつい)とか、6K(加えて、休日が少ない、給料が安い、暗い)とかいわれ、建設現場の人気は極めて悪い。若者の現場離れ、職人不足はマスコミでも大きく取り上げられるところだ。
しかし、現場がなければどんな美しい建築作品もできるわけがない。現場が馬鹿にされるのは我慢がならない。現場で働く技能者の待遇を改善し、その重要性を訴えたいという思いがサイト・スペシャリストという言葉に込められているのである。
図面を描くだけでふんぞりかえっている建築家は先生と呼ばれても現場では馬鹿にされる。現場を知らない建築家は建築家ではない。また、有能な現場専門技能家がいない建築に傑作はない。現場をまとめあげる能力や技能は大変なものである。しかし、その重要な職能を総称する言葉がない。個別でバラバラで、場合によると差別的な言葉が多い。
もちろん、横文字にすればいいというわけではない。ファッショナブルなユニフォームをデザインすれば現場のイメージがあがるということではない。しかし、現場の仕事が尊敬に値し、社会的にも高い評価をうけ、それなりに高い報酬が得られるようになるとすれば、その職能にふさわしい名称が生み出される筈だ。サイト・スペシャリストという名称が一般化して行くかどうかはそうした意味で興味深いことである。
2023年7月19日水曜日
パトロンの意味,周縁から57,産経新聞文化欄,産経新聞,19901022
パトロンの意味,周縁から57,産経新聞文化欄,産経新聞,19901022
57 建築家とパトロン 布野修司
建築家は、建築の仕事があってはじめて建築家でありうる。建築を全く建てない建築家、図面だけ、絵だけ残すだけの建築家や建築論を著すだけの建築家もありうるけれど、それはあくまで特殊な建築家である。建築家が建築家と呼ばれるためには、時代の技術の水準や社会経済の仕組みの制約のなかで、建物を具体的に建てる過程が必要である。
従って、建築家は仕事を受注する事業者としての側面をもつ。しかし、大きな建築物の場合、仕事をとるのはそんなに容易ではない。時にうさんくさい様々な努力が必要とされる。
かっては、建築好きで、建築をよく知った、普請道楽のパトロンがいて、一個の才能を見抜き、建築家として育てるというパターンがあった。しかし、今日、そうしたパトロンは少なくなった。
確かに建築にお金をかける企業は増えてきた。建築家には好ましい状況なのであるが、金をかけるからいい建築ができるとは限らない。建築を見る眼をもった建築主は、むしろ、少なくなっているのではないか。建設の主体は多くの場合、委員会である。大企業の場合、即決できないということもある。建築家の才能を見抜き、育てるという態度はなく、話題性をねらって、ジャーナリズムなどで既に著名な建築家を使うというセンスが支配的である。
公共建築の場合、建築好きの首長が建築家を育てたという例は少なくない。しかし、特定の関係がしばしば政治的に問題となるし、実際、首長が変わればがらっと方針が変わるといった事例が多い。持続性、一貫性に乏しいのだ。
建築家というのは建築主が育てるものである。建築主の建築についての素養に見合った建築家しか育たないといってもいい。金をふんだんに使って自由にやれ、という成金的なパトロンが必要なのではない。建築の楽しさ、面白さを理解するクライアントがいななければ、建築文化の華が開くはずはないのだ。
2023年7月18日火曜日
植えつけられた都市–植民都市計画とその影響,都市計画特集「平和と都市計画」,都市計画学会,200508 25
植えつけられた都市 The Cities
Planted
植民都市計画とその影響
Colonial City Planning and its
Influence
布野修司
This article discusses the problematique on colonial cities based on
our research work ‘Field Research on Origin, Transformation, Alteration and
Conservation of Urban Space of Colonial cities’, the outcome of which were
published as a book titled “Modern World System and Colonial Cities”. Modern
colonial cities planted by western countries are classified into several types
but basically spatial installations to dominate natives and local resources.
Considerations are lastly leaded to the thesis ‘All cities are in a way
colonial’.
インド洋大津波の日(2004年12月26日)をスリランカのゴールGalleで迎えた。ゴール周辺で亡くなった人は約2,000人、たまたまゴール・フォートの中に居て命拾いした。振り返って、さらにTVなどで現場の映像を見て、改めてゾーッとする経験は未だに夢のようである。その顛末はもとめられるままに書いた別稿[1]に譲るが、つくづく思うのは、ゴールという要塞都市を築いた、低地、湿地、港市を得意としたオランダの築城術のすごさである。1988年に世界文化遺産に登録されたゴール要塞の城壁は津波にびくともしなかったし、城門から浸入した、あるいは城壁を飛び越えて城内を襲った海水はあっという間に引いて、要塞内に居た人々は全員無事であった。要塞内では400年前の排水システムがものの見事に機能したのである。大きな被害を受けたのは陸地側に広がる新市街地である。
この間、「植民都市の起源・変容・転成・保全に関する研究」と題した、オランダ植民都市をターゲットとする植民都市研究を展開してきた。ゴールに居たのは、その調査研究の一環であった。
今日発展途上地域におけるほとんど全ての大都市は植民都市としての経験をもっている。植民都市の歴史とプライメイト・シティ(単一支配型都市)、「過大都市化」の関係は様々に論じられてきたところである。一方、植民都市にはもう一つの重要な類型が存在する。植民地化の早い時期に商館都市として建設され、以後の植民都市拡大また独立以後の都市化の過程において重要な都市核として機能を果たし続けてきた植民都市の存在である。いわば、現代都市に埋もれた植民都市である。そこで浮かび上がってくるのがオランダ植民都市であり、ゴールもそのひとつである。
近代植民都市の全体について、そして具体的な事例については、『近代世界システムと植民都市』[2]に委ねることとして、ここでは、「平和」、「暴力」、「戦争」といった言葉に導かれながら、植民都市あるいは植民都市計画の本質をめぐっていくつかの考察を行いたい。
コロニア
植民地colonyあるいは植民都市colonial cityという言葉は、もともと古代ギリシャ・ローマにおいて、植民あるいは移住によって建設された居住地あるいは都市を意味する。すなわち、ラテン語のコロニアcoloniaに起源をもち、colony(英語)、colonie(仏語)、kolonie(独語)として広く用いられるようになった[3]。人口過剰、内乱、新天地での市民権の確保、軍事拠点の設営などが植民都市建設の理由である。そもそも戦争、すなわち土地の占有に関わる争いごとと密接に関わる。すなわち、植民都市は、単なる移住地というより、ある集団が土着の集団を政治的、経済的、社会的、文化的に支配するために建設する都市を一般的にはいう。処女地に新たな都市として建設される場合も、土着の社会、後背地との間に支配-被支配の関係があり、一定の領域を支配するために既存の都市、集落を奪取、占拠することによって建設されることが多い。
いわゆる「地理上の発見」以降、西欧諸国が海外に建設した近代植民地の場合、支配-被支配の関係は明快である。もちろん、直接的に領土支配を行う場合に限らない。植民地化の「帝国主義的段階」において、「植民地帝国」として問題とされるのは、直接支配する「公式の帝国」のみならず、間接統治、二重統治などが行われる「非公式の帝国」も含めた支配―被支配関係である。西欧列強の進出を受けた地域は、保護国、保護地、租借地、特殊会社領、委任統治領などの法的形態を問わず植民地と呼ばれる。
近代植民都市
古来、人類は大規模な移動を繰り返してきたが、15世紀末以降、世界全域にわたった西欧列強による海外進出ほど大規模なものはない。世界中に植民都市を建設し、支配したのは、少数のヨーロッパ人であり、白人(コーカソイド)であり、キリスト教徒である。そして、植民地建設の中核を担ったのは奴隷貿易である。19世紀中葉以降に世界は「大量移民の時代」を迎えた。
植民地化の段階、産業化の段階、そして、脱植民地化の段階あるいは交易期、植民地期、新植民地期、脱植民地期といった「近代世界システム」の形成を追いながら、西欧列強の植民地と植民都市のネットワークの形成を順に位置づければ、およそ以下のようになる。
1.領域支配を含まない交易拠点のネットワークを形成したのが、ポルトガルのインディアス領である。ポルトガルは、明らかにアブー=ルゴド[4]のいう「13世紀世界システム」(の崩壊)をベースとしていた。
2.土地支配を含み、土着文化の徹底的破壊の上に一定の西欧理念に基づく都市を建設したのがスペインである。スペインの場合、ヨーロッパ世界の拡張と見なせるだろう。スペインは「世界帝国」になることに失敗するのである。そして、
3.沿岸部の港市都市をベースとし、土着社会を取り込む形で、多様な移住者を含み込む形で植民都市の原型を形づくったのがオランダである。オランダは、こうして最初のヨーロッパによるヘゲモニー国家となった。この段階では、しかし、地域内交易がベースであった。そして、1.~3.のシステムの重層の上に、
4.内陸部へ侵攻し、巨大な領土支配に及んだのがイギリス、フランスの二大植民地帝国である。そして、
5.7年戦争を制し、産業革命を契機として、オランダのヘゲモニーを奪ったのがイギリスである。
植民地権力の特質、移住集団の構成とその支配イデオロギーは個々の植民都市の特性に関わる。また、植民地化される社会の特質、民族学的、社会学的構成も植民都市の特性を左右する。宗主国と土着の地域社会の相互関係によって植民都市の類型を考えることができる。
植民地化の手法や組織は、ポルトガル、スペイン、オランダ、フランス、イギリスなど西欧列強によって異なる。土着の社会についてのアプローチは、まず布教をめぐって、ローマ法王の超越的権威への服属を求め各地の文化的、精神的権威を認めないカトリシズムと個人の自発性を重視し、各地の文化や言語に距離を置いたプロテスタンティズムの違いがある。植民地の統治政策についても、間接統治、二重統治方式をとったオランダ、イギリスと副王による直接支配によったポルトガル、スペイン、そして「同化」政策を採ったフランスとでは大きく異なる。土着の社会についても、各地域の都市的伝統の度合いによって、すなわち例えば、都市的伝統の薄いサハラ以南のアフリカや南北アメリカの大半と長い都市的伝統をもつインドや中国とその周辺地域、またイスラーム圏とでは、植民都市のあり方は異なる。スペインは、高度な都市文明を誇ったアステカ帝国、インカ帝国を徹底的に破壊した。また、インディオの社会を絶滅させるに至った。インディアス法にまとめられるかたちで、極めて画一的に西欧都市計画の理論を適用しようとしたのがスペインである。
南アフリカ、中央アフリカでは、都市的生活とは白人的生活を意味するほどであった。要するに、ほとんどの都市はヨーロッパ人によって初めてつくられるのである。また、ポルトガルが西アフリカや中央アフリカで土着の都市を破壊したように、東アフリカの、アラブ起源の都市の多くもヨーロッパ人によって無視された。そして、アフリカ大陸からの黒人の大量移住によって南北アメリカとアフリカの社会は世界史的大変動を被った。
世界資本主義システムの展開が各地域を平準化していく過程においても、様々な点で地域差が存在するのは植民地化以降の過程における以上のような差異が複雑に絡み合っているからである。
火器と攻城法
何故、西欧列強が世界中に植民都市を築き、世界を支配することになったのか。その大きな要因のひとつは「火器」である。航海術、造船技術、測量術、築城術、・・・など、要するに「火器」に象徴される科学技術である。
西洋の城郭は古代ローマ帝国の築城術等を基礎として発達してきた。12世紀から13世紀にかけて、十字軍経由で東方イスラーム世界の築城術が導入され、またビザンツ帝国の築城方式の影響も受けて、西洋の築城術は15世紀には成熟の域に達していたのであった。しかし、中世の終わり頃にヨーロッパにもたらされた火薬と「火器」、「火器」装備船の出現による戦争技術の変化は、要塞や城塞の形態を変える。すなわち、馬に乗った騎士による戦争の時代ではなくなり、中世の城が役に立たなくなるのである。
新しい火器、大砲の出現によって都市が弱体化する15世紀までは、攻撃よりもむしろ防御の方が、ヨーロッパにおける城塞、都市、港湾、住居の形態を決定づけていた。川や谷、戦略にとって大事な地点を見渡せるように、土手や丘や山脈の上に要塞都市は造られた。丘の上につくられた街は、円形や矩形の塔、櫓が建ち上がっている厚い壁によって守られ、跳ね橋や、吊し門や、石落とし装置付きの入口門が設けられた。ヴェニスやブルージェやジュノヴァのような水の都の市壁は海面や湖面から直接立ち上げられていた。
ヨーロッパで火薬兵器がつくられるのは1320年代のことである[5]。火薬そのものの発明は、もちろんそれ以前に遡り、中国で発明され、イスラーム世界を通じてヨーロッパにもたらされたと考えられている[6]。火薬の知識を最初に書物にしたのはロジャー・ベーコンである[7]。戦争で最初に大砲が使われたのは1331年のイタリア北東部のチヴィダーレ攻城戦で、エドワードⅢ世のクレシー(カレー)出兵(1346)、ポルトガルのジョアンⅠ世によるアルジュバロタの戦い(1385)などで「火器」が用いられたことが知られるが、戦争遂行に「火器」が中心的な役割を果たすのは15世紀から16世紀にかけてことなのである。決定的となったのは、15世紀中頃からの攻城砲の出現[8]である。
ヨーロッパで火器が重要な役割を果たした最初の戦争は、ボヘミヤ全体を巻き込んだ内乱、戦車、装甲車が考案され機動戦が展開されたフス戦争(1419~1434)である。続いて、百年戦争(1328/37~1453)の最終段階で、大砲と砲兵隊が鍵を握った。そして、レコンキスタを完了させたグラナダ王国攻略戦(1492)において大砲が威力を発揮した。こうして火器による戦争、攻城戦の新局面と西欧列強の海外進出も並行するのである。植民地建設の直接的な道具となったのは「火器」であった。
植民都市の類型
植民都市が支配-被支配(中心-周縁)関係の媒介(結合-分離)空間であり、異質な要素の重層的複合空間であるとすれば、空間の分離のあり方にまず着目する必要がある。極めてわかりやすく本質的なのは、城壁、市壁など居住地を限定づける境界のあり方である。都市のフィジカルな構成という観点からすると、ロッジ、商館、要塞、城塞、市街というように、様々な呼び方によって区別されるように、そのうちに含む要素によって、植民都市の規模やレヴェル、段階を区別することができる。
O ロッジ lodge
A 商館 factory
B 要塞化した商館あるいは商館機能を含む要塞 fortified factory
C 要塞 (+商館)fort(+factory)+集落settlement
D 要塞+市街 fort+city
E 城塞 castle
F 城塞+市街 castle+city
Aは、交易のみのための最小限の施設である。ポルトガルの最初期の交易拠点は商館のみが置かれるだけのものが多い。専用の商館をもたないロッジの段階Oをこれ以前に区別できる。ロッジは、沿岸部の交易拠点ではなく、内陸の地方市場に設けられたものをいう。F.S.ハーストラは、ロッジ、商館の発展段階を、①土着物産の購入と積み出しの段階、②商品を予約注文し、積み出しまで保管する段階、③商品の供給者に前渡金を供与し、生産管理行う段階、④物産を全て掌中に握る段階に分けている[9]。
商館も現地社会との関係によって防御設備が必要となる。A、Bの区別は必ずしも明確ではないが、要塞の内部に商館機能を含むかどうかで基本的にCとは区別される。要塞とは別に商館が設けられることも少なくない。要塞は戦闘を前提にした防御施設である。基本的には軍隊あるいは兵士が常駐する。平時は使用せず、有事に立て籠もるかたちもある。
商館あるいは要塞の周辺にヨーロッパからの移住者のみならず各地からの移民や現地民などが周辺に居住し始めると、宣教、教化のための教会や修道院など諸施設が建てられる。そして市街地が形成され、全体が市壁で囲われたものがDである。港湾に立地する植民都市の場合、市街によって要塞が囲まれる形より、要塞と市街が連結した形態をとることが多い。そして、要塞と市街が一体化したのがEである。CとEの違いは単に規模の違いではなく、内部に居住区を含むかどうかの違いである。さらにその外郭に一般人(あるいは現地人を含めた)居住地が形成されるのがFである。単純な分類であるが、さらに、既存の集落、現地住民の居住区との関係でさらに分類できる。さらに、全くの処女地に計画されたものと既存の都市ないし集落を基にして建設されたものを区別することができる。オランダの植民都市はマラッカやセイロンの各都市などポルトガルの城塞を解体再利用したものが少なくない。
植民都市という場合、一般的にはD~Fがそれに当たる。しかし、既存の都市あるいは集落にA~Cが付加される場合、それも植民都市と呼べるだろう。都市の起源、その本質をどう規定するかが問われるが、市(マーケット)の機能をその本質的要素とするなら、たとえ商館ひとつの建設でも都市成立の条件とはなる。また、攻撃に対する防御機能を都市の本質と考えれば、要塞の建設は都市建設の第一歩である。
数多くの植民都市の事例を見ると、A→Fは歴史的に段階を踏んで推移するように思われる。また、理念的にもA→Fの過程は、必然的なものとして想定できる。
植えつけられた都市
植民都市の本質は、それが自らの社会とは異なった社会に移植されることにある。植民都市は、まさに、「植えつけられた都市」である。植民都市の本質はまさに「植民」にある。キーワードは、「プラントplant」あるいは「プランティングplanting」である。
コーヒーやサトウキビなど植物を植えつけること、そして、その栽培のための労働力として人々を植えつけること、すなわち、都市を植えつけることが植民地建設である。
単なる移住、移動、移植ではない。人や物が世界規模で移動し始めたことが決定的である。一定の地域で、物の生産、流通、消費が完結していた自給自足的世界、「60日経済」といわれる経済規模であった「ヨーロッパ世界経済」をはるかに超える「遠隔地」が世界経済に繰り込まれるのである。資本蓄積の原動力となるのは「格差」である。あるいは、圧倒的な「量」である。「遠隔地」貿易による時間差、賃金格差、物価、世界資本主義システムは、あらゆる格差を価値増殖に繰り込むシステムである。植民都市はそのシステムを稼働し続けるための装置として建設されたのである。
産業革命によるコミュニケーション手段の「進歩」はそれまでの植民都市の形態を根本から変える。蒸気機関車、蒸気船の登場は植民都市の歴史の上でも決定的であった。鉄道は、港市における植民都市から内陸への展開を可能にした。また、これまでの港市植民都市も港湾の大改造とともに大規模な再開発が必要となった。そして、急速な都市化と都市膨張のために、共通に過密居住による衛生問題、住環境整備の問題、都市基幹設備の問題が課題となった。世界中の現代都市は、そして都市計画は、今日に至るまでその課題を引き継いできている。
脱植民地期において、かつての植民地に巨大都市が次々に出現していった。とりわけ、注目されたのがプライメイト・シティ(首座都市、単一支配型都市)の存在である。「過大都市化」、「工業化なき都市化」といった概念で、その異常、その西欧モデルからの逸脱が論じられてきたが、巨大都市化の動向はさらに拡大しつつある。世界システムのさらなる展開は、世界中の都市を連動させつつあるのである。「拡大大都市圏EMR(Extended Metropolitan Region)」の出現は、世界資本主義システムの加速的展開、グローバリゼーションの進展と情報ネットワーク社会の浸透と関係している。
あらゆる都市は植民都市である
『植えることと計画すること---英国植民都市の形成』[10]において、R.ホームは「全ての都市はある意味で植民都市であるAll cities are in a way colonial」という。I.ウォーラーステインの世界システム論が焦点を当てる世界経済の展開と植民都市の関係こそが主題であるが、それ以前にこのテーゼが前提とするのは、都市を本質的に権力との関係においてとらえる理論である。R.ホームが「都市は、農業の余剰生産物を集積し、サーヴィスを提供し、政治的管理をおこなうために、ある集団が他の集団を支配することによって生み出されるのである」という時、余剰生産物は藤田弘夫のいう「社会的余剰」[11]である。都市は、そもそもその成立、起源において権力の発生と結びついており、「都市は、巨大な権力が目的を達成するために、特定の場所に拠点を設け、そこに目的達成のための施設を建設するなかで形成された」のである。そうした意味で、植民都市は、都市の本質を露わにする都市である。
重要なのは、植民都市という概念が二重の権力関係、支配-被支配関係を含んでいることである。すなわち、都市と農村との支配-被支配関係のみならず、宗主国と植民地、あるいは、ある社会と別の社会との支配-被支配関係の二重の関係において植民都市は成立するのである。この二重の関係性が植民都市の本質に関わる。都市は、歴史的には、地理的に限定された社会において、農業生産物の余剰を奪取し、サーヴィスを提供するために、ある集団が他の集団を支配する権力の働きによって生み出される。そして続いて、その社会の内部に、さらに余剰を作り出し、搾取し、政治的支配を強化する手段として、別の都市が植えつけられる。これが植民都市である。さらに、この論理は、交通手段の発達によって、ある社会の境界を越えて他の領土を組み入れる過程にも拡大される。こうして、植民都市は、現地人に対する支配を確立し維持していくための道具となるのである。
[1] 拙稿、「ツナミ遭遇記」、『みすず』、みすず書房、2005年3月
[2] 布野修司編著、『近代世界システムと植民都市』、京都大学学術出版会、2005年。
[3] ギリシャ語では、植民都市はアポイキア apoikiaといった。
[4] Abu-Lughod,
Janet L., ”Before European Hegemony: The World System A.D.1250-1350”, Oxford
University Press, 1989. ジャネット・L.アブー=ルゴド、『ヨーロッパ覇権以前:もうひとつの世界システム』、佐藤次高・斯波義信・高山博・三浦徹一訳、岩波書店、2001年
[5] バート・S・ホール、『火器の誕生とヨーロッパの戦争』、市場泰男、平凡社、1999. 火器がいつ出現したかについては議論があるが、1320年代にはありふれたものになっており、gun、cannonといった言葉は1930年代末から使われるようになったとされる。
[6] 文献上の記録として、火薬の処方が書かれるのは宋の時代11世紀であるが、科学史家J.ニーダムらは漢代以前から用いられていたと考えている。ロジャー・ベーコン、『芸術と自然の秘密の業についての手紙』(1267)。
[7] ロジャー・ベーコン、『芸術と自然の秘密の業についての手紙』(1267)。
[8] 攻城砲を用いた典型的な戦例となるのがイタリア戦争(1494~1559)である。16世紀前半、イタリアはヴァロワ家とハプスブルク帝国との間の戦場となったが、フランスのシャルルⅧ世の軍隊は機動的な青銅砲と鉄の砲弾を搬送して、イタリアに乗り込み、中世の城郭を次々と撃破した。それまでの攻城戦では、籠城側は人馬だけを拒否すればよく、籠城側が有利であったが、大砲の出現はこれまでの立場を逆転させる。
[9] Gaastra, F.S., “De
Geschiedenis de VOC, Walburg Pers, 1982, 1991.内容はほぼ同じであるがカラー図番を加えた新装版が2002年に出版された。
[10]
Robert Home: “Of Planting and Planning The making of British colonial cities”,
E & FN Spon, London, 1997:『植えつけられた都市 英国植民都市の形成』、ロバート・ホーム著:布野修司+安藤正雄監訳、アジア都市建築研究会訳,京都大学学術出版会,2001年7月
[11]
藤田弘夫:『都市の論理
権力はなぜ都市を必要とするか』、中公新書、1993年
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