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2023年6月30日金曜日

2002年7月  二年目突入!  1500号記念特集へ 『建築雑誌』編集長日誌 2001年4月25日~2003年5月31日

 『建築雑誌』編集長日誌                          布野修司

 

20027    

 二年目突入!

 1500号記念特集へ


200271

13回編集委員会。いよいよ2年目に突入である。

11月号特集テーマ「都市の行方」の最終決定、そして1月号をめぐる議論がメイン。

11月号については企画の中心である肝心の北澤委員が欠席であったため盛り上がらず。大筋了承されているのでOK出す。ただ、タイトルと座談について再検討の意見が出る。「都市空間の新しい論理を描く」はサブタイトルぐらいではどうか。松山さんから、対談は、磯崎新×植田実という手もあるのでは。心は、伊藤さんだと話が大きすぎて、「系譜」「ビジュアルスケッチ」との乖離がありすぎないか心配だ。植田さんでなくても、「ビジュアルスケッチ」の人を誰かもってくる手もある(宇野さん、みかん組??)。

 「都市空間のスケッチの系譜」については、東大と京大で作業をすることが決まっており、研究室の丹羽哲矢君のメモとレイアウト案があったのだけれど委員会に出し忘れた。もちろん、北澤先生には伝えた。その内容は以下の通り。

 

建築雑誌11月号企画 都市の行方

都市空間のスケッチの系譜のためのメモ                 20020701 布野研究室

特集の中での位置づけ

特集では、縮小都市化の現象を軸に「パラダイム転換後の都市空間」を改めてヴィジュアルに提示することに主眼がおかれている、その布石として、これまでの「都市空間のスケッチの系譜」を対比的に示すことを求められている。つまり、過去に示された都市像と、その背景となった時代背景や思想の流れが、いかにして現在の都市へとつながっているのかが浮かび上がってくるような系譜図である必要があろう。

また、この系譜図に基づき磯崎新伊藤滋対談が行われる予定であるので、2人の対談を活性化させる(あるいは当時の状況を対談の中に引き出させる)内容がほしい。

ページ構成

6/18付企画案では関東関西でそれぞれ6ページづつにわけて全12ページとなっていたが、見開き2ページで10年分の系譜がわかるレイアウトとし、40’S90’S60年分で全12ページとすることを提案する。これは都市のスケッチを示す場合、その提案者である建築家がその立脚する場所に依らず各地に対して提案を行っていること、また、関東関西という地域に限定されず、日本全国あるいは海外などに対しても提案をおこなっていることをふまえると、地域での区分をすることよりも、時代による区分の方が系譜図としてまとまりのあるものとなると考えるからである。

見開き2ページの誌面の構成としては、誌面のヴィジュアル面を強化することを考え、上段にはスケッチを並べることとし、系譜図を下段にレイアウトする。系譜図は横軸に時間軸を縦軸にはプロジェクトの主体(施主)を軸としてとり、年代を経るごとにそれら都市プロジェクトの主体が変化していく様相をヴィジュアルに示すことを試みる。また、それら計画が発案され普及していく様子を文字の大きさや項目数により表現する。また最下段には政治・経済・文化の欄を設け各事象と都市計画との関連性を示すことを試みる。

 

12月号「光環境-科学と設計の接点を探る」(仮)については問題がない。石田幹事より、最終企画案が提出され、原稿発注することが確認された。

1月号「公共建築の設計入札と設計者選定」(仮)については、争点を整理。理論武装に時間をかけた。脇田委員が、設計入札の背景について、「基本的な考え方」「行政はなぜ設計入札を行うか」「設計者はなぜ設計入札に参加するか」「設計入札を考える基本的視点」を中心に詳細な説明がされた。また特集企画案が提出された。伊藤委員から、「公共建築の設計者選定」(『公共建築』2002.4より)が提出された。『建築雑誌』として、設計入札反対をアピールしたい、と思う。「良い建築と環境をつくるための社会システム検討特別調査委員会」が設けられているのでその検討にも期待したいところだ。

2月号(1500号記念)は担当を決めかねていて、というか全員参加ということで、フレームのみを仮の提案する。タイトルは、「アジアのなかの日本建築」(仮)。企画の背景には、仙田学会長のアジア重視の方針、英文論文集の刊行、9月にアジアの建築交流国際シンポジウム(重慶)が開催されることもある。また、WTO(世界貿易機構)を背景にした国際資格の問題が大きなテーマとなっている。1,000号記念号は「日本建築の将来」をテーマに5本の座談会を中心に、「建築雑誌の歩み」「建築雑誌論文再録」「“建築と社会”“建築士”のあゆみ」という構成である。1000号は19688月号だから、約35年スケールでの総括が必要だ。過去には「大東亜建築特集」(1942.9)もあった。各界アンケートは、例えば「10年後の日本建築界はどうなるか」などひとつテーマを決めて、なるべく多くの意見を集めたらどうか、という意見がでた。

3月号「巨大地震を前にして」については、福和先生より、さらに煮詰めた企画案が提出された。現在、東南海地震・南海地震を想定して国(地震調査研究推進本部、中央防災会議)が大きく動いている。今国会でも上記地震に関する「地震防災対策の推進に関する特別措置法」の審議がされている。しかし防災対策や住民の意識は十分ではなく、自治体や企業、大学でも防災対策に手をつける余裕はない。そこで理学的・工学的・防災的・行政的観点から、現状と問題点を出来うる限り本音で書いていただきたい、との説明がなされた。

今後の特集についてチェックする。現在確定している特集分野は1月号~3月号および8月号である。9月号は建築年報となる。残り少ないので、委員各位には希望の特集の提案をお願いする。

 常設欄「博物館が欲しい」は、建築博物館が実現することから模様替え。来年1月号から、学会の建築博物館に収蔵する建築を念頭に作品レビューを行うことになっているが、選定方法について、黒野委員から案が提出された。正式な選定方法の確定までは至らなかったが、先に編集委員会内でアンケートを実施することとした。

 

京都CDL(コミュニティ・デザイン・リーグ)の機関誌『京都げのむ』第2号』発刊された。なかなかの出来映えだ。

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    京都げのむ第2号発刊のお知らせ(転送歓迎)
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 お待たせしました

京都げのむ第2号ついに発刊!!!  定価 800円(創刊号より2割値下げ)

 今後、創刊号と同様に各大学および京都の書店にて販売いたしますが、現在は事務局にて販売をしています。

購入希望の方は、氏名、住所、電話、希望冊数を明記の上、メールにてお申し込み下さい。折り返し御連絡いたします。 京都CDLのこの一年間の活動がぎゅっと詰まった、濃厚な一冊です。ぜひご一読を。

 (内容紹介)

  巻頭 

 グラビア:「あの『問題物件』は現在?」

 巻頭論考:「京都のまちづくりの歴史的争点を顧みて~都市再生特別措置法と日本建築学会提言の狭間で思うこと~」 広原盛明

 特集 
京都売ります!

 あなたは身銭を削って、この「京都」の、どこを、なにを買いますか?

[PART1] 鑑定・発掘「問題物件」

 「問題物件食い尽くしツアー」

 「寒風鼎談 ~辺境に佇む神獣と三人の凍結イタコ~」

 「問題物件マップ&クロニクル」 ほか

 [PART2] 京都「買います?」
 「京都まるごとHOW MUCH!?
 「京都家賃・格差検証マップ」
 「京都家探し体験ルポ」 ほか

  京都CDL 

 「2001年秋季シンポジウムレビュー」

 「地区調査分析2001
 「地区イチオシ第一弾」 ほか

  連載 

 京都CDL都市・建築設計競技(予告編):

 「『京都人だけが知らない』建て売り住宅小史」 小林大祐

 「KYOTO on Books:京都文学アーカイブス100

 「京都データベース:[銭湯左京・北・上京・中京区編]」

 「コンペの墓場:新T美術館コンペ」
 「げのむギャラリー:建築畑」

 「京都私的探求」、「通りゃんせ(六条通)」、

 「京都黒穴(鴨川横穴潜入)」、「京都やま企画(大文字山)」 ほか

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<京都CDL事務局>
at.cdl@archi.kyoto-u.ac.jp

 

200272

1月号特集に絡んで、パネルディスカッション「横須賀型資産評価方針による設計者選定について」           開催(拝啓 時下ますますご清祥のこととお慶び申し上げます。さて、日本建築家協会(JIA)より2002710日(火)15001730開催の標記パネルディスカッションをご案内いただきましたのでお知らせ申し上げます。つきましては、御多忙中とは存じますが、ご参加いただきたくご案内申し上げます。また、身近におられる方々にもお知らせいただければ幸甚に存じます。なお、詳細は下記をご参照下さい。よろしくお願い申し上げます。)のお知らせを委員各位に回覧。参加を要望する。
             

京都CDLに絡んで、神戸芸術工科大学の永橋先生からメール。
こんにちは、永橋為介@NPO法人コミュニティー・デザイン・センターです。ご無沙汰いたしております。このメールでは、UCバークレー校環境デザイン学部のランディ・ヘスター教授のパートナーであり、同校準教授でもあるマーシャ・マクナリーさんの件で、書かせていただいています。マーシャさんは現在、UCの助成金に申請して、この秋に再度日本で、2ヶ月ほどNeighborhood Landscapeの調査を行おうと準備されています。(彼女は、バークレーや西海岸でも現在、Neighborhood Landscapeについての調査方法論の開発や実践を行っています)。
 その際、布野先生をはじめとするCDLのプロジェクトと連携をとることができたら、と願っておられます。そうした連携が可能かどうか、布野先生に連絡をとりたいとおっしゃられたので、取り急ぎ、私の方から、その旨をお伝えさせていただいています。
もし、連携が可能であれば、マーシャさんはUCの助成金申請にその旨を記し、布野先生との連携をUCのオフィシャルなプロジェクトとして実施したいとおっしゃっています。
マーシャさんは、野嶋政和さん、そして私の3人で昨年のCDLの立ち上げ会のとき参加され、彼女が研究している方法論についてCDLのみなさんの実践とエクスチェンジしたいと思われたとのことです。  CDLの最近の状況は、私がホームページの内容を伝えました。また、先生の英語のご論考もマーシャさんに送りました。
調査計画の詳細については、マーシャさんの方から直接、布野先生の方にお伝えしたいとのことです。FAX、メールのうち、どういう手段がよいのか、教えていただきたいとおっしゃっています。
 私も、またコミュニティー・デザイン・センターの方でも、マーシャさんの日本での活動に最大限協力するつもりですので、先生との連絡についても、私自身、できることを最大限お手伝いさせていただきたいと思っております。
実は、マーシャさんからは1ヶ月前から「布野先生と連絡をとりたい」と言われており、私がバタバタしているうちに日がたってしまい、昨日、電話がありまして、このようにメールさせていただいている次第です。・・・200272

 

もちろん異議ない。前向きに対応しますと返事する。

8月号の特集「インドの建築世界」の用語解説が急テンポで進行中である。山根、青井の両委員が大張り切りである。年報の座談会原稿が小野寺さんから送ってくる。「この原稿で出席者への加筆を依頼し、その結果を見ながら再調整+再度校閲をいたします。」

黒野先生から問い合わせ。
 「昨日の編集委員会に出られず、申し訳ありません。お聞きしたいことがあります。
 建築学会「情報社会ビジョン小委員会」の「環境情報ワーキンググループ」の渡邊朗子主査から問い合わせがありました。 「環境情報ワーキンググループで活動している内容を、出版したいと思っています。もし、建築雑誌で執筆させていただけるなら、ありがたいのですが、いかがでしょうか。」ということです。
 小野寺さんが回答。「黒野先生。委員会活動報告を会員に伝えるのは、会誌の義務です。ぜひ成果報告をしてください、というのが原則です。以下、「活動レポート」への掲載を念頭に回答します。
 1 WGは本来作業部会ですから、WGが独立して成果報告を行うのは変な印象を受けます。上部組織の小委員会として成果報告すべきではないでしょうか。
 2 やはり情報の質は気になります。多くの会員にとって有益な情報かどうか……ここはぜひ黒野先生のご判断を仰ぎたいところです。
 3 分量はどの程度になるのでしょうか? 本として出版の可能性が低いので『建築雑誌』に……と言われると、ちょっと難しい印象です。
 最も無難なのは、「こんな成果が出ました」という概要紹介を「活動レポート」で紹介していただき、「詳細はホームページを見てください」とするのが現実的かもしれません。

あるいは、「技術ノート」14月号が空いていて、大崎先生に検討頂いているところです。それだけの価値があれば、「技術ノート」への掲載も考えられます。宜しくご検討をお願いします。建築学会 小野寺」

 

200273

この日のメールのやりとり。

京都大学の大崎です
技術ノートの1月号から4回は,鋼構造地球環境小委員会主査の岩田先生(神奈川大)にお願いしました。
とりあえず,1回目は岩田先生に依頼してください。岩田先生は全て自分で書いてもいいといわれていますが,そのような例は過去にはないですね。

遠藤先生。
お世話様です。2回連続で、編集委員会失礼しました。すみません。学内の会議(月と木の3時にあります)と重なっておりました。今後も以下のような予定で、出席の方は十分にできませんが、メールベースで参加させていただきます。脇田さんの企画についてはメールでフォローしていますが。よろしくお願いいたします。

京都大学の大崎です
活動報告的なものではなくて,鋼構造の分野で,地球環境問題に取り組むための技術を書いていただくことでいかがでしょうか。活動報告ではまずいですね。今年の大会で,鋼構造部門のPDを企画されていますので,内容は十分にそろっている と思います。他に注意すべき点がありましたら教えていただけないでしょうか。私から岩田先生に内容について間違いのないように確認しておきます。

小野寺さん活動報告ではなく、技術を書いて頂くことでお願いします。あとは私から申し上げることはありません。布野先生からご異存がなければ、お進め願います。

小野寺さん。

福和先生:先日の編集委員会で、伊香賀先生がおっしゃっていたシンポジウムは下記です。8月号の会告に掲載します。
サステナブル・ビルディング連続ワークショップ
全地球的視点から 第5回「サステナビリティを支えるテクノロジー」
 サステナビリティを支える基盤となる技術について、討論を行う。建築のみの技術に限定せず、金融工学技術および情報基盤技術等を含めたサステナビリティに関わる幅広い側面について話題の提供を行い、今後の関連産業のあり方、および研究の方向性をつかむヒントとする。
<
主催> サステナブル・ビルディング小委員会
日 時 99日(月)13:3016:30
会 場 建築学会ホール
内 容 司会:吉田倬郎(工学院大学)
    1.省エネ技術
    2.長寿命建築技術(100年建築)
    3.耐震診断と補強技術
    4.地震保険と都市のサステナビリティ
    5.セキュリティと都市のサステナビリティ
    質疑応答まとめ 三田 彰(慶應義塾大学)
定 員 200名(申込み先着順)
参加費 会員1,000円、会員外1,500円、学生500円(資料代含む)
伊藤圭子さん。
ご連絡ありがとうございます。出席申し込みます。

北沢です.
先日は,失礼しました。ご意見を踏まえて最終案を作成します.

小野寺さん。

布野先生
思いつきで恐縮ですが、下記の案はいかがでしょうか?
・中国・韓国・日本の建築家による座談会は……無謀でしょうか?
・「技術援助と技術移転」とも関係しますが、APECエンジニアが動き出していますし、APECアーキテクトも構想が具体化していると思います。APECによる技術者交流の光と陰、各国の思惑と戦略などを紹介できると意味があるような気がします。
・アジア各国の建築システム(設計方法、施工方法、建築家の位置づけと役割)を比較するようなことは意味がないでしょうか?

 

是非やりたいと思う。

布野→9月に中国で、というのが唯一の可能性でしょうか???

小野寺さん
もしやるとすれば、絶好の機会ですね。実現できたら非常に画期的ですが、ちょっとしんどい気もして、判断つきかねています。

 

200274

 山根委員からバリクリシュナ・ドーシさんの8月号巻頭論考改訳「持続可能な都市をこえて-持続可能な地域、持続可能な地球への戦略」が届く。

 京都CDL関連でコンペの打ち合わせ。建売住宅開発に建築家、購入希望者らが参加するという珍しい試み。

 今年出版予定の『アジア都市建築史』(仮)の校正刷り(第二校)が届く。

 重慶第4回アジア国際建築交流シンポジウムの原稿締め切りも近づいた。研究室はパニック状態である。

 

200278

「建築博物館がほしい」 紹介作品に関するアンケートが回る。

編集委員各位
6/18
の編集委員会で、20031月号から「建築博物館がほしい」の連載として、建築学会が進めています建築博物館を意識した建築作品を紹介していくことになりました。7/1の編集委員会では、編集委員の皆さんにとりあげたい作品を推薦していただき、委員会で12作品に集約していくという方向で進めることになりました。
お手数ですが、715日(月)までに、以下の連載方針にかなう建築作品を、10作品までの範囲でお知らせいただけませんか。お返事は、事務局までお願いします(onodera@aij.or.jp)。集計結果は、86日の編集委員会でご報告します。お忙しい中恐縮です。よろしくお願いいたします。
例・代々木オリンピックプール(丹下健三、東京)
連載の方針
1.
 12作品を編集委員会の責任で選ぶ。選択基準は重要性と掲載可能性の高さ。
2.
 選んだ作品に対して、関係した人の話を聞きに行く(設計者に限定しない)。
  現状写真の撮影許可と、図面や竣工写真の転載許可を得る。
3.
 編集委員会で写真と資料とヒアリングを編集する。


200279

2002年 日本建築学会賞(作品)受賞者記念講演会(広島会場)に参加。記念講演は、山本理顕、渡辺誠の両氏。それに今年から選考委員が加わると言うことで僕が呼ばれた。司会は宇野求先生。宇野君は、僕が東大で二年ほど助手をした時の学生である。頼まれれば嫌とは言えない。それに日本建築学会の仕事である。さらに広島大学には二年間、客員でお邪魔したことがある。杉本俊多先生はクラスメイトである。

渡辺誠さんとは審査の時に初対面で、本格的に話すのは初めて。同世代で、やっていることに共感はある。その作品については以下のように書いた。

 

 剥き出しの地下空間 土木デザインの新展開 何にお金を使うのか

 地下鉄都営大江戸線・飯田橋駅 設計:渡辺誠/アーキテクツ・オフィス

布野修司

 

東京へは度々出掛けるけれど用事をこなすのが精一杯だから町を歩く機会はほとんどない。行ったといっても移動は地下鉄であり、歩くのは地下街だ。東京駅から地下街を辿ればほとんど雨に濡れずに歩ける。東京は既に一大地下都市と化している。

都営・大江戸線の飯田橋駅をたまたま通りかかって驚いた。打ち放しコンクリートの肌が剥き出しのままなのである。そして、天井を蜘蛛の巣のように、所々照明灯が組み込まれた緑色のパイプが這っている。新鮮だ。

地下鉄のホームや通路というと天井が低く、背を折って歩く重苦しい閉塞感がある。しかし、この駅は何よりも天井が高く伸び伸びしている。それに地上のように随分明るい。普通は天井を貼って様々な設備を隠してしまうけれど、ここでは全て剥き出しにして、その分大きな空間が確保されている。そして、緑のパイプも現代彫刻のようで斬新だ。

同じような通路やホームで地下街にはアクセントが少ないから個性豊かな駅の誕生は歓迎である。大江戸線の駅のデザインには他にも何人かの建築家が関わったという。いくつか見て歩いたけれど最も挑戦的なのがこの飯田橋駅だ。そっけなかった橋梁や高速道路など土木構築物のデザインを見直す貴重な試みのひとといっていい。制度的な枠組みが強くて思うようにいかなかったというが、その悪戦苦闘を評価したい。

出来たものは素っ気ないトンネルにすぎない。素材をそのままに表現する1960年代初頭のブルータリズム(野蛮主義)のデザインのようだ。利用客の評価は果たしてどうであろうか。賛否相半ばするかもしれない。設計者は渡辺誠、ポストモダンの旗手とも目された建築家だ。その溢れる表現意欲を押さえたある種の欲求不満を解消するかのように地上の入口には異形の排気筒が建っている。この排気筒は必要なのか。何にお金を使うのか、デザインとは何か、大いに考えさせる作品だ。

 

理顕さんとは長年の仲だ。学会賞の作品評価の基準は何か、といきなり宇野君に聞かれてドギマギしたけれど、作品賞の意義を僕なりに説明した。多少の裏話も含めた。宇野君の作品も最終審査作品にいま一歩だったのである。

会のあと、広島工業大学の村上徹先生も加わって、みんなで楽しく飲んだ。杉本とは久々話した。持つべきものは友である。NHKのBSの番組でベルリン取材、薬師丸ひろ子と共演したというのが自慢であった。山本、渡辺の議論は深夜まで熾烈を極めた。宇野君はいまや大教授だけど永遠の建築少年の趣が相変わらずでうれしかった。

 

2002710

台風で、新幹線が新大阪で止まる。京都には問題ないが、宇野君は12時間以上缶詰になったという(布野さん 宇野です.広島,ありがとうございました.楽しいひとときでした.僕は次の日,台風のせいで,なんと12時間以上新幹線に缶詰という目にあいました.岐阜の揖斐川の氾濫を目の当たりにしましたが,テレビとは違う迫力でした.家や工場の屋根が泥の濁流の中に見えるといったさまで,大洪水のこわさに遭遇したというわけでした.今度,京都あそびにいきます.おくさんの美智子さんによろしくお伝え下さい.また,金沢で.)。

 

カリフォルニア大学のMarcia J. McNally先生からメール。

July 9, 2002

Dear Professor Funo:

I write hoping this letter finds you well.  As you have learned from Dr. Tamesuke Nagahashi I have launched a three-year research agenda to study the neighborhood landscape.  The core of the research is developing and testing a method for measurement of the physical characteristics of the neighborhood so that activists and local government officials can collect the data necessary to make change.  I have already started to test this method in the U.S.  In hopes of creating a tool that will improve neighborhood design practices and have broad application, it is my desire to test this method in other urban areas in the Pacific Rim.  To that end I hope to do so in Kyoto and Taipei, Taiwan. 

The ability to understand the physical structure of a neighborhood so as to manage change is a challenge in the United States as well as Japan and Taiwan.  Knowing from past experience that activists can be very effective when they have tangible tools, I have begun work on a field guide.  The guide includes a taxonomy that organizes and classifies the neighborhood landscape in a way that allows the reader to identify and understand it in a precise way.  The document is based on a course I developed several years ago at UC Berkeley called The Neighborhood Landscape, and a conference I convened on the subject in 2000.  The method, which is the one I would like to present to you and your colleagues for consideration, includes the best field practices of many disciplines, repackaged to suit the neighborhood scale. 

You will remember that while in Kyoto last year I attended an organizing meeting of the Kyoto Community Design League.  At the time I was very impressed by the ambitious and critical mission of the League.  Nagahashi-san tells me that since that time your team conducted a trial project, inventorying the buildings and land uses from east to west along Shijo Street, which was a success.  It is my understanding that you are looking for ways to broaden the field inventory to capture Kyoto’s essential landscape qualities. 

I hope to meet with the League within the next six months to determine if it would be mutually beneficial to apply the method to select Kyoto neighborhoods.  It seems there are a number of positive outcomes to anticipate: new methodology and teaching tools, advanced understanding of successful neighborhoods and their landscapes, design and planning interventions, possibly publications available to broad spectrum of readers and users, and on-going research collaborations between Kyoto University, National Taiwan University, and Berkeley.

I am sending you via mail a copy of the case studies of seven Berkeley neighborhoods prepared during the most recent semester, as well as an article describing the course.  If you and your colleagues are interested, I would propose we meet within the next few months.  At that time I could present the method, some examples of case studies prepared to date, and how it might be applied to Kyoto using the Shugakuin neighborhood as an example. 

It is likely that I can secure a mini-grant to support my travel to Japan.  If we can find a project and approach of mutual interest, I would then be able to apply for larger funding from a research project targeted at collaboration in the Pacific Rim.  The deadline for the mini-grant is August 1st.  The deadline for the full proposal is late November.  I would propose we meet in mid-November.

At this point all I need from you is 1. confirmation of your interest and 2. an indication that mid-November is a good time to meet (or when might be a better time).  With this information I can apply for the travel funds from the mini-grant program.

It has been one year since my husband, Randy Hester, and I left Kyoto.  Our six months there were wonderful and we miss the place, our friends, and colleagues very much.  I look forward to hearing from you and to the opportunity to expand the community design network.

Sincerely,                Marcia J. McNally

 

『京都げのむ』第3号、第三代編集長が竹山聖研究室の長野良亮君に決まった。

こんにちは、長野です。次号「京都げのむ3号」の編集長をやらせていただきます。よろしくお願いします。
 先日、2号の打ち上げと準備委員会を行いました。20名(立命平尾研、リム研、龍谷、文教、京女、滋賀県大、池坊、阪大、京大)の参加があり、半分以上は顔ぶれ新たにといった感じです。とくに新メンバーに女性が加わったという印象です。
 今回は顔見せということもあり、次号の記事内容に関してあまり深いところまで話はいかなかったのですが、なによりも多く参加があったことに感激しました。(とはいっても、断面調査をもう一度まとめ直す/「京都らしい」の再評価/もう少しかみくだいた文章で/日本中を旅するので各地の「小京都」を自分なりにレポートしてみたい、などの意見がありました。
 2次会ではもうすこしつっこんだ意見も出ました。そこでは、3号は「セクシィー京都」(仮)でいこうということで話が広がりました。過去二回の断面調査の特集を基本的な柱にするにして、そこでCDL独自の視点で京都の魅力、セクシーさを発見していこうというコンセプトです。都市は魅惑的なものであるはずですから、CDL的な視点での様々な「セクシーさ」を京都に見出すことも可能であろうと思います。(当然、観光雑誌、タウンマガジン的なものを目ざすものではないです。)全体のイメージに関して次回編集委員会でさらに議論を進めていきます。今回はより多くの大学からの編集者が集まりそうですし、各自の独自の視点に期待したいと思っています。
 早速メーリングリストを新たに作成して、次回会議の日程調整をすると共に、7月中はそこでのやりとりで3号の構想に関して意見を交換できればと考えています。また、第1回編集委員会ですが、7月には大学の試験が多くあると聞いたので、早めに招集したいこともありますが、7月最終週で調整しようと考えています。
 大まかな日程ですが、8月_構想、9-11月_取材、編集、11月末_原稿締め、来年1月_発行と考えております。
 3号の荷の重さを感じていますが、初代、2代の経験を生かしつつ(編集長のサポートをうけつつ)、新メンバーでさらに多彩な紙面を目ざし挑戦をしていきたいと思いますので、よろしくご指導ください。
長野良亮 

 

 建築雑誌も若い感覚は参考にしなくてはと思う。

 

2002711

 北澤先生からメール。

11月号原稿依頼発注。「建築雑誌」200211月号 企画案 version 3.0 

特集 都市の行方 都市空間のスケッチ

1,趣旨 

近代都市の計画やデザインの系譜は短いと言え,都市社会像と空間像をともに構想した「田園都市」などの議論を発端とすれば,すでに100年という歴史と蓄積がある。来年は,東京が都市としての歩みを始めた「江戸開府」から400年という節目の都市でもある。

 そして現代の都市は,現在大きな転換期を迎えている。

 産業の構造的な転換や人口の減少がもたらす都市活動の停滞,高齢化や少子化がもたらす生活自体の変容,地球規模の環境保全など,都市を取り巻く状況は大きく変化している。成長・拡張の時代から,非成長・非拡張,そして収縮・周密の時代へと都市は向かっている。この大きなパラダイムシフトの中で,どう都市は変容していくのだろうか。現に,都心の荒廃から郊外部でも空洞化が始まっている。一方で,バブル崩壊後の不良債権処理,供給過多とも言われながらも続く大規模開発など,都市の構造や手法に関する新しい展開は見られない。「都市の行方」を誰もが知らないまま,日々都市は変貌している。

 将来の都市を語ることは多い。産業は,人口は,住宅は,福祉は,教育は,分析されればされるほどに,都市は断片化していく。結果として、経済や制度という見えざる手が動かす都市となっている。ここでは,将来の都市を空間から再度考えてみようと思う。都市の断片化の要因の一つは、空間から都市の論理を組み立ててみる機会が,少ないことではないだろうか。断片化する都市を総合化し、可視化してみせるのは、常に空間であった。

転機にある都市には,構想が必要である。今描く空間の構想は,これまでのものとは違うものになるであろう。対象も,方向も,描き方も違うかもしれない。そこに,現在の、そして将来の都市の新しい論理の展開を見い出せると考えている。

 

2,構成

1)対談

 この特集では,まず,60年代以降の空間の構想について,建築家の磯崎新氏と都市計画家の伊藤滋氏がその流れを描き出し、加えて今後の都市の空間のあり方、その方向性を論じる。都市への視線や関わり方において,全く違う位置にあった二人の議論は,都市の現在を鮮明なものとする。

2)構想計画の系譜(対談の論点となる資料編) 

19605月、東京で「世界デザイン会議」が開催された。都市という主題,メタボリズムグループの活躍で強く記憶されるこの会議で、西山夘三は、「事態の進路を人びとに正視させ、どうしてもとらねばならない地表の構成・環境の造成のさまざまな原則を空間的イメージによって承認させてゆく役割を果たす」「構想計画」の必要性を主張した。それは、「「空間」をみつめる責任を感じているものが、鋭く感じとることのできる空間的な問題点を、その社会的責任として国民の前に提示する仕事」である。60年代以降も、多くの建築家、都市計画家がこの仕事に挑んできた。その流れを整理し,背後にある論理を整理する。

3)新しい空間の論理(何人かの建築家や都市計画家らが描く都市空間)

 都市を巡るパラダイムが大きく転換しようとしているが、バブル期以後は,「都市経済の論理」による空間の構想計画が主となってはいないだろうか。

世紀末には「都市のビジョン」が語られ、都市に対する提案も方々から提出されている。しかし、多くの人に理解され、共有されるような空間を明確に描いた「構想計画」となっているだろうか。都市が備えるべき要件は多岐にわたるが、それらを並列的に書き並べる以上に、一つの空間像として総合し、分かりやすく提示してみせることが望まれている。

 これまでに都市に対して積極的に取り組み、提案されてこられた方々に改めて、パラダイム転換後に構想しうる「都市空間の論理」をヴィジュアルに提示して頂く。

3.具体的内容

 

第一部    「都市空間の論理」系譜と展望  16ページ

 

磯崎―伊藤対談が軸。東大・京大で用意するデータを参照資料として、建築家―都市計画家双方の視点から「都市空間の論理」の構想の、歴史的展開について、論を交えて頂く。

対談の材料として、これまでの様々な「構想計画」を、現在の構想に含まれる様々な論点のオリジンを探すという視点から、第二部の分類と対照させながら整理する。

 

対談 「都市空間の論理」について 6

磯崎新vs伊藤滋  聞き手 布野修司・北沢猛

系譜 1960年代以降の構想計画史 10

【担当】

構造(あるいは対象のスケール)から:京都大学布野研究室 

解釈(あるいは対象のテーマ)から:東京大学都市デザイン研究室

【作業の概要】

①上記趣旨に照らして、下記に記す雑誌から「構想計画」(定義は趣旨を参照、構想すること自体に積極的意味を見出す都市に対する諸計画、提案)を抽出する。年代は凡そ、西山発言以降の1960年代~

主な雑誌名

「建築雑誌」、「建築文化」、「新建築」、「建築」、「都市住宅」、「建築と社会」、「建築思潮」、「プロセスアーキテクチャー」、「101」、「都市計画」、「造景」、「ビオシティ」、「ジャパンランドスケープ」、「ランドスケープ・デザイン」等。

又、上記作業により抽出された「構想計画」のうち、重要と判断されたものに関しては、関連資料。原資料等を東京大学都市デザイン研究室、京都大学布野研究室で分担して収集する。

②雑誌以外の媒体(単行本、報告書等)で発表された「構想計画」を、可能な限り、東京大学都市デザイン研究室、京都大学布野研究室で分担して収集する。

③以上で抽出された「構想計画」の、「絵」に込められた「都市空間の論理」を読み取り、系譜を作成する。その際、第二部で提示される「都市空間の論理」のカテゴリーと互いに関係付ける。

 

 

第二部 「都市空間の論理」 -ビジュアル・スケッチ- 24ページ

 

 各人、見開き2ページで、以下に挙げた方々に、現在の地点から構想される「都市空間の論理」について、ヴィジュアルに表現して頂く。そのうち1ページは「絵」、残り1ページで解説。一応、以下のようにカテゴライズして原稿依頼するが、この分類は提出された原稿を基に再構成する。

 

〇都市空間 構造的展開 

※構想計画は、その構想の対象に関して、都市の全体、全体を構成する部分としての地区・街区、地区や街区を構成する要素としての建築といった、幾つかのスケールに分類することができる。これらの幾つかのスケールの都市空間は、互いに入れ子のような関係で、都市を構造化している。

 

都市の全体構想 都市全体を俯瞰的に。都市レベルでの再生の都市空間像の提示。

■大野秀敏 1949年生まれ 東京大学教授

 参考テーマ 「都市構造の再編/線分という概念」

■重村力 1946年生まれ 神戸大学教授

 参考テーマ 「田園と都市の新しい関係/居住の再構築」

地区・街区の再生像 地区レベル、街区レベルで再生の都市空間像の提示。

■出口敦 1961年生まれ 九州大学助教授

 参考テーマ 「新・田園都市モデル/街区再生モデル」

■有賀隆 1963年生まれ 名古屋大学助教授

 参考テーマ 「アーバンビレッジの構築」

都市を捉える建築 建築の都市的展開による都市像。既存の都市に挿入する小空間の望むべき姿。

■竹山聖 1954年生まれ 京都大学助教授

 参考テーマ 「不連続都市の一点」

■曽我部昌史 1962年生まれ 東京芸術大学助教授・みかんぐみ※

 参考テーマ 「都市のリサイクル/団地再生からの展開」 ※みかんぐみに依頼

〇都市空間 解釈的展開

※構想計画は、都市に臨む姿勢、つまり都市をどう解釈するかという出発地点において、幾つかに分類することができる。60年代以降一貫してあるのは、技術の発揚の場としての都市空間、一つの生態系としての都市空間、人の生活が織り成すコミュニティの舞台としての都市空間といった解釈であろう。

技術としての都市 技術が可能とする都市空間。あるいは技術の発展が要求する空間像。

■宇野求 1954年生まれ 千葉大学教授

参考テーマ 「ハイブリッド都市の姿/TOKYO

■佐々木龍郎 1965年生まれ 建築家・project.co.jp 

 参考テーマ 「Netpolis/その可能性」

生態としての都市 行き詰まった都市空間を新たに循環させる。一つの生態としての都市像。

■宮城俊作 1958年生まれ 奈良女子大学教授

 参考テーマ 「エコロジカルな都市/ランドスケープ・アーキテクトの視座から」

■塚本由晴 1965年生まれ 東京工業大学助教授

 参考テーマ 「隙間から見えてきた都市/小さな都市空間」

コミュニティとしての都市 人びとの暮らしと都市空間。コミュニティの新しい物的環境。

■石塚雅明 1952年生まれ (株)柳田石塚建築計画事務所代表取締役

 参考テーマ 「まちづくりに見る都市像」

■大月敏雄 1967年生まれ 東京理科大学専任講師

 参考テーマ 「モダンから現在・将来へ/モデルとしての同潤会」

○寄稿依頼仮テーマは、参考程度。

 

 

2002712

伊藤圭子委員よりメール。

お返事が遅くなりました。その間、台風6号の中を建築家協会の設計者選定に関するシンポジウムに行ってまいりました。建築家の皆様の、設計に関する暑い情熱に、もっともだと思うとともに、現在の社会とのずれを感じ、現在取り上げようとする問題が日本の文化自体を相手取っていることを認識しました。設計者選定のやり方のような些細な問題の前に、設計者を選ぶことで得られる社会的利益を理解してもらう必要があるでしょう。先日のシンポジウムは、それを当たり前と言うことで議論の俎上にのせないことで、一般性がありませんでした。もちろん内部のシンポジウムですからそれでよいのですが。
そこで、ゲーム理論ですが、私もよく知りませんが、相当研究されているようですね。入札とオークションでは、高く競り落としたいやつがビットする場合と、低くおとしたいやつがビットする場合の違いがあるだけです。また、一般に封書に入れて封をする場合と公開で行う場合の違い、談合がある場合とない場合の違いなど様々研究されているということです。
 ただ、あのシンポジウムの様相では、特集の課題を設計者選定とするならば、入札などと一言でもいおうものなら、釜ゆでになりそうでした。でも、ゲーム理論はおもしろいから好きです。普通、構造の先生が得意な分野だと思ってきました。コラムか何かででもご紹介いただけないものでしょうか。
  伊藤圭子
 ゲームの理論云々というのは大崎委員とのやりとりがある。

「入札というのは,オークションと同じですね。オークションといえば,ゲーム理論でいろいろ研究されていて,セカンドプライス オークションとか,ダッチオークションという言葉を見かけたことがあります。ま た,建設産業ではないですが,アメリカでは,情報産業の政府の入札をゲーム理論家に任せて成功した例もあるようです。建築雑誌での議論はこのようなこととは関係ないのでしょうか。建設産業だけ別なの でしょうか。上記の「成功」も,政府が損をしなかったというだけで,いいものができたとは書いていないですから,ここでの話とは無関係なのでしょうか。」

「京都大学の大崎です。ゲーム理論は,Beautiful Mindという映画のおかげで流行りですね。私は映画は見ていないのですが,アメリカに行ったときに暇なので,原本を読みました。にわか勉強で講義でも紹介したのですが,私には説明する能力はありません。建築系では,東工大の青木先生なら引き受けてくれるはずです。また,その道の専門家に依頼することも可能です。
今回の特集は,ひじょうに泥臭い話が中心ですが,科学的な話も少しあってもいいのではないでしょうか。」

 

栗原さんからアジア国際建築交流シンポジウム(ISAIA)についてメール。

布野先生。論文提出についてご報告いたします。
先ほど6時までの便にて日曜午後または15日月曜午前着の国際速達便にて論文29編を無事に発送いたしました。58名の参加者についてもリストを同封し,お知らせいたしました。シンポジウムに参加せず論文だけ提出の方も4名いました。
後は,締切に間に合わなかった分をまとめて,月曜午前に発送する予定です。中国建築学会からは,7月中旬以降ベルリンUIA大会のため,締切をまもるよう言われておりましたが,月曜朝発送分については,
多少 無理をお願いする予定です。

 

58名もの参加はまずまずか。

 

2002714

自宅前の高野川の河原でバーベキュー・パーティ。長年お世話になった秘書の石田千鶴さんがやめられるのが口実。引っ越して以来、一度やりたかったのである。楽しいひとときを過ごした。

 

2002715

大崎さんから「建築形態の数理」企画案。いつもながら早い。編集長以上に『建築雑誌』について時間を割いてもらっている。ありがたい。

 

建築形態の数理

建築は芸術作品であるとともに,科学技術によって実現される人工物であるから,自然界の原理を無視したか形は許容されない。また,仮に許容されたとしても美しいとはいえない。したがって,ドームや橋梁などの大スパン構造物では,力学原理に従った最適な形態が探求されてきた。一方,最近のコンピュータの進歩にともない,数理的な手法によって形態を生成する方法や,自然界の原理を直接的に取り入れて新しいデザインを見出す試みも行なわれている。

本特集では,自然界の原理に学び,古典的な数理的手法を再考し,建築の形を決定するための手法を紹介することにより芸術と力学の接点をさぐる。

 

対談: 構造美とデザイン(6ページ)

川口 衛(法政大学),原 広司

主に大スパン構造を中心に,構造力学と意匠デザインの接点について議論し,構造技術者とデザイナーの今後役割について意見を交わす。

 

生物成長の力学(6ページ)

田中正夫(大阪大学,機械系),山崎光悦(金沢大,機械系)など

骨の成長,血管の分岐,植物の枝の分岐などのメカニズムとそれに基づく設計法の解説

 

生物の生長を模倣した建築構造設計法(3ページ)

大森博司(名古屋大),本間俊雄(鹿児島大)

遺伝的アルゴリズム,免疫アルゴリズムなどのいわゆる進化的手法と,建築構造設計への応用例の紹介

フラクタルや人工生命的手法による形態生成(2ページ)

 

朝山秀一(東京電気大),谷 明勲(神戸大),渡辺 誠

フラクタル,セルオートマトン,Lシステムなどによる空間骨組構造物の形状生成法

 

構造形態の最適化(3ページ)

三井和男(日本大),藤井大地(近畿大)

構造最適化の中の形状最適化について,建築構造への適用例を紹介する

 

感性工学(4ページ)

感性の定量化とそれを用いた設計法について。土木の橋梁設計 自動車の設計

 

宇宙構造物の形態(2ページ)

名取通弘(宇宙科学研究所)あるいは清水建設。展開構造物などの形状に関わる話題。温度応力など,宇宙特有の構造上の話。

 

多面体(2ページ)

宮崎興二(京都大)

多面体の分類,歴史と建築での利用について。多次元空間での多面体の紹介。

 

不可能物体(2ページ)

杉原厚吉(東京大学)

 

2002717

 理事会。「清浄空気・建築憲章」「京都の都市景観の再生に関する提言」パンフ配られる。京都については『建築雑誌』で深めたいと思う。問題は切り口である。「建設系7学境界会長懇談会」の紹介があり、「1.機関誌の共同編集」ということが話題になったという報告があった。「建築学会・土木学会で「建築と土木(200110月号)」をテーマに機関誌協同編集をし、好評であった。地球環境問題や都市景観、発注システムの問題は共通の課題であり、年に1回くらいは、テーマに対応して機関誌の共同編集があっても良いのでは」という。いささかとまどう。どちらかというと仙田会長の発言であることをまず確認。それぞれに編集昨年の共同編集がオールカラー化のきっかけになったようにジャンルを超えることの意義は認めるけれど、編集委員会は独自に動いており、実際どうすればいいのか、と問うと、編集委員会で独自に判断していただければ結構、という返事。既に来年の3月号を検討中であり、やれても1号ぐらいです、と答える。編集委員会で検討が必要である。200211月号の「都市の行方」にしても、20031月号の「発注方式」にしても、共同編集というより、テーマ毎に自由に分野を超えて執筆者を考えており、必ずしも、共同編集の意義を理解できないのが本音。

 「会長と支部役員との懇談会」の記録にも『建築雑誌』への意見がある。「建築雑誌の内容が偏っているように見受けられる。最近の様々な取り組みは評価できる。しかし他団体の会誌としてやはり難しい。」。具体的な指摘ではないのでなんともいいようがないが、バランスを考えてなおかつ「偏り」があるのは自覚するところである。難しいと言われるとまだまだ努力が足りない、ということであろう。「一般にもわかりやすく」は編集委員会のスローガンである。

 

2002718

 松山巖さんから新作『ラクちゃん』(偕成社)届く。初の児童文学作品である。早速、楽しもうと読みかけたら、わが共同生活者にとりあげられる。「お話会」で日常的に子どもたちにお話を聞かせている彼女は当然先に読む権利があるということらしい。

 

2002719

サイト・スペシャルズ・フォーラム(SSF)の会合で上京。椎野潤先生の「IT時代の建設業と「鹿児島建設市場」」と西郷徹也さんの「木造住宅の設計生産一体型CADシステム」。160社でネットワークを組む「鹿児島建設市場」は実に興味深い。『建設ロジスティックスの新展開』(彰国社)に詳しい。また、西郷さんの話も、プレカットと設計をつなぐシステムがここまできたかと大いに感心。内田祥哉先生に出来たばかりの『現代建築の造られ方 The Construction and Culture of Architecture Today : A View from Japan』(市ヶ谷出版社)頂く。内田先生の話は、SSFに参加して、この10年折りに触れて聞いているけれど、そのエッセンスを凝縮した本だ。

 

2002720

 学会の設計競技「外国人と暮らすまち」の第一次審査。今回の設計競技には、179作品の応募があり、
各支部において支部審査の結果、44作品が支部入選した。午前中の予備審査では、44作品の1/314作品を選出する。建築会館ホールは、900には入れますということだったから、一番乗りで見た。これもまた宇野求君の依頼で、断るわけにはいかなかった。なかなか建築にしにくい難しい課題だと思っていたけれど、一生懸命考えた案ばかりで面白かった。82日に公開審査で入賞者を決定するという。学会の大会で公開審査を行うのははじめてだという。
 16:00過ぎに審査を終えると、東雲の公団住宅の現場に。山本理顕さんから鈴木成文先生が来ているから来ないかと誘われていて、早く終わったら行く、という返事をしていたのであった。宇野君を誘ってかけつける。布野研究室出身の北岡君が担当で案内してくれた。行くとモデル・ルームは神戸芸術工科大の学生さんたちを中心にごった返しで、既にビア・パーティが始まっていた。熱気に推されながら議論に参加。

 成文先生、自宅で延長を、とおっしゃる。やな予感。先日大迷惑をかけたばかりだ。しかし、折角だし初めてだからと理顕さんに促され、鈴木邸までおつき合いということになった。楽しい時間が過ぎて、当然のように、最終新幹線に乗り遅れた。

 山本理顕さんに横浜まで送ってもらう。



2002721

 北岡君らと朝まで横浜で過ごして、新横浜から京都に帰る。あわただしく出国準備。京都CDL関連のゼロ・コーポレーション主催の建売団地コンペの打ち合わせにはとても出席できなかった。

 

2002722日~81

 シンガポール、インド行。今年の主ターゲットは、マドゥライMadurai(タミル・ナドゥ、南インド)調査である。何故、マドゥライか。書けば長いが、簡単に言えば、円環的構造をもった都市について興味があって調べたいということだ。研究室では長年グリッド・パターンの都市に興味を持ってきた。京都のような碁盤目状の都市に住むことも大きい。チャクラヌガラ(ロンボク、インドネシア)、ジャイプル(ラージャスタン、インド)など調査をしてきた。一方、そうしたグリッド・シティとは異なる空間構造をもつ都市が気になる。ラホール、アーメダバード、デリーなどイスラーム都市をターゲットにしてきたのはグリッドに対するアンチ原理への興味である。そして、もうひとつ気になっていたのが円環状の空間構造である。まず、二重のリンコール(巡礼路)をもつラサを森田一弥君が調べた。残念ながらラサには行く機会を得ていない。続いて、柳沢究君がヴァーラーナシー(ベネラス)について修論を書いた。一般の眼に触れる論文にはまとまっていないが、かなりの密度と水準の論文である。その柳沢君に次に気になる都市はと聞けば南インドのシュリランガムだという。そういえば、シュリランガムの南のマドゥライは円環状の構造をしている、と聞いたことがある。よし、それならば、となった次第である。同行は、柳沢君に加えて、博士課程の丹羽哲矢君、修士課程の大辻絢子君である。

 以下、毎回綴る暗号のようなメモである。日誌はノートに殴り書きする。

 

 7/22 関西12:0017:05Singapore Swissotel the Stamford 1460号室 / 2 Stamford Rd., Singapore 178882 tel: 63388585 fax: 63382862 e-mail: emailus.singapore@swissotel.com

Raffles City Raffles Hotel Long Bar
7/23 5:00起床 メール 6:00 シャワー オランダ植民都市研究→9:00 10:00Check out:  10:30 Chinatown URA(Urban Redevelopment Authority) 12:00Boat Quaylunch)→Little IndiaOrchard RD(高島屋book store)Raffles City Singapore20:3522:00Chennai Severa Hotels Limited 69 Dr.Radhakrishnan Rd., Chennai 600004 tel: 8274700  fax: 044-8273475

7/24 Chennai 4:30起床 メールつながらず。 編集長日誌 5:30シャワー、都市再生9Singapore書く オランダ植民都市研究はじめに 8:30食事 9:12San Thome9:45Mylapore Kapaleeswarer Temple10:20Madras University Senate House 1873 Robert F. Chisholm10:45 11:20 High Court George Town Lunch13:30Gvt. Museum15:00Book Shop shower(雨) 2Landmark 16:50Parthasarathy Temple: Gasandra Mokthau Festibal 19:15→写真 srinampyar@yahoo.co.in

2002724

 シンガポールについて原稿を書いた。帰国したら、手を入れて、日刊建設工業新聞の神子さんに送ろうと思う。

 

二一世紀のユートピア・・・都市再生という課題⑧

都市再生とは何か。何を再生するのか。都市再生デザインの行方を探る

布野修司

 

甦るショップハウス・ラフレシア

URA(都市再開発機構)の挑戦

シンガポール  チャイナタウンの変貌 

 シンガポールは1979年に初めて訪れて以来何度も歩いた。海外に出掛ける度に立ち寄ることが多く、チャンギ空港での滞在時間は相当の日数!になる。この四半世紀のシンガポールの変貌は実に著しい。

二〇年前、チャイナタウンには、種々の屋台が建ち並び、多くの人々が溢れていた。崩れ落ちそうなショップハウスの窓から数多くの顔が通りを見下ろす、活気ある地区であった。一方、街には既に高層の集合住宅が林立しつつあった。再開発の波が押し寄せ、チャイナタウンは風前の灯火のように思えた。

実際、八〇年代には数々の公共住宅建設事業、再開発事業が実施されることになる。高層住宅の下に店舗を配置する下駄履き型のピープルズ・タウン・センター、そして、チャイナタウン・ポイントがそのモデルである。シンガポール建設当初の一八二二年に遡るチャイナタウンの歴史もさすがにその命脈を断たれたかに見えた。現在、チャイナタウンのすぐ北に隣接するシンガポールの中心、ボート・キーの周辺には超高層のオフィスビルが建ち並んでいる。シンガポールは、美しく現代的な都市へと変貌を遂げたのである。

昨年九月、そしてこの七月にシンガポールを歩いて、街が変わりつつあることに気がついた。街のあちこちでショップハウスが改装されているのである。パステルカラーで塗り替えられたショップハウスのファサードが、日本人には多少違和感があるかもしれないが、トロピカルな雰囲気を醸し出して、通りを明るくしているのである。

急速に再開発を進めてきたシンガポールが、都市建築遺産の保存をテーマにするのは一九八〇年代の終わりである。シティ・ホールやラッフルズ・ホテルのようなモニュメンタルな建造物に限らない。チャイナタウンやリトル・インディア、そしてカンポン・グラム(アラブ・ストリート)のような地区全体もまた保存地区に指定(一九八九年)されるのである。もちろん、指定されたからといってすぐさま街が変わるわけではない。投資の対象にならなければ、あるいは保存がなんらかのメリットにつながらなければストックに手は入らない。しかし、ようやく動き出したというのが実感である。チャイナタウンの一画に建つURA(都市再開発機構)ギャラリーには様々な改修保全の資料やマニュアルが用意されており、多くの人々が訪れていた。

スタンフォード・ラッフルズは、民族毎に居住区を分けるセグリゲーション(棲み分け)を計画方針とする。一八二二年にタウン・コミッティを組織し、チャイナタウン、ブギス・カンポン、アラブ・カンポンなどを計画した。基本にしたのがショップハウスである。ヨーロッパのアーケード、中国の亭子脚(ていしきゃく)をルーツとすると言われる、ファイブ・フット・ウエイ(カキ・リマ)を前面にもち、ぎっしり建ち並ぶ店舗併用住宅は各地区共通でバック・レーン(サーヴィス用裏道)を持つのが特徴である。ある意味ではラッフルズの考案であり、マラッカやペナン(ジョージタウン)、バンコクなどにも持ち込まれている。

六〇年代から八〇年代にかけての再開発圧力にも関わらずシンガポールには多くのショップハウスが残されている。その中心がリトル・インディアであり、カンポン・グラムであり、チャイナタウンである。その理由のひとつは敷地割りと合ったショップハウスというしっかりした建築の型があったからである。

『植えつけられた都市・・英国植民都市の形成』(京都大学学術出版会)を書いたR.ホームは、これをショップハウス・ラフレシアと呼ぶ。ラフレシアとはラッフルズが発見した世界最大の花の名前だ。ショップハウスを建築のラフレシアというセンスに僕は共感を禁じ得ない。

 

チェンナイは3度目である。植民都市研究で、吉村理君と千葉大の池尻君が修士論文をまとめた。池尻君は博士論文を準備中である。

チェンナイはかつてマドラスといった。最初にイギリスが拠点とした町で、カルカッタ(コルカタ)、ボンベイ(ムンバイ)とともに三つのプレジデンシー・タウン(管区首都)であった。

チェンナイは様々な意味で日本と関係が深い。まず第一、日本語の起源をタミル語に求める有力な説がある(大野晋)。マドラス大学には日本研究センターがある。第二、江戸時代マドラスは桟留(サントメ)と呼ばれる綿製品と柄を提供したことで知られる。

桟留(サントメ)については以前『室内』に書いたことがある。

 

桟留(サントメ)

布野修司

桟留とは江戸時代に流行った舶来の縞織物のことだ。唐桟(とうざん)縞ともいう。唐すなわち外国産ということだ。最も人気があったのが縦縞の桟留で、文化文政の「いき」な趣味を代表するとされる(九鬼周造『いきの構造』)。「奥島」ともいって当初は大奥で将軍家が愛好した。オランダの商館長が献上したのがきっかけである。やがて、武士層や富裕な町民層に広まっていったのであろう、浮世絵にも沢山描かれている。基本色は藍、白茶けた赤、白である。いかにも斬新なファッションに思えるではないか。

 何故、桟留かというと、今、南インドのマドラス(ボンベイがムンバイになったようにチェンナイと名を昨年変えた)に居ることと関係がある。桟留とはマドラスのことなのである。正確には現在のマドラスにあるサントメのことだ。驚くべきことに、その地名は聖トーマスから来ているという。説ではない事実である。早速、サントメ教会に行ってみた。何の変哲もない教会がそこにあった。しかし、南インドの一隅に聖者が祀られていて、奇蹟を起こすという話は一三世紀頃からくり返し西欧に伝わっていた。マルコ・ポーロも、現在のマドラス付近に聖トーマスの遺体が安置されていると書いているのである。キリストの十二使徒の一人、聖トーマスが何故南インドの地名に変身し、近世日本の「粋」文化を飾る木綿縞に転じたのかは、重松伸司著『マドラス物語』(中公新書)をお読み頂きたい。東西の交渉史は実にダイナミックで面白い。オランダは北へ三〇キロ程のプリカットを拠点にしていた。長崎(出島)ーバタヴィアープリカットというネットワークで桟留が日本に供給されていたのである。因みにキャラコというのもインドのカリカットから来ている。

マドラスの属するタミル・ナドゥ州を中心に話されるタミル語が日本語の起源だという有力な説(大野晋)がある。マドラス大学には日本研究センターが設立されるほどだ。マドラスの各寺院には京都の祇園祭のような山車祭りがある。といった様々な興味でマドラスにやってきた。というと格好がいいのであるが、やってきて見聞きしてはじめてサントメのことを知ったというのが本当のところだ。

第三、ゴアの大司教であったフランシスコ・ザビエルは日本へ向かう途次、このサントメ教会に寄っている。

プレスター・ジョン伝説は西欧世界ではとてつもない磁力をもっていたのである。

 チェンナイではジョージタウンをターゲットとした。池尻君を筆頭に、安藤正雄研究室のメンバーが随分通った。

英国がインドで最初にその拠点を置いたマドラスで、ヨーロッパ人たちは城壁内に住み、インド人たちは要塞の北に住んだ。それぞれホワイトタウン、ブラックタウンと呼ばれる。そのブラックタウンが今日のジョージタウンだ。

 当然ジョージタウンに足を運んだ。実に賑やかな町である。日中から人通りが絶えない。眼鏡、自転車、工具、電器、鉄管、チューブ、ハードウエア・・・それぞれの通りに固まってある。インドのジャーティ制(職業分離)である。チェンナイは国際都市だ。テルグ語、タミル語、ヒンディ語、ウルドゥ語、中国語が飛び交っているのだという。

 歩いていると植民地時代に建てられた独特の様式に気づく。インド・サラセン様式と呼ばれる英国人建築家によるコロニアル建築だ。西欧建築を基礎にしながら、イスラーム建築とヒンドゥー建築の要素が巧みに取り入れられている。ハイコート(最高裁判所)がその代表である。また、マドラス大学評議員会館もなかなかの迫力だ。列柱を並べたヴェランダを周囲に回すバンガロー形式が特徴であるが、細部に様々な要素が折衷されている。

 思えば、わが国の近代建築も英国の影響下に出発した。弱冠二五、六歳のJ.コンドルが先生である。彼はマドラス経由で日本に来たに違いない。彼の設計した鹿鳴館を思い出す。彼が当初日本建築に相応しいとイメージしたのはインド・サラセン様式なのである。伊東忠太の築地本願寺にもインドが濃厚に入り込んでいる。しかし何故か、コンドル・忠太以降、日本建築はインドもサラセンも無縁のものとしてきた。

 

7/25 チェンナイ 4:30起床 4:45チェックアウト:5:45空港 9w3519 JET AIRWAYS 6:357:55 →ホテル 9:00 New Century Book House  Liberty Book Shop Haggin….Meenakshiamman Temple 12:30lunch13:30Tourist InformationCity LibraryHotel Madurai AshokHotel Sangam Alagarkoil Rd., Madurai 625002 tel: 537531  fax: 0452-537530,537535

7/26 マドゥライ→スリランガム 120km   5:00起床 日誌 オランダ植民都市研究 7:15 Elephant Rock  7:40Melur  8:07Kotampatti  10:25Tiruchchirapalli Fermina Hotel(breakfast)  Srirangam (Sree Ranganatha)13:05    Maya Hotel lunch   Rock Temple Srirangama  17:15  Jambukeshuwara 18:0021:10 dinner

7/27 マドゥライ調査 5:00起床 オランダ植民都市研究 8:30出発 breakfast Madurai Kamaraj University/ Madurai Corporation    Gandhi Museum 13:00  Lunch 15:00  Madurai調査 18:00

7/28 マドゥライ調査 6:00起床 8:30出発 9:0010:30 Gandhi Museum 12:00 Hotel  15:30 Palace Tirumalai Naicker Mahal 16:3018:00ブロック調査 18:3019:30 Animal Procession  Hotel

7/29 マドゥライ調査 5:30起床 オランダ植民都市研究 8:30出発 80Rphrでアンバサダー・チャーター Thiagarajar College of Engineering   講義“Ideal Cities in India and China” 大学院50人出席   13:00  Vandiyur Mariamman Theppakulam 14:10 Gandhi Museum 15:00 Madurai Cooporation 16:00 Hotel

7/30 マドゥライ調査 5:50起床 オランダ植民都市研究 10:00 Madurai Corpolation Madurai 13:50 IC672 14:45 Chennai    15:30Mahabalipuram21:00        Chennai 23:30     SQ409

7/31  06:00 Singapore  Transit Hotel (8/01  Singapore 01:10  SQ986     08:25 Kansaiの予定)

 

2002731

 シンガポールのトランシット・ホテルで書いている。

 今回の調査旅行も充実していたと思う。スケジュールは以上の通りだ。「オランダ植民都市研究」というのは、この3月に報告書を提出したものを一般向けに出版しようという企画である。毎朝起きて原稿に手を入れた。

 マドゥライは想像以上に面白い町だった。

 中心にミナクシ寺院(とスンダシュワラ寺院)があり、その周囲に円環状に道路が巡る。道路は湾曲しており、シュリランガムのように整然とした矩形ではない。シュリランガムも一日歩いたけれど面白い町だ。亡くなった小倉泰さんの論文があるけれど、フィールド調査したら面白いと思う。しかし、今回はマドゥライに集中である。

  円環状の街路には、タミル月の名前がついている。そして、各月に山車のでる祭りがある。祇園祭の山車にまさるとも劣らない。南インドには山車、御輿の出る祭りが多い。それもマドゥライに着目した理由である。

 街を歩いて記録し発見したことを議論する。フィールドワークの醍醐味である。ライブラリー・ワークも楽しい。タミル語となるともう若い諸君に任せるしかない。少ないけれどいくつか文献がみつかる。ガンジー・ミュージアムのラヴィチャンドラン博士にまず出会って、色々教えを受けた。彼はヨガの教師でもあった。チアガラジャール工科大学に行って、いきなり講義させられたのは、いつものこととは言え、めんくらった。デリーのスクール・オブ・アーキテクチャー・プランニングで修士論文を書いたばかりのバラジ君はなかなかの切れ者であった。

 講義の最中に、逆に、英国の植民地支配がマドゥライの都市構造をどう変えたのか?と質問すると、滔々と説明してくれた。どちらが講師かわからない程であった。彼は、南インド固有の建築文化の再発見を訴えた。マドゥライの町にもカースト毎に地区毎にそれぞれ町屋の形式があったという。

 出発の日にマドゥライ・コーポレーションに出掛けて詳細な地図に辿り着いた。フィールドワークにベース・マップはかかせない。調査の目途はほぼたった。

 インドを出てようやくメールがつながる。出発は午前1:10。メールのやりとりで時間が潰れると思う。チャンギ空港は驚くほど便利な空港である。 

 柳沢、大辻の両君は今日もマドゥライで調査を続けている。

2023年6月29日木曜日

景観条例 全国初の勧告やむなし,日刊建設工業新聞,199704

 景観条例 全国初の勧告やむなし,日刊建設工業新聞,199704

景観条例、全国初の勧告やむなし

                970301

 「建築物西側のバルコニーの外側の壁面から、建築基準法(昭和二十五年法律第二百一号)第四二条第一項第四号の規定に基づき指定された「都市計画道路三・三・十号袖師大手前線」の境界線までの距離を、五メートル以上確保し、その空地を高木により緑化すること」

 以上のような勧告に対して「当該勧告を受けた者がこれに従わないので、規定による公表する」との内容が県報に載った(一月三一日)。景観条例に基づく勧告が公表されたのは、全国で初めてのことである。

 幾人かの文学者が愛であげた美しい景観を誇る湖の畔(ほとり)にそのマンションは現在建設中である。九階建てのそのマンションは、当初一〇階建てで計画され、何故かこの間の経緯の中で一階切り下げられたのであるが、一見そう変わったデザインをしているわけではない。都会では一般に見かけるマンションであり、湖のある地方都市でもとりたてて珍しいわけではない。ただ、そのマンションが建つ場所が一九九一年に制定された景観条例に基づく景観形成地区に指定されているのが大きな問題であった。

 県の景観審議会は、景観自然課に届出の事前の相談があった時点から議論を重ねてきた。正式の届出がなされて以降は、建主や設計者からのヒヤリングも行った。景観審議会は原則として公開である。現在、全国二〇〇にのぼる景観審議会のなかでも先進的といえるだろう。新聞やTVの取材にもオープンである。従って、この間の経緯は全て公表されているのであるが、「勧告公表やむなし」というのが、審議会委員である筆者も含めた全員一致の結論であった。

 周知のように、景観条例は建築基準法や都市計画法に比べると法的拘束力がほとんどない。「お願い条例」と言われる由縁である。建築基準法上の要件を充たしていれば、確認申請を許可するのは当然である。裁判になれば、行政側が敗訴すると言われる。

 しかし、それにも関わらず勧告という事態になったのは、そのマンションがまさに条例の想定する要の地にあり、この一件をうやむやにすれば条例そのものの存在が意味がなくなると判断されたからである。「景観条例は一体何のためにあるのか」というのが委員共通の思いであった。

 県外の建主にとって理不尽な条例に思えたことは想像に難くない。近くには景観形成地区から外れるというだけで七五メートルの高層ビルが同じく建設中なのである。その高層ビルも景観審議会にかかったのであるが、その場合は条例の規定には抵触するところはなかった。今回は明らかに条例違反であり審議会としても認められなかったのである。

 景観形成上極めて重要な場所であり、公的な利用が相応しい敷地である。だから、公共期間が買収するのが最もいい解決であり、審議会委員の大勢もそうした意見であった。県にはそのための基金もあるのである。しかし、買収価格をめぐって折り合いがつかなかった。

 問題は、階数を削ればいいだろうと、建主が着工を強行したことである。その行為は「お願い条例」である景観条例の精神を踏みにじるものであった。地域のコンセンサスを得る姿勢が欲しかった。

 景観条例に基づく勧告公表は不幸なことである。その結果、景観条例の精神が貶められたのを憂える。しかし、一方、法的根拠をもつより強制力のある景観条例を求める声が高まるのを恐れる。それぞれ地域で、よりよい景観を創り出す努力が行われること、その仕組みを創りあげることが重要であって、条例や法律が問題ではないのである。

2023年6月28日水曜日

国際協力何のため,日刊建設工業新聞,19970522

 国際協力何のため,日刊建設工業新聞,19970522

国際協力何のため

 京都大学の東南アジア研究センターの派遣研究員としてインドネシアを訪問してきた。今回はテーマ発見ということで滅多にない優雅な旅であるが、結局はいくつかの仕事をこなすことになった。当然といえば当然である。

 ひとつは、LIPI(インドネシア科学院)の東南アジア研究チーム(社会科学院 主宰:タウフリク・アブドゥラ)と東南アジア都市研究について議論してきた。昨年「都市コミュニティの社会経済的問題:東南アジアの衛星都市(ニュータウン)の計画と開発」という国際シンポジウム(一九九六年六月)に招かれた経緯があり、その後の研究計画の進展が興味深かったのである。幸い国際交流基金(ジャパン・ファンデーション)の助成金が得られて、さらに二年継続されることになっていた。そう大きなお金ではないが、実に効果的である。LIPIが中心になって東南アジア都市研究を展開する、そうした時代になったのである。

 LIPIの都市研究チームは、都心のクマヨラン・ニュータウンと郊外のBSDニュータウンをとりあげて比較研究しようとしている。クマヨランには、廊下、台所、トイレを共用する形のルーマー・ススン(集合住宅)がある。その調査を手伝うことになった。クマヨランのカンポン(都市内集落)に以前から居住していたひとたちのルーマー・ススンで、各種のコミュニティ活動が活発に展開されている。

 何故、日本の国際協力チームは、カンポンのひとたちを追い出そうとしたのか。僕らに突きつけられた問いである。一九八〇年代半ばに、ジャカルタのど真ん中といっていいクボン・カチャンのカンポン再開発で、日本チームが計画したルーマー・ススンがある。その計画も結果として、カンポンの従前居住者を追い出すことになった。日本の国際協力チームは概して評判が悪い。

 ふたつめは、ジョクジャカルタのガジャマダ大学で、マリオボロ地区という王宮前の都心地区の保存的開発をめぐる授業に特別講師として参加した。また、再開発のための研究方法をめぐって講義も行った。大学院生といっても、インドネシ各地の大学の講師陣であり、半期のプログラムで具体的な地区を設定し、フィールド・サーヴェイを行い、様々な分析をもとに提案をしようとする姿勢には共感を覚えた。一方、そうしたプログラムに対して、日本の国際協力チームは無縁である。フィールドに出ることはなく、冷房の効いた部屋でコンピューターを自由自在に操っている。何事かの仕事をしていることはわかるけれど、一体何の仕事なのか。

 巨大な行政機構の中にいて個人のできることは限られている。しかし、大きなお金を使いながら首を傾げる例も少なくない。個人でもわずかなお金でもやれることはある。

 みっつめは、スラバヤで環境共生住宅の実験住宅を建設する打ち合わせを行った。(財)国際建設技術協会のプロジェクトである。かねてから、湿潤熱帯におけるモデル住宅開発の必要性を感じてきたが、実効に移すことになった。建設費はわずかであるが大きな意義を持っている。

 要するに言いたいのは、国際協力や援助は金額ではないということである。やりようによってはいろいろできる。国際協力基金(アジア財団)のように日本文化の理解のために懸命な仕事がなされている反面、一体何をしているのかという援助の形態も少なくない。さらに、日本の価値体系をそのまま押しつける態度がほとんどである。現場から発想しない。言われたことを無難にこなすだけのそんな派遣は要らないと思う。




2023年6月27日火曜日

ジャイシン二世の曼陀羅都市,ネパールーインド紀行③まちの形とすまいの形,日刊建設工業新聞,19961220(布野修司建築論集Ⅰ収録)

 ジャイシン二世の曼陀羅都市,ネパールーインド紀行③まちの形とすまいの形,日刊建設工業新聞,19961220(布野修司建築論集Ⅰ収録)

③ジャイプール  ジャイシン二世の曼陀羅都市

 アーメダバードからジャイプールへ。一六人乗りのプロペラ機に六人。途中ウダイプルの町がくっきり見えた。ジャイプールで先発隊と合流。カトマンズ、アーメダバードと三箇所同時に調査隊が活動していることになる。この後パキスタンのラフォールが加わる。

 ジャイプール入りすると、早速、調査地区であるプラニバスティーというチョウクリ(街区)に直行、歩き回る。

 ジャイプールでは、ラジバンシー教授にお世話になった。マラビヤ大学にいた二年前にもいろいろと教えを乞うたのであるが、彼はジャイプール開発局(JDA)に職を転じていた。最大の収穫はインド調査局が一九二五年~二七年にかけて作成した詳細な地図を手に入れることができたことである。

 ベースマップを手に路地から路地を歩き回って、七〇年前の地図が驚くほど正確なのにびっくりする。モスクのあったところにモスクがヒンドゥー寺院の場所にはヒンドゥー寺院が、井戸や小さな祠の位置まで正確に書かれている。インド調査局もすごい調査をするものである。

 ジャイプールは、一八世紀初頭にジャイシン二世のつくった計画都市である。極めて整然としたグリッド(格子状)パターンの都市で、ヒンドゥーのコスモロジーに基づいてつくられたとされる。グリッドの格子が正南北に対して一六度ほど傾いており、また、完全なナイン・スクエア(3×3の9ブロック)からなるのではなく、北西の一つのブロックが欠け、南東に一ブロックはみ出ているなど実にユニークな都市だ。

 真中に王宮とジャンタル・マンタル(ジャイシン二世はデリーを含め五都市に天文台をつくった)が置かれ、北方にはブラーフマプリと呼ばれるブラーフマンの居住区が今もある。インド古来の建築書マナサラにあるプラスタラに従ったと言われる。マナサラは紀元後四、五世紀の成立とされるが、ヴィトルビウスの建築書の影響があるという説もある。洋の東西の交流をうかがう貴重な古文書である。マヤマタなど数多くの類書がある。

 この数年インドネシアのロンボク島にあるチャクラヌガラという都市を調べてきた。バリ島の東部カランガセム王国の植民都市として一八世紀前半に建設されたインドネシアでは珍しい極めて整然としたグリッド・パターンの都市である。ヒンドゥー理念に基づいてつくられた都市はと見渡すと西にジャイプールがあった。実をいうとジャイプールとチャクラヌガラを比較したいというのがインド行の主目的なのである。

 ジャイプールの整然とした区画割りも、よく見るとチョウクリによって区画の仕方が異なる。カーストによって区画の面積を変えているのである。均等な区画のチャクラヌガラとは少し原理を異にしている。

 都市住居はハヴェリと呼ばれる。中庭式住居で三、四階建てまである。合同家族(ジョイント・ファミリー)ということで、ひとつのハヴェリに数十人から百数十人が住むことも珍しくない。見事な集住システムである。近年は合同家族の制度は崩れ、貸家も増え、さまざまな居住者が混住し始めている。

 ジャイプールの町が面白いのは幹線道路沿い間口二間ほどの店舗をづらっと並べていることである。また、二階三階にオフィス、住宅などを有機的に配す立体的に多機能複合の都市となっていることである。


 

2023年6月26日月曜日

イスラーム都市の袋小路,ネパールーインド紀行②アーメダバード,日刊建設工業新聞,19961129(布野修司建築論集Ⅰ収録)

イスラーム都市の袋小路,ネパールーインド紀行②アーメダバード,日刊建設工業新聞,19961129(布野修司建築論集Ⅰ収録)

 ②アーメダバード        イスラーム都市の袋小路

 カトマンズからデリーへ。二年前と同じコンノートの北のホテルにチェックイン。早速、ジャンタル・マンタル(天文台)の周辺を歩く。スクオッターが公園を占拠していて、貧富の差はむしろ拡大している印象をもった。昼は華やかなコンノート・サークルの裏側にも貧困者の居住区がある。インドは数百万のホームレスを抱え、世紀末には四一〇〇万戸の住居が不足するとされる*1。

 デリーからアーメダバードへ。何故、アーメダバードか。テーマとしてはイスラーム的な迷路状の都市と都市住居を調べたいということがあったのだが、実は徳島の建築家新居照和さんとの出会いが大きい。徳島の建築家新居さんはここで学び、ドーシのもとで仕事をしたことがあり、インドに行くなら是非アーメダバードに行くべしというのに心を動かされたのである。ドーシはコルビュジェの弟子でインドを代表する近代建築家である。アーメダバードにはコルビュジェの四つの作品があり、ルイ・カーンのIIT(インド経営学院)がある。チャンディガールとともにインド近代建築のメッカなのである。

 ジャーマ・マスジッドを中心に旧市街を歩き回った後、建築学校(スクール・オブ・アーキテクチャー)へ行く。予め手紙を書いておいたインドで有名な画家ピラジ・サガラさんが待っており、主任のヴァーキー教授を紹介してくれた。というか、既に全てがセットされており、僕らの関心に適う論文を数多く用意してくれていた。

 建築学校は、ドーシによってつくられた学校で実に密度の高い建築教育を実践している。名城大学出身の石田さんが新居さんの後輩として学んでいた。日本の多くの大学の建築教育は足下にも及ばないのではないか。

 アーメダバードは、一五世紀の初頭にアームド・シャーによってつくられたイスラーム都市である。一七世紀にはインドで最も美しい都市のひとつと評された。その旧市街を歩くと、都市住居の密集形態に圧倒される。カトマンズと違う魅力がある。カトマンズ盆地の町のヒンドゥー原理とイスラーム原理との違いと果たして言えるであろうか。興味深いのは、イスラームがつくった街区にヒンドゥー教徒やジャイナ教徒が住んでいることである。

 しかし、ここにも一貫する空間の秩序があることがすぐわかった。同じようにチョウク(中庭)が重要な役割を果たしているのである。オティアーカドゥキーチョウクーパーサルーオルドというようにコミュニティー(ポル)はヒエラルキカルに構成されるのである。都市に集まって住むためには、しかるべき秩序と空間の形式が必要なのである。

 調査の合間にコルビュジェの綿業会館、美術館、ショーダン邸を見た。ショダーン邸だけは見たかったという傑作であるが、素晴らしい状態でメンテナンスされていた。やはりコルビュジェはただ者ではない。

 建築学校で紹介された資料を見ていると、北一二〇キロの所にアーメダバードとそっくりな形をしたパタンという町がある。いずれじっくり比較してみたいと思う。そのパタンへ行く途中にアダラジの階段井戸とモデラの太陽神殿を見る。必見である。グジャラート一帯には多くの迫力ある階段井戸が残されている。

*1 Shelters and Cities,"Survey of the Environment '96", Sri. S. Rangarajan, Maduras, 1996



2023年6月25日日曜日

ネワール人の高密度居住,ネパールーインド紀行①まちの形とすまいの形,日刊建設工業新聞,19961108(布野修司建築論集Ⅰ収録)


 ネワール人の高密度居住,ネパールーインド紀行まちの形とすまいの形,日刊建設工業新聞,19961108(布野修司建築論集収録)

 ①カトマンズーパタン      ネワール人の高密度居住

 天沼俊一の『印度仏塔巡礼記』(一九三六年)とモハン・M・パントさんの『バハ・マンダラ』(上海同済大学修士論文 一九九〇年)を携えてカトマンズの地を初めて踏んだ。アジアにおける都市型住宅の比較研究のための調査が目的でネパールの後インドへ向かう。ネパールではハディガオンという町の調査とトリブバン大学での特別講義が任務であった。

 パントさんの論文は英文でサブタイトルに「カトマンズ盆地パタンの伝統的居住パターンの研究」とつけられている。バハとは仏教の僧院ヴィハーラからきたネパール語で、中庭を囲んだ形式の住居のことである。カトマンズ、バクタプル、パタンといったカトマンズ盆地の都市の魅力を、バハの形式が都市の構成原理となっていることを実証するパントさんの論文に導かれてじっくり堪能することができた。

 カトマンズ盆地は京都盆地のおよそ四倍あるという。ヒマラヤをはるかに望む雄大な盆地の景観はそこにひとつの完結した宇宙があるかのようである。古来ネワール人が高密度の集住文化を発達させてきた。カトマンズ盆地には、パタン、バクタプル、キルティプルといった珠玉のような都市、集落を見ることができるのである。カトマンズの王宮、パタンのダルバル・スクエア(王宮前広場)、バクタプルの王宮、そしてスワヤンブナート(ストゥーパ)などが世界文化遺産に登録されたことが、その建築文化の高度な水準を示している。

 カトマンズに着いて、いきなり、インドラ・チョークを抜けて王宮へ向かった。バザールの活気と旧王宮の建築のレヴェルの高さに圧倒される。パタンのダルバル・スクエアにしても、バクタプルの町にしても同様である。世界遺産といっても遺跡として凍結されているのではなく町は実にいきいきと生きているのがすごい。

 そのひとつの理由はすぐさま理解された。広場や通りに人々が集う空間的仕掛けがきちんと用意されているのである。具体的にはパティと呼ばれる東屋、ヒティ(水場)、そして聖祠(チャイティア)が要所要所に配されているのである。様々な用途に今でも使われている。

 そしてもうひとつは、都市型住宅の型がきちんと成立していることである。バヒはもともと独身の僧の施設で、バハは妻帯を行うようになってからの施設をいう。バヒの空間は中庭に開かれているけれど、バハは個々の部屋が壁で閉じられ閉鎖的となる。この住居の形式が都市の建築形式として、中庭を囲む形式へと段階的に展開していく。それをパタンに即して論じたのがパントさんの論文である。

 天沼俊一の『印度仏塔巡礼記』を見ると多くの写真が載っていて丁度六〇年前の様子がよく分かる。一九三四年に地震があった直後の訪問で多くの寺院が破壊された様子が生々しいけれど、チャン・ナラヤン寺院、パシュパティナート、チャバヒ・バハ、ボードナートなど、今日の姿とそう変わらない。

 もちろん、カトマンズは急速に変容しつつあり、スクオッター(不法占拠者)問題も抱えている。しかし、今日までまちの景観を維持してきた住居の形式、空間の仕掛けの力に、日本のまちづくりを考える大きなヒントをカトマンズ盆地の町に見たように思う。アジアにも都市型住宅の伝統は息づいてきたのだ。

2023年6月24日土曜日

住宅の生と死ー住宅生産の循環システム, 日本ハウスビルダー協会,19961005

 住宅の生と死ー住宅生産の循環システム, 日本ハウスビルダー協会,19961005


住宅の生と死・・・住宅生産の循環システム


布野修司


 フロー型からストック型へ、住宅生産の仕組みは変わっていかざるを得ない、と言われる。建設投資の割合が減少していくのだとすればそれは必然である。バブル崩壊以後、また地球環境問題の顕在化以後、僕らは、なんとなくフロー型からストック型への構造転換を必然的だと考え始めている。しかし、ストック型生産システムというのは果たしてどういうことか。

 確かに建設投資がGNPの二割を占めるような国は先進諸国にはない。住宅を三〇年でスクラップ・アンド・ビルドしている国はない。イギリスの人口は日本の約半分で比較しやすいのであるが、年平均の住宅供給数は、一九八五年から九〇年の五年で一九万一〇〇〇である。一九六一年から六五年の平均で二八万四一〇〇〇であった。日本は一九六〇年で新設着工戸数は約六〇万戸であったから、人口規模を比較するとほぼ同じ建設数だったとみていい。その後、イギリスの着工戸数は減少して年間二〇万戸程度になった。ということは、日本に置き換えると年間四〇万戸体制である。果たして、三〇年後、日本はイギリスの道を辿っているのであろうか。

 しかし単純に考えてみて、住宅が一〇〇年の耐用年限を持つようになると、住宅生産に関わる人員は三分の一でいい。あるいは、住宅の価格を三倍にする必要がある。そう簡単に構造が変わるのか。その全体構造の帰趨を議論しなければ、日本の住宅生産がストック型に転換しうるかどうかは不明といわねばならないのではないか。

 「中高層ハウジング研究会」でも、ストック型住宅供給システムを前提として、今後の住宅供給システムがどうなるのか、どうあるべきか、議論を続けている。共通にテーマになっているのが、スケルトンーインフィルークラディングの三系統供給システム、あるいはオープン・ハウジング・システムである。スケルトンの寿命が長くなるとすれば、維持管理に関わる産業あるいはインフィル産業へ住宅産業界がシフトしていくのは必然である。インフィル産業界が新たに育ってこなければならない。しかし、一体、スケルトンは何年持てばいいのか、インフィルは何年でリサイクルするのか。そもそも、模様替えして住み続ける住み方が日本に定着するのか。

 問題は単純に耐用年限ではないのではないか。全ての建築材料が建設廃棄物になるのだとすれば、耐用年限を長くすればするほど資源は有効利用できる。しかし、再生可能な材料であるとすれば、リサイクルに適切な年限で循環していけばいいから、耐用年限はしかるべきものでいい。住宅生産システムの評価は単純に耐用年数では決められない。LCC(ライフ・サイクル・コスト)という考えも四半世紀前に導入されたけれど、日本には必ずしも定着しない。前提にすべき条件が明らかでないからである。

 そこで考えられるのは、循環性、多様性、自律性の指標である。住宅生産システムとして、個々のニーズの多様性に対応でき、循環可能な地域内で自律するしうる住居の維持管理、更新システムが問題であって、必ずしも耐用年限ではないのである。

 住宅の生産が本来ローカルなものであるとすれば、あるいは、どんな住宅であれ更新されていくものだとすれば、地域における、あるいは、それぞれの系(企業)における、循環性こそ問題にすべきではないか。地域内で自律的なシステム、地域外へ向かう生産システム、地域と地域を結ぶ生産システムの再編成を考える中で、いかに循環型生産システムを構築するかどうかが、フローからストックへという場合の真のテーマではないのだろうか。



2023年6月23日金曜日

東京論批判の東京論、書評、鈴木博之『東京の地霊』、文化会議、199009

東京論批判の東京論、書評、鈴木博之『東京の地霊』、文化会議、199009

東京論批判の東京論

東京論ブームの去った後で   残されたもの

鈴木博之『東京の地霊』をめぐって                                          布野修司 

 

 『乱歩と東京』の松山巌、『東京の空間人類学』の陣内秀信、『建築探偵の冒険 東京編』の藤森照信を、僕(の周辺で)は秘かに「東京論の三人」と呼んでいた。この間の東京論ブームのなかで読まれた本は多いし、論者も多い。しかし、建築の分野でいうと、東京論は三人が代表である。それに東京論ブームに火をつけたのは建築の分野ではなかったかという気もある。少し先行して川添登の『東京の原風景』があるけれど、八〇年代半ばに相次いで出され、世代も近いことから、なんとなく東京論というと三人がすぐ思い浮かぶのである。しかし、そこにもう一人、もう一冊加わった。『東京の地霊』の鈴木博之である。

 東京論ブームは既に去ったと僕は思う。僕のみるところ、東京論はおよそ三つに分類された(  )。すなわち、レトロスペクティブな東京論、ポストモダンの東京論、そして、東京改造論の三つである。路上観察の東京論、俯瞰する東京論、というような視線の置き方によって分けたり、レヴェルや次元を様々に区別する必要もあろうが、およそ以上の三つで全体の傾向は把握できる。そして、実は、三つは同じ根をもち、東京改造論という大きな流れに収れんしていった。東京論ブームが去ったというのは、そうした脈絡においてである。

 レトロスペクティブな都市論においては、ひたすら、過去の東京が堀り起こされる。東京の過去とは、江戸であり、一九二〇年代である。また、微細な地形であり、水辺であり、緑であり、自然である。そうしたものを失ってしまった東京がノスタルジックに回顧されるのである。一方、ポストモダンの都市論は、ひたすら、現在の東京を愛であげる。いま、東京が面白い、世界で最もエキサイティングな都市、東京というわけだ。路上観察に、タウンウオッチングに、パーフォーマンスである。

 この二つの都市論が同根であることを見るにはポストモダンの建築デザインがわかりやすい。都市の表層を覆うのは過去の建築様式の断片である。安易で皮相な歴史主義のデザインだ。近代都市の単調なファサード(モダン・デザイン)を批判すると称して、すなわち、ポストモダンを標榜して、様式や装飾が実に安易に対置されるのである。レトロな東京論が回顧する過去や自然はいとも容易に掘り起こされて、現在の都市は、そのまがいもので飾りたてられ始めたのである。

 この二つの東京論が結果として覆い隠し、覆い隠すことにおいて支持し、促すのが東京改造の様々な蠢きである。都市の過去や自然、水辺の再発見は、巧妙にウオーターフロント開発や再開発へと直結される。二つの東京論は、結果として、東京改造論の露払いの役割を結果として果たすことになったのである。

 さて、そうした中で、鈴木博之の『東京の地霊』は、どのような位相を提示するのか。レトロな東京論でもなければ、ポストモダンの東京論でもない、まして、東京改造論でもない。東京論ブームが去ったのを見極めた上で書かれただけのことはある。ある意味では、東京論批判の東京論の試みと言えるかもしれない。

 「土地の「運」「不運」を支配するのは何か? 単に地勢だけでは分からない 土地の個性を左右するものーーそれが「ゲニウス・ロキ=地霊」だ。都内  カ所の個性的な土地に潜むゲニウス・ロキを考察した、興趣溢れる新しい「東京物語」」。内容は的確に「帯」にうたわれている。東京の微細な地形、微細な自然を読んでみせたのは陣内秀信なのだけれど、距離が置かれている。もう少し、方法レヴェルで、鈴木の意図を「まえがき」から抜きだせば、以下のようである。

 「どのような土地であれ、土地には固有の可能性が秘められている。その可能性の軌跡が現在の土地の姿をつくり出し、都市をつくり出してゆく。(略)都市の歴史は土地の歴史である。

 本書はその意味で東京という都市の歴史を描いたものである。ところが一般には、都市史研究といわれるものの大半が、じつは都市そのものの歴史ではなく、都市に関する制度の歴史であったり、都市計画やそのヴィジョンの歴史であったりすることに、かねがね私は飽きたらなさを感じていた。都市とは、為政者や権力者たちの構想によって作られたり、有能な専門家たちによる都市計画によって作られたりするだけではない存在なのだ。現実に都市に暮らし、都市の一部分を所有する人たちが、さまざまな可能性を求めて行動する行為の集積として、われわれの都市はつくられてゆくのである」

 要するに、ゲニウス・ロキが土地の歴史を支配している、都市の歴史は、ゲニウス・ロキを読むことによって書かれるべきだ、というのである。港区六本木一丁目の林野町宿舎跡地、千代田区紀尾井町の司法研修所跡地、護国寺、上野、御殿山、三田、新宿御苑、椿山荘、日本橋室町、目黒、東大キャンパス、世田谷区深沢、広尾、読まれているのは、以上の一三ケ所だ。

  東京の鬼門を鎮護するために上野に寛永寺が建てられたというようなよく知られた話もあるが、へぇーという因縁話が多い。東京生まれには、よく知られたエピソードかなとも思うのであるが、出雲生まれの僕には、東京の歴史について学ぶことが多い。護国寺と松平不昧公との関係など、実に興味深かった。まさに、へぇーである。なるほど、土地には土地に固有な物語があるものである。

 しかし、不満もなくはない。幸せな土地、薄幸な土地、売れる土地、売れない土地というのがある。何故だろうと思うと、その奥にひそむのが地霊なのだ、という。はぐらかされたような気がするのだ。ただ、運、不運があるというだけでは、そうか、といって終りである。一方で、地霊は意図的に作り出すこともできるというのだから、その地霊を作り出す秘密に迫ってみたくなるではないか。絶対、売れない土地、必ず不幸になる土地があるとすれば、その理由、その力とはなにかを知りたくなりはしないか。この間一貫して土地の帰趨を支配しているのは、経済原理であり、土地価格上昇のメカニズムである。地霊は消えつつあるのではないか、土地の価格の力が地霊の力を陸駕しつつあるのではないか、そんな状況のなかで、地霊はどうなるのか、いま地霊はどうつくり出されるのか、否応なく考えさせられるのである。『東京の地霊』がつきつけるのはそういうことだ、と僕は思う。

 都市は確かに様々な人々の様々な行為の集積としてつくられる。そして、人々の無限の行為は土地に刻みつけられる。そうした意味で、都市の歴史は土地の歴史である。建物の移り変わりは激しい、建物の歴史だけでは都市の歴史は書けないというフレーズが繰り返されるのであるが、そこには藤森照信の仕事への距離感が表明されているようにも思う。ただ、もうひとつだけ不満を言うとすれば、都市の歴史は必ずしも土地を所有するもののみの歴史ではないのではないか、という点だ。例えば、日本橋室町は、弾左衛門の囲い地のあったところである。その囲い地は、江戸の拡張に従って鳥越へ、そして、新町(今戸)へ移っていく。こうした、追われていくものについて、その物語を綴る視点もいるのではないか。松山巌の仕事には追われていくものへの共感があるように思う。東京大改造の狂騒の裏側で追い立てられつつある人々がある。それ故、余計そう思うのかもしれない。東京論に欠けてきたもののひとつは、東京を愛しきれずに、それでも住み続けざるを得ない人々の眼である。

 

*1 拙稿 「ポストモダン都市・東京」 『早稲田文学』 一九八九年九月号 

 






 

2023年6月22日木曜日

黒テント 1968/71 

 












ポストモダン都市・東京,早稲田文学,198907(布野修司建築論集Ⅱ収録)

ポストモダン都市・東京,早稲田文学,198907(布野修司建築論集収録)


布野修司建築論集Ⅱ  『都市と劇場』

★ポストモダン都市・東京[i]

 

 都市論の揺らぎ

 都市とは何か、異なる地域の都市の比較は可能か、時間的な広がりの中で都市比較はいかに成り立つか、「「都市性」の再構築をめざして」、といった大きなテーマを掲げた研究集会に参加する機会があった。直接的には、イスラームの都市性、イスラームの諸都市を対象とする研究会[ii]2なのであるが、取り上げられた都市は、ローマ(一~二世紀)、ダマスクス[iii]3(マムルーク朝)、イスファハーン[iv]4(一五~一六世紀)、イスタンブル[v]5(オスマン朝)、デリー[vi]6(ムガール朝)、南京[vii]7(明、清)、カルカッタ[viii]8(一九世紀)、パリ(一六世紀)、ウジュンパンダン[ix]9(現代)、メッカ[x]10(七世紀)、ニーシャープール[xi]11(一〇~一一世紀)等々、日本も含めて古今東西、時空を超えて相当の数にのぼる。また、集まった研究者たちは、歴史学、人類学、宗教学、地理学、建築学、経済学など多分野にわたる。実に興味深い研究会であった。要するに、議論百出で、まるで収捨がつかないのである。

 都市とは何か、というのがそもそもはっきりしてこない。都市化についても以外に共通の理解がない。ローマにおけるキビタス(「都市」、「国」)とは何か、ウルプス(「都会」)とは何か、ジャワにおけるコタとは何か[xii]12、各地域における都市の概念を突き合わせるのだって大変である。それに分野によって随分と言葉つきも違う。建築や都市計画の分野においては、都市のフィジカルな形態や景観のあり方から発想し、論を組み立てるのであるが、社会科学の分野においては、都市の権力構造や社会組織が問題とされる。インタージャンルな場での議論は常にそうなのであるが、まず浮かびあがるのは、ディシプリンの差異であり、パラダイムの差異である。その差異を徹底的に明らかにすることそれ自体は意味があろう。しかし、それ以前に、都市というものをとらえる大きな枠組みが見失われ、都市とは何か、といった基本的な問いが拡散しつつあることが都市論の現在なのではないか。

 確認されるのは、例えば、「都市の空気は自由にする」といった伝統的な中世都市像が修正される必要があることである。また、都市と農村という対立的な把握が必ずしも妥当しないことである。要するに、一九世紀にヨーロッパにおいて確立した都市概念や都市像の普遍妥当性についての疑問である。強調されるのは、都市の地域的他犠牲であり、多様な発展の過程である。むしろ、既成の都市概念を相対化し、柔軟化させること、都市をとらえるフレームを解体させることに大きな精力が注がれているのが都市論の現在の位相なのである。

 

 東京論の位相

 実に不満なのは、世界史的な視野をもとにした大きな仮説や理論の提示、少なくとも、その必要性についての認識が欠如していることである。しかし、いまここで、都市をめぐって一般的に以上のような問題を論ずるのはもちろん手に余る。ひとつの具体的な都市についてたどたどしく考えてみようと思う。東京についてである。一九八〇年代半ばから九〇年代にかけての東京論の隆盛はすさまじいものがあった。そこで何が語られ、何が覆い隠されてきたのかがひとつのテーマである。

 東京論[xiii]13と称されるものは、その時間的パースペクティブに関して大きく三つに分けることができる。すなわち、レトロスペクティブな東京論、ポストモダンの東京論、そして、東京改造論の三つである。路上観察の東京論、俯瞰する東京論、というように視線の置き方によって分けたり、イメージとしての東京論、景観としての東京論、形態としての都市論、というように対象やレヴェル、次元によって分けたりできようが、およそ以上の三つで全体の傾向を把握できる。

 レトロスペクティブな東京論においては、ひたすら、東京の過去が掘り起こされる。東京の過去とは江戸であり、一九二〇年代の東京である。また、地形であり、水辺であり、緑であり、自然である。そして、そうしたものを失ってしまった東京がノスタルジックに回顧されるのである。また、現在の東京に、失われたものや価値が対置される。一方、ポストモダンの東京論は、ひたすら、現在の東京を愛であげる。いま、東京が面白い、世界でも最もエキサイティングな都市「東京」というわけだ。路上観察、タウンウォッチングに、パフォーマンスである。しかし、この二種類の東京論は、実は根が同じとみていい。ポストモダンの建築デザインを考えてみればわかりやすいだろう。都市の表層を覆うのは過去の建築様式の断片である。すなわち、すでに都市の表層を支配するのは、皮相な歴史主義のデザインである。近代建築に対して、それを批判すると称して(ポストモダンを標榜して)装飾や様式が実に安易に対置されたのであった。過去や自然はいとも容易に掘り起こされて、現在の都市は、そのまがいもので飾りたてられ始めたのである。

 そして、この二種の東京論が結果として覆い隠し、覆い隠すことにおいて支持し、促すのが東京改造のさまざまな蠢きである。レトロスペクティブな東京論は東京が変わっていくことへのある意味では悲鳴であった。東京の変貌、その再開発や改造の動きと過去の東京へのノスタルジーが東京論という形でブームとなったことは、言うまでもなくストレートにつながっている。過去への郷愁は、それだけでは無力かもしれない。しかし、それは、すなわち、都市の過去や自然、水辺の再発見は巧妙にウォーターフロント開発や、都市の再開発へと接続されるのである。こうして仮に三つに分けてみた東京論はひとつの方向を指し示す。東京という空間はいままさに再編成されつつある。東京のフィジカルな構造はいまドラスティックに変わりつつある。そのいくつかの位相を見てみよう。

 

 過飽和都市・・・フロンティアの消滅

 一七世紀の初頭には小さな寒村にすぎなかった江戸が一九世紀半ば過ぎに東京と名を変えて一世紀あまりになる。明治に入って、産業革命を経、後進資本主義国として発展していく日本の首都として、東京の変貌にはすさまじいものがあった。江戸の人口はその末期には一〇〇万人にものぼり、既に世界最大級の都市であったのであるが、その膨張の速度と規模は比較にならない。行政区域としての東京の人口は一,二〇〇人を越え、東京大都市圏には三,〇〇〇万を越える人々が居住する。少なくともその規模においては世界有数の大都市となった。

 東京は、その歴史的形成の過程において幾度かの転機をもつ。例えば、江戸から東京への転換における空間の再編成、関東大震災後の近代都市への編成、第二次世界大戦時における一瞬の白紙還元と戦後復興、東京オリンピックを契機とする高度成長期の大変貌などがそうである。そしていま、東京という都市はまた大きな転換期を迎えつつある。その転換期はこれまでとはいささか違うのではないか。ある究極の姿を東京は見せ始めたのである。

 それを具体的に示すのが「東京問題」と総称される諸問題なのであるが、指摘すべきは、東京は都市として明らかに過飽和状態に達しつつあるということである。東京一極集中がますます加速されるなかで、都市のフロンティアが消滅しつつあるということである。

 郊外への平面的な膨張が最早限界に達しつつあることを示すのが、この間の地上げ騒動であり、地価狂乱であり、東京再開発、東京改造のさまざまな動きである。民間活力の導入、内需拡大、経済摩擦の解消、国際化に伴うオフィス需要、などとさまざまな口実が掲げられるのであるが、要するに、金があり余っており、投資の対象が求められているのだけれど、投資すべき不動産は日本に限りがある。海外の不動産をあからさまに買い占めるわけにはいかないとすれば投資効果の高い空間を創り出す必要がある。そこで大きなテーマとなるのが東京再開発であり、東京大改造なのである。

 まずターゲットとなったのは、都心にある未利用の公有地であり、下町地域の住宅地である。いずれも利便性は高く、再開発による高度利用が可能である。民活による公有地の払い下げ、地上げ屋による下町地域の買占めは、あっという間に地価を押し上げ、都心のみならず郊外へと波及していったのである。

 東京再開発、東京改造の動きにおいて、はっきりしてきたのは、丸の内から新宿副都心への都心の移動である。その象徴が新都庁舎である。東京の重心は西へ移り、新宿に超高層ビルの林立する新都心が形成されつつあるのである。それに対して、丸の内の再開発をうたうマンハッタン計画が打ち上げられたりするのであるが、要するにフロンティアとして最初に問題とされるのは空中である。マンハッタンを見よ、東京の上空には、まだ広大な未開発地があるというわけだ。

 続いて、開発のターゲットとなったのが、ウォーター・フロントである。郊外へスプロールしていくことがほぼ限界になったとすれば、平面的に延びていく可能性は海にしかない。水辺空間の再発見とか、親水空間の意義とかが強調されるのであるが、その実は、水運や造船業の衰退で陳腐化していて、それ故、地面が値上がりしなくて安かった土地に目がつけられたということである。また、埋め立てればいくらでも土地を生み出すことができるとばかりに、埋め立て地がターゲットになるのである。

 さらに地下の空間にも目がつけられる。空中を利用するのであれば、地下も利用できるというわけだ。東京湾をほとんど埋め立てるというプロジェクトも壮大であるが、地下に五〇万人の居住都市をつくろうという構想も大変なスケールである。瀬戸大橋、青函トンネルと相次いで巨大プロジェクトが完工し、土木技術の最前線が、地下へ、海へと求められているのである。

 先進諸国の大都市に比べれば、まだ東京には空間的余地があるといえるかもしれない。しかし、物理的な余地は無限にあるわけではない。過飽和状態、フロンティアの消滅という事態はいずれ訪れる。ロンドンのドッグランズ再開発やパリのさまざまな再開発を見ればわかりやすい。東京に比べれば、はるかに都市の骨格のしっかりしている、都心を歴史的建造物によって固められた西欧の大都市では、なんらかの再開発によらなければにっちもさっちもいかない。東京はすでにその兆候を見せ始めたといっていいのである。明らかに先進諸国の問題は連動し始めているのである。

 

 世界都市・・・二十四時間都市

 東京が明らかにこれまでの発展の過程とは位相を異にした展開を始めたというのは、フロンティアの消滅という決定的事実においてなのであるが、その質においてまず言えるのは国際化という新たな局面である。この国際化という局面に少なくとも二つのポイントがある。

 ひとつは、東京が国際的な金融関係の中心都市となったということである。一般的に言われるのは、この意味での国際都市・東京の新たな相貌である。もちろん、この新たな局面は、外国の金融機関が東京に事務所を開設するからオフィス需要が足りなくなるといった次元の問題ではない。東京が世界都市として国際的な金融関係に同時的に巻き込まれるようになったということである。一刻一刻、二十四時間、瞬時に莫大な取引が行われる、国際的なネットワークの真っただ中に置かれるのである。二十四時間都市というのは、そうした国際関係に支配されながら、都市生活の全体が秒単位に組織されつつある都市をいうのである。

 東京は、日本の都市であり、諸都市を結節する首都としての機能をもってきたのであるが、その次元を越え、世界都市になったといっていいのである。例えば、ロンドンのシティの歴史的建造物のいくつかは日本の証券会社や銀行によって占められている。ニューヨークの多くのビルやホテルが日本の資本によって買い占められる。東京の地上げ騒動は、国内のにならず、グローバルに波及しているのであり、国際都市といわれる諸都市は、はっきり具体的につながっているのである。

 もうひとつのポイントは、外国人労働者の流入という、極めて具体的な国際化の新たな局面である。外国人労働者の流入という経験は、決して初めてのことではない。在日韓国人の存在とその歴史が既にわれわれにとっての厳しい経験になっているはずだ。しかし、東アジアからのみならず、より広範な地域から外国人が流入し始めたということ、すなわち、より文化的に多様な地域から労働者が流入してきたということにおいて、この国際化は新たな位相となる。より本質的には、日本の経済が世界資本主義において大きなウェイトを占めるに至り、国際的な労働力移動をよりダイナミックに惹起させ始めたことにおいて、東京という都市は世界性、国際性を具体的に獲得しつつあるといっていいのである。

 発展途上国の大都市の多くは植民都市としての出自をもち、宗主国の植民地支配のメディアとして機能してきた。その結果、先進諸国にはみられない、奇形的な、過大な都市化が起こった。そうした都市はプライメイト・シティ[xiv]14(首座都市・単一支配型都市)と呼ばれる。首都圏に総人口の四分の一が集中する東京は、むしろ発展途上国のプライメイト・シティに近いというべきかもしれないのであるが、外国人労働者の流入という現象は、東京がアジアを中心とする発展途上国の大都市をサテライト都市とするメトロポリスであることを示す。

 そうしたの諸都市のネットワークの中心としての東京は、イメージとして、大東亜共栄圏の首都としての東京に重なり合うと言えるだろう。経済支配の構造がそのネットワークをしっかり支えているのである。

 

 電脳都市・・・人工都市化

 具体的に都市の内部に目を向けてみよう。何が進行しつつあるのか。いくつかの方向性がはっきり指摘できる。例えば、インテリジェント化であり、人工都市化である。もちろん、そうした方向性は以前から一貫するものといえるのであるが、インテリジェントビルや東京ドームの出現は、ある究極的な都市のイメージを実感させる。すなわち、情報機器、コンピューター機器を搭載したインテリジェントビルの林立する都市のイメージ、あるいは、都市環境全体を完全に人工的にコントロールするドームで覆われた都市のイメージである。

 建設にかかわるテクノロジーの水準によって物理的には規定されるのであるが、ありとあらゆる空間はこうして等しく利用可能なものとなる。そして、ありとあらゆる空間は、等しく投機の対象となる。空間の均質化徹底進行と言ってもいい。ただ、あらゆる場所が均質化していくイメージは、コンピュータ技術による情報メディアのネットワークの出現と人工的な環境コントロールの技術の出現によって具体的なものとなったのである。

 人工都市化によって、都市の自然や歴史は抹殺される。意味をもつのは、いつでも自由に利用可能な空間、そのボリュームである。また、人工都市に意味をもつのは、現在という時間だけである。二十四時間の一刻一秒が等価となる。

 時間や空間が均質化し、あらゆる差異が無差異化していく、そうした都市のイメージは、もう少し、具体的に、都市生活のあり方に即してみることができる。

 すなわち都市は人々が生活していく場としての意味を希薄化させつつるのである。わかりやすいのは、いわゆるインナーシティ問題、都市の空洞化である。都心は最早人々が住めるような空間ではない。少なくとも、住宅が立地する条件はほとんど失われつつある。より投資効果の高いオフィス区間へと次々に置き換えられているのである。

 住宅そのものもまた大きくそのイメージを変えつつある。電脳住宅などという、完全にコンピューターによって管理されるモデル住宅の出現もそうであるが、より大きいのは住宅に内包されていたさまざまな機能が外化し家事労働が完全にサーヴィス産業によって代替されつつあることである。ホテルをイメージすればいい。既にいくつかそうしたマンションが出現しているのであるが、そこでは住宅はインテリジェント・オフィス同様、諸装置のビルトインされた単なる容器に還元されつつあるのである。

 

 映像都市・・・仮設部都市

 完璧に人工的にコントロールされた都市のイメージに対しても、もちろん、多くの疑念が提出される。特に、都市の物質的基盤にかかわる、エコロジカルな観点からはそうである。完全に人工的にエコロジー・バランスをとった形で、東京湾をすべて埋め立てることなどが果たして可能なのか、また、同じように大規模な地下空間を開発して、地下水などのバランスを制御できるのか。テクノロジーに対する底抜けの楽天主義がなければ、人工都市化を究極的な都市のイメージとして思い描くことはできないのである。

 そこでもうひとつの都市のイメージが生み出される。人工都市を人工の映像とみる都市のイメージである。映像メディアの発達は、これまでに考えられなかった視角をわれわれに与える。人工衛星からの視角や、電子顕微鏡による視角が、視覚をはるかに拡大すると同時に、日常的な身体の視角を相対化させた。また、フィクショナルなものとリアルなものとの境界が不鮮明となり、映像そのものの世界が優位となる。

 具体的な都市の景観もひとつの映像としてとらえられるようになる。人工都市化によって、また、都市の高層化によって、思いもかけない視角がわれわれのものとなる。超高層の最上階に川が流れ、地下に野球場ができる。あらゆる場所が、どんな場所にでも人工的になりうるのであれば、その世界は限りなく映像の世界に近づく。スキー場の隣に海水浴場があっても、どんな空間が組み合わされようとおかしくはないのである。

 具体的には、博覧会の会場のような空間をイメージすればいいかもしれない。今日の博覧会において、建造物は最早クリスタルパレスやエッフェル塔の時代のような主役ではない。主役は、映像メディアである。大型立体スクリーンとかマルチスクリーンとか、アストロラマとかいったスクリーンを装備したパビリオンにおける映像体験がメインである。建造物は仮設であり、映像的な体験のみが意味をもつ。現実の都市はますます博覧会の仮設の都市に似つつあるのである。

 人工都市といっても、それが建造物によって、すなわちフィジカルな実態によって構成されるのだとすれば、あらゆる場所を均質なものとしてつくることは不可能である。また、フィジカルな実態が耐用年限といった物質的な限界をもつとすれば、時代の流れを無化することはできない。人工都市のイメージはあくまでイメージとしてのみ成立する。

 そこで、具体的な建造物として最もふさわしのは仮設建築である。仮設建築のイメージのみが永続的な空間のイメージを表現し得るし、あらゆる場所を、どんな場所にでも転換するためには、実際には、すぐに壊せる、テンポラリーな建造物が最もふさわしいからである。また、スクラップ・アンド・ビルドによって、空間を次々と更新することが資本にとっても好都合なのである。

 こうして、仮設都市の表層をポストモダンの建築デザインが覆い始めている理由を理解することができる。人工都市の究極イメージにおいて、ありとあらゆる空間は併置される。ありとあらゆる時代から、ありとあらゆる地域からさまざまなデザイン・エレメントが集められるのは、その映像による代替なのである。

 

 都市の完成・・・都市の死

 飽和の臨界に達する時点で都市は究極的に完成する。都市か一〇〇パーセント社会の実現である。そこでは地球全体が人工都市化する段階がイメージされるかもしれない。しかし、それ以前に、現実の都市は物理的に限界づけられており、東京が既にその兆候を示し始めたように、飽和状態の都市、都市の完成のイメージは極めて具体的なのである。

 完全にフロンティアが消滅するとすれば、しかし、それは都市そのものの死を意味する。そこで問題となるのはその維持システムであり、循環システムである。都市のフィジカルな形態について、そのシステムはわかりやすい。すなわち、仮設建築によるスクラップ・アンド・ビルドの更新システムこそ究極の都市のイメージにふさわしいのである。

 空間の生産・消費の循環は仮設建築・解体のシステムにおいてよりスムーズになしうる。モニュメンタルな建造物は不都合である。空間の生産・消費のシステムを支えるのがインベンストメント・テクノロジーである。空間そのものの生産のみならず、空間をみたものやサーヴィスについても同様である。その更新、循環のシステムが完成することにおいてのみ、究極の人工都市は完成し、維持されるはずである。

 だがしかし、その究極の都市を支えるシステムが確立しうるかどうかは定かではない。その完成はひとつのフィクションといえるかもしれない。しかし、そのフィクションが既に現実の都市を支配しつつあるのである。

 こうして東京に即して、究極の人工都市、都市の完成をイメージしてみるとき、都市論の役割はおのずと見えてこよう。レトロスペクティブな東京論にも、ポストモダンの都市論にも、東京改造論にも欠けているのは、都市の究極的イメージである。すなわち、都市の死を確認する視座がそれらにはない。その一歩手前で、ただ都市の現在が肯定されているのである。

 



[i]1 拙稿、『早稲田文学』、一九八九年七月。『イメージとしての帝国主義』(青弓社 一九九〇年)所収。

[ii]2 文部省科学研究費補助金重点領域研究「比較の手法によるイスラームの都市性の総合的研究」(一九八八年~一九九一年)における研究集会。

[iii]3 シリアの中心都市。キャラバン交易の中心となるオアシス都市。前一一世紀にはアラム人の首都として知られる。一一世紀末の十字軍時代以降に現在に至るイスラーム都市の基礎が築かれた。

[iv]  イラン中央部の都市。起源は古く、バビロン捕囚(前六世紀)を逃れたユダヤ人によってつくられたという説がある。七世紀にアラブ人の支配下に入り、一〇世紀には現在の市街地の原型が出来上がった。一一世紀にセルジューク朝の中心都市として繁栄し、以後諸勢力の争奪の対象となった。一六世紀にサファヴィー朝の首都となり、オスマン帝国の首都首都イスタンブルと並ぶ西アジア・イスラーム世界の中心として栄華を極めた。一七世紀後半に人口五〇万人を数えたという。一九世紀になると首都機能をテヘランに、貿易中心としての機能をタブリーズに奪われることになる。

[v]  トルコ共和国第一の都市。ボスフォラス海峡を挟んでアジアとヨーロッパの境界に位置する世界有数の歴史都市。三三〇年にローマ皇帝コンスタンティヌスが首都を置く。以後一〇〇〇年にわたってローマ、ビザンチンの都として地中海世界の中心であり続ける。一四五三年、コンスタンティノープルは陥落し、以後、オスマン帝国の首都となる。ギリシャ語で「町へ」を意味するイスティンポリを語源にすると言われる。トルコ語風に解釈され、イスラムボル(イスラームで充ちたという意)の形で用いられる。

[vi]6 ムガール帝国の帝都。現在の旧城(ラール・キラー)は、五代皇帝シャージャ・ハーンによって築かれた。荒松雄『多重都市デリー』(中公新書)がその歴史を重層的に明らかにしている。

[vii]

[viii]  インド、西ベンガル州の州都。ベンガル湾河口から一〇〇キロあまり遡ったフーグリー川東岸に位置する。前三世紀、アショーカ王の時代に港があり、プトレマイオスの地図にはタマリテスと記述されている。中国僧法顕や義浄も滞在した。一五世紀にイスラーム勢力の軍営地が築かれ、一六世紀にはヨーロッパ勢力が西河畔に位置した。一六九八年、イギリス東インド会社が町を設立した。カルカッタの名称はこの時の地名に由来する。ウイリアム要塞(一七〇二)が築かれ、英国人居住区が形成されるとともに、東インドの要衝として発展。一八五八年、イギリスのインド支配の中心都市となるが、一九三一年のデリー遷都で帝都から一地方都市となった。大都市圏は一〇〇〇万人を超えるインドでも有数の都市。

[ix]9 インドネシア、スラウェシ島南部の交易都市。かってのマッカサル。一七、一八世紀に島嶼部全体の奴隷交易の中心であった。

[x]10  イスラーム教の聖地。世界の中心であり、全世界のムスリムはそこへ向かって一日五回の礼拝が義務づけられている。アラビア半島の紅海に沿って走る山脈の西斜面の谷間に発達した町。起源は定かではないが、イスラーム以前からカーバ神殿があり、巡礼の目的地であった。コーランにはメッカという地名は一度も登場しない。後藤明、『メッカーイスラーム都市社会』、中央公論社、一九九一年。

[xi]11 イラン北東部、ホラーサーン州の都市。三世紀にササン朝のシャープール一世によって、東方への防衛拠点として建設された町。九世紀のターヒル朝の首都として発展。円形の城壁と市壁をもつ典型的なイラン都市の形態をもつ。

[xii]12 「都市計画のいくつかの起源とその終焉」Ⅱー① 参照

[xiii]13  松山巌『乱歩と東京』(パルコ出版)、陣内秀信『東京の空間人類学』(筑摩書房)、藤森照信の『明治の東京計画』(岩波書店)が建築、都市計画の分野からの火付け役となった。

[xiv]14  ある国、ある地域の諸都市の人口規模をみると、ひとつの大都市が突出した人口規模をもち第二位以下の都市との落差が極めて大きいケースが見られる。先進諸国の場合、都市の規模には一定の比例関係(順位規模配列 ランク・サイズ・ルール)が見られるのに対して、発展途上国にそうした都市が多い。タイのバンコク、ジャワのジャカルタ、ルソン島のマニラなどがそうである。










 

2023年6月21日水曜日

『建築雑誌』一五〇〇号・・激変の建築界、百家争鳴、室内、

 『建築雑誌』一五〇〇号・・激変の建築界、百家争鳴、室内、

『建築雑誌』一五〇〇号・・激変の建築界

布野修司

 

建築専門誌が元気がない。広告が減って薄くなった。建築も建たないから仕方がない。建築界は暗い。

そうした中で、日本建築学会の会誌『建築雑誌』の編集長を拝命してほぼ二年になる。三万六千部を誇る大雑誌であり、その編集長に指名されたのは実に身に余る光栄であった。また、たまたま、この二月号が一五〇〇号ということで記念特集「アジアのなかの日本建築」を出すことができた。

建築界は今未曾有の難局面を迎えているという実感がある。単に景気が悪いというのではなく、日本の社会の全体が構造改革を求められるなかで、建設業界が最もそのターゲットとなっているのである。昨年一月号では「建築業界に未来はあるか」という特集を組んだ。今年の一月の特集は「設計入札反対!?-公共建築の設計者選定」である。改革には痛みが伴うから、特集もわくわくいきいきというわけにはいかない。

全頁カラー化、頁数の大幅削減、大豆インクの使用、まず行ったのは紙面の構造改革である。カラー化については「よくお金がありますね」と何人かの先生に言われたが誤解である。紙質や総年間頁数などを見直す経費削減の努力の一環であった。

振り返ってみると、一〇〇〇号記念特集号が出たのは一九六八年八月であった。僕が大学一年生の時だ。東京大学は六月から全学ストライキに突入、その収拾をはかるために大河内一男総長の告示が出されたのが八月一〇日、今でも鮮明に覚えている。パリでは五月革命が起こり、世界中スチューデント・パワーが炸裂した年である。磯崎さんなどは、-『建築雑誌』の編集を通じて久し振りにお会いすることができた。多忙を極め、相変わらずエネルギッシュなのに勇気づけられた。これも役得である-、一九六八年以前と以後を未だに決定的な閾(しきい)として振り返るのであるが、確かに、近代建築批判が顕在化するのは六〇年代末以降である。

一〇〇〇号記念特集号は、「日本建築の将来」と題して、世代毎に4本の座談会が組まれている。今では大御所になった、磯崎さんも含めて当時三〇歳代の若手も参加して喧喧諤諤の?議論がなされている。

一五〇〇号もそれにならっていくつかの座談会を組んだが、三〇歳代の若手があがってこない。登場していただいた先生方の歳を平均すると五〇代半ばを越えるのではなかろうか。人選が悪いということになる。団塊の世代が出しゃばりすぎであるが、若い方に元気がないのも事実だ。二〇〇〇号記念の時にはほぼ全員亡くなっているのだからかなり問題である。建築界は暗い。

一〇〇〇号と一五〇〇号との間には、近代建築批判の以前と以後という明確な違いがあるが、もうひとつはっきとした違いはアジアとの関係である。戦後欧米一辺倒できた日本が、アジアの国々と様々な交流に眼を向けだしたのが八〇年代以降である。それで「アジアのなかの日本建築」ということになった。アジアの友人たちからのメッセージがかすかな光明である。

2023年6月20日火曜日

飛騨高山木匠塾のこと,秋田木材通信社,19930101

 飛騨高山木匠塾のこと,秋田木材通信社,19930101

                                        布野修司

 

 昨年も慌ただしく過ごしてあっという間にすぎてしまいました。秋田には一度もお邪魔することができず残念です。近くなったせいか、生まれ故郷の出雲の仕事が多くなり、色々なお手伝いを始めております。景観、景観と喧しいのですが秋田は如何でしょうか。

 ところで、飛騨高山木匠塾は2回目のサマースクールを昨年行ったのですが、延べ百人近い学生の参加があり大盛況でした。主な参加大学は、芝浦工業大学、東洋大学、千葉大学、京都大学、大阪芸術大学の五校でした。教師陣は、太田邦夫塾頭以下、秋山哲一、浦江真人、村木里絵(以上、東洋大学)、藤澤好一(芝浦工業大学)、安藤正雄、渡辺秀俊(千葉大学)、布野修司(京都大学)。それに今年は、大阪芸術大学の三澤文子、鈴木達郎の両先生が若い一年生を引き連れて参加下さいました。また、足場丸太組み実習には、講師として、わざわざ藤野功さん(日綜産業顧問)が横浜から来て下さいました。今年は、切り出し現場および「飛騨産業」の見学に加えて、製材所(安原木材)の見学を行い、オークヴィレッジと森林匠魁塾にもお世話になりました。渓流が流れ、朝夕は寒いぐらいに涼しい。森に囲まれ、飛騨高山木匠塾の環境は抜群です。野球大会や釣りなどリクレーションも存分に楽しみました。極めて充実した九日間だったように思います。今年も、第3回の「インターユニヴァーシティー・サマースクール」の開校が楽しみです。 

 百聞は一見に如かずです。飛騨の里というのは、木のことを学ぶには事欠かない、実にふさわしい場所だと思うのですが、そんなことを言えば、秋田の方がよりふさわしい筈です。昨年、この欄で、「秋田能代木匠塾の設立を」と題して、「秋田能代木匠塾と仮に呼ぶ、そんな空間はできないでしょうか。楽しみにしてます」と書いたのですが、その後、如何でしょうか。とりあえず、今年は、飛騨高山へ、学生達を教えにいらっしゃいませんか。




2023年6月18日日曜日